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2023年7月24日月曜日

「想夫恋」と『黄金のアディーレ』

 

 週末はトム・クルーズ主演の映画『ミッションインポシブル デッドレコニング』を見た。

前週はハリソン・フォード主演の映画『インディージョーンズ 運命のダイヤル』を見ていた。インディージョーンズのほうはシリーズ最後の作品だったので、なんとなくMIのほうも最後かと思っていた。ところが、衝撃のラスト。次作へつづく-となったのでビックリした。

映画のあとは、「想夫恋」で焼きそばを食べた。「想夫恋」の焼きそばはおいしい。日田出身でチェーンになっており、九州人なら誰もが知っていると思う。

しかし店名については疑問がある。「想夫恋」というのは古来ゆかしき名前である。『平家物語』にでてくる。

高倉天皇の寵姫に小督がいた。清盛は娘を高倉天皇に嫁がせているので、ジャマでしょうがない。迫害を受け、小督はしかたなく身を隠した。

高倉天皇は小督を忘れがたく、源仲国に命じて探させた。仲国が嵐山の麓あたりを探していると、箏曲の音色が聞こえてきた。小督が高倉天皇を偲んで弾く「想夫恋」の曲だった・・。

この由緒ただしい「想夫恋」という名を、焼きそば屋の名前にするとはいかがなものであろうか(失礼)。おいしい焼きそばを食べながら、このギャップにいつも戸惑うのだった。

こう思うと、『黄金のアディーレ 名画の帰還』という映画に思いをはせてしまう。

映画は実話に基づく。「黄金のアディーレ」は、クリムトが描いた肖像画。正式名称は『アディーレ・ブロッホ=バウアーの肖像』である。

かつて、ブロッホ=バウアー夫婦はナチスに迫害され、この名画も略奪された。現代の米国で、迫害を逃れた姪がこの名画をとりかえすべく立ち上がる。

オーストリア政府を相手に敢然と立ち向かう依頼人と若手弁護士の姿が描かれる。若手弁護士はオーストリア生まれで米国に移住したユダヤ人、シェーンベルグ※の孫である。

運命の裁判の前日。かれは祖父が作曲した『浄められたる夜』をオーストリアのホールで聴く。重大判決の前夜。人権のために闘う弁護士はみな、このような願う気持ちになる。まことに感動的。

ここから先は非常に書きにくい。文脈で理解してくだされ。

※シェーンベルクとは、ドイツ語で「美しい山」という意味である。

2023年6月15日木曜日

笈の小文(3)四時を友とす

 
(旗振山から須磨、明石海峡、淡路島)

 さて、ここからが本論。今回『笈の小文』を読んでいて、気づいた点が2つある。

 まずは、四時を友とすること。

『笈の小文』は読みにくいと書いた。江戸を出て、故郷伊賀を経て、関西各地の歌枕を遍歴する紀行文なので、起承転結、序破急がなく、まとまりがないように感じるのである。

しかし、よく考えればあたりまえなのなのだけれども、季語を華とする俳句をちりばめた紀行文なのであるから、バックボーンは四季である。

そう思って読むと、冬にはじまり、春をクライマックスとして、夏に幕を閉じている。ちゃんと序破急で構成されているではないか。

冬のメインは伊良湖岬における冬の鷹、春のメインは吉野における観桜、夏の〆は須磨における平家滅亡の幻視である。

そう考えて、よくよく読めば、冒頭にちゃんとこう書いてある。

 風雅におけるもの、造化にしたがひて四時(しいじ)を友とす。

四時とは四季のこと。つまり、四季を友として書いているからよろしく、ということである。

ただし、そうすると大きな問題が残る。お分かりと思うけれど、秋がなくてもよいのだろうか。四季のなかで、秋がもっとも趣があり好きという向きも多い。夏で終わってしまうと、三時しか友にしていないのではなかろうか。

ひとつの考え方としては、わざと書かなかったということ。ヘミングウェイのいうところの「氷山の理論」。いわく。

 もし作家が、自分の書いている主題を熟知しているなら、そのすべてを書く必要はない。その文章が十分な真実味を備えて書かれているなら、読者は省略された部分も強く感得できるはずである。動く氷山の威厳は、氷面下に隠された八分の七の部分に存するのだ。

さてわれわれは、『笈の小文』を読んで、省略された秋の部分を強く感得できるだろうか。最後の部分、平家滅亡の幻視で文を結ぶ直前の記述はこうなっている。

 蛸壺やはかなき夢を夏の月

 かかる所の穐(あき)なりけりとかや。此裏の実(まこと)は、秋をむねとするなるべし。かなしさ、さびしさはいはむかたなく、秋なりせば、いささか心のはしをもいひ出べき物をと思ふぞ、我心匠の拙なきをしらぬに似たり。

月といえば秋。ただ月といえば、秋の月をさす。春の花、冬の雪とともに、秋の月は日本の四季を代表する。しかるに、ここでは夏の月となっている。蛸壺のなかの蛸がみている夢がはかないのは夏の月ととりあわせになっているからである。

「かかる所の穐なりけるとかや。」は『源氏物語』の「須磨」段によっている。いわく。

 須磨にはいとど心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の関吹き越ゆるといひけむ浦波、夜夜はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものは、かかる所の秋なりけり。

 在原行平の歌はこう。

 旅人は袂すずしくなりにけり関吹き越ゆる須磨の浦風

というわけで、少なくとも昔の文人は、須磨と聞いただけで、行平、源氏、平家滅亡という歴史的・多層的な秋のイメージを思い浮かべることができた。

『笈の小文』のラスト、芭蕉は秋の情景を描いていないけれども、源氏物語や行平の歌のイメージを援用しつつ、須磨の秋の情景を感得するよう読者に促しているのである。

                                   (つづく)

2023年4月27日木曜日

六甲山全山縦走(1)と源氏物語、平家物語、笈の小文

 




 この間、顧問会社の社員旅行に招待されて四国・松山、登山グループ怪鳥会の春登山で六甲山全山縦走、薬害肝炎原告団総会で岡山・倉敷に行った。

どれから書いてもよいけれども、写真の利用しやすさから、六甲山全山縦走についてまず書こう。

怪鳥会では、これまで春登山として、山口県の寂地山・十種が峰、熊本県の仰烏帽子・岩宇土山、大分県の由布岳、宮崎県の大崩山などに登ってきた。

ことしは目先をかえて神戸まで遠征し、六甲山を全山縦走することにした。西の須磨から東の宝塚まで、全部で44.6km、コースタイムで14~15時間のコースである。

わが会の実力に照らし、これを3日間にわけて縦走することにした。山上や有馬温泉での宿泊もありえた。が、交通の便が発達していることもあり、三ノ宮あたりのビジネスホテルに2泊した。夜は中華街や神戸牛で英気を養おうというグルメプランでもある。

