2023年9月22日金曜日

血液型B


 顧問会社のA社長がSNSに投稿していた。内容は、他の人が投稿したTik Tok動画の引用。

動画のテーマは、血液型B型の人と長くつきあう利点。1週間つきあうと、世界が広がる。1か月つきあうと、いろんな視点がもてるようになる。1年つきあうと、趣味や関心が増える。3年つきあうと、忍耐力が増す。・・・

B型の人とおぼしき人たちが、たくさんのコメントを寄せている。「初めて誉められた。」「そうか、俺にもいいところあるじゃん。」などなど。

A社長もおそらくB型で、これらコメントに賛同して、この動画を引用したものと思われる(A社長なのにB型)。

しかし「ちょっと待てよ。」(例のキムタクふうに)そんなに手放しで喜んで良いのだろうか。

果たして、この動画はB型の人の性格を誉めているのだろうか。疑問。やはりそこで描かれているB型の性格は、「自己中心で、その時その時の関心に応じて自由に生きている。」ということではないのだろうか。

そういう性格のB型の人と「長くつきあうことができれば」、そりゃ、世界が広がるし、いろんな視点がもてるようになるし、趣味や関心も増え、忍耐力も増すだろう。納得。

この議論は我妻・有地先生のダットサンを思い出させる。受験生の友、膨大な民法を最小限の労力で読破できるのがダットサンだ(それでも3冊。普通は総則、物件、債権総論、債権各論、親族・相続の5冊。)。コンパクトなのに滋味あふれる文章であった。

我妻・有地先生は親族編の夫婦のところで、こう書かれていた。夫婦というのは、川に網を張って魚を捕るようなものだ。網の幅が狭ければ、安定するかわりに、捕れる魚の量はすくない。他方、幅が広ければ、不安定になるかわりに、捕れる魚の量は多い。

似たもの夫婦は、仲がよいかわりに、新しい景色をみることが少ない。性格が真反対な夫婦は、しょっちゅう喧嘩(いよいよとなれば離婚)しているかもしれないが、新しい景色・体験をすることが多い。ということだ。なるほど。

夫婦とまでいかずとも、友人、同僚についても同じことが言えよう。

この動画は人への対しかた、褒め方の点でも参考になる。「あんたは自己中だから、つきあいにくいねぇ。」などと言うなかれ。「あなたと長く付き合ったおかげで、いろんな世界をみせてもらえたねぇ。感謝感謝。」というべし。

追伸1。わが事務所の採用面接では血液型を訊くことが伝統。もちろんジョークなのだが、さいきんではハラスメントの臭いがしないではない。

追伸2。旧来の占いふうの関係ありという説に対し、血液型と性格は無関係という説あり。前者について、科学的な装いを新たにした説もあり。人類はもともとO型から出発し(だから、おおらかな性格)、農耕をはじめた人からA型が(だから、几帳面な性格)、狩猟をはじめた人からB型が(だから自由奔放な性格)それぞれ派生し、AB型の出現はAとBのミックスによるものだから新しい(だから、複雑な性格)など。

追伸3。血液型は感染症への強弱や自己免疫疾患へのかかりやすさと関係しているという説あり。ABO型の分類は抗原抗体反応によるもののようだから、この説は科学的根拠がありそう。

2023年9月21日木曜日

アクティビティ共同体

 


 軽い運動をまいにち一緒にやりましょう。というグループに入れてもらった。すこしは運動ができるやつとみこまれたのだろうか。

アプリを使って、自身はもちろん、メンバー全員の運動量や達成状況がわかる。一定の運動量に達すると達成ありで、クジをおこなったうえで、景品がでる。

運動を継続すると、健康、睡眠などにもよい影響があるなどと情報も提供される。

一緒に運動といっても、アナログに集まる必要はない。デジタルでつながっているだけだ。一人だといちばんの壁になりそうなアプリの操作方法も、SNSを通じて教えてもらえる。

運動をしたほうがよいと分かっていても、モチベーションの波が壁になる。ある日、体調と気分がよいときがあり、思い立って、ジョギングをはじめる。しかし1週間~1か月くらいしか続かない。仕事の都合や飲み会つづき、雨降りがつづいたり、体調・気分不良の日もあるから。

運動の継続は克己心だけではダメだ。少なくとも自前の克己心では。世の中にはとても強い克己心をお持ちのかたがたもいらっしゃるが。

司法試験の受験期、2年間ほどジョギングが続いたことがあった。このときは受験仲間・先輩といっしょに走ることができたため、長続きできた。

その後、何度か、断続的に運動をしているが、なかなかに続かない。つづいているのは、グループで楽しんでいるものにかぎられる。仲間とやると、互いに励まし合ったり、牽制が働いたりして長続きする。

