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2025年1月15日水曜日

新春登山@宝満山(2)難所が滝(河原谷の大つらら)

 

 宝満山山頂からどうするのか。一般的には竈門神社へくだって戻ることになる。しかし宝満山にはこの時期だけしかない楽しみがある。メンバーのなかには徹夜明けの者もいて、楽なコースにしたかったのだけれど、怪鳥の鶴の一声で難所が滝へくだることに。

 宝満山は花崗岩の山である。こんな大きな花崗岩の塊が太古、地中深くでマグマが固まり、地上へ浮上してきた結果だという。地質学の常識であるが、ちょっと信じがたい気がする。ともあれ、宝満山の山頂はむきだしの花崗岩の岩塊となっている。

 難所が滝をめざすには、山頂の北西側からこの花崗岩の急な斜面をくだっていかなければならない。雪でおおわれているので、冬場はいつも以上に緊張を強いられる。が、三点確保を心がければ危険ではない。


 しばらく行くとさっき山頂から眺めた仏頂山の山頂に達する。ここらあたりは、正面登山道のスギやヒノキの植林帯とちがい、ブナやアカガシなどの広葉樹におおわれている。他の季節もよいが、雪化粧をすればもっとよい。


 仏頂山をくだったあたりからしばらく、気持ちのよい尾根歩きである。雪の女王の王国に迷い込んだかのような美しい絶景がつづく。

 長崎鼻を越えると道はふたたび下りになり、鞍部まで来ると左手にくだる道とT字路となっている。河原谷へのくだりである。難所が滝へはここをいっきにくだっていく。 


 難所が滝。氷瀑である。例年2月ころが最大となる。この日は最大状態の7割程度だったろうか。行きかった人々の話によると、午前中は大混雑だったそう。


 全体として大きなつららになっている。河原谷には、すこしくだったところに小さなつららもあるので、河原谷の大つららともいう。大つららといっても、近寄るとたくさんのつららでできていることがわかる。

 ここからは宝満山方面へ登り返してもよいのであるが、徹夜明けのメンバーもいたので宇美町側・昭和の森へくだった。年初から楽しい山行だった。

2023年10月25日水曜日

太宰府路散策(5)天満宮、竈門神社

 

https://www.google.com/maps/place/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E5%BA%9C%E5%B8%82/@33.5169769,130.5252669,17.25z/data=!4m6!3m5!1s0x35419bb94ea9da4d:0x420ea1837d378fc4!8m2!3d33.5127734!4d130.5239685!16zL20vMDF3cTE1?entry=ttu 

 観世音寺から天満宮まではすこし左折や右折をする必要がある。が、標識にしたがって行けば間違うことはないだろう。旭地蔵尊前を右折、御笠川をわたって左折できれば、大駐車場が見えてくるだろう。

大駐車場から参道へ入ると、いまなら人がいっぱいである。インバウンドは回復し、参道は外国語がいきかっている。韓国語や中国語が主である。中国語は大陸のほうではなく、台湾のかたたちである。

昼食どきだけれど、参道の店はどこも人がいっぱい。本日最大のミッションは鯉のエサやりである。そのため御神牛を経て、太鼓橋を右へ行き、うぐいす茶屋に向かう。ここで昼食をとることにした。ほどほどの混み具合である。

それぞれ山形豚のカツ丼や、釜揚げうどんを注文して食す。うまし。池では花菖蒲が枯れている。鵜が魚を捕っていた。長良川のように吐き出させられる様子はない。

その後は、お待ちかねの鯉の餌やりである。長い棒状の麩を買い、ちぎっては鯉に投げる。

横からのっそりとカメもやってくる。鯉たちの敏捷さにくらべ、動きが緩慢すぎる。そこを子どもたちがなんとか食べさせようとする。子どもたちとカメの連合群と鯉たちとの競いあい。ミッションコンプリート。大満足。

天満宮の本殿はいま修復中である。草でデザインされた仮宮がむしろ斬新でよい。古新道の山や磐座をご神体とする時代に還ったようだ。

ポツポツとくるなか、宮前からコミュニティバスに乗ることにした。バスは渋滞のせいか20分以上遅刻してきた。インバウンドとおぼしき人たちが5、6人うしろに列をつくる。

バスはほどなくして内山に着く。宝満山の麓であり、登山口もある。神社の階段を登る。秋が深まれば紅葉の名所である。が、いまだ色づきはわずかである。階段が尽きると、竈門神社である。

神様にはもうしわけないが、まず絵馬の納所にむかう。子どもたちが喜ぶから。期待どおり、『鬼滅の刃』の主人公たちを描いた絵馬が並んでいる。いずれおとらぬ名作ぞろいだ。

そう、わざわざバスに乗ってやってきたのは竈門神社が『鬼滅の刃』の聖地とされているからだ。別に作者が竈門神社がそうであると認めたわけではない。しかし、そうではなかろうかという情況証拠はそろっている。

まず、鬼滅の主人公の名だ。ずばり竈門炭治郎(かまどたんじろう)という。これだけだと証拠として十分でない。大分県や筑後のほうにも竈門神社があるそうだから。

つぎに、竈門神社が大宰府政庁の鬼門を守っていることがなにより重要だ。鬼滅は文字どおり、鬼退治の物語だ。竈門神社は、鬼が北東の方角から侵入してこないよう、これを防いでいる。

神社は政庁からみて北東、つまり、鬼門の方角にある。鬼門の方角とは牛寅の方角である。時計の針の一番上=0時から子、牛、寅、卯とくるから、右上45度は1時と2時の間になり、牛寅の方角なのである。

古来、鬼は牛寅の方角から来ることになっている。中国では騎馬民族が東北からやってくることは分かるが、日本のばあい何がやってくるのだろう?

