2024年2月22日木曜日
太宰府路散策(第2回)(4)
2023年10月20日金曜日
太宰府路散策(3)戒壇院、観世音寺
学業院跡から、さらに東へ向かう。戒壇院、観世音寺がみえている。その向こうに宝満山。
https://www.google.com/maps/place/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E5%BA%9C%E5%B8%82/@33.5149402,130.5201245,18.5z/data=!4m6!3m5!1s0x35419bb94ea9da4d:0x420ea1837d378fc4!8m2!3d33.5127734!4d130.5239685!16zL20vMDF3cTE1?entry=ttu
戒壇院と観世音寺の間の路を右折。戒壇院へ向かうのだが、その前・右手に玄坊の墓がある。玄坊は遣唐使とともに学問僧として入唐。玄宗皇帝に才能を認められた。
帰国後、聖武天皇の信頼もあつく、橘諸兄政権の中枢として吉備真備とともに出世。しかし橘諸兄が権勢をうしない、筑紫の観世音寺に左遷、この地で没した。人格的な批判もおおく、怪異な伝承が多い。かつて政権中枢を担ったわりには小さな墓である。
墓のまえをさらに進むと、右手に戒壇院の裏口がある。東大寺戒壇院などとともに、天下三戒壇の一つ。奈良時代、授戒制度を確立するため、唐から鑑真を招聘した。井上靖の小説『天平の甍』に詳しい。
東大寺の戒壇院は四天王像がすばらしいが、残念ながら筑紫戒壇院にはそのような四天王像は残されていないようである。裏口すぐには菩提樹が植えられている。この日は座禅がおこなわれていたようで、静かにと注意書きがあった。
戒壇院の裏口を出ると、正面すぐが観世音寺の側面入口である。大学生のゼミとおぼしき若い人たちが参拝していた。
観世音寺は、天智天皇が創建した。唐・新羅連合群とたたかう百済を救援するため日本も朝鮮半島に派兵したが、白村江の戦いで敗れた。そのため防衛のために築かれたのが大野城や水城である。
古代のことであるから、いまのように通信手段が整っていない。日本政府は大和の地から采配を振るっていたのでは勝てる戦も勝てない。そのため、前線にちかい九州の地まで出張ってきていた。
その地で斉明天皇が亡くなった。その追善供養のため、皇太子であった中大兄皇子が創建したという。
古くは大きな寺だったらしく、『源氏物語』にもでてくる(あまりよい文脈ではない)が、戦火などでいくたびか焼亡し、いまはそれほどの偉容はない。
寺に向かって右手には日本最古の梵鐘がある(いや、あった。いまは博物館に保存されている。)。国宝である。あれ?日本最古の鐘は妙心寺ではなかったっけ?そのとおり、兄弟鐘である。
糟屋郡多々良町(現、東区)で製造されたという。多々良はたたら製鉄のたたらである。もののけ姫にでてきた「たたら場」と同じ語源である。「たたらを踏む」などというが、たたら製鉄の際の動作から来ている。
多々良町を多々良川が流れている。中央での戦いに敗れた足利尊氏は九州に流れてきて、捲土重来を期していた。かれは多々良川の戦いに勝利し、ふたたび中央に攻め上り、後醍醐天皇側から政権を奪取することに成功することになる。
梵鐘の奥は宝蔵である。観世音寺というだけあって、巨大な十一面観音、馬頭観音、不空羂索観音が偉容を誇っている。大きさは東大寺の不空羂索観音とおなじくらいだと思う。
https://www.fukuoka-bunkazai.jp/frmDetail.aspx?db=1&id=239
このあたり紅葉するとナンキンハゼが美しい。いまの時期はコスモスが青空に映え、親子連れが記念撮影をしていた。
2022年6月1日水曜日
幹を理解する
きょうから6月。6月は恋愛の季節だと言っていたが、ほんとうだろうか。ギリシア・イタリアのように乾燥した気候ならともかく。暑くてしょうがない=アツくてしょうがないという洒落かな。
