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2023年6月9日金曜日

笈の小文(1)伊良湖岬

 
(松本へ向かう飛行機の窓から。中央は伊勢湾、その向こうは太平洋。右側の陸は手前から松坂、伊勢、鳥羽。左側の陸は手前からセントレア空港、知多半島、三河湾の向こうに渥美半島。渥美半島の先端が伊良湖岬)

 芭蕉の紀行文に『笈の小文(おいのこぶみ)』がある。『おくのほそ道』の旅にでかける2年前、江戸から故郷の伊賀へ帰る里帰りの旅である。

里帰りだけでなく、関西各地の歌枕をめぐり、最後は須磨までの紀行文である(実際の旅は、その後、関西の旅、更科紀行の旅を経て江戸に帰るまで続く)。

芭蕉の死後15年も経ってから、弟子の乙州(おとくに)が出版したもの。そのため、分からないことも多い。

未定稿。芭蕉の発句や俳文で構成されていることは疑えないけれども、乙州の手がどの程度入っているのか、編集がなされているのか謎である。

この紀行をいま読み返している。そのいきさつはこう。

『笈の小文』は、冒頭の記述のあと、なぜか、名古屋の鳴海からはじまる。箱根も富士も遠江(浜名湖)も描かれない。

鳴海から、芭蕉は三河の国保美という處に二十五里戻る。保美は渥美半島の先端にちかい。写真でいうと、左上のほう、左から矢のように突き出ているのが渥美半島。その鏃(矢尻)の中央部分に保美はある。

100キロであるから25時間かかる。ナビで検索してみたところ、やはり99.6キロ。一日50キロ歩いても、まる2日かかる行程である。

旅の途中でなぜ100キロも後戻りしたかというと、愛弟子の杜国が罪人としてそこに流されていたから。杜国の罪は米の空売りである。

かれは裕福な米穀商だったが、在庫がないのに売るのは行きすぎ。ある種の詐欺である(現在では、流通が発達しているので、すべてが犯罪というわけではない。先物取引などは、いまだ実在しない商品の売買をあらかじめ行っている)。

「笈の小文」を読めば分かるが、ふたり旅のあいだ、芭蕉はとてもはしゃいでいて、単なる師弟関係以上のものがあったといわれる。恋人が罪をえて失意の底にあるときけば、彼を慰めるのに100キロの道のりもなんのその。

かれらは、伊良湖岬を訪れている。保美からわずか一里ばかり。1時間ほどの行程である。

天武朝の皇族麻績王(おみのおおきみ)は伊良湖に流されている。古くから流刑地だったようだ。その歌。

 うつせみの命を惜しみ浪にぬれ伊良湖の島の玉藻刈り食す

伊良湖岬は、三河の国の地つづきなのだけれども、万葉集では伊勢の名所に選ばれている。なぜか。写真を見ればわかるとおり、船便なら近いからである。

紀伊半島を度外視すれば、本州の南端に位置している。そのため、秋には南から鷹が渡ってくる。鷹は冬の季語だが、鷹渡るは秋の季語である。

西行の歌がある。伊勢で詠んだという。

 巣鷹わたる伊良湖が崎を疑ひてなほ木に帰る山帰りかな

巣鷹は飼育された鷹のこと。臆病なので、木に戻ってしまう。芭蕉らは、麻績王や西行の歌は当然知っていた。

罪人の杜国はもちろん、芭蕉も心細い気持ちだったろう。そこで詠んだ句。

 鷹一つ見付てうれしいらご崎

もちろん、鷹とは杜国のことである。

冬の鷹といえば、吉村昭に同名の小説がある。Amazonの解説によればこう。わずかな手掛かりをもとに、苦心惨憺、殆んど独力で訳出した「解体新書」だが、訳者前野良沢の名は記されなかった。出版に尽力した実務肌の相棒杉田玄白が世間の名声を博するのとは対照的に、彼は終始地道な訳業に専心、孤高の晩年を貫いて巷に窮死する・・。

100年後に苦労したこちらの冬の鷹も世渡りが下手だったのだろう。吉村昭の小説は、新潮文庫の100冊に選ばれていたので、読んだのだったと思う。残念ながら、さいきんは選に漏れているようだ。はやらないのだろうか。

                                    (つづく)

2023年3月22日水曜日

笠島@おくのほそ道



 芭蕉一行は、飯塚温泉から、桑折駅に出て、伊達の大木戸を通過した。桑折駅は、いったん福島駅に戻り、東北本線で北上し3つ目の駅である。

伊達の大木戸は隣の藤田駅の先。国見町文化財センターあつかし歴史館あたり。いまは4号線が走っていて、むかしの大木戸の雰囲気はない(江戸時代の雰囲気を知っているわけではないけれども)。ここから先は宮城県である。

さらに鐙摺・白石の城を過ぎ、笠島の郡に入る。地理的にも実際の行程的にも岩沼が先であるが、ここでも前後のつながりから、芭蕉は笠島のことを先に書いている。

笠島は、芭蕉が心を寄せる中将・藤原実方ゆかりの地だ。実方は清少納言ともつきあいのあった風流貴公子。宮中で喧嘩をしてしまい、天皇から「陸奥の歌枕見てまいれ」と陸奥守に左遷された。陸奥だから右遷だろうか。

笠島には道祖神の社がある(2枚目の写真)。道祖神は旅の神である。実方はその社前を乗馬のまま通りすぎようとしたため、神の怒りにふれ、客死したとされる。こんかい訪ねたときは、大学生たちが映画を撮っていた。

道祖神の社から北にすこし行くと、実方の墓がある(3枚目の写真)。実方は在原業平にも比せられる貴族だが墓は質素だ。

これまた芭蕉が敬愛する西行も墓参りをしている。詠んだ歌はこれ。

 朽ちもせぬその名ばかりをとどめ置きて枯野の薄かたみにぞ見る

かたみの薄はいまもあるが、当時のものではないだろう(行けばわかる)。

ところが、芭蕉はじっさいには道祖神の社にも、実方の墓にも参っていない。遠くからながめただけである(1枚目の写真)。五月雨に道いと悪しかったことが理由である。疲れていたのか、完全(予定調和)になることをきらったのか。

 笠島はいづこ五月のぬかり道

2022年11月28日月曜日

松帆の浦・明石海峡

(松帆の浦) 

(絵島) 

(海峡越しに一ノ谷・須磨)


 (明石海峡と明石海峡大橋)
 
