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2024年6月11日火曜日

光源氏って誰?

 

  みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに
         乱れそめにしわれならなくに  河原左大臣

 陸奥産のしのぶ摺りの乱れ模様のように、私の心はひどく乱れている。いったい誰のせいで乱れはじめたというのでしょう、私のせいではないのに。すべてあなたのせいなのに。

 百人一首14番の歌。河原左大臣は、源融(みなもとのとおる)。『源氏物語』主人公である光源氏のモデル候補一番である。嵯峨天皇の皇子でありながら臣籍に降下、源姓を名乗る。藤原基経が天皇の外戚として摂政に任じられると自宅にひきこもるなど、光源氏の境遇と似ている。

その他、先に紹介した実方や伊周(これちか)もモデルとして考えられている。実方は一条天皇により奥州に左遷され、伊周も大宰府に流されている。須磨・明石の段のストーリーに影響を与えているのだろうか。


 融は陸奥出羽按察使を任官したため、陸奥にまつわるエピソードが多い。この歌もそのひとつである。

 福島市の東には信夫(しのぶ)の里がいまもある。そこには文字摺石もある。「おくのほそ道」で芭蕉も訪れた。

 明くれば、しのぶもぢ摺りの石を尋ねて、信夫の里に行く。遙か山陰の小里に、石半ば土に埋もれてあり。里のわらべの来たりて教へける、「昔はこの山の上にはべりしを、往来の人の麦草を荒らしてこの石を試みはべるを憎みて、この谷に突き落とせば、石の面、下ざまに伏したり」といふ。さもあるべきことにや。
 早苗とる手もとや昔しのぶ摺り

 なぜ、往来の人の麦草を荒らしてこの石を試みはべってのか?それは虎女伝説のため。

 昔々、都から河原左大臣源融という貴人がこの地にやってきて、虎女という美少女と愛し合うようになった。やがて、都に帰った融を忘れかねて、虎女がもじ摺り石の面に麦をすりつけると、融の面影が浮かび出たという。 


 (渉成園) 

 融は六条河原院(現在の渉成園)に塩竈の風景を模した庭園を造らせた。そして藻塩を焼く煙を立ち上らせ、池にはわざわざ難波・尼崎から海水を運び込ませていたという。当代きっての風流人で、在原業平とも深い親交があった。


(陸奥塩竈神社)


(塩竈)

 『伊勢物語』塩竈(81段)

 むかし、左のおほいまうちぎみいまそがりけり。
 加茂川のほとりに、六条わたりに、家をいとおもしろく造りて、すみたまひけり。
 十月のつもごりがた、菊の花うつろひあかりなるに、もみぢのちぐさに見ゆるをり、親王たちにおはしまさせて、夜ひと夜、酒飲みし遊びて、夜明けもてゆくほどに、この殿のおもしろきをほむる歌よむ。
 そこにありけるかたゐおきな、板敷のしたにはひ歩きて、人にみなよませはててよめる。
 塩竈にいつか来にけむ朝なぎ釣する船はここによらなむ
となむよみけるは。陸奥の国にいきたりけるとに、あやしくおもしろき所々大かりけり。・・・。

これを元に、世阿弥は謡曲『融』を書いた。

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年4月15日月曜日

南東北の雪山(2)鶴岡

 







 南東北の雪山、2日目は月山に登る予定だった。山形から高速バスに乗り、月山湖を目指した。日本海側に近づくにつれ雪が降りしきり、きょうは無理かなと思った。

しかもリサーチ不足で、道路が冬期閉鎖中だったため断念。月山スキー場のオープンが4月12日だったので、それ以降でないと入山できなかった。

しかたがないので、鶴岡観光に切り替えた。鶴岡は芭蕉が出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)を縦走したのち、下山した場所である。

出羽三山だけでなく、朝日連峰を東から西へ以東岳・大鳥池まで縦走すると、やはり下山するのはここである。

高速バスの到着は鶴岡駅横。市内は歩いて回れる距離感である。駅前の道を南下すると、山王日枝神社に着く。

芭蕉の句碑がある。

 珍らしや山をいで羽の初茄子び

おくのほそ道の旅で、出羽三山をおりた芭蕉は鶴岡藩士長山重行の世話になった。そして珍しいかたちの茄子をご馳走になった。そのお礼の句である。山をいで羽は、出羽山を出た(下りた)ということ。

