2023年11月28日火曜日

わが事務所の新人弁護士指導

 

 わが事務所に新人弁護士が入所する。これで総勢8人に戻る。女性弁護士である。迫田登紀子弁護士の司法修習生だった。弁護修習の際、迫田弁護士の仕事ぶりに惚れて、わが事務所に入所となった。

他方、わが事務所は2年に一度担当替え兼席替えがある。担当替えは、弁護士と事務局の組合せを替えることである。席替えは、1階か2階か、どの弁護士とどの弁護士が1階かとかに関する組合せを替えることである。風通しをよくするために、民族大移動を行う。

これらの事情が重なって、新人弁護士の指導係をおおせつかった。富永弁護士が「直属の上司」であるから細々なことは彼にまかせる。ぼくのほうからは弁護士としていかに生きるべきかといった大局的な話をしていきたい。

とは言っても40年という年齢差がある。世代間ギャップがはなはだしい。よかれと思って言ったことがまったく逆の意味にとられることがないではない。このようなことは若手の弁護士を指導する際にこれまでも感じてきたことだ。

なにせ、われわれは「巨人の星」、「タイガーマスク」、「あしたのジョー」、「アタックナンバーワン」、「俺は男だ」、「エースをねらえ」などをみて育った世代である。

指導相手が言うことを聞かなければ、鉄拳だってくらわせるし、ちゃぶ台だってひっくり返す。もちろん、いまどきそんなことはしないが気分はそうである。

しかし、それだけで指導がうまくいくということはない。高まった緊張をほぐさなければならない。どうするか。夕陽にむかって、砂浜をいっしょに走るのである。えいほ、えいほ。これにより毎回、高まった緊張はとけていくのである(お約束)。

新人弁護士にこのような昔ながらの方法が通用するだろうか。はなはだ不安である。そう思って、いまの若い人たちがどんな番組をみて成長しているのか、秘書さんたちに訊いてみた。

ポケモン、セーラームーン・・。そうか魔法系か。しかし新人弁護士さんはこれらテレビ番組をみて育っただろうか。それともいまはやりのYouTubeとかTik Tokだろうか。ますます不安である。近くに砂浜がほしい。

2023年11月27日月曜日

あはれ今年の秋も去ぬめり

 



 四王寺山を散策した。ことしの紅葉もこれで最後だろう。

夏、酷暑がつづいたため、どこも色づきはよくない。紅葉は昼夜の寒暖差によって緑から赤あるいは黄に変わる。

ことしは紅葉するまえに霜がおりたりして、赤あるいは黄に変わらないまま茶色になり落葉してしまっている。残念。それでも写真のとおり、紅葉を楽しむことができた。

夕方のニュースでは竈門神社の紅葉を推奨していた。たしかに。だがしかし天満宮前の渋滞等を考慮して四王寺山へむかうことにした。

宇美町側(北側)から四王寺山に入ってくると、すぐ百間石垣がある。車でも行くことができる。わずかながらも駐車スペースがあり、いつも数台の車が駐車している。

その手前を左折すると、鮎返りの滝がある。三十三所めぐりの20番札所となっている。滝の上部から小石垣手前の川べりまで紅葉が美しい。数組の女性グループが一生懸命、写真を撮っていた。

つぎにお奨めなのは高橋紹運の墓のあるあたり。太宰府側(南側)から四王寺山へ入っていく。くねくねと坂をあがると、右手に岩屋城跡の標識がある。

戦国末期、九州制覇をめざす島津軍4万人が北上してきた。これに対するは大友宗麟の配下である高橋紹運とその部下700人。高橋紹運らは岩屋城にたてこもり玉砕した。

いつもなら岩屋城跡に登り、そこからの筑紫平野のながめが気持ちよい。しかしきょうはそちらにむかわず、左手を100メートルほど降りる。

そこに高橋紹運の墓がある。高橋紹運の子は柳川藩主である立花宗茂である。立花家は柳川城主として江戸期を全うした。そうしたこともあり、墓はいまもきれいに整備・清掃されている。

その手前にモミジの巨木が数本あり、みごとな紅葉をみせてくれる。ことしは赤ではなく黄色のままだ。

来年はどうだろう。地球温暖化の勢いはとどまるところをしらない。紅葉の見事さは年々失われることになるだろう。残念ながら。

2023年11月24日金曜日

所在等調査ー北海道出張中止

 


 きょうから3日間、北海道出張を予定していた。しかし、北海道の週末は暴風雪など大荒れの天気予報だ。

家庭裁判所で、ある遺産分割調停をおこなっている。調停に出席していて意向がはっきりしている当事者の間ではほぼ合意が成立したけれども、欠席していて一部の当事者だけ意向がはっきりしない。家庭裁判所は調停にかわる審判をおこなった。

「調停が成立しない場合であっても、裁判所が当事者の様々な事情などを考慮して、審判の形で一定の解決を示すことが相当だと判断した場合には、調停に代わる審判の形で結論が示されることもあります。この審判に対して2週間以内に当事者から異議が申し立てられることなく確定した場合、審判は確定判決と同一の効力をもち、異議が申し立てられた場合には、その審判は効力を失うことになります。」(裁判所HPより)

ところが、この審判書が届かない。一般論として審判が確定すると強制執行をおこなうことができる場合があるので、審判書の送達は特別送達の方法による。書留郵便の厳格なやつだ。当事者本人でないと受け取れない。

当該住所にいることは確かだけれども、受け取らないだけという場合がある。この場合、所在調査が必要になる。相手方の住所に尋ねていって、水道メーターが回っている、洗濯物が干してある、近所の人の話で住んでいることは確かだとか報告書を提出することになる。

今般はどうもそうではないらしい。親族のお話によると、どうも認知症を発症していて、どこか施設か病院にいるらしい。しかも、そのかたの住所は北海道だ。遺産分割だからだいたいの当事者は九州在住だったのだけれども、そのかただけどういうご縁か北海道に住所があった。

裁判所から特別送達が届かない事情について調査を命じられた。期限は12月上旬だ。

相手方の近所のかたや、ご親族に電話や手紙を出して、その辺の事情をうかがった。しかしはっきりしない。もしくは、ご返事がない。役所等に問合せようにも、昨今は個人情報の壁があつく教えてもらえない。

こうして、やむなく今週末、北海道出張を企画・断行しようとした。

そうしたらなんとドラマのような展開。ギリギリ一昨日の夕方、ご親族のお一人から、お手紙のご返事が届いた。それにより、審判書が届かない事情が判明した。

北海道出張は急遽とりやめ。助かった。雪に弱い九州人が雪にまかれて凍死したのではあまりにもおそまつ。

このような事態はこれからさらに増えるだろう。こんかいは国内にいらしただけまだマシだったかもしれない。

2023年11月22日水曜日

わが事務所の電話保留音はいつ、だれによって替えられたのか?

 


 きのうわが事務所の電話保留音が話題になった。担当秘書さんが、ある依頼者からお褒めの言葉をいただいたというので。

知らなかったが、わが事務所の電話保留音は、ビートルズの「ヒア・カムズ・ザ・サン」らしい。

「ヒア・カムズ・ザ・サン」は、ジョージ・ハリスンの作詞・作曲。アルバム「アビイ・ロード」に収録された(1969)。

ジョージが会計士たちとの退屈な会議にあきあきして、親友のエリック・クランプトンの家の庭を散歩しているときに降りてきたという。ときは春、あたたかい日差しがここにやってきた。

この曲は前記依頼者が大好きだという。マイナーな曲なのによくぞ採用してくれたと感謝していたという。たしかめてみると、たしかにそうだ。

ここまで読んで「あれ?」と思わないだろうか。思ったかたは本ブログの「大ファン」の称号を差し上げたい。

じつは本年4月3日にこの話題を書いている。「家庭裁判所の電話保留音楽に脱落させられる」である。

http://blog.chikushi-lo.jp/2023/04/blog-post.html

家庭裁判所の電話保留音楽はファファファファーンとぬるい管楽器の演奏で、それに脱力させられるのだが、じつはその曲はベートーベンの「悲愴」だったという論旨である。

その際、T弁護士から追い打ちをかけられて調べたわが事務所の電話保留音はカーペンターズの「青春の輝き」だった。

あれから半年。いつの間にか、わが事務所の電話保留音がカーペンターズからビートルズへ、「青春の輝き」から「ヒア・カムズ・ザ・サン」に変化している。

いつ、だれがこのような変更を行ったのか?なぞである。なぞの探求はつづく。

2023年11月21日火曜日

事務所研修旅行@宮島・広島平和記念公園(2)

 




 翌日。宮島から平和記念公園まで直行便がでていたので、それで海と川を渡る。所要時間45分。原爆ドームのすぐ南に着岸する。広島は4回目だが20年ぶりだ。

原爆ドームはいうまでもなく、人類史上はじめて使用された核兵器の惨禍を伝える遺構。世界遺産。欧米系外国人が多く見学していた。

つづいて平和記念資料館。ところが行ってみると、長蛇の列。ここも欧米人が多い。入館まで小一時間かかるという。われわれは帰りの新幹線の時間的制約もあり、こんかいは断念。

やむなく原爆の子の像をへて、おりづるタワーへ向かう。原爆ドームの東100メートルほど。

最上階にのぼると、眼下に平和記念公園が一望できた。被爆で全身火傷の人々が飛び込んだという旧太田川の流れも見える。いまはひたすら静かに流れていた。

折り鶴を折って、願い事を書くのであるが、もちろん願いは「世界平和」。

2023年11月20日月曜日

事務所研修旅行@宮島・広島平和記念公園(1)

 





 事務所の研修旅行1泊2日へ行ってきた。行き先は宮島・広島平和公園。

初日は宮島。秋の安芸の宮島。日本三景の一つ。廿日市側・宮島口から頻繁に船が渡している。

乗船まえに腹ごしらえ。店はあなごめしうえの。店前は長蛇の列、予約していてよかった。炭火で焼いた香ばしい穴子のコースに舌鼓。柳川のうなぎと似て非なるところがおもしろい。昼から満腹。ぜいたく。

