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2024年2月14日水曜日

~からの、萬福寺

 



 三室戸寺の門前まで戻る。さてつぎはどこへ行こうか。宇治というからにはやはり平等院鳳凰堂かと思いつつ坂をくだっていると、「右手2km萬福寺」という看板がでていた。

そうかよし、萬福寺へ行こう。きょうだったら源氏物語ミュージアムに確定だっただろう。しかし、そもそもこの旅のはじめを思い出してほしい。といっても覚えていないと思うのでURLを貼り付ける。

 http://blog.chikushi-lo.jp/2023/12/blog-post_15.html 

そう、旅のはじまりは京都国立博物館「東福寺展」なのである。そこではじめて禅宗とは何かについて体系的に学んだ気がした。

教科書で学んだ知識や美術書で書かれていたことなど、いままでバラバラだった知識が一定のまとまりをみせた。

禅宗は釈迦から28代目の弟子である達磨(ダルマ)がこれを開いた。そこからさらに脈々と高弟がつづき、臨済義玄が臨済宗を、曹山本寂と洞山良价が曹洞宗を開いた。それぞれ悟りに至る途、修行の仕方が異なる。

これは教科書に書かれていたと思うが、日本の禅宗は臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の3宗である。といっても、黄檗宗は臨済宗の一派である。

前2者は鎌倉時代に栄西、道元により伝えられ、後者は江戸時代、隠元により伝えられた。隠元は中国・明時代の人である。

などということが頭のなかをめぐり、萬福寺に向かうことにした。歩きである。途中、茶畑が広がっていた。もちろん宇治茶である。インゲンマメ畑は見受けられなかった。

萬福寺は、江戸時代、中国人(福建省)の隠元により伝えられたせいか、長崎にある崇福寺や興福寺などに似ている。極彩色で、いささか派手な印象。

そう思ったのはランタンフェスティバルの最中だったことも影響している(二枚目の写真の右手にランタンの一部が見えている。)。自転車に乗ったおばあちゃんが「夜来たほうがいいのに。」と言ってすぎさっていった。そうか、悟りへの途は遠い。

2024年2月8日木曜日

~からの、二条城


(正門・東大手門)
(唐門)
(二の丸御殿)
(二の丸庭園)
(清流園・和楽庵から香雲亭方面)

(本丸天守閣跡から比叡山方面)
 六角堂からどこへ向かうか。考えたが、二条城にすることにした。この日の午前、市内をぐるぐるしたのは昼に人と会う約束があったから。

烏丸御池から地下鉄東西線で二条城前へ。押小路通を渡り、すこし上ると東大手門。

現存する二条城は徳川家康がつくったもの(もちろん、その後いろいろと手がはいっている。)。京都御所・洛中の守護等の目的(名目?)で。そのため、京都御所の裏鬼門に立地し、本門も京都御所側に向いている。

二条城を空から俯瞰すると、回の字になっている。中側の口のなかが本丸、本丸と外側の口との間が二の丸である。東大手門を入城すると、二の丸の東側。

二の丸の東側を南→東へ歩くと、北に唐門。門をくぐると、二の丸御殿(国宝)。二の丸御殿はとくに、徳川将軍が偉大に・訪問者が卑小に感じられるように、様々な工夫がなされている。狩野派の障壁画が龍虎や牡丹等の図柄でそれをこれでもかと表現している。

しかし、・・・家康からずっとくだって慶応3年(1867年)、徳川慶喜は、二条城二の丸御殿にて大政奉還。日本史の教科書に図入りで出てきた場面だ。こうして明治になって、皇室の離宮となったので、正式名称は元離宮二条城。

内部は残念ながら撮影禁止なので、お庭からの写真。手前の大きな建物が大広間、左手奥が黒書院。大政奉還が行われた歴史的舞台だ。

二の丸庭園(特別名勝)は別名「八陣の庭」。重森三玲作の岸和田城の庭と同じ名前だが、はるかにスケールが大きいし、趣向もちがう。小堀遠州の代表作といわれ、桃山様式の池泉回遊式庭園。