 旅の第1の目的地は大塚国際美術館、第2の目的地は松帆の浦。そう言われても知らない人がほとんどだろう。

 来ぬ人をまつ帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ 権中納言定家

これなら知る人も多いだろう。百人一首の代表歌。定家が撰者なので、よほどの自信作と思われる。そこで詠まれている松帆の浦へ一度行ってみたかった。

松帆の浦は淡路島の北端にあり、明石海峡をへだてて、本州の明石・舞子・須磨と接している。西には播磨灘をへだてて、小豆島の島影が見える。

定家の歌の本歌は『万葉集』の笠朝臣金村の歌。

 なき隅の船瀬ゆ見ゆる淡路島 松帆の浦に朝なぎに 玉藻刈りつつ夕なぎに
 藻塩焼きつつ海女少女 ありとは聞けど見に行かむ よしのなければ上部の
 情はなしに手弱女の 思ひたわみて徘徊り 我れはぞ恋ふる船梶を無み

本歌の主人公は明石側から淡路島の女を恋している。これをひっくり返して淡路島側から恋する乙女の立場で詠んだのが定家の歌。塩がじりじりと焼けるような情念・・。

定家には「三夕」の歌の一つとして名高いつぎの歌もある。浦の夕暮れは詩心をさそうようだ。

 見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ

松帆の浦から東へすこし行くと絵島がある。絵島というと大奥を思い浮かべるが、そうではなく月見の名所である。西行の歌碑がある。

 千鳥なく絵島の浦にすむ月を波にうつして見るこよいかな

西行と時代をおなじくする『平家物語』にも、「福原の新都におられる人々」が絵島で月見をした話がでてくる。

 やうやう秋も半ばになりゆけば、福原の新都にまします人々、名所の月を見んとて、或は源氏の大将の昔の跡をしのびつつ、須磨より明石の浦づたひ、淡路の瀬戸をおし渡り、絵島が磯の月を見る。

絵島からは海峡越しに、一ノ谷や須磨あたりをのぞむことができる。写真の緑の部分が鉢伏山、その向こうが一ノ谷や須磨のあたりである。一ノ谷は源平合戦の激戦地。大手の戦いは神戸・生田神社のあたり。一ノ谷は搦め手側。義経が鵯越を越えて活躍したためか、敦盛最後など『平家物語』の悲劇が一ノ谷に集中したためか、一ノ谷の戦いと呼ばれる。

福原は源平合戦が勃発して平清盛が緊急避難して新都を築こうとしたところ。神戸の南部、大和田の泊があったあたりが予定地とされる。しかし不人気で途中で計画は放棄され、旧都に復したとされる。

源氏の大将の昔の跡をしのびつつとあるのは、ややこしい。『平家物語』にでてくる源氏ではなく、『源氏物語』にでてくる光源氏のこと。光源氏は一時失脚して、須磨に隠棲した。それが「須磨」の段、そこから「明石」の段を経て再起していく。

いくら紫式部が天才といっても、「須磨」や「明石」の段が彼女のイマジネーションだけで書けたわけではない。須磨や明石をめぐっては古今集などに多数の和歌が存在するほか、関連して故事も存在する。

なかでも有名なのは、在原行平の故事と歌である。行平は『伊勢物語』で有名な在原業平の兄。文徳天皇のときに須磨に蟄居を余儀なくされたという。 

 わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつ詫ぶと答えよ

『源氏物語』の「須磨」の段がこのエピソードを踏まえていることは、本文中に明らか。行平には百人一首にとられた次の歌もある。

 立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今帰り来む

これは必ずしも須磨の蟄居とは関係ない時の歌のようだが、惜別の内容から行平を悲劇の主人公とイメージさせる。業平ほどではないにせよ、女性にももてたことだろう。

謡曲の「松風」は、須磨を訪れた諸国一見の僧が、松風村雨という姉妹の亡霊に出会い、彼女らが行平に恋い焦がれる曲になっている。

淡路島、明石海峡、明石、須磨、神戸。風光明媚だという評価は、ここが日本一だろう。もともとの自然の美しさもさることながら、そのうえに積み重なった歴史や古典の美しさ。美しいイメージがつぎつぎに喚起される。みなさまも一度どうぞ。

2022年1月17日月曜日

冬の旅(6)-岩間山正法寺

 



 近江八幡駅に戻り、西へ向かって石山駅で下車。つぎの目的地は西国12番札所の岩間山正法寺。

バス便だと中仙町から徒歩50分なうえ待ち時間がだいぶあったので、タクシーを利用した。運ちゃんに正法寺というもピンとこず、岩間寺というとピンときた。

石山寺の前を通って瀬田川沿いに南下、京滋バイパスと直行するところをバイパス沿いに西へ。中仙町バス停から右折して岩間山の山道へ。くねくねとしばらく行くと、岩間寺の駐車場に着いた。

駅からはかなり遠い。しかし10番札所の御室戸寺、11番札所の醍醐寺(上醍醐)からは意外と近い。むかしはこのあと13番札所の石山寺まで歩いたのである。

岩間寺は奈良時代に泰澄がカツラの樹から千手観音を削って本尊としたのがはじまり。境内には古樹や夫婦カツラもある。カツラはリズミカルな葉の並びや秋の甘い香りが大好きだ。

寺の右手には「芭蕉の池」があり、芭蕉が古池やの句を詠んだとされる。芭蕉がこの句を詠んだのは深川のはずなのだけれども、このような伝承は各地にあるらしい。

芭蕉(写真はJR石山駅前のもの)のゆかりといえば、ちかくに幻住庵跡がある。岩間山と石山寺の中間あたり、国分山にあった。俳文「幻住庵記」のなかに、岩間寺もでてくる。

 石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ。そのかみ国分寺の名を伝ふなるべし。

幻住庵は福岡とも縁がある。久留米髙良山の僧正に芭蕉が幻住庵の額の揮毫を依頼して入手しているから。いわく。

 筑紫髙良山の僧正は、賀茂の甲斐何某が厳子にて、このたび洛にのぼりいまそかりけるを、ある人をして額を乞ふ。いとやすやすと筆を染めて、「幻住庵」の三字を送らる。やがて草庵の記念となしぬ。

幻住庵は風光明媚だったようだ。琵琶湖はもちろん、比叡山、比良山、三上山ものぞむことができた。

 比叡の山、比良の高根より、辛崎の松は霞こめて、城あり、橋あり、釣たるる船あり、・・・中にも三上山は士峰の俤に通ひて、武蔵野の古き住みかも思ひ出でられ、田上山に古人をかぞふ。

「幻住庵記」末尾の句はこれ。

 先づ頼む椎の木も有り夏木立

西行が吉野山のトチ、須賀川の栗齋が栗を頼みとしたのにならい、芭蕉もシイの古木の霊力を頼みとしたのだろう。

いちばん下の写真の句碑は久留米城跡のもの。先の扁額つながりだろうか、蕉風が久留米までおよんでいたことを示すものだろう。

2021年8月27日金曜日

敦賀

 