厳島神社が世界遺産に登録されている。本殿、拝殿、回廊などが国宝。海上に立つ朱塗りの大鳥居は日本三大鳥居の一つ。

祭神は宗像三女神である。宗像大社とおなじ神、というか宗像大社からやってきたらしい。福岡とご縁がある。三女神はアマテラスとスサノオの娘たち。海の交通安全の神様。

平清盛が安芸守となったことから隆盛した。日宋貿易船を大和田泊(兵庫港)まで導き入れる拠点でもあったという。ことし六甲山全山縦走を行った際、山上から遠望したのが大和田泊のあたりだったので感慨深い。

船の側面をみると伊都岐号というのがある。福岡県人からすると糸島?と思ってしまう。が、厳島はふるく伊都岐島と表記されたことによるようだ。

上陸すると、鹿がよってくる。子どもがおずおずとなでている。

宿である錦水館に荷物を置いて、表参道商店街へ。そしてやまだ屋で、もみじ饅頭づくり体験に興じる。単純作業だができばえに差が出てしまう。なにごとも奥がふかい。

饅頭づくり体験のあとは観光。ガイドさんは島一番らしい(自分で名乗ったのではない。通りすがりの他のガイドさんがそう紹介していた。)。ぼくがダジャレをいうとダジャレで返してきたから、そうとうの腕前と拝察した。

まずは旅の安全を感謝して道祖神社(幸神社)参拝。坂を登ると、五重塔がみえる。五重塔にまっすぐは向かわず、交流館へ。大杓子を見学。

そこから五重塔へ戻る。豊国神社(千畳閣)参拝。秀吉の死により未完。ここに入口ができるはずだったという空間が秀吉の夢の挫折を際立たせている。

厳島神社は5回目くらいだが、ガイドさんつきでは初めて。先達はあらまほしきものなり。NHKの2時間でめぐる厳島神社で予習していたものの、いろいろと知らないことを教えていただいた。ガイドさん、ありがとう。

2023年11月16日木曜日

宮古から東京へ

 

 那覇空港で搭乗しようとするとき、かならず思い出す光景がある。

時は22年前、2001年5月。11日に、ハンセン病訴訟に関し、第一審・熊本地裁で勝訴判決がなされていた。

判決後われわれはまず上京し、国会、厚生労働省や法務省、そして支援者らに対し、判決内容を報告するとともに全面解決への支援や行動を要請した。

つぎにわれわれがしたことは全国の療養所をまわって、原告らに対し判決内容の報告と今後の方針を説明してまわることだ。

情勢は混沌としていた。被害者らは高齢化し、隔離の歴史も長期化していた。隔離を受けた被害者は当然裁判に参加するものと思われがちだが、対応は割れていた。

下手に裁判に参加して療養所を追い出されることになれば、高齢化した被害者たちは行き場を失うことになる。それを心配する人たちが裁判に反対し、どちらかといえば原告らは孤立していた。

われわれは勝訴判決をひっさげ、全国各地の療養所に戦勝報告をするとともに、いまだ裁判に加わっていない人たちに参加を呼びかける必要があったのだ。

弁護団内で手分けした結果、八尋弁護士とともに沖縄愛楽園と宮古南静園を担当した。その日は沖縄愛楽園での説明会を終え、宮古南静園での説明会を行うため、那覇空港から宮古空港に向かう途中であった。

『失われた時を求めて』の冒頭ではないが、前後の詳細な事情は忘れてしまった。鮮明に覚えているのは次の場面だ。

宮古行きの飛行機にいままさにチェックインしようとしていた。すると携帯に電話がかかってきた。内容は小泉内閣の法相、たしか森山真弓さんだったと思うが、原告団との面談に応じると言っているという。

急遽、八尋弁護士とその場で協議して、八尋弁護士はそのまま宮古での説明会へ、当職は東京へ転針して法相との面談にのぞむことになった。

弁護士人生のなかで、いくつかある驚きの瞬間の一つである。どんなに時間が経っても忘れることはない。

2023年11月15日水曜日

抵当権実行停止仮処分の審尋@那覇地裁

 


 
 沖縄出張に行ってきた。空港からモノレールに乗り、県庁前で下車。そこからは10分ほどの歩きで那覇地方裁判所。

暑い。福岡をでるときはコートが必要なくらい寒かった。こちらはカッターシャツ一枚で十分だ。那覇地裁では12月までクールビズだそう。

顧問先の財産に対し抵当権に基づく競売の申立がなされた。これを凍結するために競売実行停止の仮処分を申し立てた。きょうはその審尋。審尋というのは簡易な証拠調べ手続である。当方は社長と当職、相手方は弁護士が電話による参加だった。

事前に書面は提出しているので、相手方が提出した答弁書にそって争点の確認、その争点にそって双方の意見交換。議論が尽きたところで、この日の手続は終了。

あとは観光をさせていただくと断って、裁判所のまえで解散。国際通りから、やちむん(やきもの)通りへいつものルートで散策。

平日なので、修学旅行生が目立つ程度。もちろん、台湾からと思われるインバウンド集団や米軍家族関係者もみかけた。

やちむん通りの奥には、某人気女優さんと同じ名前の店が並んでいる。たまたま入った店のおかみさんに訊くと、みな兄弟で窯の伝統を守っているらしい。さいきんはどうですかと問うと、お客が戻ってきているという。それはなにより。

2023年11月13日月曜日

男池湧水群~くじゅう黒岳原生林散策

 



 ことしも男池湧水群からくじゅう黒岳原生林を歩いた。福岡県中小企業家同友会のメンバーを中心に6人の参加。

残念ながら肌寒く、あいにくの天気。途中は雨もパラついた。さらに残念ながら、夏の暑さのせいか、季節をのがしたのか紅葉にもあえず・・。

それでもさすがに阿蘇野川のせせらぎ、男池湧水群の透明度と圧倒の湧水量、黒岳原生林の神秘の自然の美しさにはやはり心をあらわれた。

メスを求めるオス鹿の哀切な鳴き声、カツカツカツというキツツキが樹をうがつ音、ホオやウチワカエデの落ち葉にも癒された。

2023年11月10日金曜日

福岡公証役場訪問記

 

 福岡公証役場を訪問してきた。養育費請求権について公正証書を作成するためである。夫側の依頼であるので、正確には、作成させられるためである。

離婚に伴い、夫婦どちらかを親権者と定める。親権者とならなかった他方は、相手方に対し養育費の支払いを約束することになる。

未成年の子が成年に達するまでであるから10年以上の期間におよぶことが多い。本来的には、約束が守られなかった時点で、調停か裁判を行って、調停調書や審判・判決などの債務名義を得ることなる。

債務名義というのは、それに基づいて強制執行できる文書のことである。調停や裁判には時間と手間とお金がかかる。これをバイパスするための制度が公正証書を作成する方法である。

公正証書は遺言が知られているが、もちろん養育費請求権についても作成することができる。末尾に強制執行を認諾する文言をつけくわえれば、調停・裁判を経ずして強制執行をすることができる。

強制執行というのは、任意の支払いがないときに、相手方の給料や預貯金を差し押さえることができる制度である。むやみに認めると差し押さえられたほうの被害が大きいのであるが、養育費について認諾文言があるのであればやむをえない。

公証役場はおおむね法務局ごとに存在する。わが事務所の近くには筑紫公証役場が存在する。いつもはそこのお世話になっているのであるが、今回は相手側の弁護士の最寄りの役場を利用することになった。

その際、必要書類がいろいろある。そして通例、IDを証するものが必要である。ところが、今回は不要であるという。なぜかと問うと、公証人が知り合いだからだという。なんと司法研修所で同期の元裁判官であった。

地下鉄赤坂駅で降り、長浜方面へ向かう。右側に大きなテニスコートがある。むかし検察庁があったところだ。そこを左折すると、間もなく福岡公証役場だ。はじめてきた。

表札をみると、6人も公証人がいらっしゃる。そのうち半分は知っているお名前だ。中に入ると、送達、確定日付、認証、公正証書などに窓口が分かれている。筑紫公証役場のばあい、公証人は1人なので、窓口もシンプルである。いかにも役場という感じである。

しばらくして相手の弁護士もいらっしゃったので、中の部屋に入った。途中で、もう一人の知り合いの公証人の顔が見えたので、挨拶することができた。

そして公正証書を作成した。お隣の先生の声も大きく喧噪のため、朗読の声も聞き取りつらい。

公証人はさすがに司法研修時代と同じというわけにはいかないが、いまも毎日水泳に通ったいるとかで若々しい。つかの間の同窓会であった。

2023年11月8日水曜日

朋有り、遠方より来る

 


 ワンゲルOB会からOBつながりな話題2つ。きのうはゆかりのある人たちが訪ねてきてくれた。

 まず前半戦。太宰府ロータリークラブにスウェーデンからカリンさんと母上が訪ねてきてくれた。2001-2002年の交換留学生。筑陽学園で学び、母国へ帰ってからはテレビ局で働き、いまは放送作家をされているという。

20年前の留学であり、その後2児を子育て中とのことであるが、まったくそのことを感じさせない。日本語はなめらかだし、はつらつとしていらっしゃる。なつかしい時間が流れた。

 つぎは後半戦。故落合弁護士のご家族がご家族で訪ねてきてくださった。配偶者と男児、女児の4人連れである。

落合くんは、わが事務所の新進気鋭の若手、希望の星であったが若くして亡くなられた。ちょうど裁判員裁判導入期、あまたいる福岡県弁護士会会員のなかで、なんと第1号事件と第3号事件をひきあてた(比喩である。)。なんという引きの強さ。

弁護士は時代から呼ばれるところがある。弁護士になったときに社会的課題となっていた事件に飛び込んでいき、それを解決することにより社会に貢献していく。落合くんのばあい、まさに裁判員裁判がそれだった。

他人に対してプレゼンすることが好きでもあったようだ。結婚式ではとても巧みに自己プレゼンをしていたように思う。

その後も、落合くんがいてくれたらなぁと思う場面はすくなくない。数々の活躍が期待されたのである。

他の事務所の詳細は知らない。が、わが事務所はOG、OBが比較的たくさん訪ねてきてくれる事務所だと思う。たいへんうれしい。

訪ねてくるほうはハードルがたかいだろうに、そこを越えてきてくれるところがなおさらうれしい。それでも彼女ら、彼らはいちどはともに働いてきたメンバーたちである。

落合くんのご家族のばあい、当事務所は初訪問であった。さぞかしハードルが高かったことだろう。でも子どもさんたちに落合くんの職場をいちどは見せておきたいという気持ちがまさったのだろう。

旧交をあたためることができた。欧州旅行や収集癖の思い出話をしたり、落合くんの知られざる一面をあらためて知ることもできた。楽しいひとときであった。再会を約した。

2023年11月7日火曜日

ワンゲルOB会 42周年?