池に島が浮かび、蓬莱島や鶴亀の意匠がデザインされていて、徳川家の健勝と永遠の繁栄が祈念されている。これほどの願いもむなしく(相当の長期政権ではあったが)、徳川家は先の大政奉還を余儀なくされた。

今年の元旦は、元旦であるだけでなく、一粒万倍日でもあり大赦日でもあった。今年はよい一年になりますようにと皆願ったが、正月早々、大地震や大事故に見舞われた。自然や災害のまえで無力であることをあらためて意識させられた。平穏と健勝を願いつつも、日々あることに感謝しつつ謙虚に生きるほかあるまい。

本丸に入り、天守閣跡に登る。高いところとあれば、登らざるをえない。天気は快晴。京都の街が一望できた。東北=牛寅=鬼門の方角を望むと、東山三十六峰の北鎮に比叡山を遠望することができた。きょうも延暦寺が仏法の力(鬼滅の刃)で、鬼からわれわれの生活を守ってくれていることだろう。

2024年2月7日水曜日

~からの、六角堂(頂法寺)


(右は縁結びの六角柳)
(右手の柱に華道発祥の地とある)
(池坊会館) 
 革堂をあとにし、歩いて六角堂(頂法寺)をめざす。まずは寺町通を(南へ)下る。両側に古美術店が軒を連ねている。どこも開店前だ。

夷川通をすぎると、右手(西側)に藤原定家・京極邸跡碑がひっそりとある。嵯峨野で小倉山山荘跡を訪ねる機会はすくなくないが、京極邸を訪ねることはまれ(ところが調べてみると一条京極第跡がほんとうらしい。)。

二条通で右折、西入る。東洞院通で左折して下る。御池通を渡り、中京郵便局をすぎると六角通に到達する。右折、西入ればまもなく六角堂だ。京都の路は分かりやすい。思いがけぬところにでてしまって道に迷うことはない。

本尊は如意輪観音(秘仏)。縁起によれば、聖徳太子ゆらいの如意輪観音で、境内には太子沐浴の古跡や太子堂などゆかりの史跡がある。その真偽はともかく、「光る君へ」の時代までさがれば『御堂関白記』や『小右記』に関係する記述がでてくる。

そして花山院も巡拝した観音霊場。西国三十三所第18番札所。『小右記』の著者・ロバート秋山こと藤原実資も、熱心に参詣したようだ。

華道、池坊の発祥の地としても知られている。太子の命により小野妹子が入道し仏前に花を供えたことが由来、その寺坊が池のほとりにあったことから池坊なのだとか(近世以降)。境内(裏)に池坊の本部ビルがある。

本堂まえの「へそ石」は京都の臍だそう。革堂とおなじく、街中にあるお寺として独特の雰囲気をかもしている。宗教としての超越性はとぼしいが、衆生のなかにあって慣れ親しまれてきた感がつよい。

2024年2月6日火曜日

~からの、革堂行願寺

 




 思いは石山寺にとんだけれども、身はいまだ近江神宮。からくれないの紅葉が美しい。

ところで、あのかるた漫画のタイトルはなぜ『ちはやふる』なのか。漫画のタイトルなので『秋の田の』ではいまいちなことはわかるが・・・。

ちはやふるといえば、むかしおとこ在原業平の百人一首歌が思い浮かぶ。

 ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは 在原業平

 (荒々しい神々の時代でも聞いたことないぜ、竜田川がこんなに唐紅色に水くくるなんて)

ちはやぶるに訳してみたが、ちはやぶるは神にかかる枕詞、勢いが激しいという意味。漫画『ちはやふる』は、ちはやぶるの意味を主人公たちが知り表現し尽くしていくものがたりなのだそう。