今回は、運動仲間、アプリ、運動量と達成が目に見える、ゆるやか、歩き、達成感、クジ、景品などモチベーションを支援する道具立てがそろっている。さてどこまで続きますか。

2023年9月20日水曜日

月は隈なきをのみ見るものかは

 


 NHK BSで「絶景にっぽん月の夜」をやっていた。案内役は橋本マナミ。いわく。世界で類をみないほど月を愛してきた日本人。上弦の月、十六夜、立待月、眉月など、四季や月日の移ろいに合わせた月の名は数知れず。そんな月との営みは今も全国に残っている。三日月信仰、徹夜踊り、屋久島の夜・・・。夜の日本を旅して〝月の愛で方”を探る。

世界で類をみないほど月を「愛してきた」日本人。というけれども、現代日本人のうちどれほどの人が月を愛しているだろうか。

白楽天の詩に「雪月花時最憶君(雪月花の時 最も君を憶ふ)」とあり、われわれ日本人は雪月花を最も美しいとおもい、愛してきたとされる。しかし自身、雪と花の愛し方に対し月はやや比重が劣るような気がする。

芭蕉などは長い旅をして月見を楽しんでいる。鹿島紀行や更科紀行である。前者は江戸深川から茨城県の鹿島まで出かけて月見を試みている。後者は美濃から信州更科(姨捨山)まで旅をして月見を試みている。どちらも当時、月見の名所である。

対するわれわれはどうだろう?花見をするために弘前、高遠や吉野へ出かける。雪を見るために、蔵王、八甲田や八ヶ岳、北アルプスに出かける。しかし月見をするために遠出を計画することはない。生活様式の変化なのか、嗜好の変化なのか。それとも個人的な趣味の問題か。

ところで、「絶景にっぽん月の夜」では、〝月の愛で方”として兼好法師の言葉を引用していた。いわく。「月は隈なきをのみ見るものかは。」。せっかくだから『徒然草』第137段全文を引用してみよう(角川ソフィア文庫から)。

 花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころ多けれ。歌の詞書にも、「花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ」とも、「障ることありてまからで」なども書けるは、「花を見て」といへるに劣れることかは。花の散り、月の傾くを慕ふ習ひはさることなれど、殊にかたくななる人ぞ、「この枝かの枝散りにけり。今は見どころなし」など言ふめる。

なるほど。すばらしい。おっしゃるとおり。このような感覚はいまなおわれわれにも脈々と受け継がれている。

書棚から先の『徒然草』をひっぱりだそうとしていたら、『源氏物語(二)』のオビに目がいった。いわく。「朧月夜に似るものぞなき」。

歌宴にて、源氏が朧月夜の君を愛するきっかけになった。もとは大江千里の和歌。

 照りもせず曇りも果てぬ春の夜の 朧月夜に似るものぞなき

これも「隈なき月より朧月でしょ」ということだから、兼好法師の言うところと同じ意味だろう。というより、大江千里、紫式部のほうが先行しているので、兼好の趣向は彼らに学んだものというべきか。

すこし時代がさがって芭蕉の『野ざらし紀行』にも次の句がある。

 関こゆる日は雨降て、山皆雲にかくれたり。

 霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き

これは間違いなく『徒然草』に学んだものだろう。「雨に対ひて月を恋ひ」、そしてまた富士を恋ふ。

さらにずっと時代が下って、次のような文章もある。

 山でご来光を拝めたときの感激はひとしおだ。とにかく幸せな気持ちになる。太古、人類は恐ろしくて長い夜をすごし、日の出を心待ちにしていただろう。日が昇ったときの幸せは生存に直結した根源的なものだったろう。われわれのDNAにはそれが刻みこまれている。
 ご来光が拝めるかどうは、お天気の気まぐれ。曇ればダメだし、まったく雲がないのも風情がない。うまいぐあいに雲がかかるのが大切なのだ。夜明け前に茜色に染まる空を東雲と呼ぶのは意義深い。・・

どこで読んだんだったっけ?

