2023年2月22日水曜日

ウェルビーイング(3)

 

 ひるがえって、わが事務所はどうだろう。かねがね心配しているのは、若い人たちが会議のみならず雑談でも参加が弱いことだ。

われわれが事務所をスタートさせたときの年齢差は最大7歳だった。いまでは30歳以上離れてしまっている。若い人たちの個性もあるだろうが、さぞや発言しづらいことだろう。

コロナ禍の影響も甚大だ。全員で会議、リクレーションや懇親会をすることが困難になった。コミュニケーションや交流密度が極端に減ってしまっている。

さらにややこしいのはパワハラ、セクハラのインフレーションだ。弁護士会の事務員さんたちによる組織のアンケート調査の結果がある。

一方で、弁護士が最近購入した自動車が何かなどと訊いてくるのは苦痛だという意見がある。他方で、一日中仕事の話ばかりで雑談が一切ないのは苦痛だという意見である。むむむ。事務員さんが購入した自動車の話題に触れずに、仕事以外の雑談をしなければならない。

これまでにも、いくつかの方法は試されてきた。本ブログでも紹介したホメオウタシスもそのひとつだ。月一度、投票箱に投票して、他の人の仕事ぶりを誉めようという試みである。しかし、3度ほどやってあとが続かなかった。

などと思っていたら、NHK「〝幸せ革命”が企業を変える」で、それを打開する方法が紹介されていた。幸せな三角形を増やす、「幸せアプリ」という方法だ。

3人ひと組となってチームを作る。チーム内で誰かが、幸せに関係するお題を提供する。最近幸せを感じたことはなんですか?幸せになるためには何が大切だと思いますか?などなど。

お題に対し、全員が回答を行う。それぞれの回答に対し、他のメンバーが前向きなコメントを寄せる。後ろ向きなコメントは厳禁である。これを続ける。

NHKで紹介されていたのは、文字どおり、アプリを導入する方法。毎日のお題はそのアプリが提供する。わが事務所ではアプリを利用しない。お題の提供は各チームで考える。

事務所全体16人でコミュニケーションをしようと言われても難しい。他の人たちのリアクションが読み切れないからではなかろうか。でも、3人ならなんどかなる。

はじまって2週間。これがなければ出てこなかったかもしれないメンバーの趣味のことや隠れた思いとかも知ることができた。あとどのくらい続けられるか分からないけれども、楽しもう。

2023年2月21日火曜日

ウェルビーイング(2)

 

 NHKウェルビーイングのシリーズ2回目は「〝幸せ革命”が企業を変える」。富士通、日立製作所、京セラといった名だたる日本企業がウェルビーイングの向上に取り組んでいる姿がリポートされた。

各社がいまウェルビーイングの向上に取り組んでいるのは、グーグルの調査でウェルビーイングの高い組織のほうが生産性・業績が高いという結果が出たから。

これに触発されて仕事の常識が変わってきた。歯を食いしばってフラフラになりながら「24時間働けますか?」よりずっといい。〝幸せ革命”と呼ばれるゆえんである。

ウェルビーイングを向上させる方法は、企業ごとにさまざま。勤務時間中にみんなでヨガをする、若手主導による運動会の復活(上からの組織的な運動会は廃れていた。)、働きやすい快適なオフィス、ライフスタイルにあわせて働ける制度、失敗を許容するボスの功績など。

鍵を握るのは、自由に意見が言える「心理的安全性」の確保。まずは、意見をいいやすい職場であること。空気を読むな、発言しないのが悪。

つぎに、失敗を許容する職場であること。寛容性。失敗は挑戦した結果、失敗はみんなの財産、共有しよう。失敗を次なる学びに変えていく。

たしかにそのとおり。わが事務所もそのように考えている。しかし、なかなかそうならない。表面的にはそういっているけれども、実際はそうでないよという受けとめなのだろう。

どうすればよいのか。

2023年2月20日月曜日

ウェルビーイング(1)

 
 
 西日本新聞は先週「多世代食堂 孤立解消へ」と題して、福岡市が2023年度から、孤立しがちなお年寄りの支援として、多世代で食卓を囲み、交流できる居場所づくりを進めると報じていた。

多世代交流による孤立解消策については、NHKの「シリーズ ウェルビーイング」(1)「LIFE SHIFT にっぽん リンダ・グラットンが見た北陸の幸せ」で紹介されていた。

