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2023年12月14日木曜日

セイレンに誘惑されたい@スタバ

 
京都駅ビルでみかけたスタバのロゴマーク

『ユリシーズ』第2巻目次  

 スタバのロゴマーク。セイレンをデザインしたものと、最近知った。そういわれれば、そうだ。

セイレン。古代ギリシア神話に登場する海の怪物。人魚のような半人半魚の姿。美しい歌声で船人を惑わし、船を座礁させる。救急車などに使われるサイレンの語源である。

英雄オデュッセウスは、トロイア戦争を勝利に導いた。戦後、ギリシアへ帰還する航海の途中、セイレンのいる難所を通過しなければならなかった。

耳栓をすれば難を逃れられるが、人を虜にするという美しい歌も聴いてみたい。知恵者オデュッセウスは、他の船員には耳栓をさせ、自分だけ帆柱に縄でしばりつけさせて、セイレンの歌を聴いた。歌を聴いた結果、「縄を解け!」「セイレンのところへ行かせろ!」と大騒ぎになったことはいうまでもない(『オデュッセイア』)。

20世紀最大の小説といわれる『ユリシーズ』。ユリシーズはオデュッセウスの英語読みである。『オデュッセイア』を下敷きにしているから、11章には「セイレン」の話が出てくる。

舞台はオーモンド・ホテルのバー。ブロンズとゴールドの二人の女給がセイレンに擬され、男たちがその魅力に惑わされる設定である。しかし、そこはジョイスであるから、男衆もそう簡単に挫傷しない。

スタバのロゴは、もちろんセイレンの伝説を踏まえている。珈琲の香りで道行く人たちを誘惑するため、セイレンを採用したらしい。

これまでスタバにこだわりはなかった。が、この話を知った以上、その誘惑に乗って挫傷することが多くなりそうだ。耳栓ならともかく、鼻栓はかっこ悪いし。

2023年8月21日月曜日

『ユリシーズ』と『エデンの東』と『風と共に去りぬ』と『街道をゆく「愛蘭度(アイルランド)紀行」』と(2)

 
 

 『ユリシーズ』第7章「アイオロス」につぎのくだりがある。

 風とともに去った。マラマストに、諸王のいたタラに、大群衆がつどう。入口のある耳が何マイルもつづく。民衆指導者が吠え、言葉が四方の天風に乗って散った。民衆はその声のなかに身を寄せた。・・

いままでこれを読んで不思議に思っていた。「風とともに去った」「タラ」という2つのキーワードがどうしても『風と共に去りぬ』を想起させる。「タラ」というのは、『風と共に去りぬ』ではスカーレットの実家の屋敷のことだ。でも時代も場所も違う。偶然の一致だろうか?

「風とともに去った」には訳注が付されている。世紀末の詩人アーネスト・ダウスン(1867-1900)の詩「私はやさしいキュナラの言うままであったときの私ではない」より。

「タラ」の訳注はこう。タラはダブリンの北西33キロ余りの地点にある丘。古代アイルランド王の城址がある。1843年、「民衆指導者」ダニエル・オコネルはこれらの土地のほか各地で連合法撤廃の大集会を開き、イギリス政府に圧力をかけたが、同年10月投獄されて運動は挫折した。

これら訳注を読んでも、『風と共に去りぬ』との関連は謎だ。謎は謎のまま、調べもせずに放置していた。ところ、先日NHK BSで司馬遼太郎の『街道をゆく「愛蘭度(アイルランド)紀行」』を行くをやっていた。これを見て得心がいった。

オリバー・クロムウエルをご存じだろうか。われわれ憲法を学んだものにとって、かれは人権闘争の歴史のうえで英雄の一人である。かれはピューリタン革命を指導したからである。

ピューリタン革命とは、「世界史の窓」によればこう。「1642年から49年に至る、イギリスのステュアート朝絶対王政に対して、議会の中心勢力であったジェントリが国王の専制政治を倒し、宗教的自由を求めて立ち上がった。彼らはピューリタンが多かったので、ピューリタン革命(清教徒革命)という。この革命によって国王チャールズ1世は処刑され、共和制が実現した。」

世界史や憲政史ではここまでしか学ばないけれども、クロムウエルにはさらに黒歴史があったようだ。上記勢いにまかせてアイルランドに遠征し、カトリックの信者とみれば誰彼かまわず虐殺し、アイルランドを植民地にしたという。

以来、アイルランドでは繰り返し独立闘争が繰り広げられた。しかしアイルランド人は100戦100敗の民であるという。先の「民衆指導者」ダニエル・オコネルによる運動の挫折もその一つだ。しかしアイルランド人は主観的には負けていない。主観的には100戦100勝らしい。つまり、不屈の精神をもつ。

その際、不屈の精神の拠り所となったのがタラの丘である。古代アイルランド王が依拠した土地で、日本でいえば飛鳥とか天の香具山みたいなところだ。

『風と共に去りぬ』の著者マーガレット・ミッチェルも、その主人公スカーレット・オハラもアイルランド移民だ。

スカーレットは南北戦争にも負け、アシュレーとの恋愛、レット・バトラーとの子育て・恋愛にもことごとく負ける。しかし屈しない。その背景にはアイルランド魂とその象徴としてのタラの丘があるのだ。