2023年9月19日火曜日

ぬいぐるみの運命

 


 顧問先の社長からたくさんの「ぬいぐるみ」をいただいた。クレーンゲームが好きで、あちこちのゲームセンターを荒らしているらしい(笑)。

あまりにもたいさんいただいたので、うちの孫だけでなく、秘書さんたちともわけさせていただいた。

秘書さんの子どもがぬいぐるみを抱きしめて寝ている画像がラインに送られてきた。うちの孫もぬいぐるみを抱きしめて寝ている写真があったので、それを送り返した。

すると、それに対する秘書さんのコメントは「ぬいぐるみの運命」だった。これはちょっと意外だった。自分ならまず思いつかないコメントである。秘書さんはなぜ、このようなコメントを書いたのだろうか。

そのような見解に触れたことはないのであるが、ぬいぐるみは自立への一里塚、自立への杖だと思う。生まれてからしばらく子どもは母親にべったりと依存している。母子一体。

やがて、ぬいぐるみが大好きに。いつも引き連れてまわるようになり、夜は一緒に抱きしめて寝るようになる。そしてそのうちぬいぐるみがなくても独り寝ができるようになる。このような発達段階をなしているのではなかろうか。

弁護士をしていると、自立に失敗し、なにかに依存している方々に接する機会が多い。覚醒剤や大麻等の違法薬物、パチンコ等のギャンブル、アルコール・飲酒。いずれもやっかいな対象に依存されている。

子ども時代をやり直せるのなら、彼ら彼女らにぬいぐるみを差し上げたい。そうして、うまく自立への道を歩んでほしいと願う。

話変わって、どこかで書いた気がするが、映画『ニュー・シネマ・パラダイス』。中年の映画監督が、映画に魅せられた少年時代の経験と青春時代の恋愛を回想するストーリー。少年のワクワクドキドキ感がすばらしい。各所にちりばめられた名言もよいし、背景を流れる音楽もすばらしい。

もちろん、映画の主役は、映画監督である。冒頭からその監督が出てくるし、少年時代も、青年時代もその監督の若いころである。映画を見る者、その監督に感情移入するよう作られている。

ところがである。息子さんがいらっしゃる別の秘書さんとこの映画のことを話し合ったとき。彼女は、監督の母親に感情移入してしまうという。

なるほど。たとえ、この映画を作った人が映画監督を主人公とし、彼に感情移入するように作ったとしても、観るほうの立場の磁力が強ければ、そちらに引き寄せられて感情移入してしまうということも十分にありうるわけだ。

さて、ぬいぐるみの話。子どもがぬいぐるみを抱きしめて寝ているところを見れば、ふつう幸せな夢でも見ているのだろうなと子どもの立場になって考えるものだと思っていた。

しかし日々子育てに追われる母親からすれば、ぬいぐるみのほうに感情移入してしまうこともあるのかもしれない。それが「ぬいぐるみの運命」。

2023年9月15日金曜日

足利尊氏と九州(3)少弐と菊池と合戦の事(つづき)

 

 『太平記』第15巻「少弐と菊池と合戦の事」のつづき。

 菊池は、手合はせの合戦に打ち勝って、門出よしと思ひければ、やがてその勢を卒ゐて、少弐入道妙恵が縦籠もりたる内山城へぞ寄せたりける。妙恵は、宗と軍をもしつべき郎等をば、皆子息頼尚に付けて、将軍へ参らせつ。阿瀬籠豊前は水木の渡にて討たれつ。城に残る勢、わづかに2百人にも足らざりければ、菊池が大勢に立て合わせて、合戦しつべき様もなかりけり、されども、城の要害よかりければ、切岸の下に敵を見下ろして、防き戦ふ事数日に及べり。

※少弐入道妙恵は、少弐貞経。後醍醐天皇の倒幕運動に参加して、鎮西探題を攻撃した。尊氏が離反すると、息子の頼尚とともに尊氏に付いた。

※内山城(有智山城)は、太宰府天満宮さらには竈門神社の奥・宝満山の麓に、いま堀と土手だけが残る。スギ・ヒノキの木立と藪におおわれている。「要害」とはいえないように思う。

https://www.google.com/maps/place/%E5%A4%9A%E3%80%85%E8%89%AF%E5%B7%9D/@33.5330781,130.5528475,1537m/data=!3m1!1e3!4m6!3m5!1s0x35418fa5fa987463:0xd2d53b8ec6d5fe2e!8m2!3d33.6203654!4d130.4951448!16s%2Fg%2F1229b_jx?entry=ttu