 やうやう白根が岳隠れて、比那が嵩現る。あさむづの橋を渡りて、玉江の蘆は穂に出でにけり。鶯の関を過ぎて、湯尾峠を越ゆれば、燧が城、帰山に初雁を聞きて、十四日の夕暮れ、敦賀の津に宿を求む。
 その夜、月殊に晴れたり。「明日の夜もかくあるべきにや」と言へば、「越路の習ひ、なほ明夜の陰晴はかりがたし」と、あるじに酒勧められて、気比の明神に夜参す。仲哀天皇の御廟なり。社頭神さびて、松の木の間に月の漏り入りたる、御前の白砂、霜を敷けるがごとし。
 往昔、遊行二世の上人、大願発起のことありて、自ら草を刈り、土石を荷ひ、泥濘をかわかせて、参詣往来の煩ひなし。古例今に絶えず、神前に真砂を荷ひたまふ。これを遊行の砂持ちと申しはべる、と亭主の語りける。

 月清し遊行の持てる砂の上

 十五日、亭主のことばにたがはず雨降る。

 名月や北国日和定めなき

 白根が岳は白山、奈良大宮ロータリーのご招待で、みなさんと登りました。けれども、ずっと雨で、残念ながら写真はありません。小松のイオンや、勝山駅から見た記憶はあるのですが、写真は見つかりませんでした。すみませぬ。

敦賀はだいぶ京都にちかいですが、なお福井。敦賀湾が南に入り込んでいるため、天然の良港。大陸、日本海にも面し、陸路でも近畿と北国を結ぶ交通の要衝です。

敦賀駅からすこし北に行くと気比神宮があります。

仲哀天皇はヤマトタケルの子で、神功皇后のだんな様。そのため九州ともご縁があり、香椎宮や宇美八幡でもお祀りされています。

遊行上人は、蘆野の柳ー西行の遊行柳の段でもでてきました。一遍上人が創始した時宗の僧のことです。いまは時宗の僧にお目にかかりませんが、江戸期まではたくさんおられたのでしょうね。そして廃仏毀釈までは、ここにあるように、神社に僧が奉仕するということも普通におこなわれていたのでしょう。

気比神宮をさらに北に行くと、金ケ崎城跡があります。ご存じですか。織田信長が浅井長政に裏切られて、北陸の朝倉に挟撃され、絶体絶命のピンチ。秀吉と光秀がしんがりをつとめて、無事難を逃れた場所です。

駅前には『銀河鉄道999』のモニュメントが多数設置されています。そうかそうか、松本零士は敦賀出身か・・・いやまてよ、久留米出身だったのでは。

敦賀は、松本零士とは関係なく、交通の要衝ということで鉄道にちなんでいるそうです。むむむ、我田引水ならぬ我田引鉄・・(以下、自粛)。

この写真をフェイスブックにアップしたら、鉄郎が男前すぎるとのご批判を多数いただきました。すみませぬ。その理由は敦賀市のホームページなどをご覧くだされ。

鉄郎の後ろには999号が見えています。999号を見ると、思い出すのは山陰某駅前のモニュメント。やあ999号と思いきや、これがちがうのだそうです。鉄郎が男前すぎるどころではありません。これこそ我田引水ならぬ我田引鉄・・(以下、再自粛)。

とまれ、岩手でジョバンニ、カンパネルラとともに銀河鉄道に乗車し、宇宙パートで佐渡に横たふ天の川を間近に見てきたわれわれですが、ようやくゴールの大垣が間近に見えてきたようです。

※昨日のクイズの答え。間違いは花の写真、夕顔ではなく昼顔の写真になっていました。アサガオ、ヒルガオ、ヨルガオはみな同じ仲間ですが、ユウガオはウリの仲間です。どこで見分けるのか。アサガオなどは花びらが1つですが、ユウガオは白い花で花びらが分かれています。

2021年8月24日火曜日

吉崎・汐越の松

(吉崎)


(汐越の松)
 
(東尋坊@ちくし事務所旅行)

 越前の境、吉崎の入江を舟に棹して、汐越の松を尋ぬ。

 よもすがら嵐に波を運ばせて 月を垂れたる汐越の松  西行

この一首にて数景尽きたり。もし一弁を加ふるものは、無用の指を立つるがごとし。

 大聖寺川を川に沿ってさらに下ると、日本海に出ます。その直前、加賀の境を越えて越前(南)側に北潟湖が広がり、その東岸に吉崎があります。吉崎は吉崎御坊があったところです。

わが家もご多分にもれず浄土真宗。真宗は親鸞聖人がはじめたられたことはみなさんご存じでしょう。室町時代には真宗は衰退していました。それを中興したのが蓮如で、その拠点となったのが吉崎御坊です。蓮如がいなければ、わが家が真宗に帰依することもなかったでしょう。

教科書にでてきた加賀一向一揆も蓮如や吉崎御坊が中心。そういえば、曽良が養生におもむいた伊勢長島も戦国時代、一向一揆の拠点でした。なにか関連があるのでしょうか。

吉崎御坊跡から北潟湖を越えて西岸にでると、芦原ゴルフクラブがあります。汐越の松はその敷地の中にあります。無断では入れません。受付で承諾をとりコースのなかをしばらくいく必要があります。いまでは月が垂れるかわりに、ゴルフボールが降ってきます。

汐越の松と聞いて、なにやら思いだしませんか。そう、一つは末の松山ですね。

 君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなむ 東歌

 ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波こさじとは 清原元輔

もう一つは象潟の汐越。曽良の句

 波越えぬ契りありてや雎鳩の巣  曽良

二人の愛が続く限り末の松山を波が越えることはないとの断言から、すこしずつ崩れて、ここでついに汐が越えてしまいました。女房役の曽良と離ればなれになったことを表しているのでしょうか。

なお、汐越の松からすこし南に下ったところに東尋坊があります。松本清張の『ゼロの焦点』の舞台です。最近は(といっても10年以上前ですが)広末涼子主演で映画化されましたね。

2008年10月15日事務所の旅行で行きました(加賀屋に泊まったのと同じとき)。その際の写真ですが、この西方浄土にあこがれ・たそがれている女人が誰だったか思い出せません(笑)。

2021年8月20日金曜日

ソラとの別れ

 



 曾良は腹を病みて、伊勢の長島といふ所にゆかりあれば、先立ちて行くに、

 行き行きて倒れ伏すとも萩の原 曾良

と書き置きたり。行く者の悲しみ、残る者の恨み、隻鳧の別れて雲に迷ふがごとし。予もまた、

 今日よりや書付消さん笠の露 

 江戸からずっと芭蕉の秘書役をつとめてきた曾良は金沢あたりから体調不良、なんとかここまで来ましたが、これ以上旅をつづけることが困難に。やむなく親族のもとで療養することに決め、先に帰ることになりました。

 曾良の無念、芭蕉の心細さが痛いほど。起承転結、別れのテーマのエピソード3は、いままで比較にならないくらいツライ別れです。金沢あたりからしきりと秋風が吹いていましたが、ここにきて身にしみます。

