2024年1月31日水曜日

奈良大宮ロータリークラブ45周年(5)




 東大寺三月堂・二月堂のあとは、三笠山麓にそって春日大社をめざす。

まずは手向山八幡宮。手向山の麓にある。菅原道真公が次の歌を詠んだとされる(もうちょっと京都側だったのではないかという説もある。歌の趣旨からしてそうかもしれない。)。

 このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに

それから若草山。東大寺南大門あたりにいた殺気だった鹿たちに比べ、のんびりした連中や子鹿が草を食んでいた。

 潅仏の日に生れあふ鹿の子哉 芭蕉

若草山はまたの名を三笠山。在唐36年におよんだ安倍仲麻呂が故郷を偲んで次の歌を詠んだ。雄渾。ついに故国の土を踏むことはなかった。

 天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも

わが宝満山は、もと御笠山とも言う。笠をふせた形をしているから。奈良平城京からはるばる大宰府へ赴任してきた大和官人たちも、宝満山を三笠山になぞらえて故郷を偲んだのだろうか。

そして春日大社(国宝)。藤原氏の氏神を祀る。神紋は下がり藤。主祭神のタケミカズチ(鹿島神。雷神、剣の神)が白鹿に乗ってきたことから、鹿を神の使いとする。奈良公園に鹿がたくさんいるのはこのため。そのことを知らずして鹿と戯れる日本人のなんと多いことか。チコちゃんに叱られる。

タケミカズチが剣の神であることから、国宝殿は多数の国宝の刀剣を興味深く見ることができる。刀剣少女という部族がいるそうだが、あやしい魅力というか魔力にとりつかれる人たちがいることも理解できないではない。

2024年1月30日火曜日

奈良大宮ロータリークラブ45周年(4)

(東大寺南大門、組物) 

(金剛力士・仁王像)

(大仏殿)
(八角燈籠)
(盧舎那仏)
(虚空蔵菩薩)
(広目天)
(如意輪観音)
(びんずる尊者)
(三月堂・法華堂)
(二月堂)
(二月堂から奈良市街を望む)
(大仏殿の鴟尾と生駒山)

 太宰府ロータリークラブからの参加者は9人。うち2人は仕事のためトンボ帰り。うち2人はタクシーをチャーターして女人高野・室生寺と唐招提寺をめぐるというしぶい選択。

残されたのはわれわれ5人。そのうち奈良ははじめてという人が1名、奈良には何度も来ているがまいどゴルフばかりで一度も東大寺を参拝したことがないという人が2名であった。なので、定番中の定番ではあるが、東大寺→春日大社→興福寺をご案内することにした。

まずは東大寺。南大門前をスタート。平安時代末・源平の争乱のさなか、平重衡により奈良・東大寺は焼き打ちされた。そして、勧進上人重源(ちょうげん)のなみならならぬ努力で復興した。

謡曲「安宅」や歌舞伎「勧進帳」で、弁慶は白紙の勧進帳を読み上げる。あれはこの東大寺復興のためのものである。当時、重源の指令を受けて多数の仏教者や行者が全国各地で勧進をおこなっていたなかでのことである。

南大門(国宝)。その木組み、組物がリズミカル。いつみてもほれぼれする。大仏様。中国宋から重源が輸入した最新デザインだった。南画からイメージされる柔らかな宋文化との違いに驚かされる。

勇壮な金剛力士・仁王像(国宝)。運慶・快慶作。武士の台頭による力強さを言われことが多い。が、いまの日本の状況に照らしても、被災後の「復興」による力強さを忘れてはならないだろう。

大仏殿(国宝)。こちらは戦国時代、松永久秀にも焼き打ちされた。ために江戸時代の作である。幅は創建時の3分の2らしい。どれだけ巨大だったのか。

八角燈籠(国宝)。大仏殿前にある。火袋の扉四面には雲のなかを駆ける獅子、その間の四面には楽器を奏でる天人がレリーフされている。天平時代のもの。ピアノ奏者の反田恭平がここでコンサートをやっていたが、天平人たちにも天上の音楽が聞こえていたことだろう。

盧舎那仏・大仏(国宝)。知恵と慈悲の光明をあまねく照らし出す仏。華厳経は釈迦が時間と空間を超えて仏となった瞬間を説く。偉大で、広大で、正しい仏の世界は菩薩の実践の華により飾られなければならない。重源による実践はその教えを体現したものである。

