ラベル 曾良 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 曾良 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2022年2月1日火曜日

長谷寺へー玉鬘の旅

 

 玉鬘(たまかずら)姫一行は京に着いたものの、そこから先は行くあてがない。将来の展望をもてないので、お付きのもののなかには九州に帰ってしまうものもでるしまつ。

しかたがないので神仏に祈ることに。まずは石清水八幡宮。これが先に紹介した松浦の宮や筥崎の宮とご神体がおなじところ。

おくのほそ道のなかにも、こういうくだりがある。

 室の八島に詣す。同行者曽良がいはく、「この神は木の花咲耶姫の神と申して、富士一体なり。・・・」

室の八島と富士山の浅間神社の神はコノハナサクヤヒメでおなじだというのである。じぶんたちの感覚では八百万の神さまはみな一体化してしまっているように思えるが、昔のひとは識別していたのだろう。

石清水八幡宮のつぎは長谷寺に参詣することになった。京都駅から検索すると、石清水八幡宮まで18キロメートル、長谷寺まで73キロメートルある。時速4キロメートルで歩いたとして、それぞれ片道4時間半、あるいは18時間余かかる。18時間となると一日では無理で、2日に分けても一日9時間歩かなければならない。

さすがに姫は駕籠かなと思いきや、そうでもないらしい(やはり林望先生の訳)。

 この市に着いてからは、もはや歩くなどという様子ではなく、あれこれ手当てをしてはみるけれど、もう足じゅうが血豆になって一歩も動くことができぬ・・・。

当時のお姫さまは日ごろどのように暮らしていたのだろう。深窓の令嬢の言葉どおり、屋敷のなかからめったに出歩かないのであれば、この旅はそうとうきつかっただろう。

いまの人はもっと深刻かもしれない。車社会であるから一日40キロメートル弱、9時間を2日間歩ける人はかなり少ないだろう。そうなると、本当は高貴な生まれであるにもかかわらず、源氏の君と会えないまま人生を終えざるをえない。残念(笑)。


2021年8月20日金曜日

ソラとの別れ

 



 曾良は腹を病みて、伊勢の長島といふ所にゆかりあれば、先立ちて行くに、

 行き行きて倒れ伏すとも萩の原 曾良

と書き置きたり。行く者の悲しみ、残る者の恨み、隻鳧の別れて雲に迷ふがごとし。予もまた、

 今日よりや書付消さん笠の露 

 江戸からずっと芭蕉の秘書役をつとめてきた曾良は金沢あたりから体調不良、なんとかここまで来ましたが、これ以上旅をつづけることが困難に。やむなく親族のもとで療養することに決め、先に帰ることになりました。

 曾良の無念、芭蕉の心細さが痛いほど。起承転結、別れのテーマのエピソード3は、いままで比較にならないくらいツライ別れです。金沢あたりからしきりと秋風が吹いていましたが、ここにきて身にしみます。

曾良の行き行きての句は、西行の歌を踏まえています。

 いづくにか眠り眠りてたふれふさん と思ふ悲しき道芝の露

「隻鳧の別れ」は、李陵と蘇武の別れを踏まえています。平家物語の巻第二の最後に「蘇武」の章があります。むしろ中島敦の『李陵』のほうが読まれているかもしれませんね。違いは後者に司馬遷の人生がからんでくることです。

項羽と劉邦の戦いののち、劉邦が漢を建国します。その7代目が武帝で、前漢の最盛期を迎えます。名前のとおり、宿敵である匈奴への外征を繰り返しました。

李陵も、蘇武も外征を命じられた将軍です。李陵は、自分の判断とははなれたことから匈奴に捕まります。しかし自身で投降したと誤って伝えられ、武帝の怒りをかい親族を殺されてしまいます。その落胆や怒りのため、李陵は匈奴に協力するようになります。

他方、蘇武は、辛酸をなめ李陵が説得するも最後まで節をまげません。そして雁に手紙を託したメッセージが故国に伝わり、晴れて帰国することがかなったのでした。

李陵と蘇武、人生の選択がわかれましたが、どちらも苦難の人生でした。匈奴の捕虜として同じ境遇にあり、彼らの間には友情がありました。しかし、運命は二人を引き裂き、蘇武だけ帰国することになったのでした。