番組は「人生100年時代」の幸せな社会とは?というテーマ。世界的なベストセラー『LIFE SHIFT~100年時代の人生戦略』の著者、リンダ・グラットンが北陸を訪問し、高い幸福度を実現した秘密を探るという展開。

前半は、ある高齢者ホームが地元サッカーチームを応援(推し)するようになってから、入居者が活性化し若返った事例。

後半は、多世代が交流できる施設の事例。高齢者と若者とが同じ施設で暮らし、互いに刺激を与えあいながら活性化する様子が報告されていた。福岡市の事業がこれを参考にしていることは疑いなかろう。

ウェルビーイングは、WHOが健康の定義に用いてのち、急速に脚光をあびるようになった。

WHOの定義はこう、「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態(well-being)にあることをいう。」。NHKはこれをシリーズで追いかけている。

リンダ・グラットンの『LIFE SHIFT~100年時代の人生戦略』は未読。Amazonの広告では出版社より次のような刺激的な紹介が。

「今こそ、自分の人生を生きよう
100年ライフでなにが変わるか?

・70代、さらには80代まで働かなくてはならない
・新しい職種が登場し、手持ちのスキルだけでは生き残れない
・教育→仕事→引退という3ステージの人生が崩壊する
・変化を経験する機会が増えるため、選択肢をもっておくことの価値が増す
・子育て後の人生が長くなることで、家庭と仕事の関係が変わる
・老いて後の人生が長くなることで、家庭と仕事の関係が変わる
・老いて生きる期間ではなく、若々しく生きる期間が長くなる

今こそ、自分の人生を生きよう

人生100年時代には、私たちを取り巻く社会も経済も、人間の心理も医療も、人口構成も変化していくでしょう。そんな時代の大きなテーマは、あなた自身が、自分の人生をどのようなものにしたいか、ということ。

100歳になったあなたは、いまのあなたをどう見るでしょうか。あなたが下そうとしている決断は、未来の自分の厳しい評価に耐えられるでしょうか。

この問いこそ、長寿化という現象の核心をつくものだと、『LIFE SHIFT』の著者であるリンダ・グラットンは指摘します。「自分はどう生きるか」という問いに、真摯に向き合う時代がやってきたのです。」

さて、どう生きようか?まずは本の注文か?

2023年2月17日金曜日

赤後寺の十一面観音

 
 架山は、その後も、琵琶湖畔の十一面観音を訪ね歩く。大三浦がいることもあれば、他の人と同行することもある。

四体目は赤後寺(日吉神社)の十一面観音(重文)。やはり琵琶湖の北岸で、先の渡岸寺の十一面観音の近くである。

https://kitabiwako.jp/spot/spot_931

手間かもしれないが、アドレスをクリックして、それぞれの仏さんを拝んで頂きたい。そのうえで、井上靖の文章を読んでいただきたい。一口に十一面観音といっても、井上が描き分けたように千差万別である。

できれば自分が撮影した写真を掲載したいところ。だが、自分が訪ねたのはもう20ほども昔であるし、拝観できたとしても撮影はできないところがほとんどであるから、当該寺院や観光協会の写真をお借りするしかない。

さて、本仏について『星と祭』にはこう書かれている。

 架山がそに見たものは、今まで拝んで来た十一面観音とはまるで違ったものであった。厨子の中には二つの像があった。
「右手が十一面千手観音さま、左手が大日如来さまでございます」
 架山は口から、すぐにはいかなる言葉も出すことはできなかった。十一面観音は頭上の仏頭全部を失っており、左手七本、右手五本の肘から先の部分を尽く失っている。無慚な姿と言うほかない。・・

「このようなお姿ですが、お顔はなかなかご立派でございます。先年専門家の人が見えまして、冴えた彫りの美しさを褒めておられました。」・・
 
「賤ヶ岳の合戦の時お堂に火がかかりまして、その時土地の人が肩に背負って救い出し、近くの赤川という川に沈めて、戦火の鎮まるまで匿しておいたということが伝えられております。そういう過去を持ちでございます」