ともあれ、鬼の頭に牛のような角があり、寅のパンツをはいているのは、牛寅の方角からやってくるからだ。

さらなる根拠としては、鬼滅の作者が福岡県出身であること。これで県外の候補地は除けるという。

作者がどの程度詳しいか分からないのであるが、修験道のイメージもあるかもしれない。修験道は天狗や修行と縁がありるから。

鬼とは何か?伝染病や疫病がそうであるという説がある。ならば、コロナや各種ウィルスから子どもたちを守ってやってくだされ。

2023年10月19日木曜日

太宰府路散策(2)展示館、学業院跡

          


 政庁跡には礎石が置かれているのであるが、レプリカである。むかしはプラスティック製のものを置いていてブカブカしている時もあった。

実物は2mほど地下にある。発掘調査をおこない、2mほど掘り下げたところ、いま見るような礎石群があらわれたのである。つまり、年間2mmほどずつ土砂が堆積を繰り返していて、約1000年の間に礎石群のうえに2mほどの土砂が堆積しているのである。

そのことは、南西角にある展示館にいけばよく分かる(いつの間にか有料になっていたが。)。館の内部、左右は地層を掘り下げたままになっていて、掘るとどうなるかがよく分かる展示になっている。2mほど地下にゴロリと置かれたままの礎石や溝の遺構をみることができる。

展示館のまえで休憩していると、高齢の男性、つづいて女性が設置されている台の上でスタンプを押していく。訊くと太宰府市がおこなっている事業で、スタンプが集まると3000円の商品券やお米がもらえるのだそう。なるほど。われわれはアプリの景品を期待して歩いているところ、太宰府市の高齢者は商品券やお米を期待して歩いているのか。

展示館の北西角には、都をしのんで歌った小野老の有名な歌の碑がある。

 あをによし奈良の都は咲く花の 薫うがごとく今盛りなり

展示館の前を通って東へ向かう。この通りにはセンダンが植えられている。またの名を楝(あふち)の木。おそらく筑前守であった山上憶良のこの歌にちなむものだろう。

 妹が見し楝の花は散りぬべし 我が泣く涙いまだ干ぬ

これは大伴旅人の妻が亡くなったときに、旅人の気持ちになって詠んだ歌。四王寺山の霧に仮託したつぎの歌もおなじ。

 大野山霧立ち渡るわが嘆く息嘯の風に霧立ちわたる 

通りの左手には故冨永朝堂先生のお宅がある。太宰府天満宮・延寿王院前の「神牛」の作者である。

そのあたりからは宝満山が大きくのぞめるようになる。ことしは国の史跡に指定されて10年となる。大宰府政庁跡の東北、鬼門の方角である。

平安京の鬼門は比叡山であり、鬼門の押さえとして延暦寺が置かれた。大宰府の鬼門は宝満山であり、鬼門の押さえとして竈門山寺・竈門神社が置かれている。

さらに東に行くと学業院跡である(国史跡)。古代、大宰府の官人要請が行われたという。太宰府は現代、学園都市になっているが、このような伝統のゆえであろうか、それとも天満宮のご利益を期待してのことであろうか。

手前には、山上憶良の有名な子等を思ふ歌の碑が建っている。親子の情愛は古代から変わりはない。

 瓜食めば子供念ほゆ 栗食めばまして偲はゆ 何処より来たりしものぞ 眼交にもとな懸りて 安眠し寝さぬ

 銀も金も玉も何せむに まされる宝子に如かめやも

学校で習った。小6に訊くも習っていないという。中学で習ったのだったか。

またそこには天満宮の斎田があり、ちょうどこの日、抜穂祭がおこなわれていた。このごろはコンバインによる収穫風景しかおめにかからなくなったが、むかしながらの鎌による稲刈り。なつかしい。

その先入ったところは昨年、アナグマ三兄弟の巣があったところだ。

2023年9月15日金曜日

足利尊氏と九州(3)少弐と菊池と合戦の事(つづき)

 

 『太平記』第15巻「少弐と菊池と合戦の事」のつづき。

 菊池は、手合はせの合戦に打ち勝って、門出よしと思ひければ、やがてその勢を卒ゐて、少弐入道妙恵が縦籠もりたる内山城へぞ寄せたりける。妙恵は、宗と軍をもしつべき郎等をば、皆子息頼尚に付けて、将軍へ参らせつ。阿瀬籠豊前は水木の渡にて討たれつ。城に残る勢、わづかに2百人にも足らざりければ、菊池が大勢に立て合わせて、合戦しつべき様もなかりけり、されども、城の要害よかりければ、切岸の下に敵を見下ろして、防き戦ふ事数日に及べり。