曾良の行き行きての句は、西行の歌を踏まえています。

 いづくにか眠り眠りてたふれふさん と思ふ悲しき道芝の露

「隻鳧の別れ」は、李陵と蘇武の別れを踏まえています。平家物語の巻第二の最後に「蘇武」の章があります。むしろ中島敦の『李陵』のほうが読まれているかもしれませんね。違いは後者に司馬遷の人生がからんでくることです。

項羽と劉邦の戦いののち、劉邦が漢を建国します。その7代目が武帝で、前漢の最盛期を迎えます。名前のとおり、宿敵である匈奴への外征を繰り返しました。

李陵も、蘇武も外征を命じられた将軍です。李陵は、自分の判断とははなれたことから匈奴に捕まります。しかし自身で投降したと誤って伝えられ、武帝の怒りをかい親族を殺されてしまいます。その落胆や怒りのため、李陵は匈奴に協力するようになります。

他方、蘇武は、辛酸をなめ李陵が説得するも最後まで節をまげません。そして雁に手紙を託したメッセージが故国に伝わり、晴れて帰国することがかなったのでした。

李陵と蘇武、人生の選択がわかれましたが、どちらも苦難の人生でした。匈奴の捕虜として同じ境遇にあり、彼らの間には友情がありました。しかし、運命は二人を引き裂き、蘇武だけ帰国することになったのでした。

鳧はケリという鳥で、チドリの仲間です。隻鳧は一羽のケリということですから、隻鳧の別れは、李陵と蘇武の別れを指す言葉です。

司馬遷がどうからむのか。李陵が捕まった際、武帝の癇癪をおそれて皆、追従したのですが、ひとり司馬遷は李陵をかばう論陣をはりました。案の定、武帝の怒りをかい、司馬遷は屈辱的な宮刑に処せられたのでした。

われわれが現在、いまのような『史記』を読めるのは、この宮刑による屈辱をバネにした司馬遷の不屈の精神によるものです。

平家物語になぜ「蘇武」の話がでてくるのか。歌舞伎や能の『俊寛』をご存知でしょうか。おごれる平家を打倒しようとして鹿ケ谷の陰謀がはからます。

しかしあえなく発覚。陰謀に加担した俊寛のほか、藤原成経と平康頼は、九州の南方にある鬼界ガ島に流されました。

俊寛は僧でありながら信心深くありませんでした。他方、康頼らは信心深く神仏に祈り、千本の卒塔婆に自分たちの名前や歌を書きつけて海に流しました。歌は、

 薩摩方おきの小鳥にわれありと親には告げよ八重の潮風

 思ひやれしばしと思ふ旅だにもなお故郷は恋しきものを

なんとこの卒塔婆のことは流れ流れて都まで伝えられることなり、康頼らは恩赦により帰京を許されたのでした。これが雁に手紙を託して帰国を許された蘇武のエピソードと重なることから、平家物語に「蘇武」がでてきます。

他方、恩赦の文書をなんど読み直しても俊寛の名はなく、追いすがる彼を島に残して舟は行ってしまったのでした。信心うすい彼のせいとはいえ、一人島に残されることとなった、その悲劇が歌舞伎や能を観る現代人にもじーんと来るのでした。

隻鳧の別れの解説に時間をとられました。先を急ぎましょう。

芭蕉が消した書付は「同行二人」という文字です。よく四国のお遍路さんが笠に書いていますね。あれは弘法大師と二人という意味ですが、ここでは芭蕉と曾良の二人という意味に転じて使われています。季語は露。

われわれも秘書さんがお休みの日はとても心細い。長旅の途中である芭蕉の心細さはよくわかります。わが事務所は比較的人の異動がすくない職場ですが、それでも今年度は大きな異動が見込まれています。これもまた不安だし心配です。

私事ですが、イタリアに転勤を命じられている二女夫婦に今春子どもができ、里帰り出産しました。その名も蒼空。ここのところマゴマゴ生活をエンジョイしていました。

が、彼らは昨夕の飛行機でイタリアに戻っていきました。コロナ禍のなかイタリアに戻ることも心配ですし、まだ3か月の孫のことも心配。幸あれと願うばかりです。

2021年8月4日水曜日

象潟(きさがた)


(南に鳥海、天をささへ)


 


(ネムの花)

 江山水陸の風光数を尽くして、今象潟に方寸を責む。酒田の港より東北のかた、山を越え、磯を伝ひ、いさごを踏みて、その際十里、日影やや傾くころ、潮風真砂を吹き上げ、雨朦朧として鳥海の山隠る。暗中に模索して「雨もまた奇なり」とせば、雨後の晴色また頼もしきと、蜑の苫屋に膝を入れて、雨の晴るるを待つ。その朝、天よく晴れて、朝日はなやかにさし出づるほどに、象潟に舟を浮かぶ。まづ能因島に舟を寄せて、三年幽居の跡を訪ひ、向こうの岸に舟を上がれば、「花の上漕ぐ」と詠まれし桜の老い木、西行法師の記念を残す。江上に御陵あり、神功皇后の御墓といふ。寺を干満珠寺といふ。この所に行幸ありしこといまだ聞かず。いかなることにや。この寺の方丈に座して簾を捲けば、風景一眼の中に尽きて、南に鳥海、天をささへ、その影映りて江にあり。西はむやむやの関、道を限り、東に堤を築きて、秋田に通ふ道遙かに、海北にかまへて、波うち入るる所を汐越というふ。江の縦横一里ばかり、俤松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふがごとく、象潟は憾むがごとし。寂しさに悲しみを加へて、地勢魂を悩ますに似たり。

 象潟や雨に西施がねぶの花

 汐越や鶴脛ぬれて海涼し

   祭礼
 象潟や料理何食ふ神祭り 曽良

 蜑の家や戸板を敷きて夕涼み 美濃の国の商人 低耳

   岩上に雎鳩(みさご)の巣を見る
 波越えぬ契りありてや雎鳩の巣 曽良

 文中にあるとおり、象潟は、おもかげ松島に通いて、また異なり。松島は笑うがごとく、象潟は憾むがごとし。寂しさに悲しみを加えて、地勢魂を悩ますに似たり。

東西横綱対決、東の横綱が松島で、西の横綱が象潟。松島は太平洋側のせいか陽、象潟は日本海側のせいか陰です。

芭蕉の格調高き美文も、いずれ劣らぬものになっています。松島「島々の数を尽くして」、象潟「江山水陸の風光数を尽くして」。松島「江の中三里」、象潟「江の縦横一里」、松島「その気色窅然として、美人の顔を粧ふ」、象潟「寂しさに悲しみを加えて、地勢魂を悩ますに似たり」など好対照。