・・現在この十一面観音像がここにあるということは、これを尊信したこの土地の人々の手で、次々に守られ、次々に伝えられて、今日に到ったということであろう。・・

※引用はいずれも能美舎刊から。

2023年2月16日木曜日

福林寺の十一面観音

 
 『星と祭』で、架山が3つ目に訪ねたのは、福林寺の十一面観音である(重文)。渡岸寺と石道寺の翌日のことで、この二寺と違い、琵琶湖の南岸・森山である。大三浦は同道していない。

http://tendai-shiga.com/yaritu-19.html

http://butuzouclub.blogspot.com/2016/11/blog-post_23.html

「ご立派な観音さまですね。」・・

 顔と、体躯の一部は胡粉でも塗ったように白くなっているが、あとは漆地の黒さで覆われている。顔はゆたかできゅっと緊まって、意志的であるが、いささかも威圧感はない。・・

 頭に戴いている十一の仏面はいずれも小さく、そのためか、天冠台から上は本当に冠を戴いているように見える。そして瑶珞をたくさん胸もとに垂らしているところなどは、やはり咲く花の匂うような天平の貴人が一人、そこに立っている感じである。ひたすら気品高い観音像である。
「もとは、ここも大きな寺だったようです。織田氏の焼打ちに遇って、寺は焼けてしまい、この観音さまだけが助かりました。誰かが火の中から救い出したのでしょう、背中に火傷の跡があります」

※引用は能美舎刊から。

2023年2月15日水曜日

石道寺の十一面観音


 『星と祭』で、子を亡くした架山らが次に訪れたのは、石道寺の十一面観音(重文)。平安末期の作。琵琶湖の北岸には十一面観音が集中していて、石道寺も渡岸寺からほど近い。

井上靖が小説を書いた当時、村の人たちが仏をお守りしていて、いつでも簡単に見られるということではなかったようだ。小説中でも、気難しそうな老人が逃げ回ったあげく、しぶしぶ仏を見せるというふうである。

https://kitabiwako.jp/spot/spot_1052

「きれいな観音さまですね」
 架山は言った。思わず口から出た言葉だった。美人だと思った。観音さまと言うより、美人がひとり立っている。

 ・・そこに立っているのは、古代エジプトの威ある美妃でもなければ、頭に戴いているのは王冠でも、宝冠でもなかった。何とも言えず素朴ないい感じの観音さまだった。唇は赤く、半眼を閉じているところは、優しい伏眼としか見えなかった。腰を僅かに捻り、左手は折り曲げて宝瓶を持ち、右手は自然に垂れて、数珠を中指にかけ、軽く人差し指を開いている。

ーこの十一面観音さまは、村の娘さんの姿をお借りになって、ここに現れていらっしゃるのではないか。素朴で、優しくて、惚れ惚れするような魅力をお持ちになっていらっしゃる。・・何でも相談にのって下さる大きくて優しい気持を持っていらっしゃる。恋愛の相談も、兄弟喧嘩の裁きも、嫁と姑の争いの訴えも、村内のもめごとなら何でも引き受けて下さりそうなものを、その顔にも、姿態にも示していらっしゃる。

・・〝石道の観音さん”の制作者が誰であるか知るべくもないが、往古、一人の仏師はこの地方に発見した一人の美女をモデルにして、その素朴さ、美しさ、優しさを神格化して、あの観音像を刻んだのに違いない。

観音さまには遠くおよばないにしても、大きくて優しい気持ちを持ち、何でも相談にのれる弁護士でありたいものだ。

※引用はすべて能美舎版から。

2023年2月14日火曜日

渡岸寺の十一面観音

 
 

 井上靖著『星と祭』は、琵琶湖で娘を亡くした架山が、湖岸の十一面観音を巡礼し、癒やされていく話である。

娘といっしょに亡くなった青年の父親である大三浦に導かれるようにして、それは始まる。

まず訪ねたのは渡岸寺の十一面観音(国宝)である。

https://shigamania2.shiga-saku.net/e307214.html

「渡岸寺の観音さまは平安時代の作でございます。ものの本にそう記してございます。」

・・その内陣の正面に大きな黒塗りの須弥壇が据えられ、その上に三体の仏像が置かれてある。中央正面が十一面観音・・

架山は初め黒檀か何かで作られた観音さまではないかと思った。肌は黒々とした光沢を持っているように見えた。そしてまた、仏像というより古代エジプトの女帝でも取り扱った近代彫刻ででもあるように見えた。・・