ミッチェルの『風と共に去りぬ』も、前記アーネスト・ダウスンの恋愛詩シナラからの引用という(詩の題名の違いは不明)。

といったことがよく分かった。司馬遼太郎という思わぬ援軍である。ジェイムス・ジョイスの『ユリシーズ』の理解も深まった。

おまけ。米大統領ジョン・F・ケネディやロナルド・レーガンもアイルランド系。映画監督ジョン・フォードも。さらにビートルズもアイルランド系らしい。なるほど。

2023年8月18日金曜日

『ユリシーズ』と『エデンの東』と『風と共に去りぬ』と『街道をゆく「愛蘭度(アイルランド)紀行」』と(1)

 

 ジェームズ・ジョイス『ユリシーズ』をなんどめか読み返している。読書百遍の効果もわずかばかり感じられるけれども、あいかわらず難解。

普通の小説との最大の違いは文体。文体が千変万化し、一章ごとに新たな戦い(文体との)が待っている。しかし、内容もやはり難しい。

ホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』、その他ギリシアの古典・思想、旧約・新約の聖書、キリスト教の歴史(カトリックとプロテスタント、イギリス国教会)、エジプト・ギリシャ・ローマの歴史、アイルランドの歴史(とくに植民地からの独立運動)・文学、イギリス帝国の歴史・文学,シェークスピアの人生と著作、ユダヤ教、ユダヤ人の歴史など膨大な情報が踏まえられている。

これらに前提知識に精通していいないと、ちゃんと理解できない。そのため、集英社文庫の丸谷才一ら訳には膨大な訳注がふされている。たいへん便である。が、それらをいちいち参照していると意識の流れがそちらへ行ってしまって、本文の流れを見失う。困ったもんだ。

たとえば、第7章「アイオロス」。『ユリシーズ』は1904年6月16日(木)ダブリンにおける平凡な市民ブルームの一日が描かれている。ブルームの仕事は新聞の広告とり。

平凡な一日なのだが、背景には『オデュッセイア』におけるユリシーズの冒険が踏まえられている。アイオロスというのは『オデュッセイア』にでてくる風の神の名だ。

「アイオロス」の舞台は新聞社。そこで3人の主人公のうちブルームとスティーブンが出会いそうで出会わない。スティーブンが来社した際、ブルームは広告とりに出かけてしまう。

その際、アイオロスの生まれ変わりというか、すくなくともアイオロスに擬されている編集長がブルームの背中をおして、こういう。

 -行け!と彼は言った。世界はきみの前に開けているぞ。

この点について、丸谷ほかの訳注にはこうある。ミルトンの『失楽園』の結びに「世界は二人の前に広く開けていた」とある。「二人」は楽園を追放されたアダムとイヴ。

この訳注はこれでよいのだろうか。丸谷らの訳には、多方面から批判がある。原典が難解なのだから、やむを得ないのであるが。

「世界はきみの前に開けているぞ。」ときいてぼくが思い浮かべるのは、『エデンの東』のラストシーンだ。『エデンの東』はジョン・スタインベック原作。ジェームス・ディーンが主人公キャルを演じる映画が有名。しかし、ぼくが強い印象を受けたのは米国テレビドラマ版。

キャルは、粗暴な言動から八方塞がりな状況に陥ってしまう。孤独感からそのような言動をしてしまうのだけれども、まわりの理解は得られない。兄は出生の秘密を知ったショックから出征し、父はそのショックで脳出血に倒れてしまう。かくて、すべての道が閉ざされているように感じられた。

そうしたティムに対し父は、言葉も不自由ななか、こう言って背中を押す。

 「ティムショール(ティムシェル)。」

意味は「道は開けている」。旧訳聖書・創世記「カインとアベル」に由来する。

そもそも『エデンの東』は、「カインとアベル」を踏まえている。カインとアベルはアダムとイヴの息子たちで兄弟。それなのにカインはアベルを殺してしまう。人類最初の殺人。

近時、兄弟姉妹の遺産分割協議が激烈化していると感じる。しかし旧約の時代からそうなのだと知るとなんだか慰められる。

弟を殺したカインに対し神が言った一言が先の言葉、「ティムショール」である。

前記「-行け!と彼は言った。世界はきみの前に開けているぞ。」の訳注としては、こちらを紹介すべきと思われるのだが、いかがなものであろうか。

(旧約はもちん『失楽園』も、『ユリシーズ』も、『エデンの東』さえも原典で読んではいないので、思わぬ間違いがあるかもしれないが)。

2023年5月31日水曜日

『街とその不確かな壁』と『ニーベルングの指輪』と『ユリシーズ』(2)

 
 NHK・eテレで「クラシックTV」を毎週見ている。

クラッシック音楽のビギナーに贈る音楽教養エンターテインメント番組。ピアニストの清塚信也と歌手・モデルの鈴木愛理が、ゲストとともに幅広い音楽の魅力を「クラシック音楽の視点」でひもとく。とされている。

さる事情があって見始めたが、いまではすっかり清塚信也と鈴木愛理、あるいは番組スタッフたちの術中にはまってしまっている。

先日のテーマは「リヒャルト・ワ-グナーの魅力」だった。ゲストは音楽プロデューサーの蔦谷好位置と指揮者の沼尻竜典。ゲストの選定も絶妙で、彼らの立ち位置も好位置である。『ニーベルングの指輪』の解説が竜典というのは偶然にしてはできすぎている。

リヒャルト・ワグナーを一言でいうと、アガスペらしい。アガペーとスペクタクルの略。強烈な個性のワグナー作品の全部を30分番組に詰め込むのは無理がある。そのため、『トリスタンとイゾルデ』と『ニーベルングの指輪』の触りだけ紹介。