 




 先日は声をかけてもらったので、大学ワンゲルOB会に参加してきた。場所はくじゅう南登山口にあるキャンプ場に1泊して、翌日は牧ノ戸から中岳(九州本土最高峰)往復である。

どう数えればよいのだろう?64歳ー22歳として42周年? 中途はんぱである。そのわけは5年前にアラ還OB会をやったからだ(大学の部活だから年齢にバラつきがある。)。それから5年後だから今年になった。同期のOB会としては通算4回目と思う。

むかしは家族連れで参加した。子どもどうし楽しそうに遊んでいた。

9人の参加。クラブ内で結婚した配偶者2人を含むので、ややすくない。リタイアしたメンバーもいて働いているメンバーと半々ぐらいか。なかには自身もしくは身内が大病、あるいは大病後という。この歳になればある程度のリスクはあるだろうが、それにしても多すぎるような気がする。

日本百名山達成まであと4座というメンバーもいた。残っているのは北海道の十勝岳、トムラウシ山、北アルプスの薬師岳、黒部五郎だそうだ。来年7月に前者、8月に後者を登る予定という。なんなら一緒に登って祝ってやりたいが、いずれもそれなりの山が残ってしまっている。

その他のメンバーも1人をのぞけば、いまでも山歩きを楽しんでいるようだ。1人は前回から1度も登っておらず5年ぶりだそう。それでもさすがに足運びはしっかりしている。

とまあ、われわれのほうはここには書けないことも含め、いろいろとあった。が、山はいままでと変わらず、美しいよそおいを見せてくれた。

2023年11月6日月曜日

ブラタモリ「敦賀~すべての道は敦賀に通ず?~」

 


 ブラタモリで敦賀をやっていた。本ブログでとりあげた秀吉・家康、芭蕉・おくの細道や銀河鉄道999的世界に一切触れることはなく。

やはり「道」という観点から編集したせいだろうか。「道」という観点からすればなおさら秀吉・家康、芭蕉・おくの細道、銀河鉄道に触れてもよさそうなものなのに。監修を受けた研究者がみな畑違いだったせいだろうか。

敦賀湾から海をのぞむと水平線が見えない。つまり、北側、東側、西側の3方を海に囲まれている(すこし北上すると北西側が日本海にひらけている。)。古代から天然の良港として発達してきた。

近世では北前船が行き交い、昆布が名物となったことが番組でよく分かった。北方の昆布が敦賀で名物となったのは、近世までは日本海側が物資の大動脈だったからである。

そのことは、いちど秋田県の酒田にいけばよくわかる。酒田は庄内平野の北端にある。往時、酒田の商人は庄内平野の米を上方へ運んで巨万の富を得たのである。そのさまは、井原西鶴が『日本永代蔵』に活写したとおりである。

もちろん、その繁栄がそのままいまでもみられるわけではない。だけれども、山居倉庫として残っており、往時をしのぶことができる。さらには、吉永小百合が歩いた空気も感じられるかもしれない。

https://ameblo.jp/yu-tu-0101/image-12342041718-14106270310.html

さて幕末、列強と下関線戦争が勃発するや、京・大坂への米の搬入をどうするかという問題を生じ、敦賀から琵琶湖へむけて運河を掘ったようだ。

明治期、運河に代わり、鉄道が。新橋-横浜間と同時に計画されたというから、その重要性は明らか。

鉄道の停車場は金ヶ崎にあったようだ。『どうする家康』放映中でもあったし、秀吉・家康の退却戦のエピソードの紹介があると思ったが、なし。

鉄道から先、船はどこへ向かったかというとウラジオストック。そこからシベリア鉄道で欧州全域に向かうことができたようだ。

①日本国内から敦賀までの鉄道キップ、②敦賀からウラジオストックまでの船券、③ウラジオストックからベルリンまでの鉄道キップが1枚となったキップが紹介されていた。船便の半分くらいの日数でヨーロッパへ行けたようである。

日本からロシアを経てヨーロッパへ自由に行き来できた時代の貴重な歴史的なお宝である。いまは飛行機でされ自由に飛ぶことができない。タイトルの「すべての道は敦賀に通ず?」に「?」とあるのはこの意味でもあるだろうか?

2023年10月26日木曜日

トランスジェンダー性別変更、生殖不能の手術要件は違憲

 

 「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」というのがある。

https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=415AC0100000111

同法によれば、「性同一性障害者」とは、生物学的には性別が明らかであるにもかかわらず、心理的にはそれと別の性別(他の性別)であるとの持続的な確信を持ち、かつ、自己を身体的及び社会的に他の性別に適合させようとする意思を持つ者であって、そのことについての診断を的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の医師の一般に認められている医学的知見に基づき診断の一致しているものをいう(2条)。

一読して理解が困難な定義である。次の3つの要件を要求しているからだ。

①生物学的には性別が明らかであるにもかかわらず、心理的にはそれと別の性別(他の性別)であるとの持続的な確信を持ち
②自己を身体的及び社会的に他の性別に適合させようとする意思を持つ者
③そのことについての診断を的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の医師の一般に認められている医学的知見に基づき診断の一致しているもの

自分は①②の要件を欠くのだけれども、仮に①②の要件を充たすとして、③の要件だけでとても高いハードルに感じられる。

たとえば、交通事故の後遺症診断というのは、場合によっては数千万円の帰結をもたらす。けれども、そのことについての診断を的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の医師の一般に認められている医学的知見に基づく診断などは要求されていない。2人以上の医師の診断といわれただけで、どの病院に行けばよいのか途方に暮れる。

同法はさらに、その性別の取扱いの変更について、家庭裁判所の審判を求めている(3条)。その要件について、5つの要件を定めている(1項)。

一 十八歳以上であること。
二 現に婚姻をしていないこと。
三 現に未成年の子がいないこと。
四 生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。
五 その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること。

この請求をするには、その診断の結果並びに治療の経過及び結果その他の厚生労働省令で定める事項が記載された医師の診断書を提出しなければならない(2項)。

昨25日、最高裁(大法廷判決)は、このうち四号の要件について、法令違憲とした。この要件が「強度の身体的侵襲である手術を受けるか、性自認に従った法令上の取り扱いを受ける重要な法的利益を放棄するかという、二者択一を迫っている」のであり、「意に反して身体への侵襲を受けない自由を侵害し、憲法13条に違反して無効」であるとした(全員一致)。

https://www.asahi.com/articles/ASRBP7T8YRBNUTIL009.html

NHKの番組で手術を受けた人の映像を見た。術野にいびつな醜状痕が残っていた。重大な決心がなければとても受けられるようなものではない。外見だけでなく、ホルモン異常などの後遺障害もありうるという。強度の身体的侵襲である。

特例法の制定は平成15年、20年前である。法制定以降の社会の変化、医学的知見の進展なども踏まえ、判断したという。

最高裁は2019年にもこの点について判断し、「現時点で」合憲と判断している。つまり、この4年間における「社会の変化」が大きかったということである。この間におけるLGBTQ運動前進の成果といってよかろう。関係者の長年の努力に敬意を表したい。

ただし、最高裁は、五号の要件については判断していない、高裁に差し戻している。たたかいは続く。

※憲法13条。すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

※※12条。この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。

※※※97条。この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

2023年10月25日水曜日

太宰府路散策(5)天満宮、竈門神社

 

https://www.google.com/maps/place/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E5%BA%9C%E5%B8%82/@33.5169769,130.5252669,17.25z/data=!4m6!3m5!1s0x35419bb94ea9da4d:0x420ea1837d378fc4!8m2!3d33.5127734!4d130.5239685!16zL20vMDF3cTE1?entry=ttu 

 観世音寺から天満宮まではすこし左折や右折をする必要がある。が、標識にしたがって行けば間違うことはないだろう。旭地蔵尊前を右折、御笠川をわたって左折できれば、大駐車場が見えてくるだろう。

大駐車場から参道へ入ると、いまなら人がいっぱいである。インバウンドは回復し、参道は外国語がいきかっている。韓国語や中国語が主である。中国語は大陸のほうではなく、台湾のかたたちである。

昼食どきだけれど、参道の店はどこも人がいっぱい。本日最大のミッションは鯉のエサやりである。そのため御神牛を経て、太鼓橋を右へ行き、うぐいす茶屋に向かう。ここで昼食をとることにした。ほどほどの混み具合である。

それぞれ山形豚のカツ丼や、釜揚げうどんを注文して食す。うまし。池では花菖蒲が枯れている。鵜が魚を捕っていた。長良川のように吐き出させられる様子はない。

その後は、お待ちかねの鯉の餌やりである。長い棒状の麩を買い、ちぎっては鯉に投げる。

横からのっそりとカメもやってくる。鯉たちの敏捷さにくらべ、動きが緩慢すぎる。そこを子どもたちがなんとか食べさせようとする。子どもたちとカメの連合群と鯉たちとの競いあい。ミッションコンプリート。大満足。

天満宮の本殿はいま修復中である。草でデザインされた仮宮がむしろ斬新でよい。古新道の山や磐座をご神体とする時代に還ったようだ。

ポツポツとくるなか、宮前からコミュニティバスに乗ることにした。バスは渋滞のせいか20分以上遅刻してきた。インバウンドとおぼしき人たちが5、6人うしろに列をつくる。

バスはほどなくして内山に着く。宝満山の麓であり、登山口もある。神社の階段を登る。秋が深まれば紅葉の名所である。が、いまだ色づきはわずかである。階段が尽きると、竈門神社である。

神様にはもうしわけないが、まず絵馬の納所にむかう。子どもたちが喜ぶから。期待どおり、『鬼滅の刃』の主人公たちを描いた絵馬が並んでいる。いずれおとらぬ名作ぞろいだ。

そう、わざわざバスに乗ってやってきたのは竈門神社が『鬼滅の刃』の聖地とされているからだ。別に作者が竈門神社がそうであると認めたわけではない。しかし、そうではなかろうかという情況証拠はそろっている。

まず、鬼滅の主人公の名だ。ずばり竈門炭治郎(かまどたんじろう)という。これだけだと証拠として十分でない。大分県や筑後のほうにも竈門神社があるそうだから。

つぎに、竈門神社が大宰府政庁の鬼門を守っていることがなにより重要だ。鬼滅は文字どおり、鬼退治の物語だ。竈門神社は、鬼が北東の方角から侵入してこないよう、これを防いでいる。

神社は政庁からみて北東、つまり、鬼門の方角にある。鬼門の方角とは牛寅の方角である。時計の針の一番上=0時から子、牛、寅、卯とくるから、右上45度は1時と2時の間になり、牛寅の方角なのである。

古来、鬼は牛寅の方角から来ることになっている。中国では騎馬民族が東北からやってくることは分かるが、日本のばあい何がやってくるのだろう?

