2021年6月30日水曜日

松島夜泊ー旅愁


 (大観荘から松島湾をのぞむ)
 

 (天拝山のカササギ)

 おくのほそ道の旅を映画にするのなら、松島の夜のバックには唱歌「旅愁」を流してほしいですね。

1 更け行く秋の夜 旅の空の
  わびしき思いに 一人悩む
  恋しや故郷 懐かし父母
  夢路にたどるは 故郷の家路
  更け行く秋の夜 旅の空の
  わびしき思いに 一人悩む
2 窓うつ嵐に 夢も破れ
  遙けき彼方に 心迷う
  恋しや故郷 懐かし父母
  思いに浮かぶは 杜の梢
  窓うつ嵐に 夢も破れ
  遙けき彼方に 心迷う

本歌をふまえて歌を詠む方法が本歌どり。本歌の存在がはっきりとわかるやり方。そこまでいかないけれど、なんとなく匂うという連句の付句の手法が俤付(面影付)の方法です。

おくのほそ道のなかには、俤という言葉はところどころにでてきます。

 秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢なほあはれなり。(白河の関)

 五百年来の俤、今日の前に浮かびて、そぞろに珍し。(塩竈神社)

 眉掃きを俤にして紅粉の花 (尾花沢)

 俤松島に通ひて、また異なり。 (象潟)

塩竈の夜から松島の夜にかけて、張継の『楓橋夜泊』を俤にしているような気がしてなりません(西鉄通りの中華・大京園に拓本が掲げられていることは以前書きました。)。

 月落ち烏啼きて霜は天に満つ
 江楓 漁火 愁眠に対す
 姑蘇城外 寒山寺
 夜半の鐘声 客船に到る

詩人が江蘇・浙江に遊んだおり、船で蘇州までやってきたときの作ですが、「塩竈の夜に入相の鐘を聞く。」「船を借りて松島に渡る。」「およそ洞庭・西湖を恥ぢず。東南より海を入れて、江の中三里、浙江の潮を堪ふ。」あたりの表現ぶりや、瑞巌寺との距離感、旅愁という主題などに俤を感じます。

 鵲の渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける 中納言家持

百人一首に採られたこの歌は「月落ち烏啼きて霜は天に満つ」を基にしたものといわれています。烏が鵲になっていますが、カササギはカチガラスといいますから。

張継と家持はほぼ同時代人。張継が安史の乱のため江南に逃れた755年から、家持が没する785年まで30年の間に、12回、16回、17回の遣唐使が帰国していますので、そのどれかで誰かが伝えたのでしょう。いまでいえば本場ニューヨークで流行っている最新のヒットソングみたいなものだったでしょうから。

松島の夜→『楓橋夜泊』→鵲の歌→大伴家持とつなげておくと、つぎの石の巻にうまくイメージがつながります。そのことは石の巻の段で。

2021年6月29日火曜日

旅の宿ー松島の松かげに春死なん

 

  江上に帰りて宿を求むれば、窓を開き二階を作りて、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ。

 松島や鶴に身を借れほととぎす 曽良

予は口を閉ぢて眠らんとしていねられず。旧庵を別るる時、素堂、松島の詩あり。原安適、松が浦の和歌を贈らる。袋を解きて今宵の友とす。かつ、杉風・濁子が発句あり。

 事務所旅行のとき、ホテル松島大観荘に泊まりました(写真上)。松島の月を見るには絶好の立地で、大観荘の名にはじないお宿でした(二日市温泉で観月する際には、二日市温泉大観荘をご利用くだされ。)。

芭蕉は松島で

 松島やああ松島や松島や

の句を詠んだとされていますが、違います。実際には、曽良が一句詠んだだけ。芭蕉は感動のあまり一句も詠めませんでした。

ちょー感動したとは書いてありませんが、小学生の遠足のように興奮のあまり眠られませんでした。

現代ならバーかラウンジで一杯というところでしょうが、芭蕉は袋を解いて、友人やお弟子さんからもらった餞の品々を見て心を落ち着けようとしています。

ここらへんが芭蕉の心の不思議。一方で、かれが葉が破れやすい芭蕉と号しているのは、傷つきやすい心の持ち主だということです。そして世をいとふ人々にあこがれています。

他方で、座の文学である連句を愛し、俗世の友人やお弟子さんのことも心から愛しています。まさに胡蝶の夢、こちらの世界もあちらの世界も大好きで、自由自在に行き来します。

友人の素堂からは、松島の詩を贈られました。その際のやりとり。

送芭蕉翁、
西上人のその如月は法けつたれば我願にあらず、
ながはくば花のかげより松のかげ、
春はいつの春にても我ともなふ時
 松島の松かげにふたり春死なん 素堂

西上人は西行のこと。西行は歌もうまかったけれども、歌がうまいだけなら何人もの歌詠みがいました。なかでも、人々を感動させたエピソードがあります。

 願はくは花の下にて春死なむ その二月の望月のころ

西行の有名な歌ですが、西行はこの歌のとおり、二月の望月のころ桜の花の下で亡くなりました。現代でいえば、ベーブルースの予告ホームランのようなものでしょう。

当時の人々はさすが西行と驚嘆しました。江戸時代の芭蕉らが西行を慕うのも、これが理由の一つになっています。

冒頭、古人も多く旅に死せるありとありました。旅に死んだ古人の代表が西行です。西行を慕う芭蕉も旅先で死ぬことを辞さない、できればそうしたいという気持ちはあったでしょう。おくのほそ道の旅ではそれをなし遂げることができませんでしたが。

ただし、芭蕉は桜の下ではなく、松のかげで死にたいと言っています。なぜでしょう。桜とちがい、松は千歳を生きるとされていたことによるでしょう。曽良の句にでてくる鶴もそうです。松島(雄島)がこの世とあの世をつなぐ霊場であることも関係していたでしょう。

不易な松のかげで死ぬ、まさに不易流行です。

さらに、芭蕉の名字である松尾も関係しているかもしれませんね。松尾・芭蕉。もう名前からして不易・流行です。

2021年6月28日月曜日

心にかかる松島の月ー「月がきれいですね」


  ・・・まづなつかしく立ち寄るほどに、月、海に映りて、昼の眺めまた改む。江上に帰りて宿を求むれば、窓を開き二階を作りて、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ。

この月は、おくのほそ道の冒頭、「松島の月まづ心にかかりて」とあった月です。当初からの旅の目的であり、芭蕉一行はその目的を果たしたわけです。

芭蕉の紀行文には他に「野ざらし紀行」「鹿島詣」「笈の小文」「更科紀行」があります。このうち「鹿島詣」「更科紀行」も月見を目的にする旅です。5つの紀行文のうち3つが月見が目的だったわけです。月見の旅がよほど好きだったのでしょうね。

