2022年12月28日水曜日

2022年のまとめ

 





 歳末の観劇のうち能の話がまだだけど、わが事務所はきょうが仕事納めなので、2022年のまとめ。

ことしのベスト5は時系列で、①白銀の東北4峰登頂、②残雪の北アルプス槍ヶ岳登頂、③大雪山縦走、④北アルプス裏銀座縦走、⑤北アルプス立山登頂かな。

①白銀の東北4峰登頂(ソロ)
2月、白銀の蔵王、西吾妻、磐梯、安達太良山の4峰に登った。仙台空港におりたち、仙台→山形→米沢→福島→郡山→猪苗代→郡山→福島→二本松→福島→仙台と旅をしながら。2月は北西の季節風が吹き付ける厳冬期なのだけれど、蔵王や西吾妻の樹氷はこの時期しか見られないので。いつもはガスガスだったりするのだけれど、今年は天気にめぐまれて4峰全部登ることができた。ラッキー。

②残雪の北アルプス槍ヶ岳(ソロ)
ゴールデンウィークは残雪の槍ヶ岳に登った。山頂の肩にある槍ヶ岳山荘で一泊する予定だったが、翌日の天気が厳しそうだったので、ふもとの槍沢ヒュッテから往復した。バテバテ。そのうえ、一眼レフカメラのメモリーを忘れてしまった。スマホの映像しか撮れず。来年リベンジしたい。

③大雪山縦走(ソロ)
北海道には梅雨がない。本州や九州が梅雨時で本格的な夏山がはじまるまえの7月上旬が空いている。高山植物には早いことが多いが、ことしは百花繚乱。そのせいか、人も多かった。旭岳温泉からまず最高峰の旭岳に登り、お鉢を1/4めぐって白雲岳避難小屋まで。ここでも翌日の天気予報が悪かったので、トムラウシ山縦走はあきらめた。小屋からお鉢にもどり黒岳をへて、層雲峡に下山。

④北アルプス裏銀座縦走
怪鳥会の行事。信濃大町から烏帽子小屋、野口五郎岳、水晶小屋、水晶岳、鷲羽岳、三俣蓮華岳、双六岳、双六小屋を経て新穂高温泉まで。数年前、烏帽子岳まで登ったところで台風に直撃されたため断念したもののリベンジ。

⑤北アルプス立山登頂
娘たちと立山三山のうち、浄土山、雄山。そして最高峰の大汝山に登頂。浄土山で御来迎(ブロッケン現象)に出会えてよかった。下山後の安曇野、松本観光も楽しかった。

ことし63歳になった。コロナ禍のなか、これだけ登れればまぁまぁかなと思う。わが健康とこれを支えてくれたまわりの方々に感謝したい。

事務所的にも稲村晴夫弁護士、森俊輔弁護士が退所され、どうなることかと心配した。が、まぁまぁなパフォーマンスで今年をしめくくることができそうだ。

これもまた事務所の面々やわが事務所を応援して頂いている皆様のおかげ。心より感謝申し上げます。ではよいお年をお迎えください。

2022年12月27日火曜日

文楽「曲輪文章 吉田屋の段」


 アバターのつぎは、博多座で文楽(人形浄瑠璃)公演の鑑賞。作品は「端模様夢路門松(つめもようゆめじかどまつ)」と「曲輪文章(くるわぶんしょう)吉田屋の段」。

文楽はまたの名を人形浄瑠璃という。文楽は三業といって、太夫、三味線、人形遣いの3つの専門職でなりたつ。博多座に行けばわかるが、舞台上では人形芝居が、舞台右手に張り出した床上では太夫が浄瑠璃の詞章を語り、三味線が音楽を伴奏している。

人形芝居は世界中にあるようだ。文楽の特徴は3人遣いのものがあるということ。この点は世界に類例がないようだ。

映画「アバター」は、アバターを介して異世界に入り込み、人間とは何か、人生とは何かを問う映画である。文楽の人形も、江戸時代のアバターのようなものだ。

文楽の人形は主役級と端役級にわかれ、主役級の人形は3人で遣うが、端役級は1人で遣う。その人形のことを「つめ人形」と呼ぶ。このことが「端(つめ)模様夢路門松」の話の背景になっている。

門松という名のつめ人形が3人遣いにあこがれていた。ある日夢がかなって3人遣いの人形になれた。が、はたしてそれによって幸せになれるのだろうか。♪べんべん。

文楽の作品はほぼ悲劇。唯一といえる例外が「曲輪文章 吉田屋の段」なのだとか。そのため、年末年始の公演によくつかわれているのだそう。

ところで「文章」は文を偏とし、章をつくりとする一字で表される。しかし実際にはそのような漢字はない。文楽のタイトルは奇数でなければならないというシバリがそうさせている。そのため歌舞伎では「廓文章」と表記されている。むかしの人たちは縁起の善し悪しにしばられ、奇数を好んだのだろう。

豪商藤屋の跡取り息子伊左衛門は無駄づかいがたたって勘当中の身。歳末、もちつきなどで慌ただしいなか、大阪・新町の揚げ屋である吉田屋に伊左衛門が尋ねてくる。

彼の目当ては扇屋の遊女・夕霧。夕霧といえば源氏物語だろうけれども、ここでは実在した遊女。姿美しく芸事に秀でた名妓だったが27歳で亡くなった。美人薄命。その死を惜しみ、追悼作品がいくつも作られた。本作もその一つ。

文楽で1人遣いに飽き足らず3人遣いとなったのは、人の動きのリアリティーを追求するためだったろう。3人のうち2人は黒子(パペットマペット)だから、なんとか頭のなかで消去できる。

残る1人は黒子でもなく、一人の男性として立ち居振る舞っている。その存在感は考えようによっては舞台上でじゃまになる。しかしいつしか夕霧がまるで生きているように動き出し、そのさまに心打たれるのである。

ストーリーはとくになく、2人の痴話げんかが続き、伊左衛門の勘当が解かれる報せが届き、ハッピーエンドに。よく分からないけど、祝賀ムード。♪べんべん。

2022年12月26日月曜日

映画「アバター:ウェイ・オブ・ウォーター」

 

  「山ばかり行ってますね。」といわれるので、年末は、文化活動にもいそしもうと考えた。

その結果、大野城イオンで映画「アバター:ウェイ・オブ・ウォーター」、博多座で文楽(人形浄瑠璃)「端模様夢路門松」「曲輪文章」、太宰府プラムカルコアで能「緋桜」狂言「樋の酒」能「安達原」を観た。

https://www.20thcenturystudios.jp/movies/avatar2

https://www.hakataza.co.jp/lineup/202212/bunraku/index.php

https://dainokai.com/appearance/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%9B%9E%E3%80%80%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E5%BA%9C%E4%BB%A4%E5%92%8C%E8%83%BD/

まずは「アバター:ウェイ・オブ・ウォーター」(3D)。例の55歳以上割引の1,100円では足りず、1,500円かかった。2時間20分の大作であるし、3D用メガネ代が100円かかったから。

劇場で観る価値あると言っておこう。前作を観ておいたほうが分かりいいに決まっている。そもそも「アバター」というタイトルは前作を観ておかないと分からないかもしれない。