※少弐入道妙恵は、少弐貞経。後醍醐天皇の倒幕運動に参加して、鎮西探題を攻撃した。尊氏が離反すると、息子の頼尚とともに尊氏に付いた。

※内山城(有智山城)は、太宰府天満宮さらには竈門神社の奥・宝満山の麓に、いま堀と土手だけが残る。スギ・ヒノキの木立と藪におおわれている。「要害」とはいえないように思う。

https://www.google.com/maps/place/%E5%A4%9A%E3%80%85%E8%89%AF%E5%B7%9D/@33.5330781,130.5528475,1537m/data=!3m1!1e3!4m6!3m5!1s0x35418fa5fa987463:0xd2d53b8ec6d5fe2e!8m2!3d33.6203654!4d130.4951448!16s%2Fg%2F1229b_jx?entry=ttu

 菊池、荒手を替へて、夜昼十方より攻めけれども、城中には、兵未だ討たれる者も少なく、矢種も未だ尽きざりければ、今4,5日が間は、いかに攻むるとも落とされじmのをと思ひける処に、少弐入道が聟に、原田対馬守と云ひける者、俄かに心替はりして、攻めの城に引き上がり、中黒の旗を挙げて、「それがしは、聊か所望の候ふ間、宮方へ参り候ふなり。御同心候ぶべしや」と、舅の入道のもとへ使ひをぞ立てたりける。妙恵、これを聞いて、一言の返事にも及ばず、「苟も生きて義なからんよりは、死して名を残さんには如かじ」と云ひて、持仏堂へ走り入り、腹掻き切って臥しにけり。これを見て、家子郎等162人、堂の大庭に並び居て、同音にゑい声を出だして、一度に腹を切る。その声天に響いて、非想非々想天まで聞こえやすらんとおびただし。

※貞経は多勢に対し奮戦したが、味方の裏切りにあって全員玉砕。原田対馬守は、いまの筑紫野市原田在の武士。聟が舅を裏切る話はむかしからあったようで。娘は身の置き所がなかったろう。

※このあたりで籠城・玉砕といえば、戦国末期の岩屋城の戦いのほうが有名。岩屋城には大友方の高橋紹運ら763人が立てこもり、北上を続ける島津方2万と戦い玉砕した。岩屋城のほうは子孫が柳川立花藩として永続したせいか、いまも四王寺山の一画にきれいに整備されている。

https://www.google.com/maps/@33.5257841,130.520256,3a,75y,91.09h,105.97t/data=!3m8!1e1!3m6!1sAF1QipNveHPwT-eQ0wjygLg-63_ITuRBhbaJmXsjagQJ!2e10!3e11!6shttps:%2F%2Flh5.googleusercontent.com%2Fp%2FAF1QipNveHPwT-eQ0wjygLg-63_ITuRBhbaJmXsjagQJ%3Dw203-h100-k-no-pi0-ya259.81628-ro-0-fo100!7i5376!8i2688?entry=ttu

※生きて義なからんよりは、死して名を残さん。義か死か、むずかしい選択だ。貞経は死を選んで、望みどおり名が残った。

 (引用はやはり岩波文庫『太平記』から)

2023年1月16日月曜日

ヒキガエルのカップル

 


 昨年「大追跡!謎の登山ガエル」という番組が放送された。NHK「ダーウィンが来た!」で。

https://www.nhk.jp/p/darwin/ts/8M52YNKXZ4/episode/te/XX81ZJLZV9/

福岡県の霊峰・宝満山にたくさんの子ガエルが大量に登っていく。このブログでも12月21日の記事で紹介した。

http://blog.chikushi-lo.jp/2022/12/blog-post_21.html

きのうは怪鳥会の新年発登山だった。登りはじめで、「ダーウィンが来た!」の話題になった。この池が野々池で、ここでオタマジャクシが孵化するんだよねなどと話した。

しばらく登ると、左手にヒキガエルが。なんとその上部にはヒキガエルのカップルが春を準備していた。どうやらいまの時期に産卵して、梅雨時に孵化するようだ。

ヤマカガシ連中に負けないで、頑張って命をつないでほしい。太宰府の市民遺産が絶えないことを祈ろう。

ところでヒキガエルの季語は夏である。

 這出よかひやが下のひきの声 芭蕉

2022年12月21日水曜日

宝満山を登るヒキガエル

 


