十六日、空晴れたれば、ますほの小貝拾はんと、種の浜に舟を走す。海上七里あり。天屋何某といふ者、破籠・小竹筒などこまやかにしたためさせ、僕あまた舟にとり乗せて、追ひ風、時の間に吹き着きぬ。浜はわづかなる海士の小家にて、侘しき法華寺あり。ここに茶を飲み、酒を暖めて、夕暮れの寂しさ、感に堪へたり。
寂しさや須磨に勝ちたる浜の秋
敦賀湾は日本海から南にU字型に広く貫入しています。U字の底に敦賀駅があります。そこから、U字の左のラインに沿ってバスで北上します。30分ほどいくと色ヶ浜のバス停に着きます。
色ヶ浜にはことし3月に行きました。当日は北国日和さだめなく、雨でした。夏は海水浴客でにぎあうふうでしたが、その時には侘びしいかぎりでした。まさに須磨に勝ちたる侘びしさ。
須磨は在原行平が蟄居させられた場所。以来、もの寂しい場所の典型となりました。行平はむかしおとこ在原業平の兄です。兄弟で歌がうまく、百人一首につぎの歌が採られています。
立ち別れいなばの山のみねにおふる まつとし聞かば今帰り来む
行平が須磨にいたことは謡曲『松風』の題材になっています。松風・村雨の姉妹がひとり都に帰ってしまった行平を偲ぶというストーリーです。
行平の須磨蟄居の故事を踏まえ、光源氏が須磨に謹慎しています(『源氏物語』「須磨」)。行平も源氏も、もとは皇族ゆえ、処分といっても須磨蟄居程度で済んでいます。のちに、東国政権から後鳥羽院が隠岐に、崇徳院が佐渡に島流しにされたのとはえらい違いです。
須磨は畿内の外れにあることから、王朝時代まで寒漁村だったのでしょうね。いまは神戸の外れとはいえ市街地になっています。
須磨寺があり、平敦盛が愛用したとされる青葉の笛が所蔵されています。『敦盛』も謡曲になっています。
一ノ谷の戦いに敗れた平家。海上に逃れようとした敦盛を呼び止め、熊谷次郎直実が討ち取ってしまいます。そのとき敦盛は16歳。懐中からは笛が。前夜、平家の陣中から聞こえてきた優美な笛の音は彼のものだったのか・・・。
熊谷は無常を痛感し出家します。芭蕉の脳裏には、行平、松風・村雨、源氏、敦盛、熊谷次郎直実らの物語が去来し、人生の無常が胸を締め付けていたことでしょう。
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