例によってネタバレしないように中身を要約すれば、「ダンス・ウイズ・ウルブス」と「若草物語」と「タイタニック」と「もののけ姫」と「グランブルー」とある種のRPGとを足して6で割ったような感じだろうか。

「:ウェイ・オブ・ウォーター」というぐらいだから、前作が山と空を舞台としていたとするならば、海洋を舞台にしている。

CG画面、3D画面の進化が著しい、すばらしい。はじめのうちこそ少し違和感を覚えるが、そのうちその世界に没入してしまう。

すごいお金がかかっているんだろうね。CMもすごい。西鉄天神駅には大画面の動画CMが繰り広げられている。

これほどの娯楽大作とプロモーション戦略に日本の伝統芸能勢はどう対処できるのだろうか。

2022年12月23日金曜日

安曇野@ブラタモリ

(大王わさび農場のワサビ田)
(穂高神社若宮西のケヤキ、井上靖の短編小説『欅の木』のモデル)
 
 本ブログで10月17日「立山・浄土山でご来迎に迎えられる」18日「雲上の絶景」19日「立山雄山・大汝山」20日「下山後の楽しみ」と投稿した。覚えておられるだろうか。

 http://blog.chikushi-lo.jp/2022/10/blog-post_17.html

 http://blog.chikushi-lo.jp/2022/10/blog-post_18.html

 http://blog.chikushi-lo.jp/2022/10/blog-post_19.html

 http://blog.chikushi-lo.jp/2022/10/blog-post_20.html

20日「下山後の楽しみ」では、登山の翌日、安曇野観光をしたとだけ書いた。具体的には、大王わさび農場と穂高神社を訪ねた。

そうしたら先日、ブラタモリで安曇野をやっていた。タモリが訪ねたのも同じところだった。まず、大王わさび農場。

われわれは無邪気にワサビ味のソフトクリームおいしい!などとやってきただけ。タモリはちがう。なぜ、ここにワサビ田があるのかというところからはじまる。たしかに。

ワサビは伊豆などの山間の沢でしか育たないと思っていた(石川さゆりの「天城越え」の歌詞参照)。安曇野は野というぐらいだから平野(盆地)である。

しかし農場は、わさび田湧水群の一角にある。安曇野は松本盆地の北部にあり、北アルプスの山々に降った雨が梓川や穂高川となって扇状地をつくっている。そこへやはり北アルプスに降って伏流した水が湧水となって出てきている。水清く、ワサビ田に最適となっている。

大王の名は八面大王から。大王はこの地にいたという伝説上の鬼。坂上田村麻呂に退治されたという。農場内に洞窟があり、なかにお墓がある。また神社もある。

次に穂高神社。わさび農場の西、車で10分くらいのところにある。ここにあるのは本宮(里宮)で、上高地に奥宮、奥穂高岳の山頂に嶺宮がある。日本アルプスの総鎮守である。

毎年9月27日に行われる例大祭が有名。われわれが訪れたのは、その前日9月26日。露店が並ぶなど祭礼の準備がなされていた。ブラタモリの撮影も祭礼のとき。おそらく同じころだったのだろう。ニアミス。おしい。

例大祭は御船祭である。あれ?と思わないだろうか。山のなかなのに、なぜ、御船なのか。

その答えは安曇氏は海神であるワタツミの末裔だから。記紀に出てくるという。しかも安住族の出身地は福岡の志賀島あたりとされる。

ヤマトタケルが熊襲征伐に出向く途中、筑紫で土蜘蛛が激しく抵抗したため、志我神(志賀島にある志賀海神社)を祀ったという。かくて穂高神社は福岡とも深いつながりがあるのである。

われわれが穂高岳をめざすのは、かかる古からの縁にひかれてであろうか(笑)。

2022年12月22日木曜日

牧野富太郎博士とNHK朝ドラ「らんまん」

 

 12月14日のブログ「伊良湖岬と椰子の実と鷹とアサギマダラと日本人」に、ちょこっと植物学者の牧野富太郎博士のことを書いた。新婚旅行先の霧島でもただ物見遊山するのではなく、新種のツツジを見つけ、ミヤマキリシマと名付けたと。

そうしたら例のシンクロニシティ。大学時代おなじ部活で、いまは九大の先生をしているIDくんが高知県佐川市へ仏画の調査に行ったところ、そこは牧野富太郎博士の出身地。来年は大河ドラマブームで盛り上がりそう。と、SNSに投稿していた。

あれれ。来年のNHK大河は松潤のなんとか家康じゃなかったっけ?(正式には「どうする家康」だった。)

https://www.nhk.or.jp/ieyasu/

調べたところ、牧野博士は大河ではなく朝ドラ(連続テレビ小説)のほう。ほう。タイトルは「らんまん」。

https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=34193

牧野博士役は神木隆之介、妻役は浜辺美波。楽しみ。霧島やミヤマキリシマのエピソードはでてくるのだろうか?いまから楽しみ。

2022年12月21日水曜日

宝満山を登るヒキガエル

 


 先日、NHK「ダーウィンが来た!」「大追跡!謎の登山ガエル」で宝満山を登るヒキガエルをやっていた。

https://www.nhk.jp/p/darwin/ts/8M52YNKXZ4/episode/te/XX81ZJLZV9/

梅雨時期前ころからヒキガエルの子どもたちが登山道にたくさんいることは経験的にわかっていた。踏んでしまいそうで、どちらかというと気持ち悪いという感じだった。

ここ数年になって、あのカエルたちは宝満山を登っているのだといわれるようになった。カエルが山を登るのは宝満山だけなのだとか。そして守る会ができ、知り合いがそれに関わっていることも分かった。

http://nijinonanafusigi.la.coocan.jp/guidebook.pdf

林道から登山道に入ったところ右手に池が二つある。野々池と呼ばれ、そこで卵からオタマジャクシに孵化するらしい。そしてカエルに変態して登り始める。

「大追跡!謎の登山ガエル」では、その様子を大追跡していた。1センチメートル足らずの子ガエルたちが懸命に登っていく。

石段一つ登るのでも、われわれだと穂高の大絶壁をロッククライミングするようなものだ。装備もなく自分の手足だけで、背丈の何十倍もある石段を登っていく。何度も転げ落ちてしまう。

標高829mの山頂まで登るのは、人間でいえばエベレスト9回分に相当するのだとか。山頂まで約1か月を要する。数十万匹が孵化し、山頂に達するのは千匹くらいなのだそう。

ただもう感動的。われわれの仲間からは、もう二度と宝満山で弱音を吐きませんとのつぶやきが漏れた。

それにしてもNHKや取材に協力した研究者たちの調査力や粘り強さにも感銘を受けた。子ガエルの天敵はヤマカガシ(毒ヘビ)なのであるが、カエルがヤマカガシに食べられる瞬間を3度も撮影に成功していた。

宝満山にあれほどヤマカガシがいることにも驚いた。知っていれば、もう少し慎重に登ることになるだろう。

写真は「梅園」さんのお茶菓子。いただきものだ。ありがとうございます!