こういう旅の目的は日本独自ではないかという人がいます。しょんべん小僧、人魚姫、マーライオンを見に行く旅はあっても、しょんべん小僧広場で月を見たいという感性は欧米人にはないのではないかというのです。

俳句をつくるときに、一物仕立てと取り合わせという2つの方法があります。前者は一つの季語に集中して作る方法で、後者は他のものと取り合わせて作る方法です。

鹿島の月、更科の月、松島の月は、それぞれの名所と月との取り合わせです。松島だけでも十分に美しいのだけれども、それに月を取り合わせるとさらに数倍美しい効果をうみます。

三大季語として、雪(冬)、月(秋)、花(春)といわれます。ぼくはこのうち雪と花には超シビれますが、月はあまりピンとこないほうです。みなさんはどうですか。

一つには、むかしは陰暦だったということがあるかもしれません。朔日の新月にはじまり、3日の三日月、6~8日目ころに上限の月、14、15日目に望月(満月)、21、22日目ころに下限の月、そして朔日の新月。それが28日周期で毎月繰り替えされる。そうなると、やはり月の動き、見え方がとても気にならざるをえません。

芭蕉が月見を好きだった理由は、ここら辺にありそうです。月は太古から月でありながら常に変化し無常。不易流行を体現しているからです。

筑紫野市でも二日市温泉・天拝公園で観月会がもよおされています。天拝山に月の取り合わせだけでも美しいですが、女性の浴衣姿との取り合わせは、数十倍の効果をうみますね。これなら月オンチのぼくでもピンときます。

ところで観月会で女性に「月がきれいですね」というのは、勇気が必要であると知っていましたか。

夏目漱石が英語の教師をしていたとき、I love you.を教え子が私は愛すと訳したところ、漱石は「日本人はそんなことは言いません。月がきれいですね。とでも訳しておきなさい。」と言ったとか。さすが。

※漱石は新婚旅行で二日市温泉を訪れています。きっと月がきれいだねと言ったことでしょう。

 温泉のまちや踊ると見えてさんざめく 漱石

2021年6月25日金曜日

雄島が磯ー胡蝶の夢

 


 塩竈から船を借りて松島に渡った芭蕉一行は、雄島の磯に着きました。 

 雄島が磯は、地続きて海に出でたる島なり。雲居禅師の別室の跡、座禅石などあり。松の木陰に世をいとふ人もまれまれ見えはべりて、落穂・松笠などうち煙りたる草の庵、閑かに住みなし、いかなる人とは知られずながら、まづなつかしく立ち寄るほどに、月、海に映りて、昼の眺めまた改む。

雄島は松島の多島の一つ。芭蕉が書いているように、陸の一部のようでもあり、島であるようでもあり。陸にも海にも通じている地形です。

そこから、この世とあの世をつなぐ場であるとされ、死者の霊魂が行き来する霊場になりました。高野山もそうであることから「奥の高野」と呼ばれました。

もちろん雄島は歌枕。百人一首の殷富門院大輔の歌はご存じでしょう。
 
 見せばやな雄島の海人の袖だにも 濡れにぞ濡れし色は変はらじ

本歌は、黒塚の段ででてきた源重之のこの歌。

 松島や雄島の磯にあさりせし 海人の袖こそかくは濡れしか

芭蕉は歌枕・雄島を訪ねながら、こうした色恋の歌には一切触れず、雲居禅師や世をいとふ人々に心をよせています。どうしてでしょう。 

雲居禅師は、瑞巌寺を中興した臨済宗の禅僧。雲巌寺の段にでてきた仏頂和尚の師匠です。雲巌寺も臨済宗の寺でした。仏頂和尚は芭蕉の禅の師匠ですから、雲居禅師は大師匠にあたります。

禅宗は、知識を得ることではなく、悟りを開くことが目的。悟りとは、生きるものの本性である仏性に気づくことであり、仏性とは言葉による理解を超えたものを認識する能力のことだそうです。

悟りは、言葉ではなく、座禅などを通じ感覚的・身体的に伝えられます。が、雲居禅師は、平易な念仏で民衆を教化したという異色の禅僧です。

師匠の師匠であり、感覚的・身体的に伝えられている禅の精神を平易な念仏で人々に伝えたという雲居禅師を芭蕉が慕うのは当然です。

では世をいとふ人はどうでしょう。世をいとふ人としては、すでに須賀川の段で、大きなる栗の木陰を頼む僧がでてきました。世の人の見付けぬ花や軒の栗の人です。

芭蕉が世をいとふ人に心をよせるのは、仏頂和尚に教えてもらった『荘子』の影響です。いわゆる老荘思想のうち荘のほうです。あるがままの無為自然を好み、人為を嫌います。俗世間を離れ、無為の世界に遊び、自由に生きることを求めます。胡蝶の夢です。

禅や『荘子』を学んだことが、蕉風に影響を与えたことは当然でしょう。ものの姿や動きをそのまま平明な言葉で写しとること、やたらと手を加えないこと、いらぬ趣向や工夫を捨て去ること。おくのほそ道の旅を経て芭蕉がつかんだ「かるみ」の考えは『荘子』の考えそのものです。

仏果ならぬ、仏頂を得たことが蕉風飛躍の足がかりになったわけです。先達はあらまほしき事なり。

などと思うほどに、はや日も暮れ、松島の月がのぼりました。続きはまた来週。今夜はストロベリームーンが見られるかな。

2021年6月24日木曜日

松島ー造化の天工

 塩竈でおもいのほか長居してしまいました。つぎはいよいよ日本三景の一つ、松島。

 日すでに午に近し。船を借りて松島に渡る。その間二里余。
 そもそも、ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、およそ洞庭・西湖を恥ぢず。東南より海を入れて、江の中三里、浙江の潮を湛ふ。


島々の数を尽くして、聳つものは天を指さし、伏すものは波に匍匐ふ。


あるは二重に重なり三重に畳みて、左に分かれ右に連なる。


負へるあり、抱けるあり。児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉潮風に吹きたわめて、屈曲おのづから矯めるがごとし。

その気色窅然として、美人の顔を粧ふ。ちはやぶる神の昔、大山祇のなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ、詞を尽くさむ。

2021年6月23日水曜日

忠義を貫いて名を残した、高橋紹運

(四王寺山、右肩あたりが岩屋城跡)
 (岩屋城跡)
(高橋紹運墓所)

 きょうはもうひとりの武将、高橋紹運の話。武藤資頼・資能父子の墓は四王寺山の麓にあります。そこからすこし北に行くと登山口があり、ひと登りで、高橋紹運の墓につきます。そこからまた5分ほど登ると岩屋城跡があります。

