2022年1月31日月曜日

九州脱出ー玉鬘の旅


 
(大宰府政庁跡の紅梅)

 玉鬘(たまかずら)姫をまちかまえていたつぎの苦難は大宰府少弐の死。姫を養護する乳母一家は大黒柱をなくしてしまったわけである。残された乳母たちは姫をお連れして京に帰りたかったが、なかなかこれをはたせず。

さらなる苦難はがさつな男たちだ。姫は大人になり、美人だと評判に。近在の男どもが押し寄せてくるが、姫とは釣り合いがとれない。やむをえず姫には差し障りがあってなどと誤魔かす。

近所の男衆はみなあきらめたけれども、肥後の監(げん)という男はあきらめが悪い。そこはやはり「もっこす」なわけである。ついに屋敷に乗り込んできて、強く結婚を迫る。歌なぞ詠んでみせるが、むさ苦しく田舎ぶりが甚だしい。

ことここに至っては一時の猶予も許されず、姫と乳母一家は九州を脱出。ほうほうのていで都にたどりつく。・・・

紫式部は九州には来ていないだろうから、書いてあることはすべて文字の上か耳学問だろう。読んでいてあれ?と思うことがある。

少弐といえども大宰府の役人であるから大宰府政庁の近くに住んでいたと思われる。しかし乳母らは肥前に住んでいたとある。

それでは基山あたりだろうか。大野城と基肄城は兄弟城であるから可能性はある。肥後の監が懸想したというのだから、熊本に近かったであろうし。

通勤はどうしたのだろう。いまなら自家用車かJRを利用して基山に住んでいる人が太宰府市役所に通勤しているかもしれない。しかし平安時代である。馬だろうか。

と思いながら読み進めると、九州脱出の段にこのような記述がある(引用はいつもの林望先生のもの)。

 〈これでもう二度と、姉さまとは会えないかもしれない。・・・ここで何年も暮らしたとは言っても、どうしても見捨てがたいというほどの所でもないけれど・・・〉と妹は思う。けれども、あの松浦の宮の前の渚と、姉さんに別れるのだけは、何度も何度も、振り返り振り返りするほどに名残が惜しまれるのであった。・・・

などとある。松浦の宮とはいまの鏡神社だし、渚は虹ノ松原だろう。すくなくとも脱出の際、船出したのは唐津のようだ。さらに京都に戻ってからの話であるが、こうある。

 この近くに、八幡の宮という神社がありますが、それは筑紫のほうでも、姫君がいつも参詣しては祈っておられた松浦の宮、そして筥崎の宮と、ご神体を同じくする社です。あの肥前を発って来るときも、松浦や筥崎の宮に、多くの願立てをなさっておいでであったし。・・・

すると肥前というのは唐津のことか。唐津からだと、大宰府まで通勤するには絶望的に遠いのだけれど。

さらに混乱させるのは筥崎の宮。基山から参拝するにも唐津から参拝するにもかなり距離がある。というわけで、姫らが住んでいた肥前がどこかは謎である。

平安時代の京都に住む紫式部が九州の地理に精通していないのはやむを得ない。現代のわれわれだって東北地方の地理については似たようなものだ。しかし読みながら、あれ?と思うのである。

  

2022年1月30日日曜日

附子(ぶす)のお話

 

「附子(ぶす)という毒が入っているから、絶対に近づかないように・・・」


さて、ご相談のご予約をいただきましたので、本日は休日出勤。

コロナ禍になってから、ご相談時のお飲み物の提供は控えていますが、自分の休憩用に2リットルペットのお茶を買って事務所に行きました。


が、結局、飲まず。


事務所の冷蔵庫に入れておくことにしましたが、ここで問題が発生。

誰のか分からん。


名前を書いておけばよいのですが、それでは面白くない。関西人の血が許さない。

そこで、こんな感じにしておきました。



これなら誰も飲むまい。


と、ここまで書いて思い出したのが、狂言の「附子(ぶす)」というお話。


主人が2人に留守番を言いつける際、桶の中身の砂糖を勝手に食べられないように、「附子(ぶす)という毒が入っているから絶対に近づかないように。」と言って出かけていきます。しかし、中身が砂糖だと気付いた2人は・・・というお話。一休さんでもありますよね。


狂言の附子(ぶす)は中身が砂糖ですから、そこまでしてお茶を飲もうとする人はいないと思いますけど。

というか、狂言ですから、こっちのお茶は飲んでよいですか、イエスか、ノーか、と聞かれれば、


能(ノー)ではない。


富永

2022年1月28日金曜日

裁判こばなし「あちらにおられましたよ」


新型コロナの感染もまた拡大していますが、いかがお過ごしでしょうか。


この間、裁判所での手続は、民事訴訟や家事調停などで、WEB会議の導入がすすめられてきました。

WEBでの期日ですから、画面上で、裁判官と、相手方の代理人と、当方の顔が映った状態でやります。

代理人弁護士が何人もいる事件では、もう画面が顔でいっぱいです。


裁判がずっとWEBで進行して、証人尋問だったり、調停成立だったり、という必要な局面だけ裁判所に出て行くものですから、今まで何度も期日で顔を合わせていても、裁判所に行けば「どうも初めまして」だったりします。


先日、U先生と共同でお引き受けし、これまでWEB会議で進行していた事件について、裁判所に行くことがありました。


先に事務所を出られたU先生を追いかけて、裁判所に着いた私。

法廷の近くの待合室に座っていると、相手方代理人の先生から「どうも」と声をかけられました。

「U先生なら、あちらの待合室におられましたよ。」


「あ、そうですか、ありがとうございます。」と言って示された方向に向かいます。

「そうそう、その部屋。」

そう言われたあたりに待合室が2つあります。外から見えないようになっていますが、人影はありました。


まず1部屋め。

中をのぞくと、気難しそうな顔をしためがねの男性が2人。

が、残念。U先生はいません。


気を取り直して2部屋め。なんだこっちですか、と思いながらドアをあけると、

中にいたのは、気難しそうな顔をしためがねの男性が3人。


ウォーリーを探せ、状態になりましたが、そこにもU先生はおらず。

う~ん、これまでの画面ごしのやりとりで、伝わっていたのは特徴だけのようです。。。

私の顔が大きすぎたのでしょうね。


富永

都鄙感覚と人権ー玉鬘の旅

 