 先日、NHK「ダーウィンが来た!」「大追跡!謎の登山ガエル」で宝満山を登るヒキガエルをやっていた。

https://www.nhk.jp/p/darwin/ts/8M52YNKXZ4/episode/te/XX81ZJLZV9/

梅雨時期前ころからヒキガエルの子どもたちが登山道にたくさんいることは経験的にわかっていた。踏んでしまいそうで、どちらかというと気持ち悪いという感じだった。

ここ数年になって、あのカエルたちは宝満山を登っているのだといわれるようになった。カエルが山を登るのは宝満山だけなのだとか。そして守る会ができ、知り合いがそれに関わっていることも分かった。

http://nijinonanafusigi.la.coocan.jp/guidebook.pdf

林道から登山道に入ったところ右手に池が二つある。野々池と呼ばれ、そこで卵からオタマジャクシに孵化するらしい。そしてカエルに変態して登り始める。

「大追跡!謎の登山ガエル」では、その様子を大追跡していた。1センチメートル足らずの子ガエルたちが懸命に登っていく。

石段一つ登るのでも、われわれだと穂高の大絶壁をロッククライミングするようなものだ。装備もなく自分の手足だけで、背丈の何十倍もある石段を登っていく。何度も転げ落ちてしまう。

標高829mの山頂まで登るのは、人間でいえばエベレスト9回分に相当するのだとか。山頂まで約1か月を要する。数十万匹が孵化し、山頂に達するのは千匹くらいなのだそう。

ただもう感動的。われわれの仲間からは、もう二度と宝満山で弱音を吐きませんとのつぶやきが漏れた。

それにしてもNHKや取材に協力した研究者たちの調査力や粘り強さにも感銘を受けた。子ガエルの天敵はヤマカガシ(毒ヘビ)なのであるが、カエルがヤマカガシに食べられる瞬間を3度も撮影に成功していた。

宝満山にあれほどヤマカガシがいることにも驚いた。知っていれば、もう少し慎重に登ることになるだろう。

写真は「梅園」さんのお茶菓子。いただきものだ。ありがとうございます!

2022年12月20日火曜日

雪の宝満山(2)

 





 宝満山に登るといえば、ほとんどのかたは登山口の竈門神社と山頂を往復されるだけ。しかしこれはもったいない。宝満山の魅力はそこから先にあるのだから。

きのも書いたが、竈門神社から山頂まではほぼ常緑樹かスギ・ヒノキの林である。雪がついても、重苦しい感がある。

しかし山頂をすぎると、ブナなど落葉樹やクリスマスツリーであるモミの樹があらわれる。

1枚目の写真はブナの巨木。200年以上は経っているだろう。ブナはクネクネとしているが、折れにくく豪雪に強い。秋田白神山でブナの森がひろがっているのはそのせいである。ただし、建築材には向いていないため、伐採が進んでしまった。

2枚目は雪化粧をした稜線の道。いまにもウサギかなにかの小動物があらわれ、物語がはじまりそうだ。

3枚目は霧氷。これも落葉樹ならでは。葉がなく枝だけなので、霧氷が発達しやすい。福岡市街をバックにそこだけ日が射し輝いた。

4枚目は宝満山の山頂から仏頂山方面をのぞんだもの。おまんじゅうのような白いシルエットが美しい。

5枚目は・・・。

2022年12月19日月曜日

雪の宝満山~雪山事始め~

 



 昨日は雪の宝満山に登った。今季初の雪山。いつもと違う、美しい世界を堪能することができた。

ほぼ終日曇りで、ときどき雪が降りしきった。山頂付近では晴れ間、青空もあった。青空と霧氷という青と白のコントラストが美しい。

竈門神社裏からの登りは基本的に常緑樹やスギ・ヒノキの林である。暗い。

山頂から先はブナ林が点在している。いまは葉を落とし、樹氷をまとっている。枝振りとあいまって、美しい。

こんな日に登っている人いるの?

います。この日、出会った人だけでも50人はくだらない。女性が40%というところか。雪に興奮しているおじさん、おばさんがいっぱいだ。みな雪山が好きなんだな。

2022年7月5日火曜日

宝満山頂での歓談

 

 先週末は、怪鳥会によるアルプス練習登山の第2回。宝満~若杉縦走に代えて、宝満~前砥石往復8時間コースにした。

平地では30度超えの真夏日がつづき、屋内でも熱中症になる人が続出していた。そのような過酷な暑さのなか、8時間も山歩きすれば熱中症になる危険性もます。

そこで朝6時、竈門神社の登山口に集合し、4人での練習となった。普通ならペットボトル1本で足りるところ、ポカリスエットはじめ4本のペットボトルを用意した。

登山口にある池では、アカショウビンが鳴いていた。特徴のある声だから、間違いないと思う。

午前中はときおりさわやかな風が吹き、たすかった。宝満山頂はよい天気で、筑後平野方面はすばらしい眺望と景色だった。有明海付近はうすくもやがかかっているものの、そのうえには雲仙が鮮やかに見えていた。

この日、三郡山のあたりで、佐賀から来たという70歳前後のご婦人とご挨拶した。三郡から先へは行ったことがないというも、装備と足取りはしっかりしていた。

宝満山頂でふたたびお会いし、しばらく歓談。案の定、7月には黒部五郎、9月には槍ヶ岳に登られる予定だそう。いずれもソロ。お連れ合いも山をやっていたそうだが、お亡くなりになったのだとか。

いまどき小屋の収容人数が半減されているため、ハイシーズンは予約がとりにくい。ひとり電話をかけまくって、ようやく鏡平、黒部五郎の各小屋の予約ができたらしい。われわれも昨年おなじ山に登ろうとして予約ができなかった体験を話す。