『ニーベルングの指輪』は、断片的に聞いたことがあるだろう。しかし全部聴いたという人はそう多くなかろう。もちろん筆者もない。なにせ、普通に演奏すると全部で15時間、4日間を要する大作である。

『ラインの黄金』、『ワルキューレ』、『ジークフリート』、『神々の黄昏』からなる。ラインの黄金でつくられた、世界を支配できる(しかし、手にした者を不幸にする)指輪の争奪戦。争奪戦に参戦するのは神、巨人、英雄、竜たち。つまり、要約すれば、映画『ロード・オブ・リング』と同じ話である。

英雄ジークフリートは、折れた魔剣を鍛え直して竜(大蛇)を退治し、指輪を手に入れる。番組で、その竜退治の場面が紹介された。15時間のなかでそこだけ切り取るのだから、有名な場面なのだろう。ジークフリートの決めゼリフはこれ。

 ノートゥングがお前の心臓にささったぞ!

ノートゥングはもちろん魔剣の名。ワーグナーの楽劇の素晴らしさはおくとして、この場面にはちょっと感動してしまった。わが心臓にもささったぞ!

なぜなら、『ユリシーズ』の15章「キルケ」のなかに、この場面を下敷きにしたくだりがあるから。ただし、魔剣を振るうのはスティーブンである。

スティーブンは、『ユリシーズ』の3人の主役の1人。ジョイスの分身といわれる。

当時、アイルランド・ダブリンは、大英帝国の植民地であり、かつ、ローマカトリック教会の精神的奴隷であった。スティーブンは、小説家となることにより、あるいは、ヨーロッパ大陸に脱出することにより、そのような状況から状況から脱出し、自由を獲得しようとしている。

スティーブンは、臨終の床で、カトリックを信奉する母親から、祈りを唱えるよう迫られるが、これを断ってしまう。それが心の傷になっている。

スティーブンが祈りを拒んだのは、カトリックの信仰や体制が、自分やダブリンの人々の精神的自由を支配し、麻痺させていると考えていたから。彼にとって、カトリックの信仰を強要する母は、カトリック体制の手先でもある。彼は母を愛してもいるから、いわば義理と人情の板挟みである。

ベラの娼家で、スチーブンもいろんな幻覚を見る。最後のほうで、亡き母親があらわれる。そして、やはりここでも彼に信仰を強要しようとする。

 (ゆっくり両手をよじり合わせ、絶望の呻きをあげて。)
 おお、イエスの聖心よ、この子を憐れみたまえ!この子を地獄から救いたまえ、おお、神の聖心よ!

これに対し、スティーブンは両手でトネリコのステッキをふりかざし、シャンデリアを打ち砕いて、叫ぶ。

《ノートゥングだ!》

スティーブンは、カトリックや母の束縛から自由をめざすため、魔剣ノートゥングを振るったのである。尾崎豊が自由をめざすため、盗んだバイクで走り出したようなものだ。

ワーグナーは、ライトモチーフを創案した。キャラクターごとのテーマ音楽のようなものだ。キャラクターが登場する前でも、音楽が流れればその登場が予告される。いまやRPGなどで、われわれには馴染み深い。

http://konton.cside.com/midi/ring.html

剣にもライトモチーフがある(ジークフリート6)。それは音階が上昇していくものだ。先の指揮者の沼尻竜典によれば、剣は「あれ」の象徴でもあるそうだ(eテレゆえか、詳しい説明はない。)。「あれ」って、あれのことだろうか?気になる。

ライトモチーフは、繰り返し変奏され、『ラインの黄金』、『ワルキューレ』、『ジークフリート』、『神々の黄昏』の各話を結んでいる(らしい)。もっと音楽の素養と忍耐力があれば、21,103円でDVDを購入したいところだ。われこそは音楽の素養と忍耐力ありというかたは、どうぞ存分に楽しんでくだされ。

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%81%AE%E6%8C%87%E7%92%B0-%E6%A5%BD%E5%8A%87-DVD-%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%82%B9-%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA/dp/B00005FHG2/ref=sr_1_7?keywords=%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%81%AE%E6%8C%87%E7%92%B0&qid=1685490982&sr=8-7

2023年5月30日火曜日

『街とその不確かな壁』と『二―ベルングの指輪』と『ユリシーズ』(1)

 

 高校時代の友達がSNSで、村上春樹の新作が面白かったというので、『街とその不確かな壁』(新潮社刊)を読んだ。

これまでの作品とテーマも手法もおなじように感じられた。同工異曲(失礼!アバウトな性格なうえに加齢してしまい、たいがいのものが同工異曲に感じられる。)。だが、ハルキストにとっては、これがたまらないのだ。文章は洗練され、展開はとても滑らかである。

若いころの彼女との関係で受けた心の傷を、現実の世界と無意識の世界を往来しながら癒していく(のだと思う)。河合隼雄の分析心理学による治療を読書により受けるようなものだろうか。

先に村上春樹の『ドライブ・マイ・カー』のことを書いた。子を失い、妻を失った心の傷をマイ・カーをドライブしてもらいながら癒されていく男の話だった。

同種の傷を抱える読者は、小説を読み進むうち、主人公とともに、おのれの傷も癒されていく。

広大な無意識の世界はフロイトにより発見された。ユングは彼の影響を強く受けつつも、独自の分析心理学を確立した。河合隼雄はその弟子筋にあたる。

ユングやフロイトは意識ではなく、無意識にメスを入れることにより、患者を癒そうとした。ユングの無意識はフロイトよりユニバーサルで、神話の世界などともつながっていく。