鳧はケリという鳥で、チドリの仲間です。隻鳧は一羽のケリということですから、隻鳧の別れは、李陵と蘇武の別れを指す言葉です。

司馬遷がどうからむのか。李陵が捕まった際、武帝の癇癪をおそれて皆、追従したのですが、ひとり司馬遷は李陵をかばう論陣をはりました。案の定、武帝の怒りをかい、司馬遷は屈辱的な宮刑に処せられたのでした。

われわれが現在、いまのような『史記』を読めるのは、この宮刑による屈辱をバネにした司馬遷の不屈の精神によるものです。

平家物語になぜ「蘇武」の話がでてくるのか。歌舞伎や能の『俊寛』をご存知でしょうか。おごれる平家を打倒しようとして鹿ケ谷の陰謀がはからます。

しかしあえなく発覚。陰謀に加担した俊寛のほか、藤原成経と平康頼は、九州の南方にある鬼界ガ島に流されました。

俊寛は僧でありながら信心深くありませんでした。他方、康頼らは信心深く神仏に祈り、千本の卒塔婆に自分たちの名前や歌を書きつけて海に流しました。歌は、

 薩摩方おきの小鳥にわれありと親には告げよ八重の潮風

 思ひやれしばしと思ふ旅だにもなお故郷は恋しきものを

なんとこの卒塔婆のことは流れ流れて都まで伝えられることなり、康頼らは恩赦により帰京を許されたのでした。これが雁に手紙を託して帰国を許された蘇武のエピソードと重なることから、平家物語に「蘇武」がでてきます。

他方、恩赦の文書をなんど読み直しても俊寛の名はなく、追いすがる彼を島に残して舟は行ってしまったのでした。信心うすい彼のせいとはいえ、一人島に残されることとなった、その悲劇が歌舞伎や能を観る現代人にもじーんと来るのでした。

隻鳧の別れの解説に時間をとられました。先を急ぎましょう。

芭蕉が消した書付は「同行二人」という文字です。よく四国のお遍路さんが笠に書いていますね。あれは弘法大師と二人という意味ですが、ここでは芭蕉と曾良の二人という意味に転じて使われています。季語は露。

われわれも秘書さんがお休みの日はとても心細い。長旅の途中である芭蕉の心細さはよくわかります。わが事務所は比較的人の異動がすくない職場ですが、それでも今年度は大きな異動が見込まれています。これもまた不安だし心配です。

私事ですが、イタリアに転勤を命じられている二女夫婦に今春子どもができ、里帰り出産しました。その名も蒼空。ここのところマゴマゴ生活をエンジョイしていました。

が、彼らは昨夕の飛行機でイタリアに戻っていきました。コロナ禍のなかイタリアに戻ることも心配ですし、まだ3か月の孫のことも心配。幸あれと願うばかりです。

2021年8月6日金曜日

市振の関ー遊女との別れ


(市振から、親知らず子知らずを望む)
 

(いちぶりの関跡)



 今日は親知らず・子知らず・犬戻り・駒返しなどいふ北国一の難所を越えて疲れはべれば、枕引き寄せて寝たるに、一間隔てて面のかたに、若き女の声、ふたりばかり聞こゆ、年老いたる男の声も交じりて物語するを聞けば、越後の国新潟といふ所の遊女なりし。伊勢参宮するとて、この関まで男の送りて、明日は故郷に返す文したためて、はかなき言伝などしやるなり。白波の寄する汀に身をはふらかし、海士のこの世をあさましう下りて、定めなき契り、日々の業因いかにつたなしと、物いふを聞く寝入りて、
  朝旅立つに、われわれに向かひて、「行方知らぬ旅路の憂さ、あまりおぼつかなう悲しくはべれば、見え隠れにも御跡を慕ひはべらん。衣の上の御情けに大慈の恵みを垂れて、結縁させたまへ」と涙を落とす。不便のことにははべれども、「われわれは所々にてとどまるかた多し。ただ人の行くにまかせて行くべし。神明の加護、必ず恙なかるべし」と言ひ捨てて出でつつ、あはれさしばらくやまざりけらし。

 一つ家に遊女も寝たり萩と月

曾良に語れば、書きとどめはべる。

 おくのほそ道が歌仙の構造を俤にしているとすれば、市振の関は、名残りの折りの表と裏の境。これから起承転結の転から結へ。テーマは宇宙から別れへ。

親知らず子知らずは、北アルプス(飛騨山脈)の北端であり、峻険な山が海に突き出ています。そのため平地がなく、街道が海の際を通っています。日本海の荒い波のあいまをぬって、通過しなければなりません。ときには子どもが大波にさらわれたこともあったといいます。それが名称の由来です。古くから交通の難所として恐れられていました。