「雨もまた奇なり」は蘇軾(蘇東坡)の「飲湖上初晴後雨」、水光瀲灔として晴れてまさに好し、山色空濛として雨もまた奇なりから。略して、晴好雨奇といいます。

呉越同舟という言葉がありますが、戦国時代、呉と越ははげしい戦を繰り返していました。その際、越が呉に献上した美人が西施。呉の王は西施におぼれ、ついには国を滅ぼしてしまいました。美人のことを傾城といいますが、このことです。

この詩は、このあと西湖と西施を比べようとすればと続き、美しい水景色と美しい西施を対比するイメージを導きます(松島も西湖をはぢずとされていました。)。

そして淡粧濃抹総べて相宜しと結びます。雨に煙る景色は西施のうす化粧、キラキラ晴れの景色は濃い化粧。どちらもすばらしく甲乙つけがたいというわけです。

こうして見てくる、雨のち晴だったという芭蕉たちの天気も、蘇東坡の詩にあやかるための文飾なのかもしれませんね。

蜑の苫屋に膝を入れて雨の晴るるを待つたのは、あとで出てくる能因の歌にあやかったものです。

 世の中はかくても経けり象潟の 海士の苫屋をわが宿にして

能因は、海士の苫屋をわが宿にして象潟で三年幽居したというのですが、ほんとうでしょうか。かれは歌のためならなんでもする人だったようです。白河の関で紹介した歌について、有名な噂があります。

 都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関

 能因はこの歌を作ったものの、じっさいには白河の関に行ったことがなく、そこで旅にでたらしいと噂を流し、家にこもって日焼けをしたうえで、この歌を公表したというのです。あはは。(能因はじっさいには奥州を旅しています。でもこのような噂があったのは、ほかでもそのようなケレン味のある振舞いがあったということでしょう)

「花の上漕ぐ」と詠まれし桜の老い木とあるのは、西行が詠んだとされる次の歌(なにせ、500年前の歌ですから、桜も老い木のはず)

 象潟の桜はなみに埋れて 花の上漕ぐ海士の釣り舟

ネムの木は、夜になると葉が閉じて垂れ下がります。なので、眠むの木。西施の瞳も眠たげだったのでしょうか。もちろん芭蕉も西施に会ったことはなかったでしょうが、ネムの花のようだといわれれば、そんな気がしてきます。花言葉は歓喜。

波越えぬ契りありてやは、末の松山の段で紹介した次の歌を踏まえています。

 君をおきてあだし心をわが持たば 末の松山波も越えなむ

 ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波こさじとは 清原元輔

岩上を波が越えたかどうかは分かりませんが、芭蕉が訪問した100年後、象潟は大地震で土地が隆起してしまい、潟としての風景は失われてしまいました。芭蕉が信じた大自然の景観さえ、不易ではなかったんですねぇ。

2021年7月15日木曜日

平泉(2)ー夢の跡


 (北上川@高館跡から)


(義経堂@高館跡) 


 まづ高館に登れば、北上川、南部より流るる大河なり。衣川は和泉が城を巡りて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷を防ぐと見えたり。さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。

 夏草や兵どもが夢の跡

 卯の花に兼房見ゆる白毛かな  曽良

北上川、わかりにくいけれど、南部とは岩手県南部地方のことで、写真の左手、北のほうです。そして右手、南のほうへ流れ、モネの登米をへて、石の巻湾に注ぎます。

写真のちょっと左手、支流の衣川が北上川に注いでいます。和泉が城の和泉は、塩竈神社の段ででてきた和泉三郎のことです。最後まで、義経に忠誠を尽くしました。対する泰衡は、三代目秀衡亡きあと、頼朝の圧力に屈して義経を攻め殺してしまいました。

衣川は歌枕です。

 ただちともたのまざらなん身にちかき 衣の関もありといふなり よみ人しらず

衣川の関という言葉は、衣服でへだてていることから、すぐ身近にいながらも男女が関係を結ばないことのたとえとして用いられるようになりました。

これを踏まえて、もう一度、芭蕉の文章を読んでみてください。衣川は、義経に忠実だった和泉三郎の城を巡りて、義経の住まいであった高館の下で北上川に合流していた。これに対し、義経を責め殺した泰衡らの旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷を防ぐと見えた(どっち向いてんだよ!)。

義経は泰衡軍に攻囲されて、高館で自害して果てました。享年31歳、なんと落合くんと同い歳です。曽良の句にでてくる兼房も義経の義臣。もうだいぶ年で、白毛がトレードマークです。義経の自害を見届け、高館に火を放ち、最後の奮戦をして自害しました。

兼房がなぜ高館に火を放ったのか、なぜその事実が義経記などに特筆されているのでしょうか。敵方の大将や、強い武将はちゃんと死にましたよと世に知らしめることが重要だったんですね。このため世論が納得するよう、京都の六条河原に首をさらしたりしました。

義経は死んでいない、大陸にわたってチンギスハンになったなどという伝説が生まれたのは、兼房が高館を焼いたため義経の死がはっきりしなかったためだったのかもしれません。

芭蕉は触れていませんが、もちろん西行も500年前にここを訪れています。三首。

 とりわきて心も凍みて冴えぞわたる 衣川見にきたる今日しも

 涙をば衣川にぞ流しつる ふるき都をおもひ出でつつ

 衣川みぎはによりてたつ波は きしの松が根をあらふなりけり

「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」が杜甫の「春望」から採られていることは、「はなれて奏でる(5)」で述べました。すごくないですか。中国古代の大詩人の詩から、西行の旅と歌、その500年後の芭蕉の旅と句を経て、現代まで。北上川のように、とうとうと流れています。

2021年7月2日金曜日

瑞巌寺(2)

 

 『牛島税理士物語』を読みふけることは、新人弁護士にとって急を要し、絶対必要なことだと思いますね(鼻息荒く、まえのめり気味に)。若書きで、読みにくいことは認めますが。さて、

 その後に雲居禅師の徳化によりて、七堂甍改まりて、金壁荘厳光をかかやかし、仏土成就の大伽藍とはなれりける。かの見仏聖の寺はいづくにやと慕はる。

きのうの法身上人の活躍のあと、ふたたび瑞巌寺は廃れてしまいました。江戸時代に入り、伊達の殿様の招きで寺を再興したのが雲居禅師。雄島の磯の段で紹介した人物です。

その徳化により、七堂甍改まりて、金壁荘厳光を輝かし、仏土成就の大伽藍とはなりました。パチパチ。

ふぅ、つかれた(伊達の殿様のてまえ、せいいっぱい、ヨイショしたので)。東大寺の大仏も立派だけれども、そのあとは興福寺の阿修羅にあいたいよね。清水寺、知恩院の大伽藍もいいけど、そのあとは修学院、詩仙堂あたりで息抜きしたいよね。みたいな気分。

こんな気分になった芭蕉が思い浮かべたのは見仏聖。芭蕉の慕う西行ゆかりの人です。別名「月まつしまの聖」。もちろん「月の松島」と「月待つ」がかけられています。

彼の寺はいづくにや。答えは、寺ではなく、妙覚庵という草庵で、場所は雄島です(雄島の磯の段、2つ目の写真)。

聖は12年間まったく島からでないで、毎日法華経を読誦。そして人びとに法華経を授け、法華浄土への往生を説いて死後の不安を解消させました。

六根すでに浄く、能く神物を使役し、霊異すこぶる多し。神物を使役するとは、役行者か陰陽師・安倍晴明のようですね。死者の声を伝達し、空飛ぶ超能力もありました。そこから「空の聖」の別名も。

西行は諸国遍歴中、能登稲津で聖に出会いました。彼は岩窟で帷子のみで端座修行中でした(あれれ、12年間まったく雄島からでないで修行したのではないの?)