初日は、朝一番の新幹線で新神戸まで。そこから地下鉄で板宿まで。そこから山陽電鉄で須磨浦公園まで。駅を降りると、すぐに旗振山への登山道である。

須磨といえば、ふるくは在原行平が流された場所。中納言行平は、業平の兄で百人一首にも歌をとられている。

 立ち別れいなばの山の峰に生ふる まつとし聞かばいま帰り来む

この故事に着想をえて、紫式部も源氏物語の須磨の段を書いたとか。光源氏もここで謹慎・蟄居した。そして西に転進して明石の地で、再び上げ潮に乗ることになる。

行平の故事はお能の『松風』にもなっている。松風と村雨の姉妹の海女は行平においてけぼりをくうのであるが、それは先の歌のイメージによるものである。

さらに平家物語でも悲劇の舞台となった。須磨の隣は一ノ谷。源平の激戦地だ。戦に敗れた平家の悲劇が伝わる。いまも須磨寺には、敦盛と熊谷直実の像がある。

これら故事は江戸時代の松尾芭蕉も感動させずにはおかなかった。「笈の小文」のラストで、芭蕉は須磨・明石を訪ねている。旗振山の峰続きに鉄拐山がある。芭蕉は平家物語に習って少年を先導にたて、ヒーヒーいいながら登っている。

昭和になってからは新田次郎の『孤高の人』の主人公、加藤文太郎だ。加藤はわれわれと違い、単独行の人である。和田の造船所ちかくの寮を出発し、一日で全山縦走し、その日のうちに寮に帰っていたという。驚くべき脚力だ。

こうした幾重にも積み重なる故事は、われわれが六甲山全山縦走をめざした動機のひとつである。

旗振山からは、西に、明石海峡、明石海峡大橋、淡路島をのぞむことができた。ぼやけているのは、腕のせいではなく曇天のせいだ(1枚目の写真)。

春の山行の楽しいところは、花の時期だということだ。六甲山も花の時期だった。道中、ミツバツツジやアセビが咲き乱れていた(2枚目の写真)。

この日のクライマックスは馬の背という難所。宝満山程度の標高ながら、北アルプスの雰囲気を楽しむことができた(3枚目の写真)。

六甲山はなだらかなようだが、小ピークが連続していて、たいへん。六甲というも、もっとたくさんある。登山道もつづら折りではなく、直登になっていたりして、しんどい。

旗振山のつぎは高倉山、高倉天皇の高倉だろうか?その次は栂尾山、そして横尾山とつづく。

難所は意外なところにあった。コースはときおり住宅街を突っ切ることになる。横尾山を下りて住宅街をつっきっていたら、道をみうしない迷ってしまった。

精神的ダメージを負ったわれわれは、次の高取山まででこの日の登山をあきらめた。高取山からは、東に、神戸市街をのぞむことができた(4枚目の写真)。

そこから降りて、鵯越駅から電車に乗った。鵯越(ひよどりごえ)は、鵯越の逆落としで有名なところだ。詳しくは平家物語をご覧あれ。

                                    (つづく)

2022年12月16日金曜日

小督の墓


 
 
 芭蕉は人生の本質を無情・流転に見た。しかし、これは芭蕉の独創ではなく、「平家物語」にも書かれていることである。有名な冒頭。

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

沙羅はものまねタレントのことではない。インドの沙羅は別種らしいけれども、日本の沙羅はナツツバキとされる。朝に開花し、夕には落花する。一日花。どんなに美しい花を咲かせても、夕には落下してしまう。まさに無情・流転。

平家物語は、平清盛とその一族の流転・無情を描く。その大きな渦の回りでは、いろんな人の人生もこれに巻き添えをくって流転していく。

そのエピソードの一つが小督。京都桂川沿い、嵐山の対岸に墓がある。「嵯峨日記」に書かれているとおり。当時、まわりは竹林だったようだが、いまは竹林が減り、「ずいぶん騒がしくなったなぁ。」と小督さんも嘆いておいでだろう。

超絶美貌で琴の名手。高倉天皇に愛された。しかし天皇の正妻は平清盛の娘・建礼門院だったことから、清盛の怒りに触れ、迫害を受けた。難を避けるため、嵯峨野に隠棲した。

天皇はあきらめきれず、源仲国を使わして探させる。仲国(笛の名手)があちこち探しあぐねていると、仲秋の夜、妙なる琴の調べが。もちろんそれは小督の琴のしらべ。

仲国は宮中に戻るよう説得するが、小督はこれを拒否。しかし仲国はねばる。なぜなら、小督の心のうちを知っていたから。

なぜ、知っていたのか?それは先の琴の曲名が「想夫恋」だったから。なんと美しいお話。

九州で「想夫恋」といえば焼きそばの店だが、もとはこんな美しいお話。なぜ、焼きそば屋の名前になっているのか。小督さんもびっくり。まさしく生々流転。

・・・などと大野城イオン前の想夫恋で、焼きそばをかき込みながら想ふ。

2022年12月15日木曜日

嵯峨~吉野~大峰~熊野「嵯峨日記」

 

(落柿舎)


(大峰山)

 
(熊野)

 二日戻って、LGBT。LGBTに帯する理解が深まると、作品解釈にも差が出るのかもしれない。というわけで、きょうは「嵯峨日記」。

二日前のブログで、笈の小文の旅で、芭蕉が島流しにあっていた愛弟子・杜国を慰めに訪問したこと、芭蕉と杜国の間に男色説があること、従来はそこで思考停止していたけれどそれではいけないと反省をしていることなど書いた。

杜国のことは「嵯峨日記」にもでてくる(杜国は前年亡くなった。)。

 廿八日
 夢に杜國が事をいひ出して、涕泣して覚む。
 心神相交わる時は夢をなす。陰尽きて火を夢見、陽衰えて水を夢みる。飛鳥髪をふくむ時は飛るを夢見、帯を敷寝にする時は蛇を夢見るといへり。睡枕記・槐安國・荘周夢蝶、皆其理有りて妙をつくさず。我夢は聖人君子の夢にあらず。終日忘想散乱の気、夜陰夢又しかり。誠に此ものを夢見ること、所謂念夢也。我に志深く伊陽旧里迄したひ来りて、夜は床を同じう起臥、行脚の労をともにたすけて、百日が程かげのごとくにともなふ。ある時はたはぶれ、ある時は恋しび、其志我心裏に染て、忘るることなければなるべし。覚て又袂をしぼる。

「嵯峨日記」は、元禄四年4月18日から5月4日まで、芭蕉が京都嵯峨野にある落柿舎に滞在したときの日記である。いままで、ぼんやりと小中学生の日記のように読んでしまっていた。しかし、杜国への愛惜の念を中心に置くと、起承転結で読めると思う。

まず起。嵯峨野や落柿舎の紹介。嵯峨野は「平家物語」にもでてくる。高倉天皇に愛されたがゆえに平清盛から迫害された小督が隠れ住んだ場所である。芭蕉のなかでは、空米売買の罪を問われた杜国とダブっているのかもしれない。