ときは戦国末期の天正14年(1586年)。九州はながらく大友、島津、龍造寺による三つ巴の戦いが繰り広げられていました。しかし、そのころには貿易や鉄砲の影響でしょうか、島津が九州を統一する勢いにありました。

島津にとって不幸なことに、その時期は豊臣秀吉が日本全体を平定しようとしていた時期でした。統一権力の特徴の一つは私闘を許さないということです。忠臣蔵で仇討ちが禁止され、われわれが自力救済を禁止されているのはその現れです。

秀吉は九州の大友宗麟と島津義久に私闘(地域紛争)をやめるよう命令しました。しかし、島津はこれに従わず、6月、総勢2万といわれる軍勢で筑前への侵攻を開始しました。

大友かたでこれを阻止しようとした武将が高橋紹運です。紹運は四王寺山の東南にある岩屋城に陣取りました。島津の2万に対し、紹運のほうは763人、26倍以上の兵力差です。

7月13日戦闘開始、紹運らは頑強に抵抗し、岩屋城が落ちたのは同月27日、半月かかりました。島津かたは城を落とすには落としたけれども甚大な被害を出して撤退を余儀なくされたといいます。以上が岩屋城の戦いです。

島津の陣は天拝山にあり、四王寺山の反対側にある宇美八幡宮周辺も焼き払われたといいます。うちの事務所ではいま鹿児島県人と宇美町民が仲良くしていますが、400年前だったらそうはいかなかったことでしょう。

紹運かたは投降することなく全員玉砕です。紹運はよほど人望があったのでしょう。しかも紹運はもともと高橋の家のものではなく、あとから社長になった雇われ社長のようなものでした。よくぞ部下たちは紹運の命令にしたがったものだと思います。

紹運の子は、立花宗茂。このとき香椎の背後にある立花山城を守っていました。のち、柳川藩を開いています。妻は女武将の誾千代。いま人気で、NHK大河ドラマにしょうという運動があります。詳しくは、御花で(うなぎでも食べながら)。

紹運の辞世。

 屍をば岩屋の苔に埋みてぞ 雲居の空に名をとどむべき

武藤資頼とちがい、紹運は忠義をつらぬいて雲居の空(あるいは、柳の川)に名をとどめたのでした。歌を詠んだ場所が歌枕であれば、岩屋城跡も歌枕でしょう。

岩屋城は四王寺山の一角、岩屋山にあります。四王寺山は、ふるくは大野山と呼ばれ、最高点は大城山です。大野山、大城山は万葉時代からの歌枕です。

 大野山霧立ち渡るわが嘆く 息嘯の風に霧立ちわたる 山上憶良

 今もかも大城の山にほととぎす 嘆きとよむらむ我なけれども 大伴坂上郎女

どうもむかしは嘆きを喚起する歌枕だったようです。大宰府(に左遷されていること)そのものがそうだったのかもしれませんね。

四王寺山ではいまも、ほととぎすが鳴き渡っています。もちろん大伴坂上郎女はいませんが。いいですよ。

2021年6月22日火曜日

忠義を貫かないで名を残した、武藤資頼

  (武藤資頼、資能親子の墓)
(手前が平知盛、奥が義経@壇ノ浦)
 
  松島の月が心にかかりますが、和泉三郎の関連で、対照的な生き方をした福岡の武将を2人紹介して先にすすみたいと思います。ひとりは武藤資頼、もうひとりは高橋紹運です。

武藤資頼は、はじめ関東の武士で平知盛の武将でした。知盛は、平清盛の四男。武蔵守を8年やっているので、そのときに主従関係ができたのでしょう。

資頼は、源平の戦いで、平家の側で戦いました。しかし、一ノ谷の戦いで平家が敗れた際、源氏の梶原景時を頼って投降しました。景時は、資頼の知人だったからです。

たまたま源平にわかれましたが、関東の武将はみな知りあいだったのかもしれません。いまでいえば、プロ野球の選手がそれぞれライバル球団に所属していても、夜はおなじところで飲んでいるようなものでしょうか。

一ノ谷の敗戦後、知盛は、関門海峡にある彦島で善戦したものの、壇ノ浦の戦いに敗れました。最後は「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と名ゼリフを吐いています。

高齢者にアンケートすると、「もっと挑戦すればよかった」と後悔しているそうです。知盛はわずか34歳で壮絶な最期をとげていますが、最期の言葉はこうありたいものです。

他方、投降した資頼は、景時が頼朝の寵臣であったこともあり、頼朝の御家人になりました。頼朝が奥州藤原氏をほろぼした戦を奥州合戦といいますが、資頼は奥州合戦で手柄をたてました。

資頼は、そうしたことが評価され、のちに九州に派遣され、鎮西奉行に就き、さらに肥前、筑前、豊前、壱岐、対馬の守護になっています。

平家政権の時代には原田種直の所領だった3700町歩はすべて資頼の所領になりました。太宰府で武藤、原田はいまもなお名族ですが、むかしはプチ源平合戦で、仲が悪かったのではないでしょうか。

資頼は、さらに、大宰小弐に任じられました。大栄達です。資頼の子、資能は小弐の位を継承しました。資能は、文永・弘安の役(元寇)の際、奮戦しています。

資頼と資能は親子なのに、一方は平安時代末、他方は鎌倉時代末に活躍しています。一瞬あれれと思います。でも鎌倉時代って意外と短かったんですね。資能が高齢者ながら奮戦したこもあります。

彼らの武功によるものでしょう、小弐の職は武藤家が代々世襲することになりました。子孫は官職名であったはずの小弐を名乗り、小弐氏として北九州の名族となりました。

博多駅の北、地下鉄祇園駅から東に行くと承天寺があります。資頼が円爾を招聘して創建しました。資頼の位牌と塑像が開山堂に安置されています。

和泉三郎と異なり、知盛に最後まで忠義を尽くさず、頼朝にしたがった資頼ですが、その子孫は繁栄し名族になっています。「人よく道を勤め、義を守るべし。名もまたこれに従う」といえないことも、たまにはあるようです。

太宰府・観世音寺の裏山に、資頼の墓と伝えられる五輪塔があります(写真左)。隣の宝筺印塔は子の資能の墓とされています(写真右)。いちど訪れて、歴史に思いをはせてはいかがでしょう。

2021年6月21日月曜日

塩竈神社(鹽竈神社)

(宮柱ふとしく、採椽きらびやかに) 

(石の階、九仞に重なり)

 あれれ。土日のんびりしているあいだに、トミーが連投しています。少なくとも雨ニモ負ケズの投稿は芭蕉一行が岩手県に入るまで待ってほしかった気がしますが、しかたありません、先を急ぎましょう。

 早朝、塩竈の明神に詣づ。国守再興せられて、宮柱ふとしく、採椽きらびやかに、石の階九仞に重なり、朝日朱の玉垣をかかやかす。かかる道の果て、塵土の境まで、神霊あらたにましますこそわが国の風俗なれと、いと貴けれ。