2022年12月20日火曜日

雪の宝満山(2)

 





 宝満山に登るといえば、ほとんどのかたは登山口の竈門神社と山頂を往復されるだけ。しかしこれはもったいない。宝満山の魅力はそこから先にあるのだから。

きのも書いたが、竈門神社から山頂まではほぼ常緑樹かスギ・ヒノキの林である。雪がついても、重苦しい感がある。

しかし山頂をすぎると、ブナなど落葉樹やクリスマスツリーであるモミの樹があらわれる。

1枚目の写真はブナの巨木。200年以上は経っているだろう。ブナはクネクネとしているが、折れにくく豪雪に強い。秋田白神山でブナの森がひろがっているのはそのせいである。ただし、建築材には向いていないため、伐採が進んでしまった。

2枚目は雪化粧をした稜線の道。いまにもウサギかなにかの小動物があらわれ、物語がはじまりそうだ。

3枚目は霧氷。これも落葉樹ならでは。葉がなく枝だけなので、霧氷が発達しやすい。福岡市街をバックにそこだけ日が射し輝いた。

4枚目は宝満山の山頂から仏頂山方面をのぞんだもの。おまんじゅうのような白いシルエットが美しい。

5枚目は・・・。

2022年12月19日月曜日

雪の宝満山~雪山事始め~

 



 昨日は雪の宝満山に登った。今季初の雪山。いつもと違う、美しい世界を堪能することができた。

ほぼ終日曇りで、ときどき雪が降りしきった。山頂付近では晴れ間、青空もあった。青空と霧氷という青と白のコントラストが美しい。

竈門神社裏からの登りは基本的に常緑樹やスギ・ヒノキの林である。暗い。

山頂から先はブナ林が点在している。いまは葉を落とし、樹氷をまとっている。枝振りとあいまって、美しい。

こんな日に登っている人いるの?

います。この日、出会った人だけでも50人はくだらない。女性が40%というところか。雪に興奮しているおじさん、おばさんがいっぱいだ。みな雪山が好きなんだな。

2022年12月16日金曜日

小督の墓


 
 
 芭蕉は人生の本質を無情・流転に見た。しかし、これは芭蕉の独創ではなく、「平家物語」にも書かれていることである。有名な冒頭。

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

沙羅はものまねタレントのことではない。インドの沙羅は別種らしいけれども、日本の沙羅はナツツバキとされる。朝に開花し、夕には落花する。一日花。どんなに美しい花を咲かせても、夕には落下してしまう。まさに無情・流転。

平家物語は、平清盛とその一族の流転・無情を描く。その大きな渦の回りでは、いろんな人の人生もこれに巻き添えをくって流転していく。

そのエピソードの一つが小督。京都桂川沿い、嵐山の対岸に墓がある。「嵯峨日記」に書かれているとおり。当時、まわりは竹林だったようだが、いまは竹林が減り、「ずいぶん騒がしくなったなぁ。」と小督さんも嘆いておいでだろう。

超絶美貌で琴の名手。高倉天皇に愛された。しかし天皇の正妻は平清盛の娘・建礼門院だったことから、清盛の怒りに触れ、迫害を受けた。難を避けるため、嵯峨野に隠棲した。

天皇はあきらめきれず、源仲国を使わして探させる。仲国(笛の名手)があちこち探しあぐねていると、仲秋の夜、妙なる琴の調べが。もちろんそれは小督の琴のしらべ。

仲国は宮中に戻るよう説得するが、小督はこれを拒否。しかし仲国はねばる。なぜなら、小督の心のうちを知っていたから。

なぜ、知っていたのか?それは先の琴の曲名が「想夫恋」だったから。なんと美しいお話。

九州で「想夫恋」といえば焼きそばの店だが、もとはこんな美しいお話。なぜ、焼きそば屋の名前になっているのか。小督さんもびっくり。まさしく生々流転。

・・・などと大野城イオン前の想夫恋で、焼きそばをかき込みながら想ふ。

2022年12月15日木曜日

嵯峨~吉野~大峰~熊野「嵯峨日記」

 

(落柿舎)


(大峰山)

 
(熊野)

 二日戻って、LGBT。LGBTに帯する理解が深まると、作品解釈にも差が出るのかもしれない。というわけで、きょうは「嵯峨日記」。

二日前のブログで、笈の小文の旅で、芭蕉が島流しにあっていた愛弟子・杜国を慰めに訪問したこと、芭蕉と杜国の間に男色説があること、従来はそこで思考停止していたけれどそれではいけないと反省をしていることなど書いた。

杜国のことは「嵯峨日記」にもでてくる(杜国は前年亡くなった。)。

 廿八日
 夢に杜國が事をいひ出して、涕泣して覚む。
 心神相交わる時は夢をなす。陰尽きて火を夢見、陽衰えて水を夢みる。飛鳥髪をふくむ時は飛るを夢見、帯を敷寝にする時は蛇を夢見るといへり。睡枕記・槐安國・荘周夢蝶、皆其理有りて妙をつくさず。我夢は聖人君子の夢にあらず。終日忘想散乱の気、夜陰夢又しかり。誠に此ものを夢見ること、所謂念夢也。我に志深く伊陽旧里迄したひ来りて、夜は床を同じう起臥、行脚の労をともにたすけて、百日が程かげのごとくにともなふ。ある時はたはぶれ、ある時は恋しび、其志我心裏に染て、忘るることなければなるべし。覚て又袂をしぼる。

「嵯峨日記」は、元禄四年4月18日から5月4日まで、芭蕉が京都嵯峨野にある落柿舎に滞在したときの日記である。いままで、ぼんやりと小中学生の日記のように読んでしまっていた。しかし、杜国への愛惜の念を中心に置くと、起承転結で読めると思う。

まず起。嵯峨野や落柿舎の紹介。嵯峨野は「平家物語」にもでてくる。高倉天皇に愛されたがゆえに平清盛から迫害された小督が隠れ住んだ場所である。芭蕉のなかでは、空米売買の罪を問われた杜国とダブっているのかもしれない。

小督が隠れ住んだ嵯峨野も、いまは竹林が残るのみ。

 うきふしや竹の子となる人の果

むかしは豪勢だった(料理場なども広い!)落柿舎も、いまや所々頽破している。

 柚の花や昔しのばん料理の間

つぎに承。落柿舎は京都郊外にあるものの、入れ替わり立ち替わりお弟子さんたちが訪ねてきたり、その消息がもたらされる。表面的、芭蕉の生活はにぎやかなようだが、なぜか心中は淋しい。

そして転。さきの28日の記述。

その後、結。

 二日。
 曽良来りてよし野の花を尋ねて、熊野に詣侍るよし。
 武江旧友・門人のはなし、彼是取まぜて談ず。
  くまの路や分つつ入ば夏の海 曽良
  大峰やよしのの奥を花の果

笈の小文の旅で、芭蕉と杜国は吉野山まで行き、楽しんでいる。

 よし野にて櫻見せふぞ檜の木笠
 よし野にて我も見せふぞ檜の木笠 万菊丸(杜国)

曽良の旅はそこから先。吉野山から大峰奥駆け道(世界遺産)を通り、大峰山を経由して熊野に至る。夏の海は熊野灘である。中近世、熊野から海へ向けて補陀落渡海がおこなわれていた。