 菊池、荒手を替へて、夜昼十方より攻めけれども、城中には、兵未だ討たれる者も少なく、矢種も未だ尽きざりければ、今4,5日が間は、いかに攻むるとも落とされじmのをと思ひける処に、少弐入道が聟に、原田対馬守と云ひける者、俄かに心替はりして、攻めの城に引き上がり、中黒の旗を挙げて、「それがしは、聊か所望の候ふ間、宮方へ参り候ふなり。御同心候ぶべしや」と、舅の入道のもとへ使ひをぞ立てたりける。妙恵、これを聞いて、一言の返事にも及ばず、「苟も生きて義なからんよりは、死して名を残さんには如かじ」と云ひて、持仏堂へ走り入り、腹掻き切って臥しにけり。これを見て、家子郎等162人、堂の大庭に並び居て、同音にゑい声を出だして、一度に腹を切る。その声天に響いて、非想非々想天まで聞こえやすらんとおびただし。

※貞経は多勢に対し奮戦したが、味方の裏切りにあって全員玉砕。原田対馬守は、いまの筑紫野市原田在の武士。聟が舅を裏切る話はむかしからあったようで。娘は身の置き所がなかったろう。

※このあたりで籠城・玉砕といえば、戦国末期の岩屋城の戦いのほうが有名。岩屋城には大友方の高橋紹運ら763人が立てこもり、北上を続ける島津方2万と戦い玉砕した。岩屋城のほうは子孫が柳川立花藩として永続したせいか、いまも四王寺山の一画にきれいに整備されている。

https://www.google.com/maps/@33.5257841,130.520256,3a,75y,91.09h,105.97t/data=!3m8!1e1!3m6!1sAF1QipNveHPwT-eQ0wjygLg-63_ITuRBhbaJmXsjagQJ!2e10!3e11!6shttps:%2F%2Flh5.googleusercontent.com%2Fp%2FAF1QipNveHPwT-eQ0wjygLg-63_ITuRBhbaJmXsjagQJ%3Dw203-h100-k-no-pi0-ya259.81628-ro-0-fo100!7i5376!8i2688?entry=ttu

※生きて義なからんよりは、死して名を残さん。義か死か、むずかしい選択だ。貞経は死を選んで、望みどおり名が残った。

 (引用はやはり岩波文庫『太平記』から)

2023年9月14日木曜日

ある認知請求事件

 

 ある母から認知請求事件の依頼を受けた。認知とは親子関係があることを役所に届け出ることだ。認知心理学とかいう場合の認知とはすこし違う。

認知請求事件の依頼人は、基本的に未婚の母だ。結婚していれば嫡出の推定が働く(民法772条)。すなわち、妻が婚姻中に懐胎した子は夫の子と推定される。

父のほうは、妻に請求する必要はない。自分で役所に届け出ればよい。かくて認知請求は、未婚の母から父に対する請求という形をとる。

親子関係が確認されれば、養育費の支払義務等が発生するので、任意には応じない父もいる。

その場合、家庭内のことであるから、まず家庭裁判所へ調停を申し立てることになる。いわゆる調停前置である。

父が調停に応じてくれればよいが、父子関係を否認された場合、訴えを起こし、鑑定が必要になる。鑑定とは特別の知識・経験に基づく専門家の判定である。

ぼくが弁護士になったのは1986年だけれども、そのころは血液のABO型や父子が似ているかどうかというアバウトな鑑定だった(ドラマなどでも、父子じゃないという場面の根拠はたいがい血液型の違いだった。)。

しかしそれ以降、親子関係の鑑定技術は急速に発達した。いわゆるDNA鑑定である。それが日常実務レベルで使えるようにまでなったのである。

ワトソンとクリックが遺伝子(DNA)の二重らせん構造を発表したのが1953年。高校の教科書に掲載されたDNAのX線解析写真は2次元の対称的な斑点模様にすぎず、この映像からよく二重らせん構造に思い至ったものだと感心した。

2002年以降薬害肝炎裁判に取り組んだけれども、C型肝炎ウイルスが同定されたのは1989年である。それまで非A非B型肝炎とされていた。A型でもB型でもない肝炎という背理法のような定義であった。それが遺伝子レベルで同定できるようになったのである。

DNA鑑定が刑事事件に導入されたのが1991年。PCR法だ。そのころ以降、民事・家事事件にも順次DNA鑑定が導入された記憶だ。ただ当時は1件50万円くらい費用がかかったのではないかと思う。

ある議員さんから、故人のDNA鑑定ができるかどうか相談されたこともあった。遺髪を探してもらったけれども、DNA鑑定まではできなかった。

いまやドラッグストアの前を歩いていると、新型コロナのウイルス検査が1800円くらいでできるとうたっている。あれも立派な遺伝子検査だ。ただし、ウイルスなので、DNAではなくRNA検査である。安い。隔世の感とはこのことだ。