かるたの聖地を訪れただけではちはやぶるの意味を知り尽くすことはできなかったが、その日は時間切れ。ホテルに戻る。

窓から京都駅や稲荷山が見えている。深草少将が小野小町のもとへ通ったという道はあのあたりだろうか。

 花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに 小野小町

わが見窓からながめせしまにマジックアワーの色はうつりにけりて、いなり山に日が昇った。

この日の行動はまず革堂(こうどう)行願寺へ。地下鉄で丸太町まで、あとは歩いて行く。そして世界平和を願う。早朝の冷涼な空気が気持ちをひきしめる。尼寺。本尊は千手観音。

九州出身の行円が創建。かれはもと猟師。鹿を射殺したところ、腹から子鹿がうまれるのを見、殺生の非を悟って仏門へ。その後も鹿革をまとっていたことから革聖と呼ばれ、寺の名も革堂に。日本の洗礼者ヨハネといったところ。

西国三十三所第19番札所。西国三十三所は観音巡礼。観音菩薩が衆生を救うとき33の姿に変化することから。その功徳にあずかるため三十三の霊場を巡拝する。コンプリートすると、あらゆる罪業が消滅し、極楽往生できる。

きのうも登場した花山院が那智山で参籠していたところ、熊野権現が示現し、その指示で三十三霊場を巡礼したことから、やがて人々にも広まっていったという。

2023年12月27日水曜日

~からの、幻住庵

 




 石山駅に戻る。石山駅からはバスで幻住庵(跡)へ。幻住庵(菴)は、おくのほそ道の旅を終えた翌年、芭蕉が仮住まいをしたところ。

「幻住菴記」という俳文がある。もっともすぐれた俳文であると評価が高い。芭蕉が仮住まいをした当時の様子が詳細に書かれている。

石山駅の南には紫式部が『源氏物語』を執筆したという石山寺がある。そのやや西側にあるのが国分山である。国分というのはその昔、聖武天皇が国分寺を建立したことに由来する。幻住庵はその麓にある。

 石山の奥、岩間のうしろに山有、国分山と云。そのかみ国分寺の名を伝ふるなるべし。

バスを降り山手の坂を登ると、近津尾八幡宮がある。

・・・麓に細き流を渡りて、翠微に登る事三曲二百歩にして、八幡宮たゝせたまふ。

もちろんいまは神仏分離であろうが、芭蕉の時代は習合していたようである。

・・・身体は弥陀の尊像とかや、・・・両部光を和げ、利益の塵を同じふしたまふも又貴し。

八幡宮の横に幻住庵跡がある。芭蕉の時代すでにかなりいたんでいたようであるから、いまは残っていない(いまある建物は平成3年に再建したもの。)。

・・・日比は人の詣ざりければ、いとゞ神さび物しづかなる傍に、住捨し草の戸有。よもぎ・根笹軒をかこみ、屋ねもり壁落て、狐狸ふしどを得たり。幻住菴と云。

あまりに美文なので全文紹介したいところだが、そろそろ仕事に戻らねばならないので、以下ずっと省略して、末尾の句。

 先たのむ椎の木も有夏木立(まづたのむしひのきもありなつこだち)

幻住庵跡の横には大きな椎の木があり、当時のものであると説明されている。樹齢400年というにはやや疑問が残るが、そのロマンにあやかることにしよう。

この句の句碑はわが久留米城跡にもある。なぜだろうか。以下のくだりと関係があるかもしれない。

 ・・・さるを、筑紫高良山の僧正は・・此たび洛にのぼりいまそかりけるを、ある人をして額を乞。いちやすやすと筆を染て、幻住菴の三字を送らる。頓て草菴の記念となしぬ。

椎の木は冬でも葉が落ちない常緑広葉樹・照葉樹である。冬でも葉が落ちない縄文的な生命力は頼みとするに足りるであろう。

さてみなさま、今年も日本各地の山々や里々へ旅をすることができました。これも一重にみなさまのご愛顧によるものと思います。ありがとうございました。よき新年をお迎えください。