脇侍は如意輪観音菩薩と虚空蔵菩薩。観音は33の姿に変じて衆生を救済する。その一、如意輪観音は、意のまま(如意)に説法し、衆生の苦を抜き利益を与える。虚空蔵菩薩は、大空(虚空)のように無限の福徳・知恵をそなえ、衆生にあたえて諸願を成就させる。

そうした仏の世界の四方を武神の四天王がお守りする。南を増長天、西を広目天、北を多聞天(毘沙門天)、東を持国天が守備している。

大仏殿の外には、びんずる尊者が。釈迦の筆頭弟子。先日、善光寺でもお目にかかった。向こうは撮影禁止だったが、こちらは堂内の諸仏を含め撮影可だった。

大仏殿を出て坂を登り、三月堂・法華堂(国宝)へ。東大寺は大仏殿に目を奪われがちだが、どれか一つといえば、法華堂(あるいは、戒壇院)こそ見るべきところである。

法華堂は東大寺最古の建物。外観の優美さ。左半分が奈良時代の創建当時のもの、右半分があとから付けくわえられた礼堂。あとから付けくわえたにもかかわらず、見事な調和をなしている。

堂内もすばらしい。不空羂索観音(国宝)を中心に、梵天・帝釈天(国宝)、金剛力士像2体(国宝)、四天王立像(国宝)が絢爛豪華に並んでいる。残念ながら写真撮影は禁止。執金剛神像は秘仏なので、拝することができない。

その後はお水取りで有名な二月堂(国宝)へ。傾斜地に、お水取りをするための建物になっている。そのため、建物からの奈良市内の絶景がすばらしい。お約束の、大仏殿の鴟尾と生駒山も望むことができた。

2024年1月29日月曜日

奈良大宮ロータリークラブ45周年(3)

 

(朱雀門広場)


(朱雀門前から奈良公園・若草山方面を望む)


(朱雀門)


(朱雀門と生駒山)

 奈良大宮ロータリークラブ45周年式典・祝賀会の翌朝、JR奈良駅ちかくのホテルから朝の散歩。平城宮跡・朱雀門まで往復した。片道30分、往復60分。約6000歩だ。

天気予報では大雪が警告されていたが、すくなくとも奈良市内は静穏だ。雪の降る気配はないし、どこにも積雪のあとはない。寒風も感じられない。

二条大路を西へ。途中、新大宮駅、奈良市役所、きのうの会場である奈良県コンベンションセンター、マリオットホテルなどを見ながら向かう。

行く手には、ずっと生駒山(642m)。奈良県と大阪府の境にある。日本書紀によれば、麓で神武天皇と長髄彦(ながすねひこ)が戦ったとされる。ぼくの思い出は子どものころ、メンテナンスの怪しい古いジェットコースターがギシギシいうなか乗ったことだ。

平城宮の手前、ショッピングセンターの一角に長屋王の屋敷跡があった。発掘時のニュースが思いおこされた。

まもなく平城宮跡(特別史跡)に着いた。朱雀門広場が広い。大宰府政庁跡も広いが、やはり本場はちがう。朱雀門の前からは奈良公園側(東側)に若草山を望むことができた。逆(西側)には、もちろん生駒山。

朱雀は南を守る神獣。大宰府政庁の南にも朱雀大路跡がある。ちなみに、北は玄武、東は青龍、西は白虎だ。

朱雀門の北には、近鉄線越に第一次大極殿を見わたすことができた。その手前右には何かの復旧工事中だった。

さて集合事件まで残り時間もわずか。いったんホテルに戻ろう。

2024年1月26日金曜日

奈良大宮ロータリークラブ45周年(2)

 

(手前がマリオットホテル、左奥がコンベンションセンター)



 集合場所からタクシーに分乗して、45年式典・祝賀会の会場へ。式典の会場は奈良県コンベンションセンター、祝賀会の会場はそのお隣のマリオットホテル。どちらもコロナ期間中、市役所前にあらたに建設されたもの。

奈良市長、奈良県知事をはじめ県下ロータリアンも多数臨席され、にぎにぎしく華やかにとりおこなわれた。

奈良大宮ロータリークラブはわが太宰府ロータリークラブよりやや後輩である。だが、東大寺や奈良ホテルなどの会員を擁し、社会奉仕活動も活発である。見習うべき点が多くあると感じた。