親知らずは、地形的に軍事的な要衝でもあり、承久の乱でも激戦がたたかわれました(朝廷軍の敗北)。隠岐にながされる途中、順徳院はそのことに思いをはせたのでしょうか。

子が波にさらわれて親子が離別してしまうという親知らず子知らずは、おくのほそ道のテーマが宇宙から別れへ変わることを告げるには絶好の名前です。

そういえば、一つ前の直江津も、森鴎外の『山椒大夫』の舞台として知られていました。これも、母子が人さらいにより引き裂かれる話でした。すでに別れのモチーフは、文月はの句のなかに潜んでいたわけです。

親知らず子知らずは、北アルプスの北端ですが、「糸魚川静岡構造線」の北端でもあります(その東側がいわゆるフォッサマグナ)。ここに西南日本と東北日本との地学上の境もあります。ひょっこりひょうたん島のように、西南日本と東北日本が別々のところから流れてきて、ここで合体し日本列島が誕生したわけです。

市振へは「あいの風とやま鉄道」で向かいます。糸魚川からだと20分弱、富山からだと1時間半の行程です。

市振で、芭蕉は艶っぽい体験をしています。遊女から同道を求められたのです。でも芭蕉はこれを断っています。求道の妨げになると考えたのでしょう。そんなぁ、いっしょに行ってやればよいのに・・・。別れのテーマのエピソード・ワンです。

芭蕉が色恋を話題にすることに違和感をおぼえる人もいるかもしれません。ですが芭蕉はこのとき46歳。まだまだ恋や愛を語れる歳でしょう。

それに連句(歌仙)には、すでに紹介した初折れの表・裏、名残りトランプや将棋のように細かいルール(式目)があって、きまったあたりで月や恋に関する句を詠まなければなりません。市振の段は、歌仙でいう「恋の座」なのです。

もちろん、遊女が萩で芭蕉が月だとか、そうじゃないとか、いろいろな鑑賞があります。萩の花言葉は「思案」です。

結びに「曾良に語れば、書きとどめはべる」とありますが、曾良の随行日記にはその記述はありません。ここから、このエピソードじたいが芭蕉の創作であるといわれています。

芭蕉がここで遊女を登場させたわけは能の『山姥』にあるのではないでしょうか。市振の関のすこし西側に境川が流れているからです。

「山姥の山廻り」という曲舞をうまく演じて人気を博した都の遊女が善光寺詣でを思い立ちました。境川から山越えをしようとしたところ日が暮れてしまいました。宿を貸そうという女があらわれたのですが、実はそれがほんものの山姥でした。山姥は境涯を語り舞っていずこかへ消えていったのでした。

もちろん境川の名前の由来は越後と越中の境を流れる川だからですが、この曲では現世と異界との境でもあったのでした。

おくのほそ道の場面転換を行ううえで、市振の関以上の舞台はありません。

2021年8月2日月曜日

出羽三山ー月山・湯殿山

 
(月山)


(ハクサンチドリ)


(山桜)


(湯殿山神社鳥居)

 八日、月山に登る。木綿しめ身に引きかけ、宝冠に頭を包み、強力といふものに導かれて、雲霧山気の中に氷雪を踏みて登ること八里、さらに日月行道の雲関に入るかと怪しまれ、息絶え身凍えて、頂上に至れば、日没して月顕る。笹を敷き、篠を枕として、臥して明くるを待つ。日出でて雲消ゆれば、湯殿に下る。
 谷のかたはらに鍛冶小屋といふあり。この国の鍛冶、霊水を選びて、ここに潔斎して剣を打ち、つひに月山と銘を切って世に賞せらる。かの竜泉に剣をにらぐとかや、干将・莫耶の昔を慕ふ。道に堪能の執浅からぬこと知られたり。岩に腰掛けてしばし休らふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ば開けるあり。降り積む雪の下に埋もれて、春を忘れぬ遅桜の花の心かわりなし。炎天の梅花ここにかをるがごとし。行尊僧正の歌のあはれもここに思ひ出て、なほまさりておぼゆ。総じてこの山中の微細、行者の方式として他言することを禁ず。よって筆をとどめて記さず。
 坊に帰れば、阿闍梨の求めによりて、三山巡礼の句々、短冊に書く。