写真をうまく撮るには斜光線がいい、といわれています。朝夕、日の光が斜めに差すと、被写体が立体的に写り、平板な作品を免れるからです。

芭蕉の描写も、早朝参拝の効果でしょう。清澄な空気のなか、お宮全体がキラキラと輝いています。もともと塩竈神社は小高い丘の上にあり、仰ぎ見るかんじなのです。それに、さらに早朝効果がつけくわわって、神々しさばつぐんです。

(文治三年の宝灯)

 神前に古き宝灯あり。鉄の扉の面に「文治三年和泉三郎寄進」とあり。五百年来の俤、今目の前に浮かびて、そぞろに珍し。かれは忠義忠孝の士なり。佳名今に至りて慕はずといふことなし。まことに「人よく道を勤め、義を守るべし。名もまたこれに従ふ」といへり。

芭蕉が塩竈神社をキラキラと描いたのは、こちらの本題をより効果的に浮かび上がらせたかったからでしょう。和泉三郎は、奥州藤原三代・秀衡の三男・忠衡です。忠衡という名前をもらったときに、忠衡の運命は定まったのでしょう。

奥州藤原氏については、NHK大河ドラマ『炎立つ』でやっていました。後三年の役ののち勃興して奥州の覇者となったものの、わずか三代で頼朝に滅ぼされてしまいました。

頼朝に追われる義経は、秀衡を頼って奥州に落ち延びます。義経にふところに飛び込まれた秀衡は、さぞや困ったことでしょう。ところが、頼朝との駆け引きがこれからというときに、病没してしまいます。

それが文治三年(1187年)です。芭蕉来訪の500年前。和泉三郎こと忠衡はどのような願いを込めて、この法灯を寄進したのでしょうか。

鎌倉の圧力に屈し、泰衡は義経を殺し、その首を頼朝にさしだしました。忠衡は義経に対する忠義の心からこれに反対し、やはり泰衡に殺されてしまいます。その後、その泰衡も頼朝に攻めほろぼされてしまいます。

判官びいきもあり、のちの人々は、忠衡を忠義忠孝の士なりとして褒め称え、その名をいつまでも慕います。よく道を勤め、義を守れば、不易の名を残すことができるーというわけです。

裁判で「勝訴」や「無罪」の紙を持って走っている人は誰?

 

裁判で「勝訴」や「無罪」の紙を持って走っている人は誰?

NHKの「チコちゃんに叱られる!」で、先日放送がありました。


答えは、「足の速い若手弁護士」。


放送の中で、平成13年5月11日、熊本地方裁判所でのハンセン病訴訟で、我が事務所の迫田先生が「勝訴」の旗を出している映像が流れました。

これまで何度も見ましたが、改めてチコちゃんで取り上げられると「おお~」という感じでした。先輩!控えめに言って、めっちゃかっこいいです!


あの紙、「旗」とか「ビローン」って言うらしいですね。「ビローン」は初めて聞きました笑。


それにしても、自分としては、弁護士のイメージ、ベストスリーくらいに「勝訴」の旗出しが入っていると思っていたので、番組で取り上げられるくらい、世の中に知られていないことの方が驚きでした。


ところで、旗出しの役目、番組内では、「若手」よりも「足の速い」が重視されているように感じました。

「え、そうなの?若手っていうだけじゃだめなの?」

若手のうちに、運があればできるかと思っていたのに、脚力重視のようです。


私、足、遅いんですよね~苦笑。学生の頃には、運動部(剣道部)だったにもかかわらず、コンピューター部の同級生に50メートル走で敗北した記憶があります。


いかんいかん。このままでは、

「富永くん、君、足遅いから旗出しはだめだね。ボーッと生きてんじゃねーよ!」

と弁護団で言われかねません。


「え~、そんな~。自分もビローン出したいですよ~。」

もしものときは、裁判所で「勝訴」の旗を出す前に、弁護団の中で「愁訴」の旗を出そうと思います。


富永


P.S.

向井先生のかっこいい旗出しはこちらからどうぞ。

2020haru.pdf (chikushi-lo.jp)

2021年6月20日日曜日

父の日ですね。

 

みなさん、今日は父の日ですね。

父の日も、母の日も、いずれもアメリカ発祥で、日本では祝日にはなっていませんよね。

どうせなら祝日を増やしてくれれば、世のお父様方もお喜びになると思います。


ちなみに、国民の祝日に関する法律によれば、こどもの日は、

こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」

日なのだそうです。そう、母に感謝する日は、年に2回あるのに、父に感謝する日は、年に1回しかないんですよ!


みなさん、お父様をお大事に。


ついでに、家族の話題をもうひとつ。2015(平成27)年12月16日に最高裁大法廷で合憲判断となった夫婦別姓訴訟。今週6月23日に再び最高裁大法廷で判断がでるそうですね。どんな憲法(ノリノリ)判決が出るのか、注目です。


富永

2021年6月19日土曜日

【悲報】関西人の名が廃る -置きに行った自己紹介-


コロナ禍で何かと集まる機会が減っています。

そのためか、最近は、人に自己紹介する機会はあっても、人前で自己紹介する機会は少ないです。 

新進気鋭の(自分で言う?)若手弁護士ですから、インパクトのある自己紹介をして、ぜひ名前だけでも覚えて帰ってもらいたいところです(若手芸人か!)。


先日、久しぶりに人前で自己紹介する機会をいただきました。

ネタを披露して名前を覚えてもらうチャンスです。


私、温め続けている持ちネタがひとつありまして。


「みなさん、後ろをご覧ください。」

(場の人が、何事かと後ろを向く)

「このように、言葉で人を動かせる弁護士という仕事をしております。」

(爆笑)


というものです。

1度だけ人前で披露したことがあるのですが、そのときは盛大にスベって失笑。深いキズを負って帰りました笑。


さて、満を持して、再び持ちネタを披露するときが来ました。

前にお願いします、と言われ、登壇。


しかし、場のまじめな雰囲気に気圧され、結局、


「富永悠太と言います。テレビ朝日の報道ステーションのアナウンサーと一文字違いです。よろしくお願いします。」


と、置きに行って(?)しまいましたとさ。


関西人の名が廃れますわ。


富永


2021年6月18日金曜日

雨ニモ負ケズ

 