70歳になり、ひとり練習し、ひとりで黒部五郎をめざす。かっこいい。話しぶりもおだやか。ながいあいだ山を歩いてきた経験の裏打ちを感じる。

われわれもああありたいと感銘を覚えた。

2022年6月20日月曜日

若杉山~宝満山縦走(第1回トレーニング)

 




 怪鳥会という山歩き会に所属している。弁護士と新聞記者など10人がメンバーだ。発足して13年目になる。ふだんは九州の山に登り、年に1度は日本アルプスに遠征している。

ことしの夏は、北アルプスの裏銀座縦走を予定している。長野県信濃大町市から烏帽子岳に登り、そこから野口五郎岳、水晶岳、鷲羽岳、三俣蓮華岳、双六岳を経て槍ヶ岳をめざす長大なルートである。3年ほどまえにも計画したが、台風の直撃を受け、烏帽子岳までしか登れなかった。ことしこそは。

日本アルプスにのぞむときは、1か月まえと2週間まえに強化トレーニングをおこなっている。それが宝満~若杉縦走である。「博多っ子純情」にもでてきた博多のクラッシックコースである。太宰府側から宝満山に登り、そこから仏頂山、三郡山、砥石山を経て若杉山まで縦走する。およそ9時間かかる。コースタイムだけでも相当な過酷さだ。

さらなる問題がある。日本アルプス遠征は7月末ころに計画する。梅雨明け10日といって、その間の天候が安定することが多いからだ。逆算してそのまえ1か月、2週間となると、梅雨の最中ということになる。気温は30度を超え、湿度も高い。熱中症となる危険性がたかい。雨のなかを行くことも多い。しかし日本アルプスにのぞむには不可欠なトレーニングであるからしかたない。

ことし第1回目のトレーニングを6月18日(土)におこなった。誰かの発案で若杉側から縦走することになった。なんだかそれのほうが楽なような気がしたからだ。しかしそうではなかった。あたりまえだ。距離も高低差もかわらないのだから。

JR篠栗線の城戸南蔵院前駅を下車する。朝7時30分。むかしは篠栗駅を利用したものだが、さいきんは城戸南蔵院前駅を利用するのがはやりだ。2駅も先へ進むのだから、よけいに遠くなりそうな気がする。

篠栗巡礼の札所の間をすり抜けながら若杉山に登っていく。先頭をいくIくんのヤマップがなければ、どこかで道迷いしてしまいそうだ。基本的に高温で湿度が高い。ときおり涼しい風がとおりぬけていく。天使の息づかいか。

2時間たってようやく若杉山頂についた。故障中ときいていた自販機で、冷たいリアルゴールドを買うことができた。ここのリアルゴールドは日本でいちばん美味しい飲料である。ただし、宝満から縦走してきたときにかぎるのだが。この日は宝満から縦走してきたわけではなかったが、2時間汗をながしてきたので、とてもうまかった。

ここから先へ進んだらもう引き返せない。だがリアルゴールドですこし生き返ったので、先に進むことにした。せっかくかせいだ高度なのに、ショウケ越(若杉山とへむけてどんどん高度をさげていく。

ショウケ越からは砥石へむかって登が続く。そろそろピークかと思うが、その都度裏切られる。若杉から約2時間後、ちょうど昼時に砥石山頂についた。見晴らしはきかない。風もとおらない。しかしもう限界、お昼にしよう。お昼はお湯をわかしてどん兵衛。

そこから1時間半で三郡山、1時間で宝満山、1時間半の下りで下山・・・。というコースタイムなのだが、厚さでバテバテとなり、休憩がどんどん多く、長くなっていく。16時30分下山予定が17時50分になってしまった。ふう。

いまの季節、あまり花はないのであるが、ヤマツツジはたくさん咲いていた。それに、なにかのベリー、ウノハナの残り(と蝶)、ブナの新緑、下山道にユキノシタ。そうそう若杉の札所の各所にアジサイも咲いていた。これら花々がつらい山行中、われわれを慰めてくれた。つぎはまた2週間後だ。

2022年3月7日月曜日

モデルナワクチン副反応(報告)


  金曜日、ワクチンの副反応がないのも寂しいと書きながら、こんなこと書いたら、よっしゃーと副反応に襲われるのではないかと危惧はしていた。すると案の定

トミーの報告にあるとおり、金曜日の昼からうっすらと熱発した。ぼんやりする。測ってみると36.9度。平熱が36.3度であるから、ややである。若ければ38度くらいまで上がったかもしれないが、60歳もすぎると発熱もぼんやりしている。

病気早退するにも中途半端な症状だったので、午後も執務した。事務局からは顔が赤くなっていると指摘されたが、顧客からは特段の指摘はなかった。

翌朝(土)はもう熱が下がっていた。でも注射部位の5センチほど下は赤みをおびて丘状に腫れている。これが噂のモデルナアームか。他人が噂するほどのものはひととおり体験してみたい派であるが、これはちょっと遠慮したかった。