フロイトが精神分析を創始したのは19世紀の世紀末。マルクスやダーウィンとともに20世紀の思想に大きな影響を与えたとされる。

20世紀小説の最高峰の一つとされるジェイムズ・ジョイスの小説『ユリシーズ』にも影響を与えている。

『ユリシーズ』は、古代ギリシアの英雄譚『オデュッセイア』をベースにしている。神話的方法と呼ばれ、神話をベースとすることで、現代の空虚と混沌に秩序を与える。

主役のひとりは、英雄とはほど遠い・さえない広告とりのブルームである。その妻はモリ―、その日不貞におよんでしまう。ふたりは長男を幼くして亡くして心に傷を抱えている。二人のほか、血のつながらないスティーブンがいる。彼は、母の臨終の床で祈りを拒否したことで傷を抱えている。

『オデュッセイア』とはちがい、ダブリンにおけるたった1日の出来事である。3人はそれぞれの傷を抱えて1日をスタートする。それがその日を通じて、それぞれの間で人間関係を形成し、互いの心を調整する。そうして心の傷を癒していく。要約すると、どの小説も同じ筋立てになってしまう。

その後半にあたる、15章の「キルケ」。キルケは神話では魔女で、オデッセウスの部下たちをブタにかえてしまう。現代では謎の来歴をもつ娼家の主人である。

夜になって、スティーブンは仲間とともに、ベラの娼家に繰り出す。ブルームも後を追う。彼らは頻繁に幻覚を見る。それは昼間の体験の変奏である。

昼間の現実を変奏した幻覚を見ることにより、心の傷を整理し、癒していく。それはフロイトやユングが提唱した精神分析や分析心理学の手法と異なるところはないと思われる。

2022年3月24日木曜日

ある家明け事件ー左の頬を打たれたら


 7年前は山梨県にある二百名山、御正体山に登っていたようだ。Facebookがそう教えてくれる(写真)。まだ雪山で、ブナだろうか、春待ちげな古木である。

さてきのうは2件、事件が解決した。1件は賃貸マンションの明渡請求事件。賃料の滞納がつづいたため契約解除。裁判所も明渡しを命じた。

しかしこれに応じない。執行官に依頼して明渡しの強制執行を申し立てた。1度目は任意の明渡しを求める督促。それでも明け渡さない。

しかたがないので断行かと思いきや、前日になってあと少しとの連絡。執行官とも連絡を取り合い、裁判所に依頼して月末まで断行を延期してもらう。

その後も連絡が途絶えたり、いろいろあったが、ようやく鍵が返ってきた。鍵の所在は重要である。『ユリシーズ』でも、鍵こそがその塔や屋敷の主であることの象徴となっている。家屋の明渡しにおいても、家財を撤去し、部屋を掃除した上、鍵を戻してはじめて明渡し完了となる。

きのうはさらなるドラマがあった。マンション内部の状況を確認するため、家主の息子さんに立ち会ってもらった。その際、借主とはじめて対面がなされた。

これまでの約束違反、受けた迷惑の数々。普通であれば、暴言、叱責、苦情の連呼は避けられないだろう。しかし家主の息子さんが述べたのは感謝の言葉。「断行しないで任意に明け渡してもらい、ありがとうございます。」

これには驚いた。35年間弁護士をしていて初めての経験だ。右の頬を打たれたら左の頬を差し出せという教えは知っている。しかし実践するのは難しい。

でもやはり教えはすごい。深い知恵にもとづくものと実感した。というのも、感謝の言葉により、その場にいた人みなが幸せな気持ちになったのである。まさに魔法の言葉である。暴言、叱責、苦情の連呼だと、溜飲をさげることはできただろうけれども、嫌な気持ちがしばらく続いたと思う。

2022年3月23日水曜日

エピファニー

 

 ジェイムズ・ジョイスの文学の特徴をあらわす言葉にエピファニーがある。元来はキリストの顕現を意味する。ジョイスは彼らしくそれを平凡な日常のなかに見いだした。

平凡な出来事のなかにその事柄や人物の本質が姿を現す瞬間がある。それを象徴的に描写しようとしたのである。その事柄や人物の魂が突如として意識されその本質を露呈する瞬間でもある。

本ブログの開始は2010年6月17日木曜日にさかのぼる。おしい。6月16日であれば、ブルームズデイだったのに。

『ユリシーズ』はダブリンにおける1904年6月16日木曜日の1日のことが描かれている。6月16日は、主人公ブルームの名をとってブルームズデイと呼ばれている。最後の審判の日がドゥームズデイなので、そのパロディである。

ドゥームズデイには世界中から『ユリシーズ』ファンがダブリンに集結し、多彩な催しがおこなわれる。ぜひとも一度訪れてみたい。やはり小説中でブルームが遍歴したとおりの行路をたどるが夢である。

それはともかく、わが事務所のブログをはじめたのは若くして急逝した落合弁護士である。ブログの過去ログを検索すれば(右側の西暦のうち2010年をクリックする。すると、月が標示されるから6月をクリックすればよい。)、いまでも彼の語り口にあうことができる。

彼がブログをはじめてことしで丸12年になる。ずっと続けることができたわけではない。中断も何度かある。断続的に書き継いできた。ブログを続けることは結構むずかしい。1年くらい書くと、なんだか書く気が消失したりする。