祝賀会は会長みずからギターをひきビートルズナンバーを熱唱されるなど、あたたかな雰囲気につつまれた。

2024年1月25日木曜日

奈良大宮ロータリークラブ45周年(1)

 




 23日(火)、24日(水)は奈良大宮ロータリークラブ45周年式典へのご招待を受けたので、奈良出張。

太宰府ロータリークラブと奈良大宮ロータリークラブは姉妹クラブ。奈良に都があったころ、太宰府は西の都と呼ばれていたぐらいだから、姉妹クラブとなるのは自然。

SNSで検索すると、40周年、35周年、30周年にもおじゃましている。その他、大峰山登山に3回、白山登山に1回ご招待を受けているので、少なくとも8回はおじゃましている計算になる。

天気は24日大雪予報と風雲急を告げていた。だが、この日は晴れていて、ご招待を受けていることもあり、まずは奈良までやってきた。

開式は16時30分からだったので、それまで1時間ほど奈良公園を散策した。JR奈良駅ちかくのホテルから三条通を東へ。

10分ほどで猿沢の池に着いた。興福寺の五重塔が池鏡に映っている。小学校の教科書時代からおなじみ・定番の美しい風景だ。

写真左手には采女神社がある。天皇の寵愛が薄れたことを嘆いて猿沢の池に身を投げた采女(うねめ)の霊を慰めるために創建されたという。お能の演目になっている。

北側の坂を登り、興福寺境内へ。興福寺は、鎌足、不比等のゆかりで、藤原氏の氏寺。奈良は、源平合戦のおり平重衡に、戦国時代に松永久秀らに焼かれ、明治時代に廃仏毀釈で打撃を受けている。それにもかかわらず、現在の堂塔伽藍・仏像らを維持できているのは奇跡。

興福寺は法相宗の大本山。法相とは存在のあり方。法相宗は、唯識の大乗仏教。文字どおり、一切の存在現象は心がうみだしたもの=識にすぎないという立場。

興福寺の法相宗は、入唐留学した玄坊が伝えた。玄坊は聖武天皇の信頼も厚く出世したが、長屋王が力を失うとともに大宰府(古代政庁などをいうときは大宰府、現代の天満宮、自治体名は太宰府)観世音寺に左遷された。観世音寺の西にはわびしい墓がある。

まずは南円堂。藤原北家の冬嗣(道長の6代前)が亡父内麻呂追善のために建てた。何度も火災にあい、なんと四代目の建物。興福寺の、藤原氏の、民衆の信仰パワーのなせるわざである。

不空羂索観音が本尊(東大寺法華堂と同じ)。鎮壇には弘法大師が関わったとか。西国三十三所の9番札所。

次は五重塔、東金堂、中金堂・・・と行きたいところだが、五重塔、東金堂は改修中。中金堂は時間の関係で行けず、写真だけ。

北へ向かい、北円堂。国宝。法隆寺夢殿と同じ八角円堂。藤原不比等の一周忌に際し、元明上皇、元正天皇が長屋王に命じて創建させた。

ここで時間切れ。三重塔(国宝)、三条通を経由して集合場所に戻る。

2024年1月22日月曜日

安宅

 

 大濠公演能楽堂で、お能を観劇した。観世流・特別講演。

演目は、神歌(独吟)、高砂(連吟)、羽衣(舞囃子)と正月らしい・おめでたいもの、その後山姥(舞囃子)、杜若(一調)を経て、締めは安宅(能)。狂言は樋の酒。

山姥は、遊女一行が善光寺詣を志して、越中・越後の国境にある境川に至り、そこから上路山を越えようとしたところ山姥にであう曲。

杜若(かきつばた)は、『伊勢物語』に材を取り、諸国一見の僧が三河国の八橋で、杜若の精にであう曲。前シテの女は、在原業平の故事を語る。「唐衣(からころも)着つつ馴れにし妻しあればはるばるきぬる旅をしぞ思う」。業平はかって旅の心を詠んだ。この歌には、か・き・つ・は・たの言葉が詠み込まれている。