 『関ヶ原』でだいぶ脱線したけれども、「玉鬘(たまかずら)」の反芻読書に戻ろう。

玉鬘姫は夕顔の娘。夕顔が急死したため、多難な人生を歩むことになる。その多難な人生の大きな部分は九州へ流浪するということ。われわれ九州人からすると、あまり面白くはない。

紫式部は天才だけれども、平安貴族の一人であるから、身分差別はきびしいし、都鄙感覚(都会を無条件によいところとし、田舎を見下す態度)もきびしい。つまり、貴族であっても受領階級は見下しているし、田舎者はバカにしている。いや、実際はそうではなかったかもしれないが、読者層の気持ちを忖度してそのように書いている。

玉鬘は乳母が養育していた。その夫は大宰府の少弐という地方官に着任することになった。玉鬘も連れて行くしかない。そのときの乳母の思案もこんなふうである(先に紹介した林望訳)。

 こうなったからには、やむを得まい。せめてこの姫君だけは行方知れずの母君のお形見として、どこまでもお世話をすることにしよう。・・・筑紫なんて、とんでもない田舎へお連れするについては、都からはるか彼方に下っておいでになる、その悲しいお身の上について・・。

筑紫なんて、とんでもない田舎・・・。とほほ。

ま、ここはそういうふうに描いた方が玉鬘の苦難をより強調することができる、という創作上の仕掛けと考えておこう。

しかしこのような都鄙感覚はいまに至るまで連綿とつづいている。『源氏物語』が古典として読み継がれているせいなのか、それ以前の問題なのか。

怪獣ラドンは阿蘇山の火口から出現した。けっして浅間山からではない。別に富士山から出現したってよいではないか。微妙なところで都鄙感覚が働いている。

連ドラなどでもおなじ。「こんど○○部長、博多に左遷だってよ。」なんて平気で言っている。われわれからすれば、ちょっとそのセリフどうなのってかんじ。紫式部からすれば、東京(板東)だって、とんでもない田舎ではないか。

都鄙感覚が連ドラのセリフどまりであれば問題ない。けれどもきのうハンセン病の偏見・差別問題で触れたように、人権の分野まで及んでくると見過ごせない。

水俣病があれほど長期間放置されたのは東京から遠かったからと言われている。魚が大量に浮いたり、猫が狂ったり、奇病が発生していることは分かっていたが、長らく放置された。

他方、1958年東京で製紙工場排水による江戸川漁業被害が発生した際の国の対応ははやかった。公共用水域の水質の保全に関する法律と工場排水等の規制に関する法律、いわゆる水質二法が制定された。

水俣病の裁判の際には、水質二法で水俣病の発生・拡大を規制できたはずだと主張したが、原因物質がわからなかったのでできなかったなどと国は反論した。隅田川でおなじ被害が起きていたら、そのような反論をすること自体が憚られただろう。

あれれ。優雅な王朝文学の読書をするつもりがまたまた脱線してしまった。優雅な話は来週にもちこし。

2022年1月27日木曜日

行く春を近江の人と惜しみける


 『関ヶ原』では、西東にわかれた原因として、岡田くんと役所広司の喧嘩だけでなく、 近江人と尾張人との気質のちがいを挙げていた。

岡田くん演じる石田三成は近江長浜の出身である。あの有名な逸話、秀吉が鷹狩り中ある寺で休憩したとき、寺小姓がでてきて、まずはぬるい茶をたっぷり、つぎにすこし熱い茶を中量、最後に熱い茶を少量だしたという。あれは秀吉が三成を見いだした逸話という。

対する加藤清正らは尾張時代からの秀吉の子飼い。ということは秀吉の正妻である北政所ねねの子飼いでもある。

近江は中心に琵琶湖があり、天空と景色が大きく開けている。開放的な環境は人の成り立ちにも影響を及ぼすであろう。

舟運が発達し、東海道だけでなく、中山道、北陸道らの結集点であり、物流・人流の拠点であった。算法に明るく、三方よしの近江商人を排出した。そのような近江人かたぎを尾張人は計算高いとして苦々しく思っていたのである。

むかし教科書では文治派と武断派の争いなどと説明されていたところである。北政所ねね殿と淀殿茶々(側室、信長の姪、秀頼の母)の女の争いもからんでいたことだろう。

県民性のちがいといえば一番に思い出すのは、ハンセン病訴訟をどこに提起するのかという議論である。

九州は人権侵害の宝庫である。ハンセン病関係でも国立療養所が、熊本、鹿児島鹿屋、奄美大島、沖縄本島、宮古島に。全国13のうち、5つもあった。九州の人口は全人口の1割程度であるから、療養所の割合が異常に多い。患者狩りをはじめ、差別偏見などの人権侵害の激しさも推し量れるというものだ。

九弁連(九州全体の弁護士会の連合体)全体で人権侵害を告発する訴訟を提起することになっていた。その際まずは、熊本に提訴するのか、福岡に提訴するのか激論をかわした。熊本には療養所がある。福岡には九弁連を動かした原告が在住し、情報の発信地としても優れていた。

なかなか結論を得ることができなかった。最後は原告に訊いてみようということになった。その回答は福岡だった。それじゃ、福岡に・・・とはならなかった。

熊本の弁護士たちが弁護団を割って自分たちは熊本に提訴すると言い出したからだ。いままでの議論は何だったのか?