肝心の親子DNA鑑定の費用はというと、19,800円(ネット情報)。これまた安い。

https://seedna.co.jp/?utm_source=google&utm_medium=cpc&utm_campaign=dnatest&utm_content=cost&network=google_g&placement=&keyword=%E8%A6%AA%E5%AD%90%20%E9%91%91%E5%AE%9A%20%E8%B2%BB%E7%94%A8&device=&gad=1&gclid=CjwKCAjwu4WoBhBkEiwAojNdXote43J0ictQy8elJCR08QSGZ6Qz_u9IB-RucXLxKNkf2D6Ksa8ObhoCuVYQAvD_BwE

近時、婚姻関係でさえも不安定だ。3組に1組は離婚している。残る2組のうち1組も仲が悪い。SNSやマッチングアプリで知りあい、結婚。離婚相談の際、相手の親のことを尋ねると、会ったこともないという。2人の愛以外に結婚を支えるものがなにもない状態だ。

ましてや、婚姻関係のない父子関係を確認することに、どれだけの意味があるのか不安を覚える。でもやるしかない。認知された子どもの将来がすこしでもよいものになることを祈りつつ。

2023年9月13日水曜日

足利尊氏と九州(2)少弐と菊池と合戦の事

 

 『太平記』第15巻のつづき。少弐と菊池と合戦の事。
 
 菊池武俊は、元来宮方にて肥後国にありけるが、少弐が将軍方へ参る由を聞いて、路にて打つ散らさんと思ひければ、その勢3千余騎にて、水木の渡へぞ向かひける。少弐太郎は知らずして、小舟七艘に込み乗り、わが身は先づ向かひの岸に着きにけり。

※後醍醐天皇=建武の新政の側が宮方。新政から離反して都から追い落とされた足利尊氏の側が将軍方。尊氏の新政からの離反を元弘の乱という。九州では肥後もっこすの菊池武敏が宮方に、大宰府の少弐が将軍方についた。

※肥後もっこすは、熊本県人の頑固な性格をあらわす言葉。津軽じょっぱり、土佐いごっそうとともに、日本三大頑固の一つ。われわれの業界にもいる。議論で説得できないので、弁護士辞めろといいたくなる。

※水木の渡は、水城の渡。いまの水城と御笠川が交差するあたりにあったと思われる。水城堤防はいまよりしっかりしていたことだろう。御笠川の水量からして舟が必要とも思えないが、むかしはもっと水量があったのかもしれない。

※少弐太郎は頼尚。菊池や宗像との位置関係からして、左岸(西側)から右岸(東側)へ御笠川を渡ったのだろう(有智山城との関係は問題だけれども、有智山城→いまの竈門神社あたり→天満宮あたり→御笠川左岸を水城あたりまで進軍したのだろう。)。水城の辺は地元なのに、3千騎の敵勢に気づかなかったとはうかつ。

https://www.google.com/maps/place/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E5%BA%9C%E5%B8%82/@33.5184991,130.4940361,17.04z/data=!4m6!3m5!1s0x35419bb94ea9da4d:0x420ea1837d378fc4!8m2!3d33.5127734!4d130.5239685!16zL20vMDF3cTE1?entry=ttu

 阿瀬籠(あぜくら)豊前守は、未だこの方にひかへて、渡船の差しもどす程を待ちける処へ、菊池が兵3千騎、三方より押し寄せて、川中へ追つばめんとす。阿瀬籠が150騎、とても遁れぬ所なり、引かばいづくまで遁るべきと、一途に思ひ定めて、菊池が大勢の中へ懸け入って、一人も残らず討たれにけり。

 少弐太郎は、川の向かひにてこれを見けれども、大河を中に隔てて、舟ならでは渡すべき便りなければ、徒らに、憑み切ったる一族郎等どもの、敵に取り籠められて討たるるを見捨てて、将軍の方へぞ参りける。

※阿瀬籠は少弐の家来なのだろうけれども、阿=岸と瀬で取り籠められた武将という意味なので、『太平記』の作者の創作名かもしれない。太宰府へんで「あぜくら」という名は聞かないし。「この方」とは先に述べたとおり、西側の岸辺か。

※御笠川が少なくとも現在、「大河」とはいえないことは先に述べたとおり。家来を見殺しにした弁解として、頼尚が尊氏に述べた方便だろう。

※尊氏は宗堅大宮司の館にいたはずなので、頼尚は水城から宗像大社の辺までほうほうのていで逃げたのだろう。

  (引用はやはり岩波文庫から。)

2023年9月12日火曜日

うまやJR博多シティ店予約のこと

 

