四国愛媛(伊予)の松山観光をつづける。道後温泉のあとは、ランチをはさんで、松山城へ。
現存12天守の一つ。平山城。1602年関ヶ原の戦いで戦功のあった加藤嘉明が築城。城の登り口のところには馬上の銅像がたっていた。
平山城といっても、標高131mの勝山の上に建っている。ロープウェイやリフトでも登ることができるが、もちろん歩いて登った。
城郭をぐるぐる回りながら登っていき、ようやく天守閣に達する(1枚目の写真)。松山市街がすべて見渡せる絶景(2枚目の写真)。さっきまで散策していた道後温泉街ものぞむことができる。その向こうには石鎚山も顔をのぞかせていた(3枚目の写真の左上)。
下城して、道後温泉街にあるホテルにチェックイン。宴会まではまだ時間があったので、ひとり抜け出して、松山市立子規記念博物館を訪れた。
松山城は近世の城である。中世の松山には、河野氏が築いた湯築城があった。その場所は道後温泉のすぐ隣である。現在、湯築城史跡公園として整備されている。その中に博物館はある。市立のわりには立派なハコ物である(4枚目の写真)。
正岡子規は松山の出身。明治時代、短歌、俳句などの分野で近代日本文学の革新運動を行った。松山を訪れた漱石とも交流している。
松山は日露戦争をたたかった秋山兄弟の出身地でもある。もちろん子規とも交流があった。司馬遼太郎の『坂の上の雲』に詳しい。再読していくつもりが、できなかった。なにせ長い。
子規とはホトトギスのこと。夏の季語。ちょうどいまの時期、四王寺山や宝満山で鳴いている。「特許許可局」や「テッペンカケタカ」と鳴いているというのであるが、「ホトトギスヨ」としか聞こえない。
「ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞのこれる」の和歌があるとおり、鳴きつる方を眺めても声しか聞こえない。
子規は晩年、結核を患った。病状が進むと血を吐くことになる。ホトトギスは口のなかが赤い。そのため、血を吐きながら鳴いているといわれる。子規は、血を吐きながら歌や俳句を詠む自分をホトトギスになぞらえた。壮絶な名前である。
ここまでは知っていたけれども、晩年は脊椎カリエスも患い、激痛に苦しんでいたようだ。結核とカリエスの症状にくじけず、近代日本文学の革新運動にとりくんでいたのだから、やはり偉人である。
あまり知られていないが、子規は草創期の野球を楽しんだ。坊ちゃんカラクリ時計の脇にはバットを持った子規の銅像が花を愛でていた(5枚目の写真)。
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