小督が隠れ住んだ嵯峨野も、いまは竹林が残るのみ。

 うきふしや竹の子となる人の果

むかしは豪勢だった(料理場なども広い!)落柿舎も、いまや所々頽破している。

 柚の花や昔しのばん料理の間

つぎに承。落柿舎は京都郊外にあるものの、入れ替わり立ち替わりお弟子さんたちが訪ねてきたり、その消息がもたらされる。表面的、芭蕉の生活はにぎやかなようだが、なぜか心中は淋しい。

そして転。さきの28日の記述。

その後、結。

 二日。
 曽良来りてよし野の花を尋ねて、熊野に詣侍るよし。
 武江旧友・門人のはなし、彼是取まぜて談ず。
  くまの路や分つつ入ば夏の海 曽良
  大峰やよしのの奥を花の果

笈の小文の旅で、芭蕉と杜国は吉野山まで行き、楽しんでいる。

 よし野にて櫻見せふぞ檜の木笠
 よし野にて我も見せふぞ檜の木笠 万菊丸(杜国)

曽良の旅はそこから先。吉野山から大峰奥駆け道(世界遺産)を通り、大峰山を経由して熊野に至る。夏の海は熊野灘である。中近世、熊野から海へ向けて補陀落渡海がおこなわれていた。

補陀落は、観音菩薩が降臨する伝説上の山であり、熊野の先にあるとされた。補陀落渡海は、行者が沖にこぎ出し、108の石をまきつけて捨身することである。

平家物語のなかでも、一ノ谷の戦に敗れた平維盛が戦列を離れて熊野へ行き、補陀落渡海(入水自死)したことが描かれている。

平家物語の小督の話ではじまった「嵯峨日記」である。曽良から熊野詣の話を聞かされながら芭蕉の頭に去来していたのは維盛の補陀落渡海のことであろう。補陀落渡海こそが「花の果」と意識されたことだろう。

 一、四日
 宵に寝ざりける草臥に終日臥。昼より雨止む。
 明日は落柿舎を出んと名残をしかりければ、奥・口の一間一間を見廻りて、
  五月雨や色紙へぎたる壁の跡    (「嵯峨日記」はここまで。)

杜国亡きあとの芭蕉の心には、五月雨がふりつづき、心中、色紙へぎたる壁の跡のようだったろう。かくて起承転結。

ところで、「嵯峨日記」をおさめた岩波文庫の『芭蕉紀行文集』。その表紙の文章をあらためて読んで、はっとした。

 人生の本質を無情・流転に見た芭蕉(1644-1694)の芸術と生涯は、幾つかの旅を展開点として飛躍を遂げてゆく。肉体と精神を日常の停滞から解き放ち、新たな発見に直面させてくれるもの、それは旅であり、芭蕉の人生観・芸術観の具体的吐露が紀行文であった。

はっとした理由は、それぞれ考えてくだされ。それではまた。

2022年4月18日月曜日

傾山遠征(1)-原尻の滝


 先週末は、大分と宮﨑の県境にある祖母・傾山をめざした。怪鳥会の春山行事だ。みな仕事に忙しく、参加は怪鳥、Mさん、当職の3人、すこし寂しい。

木曜16時に仕事を切り上げて、大分で前泊。翌金曜6時39分、豊肥線の始発に乗り、小一時間ほど西へ向かう。豊肥線と聞くと、おならを思い浮かべてしまう。古いギャグだ。

緒方駅で降りる。緒方といえば、平家物語に登場する緒方三郎。緒方の荘の荘官で、豪族の姫と蛇神の子であるという(大和の三輪山伝説のパクリ?)。はじめ平家方であったが、源氏方に寝返り、平家を大宰府・九州から追い落とした。鎌倉殿の○○人目かである。

タクシーをチャーターし、まず、駅からほどなくのところにある原尻の滝を見学した。日本の滝百選の一つ。東洋のナイアガラと呼ばれていた。いまでは「東洋の」というのは小さい声でしか言わないらしい(ナイアガラの滝と呼ばれる似たような滝がいろいろあることが分かり、東洋一とは言えないことが判明したかららしい。タクシーの運ちゃんが寂しそうに話してくれた。)。

ふつう滝といえば山を削った谷にある。しかしここは平野の真ん中にあるのが特徴だ。なぜかというと阿蘇の大噴火、大火砕流によってできたからだ。写真で滝の向こう側が火砕流のあと、溶解凝灰岩だ。

阿蘇は4度、大噴火している。これは9万年前、4度目の噴火のときのものだ。そんなこと調べてどうすると思うかもしれない。それがわれわれの仕事に直結することもあるのだ。

愛媛県伊方町に四国電力伊方原発が存在する。阿蘇から130キロ東に離れている。しかし広島高裁は「約9万年前に発生した阿蘇カルデラの噴火で火砕流が原発敷地内に到達した可能性が小さいとは言えない」として、原発の運転差し止めを認めた(昨年、裁判長のお話をうかがう機会があった。)。

山口大の調査によると、この火砕流は山口市にも到達しているようだ。時間軸としても地理軸としてもスケールの大きな話である。

2021年12月27日月曜日

週末反芻読書

 



 いよいよ歳末。うちの事務所も仕事はきょうまで。あすは大掃除、今年の総括会議、望年会の予定です。ご用のかたは今日中に。

この間旅がおおかったので、週末は反芻読書。それぞれ、どの旅の、どの名所と関係あるか分かりますか。

まず『古事記』。日本文学全集1。池澤夏樹訳。解題は三浦祐之。三浦しをんの父。これは古市古墳群の1つ目、白鳥古墳の関係。ヤマトタケルノミコトが白鳥となって羽を曳いて飛んでいったというところです。

創世記のカインとアベルは兄が弟を殺しますが、ヤマトタケルは兄を殺します。これを恐れた景行天皇は彼にたいし熊襲や出雲、さらには東国の平定をもとめます。そこからかれの冒険がはじまります。古事記のなかで、もっともビビッドな部分。

つぎに『西国三十三所めぐり』。これは壺阪寺、長谷寺、槇尾山・施福寺、葛井寺にいったため。表紙は長谷寺の本尊十一面観音。10メートルを超える巨像。特別拝観により、特別に下から仰ぎ見つつ、足をお拭いすることができました。

『平家物語』は旅と直接の関係はありません。道明寺訪問をきっかけに『菅原伝授手習鑑』を読み、その流れで『義経千本桜』を読んだため。その原作の確認です。

『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』もそう。おなじ本で近松門左衛門の『曽根崎心中』、『女殺油地獄』を読んだため。門左衛門の弟子にあたる近松半二が『妹背山婦女庭訓』を書き上げるまでの物語。また大阪まで文楽をみにいきたくなりました。

活字読書でつかれたら、岩合光昭さんの『ねこの京都』。表紙は河井寛次郎記念館のあのネコです。訪問したときは書斎で丸まってましたが、この写真はスリムでまだ若いころ。

かくて神話の時代から、古代、平安、鎌倉、江戸、明治、現代までをタイムトラベルしたのだニャ。

2021年8月20日金曜日

ソラとの別れ

 