2023年12月26日火曜日

MIHO MUSEUM(2)

 




 常設コレクションには、エジプト、メソポタミア、ギリシア、ヘレニズム、ローマ、イラン、トルコ、ガンダーラ、中国、日本など幅広い地域と時代にわたる優品2000点以上が含まれている。

感心したのは解説の面白さだ。世界史の教科書だと、政治史中心となっているので、文化・美術や宗教の記述は最後に添え物のように書かれている。そのため相互の影響やつながりが分からない。

ここでは文化・美術や宗教を中心として(あたりまえだが)、発生・流通・交流の視点から解説されているのが面白い。エジプト、メソポタミア、インド、中国における文化・宗教の発生から地域を越えた壮大な交流と独自性の発揮について学ぶことができた。

学芸員の優秀さだろうか。歴代館長も梅原猛氏、辻惟雄氏らそうそうたる顔ぶれだ。

こちら側も目が肥えてきたせいもあるかもしれない。最近は岡山市立オリエント美術館でオリエント美術の流れを、九博「アールヌーヴォーのガラス展」ではガラスという素材を使った工芸品に関する古代エジプト以来の歴史を学んだばかりだから。

きのうきょうとMIHO MUSEUMの訪問記を読んでいただいたみなさま、気になるのは本館の宗教臭さではないだろうか。ぼくも訪問前は気になった。でも現地ではあまり気にならなかった。

宗教臭というのは、考えてみれば「新興宗教臭」あるいは「宗教の押しつけに対する警戒感」のことではないだろうか。なぜなら、京都や奈良に行けば神社・仏閣、仏像・神像だらけなのに、それほど宗教臭を気にしないからである。

本館のコンセプトは「美術を通して、世の中を美しく、平和に、楽しいものに」。それを裏切らない印象だった(注:館からは1円もいただいておりません。)。

2023年12月25日月曜日

MIHO MUSEUM(1)

 





 翌日は朝一でMIHO MUSEUMへ。JR石山駅でおり、そこからはバスで1時間。MUSEUMは信楽の郊外山中にある。

バスを降りて、しばらく歩くとレセプション棟、そこからさらに歩く。トンネルを抜けると、巨大な橋がかかっている。橋をわたるとようやくミュージアムだ。このアプローチは現代の桃源郷と題され、土木学会デザイン賞を受賞している。

建築家イオ.ミン.ペイ氏の設計。同氏はルーブル美術館のガラスのピラミッドの設計者として知られる。そいういわれれば似ている。「光こそ鍵」がテーマ。建築容積の8割は地中にある。

MIHO は小山美秀子(みほこ)氏のコレクションだから。同氏は宗教法人神慈秀明会(きのうの泉屋博古館のお隣)の会主。同会は世界救世教から分立。

同美術館の収蔵品が個人のコレクションであったことに驚かされる。「美術を通して、世の中を美しく、平和に、楽しいものに」がコンセプト。

ソフィー・リチャード著『フランス人がときめいた日本の美術館』(集英社インターナショナル)で紹介されているので、いちどは訪れたいと思っていた。

まずは特別展「金峯山の遺宝と神仏」へ。金峯山は吉野にある。古代より修験道の聖域とされてきた。きのう聖護院でなりたちを再確認したところだ。

修験道は役行者が創始。金峯山で蔵王権現を感得したという。権現は仏・菩薩が人々を救うため仮の姿をとって現れること(権とは仮という意味)。いわゆる本地垂迹説、日本の神は仏の仮の姿という考えから。

なかでも蔵王権現は、釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩の三尊が合体したものであるから、すごい救済パワーの持ち主である。修験道の本尊。金峯山寺本堂の本尊。