肥後もっこすという。頑固で譲らない。日本三大頑固の1つだそうである。以来、熊本県人との会話は苦手である。石田三成にも、加藤清正らにたいし同じような苦手意識があったのかもしれない。

芭蕉にもそういうところがあった。蕉風が進化し、晩年は「かるみ」の境地に達した。名古屋の門人たちはついてこれず、近江の門人たちはついてこれたという。自然、晩年は近江人と過ごすことが多くなった。

 行く春を近江の人と惜しみける

きのうの相談者は近江出身者だった。やはりどこかさっぱりしていた。気のせいかもしれないが。

 

2022年1月26日水曜日

武隈の松-玉鬘の旅


 きのうBS-NHKで映画『関ヶ原』をやっていた。岡田准一が石田三成で主役。徳川家康は役所広司。ま、岡田准一と役所広司の喧嘩だ。

役所広司はNHK大河『徳川家康』の織田信長役で強烈な印象を受けた。キレッキレな信長で頭の上から声をだしているような感じ。その役所が徳川家康か~。タヌキぶりがすごい。

そういえば、岡田くんも、NHK大河『軍師官兵衛』で黒田官兵衛をやっていたなぁ。役者はあっちの役をやったりこっちの役をやったりできて、いいなぁ。ま、弁護士も似たようなものか。

岡田くんはそういえば先ごろ、映画『燃えよ剣』で土方歳三をやっていたなぁ。共通点は、どれも司馬遼太郎作品が原作ということだな。

さて、長谷寺に行ったので反芻旅行のため、『源氏物語』の「玉鬘」の段を反芻読書しておこうと思った。もちろん、原文ではなく、『謹訳 源氏物語 四』林望訳・翔文社刊で。

「玉鬘」の前に、「薄雲」「朝顔」「少女」の章段がある。「薄雲」前半は、大井邸に移り住んだ明石の君が幼い娘ひとりを京の二条邸に引き渡すかどうか煩悶し、ついに娘を送りだすくだり。

『おくのほそ道』は漢詩や古歌、そして『源氏物語』などを俤にして書かれているけれども、『源氏物語』もまた多くの古歌を下敷きとして書かれていることがよく分かる。先人の業績をふまえたり、先人の創造した美しいイメージを借りて自己の作品をより美しくするというのは創作に不可欠な作業なのだとあらためて感じ入る。

ついに娘を送り出すくだりを引用する。

 ちょうど片言をしゃべるようになった娘の、その声はたいそうかわいらしい。
 車に乗ると、姫は母君の袖を掴んで、
 「ねえ、乗って、いっしょに」
 と、その袖を引く。母君は、この声を聞くと、もはや涙もせきあえず、

 末遠き二葉の松に引き別れ
 いつか木高きかげを見るべき

 (まだ二葉ほどの幼い松のような姫、これから先長い人生が待っている姫に、今ここで松の根を引くように、引き別れてしまったら、いったいいつ、この姫松が大きな木になったところを見ることができるのでしょう)

 御方は、この歌を最後まではとうてい詠じ切れず、途中から激しくせき上げて泣いた。源氏はそれを見て、〈それはそうであろう、ほんとうにかわいそうに〉と思って、

 生ひそめし根も深ければ
 武隈の松に小松の千代をならべむ

 (こうして親子に生まれてきた、その前世からの因縁も根深いことだから、あの名高い武隈の親松と、この小松とがいずれは千代の長きにわたって一緒に暮らす時もまいりましょう)

 どうか、気を長くもって過ごすのだよ」
 せめては、そう言って慰める。
 昔、藤原元善は、陸奥の守となって下向した時に、武隈の松が枯れてしまっているのを見て、改めて小松を植えたことがあった。やがて任果てて上京の途次、再びこの松を見て、「植ゑし時契りやしけむ武隈の松をふたたびあひ見つるかな」という歌を詠んだと伝えられる。
 源氏は、こんな故事を引きごとにして、いずれは親子いっしょに暮らせるようにしたらいい、と、明石の御方の心を引き立てたのである。

引用が長くなってすみませぬ。さらなる引用で恐縮だけれども、『おくのほそ道』の武隈の段はこう。

 岩沼に宿る。
 武隈の松にこそ目さむる心地はすれ。根は土際より二木に分かれて、昔の姿失はずと知らる。まづ能因法師思ひ出づ。往昔、陸奥守にて下りし人、この木を伐りて名取川の柱杭にせられたることなどあればにや、「松はこのたび跡もなし」とは詠みたり。代々、あるは伐り、あるいは植ゑ継ぎなどせしと聞くに、今はた千歳の形整ほひて、めでたき松の気色になんはべりし。

 武隈の松見せ申せ遅桜

と、挙白といふ者の餞別したりければ、

 桜より松は二木を三月越し

こうしてつなげてみると、歌枕というものがよく分かる。ただの松、しかも先人が見たものと同じ松ではないけれども、それでもかまわない。あるいは伐り、あるいは植え継ぎしてもかまわない。それに依って先輩歌人や歌そのものを召喚し、自らの歌心を呼び覚まし鼓舞してもらえる場所やモノが歌枕なのだ。

2022年1月25日火曜日

ある労働事件

 


 ある労働事件が勝訴的和解で解決した(勝訴的和解とは、こちらの請求を大筋みとめた和解のこと)。・・・以上。

そういわれてもなんのことか分からないので、なぜそうなのかだけを解説する。 

和解条項のなかには、口外禁止条項というのがある。和解の内容を第三者に話してはいけないというもの。本件和解には、この条項が含まれている。なので内容は紹介できない。

労働事件というからには、労働者もしくはもと労働者であったものが会社を訴えるということだ。それが勝訴的に和解したからには、会社側になんらかの落ち度があったということになる。

会社には多数の労働者が働いているから、当該和解の内容が知れ渡ると、他の労働者からもつぎつぎと訴訟を起こされることになる。そこでこれを防ぐために、和解には応じるけれども、口外はしないでくれということになる。

数年におよぶ苦労話をしたいところだが、できない。残念。

などと思いながら、岩合光昭さんの「世界猫歩き」をみていた。猫に関するトリビア知識を紹介する「猫識」のコーナー。そこで、右手を挙げている招き猫と左手を挙げている招き猫のちがいを紹介していた。

右手を挙げている猫はお金を招き、左手を挙げている猫は人(人脈)を招くのだそうだ。ほう。知らなかった。

じゃ、左手を挙げて、右手に小判をもっている猫はどちらなんだろう?