先日のこと。事務所に傘を置き忘れて帰宅し、翌朝、雨。

「あ~、やってしまったな~」と思いつつ、雨がやまないので、そのまま出勤。

思っていたより雨脚が強くなり、朝からビショビショになりました。


「傘をもう1本買って事務所と自宅に置いておこう。」と思い、傘を購入。

おかげで、その後、自宅から事務所まで濡れずに出勤できました。


ところが、今日、朝から雨。自宅を出ようとすると、傘がない。

「あ、2本とも事務所に忘れた・・・」


これは3本目を買わねば。ってなんでやねん。


富永

仏果を得ず~でも、そんなバカならなってみたい



  念のため、『仏果を得ず』を読み直したら、こんな一文が。

「だがこの場内で本当に生きているのは、不思議なことにいま死にゆかんとする早野勘平ただ一人だ。命を持たぬはずの勘平の人形だけが輝きを放つ。

 俺が語る声も、兎一郎兄さんの三味線も、人形を遣う十吾の息づかいも、客席からの熱気も、すべてが勘平という架空の人物のための糧にすぎない。

 舞台は爆発寸前の高揚を秘め、健はその場に居合わせた人々が、大きな渦に巻き込まれていくのを感じた。抗いようがない。舞台を主導していたはずの自分の声すら、もはや制御不能な巨大な渦の一角となった。

 これが劇だ。時空を超え、立場の異なる人々の心をひとつの場所へ導く、これが劇の力だ。」

この一文に、「はなれて奏でる」で書いたことが端的に表現されています。さすがしをん様、すばらしい。

 みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに 乱れそめにしわれならなくに

歌枕・しのぶもぢずりの石で、千年以上まえに死んだはずの河原左大臣の霊と歌だけが不易の輝きを放つ。

能因、西行、芭蕉一行やわれわれが、融の起こした大きな渦に巻き込まれていく。歌枕や歌は、時空を超え、立場の異なる人々の心をひとつの場所に導く、これが歌枕や歌の力だ。

こんなことを書くと、かならず「何いってんのあんた、何いっているかわかりません」などという人がでてくる。だいじょうぶ。そういう人にも、しをん様はお言葉を賜ってくださっています。

「『思へばゝこの金は、縞の財布の紫摩黄金。仏果を得よ』
 ああ、哀れなり、忠臣郷右衛門。いつも綺麗事ばかりで道をふみはずさぬあんたは、決してこの境地にたどりつけやしないんだ。勘平の、俺の、すべてを捨て去った、捨てざるを得なかった気持ちは、決してあんたにはわからない。だからあんたは、この劇のなかで一人だ。観客の共感から弾き飛ばされ、どこか遠くをぐるぐるまわりながら、『忠義、忠義』と飽きるまで吼えたてるといい。」

なんという厳しいお言葉。タイトルは忠臣蔵なのに、「忠義、忠義」と言ってんじゃないよ!ってどういうこと?ってかんじです、ははは。いつも綺麗事ばかりで道をふみはずさぬやからたちに、いちど言ってみたい。さぞや胸がすくことでしょう。

こうしていつものように、本の帯にあるとおり「でも、そんなバカならなってみたい」という気持ちにさせられたのでした。

2021年6月17日木曜日

塩竃の夜ー仏果を得ず


 その夜、目盲法師の、琵琶を鳴らして、奥浄瑠璃といふものを語る。平家にもあらず、舞にもあらず、ひなびたる調子うち上げて、枕近うかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝におぼえらる。

平家物語でもなく、幸若舞でもなく、いまの人形浄瑠璃でもなく、当時、奥州で流行していた奥浄瑠璃。いまはもうほとんど演奏されていないそう。まさしく流行。

演目は「牛若東下り」など。芭蕉が聞いたのも、おそらくこれ。浄瑠璃という名前の起源も、浄瑠璃離姫物語だとか。これもまた義経に由来しています。

1174年、牛若丸は奥州の藤原秀衡を頼って東下り。途中、矢作の里で、聞こえてきた琴の音に笛の根であわせたことから、浄瑠璃姫とラブに。しかし追われる牛若は姫をおいて東国へ。姫は悲しみのあまり菅生川に身投げ(流行)してしまいましたーという悲劇です。

いまわれわれが接することができる浄瑠璃は文楽(人形浄瑠璃)ぐらい。人形劇付きの浄瑠璃です。かってNHKで新八犬伝をやってましたが、あれ。べんべん。

博多座に来るのを待つか、大阪の国立文楽劇場まで行くか。吉本新喜劇に行くひまがあったら(笑)、いちどはどうぞ。

橋本大阪市長(当時)が補助金を見直すと言い出して騒動になりました。さらに、コロナ禍のなか、伝統芸能・舞台芸能はどこも青色吐息(桃色吐息じゃないですよ、若い人!)。税金を投じてでも伝統芸能を援助していく価値は十分にあると思います。

そうかな?と思うかたは、三浦しをんの『仏果を得ず』をご一読くだされ。わが事務所には三浦しをんファンが数知れず。あのぶっちゃけトークが炸裂するエッセイ類もだいすきですが、あまり知られていない大事な仕事に光をあてる小説系もだいすきです。しをん様、ラブ!

夜分すみません、ついつい興奮してしまいました。宿の壁うすく、枕近くでかしましかったでしょうけれど、わが国の遺風忘れないよう頑張りましょう。

なお、「仏果を得ず」とは、『仮名手本忠臣蔵』「早野勘平腹切りの段」のなかの名ゼリフから。切腹のさい「仏果を得よ」(=死んで成仏せいよ)といわれたことに対する勘平の返しの言葉。死んでたまるか、死んでも本懐を遂げてやる(敵討ちの御供をする)!という意味です。橋本市長なんかに切られてたまるか!と読むのは読みすぎか。

2021年6月16日水曜日

塩竈の浦





 ・・塩竈の浦に入相の鐘を聞く。五月雨の空いささか晴れて、夕月夜幽かに、籬が島もほど近し。蜑の小舟漕ぎ連れて、肴分かつ声々に「つなでかなしも」と詠みけん心も知られて、いとどあはれなり。

末の松山で、翼を交はし枝を連ぬる契りの木も、つひにはかくのごときと悲しさもまさりていたら、いつのまにか、つぎの歌枕・塩竈の浦に場面転換しています。

事務所旅行で仙台・松島を旅したときにも塩竈の浦ちかくまでは行ったのですが、残念ながら、塩竈湾(千賀の浦)や籬が島までは見学していません。なんというもったいないことを。師匠や河原左大臣に叱られそう。

残っている写真は、湾にほど近い亀喜寿司で食べた寿司の写真のみ。せめて、これをよすがに「肴分かつ声々」を想像してくだされ。

河原左大臣・源融は、すでに触れたとおり、陸奥の致景に惚れ込んで、京都の六条河原院に塩竈の浦を模して庭をつくらせました。現在の渉成園・枳穀邸です。

 河原の院こそ塩竈の浦候ふよ、融の大臣陸奥の千賀の塩竈を、都のうちに移されたる海辺なれば 名に流れたる河原の院の、河水をも汲め池水をも汲め・・・(謡曲『融』)