 曾良は腹を病みて、伊勢の長島といふ所にゆかりあれば、先立ちて行くに、

 行き行きて倒れ伏すとも萩の原 曾良

と書き置きたり。行く者の悲しみ、残る者の恨み、隻鳧の別れて雲に迷ふがごとし。予もまた、

 今日よりや書付消さん笠の露 

 江戸からずっと芭蕉の秘書役をつとめてきた曾良は金沢あたりから体調不良、なんとかここまで来ましたが、これ以上旅をつづけることが困難に。やむなく親族のもとで療養することに決め、先に帰ることになりました。

 曾良の無念、芭蕉の心細さが痛いほど。起承転結、別れのテーマのエピソード3は、いままで比較にならないくらいツライ別れです。金沢あたりからしきりと秋風が吹いていましたが、ここにきて身にしみます。

曾良の行き行きての句は、西行の歌を踏まえています。

 いづくにか眠り眠りてたふれふさん と思ふ悲しき道芝の露

「隻鳧の別れ」は、李陵と蘇武の別れを踏まえています。平家物語の巻第二の最後に「蘇武」の章があります。むしろ中島敦の『李陵』のほうが読まれているかもしれませんね。違いは後者に司馬遷の人生がからんでくることです。

項羽と劉邦の戦いののち、劉邦が漢を建国します。その7代目が武帝で、前漢の最盛期を迎えます。名前のとおり、宿敵である匈奴への外征を繰り返しました。

李陵も、蘇武も外征を命じられた将軍です。李陵は、自分の判断とははなれたことから匈奴に捕まります。しかし自身で投降したと誤って伝えられ、武帝の怒りをかい親族を殺されてしまいます。その落胆や怒りのため、李陵は匈奴に協力するようになります。

他方、蘇武は、辛酸をなめ李陵が説得するも最後まで節をまげません。そして雁に手紙を託したメッセージが故国に伝わり、晴れて帰国することがかなったのでした。

李陵と蘇武、人生の選択がわかれましたが、どちらも苦難の人生でした。匈奴の捕虜として同じ境遇にあり、彼らの間には友情がありました。しかし、運命は二人を引き裂き、蘇武だけ帰国することになったのでした。

鳧はケリという鳥で、チドリの仲間です。隻鳧は一羽のケリということですから、隻鳧の別れは、李陵と蘇武の別れを指す言葉です。

司馬遷がどうからむのか。李陵が捕まった際、武帝の癇癪をおそれて皆、追従したのですが、ひとり司馬遷は李陵をかばう論陣をはりました。案の定、武帝の怒りをかい、司馬遷は屈辱的な宮刑に処せられたのでした。

われわれが現在、いまのような『史記』を読めるのは、この宮刑による屈辱をバネにした司馬遷の不屈の精神によるものです。

平家物語になぜ「蘇武」の話がでてくるのか。歌舞伎や能の『俊寛』をご存知でしょうか。おごれる平家を打倒しようとして鹿ケ谷の陰謀がはからます。

しかしあえなく発覚。陰謀に加担した俊寛のほか、藤原成経と平康頼は、九州の南方にある鬼界ガ島に流されました。

俊寛は僧でありながら信心深くありませんでした。他方、康頼らは信心深く神仏に祈り、千本の卒塔婆に自分たちの名前や歌を書きつけて海に流しました。歌は、

 薩摩方おきの小鳥にわれありと親には告げよ八重の潮風

 思ひやれしばしと思ふ旅だにもなお故郷は恋しきものを

なんとこの卒塔婆のことは流れ流れて都まで伝えられることなり、康頼らは恩赦により帰京を許されたのでした。これが雁に手紙を託して帰国を許された蘇武のエピソードと重なることから、平家物語に「蘇武」がでてきます。

他方、恩赦の文書をなんど読み直しても俊寛の名はなく、追いすがる彼を島に残して舟は行ってしまったのでした。信心うすい彼のせいとはいえ、一人島に残されることとなった、その悲劇が歌舞伎や能を観る現代人にもじーんと来るのでした。

隻鳧の別れの解説に時間をとられました。先を急ぎましょう。

芭蕉が消した書付は「同行二人」という文字です。よく四国のお遍路さんが笠に書いていますね。あれは弘法大師と二人という意味ですが、ここでは芭蕉と曾良の二人という意味に転じて使われています。季語は露。

われわれも秘書さんがお休みの日はとても心細い。長旅の途中である芭蕉の心細さはよくわかります。わが事務所は比較的人の異動がすくない職場ですが、それでも今年度は大きな異動が見込まれています。これもまた不安だし心配です。

私事ですが、イタリアに転勤を命じられている二女夫婦に今春子どもができ、里帰り出産しました。その名も蒼空。ここのところマゴマゴ生活をエンジョイしていました。

が、彼らは昨夕の飛行機でイタリアに戻っていきました。コロナ禍のなかイタリアに戻ることも心配ですし、まだ3か月の孫のことも心配。幸あれと願うばかりです。

2021年8月17日火曜日

玄昉の墓

 
(観世音寺の隣にある玄昉の墓)

 平家物語の「倶利伽羅落」「篠原の戦い」「真盛」のつぎの章は「還亡」です。おくのほそ道からすれば脱線ですが、太宰府ゆかりの人ですので「還亡」の話までしましょう。

還亡というのは玄昉のことです。日本史で習いました。ご存知でしょうか。玄昉は遣唐使として中国に留学しています。その際、学僧仲間から、玄昉は還亡と共通の音であるから、日本に帰ってよくないことが起きるといわれたそうです。実際そうなりました。それで還亡という章題になっています。

倶利伽羅峠・篠原の戦い、実盛の話のあとに玄昉の話は、時代も話題も大きく離れ、つながりが悪い。なぜつながるかというと、こう。

源平合戦における北国の戦いで、多くの平家武者が亡くなり、都はその妻や親たちの悲嘆につつまれました。そこで戦乱がしずまったのち、伊勢神宮へ行幸が行われることになりました。

その伊勢神宮への行幸がはじまったのは、約450年前、藤原広嗣の乱のとき。藤原広嗣は、橘諸兄、吉備真備とともに、玄昉をのぞこうとして乱を起こしたからです。広嗣と玄昉は因縁の対決みたいなところがあり、後記のおどろおどろしいエピソードもあります。

玄昉は遣唐使として中国に留学し、法相宗を学びつつ18年間在唐し、玄宗皇帝にも認められています。鑑真の招へい時の苦難を描いた井上靖の『天平の甍』にも、たしかちらりと出ていたと思います。

奈良時代の歴史は、台頭した藤原不比等にはじまる藤原氏と皇族の政争が激しく、ややこしい。皇族がたの長屋王のあと、いわゆる藤原四兄弟が政権を握るも、おりから流行した天然痘により全滅。そのあとを引き継いだのが皇族がたの橘諸兄です。