補陀落は、観音菩薩が降臨する伝説上の山であり、熊野の先にあるとされた。補陀落渡海は、行者が沖にこぎ出し、108の石をまきつけて捨身することである。

平家物語のなかでも、一ノ谷の戦に敗れた平維盛が戦列を離れて熊野へ行き、補陀落渡海(入水自死)したことが描かれている。

平家物語の小督の話ではじまった「嵯峨日記」である。曽良から熊野詣の話を聞かされながら芭蕉の頭に去来していたのは維盛の補陀落渡海のことであろう。補陀落渡海こそが「花の果」と意識されたことだろう。

 一、四日
 宵に寝ざりける草臥に終日臥。昼より雨止む。
 明日は落柿舎を出んと名残をしかりければ、奥・口の一間一間を見廻りて、
  五月雨や色紙へぎたる壁の跡    (「嵯峨日記」はここまで。)

杜国亡きあとの芭蕉の心には、五月雨がふりつづき、心中、色紙へぎたる壁の跡のようだったろう。かくて起承転結。

ところで、「嵯峨日記」をおさめた岩波文庫の『芭蕉紀行文集』。その表紙の文章をあらためて読んで、はっとした。

 人生の本質を無情・流転に見た芭蕉(1644-1694)の芸術と生涯は、幾つかの旅を展開点として飛躍を遂げてゆく。肉体と精神を日常の停滞から解き放ち、新たな発見に直面させてくれるもの、それは旅であり、芭蕉の人生観・芸術観の具体的吐露が紀行文であった。

はっとした理由は、それぞれ考えてくだされ。それではまた。

2022年12月14日水曜日

伊良湖岬と椰子の実と鷹とアサギマダラと日本人

 

 高校時代の恩師は、翌日雨のなか、椰子の実記念碑・歌碑を訪ねられたという。

記念碑・歌碑は島崎藤村作詞の「椰子の実」の歌を記念するもの。この歌、ご存じだろうか。

 ♪名も知らぬ遠き島より流れよる椰子の実ひとつ

歌詞は実体験に基づく。しかし藤村のオリジナル体験ではなく、柳田國男の体験を拝借したものである。

柳田は大学生のころ身体を悪くして伊良湖崎で一ヶ月静養したことがあった。その際、海岸を散歩していて、椰子の実が流れて来るのを見つけたのだという。

東京に帰って近所に住んでいた藤村にその話をしたら、彼はすかさず「君、その話をぼくに呉れ給へよ」と言って、「椰子の実」を作詞したらしい。椰子の実が流れ着いたという旅先での一経験をもとに、誰もが感動する詩に見事にしたてあげたのである。藤村の詩人としての感覚と実力の確かさだろう。

柳田はこの経験が悔しかったのか、その体験を文章にしたほか、のちに『海上の道』を著わし、日本人は南方からやってきたという日本人起源論を公表している。藤村にせよ、柳田にせよ、すごい。海岸に漂着した椰子の実ひとつのエピソードから、自分の本業の業績に結び付けるのだから。

梅雨まえの季節になると、ミヤマキリシマが九重山や霧島連峰を赤く染める。植物学者の牧野富太郎博士は新婚旅行の際、これに目をとめ、ツツジの新種であることを鋭く見抜きミヤマキリシマと命名したという。

世に名を残した偉人たちは、日ごろの疲れを癒やすためにのんびり旅行をするなどという術(すべ)を知らないのだろうか。われわれ凡人たちにはできない荒技である。

さて、きのうは鷹(サシバ、ハチクマ)の渡りのことを書いた。海路、椰子の実が南の島から渡ってくるのであれば、空路、鷹が南の島から渡ってきても不思議ではない。鷹の渡りについて、西行の歌や芭蕉の句があることも昨日紹介した。

ところで、「鷹」は冬の季語、「鷹の渡り」は秋の季語である。ここで、あれ?っと思わないだろうか。

鷹は南の島から春に日本列島に渡ってきて、秋に南の島へ渡っていく。だからこそ、鷹の渡りは秋の季語であり、伊良湖岬では毎年9月から10月にかけてたくさんの鷹が南へ渡っていくのが観察できるのである。

そうなると、鷹は冬には列島にいないはず。なのになぜ、鷹は冬の季語なのか?グーグルさんに訊いてみると、俳人のかたでおなじようにあれ?と思った方がいた。でもその方も答えにたどりつかなかったようだ。

われわれにとって『冬の鷹』といえば、吉村昭の小説だ。江戸時代、前野良沢はオランダ語の解剖書を苦心惨憺のすえ「解体新書」に翻訳。如才ない杉田玄白の名が世間に売れる一方で、良沢は名を知られないまま孤高の晩年を貫く。

ということで、冬の季語としての鷹は、群れをなして暖かい南の島へ行ってしまう鷹ではなく、他の鷹がいなくなったあと、ひとり列島で孤高を貫く鷹の意味ではなかろうか。例句もそのような意味のようだ。

さらにところで、恩師の投稿によると、伊良湖崎はアサギマダラも渡ってくるそうだ。アサギマダラは蝶でありながら、秋に南西諸島・台湾に渡り、夏には逆コースを北上して、1500キロメートル以上も移動した個体もいるという。

九州の里山で目撃することもある。日本アルプスの稜線を多数が舞い飛んでいるところに遭遇したこともある。

九州人であるせいか、これまでばくぜんと沖縄、奄美、屋久島、九州、四国、中国、本州と島伝いに渡っているのだろうと思っていた。ところが、太平洋からダイレクトに伊良湖崎へ渡って来る個体もあるということらしい。なんというロマン。

小さい身体ながら渡りをしなければならないとはたいへんだ。とこれまで思っていた。しかしコロナ禍のなか思う。鷹やアサギマダラのやり方もリゾート的で、うらやましいと。冬は南の島で暮らし、夏は比較的温暖な列島ですごすのだから。

柳田説には批判もあるようだ。しかし、椰子の実や鷹やアサギマダラも大挙して渡ってくるのである。人類だって渡ってきたっておかしくない。

南から渡ってきた人類が日本人の起源にならなかったとすれば、その人たちの性格がおだやかだったので、北から来た陰険な人たちに攻め滅ぼされたせいかもしれない(あっ、それって、われらのご先祖さま?)。

2022年12月13日火曜日

伊良湖岬とLGBT

 

 写真は、FDAの飛行機で松本に向かう途中、名古屋上空から伊勢湾方面を望んだところ。左側手前が愛知県の知多半島、向こうが渥美半島。右側が三重県の志摩半島。

渥美半島の西の端(右端)に伊良湖岬がある。その向こう側が恋路が浜。志摩半島の先端は鳥羽。なお、知多半島の中央西にセントレア空港が浮かんでいる。

高校時代の恩師が伊良湖岬あたりを旅行中とSNSに報告していた。恩師は大阪住まいである。ではどうやって伊良湖岬へ行ったのか。

陸路を行くとなかなかたいへんである。ナビタイムによると、新幹線で名古屋、そこから豊橋駅へ行き、10分歩いて新豊橋駅、そこから豊橋鉄道渥美線で終点の三河田原駅まで行くことになる(約2時間)。そこはいまだ半島の真ん中辺であるから、残りはバスとなる。