「宝冠ですな、これは。ーみごとな宝冠ですな」
思わず、そんな言葉が、架山の口から飛び出した。丈高い十一個の仏面を頭に戴いているところは、まさに宝冠でも戴いているように見える。・・

大王冠を戴いてすっくりと立った長身の風姿もいいし、顔の表情もまたいい。観音像であるから気品のあるのは当然であるが、どこかに颯爽としたものがあって、凛として辺りを払っている感じである。

・・いずれにせよ、観音というものがそういうものである以上、観音信仰というものは成立する筈であった。片方はこの世の苦しみや悩みから必死になって抜け出して生きようとしている人間であり、片方はその衆生の苦しみや悩みを救うことを己れに課し、それによって悟りを開こうとしている菩薩である。そうした信仰によって、この像もまた今日に伝えられて来たものであろう。

※引用は能美舎刊から。昔読んだ角川文庫は書棚をさがすも見つからず。ネットでさがすも廃刊のよう。出版不況のなか、再読することは図書館に行かねばなるまいと思った。

しかしなんと同社から復刊されていた。発行者はずばり『星と祭』復刊プロジェクト、能美舎の住所は滋賀県長浜市木之本町大音1017『丘峰喫茶店』内。

湖岸の十一面観音は、いずれも信長の兵火をのがれ、村人が抱きかかえるようにして守りつたえてきたものである。井上靖の『星と祭』もまた、おなじようにして守りつたえられていることに感慨を覚えた。

2023年2月13日月曜日

四王寺山の十一面観音たち

 





 日曜は天気がよかったので四王寺山に登り、お鉢を一周した。井上靖の『星と祭』を読んでいるので、三十三石仏のなかでも、十一面観音に目がいった。

8番、15番、17番、18番、21番が十一面観音だった。頭部に11の顔をもつ。いままで千手観音との区別があいまいだったが、こんかいはっきりした。

仏をあらわす象徴物を三昧耶形(さんまやぎょう)という。仏が手に持っていたりするもの。西洋絵画だとアトリビュートと呼ばれる。

十一面観音の三昧耶形は水瓶と開蓮華。四王寺山の観音さまたちはいずれも水瓶をもっていらっしゃる。開蓮華のほうははっきりしない。

その深い慈悲により衆生から一切の苦しみを抜き去る功徳を施す菩薩である。病気にかからないなど10種類の現世での利益と今生のあと極楽浄土にうまれかわるなど4種類の来世での果報をもたらすとされる。

2023年2月10日金曜日

不動産鑑定立会い

 


 きのうは不動産鑑定の立会いだった。遺産分割調停で、被相続人が所有していた不動産(土地・建物)の価格が争点になった。

不動産の価格は時価。売って分けるのであれば、時価は売ってみれば分かる。

売らないで分けるとなれば、評価が必要になる。一般的には、市町村が行っている固定資産税評価による。市役所の税務課に行けば、取得することができる。

市町村は、その税収の一つである固定資産税を課税する前提として固定資産税の評価をしなければならない。不動産鑑定士らに依頼して3年ごとに路線価を調査する。その結果の7割が固定資産税評価である。

たとえば、時価100万円と認められれば、固定資産税評価は70万円である。固定資産税評価の物件は0.7で割り戻せば時価を求めることができる。

家裁の実務では時価ではなく、固定資産税評価額のまま調停を進めることが多い。時価で売却しても、不動産仲介手数料、境界測量費用、譲渡所得税等もろもろの経費がかかるので、手残りは時価の7割程度になるからである。

固定資産税評価のほか、相続税評価というのもある。税務署が相続税を課税する前提となる評価である。時価の8割程度と言われる。

調停の当事者のどちらかが、それら評価に納得しなければ、不動産鑑定を申し立てることになる。

遺産分割調停であるから、当事者は兄弟あるいは親族である。不動産鑑定までしなくてもよいではないかと思うが、最近は紛争が激烈で不動産鑑定が必要となることが多い。

不動産鑑定は、不動産鑑定士という専門職が行う。書面だけで評価するのは乱暴だから現地調査も行う。建物が図面どおりかとか、痛み具合はどうかなど現地でないと分からない情報を収集する。きのうのはそれである。