ともあれ、鬼の頭に牛のような角があり、寅のパンツをはいているのは、牛寅の方角からやってくるからだ。

さらなる根拠としては、鬼滅の作者が福岡県出身であること。これで県外の候補地は除けるという。

作者がどの程度詳しいか分からないのであるが、修験道のイメージもあるかもしれない。修験道は天狗や修行と縁がありるから。

鬼とは何か?伝染病や疫病がそうであるという説がある。ならば、コロナや各種ウィルスから子どもたちを守ってやってくだされ。

2023年10月24日火曜日

太宰府路散策(4)四王寺山

 

 太宰府路は、北をのぞめば、どこからでも四王寺山が見える。観世音寺横のコスモス畑からとくに美しい。

四王寺山は標高400Mちょっとだ。最高峰の大城山のほか、大原山、岩屋山、水瓶山の四峰からなる。

四王寺と呼ばれるのは古代、仏教の守護神である四天王がまつられたからだろう。四天王は須弥山(しゅみせん)で帝釈天(たいしゃくてん)を守護しているという。帝釈天というのは寅さんに出てくるアレである。

須弥山は世界の中心にそびれる高山。広島・宮島の最高峰である弥山(みせん)や、仏像の基壇を須弥壇(しゅみだん)と呼ぶ由来である。

四王寺山の山頂には、いまでも増長天、広目天の礎石、毘沙門堂が残されている。増長天は南、広目天は西、毘沙門天は北の守護神。

東をまもる持国天は大原山のあたり、いまは15番札所・十一面観音石像があるのみである。

四天王像としては東大寺戒壇院のものが有名であり、大好きである。四人組の強者のことを四天王と名付けて恐れ敬うのはいまもおなじ。われわれの世代ではアタックナンバーワンに出てきた○○四天王にしびれたものである。

北方の守護神である毘沙門天は、四天王の一角をなすときは多聞天という。独尊として崇拝されるときに毘沙門天という。戦の神様。強烈に戦がうまかったという上杉謙信は毘沙門天を崇拝していたという。

大和朝廷は百済に加勢して白村江で唐・新羅連合群に敗れた。その後、唐・新羅による列島侵略を心配して、四王寺山には朝鮮式山城が築かれた。大野城という。いまでも山頂には当時の倉庫跡や堤防跡が残されている。

大野城は水城や基山とともに、大宰府政庁をまもる壮大な防衛施設となっている。重機などなかった古代のことだから、唐・新羅による侵略の恐怖が強烈であったことがうかがえる。

物理的な防御だけではとんでもなく心配だったので、四天王の力にすがりたかったのだろう。

いまは写真のとおり、のどか。やはり平和がいちばんである。

2023年10月20日金曜日

太宰府路散策(3)戒壇院、観世音寺

 

 学業院跡から、さらに東へ向かう。戒壇院、観世音寺がみえている。その向こうに宝満山。
 https://www.google.com/maps/place/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E5%BA%9C%E5%B8%82/@33.5149402,130.5201245,18.5z/data=!4m6!3m5!1s0x35419bb94ea9da4d:0x420ea1837d378fc4!8m2!3d33.5127734!4d130.5239685!16zL20vMDF3cTE1?entry=ttu

戒壇院と観世音寺の間の路を右折。戒壇院へ向かうのだが、その前・右手に玄坊の墓がある。玄坊は遣唐使とともに学問僧として入唐。玄宗皇帝に才能を認められた。

帰国後、聖武天皇の信頼もあつく、橘諸兄政権の中枢として吉備真備とともに出世。しかし橘諸兄が権勢をうしない、筑紫の観世音寺に左遷、この地で没した。人格的な批判もおおく、怪異な伝承が多い。かつて政権中枢を担ったわりには小さな墓である。

墓のまえをさらに進むと、右手に戒壇院の裏口がある。東大寺戒壇院などとともに、天下三戒壇の一つ。奈良時代、授戒制度を確立するため、唐から鑑真を招聘した。井上靖の小説『天平の甍』に詳しい。

東大寺の戒壇院は四天王像がすばらしいが、残念ながら筑紫戒壇院にはそのような四天王像は残されていないようである。裏口すぐには菩提樹が植えられている。この日は座禅がおこなわれていたようで、静かにと注意書きがあった。

戒壇院の裏口を出ると、正面すぐが観世音寺の側面入口である。大学生のゼミとおぼしき若い人たちが参拝していた。

観世音寺は、天智天皇が創建した。唐・新羅連合群とたたかう百済を救援するため日本も朝鮮半島に派兵したが、白村江の戦いで敗れた。そのため防衛のために築かれたのが大野城や水城である。

古代のことであるから、いまのように通信手段が整っていない。日本政府は大和の地から采配を振るっていたのでは勝てる戦も勝てない。そのため、前線にちかい九州の地まで出張ってきていた。

その地で斉明天皇が亡くなった。その追善供養のため、皇太子であった中大兄皇子が創建したという。

古くは大きな寺だったらしく、『源氏物語』にもでてくる(あまりよい文脈ではない)が、戦火などでいくたびか焼亡し、いまはそれほどの偉容はない。

寺に向かって右手には日本最古の梵鐘がある(いや、あった。いまは博物館に保存されている。)。国宝である。あれ?日本最古の鐘は妙心寺ではなかったっけ?そのとおり、兄弟鐘である。

糟屋郡多々良町(現、東区)で製造されたという。多々良はたたら製鉄のたたらである。もののけ姫にでてきた「たたら場」と同じ語源である。「たたらを踏む」などというが、たたら製鉄の際の動作から来ている。

多々良町を多々良川が流れている。中央での戦いに敗れた足利尊氏は九州に流れてきて、捲土重来を期していた。かれは多々良川の戦いに勝利し、ふたたび中央に攻め上り、後醍醐天皇側から政権を奪取することに成功することになる。

梵鐘の奥は宝蔵である。観世音寺というだけあって、巨大な十一面観音、馬頭観音、不空羂索観音が偉容を誇っている。大きさは東大寺の不空羂索観音とおなじくらいだと思う。

https://www.fukuoka-bunkazai.jp/frmDetail.aspx?db=1&id=239

このあたり紅葉するとナンキンハゼが美しい。いまの時期はコスモスが青空に映え、親子連れが記念撮影をしていた。

2023年10月19日木曜日

太宰府路散策(2)展示館、学業院跡

          


 政庁跡には礎石が置かれているのであるが、レプリカである。むかしはプラスティック製のものを置いていてブカブカしている時もあった。

実物は2mほど地下にある。発掘調査をおこない、2mほど掘り下げたところ、いま見るような礎石群があらわれたのである。つまり、年間2mmほどずつ土砂が堆積を繰り返していて、約1000年の間に礎石群のうえに2mほどの土砂が堆積しているのである。

そのことは、南西角にある展示館にいけばよく分かる(いつの間にか有料になっていたが。)。館の内部、左右は地層を掘り下げたままになっていて、掘るとどうなるかがよく分かる展示になっている。2mほど地下にゴロリと置かれたままの礎石や溝の遺構をみることができる。

展示館のまえで休憩していると、高齢の男性、つづいて女性が設置されている台の上でスタンプを押していく。訊くと太宰府市がおこなっている事業で、スタンプが集まると3000円の商品券やお米がもらえるのだそう。なるほど。われわれはアプリの景品を期待して歩いているところ、太宰府市の高齢者は商品券やお米を期待して歩いているのか。

展示館の北西角には、都をしのんで歌った小野老の有名な歌の碑がある。

 あをによし奈良の都は咲く花の 薫うがごとく今盛りなり

展示館の前を通って東へ向かう。この通りにはセンダンが植えられている。またの名を楝(あふち)の木。おそらく筑前守であった山上憶良のこの歌にちなむものだろう。

 妹が見し楝の花は散りぬべし 我が泣く涙いまだ干ぬ

これは大伴旅人の妻が亡くなったときに、旅人の気持ちになって詠んだ歌。四王寺山の霧に仮託したつぎの歌もおなじ。

 大野山霧立ち渡るわが嘆く息嘯の風に霧立ちわたる 

通りの左手には故冨永朝堂先生のお宅がある。太宰府天満宮・延寿王院前の「神牛」の作者である。

そのあたりからは宝満山が大きくのぞめるようになる。ことしは国の史跡に指定されて10年となる。大宰府政庁跡の東北、鬼門の方角である。

平安京の鬼門は比叡山であり、鬼門の押さえとして延暦寺が置かれた。大宰府の鬼門は宝満山であり、鬼門の押さえとして竈門山寺・竈門神社が置かれている。

さらに東に行くと学業院跡である(国史跡)。古代、大宰府の官人要請が行われたという。太宰府は現代、学園都市になっているが、このような伝統のゆえであろうか、それとも天満宮のご利益を期待してのことであろうか。

手前には、山上憶良の有名な子等を思ふ歌の碑が建っている。親子の情愛は古代から変わりはない。

 瓜食めば子供念ほゆ 栗食めばまして偲はゆ 何処より来たりしものぞ 眼交にもとな懸りて 安眠し寝さぬ

 銀も金も玉も何せむに まされる宝子に如かめやも

学校で習った。小6に訊くも習っていないという。中学で習ったのだったか。

またそこには天満宮の斎田があり、ちょうどこの日、抜穂祭がおこなわれていた。このごろはコンバインによる収穫風景しかおめにかからなくなったが、むかしながらの鎌による稲刈り。なつかしい。