海路が意外と近い。近鉄で鳥羽まで行く。そこから伊良湖岬までは伊勢湾を横断するフェリー便があり、1時間弱である。バス便より楽しそう。恩師もこちらのルートを選択したようだ。

伊良湖岬はまえまえから一度訪ねてみたかった。「笈の小文」で芭蕉が訪ねているから。

芭蕉には杜国という愛弟子がいた。当時、杜国は空米を売った罪で死刑になり、その後、罪一等を減じられ、渥美半島に島流しとなっていた(畠村→保美)。芭蕉はその弟子を慰めるために渥美半島を訪ねたのである(以下、引用は『芭蕉紀行文集』(岩波文庫)の「笈の小文」より)。

 三川の國保美といふ處に、杜國がしのびて有けるをとぶらはむと、まづ越人に消息して、鳴海より跡ざまに二十五里尋がへりて、其夜吉田に泊る。

 寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき

 あまつ縄手、田の中に細道ありて、海より吹上る風いと寒き所也。

 冬の日や馬上に氷る影法師

伊良湖岬と伊勢の間の海上交通路は、古代、物流の重要な手段だったようで、伊良湖の窯で焼かれた瓦が伊勢や伊賀を経由して奈良に運ばれ、東大寺の瓦として利用されたのだそう。

伊良湖岬は万葉の時代から伊勢の一部をなす島(博多でいえば、能古島みたいな感じか)と考えられ、万葉の時代から島流しされる場所であったよう。このような歌のやり取りがある(万葉集)。

 天武4年(676年)天武朝の皇族で三位の麻続王が罪をえて伊良湖に流されたとき、里人が哀傷して

 打ち麻を麻続王海人なれや伊良虞の島の玉藻かります 

 王がこれに和して詠んだ歌

 うつせみの命を惜しみ浪にぬれ伊良虞の島の玉藻刈り食す

こうした故事などを踏まえて、「笈の小文」。

 保美村より伊良古崎へ壱里斗も有べし。三河の國の地つづきにて、伊勢とは海へだてたる所なれども、いかなる故にか、万葉集には伊勢の名所の内に入られたり。

鷹(サシバ、ハチクマ)は渡り鳥で、春に来て、秋に南に渡るようだ。伊良湖は渡りの拠点となっていて、大規模な群れがみられるという。

 此渕崎にて碁石を拾ふ。世にいらご白といふとかや。骨山と云は鷹を打處なり。南の海のはてにて、鷹のはじめて渡る所といへり。いらご鷹など歌にもよめりけりとおもへば、猶あはれなる折ふし

 鷹一つ見付けてうれしいらご崎

いらご鷹など歌にもよめりとは、例によって西行の歌のこと。

 すたか渡るいらごが崎をうたがひてなほきにかくる山帰りかな

芭蕉の句にある鷹一つは、杜国を念頭においてのことらしい。いままでであれば、「男色か、気色わるい」という感じだった。しかし、最近は認識を改めなければならないと思うようになった。

若手弁護士らがLGBT差別解消に取り組んでいたり、LGBTの人たちが人口の10%を占めるという啓発広告をみるようになった。いままで迂闊な発言をしていないか反省することしきりである。

陸路だと遠いと思っていたところが、海路だと意外とちかい。LGBTも意外と身近なところにあるのだろう。

2022年12月12日月曜日

ある建物建築禁止を求める訴え

 

 新築の建物を建てようとしたら、隣地の住人から、日照や通風を妨害することになるから、その建築を禁止するよう求める裁判が提起された。

建物を建てようとしていた建築屋さんから、被告側で本訴の依頼を受けた。建築を予定していたのは木造2階建の一般低層住宅である。

その土地にどのような建物を建てられるかはまず、都市計画法や建築基準法により定められている。憲法上・民法上の所有権は自由な利用を出発点としているが、公共の福祉によりそれが制限される。都市計画法等による規制は、公共の福祉による規制の表れである。

都市計画法は、市街化区域と市街化調整区域に分け、後者の開発を制限している。日本列島が乱開発に湧いたころ、市街地から遠く離れたとこにミニ開発を行い、行政に対しそこまで上下水道を通すよう要求するようなことがあった。行政もこれには困ったので、市街化区域とそうでない区域に分け、市街化区域内でなければ家を建てられないようにした。

市街化区域内でも、利用状況によって、住居専用地域や商業地、工業地域に分けられている。これにより住居は住居、商店は商店、工場は工場で集まり、街に統一感が生まれる。住居専用地域では高い建物や大きな建物の建築が制限されるし、商業地ではより高度な利用をすることができる。

一時、「規制緩和」ということが盛んに言われた。行政のボリュームが減り、公務員の数が減り、公務員全体に対する給料支給が減り、財政が健全化し、国民の自由な領域が増えるのであれば、結構なことではないか。しかし、そうとは限らない。

建築の世界でも規制緩和が行われた。これにより、たとえば、それまで5階建までしか建てられなかったところに8階建が建てられるようになった。近隣の迷惑度は増す。けれども、土地利用の拡大がはかられ、日本経済にとっては追い風となる。

それまで日照権訴訟というのをやっていた。しかし、「規制緩和」後、裁判所は慎重になり、裁判をする件数は減った。

本件の土地は西鉄二日市駅にほどちかい第一種中高層住居専用である。低層だけでなく、中高層住居まで建築可能な地域である。実際、一般住宅のほか、集合住宅、公民館、保育所、区の集会所、マンションなどが建っている。

日照権は日影規制により守られる。同地域では高さ10メートルを超えると、一定の日影規制を受けることになる。しかし、本件建物の高さは最高でも8メートル弱であり、日影規制も受けない。

通風については建築基準法に明文の規制はない。しかし、建ぺい率、容積率により守られることになる。建ぺい率は土地面積に対する建築物一階の面積の割合、容積率は一階に、二階の面積を加算したものの土地面積に対する割合である。土地いっぱいに建物が建てられると風が通らないけれども、その一部にしか建てられなければ、風が通ることになる。

本地域は建ぺい率60パーセント、容積率200パーセントという規制である。建築を予定していた当方の建物は建ぺい率37.27パーセント、容積率74.54パーセントであった。余裕である。

建築基準法をクリアしていることについては、行政から指定を受けた検査機関が検査を行う。クリアしていれば建築確認がなされる。これで行政上の規制はクリアしたことになる。

行政上の規制をクリアすることと民事上の責任を免れることとは一応別論である。行政上の規制をクリアしていても、民事上の不法行為が成立することはありうる。しかし、「規制緩和」後、裁判所はそう判断することに慎重になっている。

以上のとおりであるから、本件建物の建築が隣地の住人に対する不法行為となることはない。そのように答弁した。間もなく、原告は本訴を取り下げ、早々の解決をみることができた。

2022年12月9日金曜日

映画「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」

 
(きつねのお手紙@四王寺山)

 すこしまえになってしまったが、BS-NHKで映画「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」をやっていた。デヴィッド・フィンチャー監督、ブラッド・ピット主演。