 二女家族がイタリアからひさしぶりに帰国したので、土曜日にJR博多駅周辺でランチをすることになった。三女も参加。

二女がひさしぶりの日本なので焼き鳥を食べたいという。そこで焼き鳥が食べられる店をさがし、アミュプラザ10Fの「うまや」に決めた。集合時間は昼12時。

https://www.jrhakatacity.com/gourmet/umaya/

三女が予約をしようとしたら、土曜の昼どきということで、予約を断られたらしい。三女がすこし早めに行って席を確保するという。

ぼくもすこし早めに着いたので、店へ行ってみた。予約不可と聞いていたので、「12時に4人集合になっているので、最後の4人席が埋まりそうだったら、店のまえにいるので声をかけて。」とお願いしてみた。

奥へ引っ込んだ美人店員さんは、しばらくして戻ってきて、「12時に4人、予約をおとりしますよ。テーブル席がよいですか、座敷がよいですか。」という。むろん、座敷をお願いした。

しばらくして三女がやってきた。経過をはなすと、しきりに憤慨している。「わたしが電話したときは、おじさんがでて、予約できんと言ったのに!」と。

「逆なら分かるよ。若い女性の言うことをおじさんが聞いてくれて、おじさんの言うことを若い女性が聞かんというのなら・・。どういうこと?」などとブツブツ言っている。

なんとなく良い気分だ。ときには美人店員さんがナイスミドルの言うことを聞いてくれてもよいではないか。えへへ。

2023年9月11日月曜日

足利尊氏と九州(1)宗堅大宮司将軍を入れ奉る事

 

 『極楽征夷大将軍』で書いたけれども、足利尊氏と九州との関係について『太平記』の記述を紹介したい(岩波文庫から)。

第十五巻。「宗堅大宮司将軍を入れ奉る事」

 さても将軍は、京都数ヶ度の合戦に打ち負けて、2月13日、兵庫を落ち給ひし・・筑前国多々良浜と云ふ湊に付かせ給ひける時は、その勢わずかに500人にも足らざりけり。

※多々良浜は、東区にある。JRだと筥崎駅の次は千早駅だけれども、その途中、多々良川を渡る。いまはアイランドシティで埋め立てられてしまったけれども、むかしはその河口付近が多々良浜だったのだろう。

多々良はたたら製鉄のたたら。もののけ姫に出てきた、あのたたらである。むかしは砂鉄がとれて製鉄が行われていたのだろう。

https://www.google.com/maps/place/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E5%B8%82%E6%9D%B1%E5%8C%BA/@33.6325244,130.4116117,13.58z/data=!4m6!3m5!1s0x35418e8029d1fd27:0x9f5eea1b2e1490b0!8m2!3d33.6358122!4d130.4210684!16zL20vMDd0N196?entry=ttu

 京都より始めて、処々の合戦に矢種は射尽くしぬ、馬、物具は、ことごとく兵庫を落ちし時乗り捨てぬ。・・

 宗堅大宮司がもとより、使者を進せて、「御座の辺りは余りに分内狭くて、軍勢の宿なんども候はねば、恐れながらこの弊屋へ御入り候ひて、暫くこの間の御窮屈を休めさせ給ひ、国々へ御教書をなされて、御勢を召されるべうや候ふらん」と申したりければ、将軍、やがて宗堅が館に渡り給ふ。

※宗堅大宮司は氏俊。中世、宗像氏は武将だった。後世、宗像大社が世界遺産になるとは夢にも思わなかったことだろう。

 翌日、少弐入道妙恵がもとへ使ひを立てられて、憑むべき由を仰せられたりければ、妙恵、「子細に及び候はず。妙恵が命の候はん限りは、御方に於て粉骨の忠を致すべき候ふなり」と申して、即ち嫡子少弐太郎頼尚に、若武者300騎差し添へて、将軍の方へぞ進せける。

※少弐氏はいまの武藤氏。宝満山の先、仏頂山の手前を左に折れると、うさぎ道。その道を竈門神社へ向けてくだると里ちかくに有智(うち)山城跡がある。少弐氏の居城である。兵どもが夢の跡、いまはスギかヒノキ林になっている。

2023年9月7日木曜日

慈覚大師・圓仁『入唐求法巡礼行記』

 



 NHK BSで「中国名山紀行」というシリーズ番組をやっている。先日は五台山をやっていた。

五台山は中国山西省にある霊山。ユネスコの世界遺産に登録されている。もちろん5つのピークからなる台地状の山だから五台山。最高峰は北台でなんと標高3058m。

日本には3000m以上の山は、数え方にもよるが21峰(マニアの間では、21サミッツといって、これらを全山登るチャレンジもある。)。3058mというと、南アルプスの塩見岳より1mだけ高く、日本の山であれば15位にランクインする高山だ。