安宅(あたか)は、歌舞伎・勧進帳のもととなったもの。加賀の国安宅の関を舞台に、頼朝の追求を逃れる義経、弁慶ら主従が富樫某の詮議をかわし、虎口を脱する曲。

チケット発売は昨年10月14日であるから正月の能登地震は思いもしていなかったであろう。しかし、なにかその発生を予感したかのようなラインナップになっている。

安宅は加賀・小松空港からすぐ。立山、劔や薬師岳に登る際には、小松空港から越中富山をめざす。途中、弁慶と富樫の像が立っている。そこを通るたびにこの故事を思う。

弁慶は、白紙の巻物を勧進帳と偽って読み上げたり、主人の義経を打擲するなどの知恵と胆力でもって虎口を脱する。しかし歴史は義経・弁慶主従に味方せず、やがて主従は奥州の地で頼朝勢に滅ぼされてしまう。

この曲はわれわれに何を語っているのだろうか。とおい先のことはともかく、いま・ここにある課題の克服に集中しよう。そう教えてくれているように受けとめた。

2024年1月19日金曜日

四阿山撤退、上田城

 







 元旦は信州上田から四阿山(あずまやさん)をめざした。標高2354mの日本百名山。信州と上州の境にまたがる。夏に登ったことはあるが、雪山ははじめて。

駅前から菅平高原行きバスがでている。長い列ができた。臨時バスもでて2台で出発。菅平高原にはスキー場があるので、乗客はほぼスノーボーダーだ。

2台目に乗ったところ、ほかはみな東南アジア系の外国人。ちかくに外国人労働者を雇用している工場でもあるのだろう。それにしても、日本人の若者は家でゲームでもしているのだろうか。近ごろの若者は・・・(以下、古代エジプトからあるという嘆き)。

約1時間。車窓は次第に雪景色に変わっていった。ダボスバス停で降車。バス停から登山口まで1時間の歩き。

他に登山者はおらずトレースもない。午後から天候が回復するとの予報だったが、横殴りの雪がふぶいている。正月から遭難してはシャレにならないので、途中で撤退。

それでも時おり雪と風がやみ、美しい雪景色をみることができた。雪の女王があらわれそうな絶景だった。

バス停まで戻って近くの店に入ると、おいしいおせちと雑煮をだしてくれた。そうか、きょうは元旦か。あけましておめでとうございます。

ふたたびバスで上田駅に戻る。徒歩10分ほどで上田城跡。上田城はもとは真田氏の城。さいきんのNHK大河「どうする家康」のほか、「真田丸」(堺雅人主演)など記憶にあたらしい。

池波正太郎の『真田太平記』(新潮文庫)は大長編。全10巻。長すぎて挫折した経験をもつ。子どものころは真田十勇士や猿飛佐助の漫画やドラマに血湧き肉踊った。

上田城は一般の城とちがい、2度の実戦経験がある。とくに関ヶ原の戦いの際、徳川秀忠の大軍を数千の兵で足止めしたとして名高い。

東虎口楼門から入って本丸跡を経、西楼横の急坂をくだり尼ヶ淵におりる。尼ヶ淵はもと千曲川が流れていたという。

写真でみるとおり高い崖になっており、自然の要害である。これに真田の権棒術数が加わり、徳川勢はほんろうされた。

しかし歴史は真田に味方せず、西軍に加勢した幸村(信繁)は紀州九度山に配流された。そして大阪冬の陣における真田丸(大阪城の出城)での活躍へとつながっていく。

※このあと佐久平のホテルで能登地震で震度5弱の揺れに見舞われることになった。

2024年1月18日木曜日

川中島古戦場

 



 『更科紀行』関連の旅はきのうまでに書いたとおり。途中、川中島古戦場、上田城、四阿山(撤退)も訪れたので、それらについても報告しておこう。

 まず、川中島。姥捨駅から見えていた。千曲川と犀川とに挟まれた三角地帯。島ではないのであるが、両側を大河に挟まれているので島とみたてられているのだろう。

一枚目の写真は、千曲川(松代大橋から)。五木ひろしの歌がある。

 ♪一人たどれば草笛の
 音色哀しき千曲川・・

向こうが北側・日本海で、北にむかって流れている。左岸が川中島。古戦場は左端に木立がみえているあたり。

川中島の中央やや南部に川中島古戦場がある。長野駅からバスで20分。

二枚目の写真は、川中島古戦場内・八幡社にある一騎打ちの銅像。右手・馬上で太刀をふるっているのが上杉謙信、左手・床几に座ったまま軍配で応戦しているのが武田信玄。両雄が直接対峙し、一騎打ちした有名な場面である。