生まれた時はおじいさんで、それからどんどん若返り、ついには赤ん坊になる男の人生。劇場でみた記憶はあるが、そのときはあまり感動しなかった。こんど見て、なかなかよい作品と思った。

結局、「生まれた時はおじいさんで、それからどんどん若返る」という設定を受け要られるかどうかだろうか。これが受け入れられないと作品世界に入っていけない。こんかいは2度目の鑑賞ということもあって、この設定は邪魔にならなかった。

問われていることは「人生とは何なのか」だ。われわれは日々の細かな出来事に流され、日常が些事におおいつくされてしまっている。立ち止まって、「人生とは何なのか」について思いを致すことが難しい。映画は、日々の生活を一時停止にしてくれる。そしてときどきこの問いを考えるきっかけと時間を与えてくれる。

「人生とは何なのか」を考えさせるきっかけは多い。主人公が不治の病におかされたり、愛する人が突然亡くなったり。これらのきっかけは、これまでなんども語られてきた。

そこで考えられたのが、人生が逆回りになったらどうだろうという問いだろう。自分はどんどん若くなっていく。他方で、愛する人たちはどんどん老けていく。愛が深ければ深いほど耐えられない。別れざるをえない。・・そんな映画。

2022年12月8日木曜日

大宰府政庁跡・四王寺山お鉢めぐり(2)

 




 小石垣城門跡から鮎帰の滝へ向かう。モミジ、カエデやホオ、カツラなどの樹林を抜け、橋をわたると左手に見慣れぬ大きな樹が黄葉している。メタセコイアだ。関西人の頭のなかでは、「めちゃ、セコイや。(とても、みみっちいや)」と変換されてしまう。

メタセコイアは化石として発見され、その後、中国で生きていることが発見された。戦後、日本各地に植樹され、ここのも植樹によるものだ。

ヒノキの仲間なのに落葉樹。日本の落葉針葉樹はカラマツ(落葉松)だけだが、これもその仲間である。黄葉して落葉する。葉を日に透かし見ると、美しい。

林ではまたジョウビタキのメスに出会った。頭の模様が尉(銀髪)なヒタキなのでジョウビタキ。ヒタキは鳴き声が火焚の音に似ているから。冬に北方からやってくる渡り鳥。目の周りが黒くないのでメスだ。後ろ姿なのがつれない。

お鉢には三十三の石仏が点在している。その日によって撮影させていただく石仏は変わる。この日は三十番の千手観音さまにモデルをお願いした。ただの石だけれども、祈りの心があれば仏になる。木漏れ日による輝きが仏さまの意図するところのように感じられる。

帰りはお鉢の南東にある増長天跡の手前から岩屋城跡、高橋紹運墓を経由して大宰府市民の森に下山する。市民の森からは、武藤資頼、資能の墓を経て観世音寺の北西に出る。

観世音寺から太宰府市役所方面を目指すと、畑が広がっている。左手に観世音寺の宝蔵とメタセコイアがみえる。あぜ道が四王寺山へ向かい、おばあちゃんが歩いていた。のどかでほっとする風景だ。

2022年12月7日水曜日

大宰府政庁跡・四王寺山お鉢めぐり(1)

 



 
 四王寺山歩きは、だいたい大宰府政庁跡からスタートする。いまの行政区である太宰府市という場合は「太」を使うけれども、昔の行政区である大宰府をさす場合は「大」である。ちなみに「宰」はつかさどるという意味。大きくつかさどるのか、太くつかさどるのか。

いつもは南の朱雀の入口側から、四王寺山を背にした正殿跡側をのぞむ。けれども、この日は横から記念碑と西の藏司丘陵側をのぞんでみた。背後は月山丘陵。その影が前面を覆っている。藏司丘陵に日が当たってクローズアップされ、海に浮かぶ島のようだ。

九州は北部もだいたいシイ・カシの常緑広葉樹林帯だ。常緑広葉樹はまたの名を照葉樹という。香椎照葉はこれからきている(と思う。)

常緑樹(照葉樹)は冬も葉が落ちない。葉の表面がツルツルしていて、日光を反射して照るので照り葉。表面がクチクラと呼ばれる脂質ポリマーでキューティクルされている(クチクラとキューティクルは同じ語源)。

人の手が入っていないところはシイかカシの樹ということだ。冬も暗いめの色の緑の森を形成することになる。

大宰府政庁跡の西側の側道には、桜が植えられている。桜は落葉樹だ。春だけでなく秋の紅葉も楽しめる。路側にはすでに落葉がたまっている。東側から日が差し込み、路がゼブラ模様になっている。

西側の側道を北に詰めると、政庁跡の北西角に神社がある。令和の名の由来となったといわれる坂本神社である。大伴旅人が梅花の宴を催した大宰府の長官屋敷跡と推定されている地の一つ。発掘調査の結果は否定側に傾いているようだ。

その前をさらに北に進むと、四王寺山の登山道となる。途中で右に入ると岩屋城跡を経るコースもある。しかし、この道をまっすぐ登る。

途中、沢を登るところもあり、変化に富んでいる。四王寺山にはいくつも登山道があるのであるが、このコースは登りに利用するとよいだろう。下りだと、沢の部分は足下に注意が必要だ。

土塁のあるところまで登りつめると、そこからは稜線の周回路となる。いわゆるお鉢めぐりだ。周回路の両側の樹が道を覆い、トンネルのようになっている。ここでも日がまだらに射し、美しい樹影を見せている。

お鉢めぐりの周回路はよく踏まれていて、楽しい山歩きが楽しめる。ただし、ところどころ注意をしないと、いつのまにか意図したところとは違うところへ出てしまう。

周回路にはところどころ展望所が用意されている。南向きの展望所からは筑紫野や大野城市の市街が広がっている。その向こうには天拝山、九千部山、そして背振の山塊をのぞむことができる。そして青空。東側はレースのような薄雲がかかっている。開放感にすかっとする。

四王寺山は標高が400m程度なので、稜線部もだいたい常緑樹林帯がつづく。しかし、北側の小石垣城門跡から先まで行けば、紅葉が楽しめる。一つの枝の葉が、緑から黄色、橙・オレンジ、赤ととりどりに変化して美しい。そして一部に日が射し、部分的に輝かしている。

2022年12月6日火曜日

行方不明の相続人との間の遺産分割協議事件

 

 行方不明の相続人との間の遺産分割協議が成立した。話を簡単にするために、亡くなった被相続人をA、相続人をBとC、そのうちCが行方不明であるとしよう。

Aの遺産は不動産(自宅と貸家)と預貯金。遺言書があれば別だが、一般的には、BとCの実印を捺した遺産分割協議書と各自の印鑑証明が必要である。それがなければ不動産の名義変更はできないし、預貯金の払戻しもできない。

本件ではBから依頼を受けた。Cはもう20年以上行方不明。まずはCの住民票の所在地を調査する。関西のある都市Dにある集合住宅にあることが分かった。その住所宛に手紙(内容証明郵便)を出すと、集合住宅の管理者から戻されてきた。つまり、Cは住民票上の住所に住んでいないということだ。

