2024年5月17日金曜日

清・少納言って誰?(2)

 

 夜をこめて鳥のそらねははかるとも
         よに逢坂の関はゆるさじ

 夜があけていないのに、かの孟嘗君の食客のように、鶏の鳴き真似をしてだましても、逢坂の関の関守はだまされませんし、私もだまされて、すぐ戸を開けてあなたと逢ったりはしませんよ。

百人一首62番。さすが清・少納言の歌という感じ。漢文の素養がないと読み解けない。

清少納言とは、父は誰か、漢詩文の素養の由来、中宮定子のサロンとは、この歌が詠まれたいきさつ、『枕草子』とは、逢坂の関とは、かの孟嘗君とは、中宮定子と清少納言の運命、「光る君へ」・紫式部との関係等々、どこから書いてよいか迷う。が、まずは逢坂の関から



 2017年1月に訪ねた。雪が降りしきっていた。山城(京都府)と近江(滋賀県)の国境にある。

逢坂は、『日本書紀』によれば、九州ともご縁が深い神功皇后の将軍・武内宿禰がこの地で忍熊王とばったりと出会ったことに由来するという。

交通の要衝であり、現代では東海道線や国道一号線が走る。古代には、逢坂の関が置かれた。京都を守る三関(鈴鹿関、不破関、逢坂関)の一つ。

紫式部は、近江の石山寺に参籠して、源氏物語の着想を得たというのだから、行き帰りには当然この関を通過したはずである。




逢坂の関といえば、清・少納言のまえに、蝉丸の歌だ。

 これやこの行くも帰るも別れては
       知るも知らぬも逢坂の関

 これだよ、これ、これがあの、旅立つ人も、旅から帰る人も、知っている人も、知らない人も、別れてはまた逢う、逢坂の関だよ。

百人一首十番。リズミカルでなめらかな調べ。百人一首を習う際にはまっさきに覚えさせられた。謡曲『蝉丸』によれば、蝉丸は延喜帝の第4王子、盲目のため逢坂山に捨てられてしまう。

これがその逢坂の関である。蝉丸神社で参拝。蝉丸大神、猿田彦命、豊玉姫命を祀る。蝉丸大神は音曲をはじめとする諸芸道の祖神。

この日は雪が降りしきるあいにくの天気だったので、旅立つ人にも旅から帰る人にも出会わなかった。逢坂なのに残念。

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年5月16日木曜日

清・少納言って誰?(1)

 


 
 きのう歴史探偵で「清少納言と枕草子」をとりあげていたので、きょうから清少納言。 

 https://www.nhk.jp/p/rekishi-tantei/ts/VR22V15XWL/episode/te/6XVLZRRX8Q/

「光る君へ」を視聴していて、発音がちがうなぁと思ったのはぼくだけではあるまい。気になるのは「清・少納言」である。

いままでは「せいしょうなごん」とダラッと読んでいた。それがドラマでは「せい・しょうなごん」と発音している。そうなのか?

「清・少納言」とは、清原氏の少納言という意味だ。それならば、たしかに「せい・しょうなごん」なのだろう。

 ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ
          末の松山波こさじとは

 約束しましたよね。お互いに涙のたまった袖をしぼりながら、あの末の松山を波が越えることがないように、私たちの愛も決して将来変わることがないのを(それなのに、あなたは変わってしまった)。

 百人一首42番、清原元輔の作。元輔は清少納言の父である。劇中、大森博史が演じていた。紫式部の父・藤原為時とは学者仲間という感じ。

この歌は本歌取りでつくられている。本歌はこれ。

 君をおきてあだし心をわが持たば
         末の松山波も越えなむ  東歌 古今集

 もしあなたをさしおいて浮気心を私が持ったならば、あの末の松山を波が越えてしまうだろう 

末の松山は宮城県多賀城市にある。仙台駅から多賀城駅まで電車で20分ほど、駅から歩いて10分ほどである。

https://www.google.com/maps/place/%E6%9C%AB%E3%81%AE%E6%9D%BE%E5%B1%B1/@38.2725102,140.9933707,14z/data=!4m6!3m5!1s0x5f898f570db3b603:0x9539d52b40a2cb2d!8m2!3d38.2877561!4d141.0034366!16s%2Fg%2F11flbt99pb?entry=ttu

多賀城市には奈良時代から東北経営の中心であった多賀城がある。九州の大宰府と類似の機能を担っていた。ために両市は姉妹都市の関係にある。

末の松山は、名にし負う、立派な松がはえている。すこし丘になっている。ちかくには、やはり百人一首92番の歌枕である沖の石もある。

https://www.google.com/maps/place/%E6%B2%96%E3%81%AE%E7%9F%B3/@38.2844608,140.9911493,14z/data=!4m6!3m5!1s0x5f898f5720ef153f:0xd6138bf3ddf63a85!8m2!3d38.2868342!4d141.0033366!16s%2Fg%2F11bvvxb111?entry=ttu