平安貴族は競って金峯山参詣を繰り返した。あの藤原道長はその代表である。その跡が経塚遺物として発掘され、展示されていた。

 この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたるところもなしと思へば

と歌った道長であったが、心中の不安や神仏へすがりたい気持ちはかれにしても、光源氏(光る君)とおなじくあったようである。

2023年12月22日金曜日

~からの、南禅寺

  

 泉屋博古堂は下れば永観堂・南禅寺だし、上れば銀閣寺である。東山観光寺院は人が多くて避けたいところだが、このまま東へむかえば比叡山か大文字山に登ってしまう。宿は京都駅南だったので、南禅寺へ向かった。

途中、永観堂前には列ができ、風情もへったくれもなかった。人混みをおしわけながら、南禅寺についた。

法堂方面は人が多かったので、三門にのぼって済ますことにした。晩秋(初冬?)の京都が一望のもとに見渡すことができた。

絶景かな絶景かな。石川五右衛門でないけれども、満開の桜ではないけれども、ためいきがもれた。

2023年12月21日木曜日

~からの、泉屋博古館<京都・鹿ケ谷>

 

 聖護院をでて、春日北通を東へむかう。浄土宗大本山・くろ谷 金戒光明寺の高麗門にぶつかる。南に下り、丸太町通を東へ向かう。鹿ケ谷通とのT字路に住友関係の施設が並ぶ。

きょうの行先は泉屋博古館(せんおくはくこかん)。T字路の北西角にある。なお、その北西には神慈秀明会がある(あす行くところと関係がある。)。

泉屋は江戸時代における住友家の屋号。博古は中国宋時代に皇帝の命により編纂された青銅器図録の名前から。

泉谷博古館は東洋美術館。住友家から寄贈された中国古代青銅器が目玉のコレクション。住友家は別子銅山の開発など銅と深い関係がある。代々、青銅器を収集したのには稼業と関連があるのだろう。

青銅器だけでなく絵画等も収集し、国宝2点を収蔵している。1点は中国南宋時代の絵画「絹本著色秋野牧牛図」。もう1点は12世紀平安時代の銅鏡「線刻釈迦三尊等銅像」。

この日のお目当ては、特別展「表装の愉しみ―ある表具師のものがたり」。

https://sen-oku.or.jp/program/2023_thebeautymountings/

ちくし法律事務所では、春夏の事務所ニュース巻頭の絵画をお願いしていることから、版画家の大場敬介・寿子先生と親しくさせていただいている。

https://keisukeandhisako.com/about.php

親交のなかで学んだことは、表装の重要性である。おなじ版画でも、表装が変わると受ける印象がガラリと変わる。

写真もおなじ。いわゆる額縁効果というやつだ。だから、それに心血をそそぐ人たちがいる。今回の展示からもそのようなことを学んだ。

2023年12月20日水曜日

~からの、聖護院(しょうごいん)

 


 八海山といえばお酒の名前と思っていたという弁護士がいた。八海山は本来、越後の標高1778mの岩峰である。柴門ふみの父親など遭難者多し。

聖護院といえば生八つ橋、あるいはカブやダイコンの名前だと思っている人も多かろう。しかし本来は、修験道の大本山のお寺の名前である。

修験道は古代、山岳宗教・古神道に仏教や道教が習合して成立した。開祖は役行者。われわれ山歩きをする者にとっては、崇拝の対象である。

山歩きだけでなく江戸時代、旅人も崇拝していたようである。おくのほそ道にこうある。

 修験光明寺といふあり。そこに招かれて、行者堂を拝す。

 夏山に足駄を拝む首途(かどで)かな

聖護院の開山は園城寺の僧・増誉。熊野で修験の修行をおこなっていた。白川上皇が熊野御幸を行った際の先達(せんだつ)をつとめ、その功により本寺を下賜された。

中坊公平氏が日弁連の会長であったころ、本寺で合宿が開催されたことがあった。なんの会合だったかは忘れた。そのときの様子もまったく記憶にない。ただ、本寺で合宿したという抽象的な記憶だけが残っている。