その先入ったところは昨年、アナグマ三兄弟の巣があったところだ。

2023年10月18日水曜日

太宰府路散策(1)坂本八幡宮、大宰府政庁跡


 土曜日はわが事務所のアクティビティ同好会で、太宰府路を散策した。同会は基本的に自主練で、アプリをつうじて各人の活動状況が知れるというもの。今回は初の合同参加企画となった。

午前10時に西鉄都府楼前駅に集合。ときどき雲に覆われるも秋晴れの晴天であった。子ども2人(小6と6歳)を含む総勢5人で出発。ときおりキンモクセイが香り、秋の気配濃厚である。

同駅の近くには刈萱の関跡があるのであるが、メンバーの要望で省略。むかしは大宰府政庁への出入りは自由でなく、関所で検問が行われたのであろう。刈萱は説経節の石堂丸になっているし、関屋の地名のもとになっている。

水城小学校・学業院中学校前を通り、坂本八幡宮へ。八幡宮は、令和のゆかりの地として全国的に有名となった。

それは、八幡宮が大宰府(太宰府ではない。)政庁跡の北西角にあり、大宰帥(大宰府の長官)であった大伴旅人の屋敷跡の候補地の一つとなっているからである。

そのころの文献はあまり残されていない。じゃなにが根拠かというと万葉集の一節である。

万葉集によると、大伴旅人は、九州の官人を集めて、梅花の宴を催した。そのなかには筑前国主の山上憶良もいた。

そのときの歌が32首残されている。その序文にこうある。

 初春の令月にして 気淑く風和らぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫らす・・

「このなかに令和が隠れている、令和をさがせ!」
子どもたちは、すかさず探しだした。

八幡宮前からは四王寺山の登山口への道がのびているが、きょうは山へはいかない。裏の田畑側から政庁跡へ。

畔道からバッタがつぎつぎと飛び出していく。ハーモニカの演奏をしているグループや虫取りをしている親子がいる。

大極殿跡で記念撮影。奈良の平城京跡は建物が復元されているけれども、こちらは礎石のまま。ぼくはこちらのほうが好きだ。イメージを触発されるし、広々とした空間が開放感を呼ぶ。

                                      続く。

2023年10月16日月曜日

木曽駒ヶ岳、霧ヶ峰、乗鞍岳、美ヶ原(7)風穴と養蚕

 

 くじゅう山系の北東部に黒岳がある。くじゅう山系は放牧の結果か草原が多いのであるが、黒岳の山麓は原生林が残っている。いまの時期は紅葉が美しい。男池湧水群から歩いて黒岳に向かう途中、大船山との境に、風穴がある。

大きな岩々のすきまが縦穴の洞窟になっている。深さは2メートルほどあり、奥は広間のようになっている(写真は、中から外を覗いたもの。)。その昔、大船山か黒岳の山体が崩壊したとき、岩々が堆積し、その際、偶然にできたと思われる。外気に比べて内部は冷涼な温度となっていて、7月まで氷が残っている。

そこに看板がかかげられていて、「大正年間に蚕種を保存するための天然冷蔵庫として利用されました。」と説明が書いてある。これまでは「ふ~ん。」となんとなく飲み込んでいたのだが、こんかい諏訪の地元の人の説明で、その意味がよく分かった。

前回紹介した野麦街道の手前に稲核(いなこき)の集落がある。そこにも風穴がある。ここでもバス内のアナウンスでおなじような説明がある。その説明も「ふ~ん。」ぐらいの理解だった。

養蚕というのは、農家が桑を栽培し、蚕(カイコ)を育て、繭を生産する一連の営みのこと。その先、繭から生糸を繰りだし、生糸からシルクを作って販売するのが製糸紡績業である。

製糸紡績業のほうは、機械化され工業化されている。それに対し、養蚕業のほうは農家がやっているものだから、それほどの工夫もないものだと思っていた(失礼)。だがそうではない。

カイコの先祖は蛾の一種。それを人間が飼い慣らし家畜化したものである。カイコは500個ほどの卵を産む。卵は春に孵化する。孵化した幼虫は桑の葉を食べ、脱皮を繰り返し、やがて糸を吐き、繭をつくる。

自然の営みであれば、年に一度しか、繭から生糸をとることができない。ところが、ある人が工夫して、卵を風穴に入れて冷やし保存してみた。すると、孵化が遅れ、夏でも秋でも生糸がとれるようになった。

つまり、収量は3倍。これにより、日本の生糸の輸出は、最大の輸出産業にまで成長したという。なるほど。明治大正期、生糸が日本の輸出産業の雄ということは教科書に書いてあったが、そのような創意工夫があったことは知らなかったなぁ。

2023年10月13日金曜日

木曽駒ヶ岳、霧ヶ峰、乗鞍岳、美ヶ原(6)片倉館と野麦峠

 

 諏訪湖のほとりに昭和3年に建てられた立派な洋館が建っている(写真)。片倉館である。国の重要文化財。

いっけん役所ふうであるが、なかは温泉施設。深さ1.1メートルの1000人風呂で有名。このあたりでロケがおこなわれれば、かならず紹介される場所だ。上諏訪温泉群の中心的存在である。

われわれの会話。
「少女たちの生き血を吸って建てられたんやろうね。」
「たぶん、そうだね。」

この会話が読み解けるだろうか。ヒントはやはり諏訪湖のほとりに建てられているということだ。

むかし「あゝ野麦峠」という映画があった。森下愛子主演。山本茂実のノンフィクションが原作。同旨のものに『女工哀史』というルポルタージュもある。

明治・富国強兵政策の時代、岐阜県飛騨地方農家の10代の娘たちが、諏訪湖周辺の製糸工場で過酷な労働を強いられた姿を描く。

当時は労働基準法など労働者保護法制は存在しない。10代であっても少女たちは安価な労働力として死ぬほど(文字どおり)こき使われた。栄養も休養も感染症対策も十分でないことから、結核などの感染症がたちまち蔓延した。

長野県松本から上高地へ入る際、途中まで野麦街道となっている。奈川渡ダム(梓湖)のTころで分岐があり、左側へ登っていくと野麦峠である。これが原作・映画名にある峠である。北アルプスの乗鞍岳の南にある鞍部である。

いまなら飛騨高山から信州松本へ高速バスが運行している。長い長い安房トンネルが北アルプスを貫通し、岐阜県と長野県とを短時間で結んでいる。

しかし、ときは明治時代である。名古屋から迂回する鉄道便さえない。飛騨地方から諏訪地方へ行くには、北アルプスを越えていくしかない。峠越えは、装備も十分でない時代のことだから過酷。峠は女工たちの過酷な境遇を象徴する存在である。

片倉氏は、こうした製糸紡績事業により財をなし、片倉財閥を形成した。その事業のひとつが上記片倉館の建設である。

それで、「少女たちの生き血を吸って建てられたんだろうね」という感慨になる。むろん、こんな荒っぽいとりまとめをしたら、関係者から叱られることだろう。すみませぬ。

実際、地元の人の話をきくと、とても尊敬されているようだ。たしかに、料亭を借りあげ、芸者をかりあつめて飲めや歌えの大宴会を行い、あげくのはて玄関でお札を燃やしたという、どこぞの炭鉱王たちに比べたら、ずいぶん立派である。このような観光資源を残したのだから。

また片倉氏は、群馬にある富岡製糸場を買い取り、その存続・保存に尽くしたという。世界遺産に認定された後、富岡製糸場を訪ねたことがある。年輩の女性が糸繰りの様子を実演してくれたのが印象的だった。しかし、片岡氏の功績は知らなかった。

富岡製糸場は世界遺産となり、インバウンドを含むおおくの人を集めている。重要な観光資源として地元に貢献している。そうした恩恵を明治期の少女たちに還元してあげられればよいのだが。

2023年10月11日水曜日

最善を期待し、最悪に備える

 

  (那須朝日岳・冬期)

 この3連休期間中、各地で山岳遭難があいついだ。道迷い、転倒・滑落はもちろん、低体温症で亡くなった人が多かったのも目をひいた。なかでも那須朝日岳(標高1896m)で4人の方々が亡くなった遭難が大々的に報じられた。亡くなった方々のご冥福を祈りたい。

生存者がおられないので、遭難の原因・経緯はよく分からない。しかし報道によると、当日は20メートル以上の強烈な風が吹いていて、ロープウエイなどでは登山を控えるよう注意喚起をしていたようだ。

標高が1000メートルあがるにつれて気温は6度さがる。風速1メートルにつき、体感温度は1度さがる。那須高原で気温15度だとしても、朝日岳で風速20メートル吹かれると、体感温度は氷点下10度以下である。汗をかいて油断すると、低体温症の症状がすぐでてしまう。

実は自分もこの3連休中、東北の山旅を計画していた。秋田の森吉山、和賀岳、秋田駒ヶ岳を登る計画であった。

しかし連休2日前、東北では連休前半冷え込み強風が吹くことは予報されていた。そこで、やむなく初日と最終日(これは雨による)の登山はあきらめ、芭蕉の足跡をたどる観光に切り替えた(これは後に報告したい。)。

登山は、山という大自然を対象に、自己という変動する主体で臨むものである。対象も急激に変化していくし、自身の健康や体調も日々、時々刻々と変化していく。この両者の相関のなかで、時々の決断をしていかなければならない。

その場合に使う方略は、「最善を期待し、最悪に備える」ことだ。いまふうに言えば、プランBを用意しておくということか。

遠征登山は半年~数ヶ月前に計画し、交通機関や宿を手配することになる。数ヶ月先の天気などわかりっこない。そのため、計画をたてる際には、よい天候を期待しつつも、豪雨・暴風への備えも怠れない。したがって、山の計画とともに、観光・旅のプランも立てるようにしている。

最近の天気予報はすごい。このポイントでは明日の13時から3ミリ程度の雨が降り、北西の風5メートル程度などという予報がピタリと当たる。お金を出せば、そこまで正確な天気予報を入手することも可能だ。