古今集が編纂されたのは905年。その30数年まえである貞観11年(869年)には大地震と大津波がこの地方を襲ったものの、末の松山は被害を免れたという。それから、大津波でも波が越さない地として有名になったらしい。

末の松山は東日本大震災の大津波のときにも波が越さなかったらしい。それほどの地をひきあいにだして愛を誓うことこそ末おそろしい。劇的効果としては元輔の和歌のほうがすぐれているかもしれないが、東歌程度にしておくのが本当なのではなかろうか。

https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20210308-OYT8T50014/ 

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年5月15日水曜日

右大将道綱母って誰?

 

 「光る君へ」の前回タイトル「放たれた矢」をいうとき、どうしても「洟垂れた矢」を思い浮かべてしまう。若い人からすれば、またオヤジギャグを言っているということだろう。

しかし、親の七光りにより弱冠15歳で公卿に列せられた隆家が短慮により矢を放ったことを思うと、「洟垂れた矢」のイメージもまんざらでもないように思う。さて、きょうは

 なげきつつひとりぬる夜のあくるまは
       いかに久しきものとかはしる

 嘆きながら一人で寝る夜が明けるまでの時間は、どんなに長いものか、あなたにはおわかりにならないでしょうね。

 百人一首53番、儀同三司母の一つ前の和歌。道綱母はもちろん道綱の母であるが、藤原兼家の妻の一人。兼家は道綱の父である。

劇中、兼家は儀同三司母とは同居しているが、道綱母のもとへは通っているようである(通い婚)。入籍もなく通っているだけであるから、時間経過とともに足が遠のいてしまう。

兼家の足が遠のいてからの苦渋は『蜻蛉日記』に詳しい。上記の歌も同日記中にみえ、足が遠のいた兼家に対する訴えである。待つ身はつらい。

色変わりした菊とともに送ったという。修羅場なのであるが、そこは貴族のやりとり、優雅さがただよう。現代ではこうはいかない。

道綱母は劇中では財前直見が演じている。兼家を演じた段田安則とのやり取りを拝見すると、どうしても『蜻蛉日記』の二人であるとは思えないのだが・・・。

平安時代にタイムスリップして弁護士をやることになったら、離婚訴訟や不貞慰謝料請求訴訟はさぞややりにくいことだろう。

儀同三司母は兼家の長男である道隆の妻であった。道隆からすると、道綱母は義母である。つまり、道隆(井浦新)と道綱(上地雄輔)は義兄弟。相続争いではもめるパターンの一つだ。

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年5月14日火曜日

儀同三司母って誰?

 

 忘れじのゆくすゑまではかたければ
     今日をかぎりのいのちともかな

 どんなに忘れないとおっしゃっても、将来のことはあてにしがたいので、そうおっしゃってくださる今日が最後の命であってほしいものです。

 『百人一首』54番として採られている和歌で、よく知られている。しかし、儀同三司母って誰?

 いままでふわふわと断片的な知識として存在していた数々が今年のNHK大河ドラマ「光る君へ」で凝集作用をおこして、ネットワークを形成するようになった(ことは以前に書いた)。

 儀同三司(ぎどうさんし)というのは、藤原伊周(これちか)のことである。劇中三浦翔平が演じている。前回の「光る君へ」「放たれた矢」で、陣の定めのあとで、道長に暴言を吐いて恥をかいた人物である。中関白(なかのかんぱく)藤原道隆(井浦新)を父とし、親の七光りで弱冠21歳で内大臣に昇進した。

 儀同三司母(ぎどうさんしのはは)は、伊周の母であるから、つまり、道隆の妻である高階貴子(たかしなのきし)。劇中、板谷由夏が演じている。

 貴子は、道隆との間に、伊周のほか、隆家(竜星涼)、定子(高畑充希)を産んだ。定子は、一条天皇(塩野瑛久)の中宮である。つまり、清少納言がつかえていた、あの中宮定子である。なお、隆家は中納言となっている。

 かくて名前のとおり隆盛をほこった中関白家であったが、道隆は早逝してしまった。伊周の昇進は親の七光りによるものでったので、当然のことながら没落する運命であった。

伊周のみならず、隆家、さらには定子までが没落してしまう。そのきっかけとなったのが前記ドラマのタイトル「放たれた矢」である(儀同三司という官名もその結果である。)。矢を放ったのは弟の隆家だった。次回以降を楽しみにしたい。

 さて、儀同三司母の歌であるが、こうした中関白家の哀しい歴史にかんがみると、本来の意味合いと別の意味合いが浮かんでくる。百人一首の撰者である定家は、それも踏まえて本歌を撰んだのだろうとされている。