2022年1月24日月曜日

シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々


  『シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々』(J・マーサー著、市川恵里訳・河出書房新社刊)。カナダ人のもと新聞記者(犯罪記事担当)による同書店滞在記である。

シェイクスピア・アンド・カンパニーはこのブログでも2度ほど紹介した。1つはジョイスの『ユリシーズ』のことで。各地で発禁処分となるなか、書店主シルビア・ビーチは勇気をもってこれを出版した。

2つはヘミングウェイの『移動祝祭日』で。ヘミングウェイのパリでの修業時代、やはりいろいろと支援の手を差し伸べた。

書店は、パリはセーヌ川左岸にある。1920年代から1930年代にかけて、ガートルード・スタイン、ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、ジッド、ヴァレリーら名だたる作家や芸術家が出入りした。

『移動祝祭日』のブログ記事のなかで、すこし戸惑ったことがあった。上記書店はオデオン通りにあったとされる。しかしヘミングウェイが歩き回ったパリ左岸を案内した際、ストリートビュー上ではセーヌ河岸からすぐ、ノートルダム大聖堂の南にあったから。

とはいっても近くなので、そのときは、ジュンク堂が建物の建替により仮店舗への移動を余儀なくされているように、なんらかの事情で本書店も移動を余儀なくされたのだろうと考えた。

しかし本書を読むと、じつはそうではないことが分かった。春日に「千太」という店がある。天神にもむかし「千太」という店があった(スポーツセンターのちかくにあり、センターシネマなどとおなじ由来の店だ。)。ま、この両「千太」の関係に似ているとだけ言っておこう。

でもタイトルにあるとおり、新書店においても、シルビア・ビーチ時代をほうふつとさせる「優しき日々」が続いている。欧米人だけでなく、アルゼンチン人や中国人にたいしても、わけへだてなく優しい。やたらと美人が登場するのも魅力だ。いちどお世話になってみたい。それにはまずフランス語会話の習得が必要だろうけど。

2022年1月21日金曜日

おかしい その2

 ちくし法律事務所ブログ: おかしい (chikushi-lo.jp)


おかしい。


自分のパソコンで「たのしそう」と入力すると、

「楽しそう」より先に「他の刺創」が出てきます。


刺された覚えはないのですが。


富永

芭蕉の風景


  ひさしぶりにジュンク堂の仮店舗をぶらぶらしていたら、『芭蕉の風景 上・下』(小澤實著・ウェッジ刊)が目につき、購入した。アマゾン読書では得られない醍醐味だ。

小澤氏は昭和31年長野県生まれの俳人。新幹線によく乗る人はご存じだろうが、ウェッジは新幹線に乗るようなビジネスパーソンむけの月間誌を発行している会社だ。

芭蕉が訪れた地を小澤氏が訪問して解説・体験し、結びに句を披露するという内容。旅心をくすぐる記事として「月刊ウェッジ」に連載されていたのだろう。それをまとめたような本だ。

上巻は紀行文『野ざらし紀行』『笈の小文』『更科紀行』などに関するもの。下巻は『おくのほそ道』などに関するものだ。

『おくのほそ道』について、おなじ行程を旅してみたという趣旨の本は複数ある。なかでも、俳人が書いた文書だけに、この本は読ませどころが多い。

それよりこの本がよいのは上巻。いままで『野ざらし紀行』『笈の小文』『更科紀行』ゆかりの地を歩いたというものは読んだことがなかったので、とても面白かった。

『野ざらし紀行』も『笈の小文』も江戸をでて、途中箱根・富士のことに触れていきなり名古屋辺のことだったりする。芭蕉が伊賀出身であることや、名古屋辺にお弟子さんがたくさんいたことが影響していよう。

おなじ旅程をたどるといっても、むずかしい。曽良のような几帳面な同行者がいて正確な旅日記を残していれば、それに依拠することもできよう。しかし同行者はいるものの、そのような記録は残されていない。

『野ざらし紀行』や『笈の小文』の旅程をたどってみたという本に出会ったことがなかったのは以上のような理由だろう。

この本はそれをどう克服したか。紀行文のほうから攻めずに代表句のほうから攻めて克服している。ときどきの代表句を紹介する、そしてそれにゆかりの地を訪ね、自分の紀行文としてまとめる。ある程度分量がたまったところで、これこれの代表句は『野ざらし紀行』のときのものだ、『笈の小文』のときのものだとまとめるという手法である。

なるほど、これなら旅程をぜんぶたどる必要はない。それでいて、やはり『野ざらし紀行』や『笈の小文』の旅程をたどったような気になれる。

芭蕉に興味がなくとも、名古屋、伊勢、伊賀上野、長谷寺、吉野、高野山、和歌浦、奈良、葛城山、当麻寺、東大寺二月堂、唐招提寺、大津、関ヶ原(不破の関)、大垣、桑名、熱田神社、須磨、明石など関西・中部の観光地や寺院がたくさんでてくる。もちろん雪月花も。楽しく美しい一冊。ぜひご一読を。

2022年1月20日木曜日

今後とも変わらぬご指導、ご鞭撻をお願い申し上げます。

 


 わがちくし法律事務所は1984年4月稲村晴夫弁護士が二日市に個人事務所として開業。2年後に当職が入所して共同事務所になりました。

以来、稲村弁護士の指導のもと38年間筑紫地域に根ざし、自由と正義を求めて活動してきました。幸い地域のみなさまのご支援・ご支持をいただき、いまでは10倍もの陣容にまで成長発展することができました。