橘諸兄はすでにこのブログにでてきました。覚えていますか。浅香山の段です。

 浅香山影さへ見ゆる山の井の 浅き心をわが思はなくに

葛城王は饗応のまずさに気分を害したものの、采女がうたったこの歌に機嫌をなおしました。その葛城王こそがのちの橘諸兄です。

橘諸兄は唐帰りの吉備真備と玄昉を重用しました。玄昉の権勢はそうとうなものだったよう。藤原広嗣の乱後、動揺した聖武天皇に大仏建立を勧めたのは玄昉だとか。

皇族がわの橘諸兄政権に対し、面白くないのは藤原氏側。藤原広嗣は大宰小弐に任じられ、大宰府に赴任したものの、これを左遷と受け止め、九州で乱を起こしました。

その鎮圧を命じられたのが大野東人。多賀城の壺の碑に名前が刻まれていましたね。彼に乱はまもなく鎮圧されました。

その後も藤原氏側の巻き返しは続き、藤原仲麻呂が勢力をもつようになると、橘諸兄政権は失速。玄昉も観世音寺の別当に左遷されました。

藤原広嗣の怨霊はすさまじく、玄昉が彼の供養をしようとして「高座にのぼり、敬白の鐘うちならす時、俄に空かき曇、雷ちおぼただしう鳴って、玄昉の上に落ちかかり、その首をとって雲のなかへぞ入りにける。広嗣調伏したりけるゆゑと聞えし。」(平家物語)

というわけで、観世音寺の隣にはいまも玄昉の墓がひっそりとのこされています。

2021年8月16日月曜日

実盛の錦ー項羽の選択


小松の多太神社には、甲(かぶと)だけではなく、「錦の切れ」もありました。

「錦の切れ」の由来について、芭蕉は当然のこととして説明しなかったのでしょう。が、現代の読者には意味不明でしょう。平家物語や謡曲『実盛』には、その由来が説かれています。両者で少しニュアンスが異なりますが、ここでは謡曲のほうを引用しておきます。

 「また実盛が錦の直垂を着ること私ならぬ望みなり 実盛都を出でし時 宗盛公に申すよう 故郷へは錦を着て帰るといへる本文あり
 実盛生国は越前の者にて候ひしが近年御領に付けられて武蔵の長井に居住つかまつり候ひき このたび北国に罷り下りて候はば定めて討死つかつるべし 老後の思ひ出これに過ぎじ ご免あれと望みしかば赤地の錦の直垂を下し給はりぬ
 しかれば古歌にも 紅葉葉を分けつつ行けば錦着て家に帰ると人や見るらん と詠みしもこの本文なり
 さればいにしへの朱買臣は錦の袂を会稽山に翻し 今の実盛は名を北国の巷に揚げ 隠れなかりし弓取りの名は末代にあり・・・」

実盛は、故郷が越前なので、その故郷に錦を飾りたかったのですね。

この「故郷に錦を飾る」という言葉は、みなさんもご存じでしょう。この言葉は、司馬遷の『史記』「項羽本紀」に由来しています。司馬遼太郎の古代中国小説に『項羽と劉邦』がありますが、その項羽です。

『項羽と劉邦』は、中国古代、漢の国が成立する時の話で、二大英雄の戦いを描いたものです。武力だけでいえば項羽が常に上回っていたのですが、人徳の大きさで結局のところ劉邦に負けてしまいます。

いま「キングダム」が人気ですが、あれは秦の始皇帝が建国する時代の話。秦帝国のあとが漢。『項羽と劉邦』の話は、その秦が滅び、漢が成立する直前の話です。

秦の都は関中にありました。関中の占領は劉邦のほうが早かったんですね。項羽はあとから関中に到着しました。勢力は項羽のほうが何倍も上です。劉邦は項羽に殺されそうになりながら、からくも関中を脱出します(鴻門の会)。

その後、劉邦は関中を焼き払ってしまいます。関中は四方が天険であり、ここを都とすれば項羽の勢力は安泰だったかもしれません。

そのように部下に諫められた際に、項羽が言った台詞がこうです。「富貴となって故郷に帰らないのは、錦をきて夜行くようなもの、誰にも知ってもられない」。

これが「故郷に錦を飾る」という言葉の由来です。この台詞の是非は歴史が証明しています。項羽は部下が諫めたとおり、故郷に錦を飾るより、関中を拠点として劉邦と対峙すべきだったでしょう。

『史記』が日本に輸入されて読み継がれるうち、「故郷に錦を飾る」という言葉は、いつしかよい意味に転化したのでしょうね。でなければ実盛も故郷に錦を飾りたいとは思わなかったでしょう。

2021年8月12日木曜日

小松ー実盛

 


 (義仲寺と芭蕉)

 この所多太の神社に詣づ。実盛が甲・錦の切れあり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より賜はらせたまふとかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊唐草の彫りもの金をちりばめ、竜頭に鍬形を打つたり。実盛討死の後、木曾義仲願状に添へて、この社にこめられはべるよし。樋口の次郎が使ひせしことども、まのあたり縁起に見えたり。

 むざんやな甲の下のきりぎりす

小松駅から南西に歩いて10分ほどいくと多太神社があります。多太神社には、斎藤実盛の兜が奉納されています。

実盛(真盛)といってピンとくる人はすくないと思います。平家物語の巻第七によると、「倶利伽羅落」の次が「篠原合戦」、その次が「真盛」となっています。

本ブログ「忠義を貫かないで名を残した、武藤資頼」で紹介したとおり、武藤資頼はもと平家がたでしたが、源平合戦時に源氏に鞍替えして、いまに名を残しました。

実盛はこの逆。本文にあるとおり、もと源氏がたで、源義朝(頼朝、義経の父)から立派な兜を賜りました。が、源平合戦のおりには平家がたに鞍替えし、主は平宗盛でした。

平家軍は、倶利迦羅峠の戦いで敗れたのち、小松ちかくの篠原まで後退し、ここでリベンジの戦いを挑みます。しかし、ここでも木曾義仲の軍に敗れてしまいます。

実盛は当時73歳、ここを死に所と考え、最期まで奮戦します。が、ついに討たれてしまいます。討たれたけれども、いまに名を残しました。なぜでしょう。

戦さのあと、武功を確認するため首実検を行います。その際、どうも実盛に似ているけれども若すぎる。樋口次郎であれば、よく知っているはずだと訊いてみると、「あなむざんやな斎藤別当にて候ひけるぞや」。