五台山というと、歴史の教科書や仏教の説明資料等でなんどか見た覚えはあった。が、現地の映像は初めてみた。高原状で、日本でいえば、山陰の三瓶山や九州の九重山のような風景だった。

そのような山上に仏教寺院が立ち並ぶさまは聖地と呼ぶにふさわしい。いちどは行ってみたい。

番組が進むと、そのうちの寺の柱になにか書いてある。円仁が来たところという趣旨のことが書いてある。なんと。

円仁は慈覚大師。伝教大師・最澄の弟子で、比叡山・延暦寺3代目の座主。延暦13年(794年)生まれ。といっても、円仁って誰という人がおおかろう。じつは東北ファン、芭蕉ファンとは縁がある。

円仁は、立石寺、中尊寺、毛越寺、瑞巌寺などを創建している。立石寺はセミの声が岩にしみいる寺(1枚目の写真)。中尊寺は金色堂のあるところ(2枚目の写真)。毛越寺は奥州藤原氏とゆかりが深く、瑞巌寺は松島にある。

円仁は2度の失敗ののち、3度目に入唐を果たしている(3度目の正直。最後の遣唐船で。)。その航海や中国の様子を記録したのが『入唐求法巡礼行記』。マルコポーロの『東方見聞録』、玄奘三蔵の『大唐西域記』と並び称される旅行記。

井上靖の『天平の甍』の味わいだが、井上以上に枯れた文体。事実だけを淡々と記述している。

円仁が入唐を果たしたのは、最後の遣唐船と書いたように、唐も末期。仏教も弾圧される混乱の時代だった。

円仁は天台宗だけに当初、天台山をめざした。しかし中国政府の許可がおりず、寄寓先の新羅僧から五台山の存在を教えられる。この助言にしたがい五台山を巡礼することに。1日40Km歩き、約1270kmを58日間で踏破したようだ。すごい。

その後、五台山からは1100km歩いて長安を訪ねている。ここでも廃仏弾圧に遭遇したり、還俗させられたり、苦難の連続。そうしたなか、仏法の新知識や文物の収集に励んでいるから、これまたすごい。求法の気構えを見習いたい。

それではということで帰国しようとしたが、これも許可させない。隠れて帰国しようしたが密告されてダメに。などなど数々の苦労の末に帰国。帰国したときは54歳。もう頭がさがる。

2023年9月5日火曜日

『極楽征夷大将軍』

 


 ジュンク堂へ寄ったら平積みしてあったので、買ってみた。垣根良介の『極楽征夷大将軍』。直木賞受賞作。

日本史のなかで苦手なところは多々あったけれども、そのなかの1つが室町時代。足利義満のころを別として、前半(南北朝時代)も後半(戦国時代)もゴチャゴチャしている。苦手克服のためもあって読んでみようと思った。

去年のNHK大河『鎌倉殿の13人』のつづきということもある。鎌倉時代は源頼朝にはじまり、頼朝の子孫が支配した時代と思ってしまいがちだが違う。

伊豆の地方豪族だった北条家が頼朝の子孫を根絶やしにしてしまう。執権となり、やがて得宗専制政治となった。『鎌倉殿の13人』は有力御家人を北条時宗(小栗旬)がつぎつぎと粛正していくドラマだった。

鎌倉時代末期は、霜月騒動で、安達泰盛まで粛正されてしまう。鎌倉幕府の終わりの始まりは、北条得宗専制が窮まったところからはじまる。

極楽征夷大将軍とは足利尊氏のことである。むかし、足利尊氏といえば、ヒゲをたくわえた騎馬武者姿が印象的。しかしいまではあれは尊氏像ではないとされている。ことほどさように、尊氏の実像はわかりにくい。

尊氏の実像が分かりにくいのは『太平記』にも責任があるように思う。『平家物語』のように名作であれば、誰もが読んで知っているということになったであろう。しかし『太平記』は読みにくい。通読などできない。

足利というぐらいだから関東の人間である。しかし九州とも縁が深い。建武の乱で新田義貞に敗れて後、九州に下ってきて捲土重来を期している。

そこで少弐氏の支援を受けたり、宗像大社を参拝したり、四王寺山麓(原八坊跡)に奇遇したり、多々良川の戦いに勝利したり。おなじみの人名、地名が点在している。これらの点も読めるといいなと思った。

しかし・・。あまり面白くない。垣根良介はきらいではない。『君たちに明日はない』や『光秀の定理』はおもしく読んだ。

『極楽征夷大将軍』のテーマは、帯にあるとおり。やる気なし、使命感なし、執着なしの足利尊氏。簡単にいうと極楽トンボ。なぜこんな人間が天下を獲れてしまったのか?