一般には「天気と暮らす」(てんくら)で十分だ。「那須岳」×「天気」のキーワードで検索すれば、上位で表示されることだろう。明日、那須岳に登ることが適切かどうかを、3時間単位で、AないしCランクで判定してくれる。C判定となれば、迷いなく登山を断念して観光に切り替えるべきである。

一人登山であれば、あまり問題はない。しかし、グループ登山、ツアー登山となると方向転換が難しいだろうと思う。

ぼくもいままでグループ登山の際、台風接近により縦走を断念したことが一度ならずある。その場合、あとから考えれば行けたのではないかと後悔すること必定である。リスクが2~3割となれば断念することになる。

逆に言えば、7~8割の確率で行けるということである。つまり、「無理すれば」行けるということでもある。そこが難しい。

問題は、その旅の目的は何かである。ピークハントを目的にすると、無理に行ってしまいがちである。これに対し、家に無事に帰ることを目的にすれば、自ずと答えは導かれる。

今回の遭難報道に接し、上記のように思った次第である。自分になんかあったとき、このブログが引用されることのないよう、心したい。

※なお、山岳遭難対策、低体温症対策の教科書は『トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか』(ヤマケイ文庫)である。白馬岳で遭難した北九州グループなど低体温症で亡くなるときは全員が亡くなることが多く、原因や経緯がはっきりしないことが多い。しかし、トムラウシ山の遭難は、15人のツアーでガイドを含め8人が亡くなったものの、7人の生存者がいたため経緯が詳細に調査され、その原因と対策が考究されている。

※ブログを読んでいただいている方は気づかれたと思うが、きょうは常体である。ブログでは、常体と敬体とをむやみに混交しないほうがいいと言われる。ここしばらくは敬体で書いてきた。しかしやはり内容により常体のほうがよいときもある。

2023年10月10日火曜日

木曽駒ヶ岳、霧ヶ峰、乗鞍岳、美ヶ原(5)4日間で日本百名山4座

 

 この旅はまもなく結婚予定のカップルと私の3人の旅となってしまいました。計画段階では違うメンバー構成だったのだけれど、途中で1人が参加できなくなってしまい、その代わりに1人があらたに加わった結果、こうなったのでした。

むかし同じ事務所の迫田弁護士夫婦と屋久島の宮之浦岳に登ったことがありました。そのときは3人とも若かったせいか、同じ部屋で川の字になって寝たりして、疎外感はそれほどではありませんでした。

しかし、今回はさすがに年齢も離れていますし、新婚旅行に紛れ込んだおじゃま虫か、せいぜいが同行カメラマンという感じでした。ははは。

日本百名山といえば、その選択基準が①高さ、②歴史、③品格などとされており、一座登るのに2~3日かかるのが一般です。しかし今回はそこを工夫して4日間で4座登る計画をたてました。

登ったことのある人は分かると思いますが、深田久弥の時代はともかく、いまの時代はロープウエイやビーナスラインなど道路が整備され、4日間で4座を登ることは十分に可能です。

そして天気にもめぐまれました。やはり、ひごろの行いでしょうか。みなの体力もなんとかもって、無事、4日間で4座を登ることができました。2人も大感激、大満足の様子でした。感謝、感謝。

2023年10月5日木曜日

木曽駒ヶ岳、霧ヶ峰、乗鞍岳、美ヶ原(4)フォッサマグナ・糸魚川静岡構造線

 


 きょうは、諏訪湖で交差しているもうひとつの大断層、フォッサマグナの西端・糸魚川静岡構造線の話です。フォッサマグナは学校で習ったのではないかと思います。これもナウマンが発見したものです。

写真(奥の山並み)は霧ヶ峰からみた北アルプス。右側に槍ヶ岳、左側に穂高連峰、中央部の凹は大キレットです。

フォッサマグナの西端・糸魚川静岡構造線は、名前のとおり、日本海岸の糸魚川から太平洋岸の静岡までの大断層です。

フォッサマグナと糸魚川静岡構造線は、違う概念です。フォッサマグナは日本列島を中央で分断する大きな溝。線ではなく、三次元の凹です。

そこはむかしむかし海でした。その凹に新しい土砂がたまって、いまのように東北日本と西南日本がひとつの列島としてつながったのでした。あら不思議。

そのフォッサマグナの西端の大断層が糸魚川と静岡を結ぶ構造線となっているわけです。

これに対し、東の端がどこかについては議論があります。北は新潟県の柏崎か新発田あたり、南は千葉あたりのようです。とにかく日本列島の中央部に大きな溝が存在したことは争いがありません。

ただし土砂がたまっただけでは説明できないところがあります。フォッサマグナの中央部には、北から妙高山、黒姫山、八ヶ岳、冨士山、箱根、天城山などの山々が連なっているからです。これらはマグマの上昇によるものと説明されています。

日本列島は、大陸プレートと太平洋プレートとフィリピン海プレートという3つのプレートが出会う場所にあります。それらのプレートが互いにおしくらまんじゅうをした結果、いまのような列島になりました。

太平洋プレートが東側から、フィリピン海プレートが南側から大陸プレートの下に沈み込むことにより、日本列島にシワがよったり、マグマが噴き出したりしたというのです。

霧ヶ峰(エアコンの名前ではありません。諏訪湖の北に位置する百名山です。)の涼しい風に吹かれ、北アルプスの山々をながめながら、そのような雄大な日本列島のなりたちに思いをはせました。

2023年10月4日水曜日

木曽駒ヶ岳、霧ヶ峰、乗鞍岳、美ヶ原(3)中央構造線

 


 諏訪湖で交差するフォッサマグナ西端・糸魚川静岡構造線と中央構造線、どちらもナウマンが発見したものです。が、中央構造線のほうが古い時代の日本列島の傷です。なので、こちらから。

写真は中央アルプスの木曽駒ヶ岳に登った際、千畳敷カールの上部から伊那谷(駒ヶ根市あたり)をのぞんだときのものです。向こうの山脈は南アルプスです。その左肩のあたりに富士山が顔をだしています(写真をクリックして拡大しないと見えないかも)。

富士山の右に、南アルプス塩見岳、左に白根三山。白根三山は左から、北岳、間の岳、濃鳥岳です。

中央構造線は、この南アルプスの手前の山麓を通っています。

ナウマンは西南日本の地質調査をしていて、西南日本を縦断する大断層を発見しました。中央構造線です。中央構造線を境として、日本海側を内帯、太平洋側を外帯と呼びます。

研究者がみなそうだと言わなければ信じがたいことですが、日本列島はその昔、ユーラシア大陸の東の端の一部でした。それが太平洋に漂いだし(ひょっこりひょうたん島のように)、いまの位置に来たというのです。

中央構造線ができたのは、日本列島が大陸の一部だったころのことです。そのころも太平洋プレートが大陸プレートの下にもぐりこんでいたわけですが、その際、太平洋上に存在した島々などをつぎつぎに大陸に付けくわえました(付加体)。内帯と外帯で地質が異なるので、そこに大断層があることがわかるのです。

以前、四国の吉野川と和歌山の紀ノ川が中央構造線上にあると書きました。

https://www.google.com/maps/place/%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%B8%82/@34.1675541,134.3349377,139879m/data=!3m1!1e3!4m6!3m5!1s0x6000b28519bc7e79:0x8fce76d4fd4f71ca!8m2!3d34.2303678!4d135.1707405!16zL20vMGdwNWti?entry=ttu

中央構造線は紀ノ川にそって東へ向かい、伊勢から伊勢湾、渥美半島の北部を通って伊那谷(南アルプスと中央アルプスの間にある)に入っています。

むかし南アルプスの塩見岳に登った際、ふもとに大鹿村がありました。大鹿歌舞伎で有名なところです。村には中央構造線博物館があります。村は中央構造線上にあるのです。

そこから北上して、駒ヶ根市ふきんを通過し、さらに北の諏訪湖(正確には茅野)に至っています。

https://www.google.com/maps/place/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E6%B9%96/@35.3921221,137.8036806,194752m/data=!3m1!1e3!4m6!3m5!1s0x601c55605b0c35d5:0xcd199e65021b9b75!8m2!3d36.0492617!4d138.0853146!16zL20vMDczXzg1?entry=ttu

構造線は、諏訪湖のあたりで東西に12kmほどズレています。活断層の作用によります。これも日本列島が東側からおされて、構造線の北側が西にズレたものと推定されています。すごくないですか。

2023年10月3日火曜日

木曽駒ヶ岳、霧ヶ峰、乗鞍岳、美ヶ原(2)ナウマン


 ナウマンを直訳すると、イマジン?それとも、いまどきの人でしょうか。じつは明治期のお雇い外国人の一人です。

むかし子どもの絵本に『野尻湖のぞう』という絵本がありました。いまもあるのでしょうか。

野尻湖は長野県の北部、新潟県との境、黒姫山や妙高山に囲まれ、その麓にあります。妙高山に登った際、いちど訪ねたことがあります。

野尻湖はむかし日本に生息していたナウマン象の化石が出たことで有名。その事実は明治初期のお雇い外国人ナウマンが発見しました。だからナウマン象です。

ナウマンは明治初期、日本に地質学をもたらしました。来日したときは21歳。いまの大学3年生くらい。それでいて東大地質学教室の初代教授です。

NHK朝の連続ドラマ「らんまん」が終了しました。植物学教室と牧野富太郎博士の交流や確執がえがかれました。ドラマの緊張がたかまると、浜辺美波の愛くるしい笑顔が癒やしをあたえていました。

植物学教室と地質学教室はどのくらい離れていたのでしょうか。キャンパスでナウマンと牧野博士が顔をあわせ、ときには会話を交わしたこともあったかもしれませんね。

ナウマンは北海道を除く、本州、四国、九州を広範囲に調査し、その距離は全長1万キロメートルに及んだとか。

それまでの日本地図は伊能図で平板だったものに、等高線を書き入れたのもナウマン。並行して日本の地質を調査しました。

その結果、フォッサマグナや中央構造線の存在を発見しました。そして『日本列島の構造と起源について』を発表しています。

明治期の人たち、日本人であると外国人であるとを問わず、すごくないですか。牧野博士がドラマになるのであれば、ナウマンも是非ドラマにしてほしいです。

2023年10月2日月曜日

木曽駒ヶ岳、霧ヶ峰、乗鞍岳、美ヶ原(1)諏訪湖

 