弁護士の立会いが必要かというと必ずしもそうではない。しかし当事者としては心配であるから弁護士の立会いを希望されることが多い。

あいまあいまに雑談をしながら、鑑定士の質問等に回答する。そして依頼人によい結果がでることを祈る。

2023年2月9日木曜日

最近の防犯カメラ事情

 


 火曜、いつものイタリアンでランチをしていたら、店主がなんども住居侵入されて困っているという。

事情を訊くと、家の隣にフキが生えていて、そのフキをとるために、近所のおばあちゃんが家の敷地に侵入してくるのだとか。なんども。

なぜ、そんなことが分かるの?と訊く。答えは、お客さんに奨められて7,000円で防犯カメラを買ったところ、侵入者があるとその都度報せが来るのだとか。

ためしに現在のリアル映像を見せてもらったところ、とても鮮明な画像。宮台真司さんを襲った疑いのある人物の映像をテレビで見たが、あれより鮮明。

店主は警察に相談したらしい。すると警察官は可罰的違法性がないとあしらったらしい。ほう。その警察官、なかなかよく勉強している。

ある行為が刑法に形式的に触れるようにみえても、刑罰の制裁を加えるほどのことでない場合を可罰的違法性がないという。

住居侵入といっても、隣のフキを採るのが目的だし、おばあちゃんだし、ま、いいではないか。ということである。

われわれが刑事裁判で、可罰的違法性がないと主張しても一切受け付けない。でも自分たちが楽をするためなら言うという点が気になったが、当職の見解も同じである。

それより、そこはよく前を通るところであるが、逆にこれでこちらが監視されていることにもなる点が気になった。

春先になると、庭々にはコブシやウメの花が咲く。そこへメジロが飛んできたりもする。カメラを持っていれば、美しい花や鳥の写真を撮ったりする。もちろん宅地内に侵入することはないのであるが、軽犯罪法というのがあって、「のぞき」は犯罪とされている。

他人の庭の花や鳥を撮影しただけでは、「のぞき」とはいえない。少なくとも可罰的違法性はないはずだ。けれども、この場合も警察官と見解が一致するとはかぎらない。あらぬ疑いをかけられぬよう気をつけなければ。

2023年2月8日水曜日

塚も動け!

 



 きのうはウランバートルよりは敦煌に行きたいと書いた。それには頭のなかにあった井上靖の小説『敦煌』(新潮文庫)が影響している。

われわれより上の世代はシルクロードへの憧れをもっている。敦煌はシルクロードの出発点である。

かっての敦煌の繁栄は、砂に埋まってしまっていた。しかし20世紀初頭になって、莫高窟で敦煌文献が発見された。

井上靖の小説はこれに着想をえて、なぜ敦煌文献が莫高窟に隠されたのか、その謎を解くストーリーである。

何を食べようかと定食屋に入る、すると隣のおじさんがおいしそうにサンマを食べている、これを見て頭のなかがサンマに占拠される、かくて自分もサンマを注文してしまう、そういうことがよくある。

頭のなかが『敦煌』のイメージで占拠されていたのは、先週書いた『天平の甍』の残像が影響している。どちらも井上靖の小説であり、往古の中国大陸ロマンであるから。

じつはいま『星と祭』を読み返している。これもまた井上靖の小説である。娘を琵琶湖で亡くした主人公の架山がその死を悼むため、琵琶湖周辺に祀られている十一面観音を参拝してまわるというストーリーである。

先週、ブレイクの詩から「一と全の同時把握」のことを書いた。仏教にも同じような考えがあったはずだ。井上靖の小説のどれかに、その言及があったはずだと思った。

最初にあたりをつけたのが『星と祭』。主人公が十一面観音を参拝してまわるストーリーであり、仏教色満載であるから。

書いたとおり、その言及は『天平の甍』のなかにあった。先週のブログを書くだけであれば、それでおしまいである。

しかしすでに頭のなかが『星と祭』のイメージで占拠されてしまった。そこで、いまいちど読んでみようと思い立った次第である。

いぜん小説を読んだのは30年くらい前だろうか。ある種感動したのでそのあと、自身でも琵琶湖周辺の十一面観音を見て回ったことがあった。

その後、竹生島へ行き、その帰りに島から長濱まで船に乗った(主人公の娘が亡くなったのは竹生島の南とされている。)。また西国三十三所めぐりの一貫として琵琶湖畔の長命寺へも行った。そういった経験を踏まえ、こんかいの再読は以前は気づかなかったことにいくつか気づくことができた。