このような場合どうするか。民法は不在者財産管理人という制度を用意している(25条1項)。

Dを管轄する家庭裁判所に対し、Cの不在者財産管理人を選任するよう申し立てた。家庭裁判所も、Cが不在者であるかどうか独自の調査を行ったようだ。かなり時間が経ったので、何度か裁判所に問い合わせると、詳細は教えてくれないが、それらしきことを説明してくれた。

実は、その過程で、あるトラブルが発生した。詳細は例によって守秘義務により説明できない。あれこれ想像してくだされ。

調査の結果、不在者であると認められた。不在者財産管理人として、D地区で開業しているE弁護士が選任された。E弁護士だからといって、いー弁護士とは限らないが、事案の性質上、クセのないよい先生だった。

管理人の費用は行方不明者のCに負担させることができない。やむなくBに負担していただくことになる。つまり、相続人のなかに行方不明者がいると、2人分の弁護士費用がかかるということだ。

あとはE弁護士との間で遺産分割協議書を取り交わした。行方不明者と遺産分割協議を行う場合、帰来時清算型の遺産分割をすることがある。家庭裁判所と協議したが、それが許されるのは遺産の取得分が100万円以下のときに限られるという。本件では使えない。

やむなく、Bが全遺産を取得し、その代償金として、遺産の半分に相当する額をE弁護士の預り口宛に振込送金するという内容の遺産分割とした。

先ごろ、不動産の名義変更の登記、預貯金の払戻しと代償金の送金も終え、本依頼事件は無事終結した。

あと残るのは、不在者財産管理人が預かっている上記代償金の行方である。この点についても、民法は失踪宣告という制度を用意している(30条1項)。

不在者の生死が7年間明らかでいないときは、家庭裁判所は失踪の宣告をすることができる。その宣告を受けた者は7年の期間が満了した時に死亡したものとみなされる(31条)。

いつからこの7年を数え始めるのかという問題がある。Cはもう20年以上行方不明なわけだから、すでに7年を経過しているといえなくもない。しかし、これは認められていない。本件ではD地区に住民票があり、職権消除されていないことから分かるように、最近まで生きていたことが判明している。

必須ではないが、一般に、失踪を裏付ける資料として、警察に行方不明者届を提出しなければならない。本件でもその手続を行った。あとは7年間の経過を待つほかない。

なお、行方不明者との離婚、行方不明者に対する不動産登記手続請求などについては、ケース・バイ・ケースであるが、公示送達や欠席判決制度を利用することができる。これらの点はまた別の機会に。

2022年12月5日月曜日

映画「すずめの戸締まり」


 映画「すずめの戸締まり」をみた。新海誠監督作品。監督作品をみるのは「君の名は。」以来、3作目。

ネタバレになるので話にくいが、「もののけ姫」と「陰陽師」と「或る夜の出来事(ロードムービー)」を足して3で割った感じか。

主人公の女性が自分のアイデンティティーをさがすという点では「魔女の宅急便」「眉山」や、最近ネットフリックスでみた「迷い婚 すべての迷える女性たちへ」などにも共通しているだろうか。

長い長い人類の文明と文化の末端で生きている以上、新作が過去の作品からまったく影響を受けず新しいということはありえない。ありえるのは過去の作品を超えられているのか、超えられていないのか、どちらかだ。超えられなくとも、オマージュとして鉾をおさめるやり方もある。さて本作はどうだろう?・・・

これ以上は書かないほうがよいだろう。ご自分でご覧あれ。まったく個人的なことながら、11月28日のブログで書いた明石海峡大橋が物語中にでてきて、シンクロニシティを感じうれしかったとだけは書いておこう。

それにしても衝撃的だったのは、映画を1100円でみることができたことだ。なんと55歳以上は1100円でみられるそうだ。知らなかった。

映画を安くみられて得をしたのだけれど、逆に痛烈に損をしたような気がした。この8年間はなんだったのか。・・気持ち的には、まるで「かまいたち」の漫才のよう。

濱家:一回だけ過去に戻れるとしたら、どうする?
山内:ポイントがたまるサービスへの登録を最初に勧められたけれども、つい断ってしまったところまで戻りたい。
濱家:こんな貴重な機会をそんなんに使っていいん?いまから登録すればええやん。ぼくだったら、むかし告白できなかった女子に告白できるとろまで戻るけど。
山内:最初の時につい断ったために、これまでずっとポイントを貯められなかったんや。その後になって登録をしてしまうと、最初からその時までの間にポイントを貯められなかった損を認めることになる。それはしたくない。損を認めないで登録するには最初の機会まで戻るしかないんや・・・。

山内の気持ちがよくわかった・・。みたいな気持ちになった。

2022年12月2日金曜日

加齢にも負けず、コロナにも負けず

 
 きのうは人間ドックだった。健康診断にはあまり行きたくない。血を抜かれたり、バリウム(プラス下剤)と発泡剤を飲まされたうえゲップをするなと言われたり、検査台上でグルグルまわされたり逆さまにされたり、まるで拷問だ。健康な体も不健康になりそう。健康診断にかかる結構お高い費用を使って山に登ったほうがよほど健康によさそうだ。

今回、大学ゼミのときの後輩から、自分が癌になったので先輩も気をつけたほうがいいですよと言われた。虫の知らせかもと思い、5年ぶりに受診を決意した。

5年前と比べると、血圧や中性脂肪値が基準値を(すこしであるが)超えて不健康になっていた。加齢にくわえ、コロナの影響で運動量が落ちていたことが原因と思われる。以前なら、必ず階段を使っていたところも、コロナ後はなんとなく日和ってエレベーターなどに頼っていた。

検診のむすびに女医さんの総評。心配するほどの数字ではないものの、今後、塩分控えめの食事と適度の運動に気をつけるよう指導された。

週に1度程度は山歩きをしているので、運動不足を指摘されることはないと高を括っていた。しかし、運動不足を指導されるとは。とほほ。

そもそも、運動不足であることは、2週間ほどまえに問診票が送られてきた時点で分かっていた。

毎日1時間程度歩いていますか?→いいえ。

週2回30分以上汗をかくような運動をしていますか?→いいえ。

30分以上汗をかくとなると、ジムに通うか、走るかだ。ウイークデーに仕事をさぼって山に行くわけにはいかない。結果、汗をかくような運動もしていない。などと回答していると、どうも必要な運動が足りていないようだ。あせった。

問診票が届いてからは、毎朝のラジオ体操をはじめ、通勤の行き帰りに一駅分歩くようにした。それでも一日60分には足りない。

そして週に2度ほど走ろうと決めた。これがなかなか難しい。夕方は会議やらなにやらが入っているし、天気や体調がよいとはかぎらないからだ。この2週間で2度しか走れていない。

やはり2週間程度の付け焼刃ではどうにもならない。問診票にも、1年間継続していますか?とある。

生活習慣病とはよく言ったものだ。運動を生活習慣のなかに組み込んでいかなければならない。生半可なことではできない。強い決意をもって、運動習慣の回復をおこないたいと思う。

2022年11月30日水曜日

Yさん送別会


 

 わが事務所は来年創立40年目をむかえる。そうしたなか、22年間勤続してくれたYさんが退職されることになり、その送別会がひらかれた。いまは小郡に移籍された稲村晴夫弁護士もかけつけてくれた。