 涼しさやほの三日月の羽黒山

 雲の峰いくつ崩れて月の山

 語られぬ湯殿にぬらす袂かな

 湯殿山銭踏む道の涙かな 曽良

 尿前の関の段で、そこが初折りと名残りの切れ目であり、市振の関までが宇宙めぐり、宇宙、太陽、月、銀河がテーマとなると書きました。

いよいよ日月行道の雲関を越えます。さすれば、日没して月顕れ、月の山となります。

月山は標高1,984メートルの日本百名山。山頂には月山神社があります。花の百名山にも選ばれており、選定理由となった花はウズラバハクサンチドリ。

俳諧の求道者である芭蕉は、他の分野の求道者にもつよい親近感を覚えています。『笈の小文』の冒頭、つぎの文があります。

 つゐに無能無芸にして唯此一筋に繋る。西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり。

ここでは刀鍛治の求道者。刀を打つことにも道はあります。貫道するものは一つです。刀剣には国宝に指定された芸術品があります。月山の銘を刻んだ刀剣は機能性とデザイン性の高さで全国に広まりました。

山中で芭蕉たちをもてなしたのは山桜です。行尊僧正の歌は百人一首に採られています。

 もろともにあはれと思へ山桜 花より外に知る人もなし

湯殿山はいまでも「語るなかれ、聞くなかれ」、写真撮影禁止。世界遺産となった宗像大社の沖ノ島とかもそうです。秘すれば花なり(世阿弥『風姿花伝』)。

2021年4月15日木曜日

日光白根山・男体山、登山記

 



芭蕉の旅の途中ですが、男体山には2009年10月に登りました。同行は稲村晴夫弁護士で女っ気なし、男2体の山です。

われわれは日本百名山である日光白根山と男体山の2つを同時に登る計画をたてました。九州から日本百名山踏破をめざすばあい、2つ以上かけもちで登っていかないと、いつまでたっても踏破できません。

24日、群馬県の沼田からバスに乗り、夏の思い出である尾瀬の玄関口・片品村を抜けて、丸沼温泉に泊まりました。

25日は日光白根山に登りました。ごらんのとおり、霞かかりてガスガスです。山を西(群馬県)から東(栃木県)に抜け、湯元温泉に下山しました。

そこから歩いて、湯の湖、湯川、湯滝、紅葉の見ごろをすぎた戦場ヶ原、竜頭の滝を経て、中禅寺湖畔の宿に泊まりました。そして26日に男体山にいどみました。

男体山は、補陀落山、二荒山のほか、黒髪山とも呼ばれていました。芭蕉一行が訪ねたとき、黒髪山は、霞かかりて、雪いまだ白し。曽良が一句詠んでいます。

 剃り捨てて黒髪山に衣更(ころもがえ)

われわれがいどんだ時は、霞かかりてどころではなく、あいにくの大雨。どしゃぶりでした。なんとか山頂までたどりついたものの、あやうく低体温症になりそうでした。さいわいなことに小屋がありました。そこで着替えて、なんとか命びろいしました。

 (雨に濡れた衣を)脱ぎ捨てて黒髪山で衣更  秀徳

曽良の句について芭蕉の感想は「衣更」の二字、力ありて聞こゆ。われわれは「衣更」なければ力なしどころか、命なし。というわけで、男体山に登った証拠写真は一枚もありません、ふう。

日光・裏見の滝

どうやら同行トミーはまだお江戸をウロウロしているようです。そうとうな方向音痴です。地理に詳しい曽良とえらい違いです。しかたないので、先に行きます。

神父と医者と弁護士の友だちはいたほうがよいといわれます。いざというときに役に立つからです。いずれも昔から聖職とされてきました。

たほう、弁護士はつきあいづらい隣人ともいわれます。職業がら、ものごとの裏を見るくせがついているので、素直にものが言いづらいということでしょう。

そのせいか、親近感のある日光・裏見の滝。なぜ裏見の滝なのでしょうか。

二十余町山を登って、滝あり。岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭に落ちたり。岩窟に身をひそめ入りて滝の裏より見れば、裏見の滝と申しはべるなり。

なるほど。美文の冴えもあり、滝の迫力やキラキラ感が充溢しています。そして一句。

 しばらくは滝にこもるや夏の初め

はや夏の句。夏は立夏から。いまの暦で5月5日からです。ことしは季節の進みゆきがとてもはやく、半月~1か月はいつもよりはやい。すでにツツジやフジが満開です。行く春を惜しむ間もありませんでしたね。