海音寺潮五郎の歴史小説『天と地と』で有名。NHK大河ドラマにもなった(1969年)。上杉謙信役は石坂浩二だった。当時小学生だったが、石坂の謙信には血湧き肉踊った。

上杉側の旗には「毘」と書いてある。毘沙門天の毘である。毘沙門天は戦の神様。四天王のうち多聞天とおなじ、北方を守っている。敵方はこの旗を見るだけで震え上がったという。銅像のある八幡社も武運の神である。

対する武田側の旗はいわゆる「風林火山」。孫子から。

 其疾如風 其の疾きこと風の如く
 其徐如林 其の徐(しず)かなること林の如く
 侵掠如火 侵掠すること火の如く
 不動如山 動かざること山の如し

上杉謙信は越州(新潟県)、武田信玄は甲斐(山梨県)の大名である。信州(長野県)はその中間地帯にあり有力大名がいなかったことから、両雄の草刈場となっていたのだろう。

川中島は三角地帯の2辺を大河で1辺を山で囲まれていたので、雌雄を決する決戦場として最適だったのだろう。川中島の戦いは主なものだけで5回、12年におよんだという。地元民としては大迷惑だったにちがいない。

両雄がこのような地域戦を繰り返している間に、信長が上京して天下に覇をとなえることになった。両雄とも武としてはすぐれていたかもしれないが、信長の政治感覚に敗れたのである。

意外なことに、境内には芭蕉の句碑もあった。

 十六夜もまだ更科の郡かな

令和の世になってもまだ、人は争いを繰り返し、醜態をさらしている。真如の月があまねく照らす日はいつなのか。

2024年1月17日水曜日

善光寺、浅間山

 




 芭蕉の『更科紀行』の旅はさらに続く。

『更科紀行』は紀行文といっても、『おくのほそ道』のように地の文が十分でない。どちらかというと句集の前書、詞書といったふうである。更科あたりから地の文はない。句の内容から、その後の旅をおしはかるしかない。

 十五夜の翌晩、すなわち十六夜も、ひきつづき更級にいた。

 いざよひもまださらしなの郡哉

謡曲『姨捨』のイメージを踏まえた「俤や姨ひとりなく月の友」の気分をなお引きずっている。

 その後、善光寺。

 月影や四門四宗も只一ッ

一生に一度は参れ善光寺。三度目だろうか。牛にひかれて善光寺参り。JR篠ノ井線に乗って姥捨駅からやってきた。姥捨駅は無人であるから、長野駅で精算。

善光寺は日本において仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺であることから、宗派の別なく宿願が可能である。つまり、四門四宗も只一つ。ただ一つの月が闇を晴らし、真如の月が煩悩を晴らす。

善光寺の東に長野県立美術館・東山魁夷館がある。「風景は心の鏡である」。スマホ上は営業中とあったのだが、残念ながら年末年始で休業中だった。「庵野秀明展」もおなじ。東山の白馬とも庵野のエヴァとも会えず。

 さらに、浅間山。

 吹とばす石はあさまの野分哉

浅間山も歌枕。『伊勢物語』第八段。

むかし、をとこありけり。京や住みうかりけむ。あづまのかたにゆきて、住み所もとむとて、友とする人ひとりふたりして行きけり。信濃の国浅間の嶽にけぶりの立つを見て、

 信濃なる浅間の嶽にたつ煙をちこち人の見やはとがめぬ

むかしもいまも、街に住みづらさを感じたをとこたちは信濃の国や浅間の嶽をめざしたようで。

2024年1月16日火曜日

姨捨山(2)棚田・田ごとの月

(棚田越に善光寺平)


(棚田越に冠着山=姨捨山)
 

 姨捨が月の名所であるのには、千曲川と善光寺平を見わたす絶景を背景にすることのほか、もう一つわけがある。あたり一帯に棚田が広がっているのだ。

そのうち長楽寺の持田四十八枚田を「田ごとの月」と呼ぶ。十五夜の夜、棚田を歩きながら、満月が田ごとに映り込むさまを愛でるのである。全国で初めて棚田として国の名勝に指定された。