聖は「毎月10日ばかりここに必ずくるが、本来住んでいるところは松島である」と言ったそうです。毎月10日を能登で、残りを松島で修行するには、もちろん空を飛んで、県をまたいで行き来するしかありません。

西行はそれを聞いて、感涙にむせびつつ、その場から松島を目指したそうです(西行作とされていた『撰集抄』)。さすが西行、月見るだけで涙する感受性躍如。

このような現実と夢を自在に行き来する感覚と能力、すばらしいですね。トミーももっと修行を積めば、現実と夢を自由に行き来することができるようになることでしょう。さすれば、車中で寝過ごすなどという失態をしでかすことは・・・。

2021年6月29日火曜日

旅の宿ー松島の松かげに春死なん

 

  江上に帰りて宿を求むれば、窓を開き二階を作りて、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ。

 松島や鶴に身を借れほととぎす 曽良

予は口を閉ぢて眠らんとしていねられず。旧庵を別るる時、素堂、松島の詩あり。原安適、松が浦の和歌を贈らる。袋を解きて今宵の友とす。かつ、杉風・濁子が発句あり。

 事務所旅行のとき、ホテル松島大観荘に泊まりました(写真上)。松島の月を見るには絶好の立地で、大観荘の名にはじないお宿でした(二日市温泉で観月する際には、二日市温泉大観荘をご利用くだされ。)。

芭蕉は松島で

 松島やああ松島や松島や

の句を詠んだとされていますが、違います。実際には、曽良が一句詠んだだけ。芭蕉は感動のあまり一句も詠めませんでした。

ちょー感動したとは書いてありませんが、小学生の遠足のように興奮のあまり眠られませんでした。

現代ならバーかラウンジで一杯というところでしょうが、芭蕉は袋を解いて、友人やお弟子さんからもらった餞の品々を見て心を落ち着けようとしています。

ここらへんが芭蕉の心の不思議。一方で、かれが葉が破れやすい芭蕉と号しているのは、傷つきやすい心の持ち主だということです。そして世をいとふ人々にあこがれています。

他方で、座の文学である連句を愛し、俗世の友人やお弟子さんのことも心から愛しています。まさに胡蝶の夢、こちらの世界もあちらの世界も大好きで、自由自在に行き来します。

友人の素堂からは、松島の詩を贈られました。その際のやりとり。

送芭蕉翁、
西上人のその如月は法けつたれば我願にあらず、
ながはくば花のかげより松のかげ、
春はいつの春にても我ともなふ時
 松島の松かげにふたり春死なん 素堂

西上人は西行のこと。西行は歌もうまかったけれども、歌がうまいだけなら何人もの歌詠みがいました。なかでも、人々を感動させたエピソードがあります。

 願はくは花の下にて春死なむ その二月の望月のころ

西行の有名な歌ですが、西行はこの歌のとおり、二月の望月のころ桜の花の下で亡くなりました。現代でいえば、ベーブルースの予告ホームランのようなものでしょう。

当時の人々はさすが西行と驚嘆しました。江戸時代の芭蕉らが西行を慕うのも、これが理由の一つになっています。

冒頭、古人も多く旅に死せるありとありました。旅に死んだ古人の代表が西行です。西行を慕う芭蕉も旅先で死ぬことを辞さない、できればそうしたいという気持ちはあったでしょう。おくのほそ道の旅ではそれをなし遂げることができませんでしたが。

ただし、芭蕉は桜の下ではなく、松のかげで死にたいと言っています。なぜでしょう。桜とちがい、松は千歳を生きるとされていたことによるでしょう。曽良の句にでてくる鶴もそうです。松島(雄島)がこの世とあの世をつなぐ霊場であることも関係していたでしょう。

不易な松のかげで死ぬ、まさに不易流行です。

さらに、芭蕉の名字である松尾も関係しているかもしれませんね。松尾・芭蕉。もう名前からして不易・流行です。

2021年6月8日火曜日

武隈の松ー千歳の形

(浅香山の松)
 


きのう述べたとおり、笠島に先回りしたかたちになっているので、きょうは国道4号線を戻って岩沼へ。

岩沼は阿武隈川が仙台湾にそそぐ河口の北にあります。阿武隈山地の北麓で、福島県の中通りと浜通りの合流点です。仙台空港が近く、東北本線と常磐線も合流しています。

司法修習生時代、日暮里(湯島までは千代田線経由で)から千葉県の松戸・馬橋まで常磐線を利用して通勤していました。常磐線は柏くらいまでのイメージだったので、岩沼まで延びてきていたことに感慨を覚えます。

そこに武隈の松という有名な歌枕があります。おくのほそ道には、有名な松や松の名所がたくさん登場します。武隈の松、末の松山、松島、姉歯の松。むかしは1000年生きるという長寿にあやかりたいと人気があったんですね。

武隈の松の特徴は、「二木(ふたき)に分かれて」いることです。東北本線と常磐線が合流するところで、松は逆に分かれているんですねぇ。

そのため古来、松の特徴をシャレた歌が詠まれてきました。

まずは橘季通。

 武隈の松は二木を都人 いかがと問はば見きと答へむ

二木→見き(三木)というシャレです。ダジャレじゃありませんよ。

つぎに能因法師。みちの國にふたたび下りて後のたびたけぐまの松も侍りざりければよみ侍りける。

 武隈の松はこのたび跡もなし 千歳をへてや我は来つらむ

陸奥の旅は2回目だけれども、前回とちがって武隈の松は跡もなくなってしまっているなぁ。あれから1000年も経っちゃったかなぁ。

武隈の松の跡がなかったのは、往昔、陸奥守にて下りし人(藤原孝義)、この木を伐りて名取川の橋杭にせられたることなどあればにや。

名取川はつぎの宮城野(仙台)との境を流れています。芭蕉が笠島の段と岩沼の段をひっくり返した理由の一つはここにありそうです。

能因法師は奥州に2度も旅をした歌人ですから、西行や芭蕉の大先輩です。おくのほそ道でも、ここのほか、すでに白河の関で登場していますし、のちほど象潟でも登場します。

当然、西行も歌を詠んでいます。

 枯れにける松なき宿の武隈は 見きといひても効なからまし

こうして武隈の松は代々、伐られたり、枯れたりして、いけば必ず出会えるというものではなかったようです。でもあらたに植えられたりして、新しい代の松に出会えることもあったよう。西行の訪問から500年後、芭蕉のときはどうだったのでしょうか。