このようなクエスチョンをたててしまったため、その回答に終始してしまう。尊氏は昼あんどん状態、でも武門の統領としての名声はうなぎのぼり。そうした実像と虚像の乖離をみて弟の直義や執事の高師直がやきもきを繰り返す。・・それの繰り返し。

同時並行で読んでいるのがジョイスの『ユリシーズ』ということもあるだろう。こちらは1行ごとに、スリリングな謎が隠されている。他方『極楽』のほうはいつまで経っても極楽なままだ。後半はちがうかもしれない。期待しよう。なにせ直木賞受賞作なのだから。

2023年9月4日月曜日

如意輪観音

 


 土曜は四王寺山のお鉢めぐり。四王寺山にはお鉢を中心に、33の石仏がおまつりされている。

いずれも観音(菩薩)様である。庶民の旅が簡単ではなかった江戸時代。代表で西国三十三所めぐりをした人が、かの地の土をもちかえり(高校球児が甲子園の土を持ち帰るように)、四王寺山におまつりしたという。

これにより、福岡の人々も遠く関西までいかずとも、西国三十三所めぐりができるようになった。なんちゃってであるが、ないよりよい。

三十三という数字は観音様が三十三の姿に変化されて、世を救うため。四王寺の石仏も、十一面観音、千手観音、聖観音、如意輪観音、馬頭観音などの姿に彫られている。

これまで十一面観音や千手観音を頼もしく思っていた。われわれたくさんの諸衆を救うために、頭一面、手2つではとても心細い。やはり十一面、千手・千眼は必要だろうと。

これに対し、如意輪観音はやや頼りない感じがしていた。左手の平を上に向けて、その上で宝珠や法輪を回しておられる。われわれが手の平の上でコマをまわすような感じ。その法輪を自在に回すから、如意輪観音。

如意宝珠はすべての願いをかなえ、法輪はわれわれの煩悩を破壊するという。この日はなぜか、如意輪観音さまが頼りがいのある存在に思えた。心が弱っていたのだろうか。

2023年9月1日金曜日

不帰ノ嶮(かえらずのけん)(6)天狗山荘、白馬鑓温泉

 


 
 山中2泊目は天狗山荘。小屋前からは白馬三山のうち一番南に位置する白馬鑓の大展望(一枚目の写真)。小石でザレていて、白色に輝いている。美しい。

よくみると、中腹から右へ九十九折りの登山道が見えている。それを右にたどると右方へ登山道がつづいている。白馬鑓温泉への道である。あすはあそこを下る。

小屋の裏には雪渓・雪田がたくさん残っている。そのため小屋の水は豊富。飲める。きのうの唐松岳頂上山荘は水不足で洗顔もできなかったので、ありがたい。

小屋回りにはお花畑が広がっている。ヨツバシオガマがこれほどたくさん咲いているとことははじめて。2枚目の写真。あとはウサギギクとか。ウルップソウは花期を終えていた。

天候しだいでは富士山まで見えるという。残念ながら台風が接近している状況ではそれはかなわず。

夕方からかなり強い雨になった。夕食は名物の天狗鍋だ。山小屋で鍋料理というのも初めてかも。雨はつづき、満天の星空をあおぐことはできなかった。

翌朝は4時起き。きのうからの雨が残っていた。風も強く道をたどるのに苦労した。なんとか白馬鑓温泉への分岐にたどりついた。このころには薄ら明るくなり、道もみえやすくなってきた。

遠く近くで目覚めたライチョウがギャギャと鳴いている。なおも雨はつづき、メガネが曇って歩きにくい。

2時間半、後半は鎖場の連続でやっと白馬鑓温泉に。温泉に泊まった人たちが次々と出発している。

そこからさらに4時間弱。もうひとがんばりだ。温泉をくだって、白馬鑓の裾をトラバースしていると、晴れてきた。振り返ると、鑓沢の全景が。白馬鑓温泉も見える。まるで見送ってくれているようだ。なごりおしい。

台風が接近するなか、なんとか下山することができた。いそいだのでマメがつぶれた。白馬駅10時23発の電車に滑り込むことができた。

そこから大町、松本、名古屋を経て、電車がとまるまえに、なんとか博多まで帰りつくことができた。やはり日頃の行い・・(以下、自粛)。