六法というのは文字どおりルール・ブック。野球やサッカー、将棋やトランプのルールとおなじだ。ルールを曲げることはできない。何百人もの国会議員がつくった法律を1人の裁判官が曲げることはできない。難しくいれば三権分立だ。
相談からいきなり裁判を起こすということはない(起こされている場合は別だ。)。まずは交渉してみる。しかし、交渉で解決しなければ裁判になる。その場合、裁判官がルールを曲げることはないとなれば、交渉だからといってルールを曲げることはできない。
まずはそのことを理解してもらう必要がある。たとえば、共同相続。農家の長男からすれば、納得できないかもしれないけれども、このルールは曲げられない。それはおかしいと何度も押し問答になる。しかしここは譲れない。
紛争の構造は、概ねツリー状になっている。話せば長くなるけれども、要はこうだと幹をとらえてほしい。それなのに、枝葉に気をとられて、なんど説明しても幹を把握できないことがある。
最近は、インターネットの普及により、事前に学習してこられる方が増えた。当該ケースでは無関係の質問をたくさんされる。それにお答えしてもよいのだけれども、脇道にそれてしまって、根幹の理解がおろそかになってしまう。そのようにご説明するのだけれども、枝葉への興味が尽きない。・・・
問題解決は引越とおなじですよ。まずは大きな家具の置き場所を決めないと、ゴミ箱はあとからでもよいでしょ。そのようにも説明する。人間の思考にはメモリィなどの制約から、すべての問題をいちどに考えることができない。それで問題解決にはプライオリティを決めることが重要になる。それでも、どうしてもゴミ箱をどこに置くかが気になってしょうがない。・・・
弁護士37年。弁護士の仕事でいちばん難しいのは、やはり相談だと思う。
2021年10月20日水曜日
歩く瞑想
戒壇院の掲示板、よくみると右上に座禅の案内が貼ってある。座禅の効能は、心を落ち着け、不安や悩みがクリアになることだ。
人生に、山あり谷あり。ときには自分だけで心をコントロールできず、宗教の助けが欲しくなることもある。しかし入信するとなると、あらたなしがらみが厚くなりそうだ。そこで宗教色を脱して、瞑想やヨガにより同様の効果を得ようとするようになった。それがマインドフルネスだ。
ところで山歩きにも、そのような効果がある。空海をはじめ行者が山々をめぐって修行したのは、そのような効果を期待してのことだろう。
過去でも未来でもなく、現在に注意を向ける。いま・ここで起こっている事実を客観的に観察するよう努める。そうすると、将来の不安や悩みなどネガティブな感情に振り回されにくくなる。
などと言うとむずかしい。しかし、くよくよするなとか、気持ちを切り替えろとか、子どものころから言われてきたことだ。ただ、単にくよくよするなとか言われても、どうしていいか分からない。くよくよしないようにしようと思っても、ついついネガティブな場面、ネガティブな感情にとらわれてしまう。
そんなかた、戒壇院に参禅する勇気がなければ、裏の四王寺山に登りましょう。歩く瞑想効果が得られますよ。人生に、山あり谷あり。ただし迷走しないように。
2021年10月19日火曜日
天気予報が外れた日には
「週末はまとまった雨が降るでしょう。」と栄作さんが言っていたので、先週末は遠出の計画をとりやめて、家ですごすつもりにしていた。ところが朝起きると晴れ間が広がっていた。栄作さん、またですか。
栄作さんの漢字がこれでよかったかなとグーグルさんに尋ねようとして、「天気予報 栄作」と打ち込むと、予測変換候補のなかに「天気予報 栄作 当たらない」というのがあった。ははは。
やむなく急遽、大宰府政庁跡ふきんから四王寺山まで散策することにした。いつもの定番コースである。
菩提樹の花のころ以外は素通りする戒壇院だけれども、あるポスターが目をひいた(このままでは小さいので、写真をクリックして拡大してくだされ)。そう、左端のポスターである。
真ん中に七色の丸が描かれ、上から時計回りに、五、隹、足、矢の4つの漢字というか、その一部が書かれている。さて真ん中にくる漢字は何?