この地が月見の名所とされた歴史は古い。平安時代の初めにはそうだった。なぜなら、つぎの歌が『古今集』に掲載されているから。

 わが心慰めかねつさらしなや姨捨山に照る月を見て よみ人しらず

この歌は当時の人々のイメージを強く喚起したようで、大和物語や今昔物語集に、妻の悪口に乗せられ、老いた姨を山に捨てた夫の話が掲載されている。

菅原孝標女(源氏物語ラブ少女)が記した『更級日記』には、更級という言葉は出てこない。けれども、つぎのような晩年の叙述からそう呼ばれている。当時の人々にとって、姨捨=更級というのはいうまでもないことだったのである。

 甥どもなど、一ところにて朝夕見るに、かうあはれに悲しきことの後は、ところどころになりなどして、誰も見ゆることかたうあるに、いと暗い夜、六郎にあたる甥の来たるに、めずらしうおぼえて、
 月も出て闇にくれたる姨捨になにとて今宵たづね来つらむ
とぞ言はれける。

『姥捨』は室町時代、謡曲にもなっている。芭蕉がさらしなの月を尋ねた直接の動機はこれである。同曲では、老女(後シテ)が月光のもと都人のまえで舞うのであるが、夜が明けると一人とり残されてしまう。芭蕉の句はこの情景を踏まえているのである。

 俤や姨ひとりなく月の友(ひとりなく=一人泣く)

口減らしのため老女を山に捨てたという捨老伝説は、現代の『楢山節考』(深沢七郎著・新潮文庫)まで脈々と受け継がれている。

そして映画化された。老女が健康な歯を恥じ、みずから石で歯をうちくだいた場面の衝撃はいまも鮮明に覚えている。

2024年1月15日月曜日

姨捨山(1)姥捨駅、長楽寺

 

(日本三大車窓の一)

(スイッチバック、奥に姥捨駅)

(長楽寺とおもかげ塚)

(姨石と桂の木)

 天気が荒れる予報で下山し、信州上田に宿泊した。翌31日は姥捨山を訪問することにした。

そのわけはやはり芭蕉ゆかりだから。芭蕉の紀行文に『更科紀行』がある。『笈の小文』の旅の帰り、まっすぐに江戸に向かわないで、信州更科を訪ねた際のものである。更科といえば、ソバぐらいしか思い浮かべられないが、実は月見の名所である。

 さらしなの里、おばすて山の月見ん事、しきりにすゝむる秋風の心に吹きさはぎて、・・・。
   姨捨山
 俤や姨ひとりなく月の友
            (『芭蕉紀行文集』中村俊定校注・岩波文庫)

上田から、しなの鉄道線で篠ノ井駅まで、そこから篠ノ井線で姨捨駅まで。姨捨駅は標高551m。南に冠着山(かむりきやま、駅からは見えない)があり、山の中腹にある。かつてSLではこの勾配を一気に上ることができず、スイッチバックになっている(にわか鉄ちゃん)。

電車を降りると、目前に長野盆地・善光寺平の絶景がひろがある。日経の2007年アンケート「足を延ばして訪れて見たい駅」第2位。日本三大車窓の一つ。ちなみに残りの2つは、根室本線・狩勝峠越え(廃線)と肥薩線・矢岳越え。

善光寺平の右手の山塊奥に四阿山(日本百名山)、左手の山塊奥に飯綱山(日本二百名山)が見えている。盆地を横切って千曲川が流れている(右手前から左奥へ)。盆地の左奥で犀川と合流する。千曲川と犀川の間が、あの川中島である(武田信玄と上杉謙信の決戦場として有名)。犀川の向こうには善光寺が見えているはず。

駅から盆地のほうへ10分ほどくだると長楽寺(国の名勝)がある。門脇にあるおもかげ塚(芭蕉翁面影塚)が有名である。先に紹介した「俤や」の句が刻まれている。上方に月見堂があるが屋根を改修中(写真で青く覆われている部分)。

小林一茶が4度訪れ、伊能忠敬も訪ねたことがあるという。その他にも多くの文人墨客が訪れたのであろう、境内にはたくさんの歌碑や句碑が並んでいる。

寺の中央に姨石がある。高さ15m、幅・奥行き25m。石の左手前に、市指定の天然記念物・桂の木がある。樹齢は500~1000年と大きな幅がある。謡曲『姨捨』との関係だろうか。

姨石には登ることができる。頂上部からはやはり善光寺平の絶景を望むことができる。名古屋あたりにいた芭蕉がなぜわざわざ信州の山中にある更科の里へ行ったのか。長い間分からなかった。しかしここへ来て大いに納得。素晴らしい月見ができることであろう。