樋口次郎によると、実盛は日ごろ、60を過ぎていくさにのぞむ時は、白毛を染めていこうと言っていたとのこと。老武者とて人にあなどられるのも悔しいと言って。

ちかくの池で洗ってみると、たしかに毛染めは落ちて、白髪に戻ったのでした。やはり首は実盛のものでした。

この話は当時の人々や芭蕉を感動させました。平家物語では特に一章もうけられていますし、謡曲『実盛』にもなっています。

われわれも60を過ぎました。若い連中に老武者とてあなどられないようにする必要がありますね。いまのところ、髪を染める必要はないようですが。

木曾義仲は、子どものころ実盛の世話になり、また彼の心意気にも感じたのでしょう。本文にあるとおり、多太神社に兜と願状を奉納して、実盛の成仏を祈願しています。

芭蕉は樋口次郎の決め台詞「あなむざん」を借用して、むざんやなの句を詠んでいます。夏草やの句に似ていますね。

きりぎりすはいまのキリギリスではなく、コオロギのことです(写真はキリギリス)。あなややこし。

芭蕉は、実盛だけでなく、木曾義仲もだいすきです。義仲が最期に討たれた琵琶湖のちかくに、慰霊のための義仲寺があります。芭蕉は大阪で亡くなったのですが、じぶんも義仲寺にほうむってほしいと遺言をのこしました。そのため芭蕉も義仲寺に葬られています。

義仲寺にはもちろん芭蕉の木が植えられています。芭蕉はバナナに似ています、そして破れやすい葉を風に揺らしています。

2021年6月17日木曜日

塩竃の夜ー仏果を得ず


 その夜、目盲法師の、琵琶を鳴らして、奥浄瑠璃といふものを語る。平家にもあらず、舞にもあらず、ひなびたる調子うち上げて、枕近うかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝におぼえらる。

平家物語でもなく、幸若舞でもなく、いまの人形浄瑠璃でもなく、当時、奥州で流行していた奥浄瑠璃。いまはもうほとんど演奏されていないそう。まさしく流行。

演目は「牛若東下り」など。芭蕉が聞いたのも、おそらくこれ。浄瑠璃という名前の起源も、浄瑠璃離姫物語だとか。これもまた義経に由来しています。

1174年、牛若丸は奥州の藤原秀衡を頼って東下り。途中、矢作の里で、聞こえてきた琴の音に笛の根であわせたことから、浄瑠璃姫とラブに。しかし追われる牛若は姫をおいて東国へ。姫は悲しみのあまり菅生川に身投げ(流行)してしまいましたーという悲劇です。

いまわれわれが接することができる浄瑠璃は文楽(人形浄瑠璃)ぐらい。人形劇付きの浄瑠璃です。かってNHKで新八犬伝をやってましたが、あれ。べんべん。

博多座に来るのを待つか、大阪の国立文楽劇場まで行くか。吉本新喜劇に行くひまがあったら(笑)、いちどはどうぞ。

橋本大阪市長(当時)が補助金を見直すと言い出して騒動になりました。さらに、コロナ禍のなか、伝統芸能・舞台芸能はどこも青色吐息(桃色吐息じゃないですよ、若い人!)。税金を投じてでも伝統芸能を援助していく価値は十分にあると思います。

そうかな?と思うかたは、三浦しをんの『仏果を得ず』をご一読くだされ。わが事務所には三浦しをんファンが数知れず。あのぶっちゃけトークが炸裂するエッセイ類もだいすきですが、あまり知られていない大事な仕事に光をあてる小説系もだいすきです。しをん様、ラブ!

夜分すみません、ついつい興奮してしまいました。宿の壁うすく、枕近くでかしましかったでしょうけれど、わが国の遺風忘れないよう頑張りましょう。

なお、「仏果を得ず」とは、『仮名手本忠臣蔵』「早野勘平腹切りの段」のなかの名ゼリフから。切腹のさい「仏果を得よ」(=死んで成仏せいよ)といわれたことに対する勘平の返しの言葉。死んでたまるか、死んでも本懐を遂げてやる(敵討ちの御供をする)!という意味です。橋本市長なんかに切られてたまるか!と読むのは読みすぎか。

2021年4月19日月曜日

那須の与一が祈願した神社はどこ?



(小豆島から瀬戸内の夕日、左手に屋島がみえている)


(湯元温泉にある温泉神社)

もののふの矢並つくろうふ籠手の上に霰たばしる那須の篠原

                      源実朝『金槐和歌集』

那須野・黒羽は栃木県北部、那須連山の麓にひろがる扇状地にあります。扇状地ですので、土質は砂礫層で雨が降っても地表にはとどまらず、伏流することになります。田をつくることができず、野がひろがることになります。それで那須野なわけです。那須野は鎌倉武士の実践訓練場でもありました。

おくのほそ道の那須野の段は、野、馬、武士、弓、騎射などのキーワードがちりばめられ、このような雰囲気をつたえています。はじめに那須野で道に迷わぬよう馬を借りましたし、結びで殺生石に行く際も馬です。その際、口付きの男に頼まれて詠んだ句は

 野を横に馬引き向けよほととぎす

芭蕉のお弟子さんは商人・町人が多かったと思われますが、黒羽のお弟子さんは武家です。そのお武家さんが案内した名所も、那須の篠原、犬追物(犬を騎射する弓術の鍛錬法)跡、玉藻の前を射殺・退治した古墳、那須与一ゆかりの八幡宮と、いずれも武士に関わりのあるところです。

玉藻の前の話は後でするとして、今回は那須与一の話。名前のとおり那須野出身の武士のヒーロー。いまでいえば、筑陽学園出身・阪神タイガースの谷川昌希投手というところでしょうか。

彼は源平合戦のクライマックス、八島のたたかいで登場。波にゆれる船のうえ、平家がたの美女が扇の的を高々とかかげています。その扇の的を矢が届くギリギリの距離から見事射貫きました。パチパチ。

このエピソードは誰でも知っていると思っていました。が、事務所の研修旅行で小豆島に行った際、屋島が見えていたのでそう指摘したら、若い衆は無反応。いま日本史はあまり教えられていないんですね。ふぅ。

さて気になるのは与一ゆかりの八幡宮のくだり、おくのほそ道にはこうあります。

与一扇の的を射し時、「別してはわが国の氏神正八幡」と誓ひしも、この神社にてはべると聞けば、感応殊にしきりにおぼえらる-とあります。

念のため、手もとの『平家物語』の当該箇所を見てみると、ちょっと違います。少なくとも岩波文庫(四)166頁では、こうなっています。

与一、目をふさいで、「南無八幡大菩薩、我国の神明、日光権現・宇都宮・那須のゆぜん大明神、願くはあの扇のまンなか射させてたばせ給へ。これを射そんずる物ならば、弓きりをり自害して、人に二たび面をむかふべからず。いま一度本国へむかへんとおぼしめさば、この矢はづさせ給ふな」と、心のうちに祈念して・・・

八幡神は武運の神様なので、八幡大菩薩に帰依するとは言っています。が、「別してはわが国の氏神正八幡」という言葉は出てきません。浄法寺さんたちが地元の八幡さまを紹介する際、話を盛ったのでしょうか。

とまれ、那須山の麓にある湯元温泉、あとで紹介する殺生石があるところですが、そこには温泉神社があります。那須のゆぜん大明神とはここのことでしょう。少なくとも、同社の案内にはそう記載されています。