鶴岡は米どころ・庄内平野の南の拠点。北の拠点は酒田である。芭蕉は鶴岡から酒田へは舟で向かった。大泉橋のたもとに、乗船した場所が名所として残されている(長山重行宅跡も近く)。

スズメたちが1本の木に集まって、かしましくしていた。寒い冬にたえ、庄内米のおこぼれにあずかれる秋をまっているのだろう。

大泉橋からは西に向かう。まもなく鶴ヶ岡城跡だ。城跡といっても城壁がすこしで、建物は残っていない。庄内神社があるのみ。

鶴岡といえば、藤沢周平の出身地。小説中にでてくる海坂藩は、鶴岡がモデルである。記念館がある。藤沢の小説家人生と信念がよく分かった。

あとはお堀を一周してバスセンターへ戻った。ときおり雪が舞う不安定な天気だった。冬の季節風の影響だ。これが山々に雪を降らせ、おいしい水となり、おいしい米、ひいてはおいしい酒となるのだ。

2024年1月10日水曜日

海保・日航機衝突事故との遭遇(1日目)

 





 室の八島参詣を終え、野州大塚駅から東武線の普通、急行電車を乗り継いで東京をめざした。浅草と日光の間を往復する特急は全席指定で完売されており、乗車することができなかったからである。

羽田の飛行機の予約は19時15分であり、急ぐ旅でもなかった。途中、春日部と草加にも立ち寄ることにした。いずれも『おくのほそ道』ゆかりの地だから。

『おくのほそ道』本文にはこうある。

 ことし、元禄二年にや、奥羽長途の行脚ただかりそめに思ひ立ちて、呉天に白髪の恨みを重ぬといへども、耳に触れていまだ目に見ぬ境、もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう草加といふ宿にたどり着きにけり。(角川ソフィア文庫)

しかし『曽良随行日記』にはこうある。

 廿七日夜 カスカベニ泊ル。江戸ヨリ九里余。

つまり、実際には春日部に泊まったにもかかわらず、芭蕉はそのまま書くことを嫌い、草加宿に泊まったと創作したのである。なぜかは分からない。読んだかぎりでは誰もうまい説明をしていない。

この謎に挑戦すべく春日部と草加の両街を訪ねてみることにした。しかし、・・・。この謎を解くヒントは、少なくとも現代の春日部にはない。と言ってよかろう。クレヨンしんちゃんがいるばかりである。気疲れしたので(登山ザックが重いこともある。)、草加で下車することはパスした。

かくて2時間ほど早く空港に着いた。福岡空港には21時ころの到着になりそうなので、少し早い夕食を食べることにした。

食堂街を歩いていて、窓からオレンジ色の光が漏れていることに気づいた。6階展望デッキに行くと、ちょうど日が没するところだった。美しい。夕陽の右手には富士山が浮かび上がっていた。(日没は16時40分)

夕食をして搭乗ゲートでくつろいでいた。18時ころ、後ろの男性が「滑走路で火事だそう、きょうは帰れんかも・・」と電話しているのが聞こえた(後で分かったとおり、この時・第4滑走路では日航機から奇跡の脱出劇が行われていた。)。

しばらくしてゲートの備え付けのテレビで、海保機と日航機との衝突事故のニュースが流れていた。この時点で空港・日航側からはなんのアナウンスも説明もない。

列車事故等では乗客を安心させるため、くどいほど状況について説明がなされるが、この事故については何の説明もなかった。このあともそうである。パニックを避けるためかもしれないが、いまの時代、テレビや携帯でアクセスできるので状況説明は必要であろう。

やがてニュース映像では、機体が火に包まれた。これから搭乗しようとしている人々にとっては、控えめにいっても気持ちの映像ではない。

事務所メンバーだけのライングループがある。そこへ状況を投稿した。すると、同じ事務所の井上弁護士もやはり、いまからANA便に乗る予定だと回答があった。こちらの投稿を見て、はじめて事故の発生を知ったようだ。説明がないのはANA側も同じらしい。C滑走路であるから、むこう(第2ターミナル)からは機体炎上の様子も直接見ることができたようだ。