稲村弁護士はことし古希を迎え、弁護士をしている二女が小郡で法律事務所を開業されたことからそこに4月から移籍し、当事務所を退所されることになりました。

これに伴い、当職があとを引き継ぐことになりました。地域に根ざし、顧客様の幸せづくりを支援させていただくというこれまでの姿勢に変化はありません。今後、ますます深化させていきたいと考えています。

事務所ニュースの新年号でお知らせしたところ、多くのかたがたからお祝いや激励のメッセージを頂戴しました。感謝感謝。ありがとうございます。

今後とも変わらぬご指導、ご鞭撻をお願い申し上げる次第です。


2022年1月19日水曜日

初観能ー『翁』『福の神』『石橋』

 

 新大阪駅の文楽ポスターの俤(おもかげ)付けで、能観劇の話。

 日曜日は大濠公園能楽堂で観世流の特別公演。昨年いっぱい同能楽堂の耐震工事やコロナ禍のため公演はなく、ひさしぶり。

お能には上掛二流(観世・宝生)と下掛三流(金春・金剛・喜多)の5流がある。

観世流は室町時代の観阿弥が初代。その息子が有名な世阿弥。室町幕府三代将軍・足利義満に認められ、世阿弥が能を完成させた。現在の宗家は二十六世・観世清和氏。昭和三十四年生まれだから、同い年だ。

正月公演なうえに、大濠公園のリニューアル記念公演でもあり、演目は『翁(おきな)』『鶴亀』『狂言 福の神』『老松』『石橋(しゃっきょう)』など、めでたいものづくし。「うわぁ、お能のおせち料理や~(彦摩呂ふうに)」。

『翁』は古態を残していて、〝能にして能にあらず”といわれる。翁、千歳(せんざい)、三番叟(さんばそう)の三役がめでたい謡と舞を重ねる。「うわぁ、めでたい舞の三段重ねや~(彦摩呂ふうに)」。三番叟は、みなさまも柳川さげもんで見たことがあるでしょう。

『福の神』は出雲大社に初詣にでかけた二人組が福の神から生き方の指導を受ける。豊かになりたいという二人にご託宣。いわく、金銀ではなく、心の持ちようという元手が必要であると。なるほど。

〆は『石橋』。中国・インドの仏跡をめぐる寂昭がワキ僧。中国の清涼山をおとずれたところ、深い谷にかかった細く長い石橋が行く手に。橋のむこうは文殊菩薩の浄土。寂昭が渡ろうとすると、生半可な者には渡れないといわれてしまう。

橋上で紅白の牡丹のあいだを紅白の獅子が華麗に舞い遊んで終局。めでたきものとして「唐獅子・牡丹」のとりあわせは有名であるが、典拠はこの『石橋』である。また歌舞伎の連獅子の元もこれ。

登山をしていると「蟻の戸渡り」などという両側が切れ落ちた断崖絶壁を行くことがある。今後そのような場所で牡丹と獅子があらわれたら、先へすすむことを断念するとしよう。

2022年1月18日火曜日

冬の旅(完)-三室戸寺・総持寺





  岩間寺のあと、さらに宇治にある三室戸寺(みむろとじ)をめざした。三室戸寺は10番札所。

 三室戸は、岩間寺から山越えでもいけるだろう。けれども、JR線を利用して石山から京都へ。さらに奈良線で黄檗駅へ。そこから歩いて京阪宇治線の黄檗駅、そして一駅で三室戸駅。駅からは15分ほど東に歩く。

ここらあたり、石山寺のまえを南下していた宇治川がV字型に流れを変え、北上してきている。ひょっとすると石山寺のまえを流れていた一滴といままた再開できるかもしれない。

ふきんには萬福寺や平等院がある。それらの社寺はなんどか訪ねたことがあったが、三室戸寺があることは知らなかった。

坂道をえっちらおっちら登ると、なんと29~31日まで休みという標示。われわれだって年末年始は休みだから、お寺が休みをとったとて文句を言える筋合いではない。残念。

しかたない。グーグルマップ・ストリートビューでなんちゃって参拝をしよう。グーグルマップ×三室戸寺で検索、ストリートビュー機能にし、寺の入口にセットすると一番上の画面が表示される。そこから寺のなかを順次参拝した。

すべての寺のなかに入れるわけではないけれども、この冬の旅でいえば、ここのほか、最初におとずれた谷汲寺のなかに入ることができる。いちどお試しあれ。

しかたないので戻る。往路を戻るのでは面白くないので、直接JR黄檗駅をめざす。途中、茶畑があった。宇治茶である。

 つぎに茨木にある総持寺(そうじじ)をめざした。22番札所。京都駅から新快速で高槻、普通に乗り換えて総持寺駅で下車。すると、なぜか自動改札を通過できない。二日市~名古屋の往復キップの復路券1枚で、名古屋、大垣、能登川、大津、京都と乗降を繰り返してきたので、自動改札機が判断できなかったのだろうか。

しかたなしに窓口に行くと、なんと無人駅。こんな大きな駅まで無人とは恐れいる。駅や空港がすべて無人に(AIに)なる日も遠くないだろう。ブレードランナーの世界だ。呼出ボタンを押すも反応がない。あきらめて帰ることにした。新大阪まで普通、そこから新幹線に乗換え。

駅には文楽の大きなポスターが。「また来てね。」と、文楽人形が呼びかけてくれた。やはり人の手で操れるものはいい。とてもあたたかく安心できる。

2022年1月17日月曜日

冬の旅(6)-岩間山正法寺

 



 近江八幡駅に戻り、西へ向かって石山駅で下車。つぎの目的地は西国12番札所の岩間山正法寺。

バス便だと中仙町から徒歩50分なうえ待ち時間がだいぶあったので、タクシーを利用した。運ちゃんに正法寺というもピンとこず、岩間寺というとピンときた。

石山寺の前を通って瀬田川沿いに南下、京滋バイパスと直行するところをバイパス沿いに西へ。中仙町バス停から右折して岩間山の山道へ。くねくねとしばらく行くと、岩間寺の駐車場に着いた。