Yさんは鹿児島の法律事務所で8年間勤務するなどした後、わが事務所に入所。福岡市民オケでヴィオラを演奏する酒豪である。稲村、迫田弁護士らともよき飲み仲間であった。

わが事務局は永田さん、入江さんを嚆矢とし、わが事務所で事務局経験をはじめた人と他の事務所での勤務経験を経てきた人にわかれる。

他の事務所で勤務した人は、自ずとその事務所での方法論や文化をもたらすことになる。わが事務所の所風や文化に多様さと寛容さをもたらしてくれた存在だ。40年の事務所の歴史のうちの22年であるから、いまの事務所の大半をともにつくり、基盤の一角を形成してくれた。

送別会でも、事務所愛をあつく語ってくれた。事務所愛ゆえ月曜日に事務所に来るのが楽しみだったという、ちょっと信じられないエピソードも披露された。後輩たちもそうした文化を着実に引き継いでくれると思う。

他の事務局からは、事務指導体験や懇親行事の際の懐かしい思い出もあれこれと披露された。稲村弁護士からも以前と変わらぬ温かい激励をいただいた。

涙、涙のよい懇親会だった。また明日から頑張ろう、ちくしの伝統と文化を絶やしてはならないと、あらためて思えた送別会だった。

2022年11月29日火曜日

ある不当利得返還請求事件(和解)

 


 ある不当利得返還請求事件が和解により解決した。

X名義の預金通帳を母が管理し、いろんな使途に使用していた。そこには賃貸収入が入金されていた。

母は亡くなり、遺産分割協議を行った。公正証書遺言が見つかり、これに従い不動産の登記や相続税の申告がなされた。

その後も、Yが預金を管理し、いろんな使途に使用していた。6年後、通帳を返したところ、YはXから使途不明金6160万円を返すよう言われ、裁判を起こされた。Yが使途不明金を不当利得したというのである。

ちなみにXの代理人は、積極的にCMを展開している全国展開の某法律事務所の弁護士である。

Yから依頼を受け、およそ2年間裁判をたたかった。平成23年1月からの出金について使途不明だと請求され、11年も前からのことだから、当方も記憶も鮮明でないし、証拠関係も完璧とはいいかねる。

丹念に1つ1つの使途に関し証拠を収集し、使途をつきとめていった。それでも10%ほどの証拠について、もともと書証が存在しなかったか、これが散逸してしまい残っていない。

こちらは一切自己のために費消をした覚えはないので、1円でも支払うことはできない。ある意味幸いだったことに、当方にも反対債権が生じていた。

裁判所の強力な斡旋もあり、Yは1円も支払わなくてよいとの和解をすることができた。ふう。めでたし、めでたし。

2022年11月28日月曜日

松帆の浦・明石海峡

(松帆の浦) 

(絵島) 

(海峡越しに一ノ谷・須磨)


 (明石海峡と明石海峡大橋)
 
 旅の第1の目的地は大塚国際美術館、第2の目的地は松帆の浦。そう言われても知らない人がほとんどだろう。

 来ぬ人をまつ帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ 権中納言定家

これなら知る人も多いだろう。百人一首の代表歌。定家が撰者なので、よほどの自信作と思われる。そこで詠まれている松帆の浦へ一度行ってみたかった。

松帆の浦は淡路島の北端にあり、明石海峡をへだてて、本州の明石・舞子・須磨と接している。西には播磨灘をへだてて、小豆島の島影が見える。

定家の歌の本歌は『万葉集』の笠朝臣金村の歌。

 なき隅の船瀬ゆ見ゆる淡路島 松帆の浦に朝なぎに 玉藻刈りつつ夕なぎに
 藻塩焼きつつ海女少女 ありとは聞けど見に行かむ よしのなければ上部の
 情はなしに手弱女の 思ひたわみて徘徊り 我れはぞ恋ふる船梶を無み

本歌の主人公は明石側から淡路島の女を恋している。これをひっくり返して淡路島側から恋する乙女の立場で詠んだのが定家の歌。塩がじりじりと焼けるような情念・・。

定家には「三夕」の歌の一つとして名高いつぎの歌もある。浦の夕暮れは詩心をさそうようだ。

 見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ

松帆の浦から東へすこし行くと絵島がある。絵島というと大奥を思い浮かべるが、そうではなく月見の名所である。西行の歌碑がある。

 千鳥なく絵島の浦にすむ月を波にうつして見るこよいかな

西行と時代をおなじくする『平家物語』にも、「福原の新都におられる人々」が絵島で月見をした話がでてくる。

 やうやう秋も半ばになりゆけば、福原の新都にまします人々、名所の月を見んとて、或は源氏の大将の昔の跡をしのびつつ、須磨より明石の浦づたひ、淡路の瀬戸をおし渡り、絵島が磯の月を見る。

絵島からは海峡越しに、一ノ谷や須磨あたりをのぞむことができる。写真の緑の部分が鉢伏山、その向こうが一ノ谷や須磨のあたりである。一ノ谷は源平合戦の激戦地。大手の戦いは神戸・生田神社のあたり。一ノ谷は搦め手側。義経が鵯越を越えて活躍したためか、敦盛最後など『平家物語』の悲劇が一ノ谷に集中したためか、一ノ谷の戦いと呼ばれる。

福原は源平合戦が勃発して平清盛が緊急避難して新都を築こうとしたところ。神戸の南部、大和田の泊があったあたりが予定地とされる。しかし不人気で途中で計画は放棄され、旧都に復したとされる。

源氏の大将の昔の跡をしのびつつとあるのは、ややこしい。『平家物語』にでてくる源氏ではなく、『源氏物語』にでてくる光源氏のこと。光源氏は一時失脚して、須磨に隠棲した。それが「須磨」の段、そこから「明石」の段を経て再起していく。

いくら紫式部が天才といっても、「須磨」や「明石」の段が彼女のイマジネーションだけで書けたわけではない。須磨や明石をめぐっては古今集などに多数の和歌が存在するほか、関連して故事も存在する。

なかでも有名なのは、在原行平の故事と歌である。行平は『伊勢物語』で有名な在原業平の兄。文徳天皇のときに須磨に蟄居を余儀なくされたという。 

 わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつ詫ぶと答えよ

『源氏物語』の「須磨」の段がこのエピソードを踏まえていることは、本文中に明らか。行平には百人一首にとられた次の歌もある。

 立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今帰り来む

これは必ずしも須磨の蟄居とは関係ない時の歌のようだが、惜別の内容から行平を悲劇の主人公とイメージさせる。業平ほどではないにせよ、女性にももてたことだろう。

謡曲の「松風」は、須磨を訪れた諸国一見の僧が、松風村雨という姉妹の亡霊に出会い、彼女らが行平に恋い焦がれる曲になっている。

淡路島、明石海峡、明石、須磨、神戸。風光明媚だという評価は、ここが日本一だろう。もともとの自然の美しさもさることながら、そのうえに積み重なった歴史や古典の美しさ。美しいイメージがつぎつぎに喚起される。みなさまも一度どうぞ。