ご本尊は修験道であるから不動明王。大日如来の化身であるから、さきほどの智積院とも根本はおなじである。

30分に1度、女性が寺内の案内をしてくれる。不動明王のいわれなどあらためて聞くと、なるほどと思う。

ご本尊などは撮影禁止、お隣の部屋のみ撮影OK。扁額の文字は研覃。深く深く追求する。自分自身を耕し研鑽する意味である。

2023年12月19日火曜日

~からの、智積院(ちしゃくいん)

 





 京都国立博物館のあとは智積院へ。最後の紅葉に間に合った。

真言宗智山派の大本山。寺の歴史をみると、紀州根来寺の塔頭として出発し、豊臣の世で圧迫され、徳川の世で再興したようである。「どうする家康」は徳川の勝利をもって終了したが、豊臣の世が滅んで浮かんだ寺社もすくなくなかろう。

まえに来たときは安部龍太郎の『等伯』(日本経済新聞社刊)を読んだあとだったから、10年前の2013年である。

今回のお目当ては、「日本の春夏秋冬」を題材にした田淵俊夫の襖絵である。講堂を飾る。2013年にもすでに展示されていたのだが、なんらかの事情(思い出せない。)で見ることがかなわなかった。が、今回はかなった。長谷川等伯よりしぶい水墨画である。

講堂の奥には東山随一といわれる庭園(名勝)。池泉回遊式。利休ごのみ。山は廬山、池は長江である。長江であるため濁っている。わざとである。

紅葉のお庭を回遊して宝物館へ。今年5月開館。長谷川等伯らの障壁画(国宝)を拝見することができる。以前の建物はすきま風が寒い木造だったような気がするが空調のきいた快適な空間である。

2023年12月15日金曜日

東福寺展@京都国立博物館

 





 スタバのあと。そうだ、東福寺展@京都国立博物館へ行こう!ということで、でかけた。

紅葉が残る時期だったのでリアル東福寺へも行きたかったが、インバウンドが回復した京都は京都駅からしてすでにすごい雑踏。東山に並ぶ観光寺院の周辺はとてもとても。紅葉というより人々の頭を拝見することになりそうだったので、あきらめた。

京都国立博物館はほんとうにひさしぶりだ。高校時代に訪れたことははっきりしているが、社会人になってからは1,2度だろうか。

東福寺は、奈良の東大寺と興福寺の二文字をとって名付けられた鎌倉時代の大寺院。いまもすごい大きさだが、当時はもっとすごかったのだろう。

禅宗(臨済宗)寺院である。こんかいの展示を拝見して、東福寺と禅宗のことがよくわかった。

これまで東福寺は5回以上訪れている。が、重森三玲(岸和田城の石庭でご縁がある。)の作庭とかは嘆賞しても、このような理解がなされることはなかった。

東福寺は、1236年、摂政九条道家の発願。上皇を中心とする京都勢が武家の鎌倉勢に敗れた承久の変が1221年であるから、その後のことである。

日本史の教科書では、それ以後、武家の世となる。けれども、その後においても、公家がこのような巨大な大寺院を建立する経済と政治力をもっていたことに驚かされる。

開山は禅僧の円爾。同じ臨済禅を伝えた栄西ほど知られていない。日本史の教科書に記述がなかったかもしれない。けれども、中国・宋で禅の修行をし、南宋禅林の巨匠であった無準師範から法を嗣いだ。

禅を創始したのは面壁9年にして悟りを得たダルマである。ダルマは中国に渡り、禅宗を開いた。弟子たちによって代々受け継がれた。

中学の美術の教科書だったか、切断した腕を差し出す慧可が描かれていたが、かれが2代目である。以降も系図がはっきりしている。したがって、巨匠であった無準師範から法を嗣いだ円爾も栄西に負けず劣らない(かもしれない)。