しばらくするとまた書く気が湧き上がってきて、ふたたび書き始める。最近は、森くんやトミーがはじめたのに励まされて書いてきた。

ここのところ、少しブログを書く意欲が失われつつあった。他人のせいにしちゃいけないけれど、プーチンのせいだ。いまの世界であのような残虐なことが行われているのに、のんきにブログなど書いていてよいものかという感じがぬぐえない。

でもブログというのは不思議なものだ。書く気が失われてくると、きまって望外に誉めてくれる人があらわれる。きのうも、相談を希望されたかたがとてもほめてくれたらしい。

単なる偶然と考えることもできる。しかしまた神の使者(ほめてくれた人が)と考えることもできる。またまた落合くんのお遣いと考えることもできる。

古代ギリシア人はすべてのことに神々の意志や配慮を感じていた。オデュッセウスが故郷に戻れぬのも戻れるのもすべて神々の思し召しによるものだ。

現代社会ですべての出来事が神の遺志にもとづいて起きていると考えることはむずかしい。しかしたまに起きるうれしい出来事について、天国で落合くんがほほえんでいるよねと考えることはできそうだ。

2022年3月22日火曜日

ナウシカア


  いまの日本人でナウシカの名を知らない人はすくないだろう。宮崎駿のアニメ映画『風の谷のナウシカ』の主人公。

世界を焼き尽くす破壊兵器をもちいた戦争後、空気は汚れ巨大化した昆虫たちが跋扈する世界。人々はなおいがみあい、争いを止めることができない。そして争いにより環境をさらに悪化させてしまう。そうしたなか、人と人が争うのをやめ、自然と共生する道をさぐる・・・。

ナウシカの出自はふるく、古代ギリシアのホメロスによる『オデュッセイア』である(ナウシカではなく、ナウシカアと表記される。)。スケリア島の王女。難破漂流してきたオデュッセウスを救いもてなし、船を用意して彼を故郷イタケ-へと送り出す。別れ際、国に帰っても自分のことを思い出して欲しいと告げる・・・。

『風の谷のナウシカ』の主人公の名はなぜナウシカなのだろうか。ほんとうの主人公はオームに象徴される自然であり、彼女はオームをもてなし自然を救うという意味だろうか。

いまもジョイスの『ユリシーズ』に取り組んでいる。参考書の助けを借りつつ、難解かつ長文な本文を読むのでなかなか進まない。『オデュッセイア』を神話的背景とする『ユリシーズ』にもナウシカアの挿話は当然でてくる。

古代の英雄が主人公であった『オデュッセイア』と異なり、現代のスケベなおっさんが主人公である『ユリシーズ』。そこでは、ナウシカアの目されるガーティもかなり下世話である。このブログで紹介することも憚られる。20世紀初頭発禁処分を受けたのも、この記述が問題とされたためである。

スケベなおっさんはブルーム。『オデュッセイア』の主人公であるオデュッセウスがトロイア戦争を闘うなど好戦的であったのに対し、平和主義者である。

当時アイルランドはイギリス帝国主義の軛のもとであえいでいた。アイルランドではそこからの独立をめざし、民族主義が熱くなり、文芸の分野でも国粋主義的な風潮がたかまっていた。

運動はイギリスの帝国主義からの独立という目的をもっていたけれども、他方ではユダヤ人など外国人を排斥する側面ももっていた。運動というものの危うさを示している。ブルームはそれらの運動とも一線を画し、徹底的な平和主義の立場である。

われわれ凡人はニュースや日々の出来事につどつど怒りを覚え、われを忘れてしまいそうになる。しかしいまこそ、ナウシカのことを思い出さなければならないと思う。

2022年2月8日火曜日

第14挿話「太陽神の牛」


 旅の反芻を終え、ジョイス『ユリシーズ』(丸谷才一ら訳・集英社刊)を反芻読書している。

ユリシーズは、オデュッセウスのラテン語名。かれを主役とするオリジナルの古典が『オデュッセイア』。『イリアース』とともに、古代ギリシアの詩人ホメーロスの作とされる。

『イリアース』はトロイア戦争を、『オデュッセイア』は戦後、オデュッセウスが故郷に帰還するまでの苦難を描いたもの。

『ユリシーズ』は『オデュッセイア』の神話的枠組みを借りている。しかし、オデュッセウスが古代の英雄であったのに対し、主役のレオポルド・ブルームは冴えないユダヤ人で、すけべなおっさんである。そして、かれがダブリンを彷徨う一日(1904年6月16日)だけを描いている。

全18挿話から成る。いちおうストーリーらしきものはあるものの、各挿話のオリジナリティー、実験的手法はすさまじく、18個の短編アンソロジーといっても過言ではない。

ジョイス自身、この小説を解読するのに世界の研究者が寄り集まって何世紀もかかるだろうと予言したとか。すごい自信である。悔しいけれど、たしかに一読や二読では到底意味が分からない。「読書百遍意自ずから通ず」。百遍読めばなんとかなるかもという代物である。

もう一つの最高峰『失われた時を求めて』の日本語訳が4つ,5つあるのに対し、こちらの通訳はいまのところ丸谷・永川・髙松の共訳が1つあるのみ。

そのためもあり、この共訳がまた議論の的になっている。誤訳が多いなどなど。もともとが難解なので、理解できないわれわれとしては、(われわれの頭が悪いのではなく)訳が悪いのではないか、とついつい責任転嫁してしまう。実際、丸谷訳の『誤訳の研究』と称する本も出ている。

なかでも、難解さで知られるのが第14挿話「太陽神の牛」。息子を失ったブルームが息子と同視してしまうスティーブンと産院でめぐりあう一節。こんかいの反芻読書はここからはじめてみた。反芻だけに牛でしょ。