ただし、現在の温泉神社も鎌倉時代のものがそのままというわけではありません。まさしく不易流行なわけです。

2018年3月12日月曜日

平家の太宰府落


 土曜日は玄海ロイヤルホテルで薬害C型肝炎の九州原告団総会と懇親会でした。

 日曜日は,同ホテルを出発して,宗像四塚(湯川山471m,孔大寺山499m,金山317m,城山369m)を縦走しました。
 300~400mの山なので,すこしなめてかかったら,たいへんな縦走でした。
 よく考えたら,標高を全部足すと1656m,上高地から槍ヶ岳なみの標高差があります。しかも,アップ・ダウンするので,上高地から槍に登って降りてくるのと同じ。たいへんなはずです。きょうは足がぱんぱんです。

 湯川山と孔大寺山をわかつ峠を垂水峠といいます。垂水峠は由緒あるところです。屋島の戦いに敗れた平家は,太宰府(親平家)に身を寄せていました。ところが源氏の意を受けた緒方三郎が攻めてくると聞いて,北九州方面へ落ちていきました。その際,通ったのがこの峠だとされています。

 「平家は,緒方三郎維義が三万余騎の勢にて既に寄すと聞こえしかば,取る物も取りあへず,太宰府をこそ落ち給へ。さしも頼もしかりつる天満天神の注連の辺を,心細くも立ち離れ,
 ・・・
 住吉,箱崎,宗像伏し拝み,ただ主上,旧都の還幸とのみぞ祈られける。
 垂水山,鶉浜などという,険しくそびえる難所を乗り越え,広く果てしない砂原へ赴きなさる。」(平家物語巻八)。

 峠から孔大寺山にむかって登っていると,「五位の石」があります。なんでしょう?
 やはり平家物語のなかに,醍醐天皇の宣旨にしたがい取らえられたサギが正五位を授けられたという五位鷺の由来が紹介されています(巻第五)。その類でしょうか?

 調べたら,安徳天皇を擁する平家の一行が難儀してこの岩陰で雨宿りすると,たちまち晴れたことから五位の位が授けられたらしい。なるほど。

 そう思って平家物語をもういちど読むと,峠をとおったのではなく,山越えをしたのかもしれないなぁと思いました。孔大寺山はむかし垂水山と呼ばれていたのかも。

 というわけで,バテバテながら楽しい山歩きでした。

 湯川山苦吟したるや初音かな

2017年12月21日木曜日

『熊野』


              (祇王寺)

 写真は祇王寺の庭です。竹林と広葉樹が接しています。竹林は嵯峨野らしいですし,紅葉も小倉山らしい。両方のハイブリッドです。祇王寺の名前は平家物語にある祇王の悲しい話に基づいています。祇王は平清盛に寵愛された白拍子でした。あるとき飛びこみ営業にきた仏御前に情けをかけたことから追い出されることになりました。嵯峨野で出家・隠棲しますが,清盛からさらなる辱めをうけます。世をはかなんで仏事にはげんでいたところ,仏御前がたずねてきて和解します。寺は,このような祇王や仏御前らの像などをつたえています。

 先日,能を鑑賞する機会がありました。大濠能楽堂で。知人のご招待です。演目は『熊野』。これを「くまの」と読んだら,能の知識がないこを暴露することになります。「ゆや」と読みならわしています。熊野は宗盛の愛妾の名前で,能の主役・シテです。

 この謡曲のもとネタはやはり平家物語で,「街道下」の巻のなかにあります。
 一の谷で捕らわれた平家の重衡が鎌倉に連行される途中のエピソード。重衡は単なる戦争犯罪人というだけでなく,奈良の東大寺などを焼き討ちした重大犯罪人であり,鎌倉では死刑を言い渡されることが見込まれています。

 道中池田の宿で,重衡は,熊野と宗盛の由緒をきかされます。ときは平家の全盛期,東国(池田の宿)に住む母が病気になったので帰りたいと熊野が申し出たにもかかわらず,宗盛はこれを許しません。そのとき,熊野が詠んだのがこの和歌。

  いかにせん 都の春も 惜しけれど
          馴れし東の 花や散るらん

 この和歌はこれだけで平家の貴公子・重衡の境遇に照らし,涙をさそうものがあります。

 でも,この和歌で詠まれ,花や散るらんと心配されているのは病気の母のことです。作者はこのエピソードをふくらませて,『熊野』の世界をつくりあげています。京都,清水寺に至る春爛漫の情景,それが華やかであればあるだけ熊野の内心の苦悩がいっそう際立つという構成です。
 見事というほかありません。 

2017年12月12日火曜日

想夫恋と小督


           (嵐山・小督塚)


            (琴きき橋跡)

 九州人に「想夫恋」といえば焼きそばだけれども,『平家物語』には焼きそばとは似ても似つかぬ哀切な物語があります。また嵐山にいくと嵐山,桂川,渡月橋や天竜寺に目がいくけれども,『平家物語』ゆかりの名所がひっそりと佇んでいます。

 まずは,「小督塚」。渡月橋の北詰,大堰川沿いに西(亀山の方)に1区画ほど向かい,アラビカの角を北に入ってしばらくいくと,左側にあります。小督さんは,高倉天皇の寵姫。たいへんな美人だったそう。天皇の中宮が平清盛の娘・建礼門院徳子であったことから,清盛は小督を宮中から追放。迫害をおそれて,小督は嵯峨野に隠れ住んでいました。

 天皇は嘆き悲しみ,源仲国に命じて,小督を探させました。ときは中秋の名月が煌々と輝いています。ヒントは嵯峨野のあたり,片折り戸に茅葺きの家というだけ。みなさんだったら,どこを探しますか。

 仲国は,まず清涼寺からはじめます。例の源融ゆかりのゆかりもある寺です。嵯峨釈迦堂の名で知られ,中世以来融通念仏の道場としても知られています。謡曲「百万」はそれが舞台になっています。

 ほか堂々を見てまわりますが,見つかりません。逃げ出したい気持ちをおさえて,今度は法輪寺へ向かいます。法輪寺は,渡月橋から嵐山の中腹に見えるお寺です。つまり,仲国は嵯峨野を北から南の嵐山の方に向かったことになります。すると・・

 亀山のあたり近く,松の一叢ある方に,かすかに琴ぞ聞こえける。峰の嵐か松風か,尋ぬる人の琴の音か,覚束なくは思へども,駒を速めて行くほどに,片折り戸したる家に,琴をぞ弾き住まされたる。控えてこれを聞きければ,少しも紛ふべうもなく,小督の殿の爪音なり。楽は何ぞと聞きければ,夫を想うて恋ふと読む,想夫恋と言ふ楽なりけり。仲国,さればこそ,君の御事思ひ出で参らせて,楽こそ多けれ,この楽を弾き給ふことのやさしさよと思ひ,腰より横笛抜き出し,ちつと鳴らいて,門をほとほとと叩けば,琴をばやがて弾き止め給ひぬ・・