駅からはかなり遠い。しかし10番札所の御室戸寺、11番札所の醍醐寺(上醍醐)からは意外と近い。むかしはこのあと13番札所の石山寺まで歩いたのである。

岩間寺は奈良時代に泰澄がカツラの樹から千手観音を削って本尊としたのがはじまり。境内には古樹や夫婦カツラもある。カツラはリズミカルな葉の並びや秋の甘い香りが大好きだ。

寺の右手には「芭蕉の池」があり、芭蕉が古池やの句を詠んだとされる。芭蕉がこの句を詠んだのは深川のはずなのだけれども、このような伝承は各地にあるらしい。

芭蕉(写真はJR石山駅前のもの)のゆかりといえば、ちかくに幻住庵跡がある。岩間山と石山寺の中間あたり、国分山にあった。俳文「幻住庵記」のなかに、岩間寺もでてくる。

 石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ。そのかみ国分寺の名を伝ふなるべし。

幻住庵は福岡とも縁がある。久留米髙良山の僧正に芭蕉が幻住庵の額の揮毫を依頼して入手しているから。いわく。

 筑紫髙良山の僧正は、賀茂の甲斐何某が厳子にて、このたび洛にのぼりいまそかりけるを、ある人をして額を乞ふ。いとやすやすと筆を染めて、「幻住庵」の三字を送らる。やがて草庵の記念となしぬ。

幻住庵は風光明媚だったようだ。琵琶湖はもちろん、比叡山、比良山、三上山ものぞむことができた。

 比叡の山、比良の高根より、辛崎の松は霞こめて、城あり、橋あり、釣たるる船あり、・・・中にも三上山は士峰の俤に通ひて、武蔵野の古き住みかも思ひ出でられ、田上山に古人をかぞふ。

「幻住庵記」末尾の句はこれ。

 先づ頼む椎の木も有り夏木立

西行が吉野山のトチ、須賀川の栗齋が栗を頼みとしたのにならい、芭蕉もシイの古木の霊力を頼みとしたのだろう。

いちばん下の写真の句碑は久留米城跡のもの。先の扁額つながりだろうか、蕉風が久留米までおよんでいたことを示すものだろう。

2022年1月16日日曜日

読めるかな?

 

ある日、裁判の準備書面を書いていたときのこと。


裁判所に提出する書面は、どの事件に関するものかが分かるように「事件の表示」(民事訴訟規則2条1項2号)をしなければいけないルールです。

各事件には、事件記録符号、というものがあります。


令和4年(ワ)第100号、みたいなものです。裁判所が事件を管理するためにつけている符号です。

第100号、は受付の順番です。

では、(ワ)とは何かご存じでしょうか?


これは、どういう種類の手続なのかを示す記号です。

(ワ)は、地方裁判所の通常訴訟事件。

民事事件記録符号規程、というルールで細かく決まっています。

民事事件記録符号規程.pdf (wikimedia.org)

ちなみに、民事はカタカナ、刑事はひらがな、です。


民事事件記録符号規程を見ていて、ふと、「これだけ多ければ、暗号つくれるのでは?」という、どうでもいいことを思いついてしまった私。

さて、読めるかな?


「簡易裁判所 過料事件」

「簡易裁判所 商事調停事件」

「簡易裁判所 再審事件」

「地方裁判所 民事雑事件」

「最高裁判所 民事雑事件」

「地方裁判所 不動産、船舶、航空機、自動車、建設機械及び小型船舶を目的とする担保権の実行としての競売等事件」

「高等裁判所 鉱害調停事件」”


富永





2022年1月14日金曜日

冬の旅(5)ー大津・長命寺

 







 29日は大津に宿泊。翌朝は、ホテルの窓から日の出がみえた。前面道を右にのぼっていくと国道1号線となり、近江と山城の境にある逢坂の関跡がある。百人一首・蝉丸の歌で有名。

 これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関

芭蕉が「野ざらし紀行」で「大津に出る道、山路をこへて」つぎの句を詠んだのも、このあたり。

 山路来て何やらゆかしすみれ草

大津から新快速で東に戻って近江八幡駅で下車。前日にひきつづき西武バスの外観の湖国バスに乗る。近江八幡やヴォーリズ建築など観光スポットをスルーして長命寺をめざす。

車窓から東のほう、安土山をのぞむことができた。むかしの巡礼者は長命寺からここらへんを歩いて観音正寺に向かったはずだ。

終点・長命寺港のバス停で降りる。琵琶湖が美しい。湾をはさんで遠く三上山がこれまた美しい円錐形をみせている。

そこからは長い長い長い石段。808段もあるらしい。宝満山の難所に百段ガンギという石階段があるが、その8倍である。末広がりというより、末バテしそうだ。

前日のような雪はないが、なかなかな急勾配である。ちかくの大学生たちが5人ほど後ろから追いついてきた。こちらも負けじとペースをあげる。むこうが先に根をあげて途中休憩した。よし、勝った。いやいや、勝ち負けじゃないから。

長命寺は西国31番札所。やはり聖徳太子が開基。太子が刻んだという千手十一面観音が本尊。秘仏である。

本堂脇には「琵琶湖周航の歌」碑がある。

 西国十番 長命寺
 汚れの現世 遠く去りて
 黄金の波に いざ漕がん
 語れ我が友 熱き心

今津や彦根など湖畔で歌碑をみたことがあったが、このような山中にあるとは意外だった。ま、歌詞が長命寺のことを歌っているから当然といえばそうであるが。

境内の奥にすすむと太郎坊権現社がある。太郎坊は大天狗である。先ほどの大学生たちもあがってきた。拝殿の左手前に大きな石がある。むかしの磐座だろう。大学生のひとりが腰掛けて、雄大な琵琶湖の絶景をながめている。おそらく熱き心で。