なかでも「あっ」と思ったのはつぎにのくだり。主人公・架山の娘はある若者といっしょに貸しボートに乗っていて転覆したものと推定された。その若者の父親が大三浦である。

 大三浦は、彼自身が言ったように、現世の欲望というものは、全部払い落としているのに違いなかった。金にも、仕事にも、なんの野心もなければ、執着もないのである。ただひたすら死んだ息子に執着しているのである。
 困った奴だ、と架山は思う。しかし、また大三浦の方が本当かと思うこともある。人間の悲しみというものは、もともと消えたり、薄らいだりするものではないかも知れない。水のように蒸発したりするものではなく、石に刻まれた跡のように、それは永遠に残るものかも知れない。塚も動け!大三浦の悲しみの中には、そんな烈しいものがある。

ここで「塚も動け!」というのは、芭蕉の句の一部である。以前読んだ際には、まったく気づかなかった。おくのほそ道金沢の章。

 一笑と云ものは、此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬、早世したりとて、其兄追善を催すに、

 塚も動け我泣声は秋の風

もちろん、竹生島へ行ったことがなくても、長浜まで船に乗ったことがなくても、長命寺その他の十一面観音に参拝したことがなくても、金沢に行ったことがなくても、おくのほそ道を読んだことがなくても、作品の鑑賞はできる。でも・・。

2023年2月7日火曜日

モンゴルから来た留学生の送別会

 

 日曜は糸島で、モンゴルからの留学生(女性)の送別会だった。ロータリークラブには奨学金制度がいくつかあるが、本件は米山奨学金制度によるもの。

任意参加のクラブメンバー9人と本人の10人で送別会を行った。会場はクラブメンバーの一人が営む「古材の森」という古民家。大学に近いので。

日本では土木を学ばれたそう。といっても環境土木といってデザインに近い。橋を架けるにしても、まわりから浮き上がるデザインにするのか、まわりに溶け込むものにするのか、みたいな。

モンゴルのことを知らない。モンゴルといえば、みな、草原でのテント生活とか、力士ぐらいの知識しかない。

首都はウランバートルである。人口は150万人くらい。それなら福岡市とおなじくらいだ。草原でのテント生活とは違う。

第2の都市エルデネトの人口は10万人。モンゴル全体の人口も320万人。つまり、ウランバートル一極集中だ。大気汚染もひどいので、第2の首都づくりの計画もあるらしい。

国全体の人口密度は1平方キロメートルあたり2人。国連加盟国のなかで、一番少ないという。

2人のうち1人は都市に住んでいるわけだから、草原地帯では一平方キロメートルに1人しか住んでいない。お隣まで塩を借りにいくのに、1キロメートルは歩く計算だ。

留学生としてはもちろん日本に残るという選択肢もあるが、故郷に帰って同じ志の人たちと連携してモンゴルに貢献したいという。がんばってほしい。

参加者の一人が一度モンゴルを訪問しようとしきりに誘う。う~ん、休みをとっておなじ内陸にいくのなら、敦煌に行ってみたいのだが。

2023年2月6日月曜日

誠実な先輩経営者の肖像

 

 先週は、高校同級生がSNSに投稿した氷の写真から発想した「一片の氷から世界を見る」だった。最後は『博士の愛した数式』のエンディングで流れたブレイクの「無垢の予兆」で締めくくった。

氷の写真の投稿者から「今週のブログ、本日の見事な着地に感動しました」とお褒めの言葉をたまわった。ありがとうございます。

忘れがちだが、ブログもコミュニケーションの一つであることに違いない。こうしたリアクションをいただくことで、それを思い起こさせてもらえる。そしてなにより励まされる。

おなじころ、『若い芸術家の肖像』(ジョイス著・丸谷才一訳・集英社文庫)を読了した旨のメールをいただいた。就職情報誌などを発行する会社を経営されている先輩経営者Sさんから。何千日も毎日走り続けていることで有名な鉄人経営者である。