塩竈の浦の写真はありませんが、枳穀邸の庭の写真はあります。せめて、これをよすがに塩竈の浦を想像してくだされ。

(籬が島)

 わがせこを都にやりて塩竈の 籬が島のまつぞ恋しき 東歌

(塩竈の浦)

 みちのくはいづくはあれど塩竈の 浦漕ぐ舟の綱手かなしも 東歌

この古今集の東歌を本歌として、鎌倉右大臣が詠んだのが次の歌

 世の中は常にもがもな渚漕ぐ 海人の小舟の綱手かなしも

百人一首に採られているのでご存じでしょう。鎌倉右大臣は源実朝、頼朝の次男。鎌倉幕府の三代将軍となりましたが、鶴岡八幡宮で甥に暗殺された悲劇の人です。

百人一首を編んだ藤原定家のお弟子さんですが、東国武士ですから東歌を本歌に東国らしい詠みぶりです。

実朝はいま目のまえに広がる風景(塩竃の浦ではなく、鎌倉なので由比ガ浜か七里ヶ浜あたり)が永遠に続いて欲しいと願いましたが、願いは果たされませんでした。かなしは愛しいという意味ですが、われわれには悲しいと読めてしまいます。

頼朝は、弟の義経に平家を滅亡させ、奥州藤原氏の泰衡に義経を殺させ、さらにその藤原氏を攻め滅ぼして鎌倉幕府を開きます。が、実子はこうして暗殺され、実権は妻の実家にとられてしまいます。ああ無常。

・・・塩竈の浦に入相の鐘を聞く。ごーん。

2021年6月15日火曜日

末の松山


沖の石からすこし歩くと、末の松山に着きます。末の松山も有名な歌枕。どんな大波でもここを越えることはないとされます。それを踏まえて

 君をおきてあだし心をわが持たば 末の松山波も越えなむ 東歌

わたしが浮気をするようなことになれば、末の松山を波も越えることでしょう(そういうことはないですよ)。

これを本歌にして、ひねったのが清原元輔の有名な歌  

 ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波こさじとは 

詞書に「心変はりて侍りける女に」とあります。清原元輔の歌は百人一首でみなさんもご存じのことと思います。元輔は清少納言の父で、『後撰和歌集』の撰者、当時を代表する歌人・歌学者。

この歌をさらにひねったのが芭蕉のおくのほそ道。

 末の松山は、寺を造りて末松山といふ。松間々皆墓原にて、翼を交はし枝を連ぬる契りの末も、つひにはかくのごときと、悲しさもまさりて、塩竈の浦に入相の鐘を聞く。

「翼を交はし枝を連ぬる契り」は、白居易の「長恨歌」から。白居易は、清少納言の『枕草子』に香炉峰の雪ならんと中宮定子が尋ねた際のもととなった漢詩の作者。

「長恨歌」は玄宗皇帝と楊貴妃の愛を歌ったもの。その契りの言葉。

 天に在りては願わくは比翼の鳥となり
 地に在りては願わくは連理の枝と為らんと

「地上の星」の歌詞みたいですが、比翼の鳥は、夫婦が一枚ずつの翼で並んで飛ぶ鳥。連理の枝は、二本の木でありながら枝が繫がっているものです。

若いころ絶対あだし心をもたないよと契った恋人たち、翼を交わし枝を連ねる契りを結んだ夫婦。不易の愛を誓った彼らも、ついには墓に入ってしまうのだなぁ、悲しいなぁ・・ごーん。

ところで「まつ山のなみ」は古今集の仮名序にも出てくる有名事件。869年の貞観津波を踏まえているとされます。その津波の際に末の松山を波が越えなかったことから歌枕になっているとか。

東北大震災の津波も、末の松山を越えることはなかったといいます。こうした津波をめぐる伝承を不易のものとして語り継ごうという動きもでているようです。

2021年6月14日月曜日

野田の玉川・沖の石

 

(住宅地のなかの沖の石)

芭蕉一行は壺の碑の後で、野田の玉川・沖の石の歌枕を尋ねました。

3、4年ほどまえ、事務所で仙台・松島旅行に行きました。最終日、半日、自由時間になりました。みなさんはショッピングなどに行かれたようですが、ぼくは多賀城→沖の石→末の松山を訪ねました。

JR仙石(仙台~石巻)線の松島海岸駅から仙台方向へ向かうと6つ目に多賀城駅があります。沖の石も、末の松山も駅から歩いて回れます。野田の玉川には行っていませんが、やはり近くにあります。

(野田の玉川)

 夕されば潮風越してみちのくの 野田の玉川千鳥鳴くなり 能因法師

またまた能因法師ですね。白河の関(都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関)、武隈の松(武隈の松はこのたび跡もなし千歳を経てや我は来つらむ)につづいて3度目でしょうか。

(沖の石)

 わが袖は潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らね乾く間もなし 二条院讃岐

百人一首で有名な歌ですね。でもいま現地に行けば必ずガッカリされると思います。涙がでます、乾く間もないほど。悲しい予測変換です。

歌のイメージとかけはなれた歌枕。沖どころか海の近くでもなく、住宅街のまんなかにあります。野田の玉川もそうです。千鳥が鳴くようなところではありません。むかしは海岸がもっと入り込んでいたのでしょうか。

2021年6月13日日曜日

つ、つぶれる・・・



なんやかんやで、休日に出勤し、溜まったお仕事と巨大六法につぶされそうな若手弁護士の図。


馬鹿なことやってないで、さっさと仕事して帰りなさい、という先輩方の声が聞こえてきそうな・・・笑


(注)元気ですので、ご心配なきよう笑


富永

2021年6月12日土曜日

悲しい予測変換


昔、指導を受けた刑事裁判官の方が、

「自分のパソコンで『けっこん』と入力したとき、『結婚』より先に『血痕』が予測変換されるのを見ると 、なんか疲れますよね。」みたいな話をされていました。


幸い、私はまだ流血沙汰の事件を国選ガチャしたことはないので、『けっこん』の予測変換は『結婚』が先にきます。


ただ、『こうりゅう』の予測変換は、『交流』よりも『勾留』が先にきます。

法曹関係者のパソコンって、予測変換を調べたら一発で分かる気がしますね。


コロナ禍だと、留置施設のアクリル板の穴が塞がれていて、『勾留』中の方と話をするにも声を張らなければならず、大変です。


写真は、『交流』が禁止された福岡市役所前のふれあい広場です。



「きけん立入禁止」?はよくわかりませんが、『交流』にしても、『勾留』にしても、大変なコロナ禍の今日この頃でした。


富永


2021年6月11日金曜日

壺の碑(2)ー千歳の記念

 


