高校時代の友達がSNSで、村上春樹の新作が面白かったというので、『街とその不確かな壁』(新潮社刊)を読んだ。
これまでの作品とテーマも手法もおなじように感じられた。同工異曲(失礼!アバウトな性格なうえに加齢してしまい、たいがいのものが同工異曲に感じられる。)。だが、ハルキストにとっては、これがたまらないのだ。文章は洗練され、展開はとても滑らかである。
若いころの彼女との関係で受けた心の傷を、現実の世界と無意識の世界を往来しながら癒していく(のだと思う)。河合隼雄の分析心理学による治療を読書により受けるようなものだろうか。
先に村上春樹の『ドライブ・マイ・カー』のことを書いた。子を失い、妻を失った心の傷をマイ・カーをドライブしてもらいながら癒されていく男の話だった。
同種の傷を抱える読者は、小説を読み進むうち、主人公とともに、おのれの傷も癒されていく。
広大な無意識の世界はフロイトにより発見された。ユングは彼の影響を強く受けつつも、独自の分析心理学を確立した。河合隼雄はその弟子筋にあたる。
ユングやフロイトは意識ではなく、無意識にメスを入れることにより、患者を癒そうとした。ユングの無意識はフロイトよりユニバーサルで、神話の世界などともつながっていく。
フロイトが精神分析を創始したのは19世紀の世紀末。マルクスやダーウィンとともに20世紀の思想に大きな影響を与えたとされる。
20世紀小説の最高峰の一つとされるジェイムズ・ジョイスの小説『ユリシーズ』にも影響を与えている。
『ユリシーズ』は、古代ギリシアの英雄譚『オデュッセイア』をベースにしている。神話的方法と呼ばれ、神話をベースとすることで、現代の空虚と混沌に秩序を与える。
主役のひとりは、英雄とはほど遠い・さえない広告とりのブルームである。その妻はモリ―、その日不貞におよんでしまう。ふたりは長男を幼くして亡くして心に傷を抱えている。二人のほか、血のつながらないスティーブンがいる。彼は、母の臨終の床で祈りを拒否したことで傷を抱えている。
『オデュッセイア』とはちがい、ダブリンにおけるたった1日の出来事である。3人はそれぞれの傷を抱えて1日をスタートする。それがその日を通じて、それぞれの間で人間関係を形成し、互いの心を調整する。そうして心の傷を癒していく。要約すると、どの小説も同じ筋立てになってしまう。
その後半にあたる、15章の「キルケ」。キルケは神話では魔女で、オデッセウスの部下たちをブタにかえてしまう。現代では謎の来歴をもつ娼家の主人である。
夜になって、スティーブンは仲間とともに、ベラの娼家に繰り出す。ブルームも後を追う。彼らは頻繁に幻覚を見る。それは昼間の体験の変奏である。
昼間の現実を変奏した幻覚を見ることにより、心の傷を整理し、癒していく。それはフロイトやユングが提唱した精神分析や分析心理学の手法と異なるところはないと思われる。
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