2022年1月13日木曜日

「home」

 

事務所で遅くまで仕事をしていたときのこと。


いつも何の気なしに聞いている事務所の有線の音楽。

ふと聞いてみると、木山裕策さんの「home」。


「か~え~ろうか、もう帰ろうよ」のメロディ。


これ、決まった時間に流れるようにすれば残業減らせるかもですね。


はい、分かりました、もう帰ります。


富永



しまった・・・

 


1月12日(水)19時から、筑紫野市生涯学習センターにて、「事例で考える相続問題」と題して、法律セミナーを行いました。


サ●エさんの家系図を例に、相続の流れや相続人の順位など、基本的なお話をさせていただきました。

ちくし法律事務所ブログ: 相続法の勉強の悲劇 (chikushi-lo.jp)


ご参加いただいた皆さま、ありがとうございました。


さて、自己紹介で、何を話したものか、と思い、

「事務所のブログを書いています。弁護士とは思えない、しょうもない話をたくさん書いていますので、よければ検索してみてください。」

と口走ってしまいました。しまった・・・


最近の投稿は、U先生のものが多いです。誤解のないよう、訂正させていただきます。


「弁護士とは思えない、しょうもない話」を読まれたい方は、「ウェブバージョン」からラベルの「富永」をクリックして下さい。


富永


冬の旅(4)ー観音正寺・観音寺城跡






 

 谷汲寺のつぎに目指したのは近江の32番札所、観音正寺。

 大垣で樽見鉄道を降り、JR東海道本線に乗り換える。米原行き普通。岐阜県と滋賀県を結ぶ路線で、そのような感じの乗客たちだ。車窓に濃尾平野の景色が広がる。

荒尾のつぎは垂井。竹中半兵衛の里とある。豊臣秀吉の軍師。秀吉が三顧の礼をもって迎えたという。

そして関ヶ原。若いころ、古戦場周りをしたことがある。桶狭間、備中高松城跡や山﨑・天王山などとともに関ヶ原も思い出深い。東西両陣営の武将の陣取りまで分かるというのが驚きだ。

いまなら芭蕉の旅を追想するために、途中下車したいところだ。「野ざらし紀行」に不破と前書きして、つぎの句がある。

 秋風や藪も畠も不破の関

残念ながらきょうは通過。そして岐阜と滋賀の県境をなす山体をトンネルでくぐりぬける。近江長岡。伊吹山の登山口だ。北側に伊吹が霞んでいる。

醒ヶ井を経て、米原。米原では湖北から北陸へむかう電車が停まっている。そちらにも後ろ髪ひかれながら、播州赤穂行き新快速に乗り換える。

トミーの故郷は雪におおわれている。雪かきは進んでいるようで、数日後に予定されている帰省はだいじょうぶだろう。直虎ちゃんは元気だろうか。

能登川で降りる。10分ほど待って、近江鉄道・湖国バスの八日市駅方面行きに乗る。なんと西武バスの外観。近江鉄道は西武の資本下にあるようだ。

10分ほど乗って観音寺口で降りる。寺は繖山(きぬがさやま)の山上にある。谷汲寺とちがい参道は除雪されておらず、雪の山道を登る。ローカットの靴だったので、雪が入り込み往生した。

しかし林が切れたところからは、雪化粧をした湖南の平野や冠雪をした伊吹山をのぞむことができた。美しい景色に深く癒やされた。

本堂にお参りする。堂内拝観の案内をしてくれる。なかに入るまえに、観音様とご縁を結ぶミサンガを腕に結んでくれる。

残念ながら、本堂は平成5年に焼失、その後再建されたそうだ。本尊の千手観音座像は、インドから白檀を苦労されて輸入して製作されたもの。

お身拭いをさせていただく。千手にたくさんの持物をお持ちであるが、芸事が達者になるとか、腕力が強くなるとか、それぞれに意味があるそうだ。

本寺は人魚の願いにより聖徳太子が創建したという。かっては人魚のミイラがあったらしい。これも焼けてしまい、写真をもって説明を受けた。

本堂の背後、300メートルくらい入ると観音寺城跡がある。日本五大山城の一つ。壺阪寺は日本三大山城の一つ、高取城の麓にあった。西国三十三所は山城となりうる要害にあったということだろう。

観音寺城は国盗り物語や信長の野望にでてくる。近江佐々木六角氏の城である。上洛しようとする信長を六角氏が敵対し、じゃましようとするのである。

また南北朝の争いの戦場にもなっており、太平記にもでてくる。古くからの要害である。

地図をみれば分かるとおり、観音寺城跡がある繖山を北にたどると、信長の安土城跡のある安土山に地形的につながっている。近江を支配するに便、守るに要害の地であったということだろう。

参道にも人生を学べる札が並んでいた。ありがたい。

 人間は逆境にきたえられて
 自信と確信が生れる

2022年1月12日水曜日

冬の旅(3)ー樽見線

 



 戻りも樽見線を利用する。谷汲口駅。もとはここから門前町までも列車が走っていたようだ。でも廃線になっている。

駅周辺はいまだ除雪されていない。南には雁俣山がのぞめる。例の石灰岩の山だ。伊吹山とおなじころ太平洋の海底でサンゴ礁だったのだろう。ここを削って住友がセメントをつくっていた。

駅の東側にはヤドリギがいっぱいの樹。ヤドリギは寒いのに青々としている。強く旺盛な生命力を感じさせる。むかしから人はこの生命力に感じいってきたのだろう。

ヤドリギはフレイザーの『金枝篇』でいう金枝のこと。大学教養部時代、社会人類学のサブテキストになっていた。王殺しを許されるのは逃亡奴隷だけ、そして金枝を所持していなければならなかったという。