話は2年前にさかのぼる。年2回ちくし法律事務所が発行するニュースの新年号にこう書いた。

 「ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を1年がかりで読んでいます。いま3回目が終わったところ。1回目、さっぱりなんのことやら分からない。2回目5%ぐらい、3回目10%くらい分かったような気がする。とにかく1文ごと、1行ごとに謎が仕掛けられている。難しすぎて自分だけで謎ときをしようとしても、まったく歯がたたない。参考書(つまり、解答例集)3冊を片手に少しずつ読み進める。なるほど、なるほど、そうなのかー。めちゃくちゃスリリング、めちゃくちゃ面白い。主人公はわれわれ読者。さすが20世紀の最高峰、そういう本です。」

これに対し、Sさんからお尋ねのメールがこうあった。

 「あけましておめでとうございます。本年もよろしくおねがいします。
さっそくですがニュースレターちくしを拝読させていただいてます。
ジェイムス・ジョイスのユリシーズの記事に興味を持ったのでメールを差し上げました。・・それで質問です。
日本語訳ですか?
貴殿が3回で10%なら、私はどうなるんだろう。
あと何回読まれるつもりですか?
解答例集というのが別売であるんですか?
すみません、お時間のあるときにでも教えてください。」

この質問に対し、『ユリシーズ』を読破するうえで役にたつ参考書を3冊ご紹介した。その中の一冊がジョイス初期の自伝的小説『若い芸術家の肖像』である。

Sさんはこのアドバイスにしたがい、同書を読破されたようだ。といってもこの2年間ずっと読み続けていたわけではなく、最近病気療養をされたのでその機会に取り組まれたらしい。

いろいろと尊敬しどころ満載の先輩であるけれども、後輩の事務所ニュースを読み、メールで感想をよせ、それに対する返信メールにも答える、それも2年がかりで実践する。その誠実な姿勢にあらためて敬意をおぼえた。

2023年2月3日金曜日

一片の氷に世界を見る(5)

 


 『博士の愛した数式』(小川洋子著・新潮文庫)。第一回本屋大賞なので、読まれたことがあるだろう。

家政婦が派遣されていった先は、数学博士の家。博士は一日中ほぼ数学のことを考えていて、世界の成り立ちは数の言葉によって表現できると信じている。

問題は交通事故の後遺症により、博士の記憶が80分しかもたないこと。前日の記憶がないことから毎日、新人家政婦さんとして靴のサイズや誕生日を訊かれる。どうしてもぎくしゃくしてしまう。

ぎくしゃくしてしまう原因は、博士がコミュ下手なことにもある。ほぼ一日中、数学のことを考えていて、じゃまされるのを嫌う。会話が苦手な局面になると数学の話題に逃げ込んでしまう。

そこへ子どもを連れて行ったところ、頭の形がそっくりということでルートと名付けられ、なぜか温かい交流がはじまる。数学ぎらいの読者にも数学好きかもと誤解させる好著。

映画にもなった。深津絵里が家政婦、寺尾聡が数学博士(先生)。原作にほぼ忠実に実写化されていたが、ところどころ違うところも。

いちばんの違いは、エンドロールのまえに、ブレイクの「無垢の予兆」があらわれ、ルートがこれを朗読するところだろうか。

  一粒の砂にも世界を
  一輪の野の花にも天国を見,
  掌のうちに無限を
  一時のうちに永遠をつかめ。

たしかに、世界の成り立ちは数の言葉によって表現できるのだから、一片の数式で世界を表現することができる。

ということで今週は、一片の氷に世界を見、ブレイクの詩に世界を見、かすかな塵に三千大千世界を見、五七五の十七文字に世界を見、数の言葉に世界を見た。

2023年2月2日木曜日

一片の氷に世界を見る(4)

 

春風や闘志抱きて丘に立つ 高浜虚子

 顧問会社からお誘いを受け、春の社員旅行に同行させてもらう予定である。行き先は四国は愛媛松山。松山での訪問先について打合せに余念がない。

いま松山といえば、やはり夏井いつき先生にお目通りねがいたい。が、お忙しいようだから、正岡子規の記念館でも訪ねようかと思う。

子規は明治期、松山出身で、俳句の中興の祖である。芭蕉ののち俳句の世界は停滞していた。それを芭蕉に帰ることで刷新した。

時代は明治であるから自然科学の伸張著しく、俳句の世界でも自然主義が浸透しやすかったのだろう。つまりは「写生」「写実」。

子規は元来ホトトギスの意である。ホトトギスは口の中が赤い。子規は結核を患い、喀血していた。そこからの雅号である。覚悟と凄みが感じられる。

子規には二人の高弟がいた。高浜虚子と河東碧梧桐。子規を玉とすれば、飛車・角のような存在である。虚子と碧梧桐は非常に仲がよく、寝食をともにした。虚子が子規に師事して俳句を学んだのは碧梧桐の誘いによる。