答えは、口。そう、それぞれの漢字の一部に口の字をあてはめれば、吾、唯、足るを、知る、となる。有名な竜安寺のつくばいで知っている人も多かろう。知らない?こんど竜安寺に行ったときに、注意して見物してくだされ。
先日、ヘミングウェイの身体性のところで、マインドフルネスや禅の考え方との共通性を書いた。その際、禅の考えに関するこの点にも触れた。そのため、いつもは目をひかないポスターに視線が吸い寄せられたのである。
若し諸の苦悩を脱せんと欲せば、まさに知足を観ずべし。知足の法は即ち富楽安穏の処なり。知足の人は地上に臥すといえども、安楽なりとなす。不知足の者は富むといえども、しかも貧し。不知足の者は常に五欲のために牽かれて、知足の者のために憐憫せらる。是を知足と名づく(遺教経)。
計画していた遠出はできなかったが、健康に散策ができることに、心から満足することができた。おかげさま。幸せだ。
2021年8月17日火曜日
玄昉の墓
平家物語の「倶利伽羅落」「篠原の戦い」「真盛」のつぎの章は「還亡」です。おくのほそ道からすれば脱線ですが、太宰府ゆかりの人ですので「還亡」の話までしましょう。
還亡というのは玄昉のことです。日本史で習いました。ご存知でしょうか。玄昉は遣唐使として中国に留学しています。その際、学僧仲間から、玄昉は還亡と共通の音であるから、日本に帰ってよくないことが起きるといわれたそうです。実際そうなりました。それで還亡という章題になっています。
倶利伽羅峠・篠原の戦い、実盛の話のあとに玄昉の話は、時代も話題も大きく離れ、つながりが悪い。なぜつながるかというと、こう。
源平合戦における北国の戦いで、多くの平家武者が亡くなり、都はその妻や親たちの悲嘆につつまれました。そこで戦乱がしずまったのち、伊勢神宮へ行幸が行われることになりました。
その伊勢神宮への行幸がはじまったのは、約450年前、藤原広嗣の乱のとき。藤原広嗣は、橘諸兄、吉備真備とともに、玄昉をのぞこうとして乱を起こしたからです。広嗣と玄昉は因縁の対決みたいなところがあり、後記のおどろおどろしいエピソードもあります。
玄昉は遣唐使として中国に留学し、法相宗を学びつつ18年間在唐し、玄宗皇帝にも認められています。鑑真の招へい時の苦難を描いた井上靖の『天平の甍』にも、たしかちらりと出ていたと思います。
奈良時代の歴史は、台頭した藤原不比等にはじまる藤原氏と皇族の政争が激しく、ややこしい。皇族がたの長屋王のあと、いわゆる藤原四兄弟が政権を握るも、おりから流行した天然痘により全滅。そのあとを引き継いだのが皇族がたの橘諸兄です。
橘諸兄はすでにこのブログにでてきました。覚えていますか。浅香山の段です。
浅香山影さへ見ゆる山の井の 浅き心をわが思はなくに
葛城王は饗応のまずさに気分を害したものの、采女がうたったこの歌に機嫌をなおしました。その葛城王こそがのちの橘諸兄です。
橘諸兄は唐帰りの吉備真備と玄昉を重用しました。玄昉の権勢はそうとうなものだったよう。藤原広嗣の乱後、動揺した聖武天皇に大仏建立を勧めたのは玄昉だとか。
皇族がわの橘諸兄政権に対し、面白くないのは藤原氏側。藤原広嗣は大宰小弐に任じられ、大宰府に赴任したものの、これを左遷と受け止め、九州で乱を起こしました。
その鎮圧を命じられたのが大野東人。多賀城の壺の碑に名前が刻まれていましたね。彼に乱はまもなく鎮圧されました。
その後も藤原氏側の巻き返しは続き、藤原仲麻呂が勢力をもつようになると、橘諸兄政権は失速。玄昉も観世音寺の別当に左遷されました。
藤原広嗣の怨霊はすさまじく、玄昉が彼の供養をしようとして「高座にのぼり、敬白の鐘うちならす時、俄に空かき曇、雷ちおぼただしう鳴って、玄昉の上に落ちかかり、その首をとって雲のなかへぞ入りにける。広嗣調伏したりけるゆゑと聞えし。」(平家物語)
というわけで、観世音寺の隣にはいまも玄昉の墓がひっそりとのこされています。
2013年6月11日火曜日
ボダイジュ
ボダイジュ。
太宰府・戒壇院に咲いています。
この木の下で
お釈迦さんは悟りをひらいたとか。
実際には,インド,中国,西洋など
種類があるらしい。
もちろんお釈迦さんが悟りをひらいたのは
インド種のものということになります。
戒壇院の説明によると
鑑真がもたらしたものだとか。
別の資料によると,ボダイジュを
日本にもたらしたのは栄西だとか。
戒壇院が鑑真説を支持したい気持ちはわかりますが
どうなんでしょう?