クリスマスにNetflixで「ラブアクチュアリー」をみていたら、西洋ではやはりこの木の下でキスをしてもよいらしい。バレンタインデーとおなじく、いま一歩踏み出せないカップルの背中を押すための仕きたりだろう。生命力の不足をヤドリギに援助してもらうのだろうか。

などと考えていたら北から車両が接近してきた。往きとおなじものだ。終点の樽見まで行って折り返してきたようだ。にわか鉄ちゃんに変身して激写する。

乗車してつぎの駅は木知原(こちぼら)。そこをすぎると車窓右手に根尾川が流れている。福井県は能郷白山を水源とし、東大垣で揖斐川と合流する。正面は雁俣山。河原に雪を残した風景が美しい。右奥の谷を詰めたところが谷汲寺だ。

2022年1月11日火曜日

冬の旅(2)-谷汲山華厳寺

 







 大垣駅から樽見鉄道に乗る。1984年国鉄から三セクに移行。住友大阪セメントの輸送に使っていたらしい。途中、綾部駅から西に石灰岩の採掘跡が見えるが、あそこででセメントを作っていたのだろう。

いまはセメント輸送にも使用されず、客車が一両のみ。ご多分にもれず経営は苦しいようで、いろんな企画列車が走っている。一本前はプラレールのラッピングがしてあったが、これはどなたか社長の顔が標識板に掲げられている。

東大垣駅をすぎてしばらくすると、揖斐川を渡る。西側がおおきく開ける。前山の奥、冠雪した伊吹山が美しく輝いている(ワンクリックして拡大すると、11時の方角に)。

40分ほどで谷汲口駅。バスに乗り換え10分余。そこからまた10分ほど門前町を歩くと山門前に着く。途中、雪かきが精力的に行われていた。

谷汲寺は正式には谷汲山華厳寺。天台宗の寺院で、本尊は十一面観音。西国三十三所の三十三番目の札所である。三十三所のなかでは、唯一近畿地方以外にある。

ガイドブックによると、西国三十三所めぐりはどの寺からはじめてもよいとされている。しかし昔は1番から順番に徒歩にて巡礼したようである。そのため満願の寺とされている。

いまの世で1番から順番に巡礼しないといけないとなると、途中で挫折する人が続出してしまう。全集ものや、上中下三巻もののうち、最初だけ読んであとは読まないようなものだ。

そのためどこから初めてもよいことになっているのだろう。そうでなければ谷汲寺を参拝する人は半減してしまう。自身もいきなり最終回の本寺を参拝することはできなかった。

華厳とは、多くの修行・功徳を積んで徳果が円満にそなわり、仏になること。まさにこの寺の名にふさわしい。雪がふったあとであり、いつもとちがう風景に接することができた。ありがたい。


2022年1月7日金曜日

冬の旅(1)ー大垣

 




 年末年始は雪山にこもって修行と反省と感謝をする予定だった。しかし大雪が予想されていた。仕事納めの朝の天気予報でもそうだった。実際、トミーの実家のある近江では70センチも積もったらしい。

やむなく雪山は中止。山小屋に電話をかけてすべてキャンセルした。名古屋に前泊する予定だったので、その予約だけを残し、名古屋から大阪方面へ「冬の旅」をすることにした。

主には西国三十三所めぐりである。岐阜には満願となる三十三番札所がある。そこを手はじめに、いくつかの札所をめぐることを考えた。

これには2つの経緯がある。1つは、四王寺山の三十三石仏めぐりとの関連。コロナ禍のなか遠出が憚られる折に、よくめぐるようになった。

起源は江戸時代。西国三十三所の札所の土を集めて、四王寺の山上に整備したらしい。甲子園の土を記念に持ち帰るようなものだろう。

江戸時代の庶民は旅行など手軽にできなかったろうから、身近な巡礼路として歓迎されたのではなかろうか。そのご利益がコロナ禍のわれわれにまでおよぶことになろうとは。

ご用納めの日には事務所会議も開かれ、例の近況報告もなされた。担当だったので、そのように報告した。札所の土をもちかえるよう提案がなされたが、「もちかえってよいのは写真だけ」と回答。

経緯の2つはこうだ。本ブログでも報告したとおり昨年10月、岐阜県にある二百名山の能郷白山に登った。アプローチは大垣から樽見鉄道を利用。その途中、谷汲口駅で停車した。あとで調べたら、三十三番札所が谷汲寺といい、その入口という意味だった。

浅からぬご縁を感じた。いわゆるシンクロニシティだ。むろん科学的には単なる偶然の一致である。

しかし、考え方は2つに分かれる。1つは偶然の一致だから、意味はないと考える途。もう1つはなにかの導きであり、とても意味があると考える途。もちろん後者の途を選択している。そのほうが幸せになれるから。

宗教を信じている人と信じていない人とでは、前者のほうが幸せ度が高いそうだ。それはそうだろう。科学的に証明されなくても、来世があると信じたほうが安らかに生き、安らかに死ねるだろう。自身、来世があるとまでは信じていないけれども。

ということで28日は名古屋で宿泊し、翌朝、谷汲寺をめざした。東海道線で北上し、大垣駅で樽見鉄道に乗り換えだ。ところが乗換まで1時間の待ち時間があった。

やむをえず、昨年10月につづき、大垣市内めぐり。大垣城を経由して「おくのほそ道むすびの地」へ。そこで芭蕉と木因がでむかえてくれる。

芭蕉はそこから舟に乗って南(伊勢)にむかう旅だった。それを示すように、川べりには住吉燈台と鵜飼舟が。

こちらは水門川沿いを北へ戻る。川が東に向きを変えるところに八幡神社があり、句碑が建っている。

 折々に伊吹を見ては冬籠り

建物がたてこんでいて、さすがに神社からは伊吹が見えない。どこか見えるところはないかなと歩いていると、駅前を流れる川ぞいに冠雪した伊吹が見えた。美しい。

マンホールのデザインもむすびの地だ。住吉燈台と舟。それにサツキがあしらわれている。花の季節にまた来たいな。