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年5月9日木曜日

怪鳥会の春遠征(5)和泉葛城山

 

 石山寺詣ののちはJR線、環状線、南海線を乗り継いで岸和田へ行った。年始から里帰りしているメンバーと夕食。

 宿泊したホテルからは西方に大阪湾、淡路島、六甲山など懐かしい風景をのぞむことができた。


 翌日は和泉葛城山に登った。大和葛城山と区別するため、和泉を冠する。


 登山者の無事を祈るためか、一丁(一町、109メートル)ごとにお地蔵さんが並んでいる。このお地蔵さんは右に十丁と表記されている。


 植林がつづく。手入れされた美林である。


 登山道は林道と交錯しながら登っていく。ガスガスである。


 クモの巣が多い。昆虫も多いということだ。ということは花も多い。


 タチツボスミレか。スミレは仲間が多いのでシロウトにはむずかしい。


 ノイチゴの花にマルハナバチ。マルハナバチは『失われた時を求めて』にでてくる。 


 ツチグリ。キノコだが、名前のとおり栗のようだ。


 山頂部がちかづくと落葉樹の新緑が美しい。


 葛城神社。大阪側と和歌山側にふたつの祠がある。府県境はこの祠の左奥隅。石の角が削られている。和歌山側には高野山や大峰の山々がのぞめるはずだが、この日は見えない。


 山頂部には、ブナの森がひろがる。ブナは落葉樹で北部の樹であるから、こんな南部で森がひろがっているのは珍しい。 


 ブナの美林のなかを進む。足もとはミヤコザサ(クマザサではないらしい)。


 山頂では、母校の数学の先生であったかたと奇跡の出会いがあった。いろいろな肩書きをおもちだが、この日は環境省の自然公園指導員として野鳥の調査・保護活動をおこなっておられた。これはクロツグミ。


 キビタキ。去年も確認された個体で、この1年で南方へ渡り、そこから戻ってきたらしい。こんな小さな体でそんな長旅をしてきたかと思うとビックリ。


 和泉葛城山の登山口付近はややこしいが牛滝山と呼ばれる。


 大威徳寺(本堂)。役行者の開創と伝わる山岳寺院。葛城修験の道場。


 多宝塔(十分)。


 青モミジが美しい。

2024年5月8日水曜日

怪鳥会の春遠征(4)光る君誕生の地・石山寺へ

 


 怪鳥会春遠征の中日は雨予報だった。われわれは山行を観光にきりかえた。近江舞子から琵琶湖を時計まわりに一周して観音めぐりをするプラン(『星と祭』井上靖著)を推した。しかしこの日の夕方、岸和田でさる用事があったので時間が足りない。

 やむなくいま話題の「光る君へ」にちなんで石山寺詣をすることにした。番組ではちょうど吉高由里子が寺を訪れたばかりだった。

 近江舞子からJRで大津まで戻り、京阪に乗り換えた。ラッピングはもちろん「光る君へ」仕様だ。このアングルだと吉高は藤原紀香に似ている。


 京阪石山寺から雨のなか、瀬田川ぞいに南へあるいた。10分ほどで東大門。東大門でありながら、どこぞのように狭き門ではない。懐をひろげるようなデザインが石山寺の偉容と寛容を表現している。左右で仁王さんがにらみをきかせているが。


 境内に入ると、光る新緑が美しい。まさに浄土への道である。


 燈籠には、兼家・道兼の策謀で退位させられ、西国三十三所めぐりを創始された花山法王の名前が。「光る君へ」気分をいやがおうにも盛り上げる。


 石山寺は、文字どおり石山のうえに築かれた寺。石山は硅灰石の岩塊。国の天然記念物である。石さえも白く光る。


 本堂(国宝)。本尊は如意輪観世音菩薩。像は硅灰石の上に安置されている。

 石山寺は西国三十三所めぐりの観音霊場の第十三番札所である。平安時代の観音信仰の隆盛のとき、奈良の長谷、京都の清水とともに三観音として厚い崇敬を集めた。


 本堂・相の間には、紫式部が参籠したという「紫式部源氏の間」がある。いまも式部が筆をとっている。 


 月見亭。石山寺は平安時代から伝わる月見の名所。東側が瀬田川沿いに開けているためである。


 月見亭からは瀬田川・瀬田の唐橋だけでなく、琵琶湖ものぞめる。紫式部は琵琶湖に映る月影をみて、源氏物語の須磨・明石の段の着想を得たという。湖面に映る月影をみるにはやや距離がある。


 とまれ、「光る君へ」を離れても、新緑が美しく光る。


 藤も光る。普段見るものより、紫が濃い。


 ツツジはいまからだったが、その美しさを彷彿とさせた。センダンは若葉より・・もとい、ツツジは若葉より芳し。