ところが虚子は、碧梧桐のもと婚約者と結婚した。いまでいえば略奪愛。しかも碧梧桐が入院中に仲よくなったらしい。碧梧桐は、入院中に婚約者と友情を同時に失った。心痛いかばかりであったか。

そのせいかどうかは分からないが、二人は流派を違えるようになった。虚子は季語(季題)と五七五という詩形のしばりをどこまでも重んじた。これに対し、碧梧桐はこれらの拘束をきらい、自由な詩作を提唱するようになった。

略奪愛が原因であれば、虚子が自由を、碧梧桐が拘束を主張しそうなものだ。しかし俳句の世界では逆の立場になった。

虚子は、碧梧桐の新傾向俳句との対決を表明。つぎの句を詠んだ。

 春風や闘志抱きて丘に立つ 

そして『俳句の作りよう』(角川文庫)に、こう述べている。

 近来俳句についての拘束を打破してかかることを主張するものがありますが、・・・私は十七字、季題という拘束を喜んで俳句の天地におるものであります。この拘束あればこそに俳句の天地が存在するのであります。・・狭いはずの十七字の天地が案外狭くなくなって、仏者が芥子粒の中に三千大千世界を見出すようになるのであります。

2023年2月1日水曜日

一片の氷に世界を見る(3)

 


 高校生の一時期、日本史の教師になりたいと思っていた。S先生の授業がすばらしかったから。2年だったか3年だったか、2学期が終わった時点で近世までしか進んでいなかったので、学校の図書館で近代の補講をやっていただいた。その時の感動は忘れられない。日本史って面白いと思った。

その先生に「読んどいたほうがいいよ。」と言われて読んだのが井上靖『天平の甍』(新潮文庫)。唐招提寺を開いた唐の高僧・鑑真を日本に招聘した日本の若き学僧たちの物語。そもそも入唐そのものが命がけだった時代にハードルが高すぎる課題である。

その冒頭7頁に、つぎの一節がある。

 大安寺の僧普照(ふしょう)、興福寺の僧栄叡(ようえい)の二人に、おもいがけず留学僧として渡唐する話が持ち出されたのは、二月の初めであった。二人は突然、当時仏教界で最も勢力を持っているといわれていた元興寺の僧隆尊の許に呼び出されて、渡唐の意志の有無を訊ねられた。普照も栄叡も、隆尊と親しく言葉を交えたのはこの時が初めてであった。二人とも隆尊の華厳※の講義を聞いたことはあったが、平生は傍へも近寄れぬ相手であった。

華厳に付された※は注解の印である。末尾203頁に次の注解がある。

※華厳
 釈迦成道後はじめての説法を録した華厳経を所依として建てた宗派のこと。世界を太陽の顕現であるとして、かすかな塵の中に全世界を映し、また一瞬の中にも永遠を含むという一即一切の世界観が根本教理である。
 印度では竜樹・世親を祖とし、中国では唐の賢首によって大成され、天平8年(736)唐僧道璿がその章疏をもたらし、同12年、新羅僧審祥が、はじめて華厳経を講じた。そのため、審祥を元祖とする華厳経が、東大寺を根本道場として成立した。

ウィキペディアからの引用で申し訳ないけれども、華厳経の内容について次の解説がある。

 智顗の見解では、この経典は釈迦の悟りの内容を示しているといい、「ヴァイローチャナ・ブッダ」という仏が本尊として示されている。「ヴァイチャナ・ブッダ」を「太陽の仏」と訳し、「毘盧遮那仏」と音写される。毘盧遮那仏は大日如来と同一の仏である。・・
 陽光である毘盧遮那仏の智彗の光は、すべての衆生を照らして衆生は光に満ち、同時に毘盧遮那仏の宇宙は衆生で満たされている。これを「一則一切・一切即一」とあらわす。・・

いうまでもなく、奈良の大仏さんは毘盧遮那仏である。