東北にあるげなというけれど、どこにあるかは誰も知らない・・。インディー・ジョーンズの失われたアークみたい。

古代の遺跡は年間数ミリずつ土に埋もれていくので、1~2m掘らないと発見できません。発見されたとされるものも、偽物ではないかという疑いがついてまわります。

あの漢委奴国王と刻まれた金印も志賀島のお百姓が畑で発見したといわれているけれど、不自然、怪しい、偽物ではないかみたいな。

多賀城碑も、古代からずっとあったわけではなく、例のプチ・ルネサンスの流れでしょうか、江戸時代初期に再発見されています。それで芭蕉が訪れた際には、これが壺の碑だとされていました。

 壺の碑 市川村多賀城にあり。
 壺の石ぶみは、高さ六尺余、横三尺ばかりか。苔を穿ちて文字幽かなり。四維国界の数里を記す。「この城、神亀元年、按察使鎮守府将軍大野朝臣東人之所置也。・・」とあり。聖武天皇の御時に当たれり。

あれれ。坂上田村麻呂だったはずなのに、大野東人になっている。年代は桓武天皇の延暦20年(801年)のはずなのに、聖武天皇の神亀元年(724年)。胆沢城(岩手県)のはずなのに、多賀城(宮城県)。どうなってるの?

というわけで、いまでは、多賀城碑は壺の石文ではないとされています。昭和になって「日本中央」と書かれた石が青森県で発見され、そちらが本物なのだそうです(南部壺碑説)。

さて多賀城市は、太宰府市と姉妹都市。東の蝦夷に対する多賀城、西の隼人に対する大宰府政庁という関係だからです。多賀城跡も大宰府政庁跡も昭和になって発掘が進み、いまの姿がみられるようになっています。その前は畑か原野だったのだろうと思います。

ちなみに、多賀城碑を置いたとされる将軍大野東人、芸名のような名前です。彼はその後、藤原広嗣の乱を平定するため、九州、おそらく大宰府まで来ています。多賀城も大宰府政庁も、反乱と服属の歴史的舞台なんですねぇ。

奥州の歴史だけでも、蝦夷vs大野東人、アテルイvs坂上田村麻呂、陸奥の俘囚長安倍氏vs源頼義(前九年の役)、清原氏vs源義家(後三年の役)、奥州藤原氏vs源頼朝(奥州合戦)、伊達政宗vs秀吉・家康、伊達藩vs幕府(伊達騒動)という反抗と服属がいくえにも繰り返されています。芭蕉ははたしてどちら側だったのでしょうか。

ともあれ、江戸時代に芭蕉が見分したのは壺の石文ではなく、多賀城碑でした。歴史によくある皮肉ですが、芭蕉はその偽から蕉風の真実をつかみとっていきます。

 昔より詠み置ける歌枕多く語り伝ふといえども、山崩れ、川流れて、道改まり、石は埋もれて土に隠れ、木は老いて若木に代はれば、時移り、代変じて、その跡たしかならぬことのみを、ここに至りて疑ひなき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の喜び、羈旅の労を忘れて、涙も落つるばかりなり。

2021年6月10日木曜日

壺の碑(1)

(多賀城跡)

(多賀城碑)

「配属ガチャ」を「配偶者ガチャ」と読み間違えました。あはは。

つぎに芭蕉が訪れたのは、多賀城碑です。芭蕉はそれを歌枕・壺の碑(つぼのいしぶみ)であるとして、おくのほそ道に書いています。

それまで壺の石文を歌枕にして、おおくの歌が詠まれてきていました。

 思ひこそ千鳥の奥を隔てねど えぞは通はさぬ壺の石文 顕昭

 むつのくの奥ゆかしくぞ思ほゆる 壺のいしぶみ外の浜風 西行

 みちのおく壺の石文ありと聞く いづれか恋のさかひなるらん 寂蓮

 陸奥のいはでしのぶはえぞ知らぬ 書きつくしてよ壺の石文 源頼朝 

 思ふこといなみちのくのえぞいはぬ 壺の石文かきつくさねば 慈円

壺の碑(石文)の歌枕としての特徴は、遠くにあり、どこにあるか分からないということです。

最初の歌を詠んだ歌僧・顕昭が編纂した歌学書によると、壺の石文とは

「みちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。但し、田村将軍征夷の時、弓のはずにて、石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。」

とされています。田村将軍は、坂上田村麻呂(758-811)です。京都東山の観音霊場、世界遺産である清水寺を建立しました(謡曲『田村』)。

桓武天皇から征夷大将軍に任じられ、名前のとおり蝦夷を征討しました。胆沢城(奥州市水沢、平泉の北20Km)を築き、朝廷に反抗した蝦夷の長アテルイを降伏させました。アテルイは新作歌舞伎にもなっています。

坂上田村麻呂はその他数々の武功をあげ、平安時代の優れた武人としてシンボル的存在に。平安京の守護神、毘沙門天の化身とされました。学問の神様が菅原道真公とすれば、武芸の神様は坂上田村麻呂です。

ところが、これほどまでに有名な壺の石文がどこにあるのか、なぞでした。歌枕の特徴として遠くにあり、どこにあるか分からないとされてきたことから当然といえば当然です。

芭蕉が多賀城石碑を壺の碑だと考えたのは何故でしょう。単なるガチャの結果だったのでしょうか。(つづく)

当番ガチャによる連日の出張


「配属ガチャ」という言葉があるそうです。

オンラインゲーム内でアイテムがランダムに提供される抽選サービスの通称である「ガチャ」と同様、新卒の配属先が選べず運次第であることを揶揄して言われるようになった言葉なのだそうです。

ブラックな部署に配属されたとき等に

「配属ガチャにはずれた」と言うのだとか。


運次第、といえば、当番弁護でどこの警察署が回ってくるかも、そのとき、その事件による運次第です。

当番弁護とは、逮捕後、勾留前の段階では、国選弁護人がまだ選任されないことから、逮捕段階で、逮捕された人が弁護士から助言等を受けられるよう、要請を受けて弁護士会から当番の弁護士が派遣される制度です。

「ちくし法律事務所」の日常: 【刑事事件-①】逮捕されたあなたへ~「当番弁護士」 (chikushi-lo.jp)

当番の日に、どこの警察署で逮捕者が出るかなんて、事前には分かりません。

宗像署や糸島署などの事件が回ってくると、遠方ですから、「当番ガチャにはずれた」とも言えそうです。


先日、当番などで、立て続けに刑事事件が回ってきました。

ひとつ目は、久留米署。はじめてでしたが、距離はあってもそこまで遠方でもないので、大丈夫です。

ふたつ目は、九州厚生局麻薬取締部。留置施設があるわけではありませんが、逮捕された方がこちらにいるからということで出動要請がありました。博多にあります。

いわゆる「マトリ」ですよね。珍しい要請に、内心ワクワクしながら出張しました。

施設に入り、中でキョロキョロ。「初めて来ました!」と言うと、「はあ、そうですか。」と職員の冷たい視線を受けました。


そんなわけで、今回は珍しい当番ガチャを引いたのでした。


運次第のガチャといえば、逮捕された方からすれば、弁護人ガチャですよね。

なかなかできることが限られている場合も多いですが、せめて「弁護人ガチャにはずれた」と言われないよう、しっかりやりたいですね。


富永




2021年6月9日水曜日

宮城野の名所見物

 



