2023年9月13日水曜日

足利尊氏と九州(2)少弐と菊池と合戦の事

 

 『太平記』第15巻のつづき。少弐と菊池と合戦の事。
 
 菊池武俊は、元来宮方にて肥後国にありけるが、少弐が将軍方へ参る由を聞いて、路にて打つ散らさんと思ひければ、その勢3千余騎にて、水木の渡へぞ向かひける。少弐太郎は知らずして、小舟七艘に込み乗り、わが身は先づ向かひの岸に着きにけり。

※後醍醐天皇=建武の新政の側が宮方。新政から離反して都から追い落とされた足利尊氏の側が将軍方。尊氏の新政からの離反を元弘の乱という。九州では肥後もっこすの菊池武敏が宮方に、大宰府の少弐が将軍方についた。

※肥後もっこすは、熊本県人の頑固な性格をあらわす言葉。津軽じょっぱり、土佐いごっそうとともに、日本三大頑固の一つ。われわれの業界にもいる。議論で説得できないので、弁護士辞めろといいたくなる。

※水木の渡は、水城の渡。いまの水城と御笠川が交差するあたりにあったと思われる。水城堤防はいまよりしっかりしていたことだろう。御笠川の水量からして舟が必要とも思えないが、むかしはもっと水量があったのかもしれない。

※少弐太郎は頼尚。菊池や宗像との位置関係からして、左岸(西側)から右岸(東側)へ御笠川を渡ったのだろう(有智山城との関係は問題だけれども、有智山城→いまの竈門神社あたり→天満宮あたり→御笠川左岸を水城あたりまで進軍したのだろう。)。水城の辺は地元なのに、3千騎の敵勢に気づかなかったとはうかつ。

https://www.google.com/maps/place/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E5%BA%9C%E5%B8%82/@33.5184991,130.4940361,17.04z/data=!4m6!3m5!1s0x35419bb94ea9da4d:0x420ea1837d378fc4!8m2!3d33.5127734!4d130.5239685!16zL20vMDF3cTE1?entry=ttu

 阿瀬籠(あぜくら)豊前守は、未だこの方にひかへて、渡船の差しもどす程を待ちける処へ、菊池が兵3千騎、三方より押し寄せて、川中へ追つばめんとす。阿瀬籠が150騎、とても遁れぬ所なり、引かばいづくまで遁るべきと、一途に思ひ定めて、菊池が大勢の中へ懸け入って、一人も残らず討たれにけり。

 少弐太郎は、川の向かひにてこれを見けれども、大河を中に隔てて、舟ならでは渡すべき便りなければ、徒らに、憑み切ったる一族郎等どもの、敵に取り籠められて討たるるを見捨てて、将軍の方へぞ参りける。

※阿瀬籠は少弐の家来なのだろうけれども、阿=岸と瀬で取り籠められた武将という意味なので、『太平記』の作者の創作名かもしれない。太宰府へんで「あぜくら」という名は聞かないし。「この方」とは先に述べたとおり、西側の岸辺か。

※御笠川が少なくとも現在、「大河」とはいえないことは先に述べたとおり。家来を見殺しにした弁解として、頼尚が尊氏に述べた方便だろう。

※尊氏は宗堅大宮司の館にいたはずなので、頼尚は水城から宗像大社の辺までほうほうのていで逃げたのだろう。

  (引用はやはり岩波文庫から。)

0 件のコメント:

コメントを投稿