ありました!そのことに芭蕉は大感激しています。

 武隈の松にこそ目さむる心地はすれ。根は土際より二木に分かれて、昔の姿失はずと知らる。・・・代々、あるは伐り、あるいは植ゑ継ぎなどせしと聞くに、今はた千歳の形整ひて、めでたき松の気色になんはべりし。

昔の姿失はずとか、今はた千歳の形整ひとか、諸事流行し滅していくなか、不易でありつづけることに感激しておられます。

そして江戸を立つ際、弟子の挙白が餞別にくれた句。

 武隈の松見せ申せ遅桜

これに答えて芭蕉が詠んだ句。

 桜より松は二木を三月越し

挙白が詠んだ桜の季節から3月経ってしまったけど、ようやくだ。松→待つ、二木→三月、三月→見つなどシャレておられます。

2021年6月7日月曜日

笠島ー朽ち人の不朽の名

 


蔵王山を下山すると白石、そこから奥州街道(いまの国道4号線)を北上すると、まずは武隈(岩沼)です。ところが、おくのほそ道の本文では、その先にある笠島の段になっています。

道に迷ったという説もあるようですが、曽良の随行日記でも道迷いはありません。やはり、文学的な必要性による前後入替えと思います。ここでも芭蕉にしたがって、まず笠島にまいりましょう。

 笠島の郡に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと、人に問へば、「これより遙か右に見ゆる山際の里を、簑輪・笠島といひ、道祖神の社・形見の薄、今にあり」と教ふ。

またまた登場、藤原実方です。小倉百人一首51番に、かくとだにの歌が採られていました。そして、中宮定子、同彰子の夫であった一条天皇に「歌枕を見てまいれ」と左遷を命じられ、奥州まで下ってきた彼です。

「歌枕を見てまいれ」という言葉が頭のなかで鳴り響いたために、芭蕉も歌枕を見る旅にでたのでしょう。芭蕉の実方びいきは、ここら辺が原因かもしれません。

まずは復習。実方の最初の登場は、室の八島でした。室の八島の煙にちなんで、次の歌を詠んでいました。

 いかでかは思ひありとも知らすべき 室の八島の煙ならでは

つぎは浅香山の段。端午の節句なのに、奥州には菖蒲がありませんでした。しょう(ぶ)がないので、代わりに花がつみを軒にさしました。芭蕉も、実方にならって花がつみを探し回りました。

そしてここ笠島が実方の旅の終着点です。ここには道祖神の社があります。旅の神です。おくのほそ道の冒頭、芭蕉も「道祖神の招き」にあっています。

神社にはどこでも「下馬」と書かれていますが、実方は社前を乗馬のまま通ろうとして神罰を受け、死んだとされています。

辞世の歌

 陸奥の阿古耶の松を尋ねわび 身は朽ち人になるぞ悲しき

約200年後、この実方の墓を西行が訪れています。西行は2度も奥州を訪れています。そして実方を偲んで次の歌を詠んでいます。

 朽ちもせぬその名ばかりをとどめ置きて 枯野の薄かたみにぞ見る

かくて里人が芭蕉らに「道祖神の社・形見の薄、今にあり」と教えたわけです。

実方と西行の歌は、不易流行の考えそのものを示しています。芭蕉がいまにいたる不朽の考えにたどり着いた決め手だったかもしれませんね。

 西行の訪問からさらに500年後、芭蕉一行は笠島を歩いています。

ところが、芭蕉は天候・行路不良と体調不良を理由に実方の墓参りをしていません。いわく。

 このごろの五月雨に道いとあしく、身疲れはべれば、よそながら眺めやり過ぐるに、簑輪・笠島も五月雨のをりに触れたりと、

 笠島はいづこ五月のぬかり道

五月雨は旧暦五月の雨なので、いまでいえば6月の梅雨の雨のことです。ここでも芭蕉は体調不良を訴えています。飯塚温泉で発症した病をひきづっていたのかもしれません。

この病気を訴える飯塚温泉の段につづけたいためというのが、笠島と武隈(岩沼)をひっくり返した理由の一つでしょう。

でも、簑輪の簑、笠島の笠、どちらもレインウエアであり、五月雨の季節に関係すると、俳味を感じ句に結び付けるところはさすがです。

2021年4月27日火曜日

白河の関、卯の花のかざし


 

なんとか間にあいました。この記事を4月中に書きたかったのです。なぜか?本文を読んでくだされ。

関東と東北の境を守るのは白河の関です。かって東北地方は、あこがれの地であるとともに、生きて帰られるかどうかわからぬ土地でした。白河の関は、そのような地から来るものを阻むとともに、そこへ入っていくゲートでした。

白河の関を越えるには、決死の覚悟が必要でした。芭蕉は、おくのほそ道の冒頭で、春立てる霞の空に、白河の関越えんといちおうの覚悟は示しています。それでも関東を歩いているうちは、あれこれ迷いがあったようです。ですが、いよいよ白河の関に着いたとき、腹は固まりました。いわく。

心もとなき日数重なるままに、白河の関にかかりて旅心定まりぬ。

関所は物理的・地理的境界であるだけでなく、精神的・霊的な境界でもありました。境界というのは中央の王権のおよびにくい土地であり、霊的なものや魔物が出てきやすい場所だからです。

そのような場所で、芭蕉は「諸国一見の僧」(能のワキ)となり、先輩歌人たちの霊を次々と召喚します。

先ず召喚したのは平兼盛。10世紀の歌人で三十六歌仙の一人、赤染衛門の父です。彼がこの関で詠んだ歌は

 たよりあらばいかで都へ告げやらむ 今日白河の関は越えぬと

この関は奥羽三関の一つにして、風騒の人が心をとどめました。次に召喚したのは能因法師。11世紀に活躍したやはり三十六歌仙の一人、旅の歌人で西行の先輩。彼が詠んだ歌は

 都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関

第三に召喚したのは源頼政。12世紀保元・平治の乱で活躍した武将。能に『頼政』という曲があります。彼が詠んだ歌は

 都にはまだ青葉にて見しかども 紅葉散り敷く白河の関

芭蕉たちが訪れたのは、青葉の梢があはれな時期でした。が、先輩歌人たちとその歌を次々と召喚することにより、芭蕉たちの耳には秋風が吹く音がし、眼前には紅葉散り敷く情景が広がりました。