ANA便は早々に欠航となった。日航のほうはそれより30分は決断が遅れ、結局は欠航になった。それはそうだろう。事故原因が判明しないかぎり、他の飛行機を飛ばすわけにはいかないのだから。

新幹線は名古屋まで行くにしても20時ころが最終である。もう間に合わない。①まずはきょうの宿を確保しなければならない。援助者の手を借りて、浅草寺にあるホテルを押さえることができた。泉岳寺(赤穂浪士の墓があることで有名)であれば京急で直通である。より近場のホテルはANA便の人たちが押さえてしまったあとである。

つぎに必要なのは、②預けた手荷物の回収と③航空券予約の振替である。まずは手荷物回収場所へ向かった。上からの指示が来ていないのでしばらく待つよう言われる。しばらく待たされて、手荷物は2階カウンターで返却することになったと連絡がある(こちら側の担当者の一部は「信じられない。」などとブツブツ言っている。手荷物を返す場所は預けたカウンターより、ここのほうが適切ではないかとの意見である。このことの真偽は、このあとの現実が語っている。たくさんの便、たくさんの重い荷物を返却するのであるから、預けたカウンターに作業を集中させるのは無理がある。上のほうがこの方法を選択する際に現場の意見を聴取しなかったことは明らか。)。

到着ロビーを出て、2階カウンターへ向かう。2階はすでに長蛇の列である。第1ターミナル内を2重に折れて1往復半の行列ができている。しかたなく、最後尾に並ぶ。前には岡山から来たという夫婦。どうやら息子さんが箱根駅伝を走り、その応援にきた帰りのようだ。しきりに駅伝のニュースをチェックしている。待ち時間を有効に使える人はいい。

しばらく並んでその列が手荷物回収の列ではなく、航空券予約の振替のために並んでいる列であるが判明した。長蛇の列であるので、先頭がどこにつながっているのか分からない。なんの説明もないし、個別の係員に訊いても分からない。一人旅であるので手分けして前方まで確認に行くこともできない。

手渡されたチラシで、列に並ばなくても、ネットで明日の便の予約をすることができることが分かった。あわてて画面を操作する。60過ぎの人間にはつらい作業だ。ため息がでそうになった。まわりを見回すと、より高齢のかたがた、子連れのご夫婦がみなぐったりした表情をしている。

何度かの試行錯誤のすえ、あすの9時10分発の便を予約することができた(それより早い便は、チケットの振替作業などをしていて間に合わないと思われた。)。チケットの振替は明日の作業だ(新たに航空券を買うとなると5万円以上要する。振替であれば、すでに支払済みの航空券を流用することができる。5万円はえらい違いなので、振替作業を行わざるを得ない。)。

明日の便が確保できただけでも奇跡と思えた。正月なので明日は満席で明後日以降しか帰れないかなと思っていたからだ。明日はまで正月3日なので、帰省帰りの人びとの事前予約が少なかったのだろう。

かくてチケット振替の列にムダに並んだすえ、脱出することができた。岡山から来ていた夫婦にチケットで明日の予約をしていた夫婦にネットでできますよと教えるが、疲れた顔で見返すばかりである。なにかできない理由があるのだろう。宿泊も浅草寺の某ホテルをおさえることができた旨教えるも、今夜は空港泊まりだなどとボヤいておられる。

ここに至ってようやくアナウンスが流れはじめる。手荷物回収のためカウンターは○番までなどと指示している。同カウンターへ向かう。

カウンター内は30歳前後の女性地上係員が数名で対応している。現在対応しているのは311便、○○便、○○便、○○便の4便のようだ。ぼくが乗る予定だったのは333便。いまのところ対応していない。

ふしぎと誰も声を荒げたりしていない。ときどき思うように行かなかった乗客が地上係員に食ってかかるカスタマーハラスメントの場面に出くわすことがある。きょうはそういうことがない。機体が炎上するという前代未聞の映像を見たせいだろうか。