かれは日本に帰国する際まず博多に上陸した。そして大宰少弐・武藤資頼(太宰府に墓が残る。)に依頼され承天寺を創建した。いまも博多区に伽藍が残る。

承天寺には宝満山の麓にも別院が存在する。宝満山に登り、うさぎ道を竈門神社方面へおりる。内山城跡をみて、すこしくだると右手に山門がある。

円爾は、その後上洛して、東福寺を開山した。その後も、円爾と師の無準との交流は途絶えることなく、手紙や書などの交流を欠かさなかった。いまもむかしも変わらぬ、仰げば尊し我が師の恩・・。

などなど学ぶことができた。

2022年12月16日金曜日

小督の墓


 
 
 芭蕉は人生の本質を無情・流転に見た。しかし、これは芭蕉の独創ではなく、「平家物語」にも書かれていることである。有名な冒頭。

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

沙羅はものまねタレントのことではない。インドの沙羅は別種らしいけれども、日本の沙羅はナツツバキとされる。朝に開花し、夕には落花する。一日花。どんなに美しい花を咲かせても、夕には落下してしまう。まさに無情・流転。

平家物語は、平清盛とその一族の流転・無情を描く。その大きな渦の回りでは、いろんな人の人生もこれに巻き添えをくって流転していく。

そのエピソードの一つが小督。京都桂川沿い、嵐山の対岸に墓がある。「嵯峨日記」に書かれているとおり。当時、まわりは竹林だったようだが、いまは竹林が減り、「ずいぶん騒がしくなったなぁ。」と小督さんも嘆いておいでだろう。

超絶美貌で琴の名手。高倉天皇に愛された。しかし天皇の正妻は平清盛の娘・建礼門院だったことから、清盛の怒りに触れ、迫害を受けた。難を避けるため、嵯峨野に隠棲した。

天皇はあきらめきれず、源仲国を使わして探させる。仲国(笛の名手)があちこち探しあぐねていると、仲秋の夜、妙なる琴の調べが。もちろんそれは小督の琴のしらべ。

仲国は宮中に戻るよう説得するが、小督はこれを拒否。しかし仲国はねばる。なぜなら、小督の心のうちを知っていたから。

なぜ、知っていたのか?それは先の琴の曲名が「想夫恋」だったから。なんと美しいお話。

九州で「想夫恋」といえば焼きそばの店だが、もとはこんな美しいお話。なぜ、焼きそば屋の名前になっているのか。小督さんもびっくり。まさしく生々流転。

・・・などと大野城イオン前の想夫恋で、焼きそばをかき込みながら想ふ。

2022年1月18日火曜日

冬の旅(完)-三室戸寺・総持寺





  岩間寺のあと、さらに宇治にある三室戸寺(みむろとじ)をめざした。三室戸寺は10番札所。

 三室戸は、岩間寺から山越えでもいけるだろう。けれども、JR線を利用して石山から京都へ。さらに奈良線で黄檗駅へ。そこから歩いて京阪宇治線の黄檗駅、そして一駅で三室戸駅。駅からは15分ほど東に歩く。

ここらあたり、石山寺のまえを南下していた宇治川がV字型に流れを変え、北上してきている。ひょっとすると石山寺のまえを流れていた一滴といままた再開できるかもしれない。

ふきんには萬福寺や平等院がある。それらの社寺はなんどか訪ねたことがあったが、三室戸寺があることは知らなかった。

坂道をえっちらおっちら登ると、なんと29~31日まで休みという標示。われわれだって年末年始は休みだから、お寺が休みをとったとて文句を言える筋合いではない。残念。

しかたない。グーグルマップ・ストリートビューでなんちゃって参拝をしよう。グーグルマップ×三室戸寺で検索、ストリートビュー機能にし、寺の入口にセットすると一番上の画面が表示される。そこから寺のなかを順次参拝した。