第四、第五に召喚したのは竹田大夫国行、藤原清輔。藤原清輔は12世紀の歌人・歌学者。彼の歌論書『袋草子』に、竹田大夫国行がこの関を越えるときに、能因の歌に敬意を表して、冠をかぶり直し、衣服を着替えて通ったという話がありました。

これを踏まえた曽良の句は

 卯の花をかざしに関の晴れ着かな

竹田大夫国行の故事にちなみ、この関を越えるときに、能因の歌に敬意を表して、冠をかぶり直し、衣服を着替えて通りたいものだ。残念ながら、そのような立派な衣装のもちあわせがないので、そこいらに咲いている卯の花を頭に刺し、これを飾りにして関を越えよう。卯の花は卯月(旧暦4月)に咲くから卯の花。

2021年4月26日月曜日

遊行柳(4)


同行がトミーであるせいか、謙虚に学べと口うるさく繰り返してしまい、最後には老馬にまで学べとまで言ってしまいました。これがほんとうの老馬心、もとい老婆心でしょうか。

さて芭蕉が学ぼうとする諸先輩のうち最上の先輩は西行です。かれは武士出身で法師となり歌人であったばかりか、なにより旅人だったからです。おくのほそ道の有名な冒頭にも、西行を筆頭とする古人へのリスペクトはあきらかです。

月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり・・。

その西行もしばし立ち寄ったという遊行柳。昔の人の申し置きしは、鳥羽の院の北面、佐藤兵衛憲清出家し、西行と聞こえし歌人、この国に下りたまひしが、頃は水無月半ばなるに、この川岸の木の下に、しばし立ち寄りたまひつつ、一首を詠じたまひしなり(能『遊行柳』)。

 道の辺に清水流るる柳かげ しばしとてこそ立ちどまりつれ

これを受けて、おくのほそ道の遊行柳の段。

清水流るるの柳は、蘆野の里にありて、田の畔に残る。この所の郡主戸部某の「この柳見せばや」など、をりをりにのたまひ聞こえたまふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日この柳の陰にこそ立ち寄りはべりつれ。

そして、一句を詠じたまひしなり

 田一枚植ゑて立ち去る柳かな

西行の立ちどまりつれをひきつぎ、立ち去って物語を完成させる芭蕉なのでした。

さあ、これでみちのくへの旅の準備は万全です。鏡のまえで装備の点検をする必要もありません。いざ出陣、もといいざ出発。

2012年4月18日水曜日

ハナズオウ by.山歩きの好きな福岡の弁護士



ハナズオウ(花蘇芳)
ジャケツイバラまたはマメの仲間の落葉低木。

 高さは2~3m
 早春に枝に花芽を多数つけ、葉に先立って開花。

 花には花柄がなく
 枝から直接に花がついています。

 朝,通勤しているとき,右視野に紅紫の映像
 と思ったら,ハナズオウでした。

 名前の由来は
 スオウ(蘇芳)で染めた色に似ているため。

 といっても,スオウを知る人も少ないですよね。 
 スオウ(蘇芳)は、やはりマメの仲間の小高木。

 心材や莢からは赤色の染料がとれ
 その色は蘇芳色と呼ばれます。

 きょう4月18日の誕生花
 ちなみにきょうは,発明の日,よい歯の日。

 前者は現在の特許法にあたる「専売特許条例」が
 1885年(明治18年)4月18日に公布されたため。

 後者は418=ヨイハの
 語呂合わせでしょうね。

 花言葉は,「高貴」「質素」「豊かな生涯」「目覚め」
 などはよい意味。

 他方,「不信仰」「裏切り」「疑惑」など
 正反対のわるい意味もあります。

 よい意味は,高貴,質素,豊か,早春の開花
 など,花姿に由来するものでしょうか。

 わるい意味は,キリストを裏切った弟子・ユダが
 この木で首をつったという伝説に由来するものです。

 西洋種は
 ずばり「ユダ・ツリー」と呼ばれます。

 裏切り者の死に場所に選ばれたことを屈辱として
 紅紫色の花になってしまったとか。

 花木を死に場所に選ぶといえば
 西行(佐藤義清)ですね。

   願わくは 花の下にて 春死なん
          そのきさらぎの 望月のころ

 藤木直人が西行を演じる平清盛
 なかなか評判がよい方へ向かわないようで。心配です。

         ちくし法律事務所 弁護士 浦田秀徳

2011年6月10日金曜日

 芭蕉句碑ー宝満山の石碑



 宝満山を竈戸神社側から登り、7合目(「閼伽の井」「西院谷」)を過ぎ
 しばらくいくと、右上に、石碑があります。

 中宮跡まで行ってしまうと、見過ごしたことになります。
 戻るか帰りに見るか、思案のしどころでしょう。

 石碑には芭蕉の句

   世の人の みつけぬ花や 軒の栗

 「奥の細道」のなかの句です。
 芭蕉一行は白河の関を越え、福島県須賀川の宿

  この宿のかたはらに、大きなる栗の木陰を頼みて、世をいとふ僧あり。
  橡拾ふ深山もかくやと閑かにおぼえられて、ものに書き付けはべる、

  その詞、
 
   栗という文字は、西の木と書きて、西方浄土に便りありと、
   行基菩薩の一生 杖にも柱にもこの木を用ゐたまふとかや。

   世の人の みつけぬ花や 軒の栗

 というくだり。
 なぜ、この句が宝満山のこの場所に?

 不明ですが、宝満山がそのころ修験道の山であり
 精神的・気分的に芭蕉の句と相通じあうものがあったからでしょうか。

 なお「橡(トチ)拾ふ深山」は
 西行法師のつぎの歌より。

   山深み 岩にしただる 水溜めむ
          
           かつがつ落つる 橡拾ふほど

 これには閑かさだけでなく、橡(トチ)と栗の実の連想によるところも
 ありましょうか。

2011年5月17日火曜日

 雲取山(2017m) 



 東京出張のなか日に、雲取山に登りました。
 東京都にある日本百名山です。

 埼玉県の秩父に泊まり、三峰神社の登山口から
 奥多摩の鴨沢まで8時間30分のコースタイム。

 名前は、那智・熊野の霊山、大雲取山に由来
 山岳宗教の道場だったゆえ。

 東京都とはおもえぬ自然の豊かさで
 ブナ、ミズナラ、コメツガ、シラビソなどの林がいい。

 木がおいしいのか、途中、キツツキ(ウッドペッカー)の音がしきり
 よくみると、アカゲラが木をつついていました。

 大菩薩嶺の奥に富士山が雄姿をみせ
 ヤマザクラが稜線をいろどっていました。 

   おしなべて 花のさかりに なりにけり

               山の端ごとに かかる白雲

                           西行