きけば311便の人たちは機内で1時間ほども待たされ、欠航が決まったようだ。搭乗ゲートでくつろいでいたわれわれより優先されるのは当然であろう。

地上係員さんたちの奮闘には頭がさがった。たくさんの重いスーツケースをあっちへ運び、こっちへ運びしている。腰痛という労災が多発することが懸念された。普段は華やかな職場だが、きょうは地獄だ。

なかなか荷物ははけていかない。あたりまえだ。多くの人々はチケット振替の大行列に並んでいるのだから。前の便の荷物がはけていかないせいか、われわれの荷物もなかなか出てこない。

1時間ほど待って、ようやく荷物を回収することができた。京急電車の乗り口へ急いだ。途中、空港泊を決めたとおぼしき人々が列にも並ばず、階段に腰掛け、ただ時間が経過するのを待っていた。

かくて、もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう泉岳寺といふ宿にたどり着きにけり。

・・・ここでこの日はようやく終わったと言いたいが、もう一波乱。なんと、先に予約した9時10分の便の欠航となったのだ。ここでも援助者の手を借りてなんとか、10時10分の便を再予約することができた。これも奇跡と思えた。(帰福のための奮闘は翌日へつづく。)

2024年1月9日火曜日

初詣は室の八島(大神神社)


 


 みなさま明けましておめでとうございます。
 本年もよろしくお願い申し上げます。

 ことしの初詣は栃木県のパワースポット大神神社(おおみわじんじゃ)。なんで大神神社に初詣をすることになったのか?

例によって、年末年始は雪山登山を計画していた。元日は長野県北部にある佐久平に宿泊し、2日は浅間山(あさまやま)に登る計画だった。

浅間山は標高2568メートルの日本百名山。活火山である。火山情報で安全を確認して登らなければならない。明日はなんとか登れそうだ。

佐久平は東横インホテルに宿泊。窓からは雪化粧した浅間山が美しく見えていた。よい山旅ができそうだと期待はふくらんだ。

ところが同日16時10分、能登半島地震が発生。ホテルは9階建てで、その4階に泊まっていた。ミシミシとホテルの躯体がしなる音が体感で1分ほども続いた。北信は震度5弱だったそう。震度5弱であの揺れ、震度7ともなれば強烈な揺れだったと思う。震源地近くの方々の被災と不安に思いを馳せた。

新幹線や在来線もとまってしまい、2日も影響が残ることが懸念された。帰りの飛行機の予約は2日19時15分発。そのため、浅間山登山は中止することにした。

 さて、1日空いた2日の予定をどうするか。交通機関の混乱をおそれて、長野をはなれ関東をめざしたほうがいい。あれこれ考えて、おくのほそ道の旅程のなかで未踏の室の八島を訪ねることにした。この室の八島こそ、栃木県のパワースポット、大神神社である。

室の八島は栃木県にある。江戸深川を出立した芭蕉が、草加(じっさいは春日部)宿の次、日光の前に記述しているのが室の八島。だいたいそのあたり。

ですがなかなかに行きにくい。佐久平から新幹線で高崎まで、そこから両毛線で栃木まで、新栃木で宇都宮線に乗り換えて野州大塚まで。最後は東武線。日光行きの全席指定の特急はたくさん通過するけれども普通電車は1時間に2本ほど。

 おくのほそ道によると室の八島はつぎのとおり。

 室の八島に詣す。同行曽良がいはく、「この神は木の花咲耶姫の神と申して、富士一体なり。室戸に入りて焼きたまふ、誓ひの御中に、火々出見の尊 生まれたまひしより、室の八島と申す。また煙をよみならはしはべるも、このいはれなり。はた、このしろといふ魚を禁ず」。縁起の旨、世に伝ふこともはべりし。(角川ソフィア文庫)

同行者曽良の紹介文でもある。曽良は有能な秘書であり、有能なツアーガイドでもあった。神社の縁起にも詳しかった。

コノハナサクヤヒメはアマテラスの孫であるニニギノミコトの妻。父の大山津見神は姉のイワナガヒメもいっしょに嫁がせようとしたが、ニニギは拒否。コノハナサクヤヒメは美をイワナガヒメは長命を約束していたが、ニニギが長命を拒否したため、その子孫は短命になったという。