なぜ難解かというと、この挿話が英語文体史をたどる作風模倣で書かかれているから。古代の呪い、ラテン語、古英語韻文、マロリー、欽定訳聖書、バニヤン、デフォー、スターン、ウォルポール、ギボン、ディケンズ、カーライルときて、最後はスラングだらけ。ジョイスの天才が冴え渡る。

これを丸谷は、単に和訳するだけでなく、古代祈祷文、漢文、古事記、万葉集、竹取物語、宇津保物語、源氏物語、平家物語、太平記、義経記、仮名草子、浄瑠璃、滝沢馬琴、森鴎外、夏目漱石、菊池寛、永井荷風、宮沢賢治、俗語に移し替えている。

これにも毀誉褒貶ある。いわく、すごい力業だ。いわく、やりすぎだ。もともと難解で知られるところを源氏物語の文体で書かれたのでは、しろうとにはハードルが高すぎる。ついつい、やりすぎだ派に与したくなる。

これまで2,3度読んだが、この挿話にはまったく歯がたたなかった。誰か分かりやすく解説してくれる人はいないものか。何人もの研究者が読解を試みているが、通訳はない・・・。

そう思っていたところ、小川美彦氏の手になるズバリ『ユリシーズ第14挿話新訳』(五月書房)なる本を入手することができた(写真右)。この挿話だけを訳出したもの。みなが持っている悩みに答えようとしたものだろう。丸谷訳に比べれば、数段平易である。

それでも難解で3度読んで何とか通読し、ぼやっと意味をとることができた。ぱちぱち。その上で、丸谷訳を読むとなんと読めるではないか。ぼんやりとではあるが。やったー。

読み比べて分かったこと。やはり丸谷訳はすぐれている。小川訳は書いてあることは分かるけれど、やはり丸谷訳のほうが文学的なのである(小川さん、ごめんなさい)。

2022年1月24日月曜日

シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々


  『シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々』(J・マーサー著、市川恵里訳・河出書房新社刊)。カナダ人のもと新聞記者(犯罪記事担当)による同書店滞在記である。

シェイクスピア・アンド・カンパニーはこのブログでも2度ほど紹介した。1つはジョイスの『ユリシーズ』のことで。各地で発禁処分となるなか、書店主シルビア・ビーチは勇気をもってこれを出版した。

2つはヘミングウェイの『移動祝祭日』で。ヘミングウェイのパリでの修業時代、やはりいろいろと支援の手を差し伸べた。

書店は、パリはセーヌ川左岸にある。1920年代から1930年代にかけて、ガートルード・スタイン、ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、ジッド、ヴァレリーら名だたる作家や芸術家が出入りした。

『移動祝祭日』のブログ記事のなかで、すこし戸惑ったことがあった。上記書店はオデオン通りにあったとされる。しかしヘミングウェイが歩き回ったパリ左岸を案内した際、ストリートビュー上ではセーヌ河岸からすぐ、ノートルダム大聖堂の南にあったから。

とはいっても近くなので、そのときは、ジュンク堂が建物の建替により仮店舗への移動を余儀なくされているように、なんらかの事情で本書店も移動を余儀なくされたのだろうと考えた。

しかし本書を読むと、じつはそうではないことが分かった。春日に「千太」という店がある。天神にもむかし「千太」という店があった(スポーツセンターのちかくにあり、センターシネマなどとおなじ由来の店だ。)。ま、この両「千太」の関係に似ているとだけ言っておこう。

でもタイトルにあるとおり、新書店においても、シルビア・ビーチ時代をほうふつとさせる「優しき日々」が続いている。欧米人だけでなく、アルゼンチン人や中国人にたいしても、わけへだてなく優しい。やたらと美人が登場するのも魅力だ。いちどお世話になってみたい。それにはまずフランス語会話の習得が必要だろうけど。

2021年10月15日金曜日

目のまえの稲を刈れ


  いまもまだヘミングウェイを反芻している。読書力・鑑賞力にすぐれているわけではないので、すぐれている人たちの頭を借りる必要がある。

ゼネコンだって、自社だけでビル1棟を建てているわけではない。他社に外注しながら工事を進めているのである。・・参考書を読むいいわけとしては、いささかおおげさか。

なにごともそうだけれども、ある極端から逆の極端へ振れながら前進していく。それまでの時代は、理性や言語の存在が自明のことであり、絶対的に信頼されていた。

ヘミングウェイの時代は、逆サイドにスイングし、理性や言語に懐疑を投げかけた。

フロイトが発見した無意識が最大だろうけれども、ウィリアム・ジェイムズが提唱した意識の流れもすくなからぬ影響を世に与えた。

それまで人間の意識は静的・スタティックなものと考えられていたけれども、動的・ダイナミックなものでありたえず流れているものだという。コロンブスの卵。言われてみれば、あたりまえだ。

これを文学に応用したのが、意識の流れや内的独白の手法だ。ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』で使用されている。

ぼくはきのうの出来事について考えていた。あのとき、なぜ、ぼくは彼女に告白できなかったのか・・・。ふつうは、このような書き方だ。地の文と頭のなかの思考の境界ははっきりしている。読みやすい。

スタバでコーヒーを飲む。舌をヤケドした。人間の体はなぜかくも脆弱なのか。心もそうだ。彼女がなんだっていうんだ。あれ、あの娘は彼女かな。ちがった。それにしても似ているな。後ろ姿、特に髪の色がそっくりだ。・・・。意識の流れ・内的独白だと、こんなかんじ。地の文と心のなかのことが説明もなく接続されるので、まことに読みにくい。