名取川を渡って仙台に入ります。名取川は、陸奥守が武隈の松を伐って橋杭にしたという川です。上流には秋保温泉があり、立派な温泉が並んでいて、いちど会議で訪れたことがあります。

芭蕉が仙台に入ったのはあやめ葺く日、つまり端午の節句でした。おくのほそ道の冒頭の句は

 草の戸も住み替わる代ぞ雛の家

であり、桃の節句でした。あれから2か月余。ここに来るまでにも、浅香山であやめに代わる花がつみを探し回ったり、飯塚の里・医王寺で詠んだ句が「笈も太刀も五月に飾れ紙幟(かみのぼり)」だったり。仙台での端午の節句に向けて、着々と布石を打ってきた感じです。

仙台は伊達藩の城下町です。伊達藩は幕府にとっては煙たい存在であり、伊達騒動をネタに「伽羅先代萩」や「樅の木は残った」が作られました。最近では伊坂幸太郎さんが仙台を舞台に面白い小説をたくさん書いています。

その仙台で、芭蕉は画工の加右衛門と知り合いになり、昼は、仙台の名所を案内してもらいました。いまなら青葉城と霊屋でしょうが、当時は無理なので、あちこちの歌枕見物。

(宮城野萩)

 宮城野の露吹きむすぶ風の音に 小萩がもとを思ひこそやれ 源氏物語・桐壺

(玉田・横野)

 取りつなげ玉田・横野の放れ駒 つつじが岡はあせみ咲くなり 藤原俊頼

(木の下)

 みさぶらひ御笠と申せ宮城野の 木の下露は雨にまされり

夜には、松島・塩竃などの名所の画と、紺の染緒を付けた草鞋2足の贈り物をくれました。芭蕉は大喜び。さればこそ、風流のしれ者、ここに至りてその実を顕す。と、大絶賛。そして句を詠んでいます。

 あやめ草足に結ばん草鞋の緒

もらった画図にまかせて東へ向かえば、奥の細道という地名がありました。なんと奥州全体のことかと思いきや、おくのほそ道というタイトルはこの地名から採られているんですね。その山際にも歌枕が。

(十符の菅菰)

 みちのくの十符の菅菰七符には 君を寝させて我三符に寝む

 加右衛門が歌枕に詳しいのは何故でしょう。元禄時代、長く続いた戦国時代が収束して平和が訪れ、生産力が伸びて豊かになり、各地で文芸復興の動き(プチ・ルネサンス)があったことが背景にあります。

芭蕉は貞門派・北村季吟の門下です。季吟もこのような文芸復興の動きのなか、歌学を学び、『土佐日記抄』『伊勢物語拾穂抄』『源氏物語湖月抄』などの注釈書を著しています。つまり古典に詳しい。そのようなバックグラウンドが芭蕉の句を支えてもいますし、そこからの守・破・離が蕉風への道になっています。たぶん。

2021年6月8日火曜日

武隈の松ー千歳の形

(浅香山の松)
 


きのう述べたとおり、笠島に先回りしたかたちになっているので、きょうは国道4号線を戻って岩沼へ。

岩沼は阿武隈川が仙台湾にそそぐ河口の北にあります。阿武隈山地の北麓で、福島県の中通りと浜通りの合流点です。仙台空港が近く、東北本線と常磐線も合流しています。

司法修習生時代、日暮里(湯島までは千代田線経由で)から千葉県の松戸・馬橋まで常磐線を利用して通勤していました。常磐線は柏くらいまでのイメージだったので、岩沼まで延びてきていたことに感慨を覚えます。

そこに武隈の松という有名な歌枕があります。おくのほそ道には、有名な松や松の名所がたくさん登場します。武隈の松、末の松山、松島、姉歯の松。むかしは1000年生きるという長寿にあやかりたいと人気があったんですね。

武隈の松の特徴は、「二木(ふたき)に分かれて」いることです。東北本線と常磐線が合流するところで、松は逆に分かれているんですねぇ。

そのため古来、松の特徴をシャレた歌が詠まれてきました。

まずは橘季通。

 武隈の松は二木を都人 いかがと問はば見きと答へむ

二木→見き(三木)というシャレです。ダジャレじゃありませんよ。

つぎに能因法師。みちの國にふたたび下りて後のたびたけぐまの松も侍りざりければよみ侍りける。

 武隈の松はこのたび跡もなし 千歳をへてや我は来つらむ

陸奥の旅は2回目だけれども、前回とちがって武隈の松は跡もなくなってしまっているなぁ。あれから1000年も経っちゃったかなぁ。

武隈の松の跡がなかったのは、往昔、陸奥守にて下りし人(藤原孝義)、この木を伐りて名取川の橋杭にせられたることなどあればにや。

名取川はつぎの宮城野(仙台)との境を流れています。芭蕉が笠島の段と岩沼の段をひっくり返した理由の一つはここにありそうです。

能因法師は奥州に2度も旅をした歌人ですから、西行や芭蕉の大先輩です。おくのほそ道でも、ここのほか、すでに白河の関で登場していますし、のちほど象潟でも登場します。

当然、西行も歌を詠んでいます。

 枯れにける松なき宿の武隈は 見きといひても効なからまし

こうして武隈の松は代々、伐られたり、枯れたりして、いけば必ず出会えるというものではなかったようです。でもあらたに植えられたりして、新しい代の松に出会えることもあったよう。西行の訪問から500年後、芭蕉のときはどうだったのでしょうか。

ありました!そのことに芭蕉は大感激しています。

 武隈の松にこそ目さむる心地はすれ。根は土際より二木に分かれて、昔の姿失はずと知らる。・・・代々、あるは伐り、あるいは植ゑ継ぎなどせしと聞くに、今はた千歳の形整ひて、めでたき松の気色になんはべりし。

昔の姿失はずとか、今はた千歳の形整ひとか、諸事流行し滅していくなか、不易でありつづけることに感激しておられます。

そして江戸を立つ際、弟子の挙白が餞別にくれた句。

 武隈の松見せ申せ遅桜

これに答えて芭蕉が詠んだ句。

 桜より松は二木を三月越し

挙白が詠んだ桜の季節から3月経ってしまったけど、ようやくだ。松→待つ、二木→三月、三月→見つなどシャレておられます。