 このかすかに琴ぞ聞こえた場所が渡月橋の北詰とされています。ま,清涼寺から法輪寺に向かい,亀山のあたり近くに琴の音が聞こえたというのだから間違いはないでしょう。いまは立派な渡月橋が架かっていますが,むかしは琴きき橋というのが架かっていたようです。琴きき橋跡の碑がたっています。

 『小督』は謡曲にもなっています。

 紅葉の時期もよいけれど,中秋の名月をながめ,小督と仲国に思いをはせながら,ここらあたりを散策してみてはいかがでしょう。

2017年12月11日月曜日

『嵯峨日記』筑紫野市の弁護士の日記


          (京都嵯峨野・落柿舎)

 嵯峨野を散策したとき,もちろん落柿舎もおとずれた。松尾芭蕉の弟子・向井去来の別荘として使用されていた草庵である。

 芭蕉の作品に『嵯峨日記』がある。彼が落柿舎に滞在したときの日記である。彼が残した唯一の日記である。1691年の4月18日から5月4日まで,わずか17日間の日記である。事務所のブログも断続的に書き継いできた。こんかいは1年8月もの長き沈黙を超えて更新中であある。長さだけは芭蕉に負けていない。

 前回『平家物語』を読破したことを書いた。平家を読もうと思ったきっかけは,芭蕉の『おくの細道』である。日本百名山をめぐり登るうち,羽黒山,月山,湯殿山の出羽三山に登る機会があった。その際,『おくの細道』を読んだら,実におもしろかった。それ以来,同書にはまったのだが,ちゃんと理解するには平家を読まないとと思い,平家に挑戦した。平家を理解すると,やはり『おくの細道』の理解も格段に深まったように思う。

 現在,『源氏物語』に挑戦中である。芭蕉が落柿舎に持ち込んだ書籍のなかに源氏もあった。そう日記に書いてある。源氏を読破し,芭蕉のような味わいのある日記が書けるようになりたいものだ。

2017年11月30日木曜日

京都・嵯峨野の紅葉(2)筑紫野市の弁護士の旅


            (大覚寺・大沢池)

 二尊院をあとにして,祇王寺,滝口寺へ。いずれも平家物語ゆかりの寺。いずれも恋のもつれを仏道にすがって救済される話。いまなら弁護士に相談して裁判所で決着をつける事案でも,むかしは祈るしかなかったんでしょうね。

 そろそろ残り時間が気になるけれど,祇王寺で大覚寺との共通券を買ってしまったので(200円おとく),なんとか大覚寺までは行かねば。でも京のお寺の店じまいは早い,この共通券はライトアップには使えないらしいし。

 それでも途中,宝筺院と清涼寺(釈迦堂)に寄りました。2つの寺院はお隣どうしなので,ついでに立ち寄れます。宝筺院は,高校の同級生が2日前に行ってよかったと報告があったので行ってみました。嵯峨野の人力車さんたちも顧客を連れていく穴場スポットのよう。はじめて行きましたが,見事な紅葉でした。

 さいきんちょっとお能に興味をもっているので謡曲「百万」,「融」の舞台になっている清涼寺には是非寄ろうと思っていました。残念ながら,境内には「百万」関連の史跡はなかったように思います。が,源融のお墓はありましたので,拝ませてもらいました。彼は源氏物語の光源氏のモデルとされており,河原左大臣として百人一首に「陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆえに 乱れそめにし われならなくに」の歌がとられています。むろん,三国伝来の釈迦像,阿弥陀如来の両国宝も参拝さあせてもらいました。

 そしてようやく大覚寺。門外不出といわれる嵯峨菊がたくさん咲き誇っていました。広大な堂内をめぐるうちに日も傾き,大沢池がいいかんじに黄昏れていました。
 いざ,龍の背に乗って,あらたな旅に出ましょうか。

2012年9月25日火曜日

『謡曲・狂言』



能は,豊臣秀吉がパトロンとして
保護したことがきっかけで近世に隆盛したらしい。

信長につかえ,ひとたらしの天才といわれた秀吉こそ
人の表情のかすかな動きを読みとる芸のパトロンとしてふさわしい。


「能のかたち」展がおもしろかったので
博物館の売店で,関連本を買い,読みました。

例の「ビギナーズ・クラッシックス 日本の古典」シリーズの
網本尚子編・『謡曲・狂言』(角川文庫)。

謡曲として
『高砂』 初番目物(脇能)

『敦盛』 二番目物(修羅物)
『井筒』 三番目物(鬘物)

『隅田川』 四番目物(雑物)
『鵺』 五番目物(切能)

以上5作品が収められています。
初番から五番目まで,この順に演じられるらしい。

初番目物を序曲と考えれば
起承転結,交響曲の構成に似ています。

やはり人間を飽きさせず
舞台に引きつける工夫なのでしょうね。

『高砂』は結婚式でおなじみ
高砂と住吉の松の精の仲良くおめでたいお話。

『敦盛』は平家物語の有名な段
『井筒』は伊勢物語に材をとられています。

『隅田川』も伊勢物語の
例の都鳥の話をベースにしています。

『鵺』は,ご存知
源頼政の鵺退治の話です。

いずれもおなじみの話なので
さっと読めました。

修習生時代にいちど
国立劇場に連れていかれ,能を観ました。

当時,歌舞伎は楽しめたけれど
能はさっぱり(寝てしまいました)。

その後も,歌舞伎については博多座に
ご招待を受けたりして,観劇の機会がありました。

でも能はそのまんまに。
今回を機にいちど観劇してみたくなりました。

2012年2月20日月曜日

『ビギナーズ・クラシックス 平家物語』



 (雲仙・国見岳)

 ここのところ日曜の帰りが遅く
 きのうも大河ドラマ『平清盛』を見損ねました。

 いったいどうなっているのか?ふつうのドラマだと
 2回も見損ねると,筋がわからなくなります。

 そんな方にお奨めなのが
 『ビギナーズ・クラシックス 平家物語』(角川書店=編)。

 角川文庫1冊で,平家物語の全ストーリーを現代文で
 読みどころを古文と現代文の両方で味わえます。

 読みどころにはもちろん,梶原景季と佐々木高綱による
 宇治川の先陣争いを描いた「宇治川」や
 
 熊谷直実が息子ほどの平家の貴公子・敦盛を涙ながらに討つ
 「敦盛最期」なども含まれています。

 私のまわりにも梶原さん,佐々木さん,熊谷さんらが
 おられますが,このころからの名族なんですねぇ。

 これら読みどころは,中学校だったかで習ったわけですが
 こんな面白い話が学校で習うとなんであんなに退屈なのでしょう?

 京都に行くとよく嵯峨野にいくわけですが
 仲国が想夫恋を奏でる小督を発見する「小督」(渡月橋北に小督塚),

 怨念を超えた祇王と仏御前の友情物語である「祇王」(祇王寺),
 『滝口入道』の題材となった「横笛」(滝口寺)などのエピソードも。

 乱世にあっても美しく生きることの大切さをあらためて
 教えられます。

 みなさまもどうぞ。