平家物語の「倶利伽羅落」「篠原の戦い」「真盛」のつぎの章は「還亡」です。おくのほそ道からすれば脱線ですが、太宰府ゆかりの人ですので「還亡」の話までしましょう。
還亡というのは玄昉のことです。日本史で習いました。ご存知でしょうか。玄昉は遣唐使として中国に留学しています。その際、学僧仲間から、玄昉は還亡と共通の音であるから、日本に帰ってよくないことが起きるといわれたそうです。実際そうなりました。それで還亡という章題になっています。
倶利伽羅峠・篠原の戦い、実盛の話のあとに玄昉の話は、時代も話題も大きく離れ、つながりが悪い。なぜつながるかというと、こう。
源平合戦における北国の戦いで、多くの平家武者が亡くなり、都はその妻や親たちの悲嘆につつまれました。そこで戦乱がしずまったのち、伊勢神宮へ行幸が行われることになりました。
その伊勢神宮への行幸がはじまったのは、約450年前、藤原広嗣の乱のとき。藤原広嗣は、橘諸兄、吉備真備とともに、玄昉をのぞこうとして乱を起こしたからです。広嗣と玄昉は因縁の対決みたいなところがあり、後記のおどろおどろしいエピソードもあります。
玄昉は遣唐使として中国に留学し、法相宗を学びつつ18年間在唐し、玄宗皇帝にも認められています。鑑真の招へい時の苦難を描いた井上靖の『天平の甍』にも、たしかちらりと出ていたと思います。
奈良時代の歴史は、台頭した藤原不比等にはじまる藤原氏と皇族の政争が激しく、ややこしい。皇族がたの長屋王のあと、いわゆる藤原四兄弟が政権を握るも、おりから流行した天然痘により全滅。そのあとを引き継いだのが皇族がたの橘諸兄です。
橘諸兄はすでにこのブログにでてきました。覚えていますか。浅香山の段です。
浅香山影さへ見ゆる山の井の 浅き心をわが思はなくに
葛城王は饗応のまずさに気分を害したものの、采女がうたったこの歌に機嫌をなおしました。その葛城王こそがのちの橘諸兄です。
橘諸兄は唐帰りの吉備真備と玄昉を重用しました。玄昉の権勢はそうとうなものだったよう。藤原広嗣の乱後、動揺した聖武天皇に大仏建立を勧めたのは玄昉だとか。
皇族がわの橘諸兄政権に対し、面白くないのは藤原氏側。藤原広嗣は大宰小弐に任じられ、大宰府に赴任したものの、これを左遷と受け止め、九州で乱を起こしました。
その鎮圧を命じられたのが大野東人。多賀城の壺の碑に名前が刻まれていましたね。彼に乱はまもなく鎮圧されました。
その後も藤原氏側の巻き返しは続き、藤原仲麻呂が勢力をもつようになると、橘諸兄政権は失速。玄昉も観世音寺の別当に左遷されました。
藤原広嗣の怨霊はすさまじく、玄昉が彼の供養をしようとして「高座にのぼり、敬白の鐘うちならす時、俄に空かき曇、雷ちおぼただしう鳴って、玄昉の上に落ちかかり、その首をとって雲のなかへぞ入りにける。広嗣調伏したりけるゆゑと聞えし。」(平家物語)
というわけで、観世音寺の隣にはいまも玄昉の墓がひっそりとのこされています。
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