当日は昼からオンライン会議と観劇(のちほど報告)があったので、昼前から外出し20時ころ帰宅した。

昨日(日)は、怪鳥会の山登り。宝満山から三郡山を経由して若杉山までの縦走を予定していた。山中8時間のロングコースである。しかし病み上がりでもあるし(感染症によるものではないものの、ワクチンにより体内の免疫機構をフル稼働させた分、予備能が費消されている。)、宝満山の山頂まででリタイアさせてもらった。

このような苦痛を高頻度でもたらす異物を、公衆衛生の名のものとに、彼ら自体にそれほど恩恵のない子どもたちにまで打つ必要があるのか疑問である。

2022年1月14日金曜日

冬の旅(5)ー大津・長命寺

 







 29日は大津に宿泊。翌朝は、ホテルの窓から日の出がみえた。前面道を右にのぼっていくと国道1号線となり、近江と山城の境にある逢坂の関跡がある。百人一首・蝉丸の歌で有名。

 これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関

芭蕉が「野ざらし紀行」で「大津に出る道、山路をこへて」つぎの句を詠んだのも、このあたり。

 山路来て何やらゆかしすみれ草

大津から新快速で東に戻って近江八幡駅で下車。前日にひきつづき西武バスの外観の湖国バスに乗る。近江八幡やヴォーリズ建築など観光スポットをスルーして長命寺をめざす。

車窓から東のほう、安土山をのぞむことができた。むかしの巡礼者は長命寺からここらへんを歩いて観音正寺に向かったはずだ。

終点・長命寺港のバス停で降りる。琵琶湖が美しい。湾をはさんで遠く三上山がこれまた美しい円錐形をみせている。

そこからは長い長い長い石段。808段もあるらしい。宝満山の難所に百段ガンギという石階段があるが、その8倍である。末広がりというより、末バテしそうだ。

前日のような雪はないが、なかなかな急勾配である。ちかくの大学生たちが5人ほど後ろから追いついてきた。こちらも負けじとペースをあげる。むこうが先に根をあげて途中休憩した。よし、勝った。いやいや、勝ち負けじゃないから。

長命寺は西国31番札所。やはり聖徳太子が開基。太子が刻んだという千手十一面観音が本尊。秘仏である。

本堂脇には「琵琶湖周航の歌」碑がある。

 西国十番 長命寺
 汚れの現世 遠く去りて
 黄金の波に いざ漕がん
 語れ我が友 熱き心

今津や彦根など湖畔で歌碑をみたことがあったが、このような山中にあるとは意外だった。ま、歌詞が長命寺のことを歌っているから当然といえばそうであるが。

境内の奥にすすむと太郎坊権現社がある。太郎坊は大天狗である。先ほどの大学生たちもあがってきた。拝殿の左手前に大きな石がある。むかしの磐座だろう。大学生のひとりが腰掛けて、雄大な琵琶湖の絶景をながめている。おそらく熱き心で。

2021年5月7日金曜日

須賀川(3) 世の人の見付けぬ花


(天神に咲いている橡の花)


(ハイデルベルクで咲いていたマロニエの花)

(栗の花)

(栗斎宅跡の句碑)


(宝満山登山道の句碑)

ちくし句会には、あの連歌屋の住人も参加しているとか。同行トミーは苦吟しているようなので、ひとり先に進みます。

須賀川の宿のかたはらに、大きなる栗の木陰を頼みて、世をいとふ僧がありました。その名も栗斎さんといい、等窮さんの友人です。

街中で生活しながら世を厭い自由に生きる、こういう生き方に芭蕉はあこがれています。いまでいう清貧の思想や断捨離の先駆者です。お金や物、人付きあいと距離をおいて、精神的な自由を獲得しようとする生活です。

ここで芭蕉は尊敬する旅の先輩歌人、西行をふたたび召喚します。

 山深み岩にしただる水溜めむ かつがつ落つる橡拾ふほど

トチの実がかつがつと落ちてくる、その実を拾う間に岩にしたたる水を溜めよう、その水は山が深いのでしたたってくるのだ。-おもしろくてしかも心ことに深き歌です(後鳥羽院)。

橡(トチ)といわれるとピンとこないかもしれませんが、いま天神にいくとたくさん咲いています。栃木県という県名までありますから、昔はとても馴染みのある木だったのでしょう。ただし、いま天神に咲いているのは西洋トチノキで、紅花です。

西洋トチノキというとピンとこないかもしれません、いわゆるマロニエの木です。マロニエというとパリのシャンゼリゼ通りの街路樹が有名、でも探しだせなかったのでハイデルベルクのものを貼り付けておきます。

マロニエというぐらいだから、マロン(栗)に似た実がなります。不作の年にこれを食べたという説もあれば食べられないという説もあります。すくなくとも日本のトチの実は栃餅にして食べています。西行も食べるために拾ったのでしょう。