すべての寺のなかに入れるわけではないけれども、この冬の旅でいえば、ここのほか、最初におとずれた谷汲寺のなかに入ることができる。いちどお試しあれ。

しかたないので戻る。往路を戻るのでは面白くないので、直接JR黄檗駅をめざす。途中、茶畑があった。宇治茶である。

 つぎに茨木にある総持寺(そうじじ)をめざした。22番札所。京都駅から新快速で高槻、普通に乗り換えて総持寺駅で下車。すると、なぜか自動改札を通過できない。二日市~名古屋の往復キップの復路券1枚で、名古屋、大垣、能登川、大津、京都と乗降を繰り返してきたので、自動改札機が判断できなかったのだろうか。

しかたなしに窓口に行くと、なんと無人駅。こんな大きな駅まで無人とは恐れいる。駅や空港がすべて無人に(AIに)なる日も遠くないだろう。ブレードランナーの世界だ。呼出ボタンを押すも反応がない。あきらめて帰ることにした。新大阪まで普通、そこから新幹線に乗換え。

駅には文楽の大きなポスターが。「また来てね。」と、文楽人形が呼びかけてくれた。やはり人の手で操れるものはいい。とてもあたたかく安心できる。

2021年12月7日火曜日

壺阪寺参拝記

 


 むかしユングを読んだ。シンクロニシティという言葉を提唱している。共時性と訳す。意味ある偶然の一致のこと。因果関係によることなく、複数の出来事が意味をもって同時に起こることをいう。

むずかしい話をした。言いたかったことは俗だ。山女日記に田中健がでてきて、いまだにしぶいということを書いた。

他方でこのところ、BS・NHK3チャンで『マー姉ちゃん』をやっている。1979年の連続テレビ小説の再放送である。40年以上前の作品。当時、大学2年だった。

マー姉ちゃんは、長谷川町子の姉のこと。長谷川町子は漫画「サザエさん」の作者である。冒頭は福岡での場面、最近は東京での場面になっている。

右脳にすぐれた姉妹である。長谷川町子は漫画家であるが、姉もあの菊池寛の小説の挿絵を頼まれ、売り出し中。

いろんな新聞、雑誌から仕事の注文が舞い込むようになった。その注文者の一人がなんと若き日の田中健である。男前は男前だが、いまのほうがよい。田中健に40年の月日が流れた。などと思うと、自分にも同じ時間が流れたことを実感する。

枕が長すぎた。本ブログとしては、京都・奈良ミッションのつづきである。河井寛次郎の翌日は奈良に行った。

まず訪れたのは壺坂寺である。近鉄で橿原神宮へ行き、そこから普通電車に乗り換えて3つ目の駅・壺坂山で降りる。そこからはバスで坂道をクネクネと登る。

清少納言の『枕草子』で、「寺は壺坂。笠置。法輪。」と筆頭に挙げられている。いまでいえば、才女おすすめの寺ランキングNo.1の寺である。

また『壺坂寺霊験記』で有名。浄瑠璃の演目で歌舞伎にもなっている。盲目の沢市が妻の不義を疑うが、妻のお里は夫の目が治るよう観音参りをしていた。お里の幸せを願って沢市は滝壺に身を投げ、お里もあとを追う。観音さまの霊験により、二人は助かり、沢市の目もなおるというストーリー。

子どものころ「妻は夫をいたわりつ、夫は妻に慕いつつ~」という名調子をよく聞いた。がさいきんはとんと聞かない。

壺坂寺はインドとの交流が深く、異国の雰囲気がする。本尊は十一面千手千眼観音。大陸的な考えなのか、撮影自由である。ありがたく撮影させていただく。カメラをむけると、ちょっと困ったようなお顔をされる。

寺内にはインドから運ばれてきた石像がたくさんある。ウルトラの母と見まごう巨大な観音像もたっている。ありがたや。