シューベルトの歌曲集「冬の旅」に
あるのは,西洋ボダイジュ。
市門の前の 泉の側そこに
一本の菩提樹が立っている。
僕はその木陰で見たものだった
とてもたくさんの甘い夢を。
(中略)
いま 僕は何時間も
あの場所から離れたはず。
けれど僕にはずっと ざわめきが聞こえたままだ
「あなたはここで安らぎを得られたのに!」
失恋した若者が安らぎが得られたはずの
菩提樹の木蔭のある町を捨てて出ていく。
悲しい記憶とともに,故郷を離れる
後悔,迷いが強く表現されています。
おなじボダイジュなのに
東洋と西洋でえらい違いです。
いまオルブレヒトつながりでブルガーコフの
『巨匠とマルガリータ』を読んでいるのですが
そのオープニングの場所は
菩提樹の木蔭になっています。
作家2人に正体不明の男が語りかけ
なにやら不穏な空気がただよっています。
西洋のボダイジュは
悟りとは対照的な感情を喚起するものなのでしょうか?
古くから人類と関わりがあり,とくにゲルマン民族にとっては
自由の象徴として神聖視されてきたらしい。
シューベルトも,ブルガーコフも
このような意味をもたしているのでしょうか?
花言葉は
結婚,情熱の恋。
これまた自由とは対極にあるようで
よく分かりません。
2012年6月15日金曜日
ボダイジュ by.福岡県筑紫野市の弁護士ブログ
ボダイジュ(菩提樹)
中国原産の落葉高木。
太宰府戒壇院で咲いているときいて
見に行ってきました。
淡黄色の小さな花がたくさん咲き
いまが見ごろです。
ナツツバキが沙羅双樹で,仏がその下で入滅したとすれば
ボダイジュは,仏がその下で悟りをひらいた木。
実は,インドボダイジュは
ちょっと種がちがうようですが。
シューベルトの西洋ボダイジュも
ちょっと種がちがうようで。
鑑真が伝えたとの言い伝えがあるとか
ほんとうでしょうか?それにしては木が小ぶりのような?
栄西が中国の天台山万年寺で菩提樹の種子を播いたのを持ち帰り
香椎宮に1190年に植えたとの記録はあるとか。
鑑真の渡日からは400年以上あとのことですが
こちらは証拠があります。
花言葉は,情熱の恋,熱愛というのと
結婚,夫婦の愛というのが。
情熱の恋,熱愛も,「悟り」を経て
結婚,夫婦の愛に変化するのでしょうか?
ちくし法律事務所 弁護士 浦田秀徳
2011年4月7日木曜日
歩かんね太宰府
太宰府ロータリークラブの山歩き会で
太宰府路を散策しました。
ご案内は、「歩かんね太宰府」の
冨永敦夫さんと杢尾幹雄さん。
クラブの卓話を冨永さんにしていただいたご縁で
こんかいの運びとなりました。
コースは、観世音寺駐車場(集合)→宝蔵→講堂→戒壇院→学校院跡
→冨永朝堂アトリエ→三十三茶屋(昼食)→太宰府政庁(都府楼)跡
解説者も参加者も達者で、季節も最高
いつもとちょっとちがう太宰府路に出会うことができました。