栗といふ文字は、西の木と書きて、西方浄土に便りありと、芭蕉はものに書き付けました。芭蕉が書いたからには駄洒落ではありません。

漢字を分解して楽しむやり方は芭蕉の発見ではありません。みなさんご存知の百人一首にもこんな歌があります。

 吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風をあらしといふらむ

                             文屋康秀

嵐という文字は山に風と書くからです。百人一首に歌がとられているからには、やはり駄洒落ではありません。

さらにさかのぼって行基菩薩も、西方浄土に便りありと信じて、杖にも柱にも栗の木を用ゐたまふとかや。行基さんは社会運動の先駆者です。国が僧に対し民衆への布教を禁止していた時代に、禁を破って仏教を説き、社会事業を各地で行いました。ついには、その功績が認められ、聖武天皇から大仏造立の責任者に任命されました。もはや爪のアカは残っていないでしょうから、それを煎じて飲むことはできませんが、威徳を慕って栗の木の杖を使うことはできそうです(インターネット通販で売っています)。

そして一句。

 世の人の見付けぬ花や軒の栗

お金や世俗のことに心を奪われている世の人々には栗の花の価値は分からない。栗斎のように、世間の喧噪を離れ、心の自由を獲得する境地に達したいものだ。

この句碑が須賀川の栗斎宅跡にあるのはわかります。しかしなんと、太宰府は宝満山の登山道の脇にもこの句の碑があります(中宮から100メートルくだったところ)。なぜでしょう。芭蕉は九州には来ていません(忍者だったという説もあるので、お忍びできたのかもしれませんが)。

前に書いたとおり、江戸時代、宝満山中では多くの行者が民衆を救うべく修行をしていました。その人たちが、自分たちの修行は世の人の知るところではないものの、志高く修行をつづけようという趣旨で、建立したのではないでしょうか。

われわれも栗斎、行基、宝満山中の修行者ら諸先輩に見習いたいものです。

2021年4月21日水曜日

役行者・修験道

(役行者@愛嶽山、足駄を履いている)


(宝満山峰入り) 


(前鬼・後鬼@洞川温泉・大峰山)

大宰府の鬼門には宝満山があります。いまは神道の竃門神社だけがありますが、中世には370もの仏教の坊舎があったといい、近世には修験道も盛んになりました。7合目のあたりにある中宮跡などはその名残りです。

修験道は、山々を歩いて厳しい修行をおこない、悟りをえて験力により人々を救済する神仏習合系の宗教です。修験者のことを行者ともいいます。

残念ながら明治初期、政府の神仏分離政策(いまなら政教分離原則違反で違憲です。)により廃れてしまいました。が、さいきんは五月の峰入りなど復活してきています。

宝満山の登山道から南にはずれてしばらく登ると愛嶽山があります。その山頂にはいまも役行者が祀られています。

役行者(役小角)は修験道の開祖です。葛城山で山岳修行をおこない、熊野山や大峰山で修行を重ね、吉野山の金峯山で金剛蔵王大権現を感得しました。呪術をもちい、前鬼・後鬼という夫婦の鬼を使役していました。

あるとき、葛城山と金峯山とのあいだに石橋を架けようとして、葛城山の神である一言主(ひとことぬし)に命じました。しかし、神は自らの醜い姿を気にして夜間しか働きませんでした。そのため、行者は怒り、神を呪法と蔦葛で縛ってしまいました(能『葛城』)。

芭蕉は、中国の李白・杜甫、先輩歌人、先輩旅人、禅の先達につづき、役行者にもあやかろうとしました。行者は足が達者でした。山々を歩き回って修行したからです。みちのくへの門出にあたり、行者にも参拝しています。いわく。

修験光明寺といふあり。そこに招かれて、行者堂を拝す。

 夏山に足駄を拝む首途かな
 (なつやまにあしだをおがむかどでかな)

芭蕉はすがれるものは藁にもすがりたいという気持ちだったのでしょう。みちのくの旅は、それほど苦難な道のりが予想されたのでした。

2021年3月3日水曜日

カエルがかえる


 

四王寺山を歩いていたら、水たまりにカエルのタマゴ。
ひさしぶり、子どものころはよく見かけたのですが。

さいきん、宝満山をのぼるヒキガエルが話題で
太宰府市の市民遺産にも認定されています。

宝満山を登っていると、たくさんの小さなカエルが登っていきます。
踏まずに登るのが難しいぐらい。

これもすわヒキガエルのタマゴと思いきや、
調べてみると、アカガエルのようです。残念。

でもよく見ると、タマゴのなかでもうオタマジャクシになっているやつもいます。
孵化するまであと数日というところでしょうか。

かえるがかえる(カエルが孵る)、なかなか語呂がよいです。

2021年2月8日月曜日

オチはあるけど落ちないで、スベらないけど滑った話

 

宝満山の下山中。


一緒に登った方がなかなか面白い(NOT興味深い、ただただバカバカしい)話をされていました。


が、オチを言って受けたのも束の間、足下を滑らせて転倒。


幸い怪我には至りませんでしたが、せっかくスベらなかったのにリアルで滑るとは。


詰めが甘いですね。


オチはあるけど落ちないで、スベらないけど滑った話。


富永

2021年2月7日日曜日

また今度・・・

 