修業時代のヘミングウェイを教育した一人はガートルード・スタイン。彼女はラドクリフ出身で(われわれの世代で、ラドクリフというと『ある愛のうた』を思い浮かべてしまう。)、そこでウィリアム・ジェイムズの講義を受けたのだという。ウィリアム・ジェイムズはプラグマティズムの本しか読んだことがなかった。このような人的なつながりを示されると新鮮だ。

さて、理性や言語に懐疑を投げかけたヘミングウェイは、どうしたか。身体性を重視した。身体性を重視すると、頭でいろいろ考えず、いま・ここに意識を集中することになる。

ヘミングウェイの作品は、都会にあるスタバで知的な会話をするのではなく、戦争、釣、闘牛、猟など野性的・非人間的な環境下で身体性があらわになる行動をすることになる。

苦難に直面したとき、人は将来の不安を考えがち。うちに来られる相談者や依頼者も、将来の不安の大きさを自力で抱えかねている。思考があちこち拡散してしまい、うまく苦難に対処できていないことが多い。

こういうときに、どうすればよいのか。

 いま考えられることってあるか、と老人は思った。何もない。何も考えずに、次に襲ってくるやつを待つ。それしかない。(『老人と海』)

せっかく釣り上げた獲物の大きなカジキを横取りしようと、サメがつぎつぎと襲って来る。そいつらと闘う場面。将来の不安を考えてもどうしようもない。いま・ここの闘いに集中するしかないのだ。

これは、現在のマインドフルネスの方法論と一致している。禅の方法論もそうだ。吾・唯・足るを・知るというやつだ。

わが高校の校長先生の朝礼のあいさつはおおむね退屈だった。が、いまでも覚えているのは稲の刈り方だ。「稲を刈るときゃ、広い田んぼを見わたしてはいかん、目のまえにある稲束を刈ることに集中することだ。」

将来の不安にうまく対処できない相談者に対し、いつも校長先生のこの言葉を紹介する。皆さん、なんとなくわかったような顔をされる。そうそう、それでいいんです。

2021年9月3日金曜日

パリのほそ路

 



 (西鉄電車のなか)
A いま、なにを読んでる?
B  『われらの時代』ヘミングウェイ。
A いまごろ、なぜ?
B それは・・・

BSで『ミッドナイト・イン・パリ』という映画をやっていた。小説家になろうと悩んでいる若者がパリの街角でタイムスリップして過去へ。フィッツジェラルド夫妻、ヘミングウェイなどの小説家や、ピカソ、ダリなどの画家らと交流し、真の人生に目覚めていく。

ウッディ・アレン監督。登場人物はみな本物そっくりで(本物を知っているわけではないけれども)、セリフもおそらく彼らが発した言葉を引用したものだろう、いかにも言いそうなことばかりだ。

と、楽しんでいたらラストちかく、シェイクスピア書店がでてきた。書店はジェイムス・ジョイスの『ユリシーズ』を出版したことで知られる。いまでこそ世界一の名著であることは誰もが知るところだが、当時は発禁処分や刑事事件をおそれて誰も手を出そうとしなかった。その時代に出版したのだから、見識と勇気があったのだ。

シェイクスピア書店がでてきたので、もう一度観た。するとどうも種本はヘミングウェイの『移動祝祭日』のようだ。晩年の作だけれども、彼が若者のころパリに移住し、小説家として駆け出したころを書いたものである。

映画の若者とおなじく、ガートルード・スタインや、シェイクスピア書店のシルビア・ビーチ、スコット・フィッツジェラルドらと交流しつつ、叱咤激励されながら成長していく。

ヘミングウェイが指導を受けたのは、かれら先輩小説家・文筆家だけではない。リュクサンブール公園にあった美術館を訪れ、セザンヌの絵画からも学んでいる。

 ヘミングウェイはひたすら、セザンヌが描くように自然を描きたいと思っている。写真のようなリアリズムとは一線を画す写実。色彩と描線とモティーフの反復。半端なディティルの省略。そこから浮かび上がる”真実”の風景・・・(上記新潮文庫の訳者解説)。

短編小説が苦手である、いままであまり好きだと思ったことはない。しかしこんかい、短編小説の作法を知ることができた。

 もし作家が、自分の書いている主題を熟知しているなら、そのすべてを書く必要はない。その文章が十分な真実味を備えて書かれているなら、読者は省略された部分も強く感得できるはずである。動く氷山の威厳は、水面下に隠された八分の七の部分に存するのだ。

つまり、短編小説には全体の八分の一しか書かれていない。残りの八分の七の部分は、われわれが感得しなければならないのである。なにからなにまで説明してもらえてる、なんて幻想はいますぐ捨てろ!(笑)

ヘミングウェイがこの『移動祝祭日』のなかで日々執筆しているのが、初期短編集『われらの時代』(新潮文庫、ヘミングウェイ全短編1)だ。

かくてこのごろは、映画『ミッドナイトインパリ』『移動祝祭日』『われらの時代』を行ったり来たりしながら、パリの街を散策している。

お奨めはストリートビューを使うことだ。ガイドはヘミングウェイだから、超ぜいたく。

『移動祝祭日』は「サン・ミシェル広場の気持ちのいいカフェ」にはじまる。どのようにすれば、そこにたどりつけるのか?