 先週は投稿をお休みしました。すみませぬ。先々週末、木曽駒ヶ岳、霧ヶ峰、乗鞍岳、美ヶ原という日本百名山を4座登ってきたので、その間たまった仕事等に追われていたのでした。

きょうから、その報告。今回の旅のテーマはナウマンの偉業をたたえるです。

写真がどこかわかりますか。諏訪湖です。諏訪湖ときいただけでナウマンとのつながりがわかった人はなかなかの通ですね。

諏訪湖は、フォッサマグナの西端・糸魚川静岡構造線と中央構造線が交差する位置にあります。日本列島のヘソといってよいでしょう。今回の山行との関係でいえば、霧ヶ峰の山麓です。

たまたまそこに位置しているのではなく、中央高地の隆起活動と糸魚川静岡構造線の断層活動により地殻が引き裂かれてできた構造湖です。

このコースは以前にも経験したことがあるのですが、前回は諏訪湖をスルーしてしまいました。今回は、NHKジオ・ジャパンのシリーズにより日本列島のなりたちの理解が進んだので、是非、現地を訪ねてみようと思いました(八ヶ岳から遠望したことはありましたが)。

中央線の上諏訪駅を降ります。北側に改札口があるので、左折して線路沿いに行くと、さらに左折。線路をくぐると、むこうに諏訪湖が見えています。

モニュメントがあり、そこを抜けると諏訪湖の絶景が開けています。写真をみて、湖の向こう側の左手(諏訪湖南西側)には諏訪湖南岸断層群があります。同じく右手(諏訪湖北東側)には諏訪湖断層群があります。

湖を取り囲むように諏訪大社4社が位置しています。上社本宮、上社前宮、下社春宮、下社秋宮。諏訪大社は諏訪湖と密接な関係があるにもかかわらず、上社は諏訪湖からずいぶん離れたところに立っています。なぜでしょう。

諏訪湖には流入する河川がたくさんあるにもかかわらず、流出する河川は南西側の天竜川しかありません。土砂の堆積が進み、年々、面積が縮小しています。そのため、上社は離れたとこにあるのだとか。むかしは湖面に近く建てられていたそう。ごらんのとおり、写真でも湖面の縮小を実感することができます。

2023年9月22日金曜日

血液型B


 顧問会社のA社長がSNSに投稿していた。内容は、他の人が投稿したTik Tok動画の引用。

動画のテーマは、血液型B型の人と長くつきあう利点。1週間つきあうと、世界が広がる。1か月つきあうと、いろんな視点がもてるようになる。1年つきあうと、趣味や関心が増える。3年つきあうと、忍耐力が増す。・・・

B型の人とおぼしき人たちが、たくさんのコメントを寄せている。「初めて誉められた。」「そうか、俺にもいいところあるじゃん。」などなど。

A社長もおそらくB型で、これらコメントに賛同して、この動画を引用したものと思われる(A社長なのにB型)。

しかし「ちょっと待てよ。」(例のキムタクふうに)そんなに手放しで喜んで良いのだろうか。

果たして、この動画はB型の人の性格を誉めているのだろうか。疑問。やはりそこで描かれているB型の性格は、「自己中心で、その時その時の関心に応じて自由に生きている。」ということではないのだろうか。

そういう性格のB型の人と「長くつきあうことができれば」、そりゃ、世界が広がるし、いろんな視点がもてるようになるし、趣味や関心も増え、忍耐力も増すだろう。納得。

この議論は我妻・有地先生のダットサンを思い出させる。受験生の友、膨大な民法を最小限の労力で読破できるのがダットサンだ(それでも3冊。普通は総則、物件、債権総論、債権各論、親族・相続の5冊。)。コンパクトなのに滋味あふれる文章であった。

我妻・有地先生は親族編の夫婦のところで、こう書かれていた。夫婦というのは、川に網を張って魚を捕るようなものだ。網の幅が狭ければ、安定するかわりに、捕れる魚の量はすくない。他方、幅が広ければ、不安定になるかわりに、捕れる魚の量は多い。

似たもの夫婦は、仲がよいかわりに、新しい景色をみることが少ない。性格が真反対な夫婦は、しょっちゅう喧嘩(いよいよとなれば離婚)しているかもしれないが、新しい景色・体験をすることが多い。ということだ。なるほど。

夫婦とまでいかずとも、友人、同僚についても同じことが言えよう。

この動画は人への対しかた、褒め方の点でも参考になる。「あんたは自己中だから、つきあいにくいねぇ。」などと言うなかれ。「あなたと長く付き合ったおかげで、いろんな世界をみせてもらえたねぇ。感謝感謝。」というべし。

追伸1。わが事務所の採用面接では血液型を訊くことが伝統。もちろんジョークなのだが、さいきんではハラスメントの臭いがしないではない。

追伸2。旧来の占いふうの関係ありという説に対し、血液型と性格は無関係という説あり。前者について、科学的な装いを新たにした説もあり。人類はもともとO型から出発し(だから、おおらかな性格)、農耕をはじめた人からA型が(だから、几帳面な性格)、狩猟をはじめた人からB型が(だから自由奔放な性格)それぞれ派生し、AB型の出現はAとBのミックスによるものだから新しい(だから、複雑な性格)など。

追伸3。血液型は感染症への強弱や自己免疫疾患へのかかりやすさと関係しているという説あり。ABO型の分類は抗原抗体反応によるもののようだから、この説は科学的根拠がありそう。

2023年9月21日木曜日

アクティビティ共同体

 


 軽い運動をまいにち一緒にやりましょう。というグループに入れてもらった。すこしは運動ができるやつとみこまれたのだろうか。

アプリを使って、自身はもちろん、メンバー全員の運動量や達成状況がわかる。一定の運動量に達すると達成ありで、クジをおこなったうえで、景品がでる。

運動を継続すると、健康、睡眠などにもよい影響があるなどと情報も提供される。

一緒に運動といっても、アナログに集まる必要はない。デジタルでつながっているだけだ。一人だといちばんの壁になりそうなアプリの操作方法も、SNSを通じて教えてもらえる。

運動をしたほうがよいと分かっていても、モチベーションの波が壁になる。ある日、体調と気分がよいときがあり、思い立って、ジョギングをはじめる。しかし1週間~1か月くらいしか続かない。仕事の都合や飲み会つづき、雨降りがつづいたり、体調・気分不良の日もあるから。

運動の継続は克己心だけではダメだ。少なくとも自前の克己心では。世の中にはとても強い克己心をお持ちのかたがたもいらっしゃるが。

司法試験の受験期、2年間ほどジョギングが続いたことがあった。このときは受験仲間・先輩といっしょに走ることができたため、長続きできた。

その後、何度か、断続的に運動をしているが、なかなかに続かない。つづいているのは、グループで楽しんでいるものにかぎられる。仲間とやると、互いに励まし合ったり、牽制が働いたりして長続きする。

今回は、運動仲間、アプリ、運動量と達成が目に見える、ゆるやか、歩き、達成感、クジ、景品などモチベーションを支援する道具立てがそろっている。さてどこまで続きますか。

2023年9月20日水曜日

月は隈なきをのみ見るものかは

 


 NHK BSで「絶景にっぽん月の夜」をやっていた。案内役は橋本マナミ。いわく。世界で類をみないほど月を愛してきた日本人。上弦の月、十六夜、立待月、眉月など、四季や月日の移ろいに合わせた月の名は数知れず。そんな月との営みは今も全国に残っている。三日月信仰、徹夜踊り、屋久島の夜・・・。夜の日本を旅して〝月の愛で方”を探る。

世界で類をみないほど月を「愛してきた」日本人。というけれども、現代日本人のうちどれほどの人が月を愛しているだろうか。

白楽天の詩に「雪月花時最憶君(雪月花の時 最も君を憶ふ)」とあり、われわれ日本人は雪月花を最も美しいとおもい、愛してきたとされる。しかし自身、雪と花の愛し方に対し月はやや比重が劣るような気がする。

芭蕉などは長い旅をして月見を楽しんでいる。鹿島紀行や更科紀行である。前者は江戸深川から茨城県の鹿島まで出かけて月見を試みている。後者は美濃から信州更科(姨捨山)まで旅をして月見を試みている。どちらも当時、月見の名所である。

対するわれわれはどうだろう?花見をするために弘前、高遠や吉野へ出かける。雪を見るために、蔵王、八甲田や八ヶ岳、北アルプスに出かける。しかし月見をするために遠出を計画することはない。生活様式の変化なのか、嗜好の変化なのか。それとも個人的な趣味の問題か。

ところで、「絶景にっぽん月の夜」では、〝月の愛で方”として兼好法師の言葉を引用していた。いわく。「月は隈なきをのみ見るものかは。」。せっかくだから『徒然草』第137段全文を引用してみよう(角川ソフィア文庫から)。

 花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころ多けれ。歌の詞書にも、「花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ」とも、「障ることありてまからで」なども書けるは、「花を見て」といへるに劣れることかは。花の散り、月の傾くを慕ふ習ひはさることなれど、殊にかたくななる人ぞ、「この枝かの枝散りにけり。今は見どころなし」など言ふめる。

なるほど。すばらしい。おっしゃるとおり。このような感覚はいまなおわれわれにも脈々と受け継がれている。

書棚から先の『徒然草』をひっぱりだそうとしていたら、『源氏物語(二)』のオビに目がいった。いわく。「朧月夜に似るものぞなき」。

歌宴にて、源氏が朧月夜の君を愛するきっかけになった。もとは大江千里の和歌。

 照りもせず曇りも果てぬ春の夜の 朧月夜に似るものぞなき

これも「隈なき月より朧月でしょ」ということだから、兼好法師の言うところと同じ意味だろう。というより、大江千里、紫式部のほうが先行しているので、兼好の趣向は彼らに学んだものというべきか。

すこし時代がさがって芭蕉の『野ざらし紀行』にも次の句がある。

 関こゆる日は雨降て、山皆雲にかくれたり。

 霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き

これは間違いなく『徒然草』に学んだものだろう。「雨に対ひて月を恋ひ」、そしてまた富士を恋ふ。

さらにずっと時代が下って、次のような文章もある。

 山でご来光を拝めたときの感激はひとしおだ。とにかく幸せな気持ちになる。太古、人類は恐ろしくて長い夜をすごし、日の出を心待ちにしていただろう。日が昇ったときの幸せは生存に直結した根源的なものだったろう。われわれのDNAにはそれが刻みこまれている。
 ご来光が拝めるかどうは、お天気の気まぐれ。曇ればダメだし、まったく雲がないのも風情がない。うまいぐあいに雲がかかるのが大切なのだ。夜明け前に茜色に染まる空を東雲と呼ぶのは意義深い。・・

どこで読んだんだったっけ?