「宝満山に登ったことある?」

ありません、と答えた私に、稲村先生から、

筑紫地域で仕事しているんだから、一度登って自分が仕事をしている地域を見渡して来ないと、とお叱りを受けました。

また今度、と言っているうちに入所して1年以上。光陰矢の如し、です。

今年は「また今度」撲滅運動をしていこうと思います。

そういうわけで、ようやく宝満山に登ることにしました。
鬼滅の刃ブームで注目されている宝満宮竈門神社に参拝してから登りはじめます。


頂上までゆっくり登って2時間弱くらい。日頃の運動不足がたたって身体が痛い。

でも頂上まで登れば達成感があります。

さて、景色は・・・



生憎の霧でよく見えず。
残念ですが、楽しみを先にとっておくということで。

こればっかりは、また今度・・・。


富永




2021年1月26日火曜日

難所が滝でなんしょっと?


 

難所が滝に登りました。ことしすでに2度登りました。

いちどは宝満山から仏頂山を経て、難所が滝にくだりました。大雪の日でしたがチェーンスパイクと防寒装備さえしっかりしていれば、いつもどおりの山行でした。ただし、まほろば号が運休していて、太宰府駅から竈門神社まで往復歩きでした。さすがの鬼滅ファンもまばら。

2度目は宇美町・昭和の森側から。山中はチェーンスパイクさえあれば不安なし。問題は昭和の森の駐車場まで。路面が凍結していて恐怖。

われわれの身近なところに、このような見事な氷瀑があることは奇跡のようです。雪景色とのとりあわせは素晴らしいの一言。

さいきん西日本新聞で紹介されたこともあり、すごい人気です。山中マスクをしていると、息が苦しくなりますが、みなさん励行されています。屋外でもあり、感染リスクは高くはありません。

みなさんもいかがですか。

2015年12月3日木曜日

宝満山~三郡山~若杉山縦走




 「スターウォーズ/フォースの覚醒」というわけではないけれど
 またブログを書きはじめようと思い立ちました(前よりスローペースで)。

 いつまでつづくか分かりませんが
 よろしくお願いします。


 あいかわらず山ネタから
 先日,宝満山から若杉山まで縦走しました。


 薬害C型肝炎の九州訴訟(福岡地方裁判所)に取り組んだ弁護士を中心に
 山歩きの同行会をつくり,怪鳥会と呼んでいます。

 後輩弁護士が去秋,黒岳の原生林を散策しているとき
 怪我をして,ヒザの前十字靱帯を断裂してしまいました。

 この一年,かれはリタイヤ
 かれがいない山行は寂しいかぎり。

 治療とリハビリがようやく終わったため
 快気祝いと納会をかねての山歩き会です。

 快気祝いなのでみんなは若杉登山だったところ
 せっかくだから宝満山からひとり縦走することにしました。

 若杉山の山頂に昼12時に集合。たどりつけるかなぁ?
 コースタイム6時間35分のロングコースなので心配。

 朝7時,竈門神社(太宰府市内山http://kamadojinja.or.jp/を出発
 1合目,2合目,3合目・・・

 早い時間のせいか
 健脚者がおおい。

 宝満山頂(829.6m)
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E6%BA%80%E5%B1%B1
 についたのは8時20分,よく晴れていた。

 体調もヒザにやや違和感があるくらいで
 だいじょうぶそう。

 からの仏頂山,からの三郡山(935.9m)
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%83%A1%E5%B1%B1
 いきかう登山者も多く,心づよい。

 三郡山は文字どおり飯塚市,糟屋郡宇美町,筑紫野市の境界
 各町から人が集まってくるところです。
 
 山頂には男女8人くらいの高校生のグループがいました。
 高校時代の山歩き,どんなかなぁ,もう想像するのもむずかしい。

 そこから先,きゅうに登山者が減り
 広葉樹の落葉もちり終わり,もう冬の風情

 夏とちがい
 下草もなく,快適な縦走路

 左側からは宇美町,昭和の森からの登山道
 右側からは飯塚市方面からの登山道が集まってきます。

 小ピークを繰り返しながら
 ようやく砥石山,思わず「遠いし・・」と声が漏れました。

 雲行きもあやしくなり,バックパックのなかの携帯電話も
 さっきからプー,プーと着信をつげています。

 すわ,みんなはもう若杉山頂か?
 と思いながら足どりをはやめました。

 高度をぐんぐんさげて,しょうけ越し(峠です)
 そこから若杉山へ登り返し。

 これが登山者の心を折ります
 せっかく登ったのに,くだって,また登り・・・

 そこをぐっと歯をくいしばって
 山頂に。

 な,なんと11時30分!
 竈門神社から4時間30分で着きました。

 ことし50うん歳
 まだまだ行けるね,としばし余韻にひたりました。

 他のメンバーが登ってきたのは
 予定どおり12時ちょうど。

 それから奥の院,太祖神社を経て
 http://www.sasagurikanko.com/temple/wakasugi_okunoin/
 大和の森巨木探索路を散策して下山。

 若杉の湯http://www.wakasuginoyu.com/でまったりしたあと
 怪鳥宅で酒盛り,またまた盛りあがって夜は更けていったのでした。

                                       浦田