まずはストリートビューを使って、セーヌ左岸パンテオンの南東にあるコントルスカルプ広場へ行こう。

かれが当時住んでいた住まいや、執筆場所としていたホテルにほどちかい。また『ミッドナイトインパリ』の若者がタイムスリップするサン・ティティエンヌ・デュ・モン教会もちかい。うらぶれた、手入れのお粗末なカフェ・デ・ザマトゥールはもう存在しないようだ。

秋風が吹き雨が降り始めた。でも歩いて行こう、ここはパリだから。

アンリ四世校と古いサン・ティティエンヌ・デュ・モン教会の前をすぎ、風の吹き渡るパンテオン広場を通り抜けてから風雨を避けて右手に折れる。

そこからようやくサン・ミシェル大通りの風のあたらない側に出たら、そこをなおも下ってクリュニー博物館の前を通り、サン・ジェルマン大通りを渡っていくと、サン・ミシェル広場の、通い慣れた、気持ちのいいカフェにたどり着く。・・・

この時節、なかなか外出もままならない。しかしパリの街散歩に出かけよう。われわれは自由だ。エピグラフにはこうある。

 もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ。

1950年かれが友人に語った言葉である。しかしいまやわれわれは、若者のころパリで暮らしたことなどなくても、パリをいつでも自由に歩くことができる。ストリートビューも移動祝祭日だからだ。

※きょうの朝、エクスターンくんが出勤してくるなり報告してくれた、昨夜遅くまで『お気の毒な弁護士』を読みましたと。だれかが助言してくれたのかな(笑)。

2021年3月1日月曜日

紫の野におりたつべし


大宰府政庁跡、裏にいくとこんなかんじ。
ホトケノザの群生です。

といっても春の七草のあれではありません。
春の七草、いえますか。

せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ
これぞななくさ。

七草のほうは別名、オニタビラコ、キクの仲間です。
対するこちらはシソの仲間です。

吾も春の野に下り立てば紫に
             星野立子

高浜虚子の次女、虚子に師事し、そのあとを継ぎました。
明るく伸びやかな感性の日常詠を特色とするそうです。

この句も例外ではなさそう。
立子、紫の野に立つ。

その者青き衣をまといて金色の野に降り立つべし。
失われし大地との絆を結び、ついに人々を青き清浄の地に導かん。

ナウシカを思い浮かべてしまいますね。
クライマックスでナウシカの服の色が赤から青に変わり・・

ナウシカは古代ギリシアの長編叙事詩『オデュッセイア』に登場。
紀元前8世紀の吟遊詩人がうたったそうですから、ほぼ3000年まえ。
縄文杉がひこばえのころの話です。

スケリア島の王女で、オデュッセウスを故郷イタケへ送りかえします。別れ際、国へ帰ってもいつか自分のことを思い出してほしいと告げて。

ナウシカは20世紀最高の小説の一つ『ユリシーズ』にも登場します。
そりゃそうです。ユリシーズはオデュッセウスの英語読みですから。

こちらのナウシカはちょっとエッチな役柄。
でも放浪し虐げられた主人公を癒やし快復させる役割はいっしょです。

宮﨑駿のナウシカはどれともちがっていてアクティブ。
でもわれわれを深いところで癒やしてくれます。

きょうから弥生三月。
みなさんも筑紫の春の野に下り立ちませんか。
失われた人々との絆を結び直すために。

2011年9月29日木曜日

 生活や仕事への実感を失ったあとに開いた穴をなにで埋めるのか?



 (中央手前が焼岳、後ろが乗鞍岳)

 キンモクセイが香っています。
 高校時代の彼女との初デートがいまの季節でした。

 キンモクセイが香ると当時の情景が浮かびます。
 国語の授業中、その気持ちを表現したりしました。

 先生からはたくさん文章を書くよう指導されました。
 気持ちがからまわりして伝える力が不足していました。

 ま、いまから考えると赤面ものです。
 若いというのは恐ろしいことです。

 ただ通勤電車中の高校生たちを見ても
 そんなもんかなとも思います。

 「マークスの山」の流れで、いま高村薫さんの
 「レディ・ジョーカー(下巻)」(新潮文庫)を読んでいます。

 ビール会社恐喝犯たちに、合田刑事がいつものように
 組織の論理にしばられながら、静かな怒りを燃やしつつ挑んでいます。

 その際、合田は犯人の生きる世界と自分の生きる世界を対比させます。
 どちらが人間として豊かなのか?

 合田はおもうように進まぬ捜査のあいま、心に開いた穴を埋めるため
 バイオリンを弾き、読書をします。

   代わりに、時間があれば、学生時代に読んだ古い本を手当たり次第に
  引っ張り出しては読み耽ることをやっていたが、

  現実の生活や仕事への実感を失ってしまったあとに開いた穴を
  活字で埋めていかなければ、一秒もじっとしていられなかった。

  そうして7月には『ブッデンブローク家の人々』と『ユリシーズ』と
  『大菩薩峠』を読み、

  8月は『カラマーゾフの兄弟』『ジャン・クリストフ』『チボー家の
  人々』と続いてきて、いまは5巻目の3分の2まで来たところだった。

 このラインナップをみただけで
 合田刑事といちど話をしてみたいという気になります。

 「ファイト!」「いっぱーつ!」による交情とは
 ちがう種類のものでしょうが。

 最近ちょっと気になるのは
 若い弁護士たちがあまり読書をしていないことです。

 若いときに、上記ラインナップのうち
 半分は読んでいてほしい気がします。

 やはり若いころから本を読んできた人間のほうが好ましいな
 と思うきょうこのごろです。