2023年9月19日火曜日

ぬいぐるみの運命

 


 顧問先の社長からたくさんの「ぬいぐるみ」をいただいた。クレーンゲームが好きで、あちこちのゲームセンターを荒らしているらしい(笑)。

あまりにもたいさんいただいたので、うちの孫だけでなく、秘書さんたちともわけさせていただいた。

秘書さんの子どもがぬいぐるみを抱きしめて寝ている画像がラインに送られてきた。うちの孫もぬいぐるみを抱きしめて寝ている写真があったので、それを送り返した。

すると、それに対する秘書さんのコメントは「ぬいぐるみの運命」だった。これはちょっと意外だった。自分ならまず思いつかないコメントである。秘書さんはなぜ、このようなコメントを書いたのだろうか。

そのような見解に触れたことはないのであるが、ぬいぐるみは自立への一里塚、自立への杖だと思う。生まれてからしばらく子どもは母親にべったりと依存している。母子一体。

やがて、ぬいぐるみが大好きに。いつも引き連れてまわるようになり、夜は一緒に抱きしめて寝るようになる。そしてそのうちぬいぐるみがなくても独り寝ができるようになる。このような発達段階をなしているのではなかろうか。

弁護士をしていると、自立に失敗し、なにかに依存している方々に接する機会が多い。覚醒剤や大麻等の違法薬物、パチンコ等のギャンブル、アルコール・飲酒。いずれもやっかいな対象に依存されている。

子ども時代をやり直せるのなら、彼ら彼女らにぬいぐるみを差し上げたい。そうして、うまく自立への道を歩んでほしいと願う。

話変わって、どこかで書いた気がするが、映画『ニュー・シネマ・パラダイス』。中年の映画監督が、映画に魅せられた少年時代の経験と青春時代の恋愛を回想するストーリー。少年のワクワクドキドキ感がすばらしい。各所にちりばめられた名言もよいし、背景を流れる音楽もすばらしい。

もちろん、映画の主役は、映画監督である。冒頭からその監督が出てくるし、少年時代も、青年時代もその監督の若いころである。映画を見る者、その監督に感情移入するよう作られている。

ところがである。息子さんがいらっしゃる別の秘書さんとこの映画のことを話し合ったとき。彼女は、監督の母親に感情移入してしまうという。

なるほど。たとえ、この映画を作った人が映画監督を主人公とし、彼に感情移入するように作ったとしても、観るほうの立場の磁力が強ければ、そちらに引き寄せられて感情移入してしまうということも十分にありうるわけだ。

さて、ぬいぐるみの話。子どもがぬいぐるみを抱きしめて寝ているところを見れば、ふつう幸せな夢でも見ているのだろうなと子どもの立場になって考えるものだと思っていた。

しかし日々子育てに追われる母親からすれば、ぬいぐるみのほうに感情移入してしまうこともあるのかもしれない。それが「ぬいぐるみの運命」。

2023年9月15日金曜日

足利尊氏と九州(3)少弐と菊池と合戦の事(つづき)

 

 『太平記』第15巻「少弐と菊池と合戦の事」のつづき。

 菊池は、手合はせの合戦に打ち勝って、門出よしと思ひければ、やがてその勢を卒ゐて、少弐入道妙恵が縦籠もりたる内山城へぞ寄せたりける。妙恵は、宗と軍をもしつべき郎等をば、皆子息頼尚に付けて、将軍へ参らせつ。阿瀬籠豊前は水木の渡にて討たれつ。城に残る勢、わづかに2百人にも足らざりければ、菊池が大勢に立て合わせて、合戦しつべき様もなかりけり、されども、城の要害よかりければ、切岸の下に敵を見下ろして、防き戦ふ事数日に及べり。

※少弐入道妙恵は、少弐貞経。後醍醐天皇の倒幕運動に参加して、鎮西探題を攻撃した。尊氏が離反すると、息子の頼尚とともに尊氏に付いた。

※内山城(有智山城)は、太宰府天満宮さらには竈門神社の奥・宝満山の麓に、いま堀と土手だけが残る。スギ・ヒノキの木立と藪におおわれている。「要害」とはいえないように思う。

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 菊池、荒手を替へて、夜昼十方より攻めけれども、城中には、兵未だ討たれる者も少なく、矢種も未だ尽きざりければ、今4,5日が間は、いかに攻むるとも落とされじmのをと思ひける処に、少弐入道が聟に、原田対馬守と云ひける者、俄かに心替はりして、攻めの城に引き上がり、中黒の旗を挙げて、「それがしは、聊か所望の候ふ間、宮方へ参り候ふなり。御同心候ぶべしや」と、舅の入道のもとへ使ひをぞ立てたりける。妙恵、これを聞いて、一言の返事にも及ばず、「苟も生きて義なからんよりは、死して名を残さんには如かじ」と云ひて、持仏堂へ走り入り、腹掻き切って臥しにけり。これを見て、家子郎等162人、堂の大庭に並び居て、同音にゑい声を出だして、一度に腹を切る。その声天に響いて、非想非々想天まで聞こえやすらんとおびただし。

※貞経は多勢に対し奮戦したが、味方の裏切りにあって全員玉砕。原田対馬守は、いまの筑紫野市原田在の武士。聟が舅を裏切る話はむかしからあったようで。娘は身の置き所がなかったろう。

※このあたりで籠城・玉砕といえば、戦国末期の岩屋城の戦いのほうが有名。岩屋城には大友方の高橋紹運ら763人が立てこもり、北上を続ける島津方2万と戦い玉砕した。岩屋城のほうは子孫が柳川立花藩として永続したせいか、いまも四王寺山の一画にきれいに整備されている。

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※生きて義なからんよりは、死して名を残さん。義か死か、むずかしい選択だ。貞経は死を選んで、望みどおり名が残った。

 (引用はやはり岩波文庫『太平記』から)

2023年9月14日木曜日

ある認知請求事件

 

 ある母から認知請求事件の依頼を受けた。認知とは親子関係があることを役所に届け出ることだ。認知心理学とかいう場合の認知とはすこし違う。

認知請求事件の依頼人は、基本的に未婚の母だ。結婚していれば嫡出の推定が働く(民法772条)。すなわち、妻が婚姻中に懐胎した子は夫の子と推定される。

父のほうは、妻に請求する必要はない。自分で役所に届け出ればよい。かくて認知請求は、未婚の母から父に対する請求という形をとる。

親子関係が確認されれば、養育費の支払義務等が発生するので、任意には応じない父もいる。

その場合、家庭内のことであるから、まず家庭裁判所へ調停を申し立てることになる。いわゆる調停前置である。

父が調停に応じてくれればよいが、父子関係を否認された場合、訴えを起こし、鑑定が必要になる。鑑定とは特別の知識・経験に基づく専門家の判定である。

ぼくが弁護士になったのは1986年だけれども、そのころは血液のABO型や父子が似ているかどうかというアバウトな鑑定だった(ドラマなどでも、父子じゃないという場面の根拠はたいがい血液型の違いだった。)。

しかしそれ以降、親子関係の鑑定技術は急速に発達した。いわゆるDNA鑑定である。それが日常実務レベルで使えるようにまでなったのである。

ワトソンとクリックが遺伝子(DNA)の二重らせん構造を発表したのが1953年。高校の教科書に掲載されたDNAのX線解析写真は2次元の対称的な斑点模様にすぎず、この映像からよく二重らせん構造に思い至ったものだと感心した。

2002年以降薬害肝炎裁判に取り組んだけれども、C型肝炎ウイルスが同定されたのは1989年である。それまで非A非B型肝炎とされていた。A型でもB型でもない肝炎という背理法のような定義であった。それが遺伝子レベルで同定できるようになったのである。

DNA鑑定が刑事事件に導入されたのが1991年。PCR法だ。そのころ以降、民事・家事事件にも順次DNA鑑定が導入された記憶だ。ただ当時は1件50万円くらい費用がかかったのではないかと思う。

ある議員さんから、故人のDNA鑑定ができるかどうか相談されたこともあった。遺髪を探してもらったけれども、DNA鑑定まではできなかった。

いまやドラッグストアの前を歩いていると、新型コロナのウイルス検査が1800円くらいでできるとうたっている。あれも立派な遺伝子検査だ。ただし、ウイルスなので、DNAではなくRNA検査である。安い。隔世の感とはこのことだ。

肝心の親子DNA鑑定の費用はというと、19,800円(ネット情報)。これまた安い。

https://seedna.co.jp/?utm_source=google&utm_medium=cpc&utm_campaign=dnatest&utm_content=cost&network=google_g&placement=&keyword=%E8%A6%AA%E5%AD%90%20%E9%91%91%E5%AE%9A%20%E8%B2%BB%E7%94%A8&device=&gad=1&gclid=CjwKCAjwu4WoBhBkEiwAojNdXote43J0ictQy8elJCR08QSGZ6Qz_u9IB-RucXLxKNkf2D6Ksa8ObhoCuVYQAvD_BwE

近時、婚姻関係でさえも不安定だ。3組に1組は離婚している。残る2組のうち1組も仲が悪い。SNSやマッチングアプリで知りあい、結婚。離婚相談の際、相手の親のことを尋ねると、会ったこともないという。2人の愛以外に結婚を支えるものがなにもない状態だ。

ましてや、婚姻関係のない父子関係を確認することに、どれだけの意味があるのか不安を覚える。でもやるしかない。認知された子どもの将来がすこしでもよいものになることを祈りつつ。