富士山には富士浅間神社(センゲンジンジャ)が祀られているが、その神もコノハナサクヤヒメ。富士山と同一の神である。むかしは富士山も火山活動をしていたから、浅間神社の神がコノハナサクヤヒメであることは肯ける。そのいわれはこう。

ヒメは一夜にしてみごもった。ニニギはほんとうに俺の子かと疑った。疑いを晴らすため、神の子であれば火にも焼けじと誓って、ヒメは戸のない室に火を放ち、そのなかで出産した。ヒメもご気性が激しかったようで。無事、ホホデノミコトを産んだ。

火々出見の尊はホホデノミコト。文字どおり火のなかから出てきたから。神武天皇の祖父とされ、神話では山幸彦(ヤマサチ)として有名である。

芭蕉はそのゆえに室の八島と申すというが、これだけでは分からない。その昔にはこの地に八つの島があったからだという。いまは境内に池と小さな島がしつらえれている。

煙をよみならはしはべるというのは、たとえば、藤原実方のこの和歌。

 いかてかは思ひありとも知らすへき室の八島の煙ならては 

意中の人に恋の思いをどうやって知らせようか、室の八島の煙であればともかく。そうではないので。

このしろといふ魚を禁ずというのは、「この城」を焼くにつながるから。

これほどのパワースポットなれど、人々はみな日光へ向かったのか、境内はそれほど混雑もみられず。落ち着いて参拝をすることができた。このあと、航空機事故に遭遇することになるとは、この時点では思いもよらず・・・。

2023年12月27日水曜日

~からの、幻住庵

 




 石山駅に戻る。石山駅からはバスで幻住庵(跡)へ。幻住庵(菴)は、おくのほそ道の旅を終えた翌年、芭蕉が仮住まいをしたところ。

「幻住菴記」という俳文がある。もっともすぐれた俳文であると評価が高い。芭蕉が仮住まいをした当時の様子が詳細に書かれている。

石山駅の南には紫式部が『源氏物語』を執筆したという石山寺がある。そのやや西側にあるのが国分山である。国分というのはその昔、聖武天皇が国分寺を建立したことに由来する。幻住庵はその麓にある。

 石山の奥、岩間のうしろに山有、国分山と云。そのかみ国分寺の名を伝ふるなるべし。

バスを降り山手の坂を登ると、近津尾八幡宮がある。

・・・麓に細き流を渡りて、翠微に登る事三曲二百歩にして、八幡宮たゝせたまふ。

もちろんいまは神仏分離であろうが、芭蕉の時代は習合していたようである。

・・・身体は弥陀の尊像とかや、・・・両部光を和げ、利益の塵を同じふしたまふも又貴し。

八幡宮の横に幻住庵跡がある。芭蕉の時代すでにかなりいたんでいたようであるから、いまは残っていない(いまある建物は平成3年に再建したもの。)。

・・・日比は人の詣ざりければ、いとゞ神さび物しづかなる傍に、住捨し草の戸有。よもぎ・根笹軒をかこみ、屋ねもり壁落て、狐狸ふしどを得たり。幻住菴と云。

あまりに美文なので全文紹介したいところだが、そろそろ仕事に戻らねばならないので、以下ずっと省略して、末尾の句。

 先たのむ椎の木も有夏木立(まづたのむしひのきもありなつこだち)

幻住庵跡の横には大きな椎の木があり、当時のものであると説明されている。樹齢400年というにはやや疑問が残るが、そのロマンにあやかることにしよう。

この句の句碑はわが久留米城跡にもある。なぜだろうか。以下のくだりと関係があるかもしれない。

 ・・・さるを、筑紫高良山の僧正は・・此たび洛にのぼりいまそかりけるを、ある人をして額を乞。いちやすやすと筆を染て、幻住菴の三字を送らる。頓て草菴の記念となしぬ。

椎の木は冬でも葉が落ちない常緑広葉樹・照葉樹である。冬でも葉が落ちない縄文的な生命力は頼みとするに足りるであろう。

さてみなさま、今年も日本各地の山々や里々へ旅をすることができました。これも一重にみなさまのご愛顧によるものと思います。ありがとうございました。よき新年をお迎えください。

2023年12月11日月曜日

マジカルミステリーツアー(4)

 



 最終日はまたまた強風雨となった。さてどうしよう。やはり芭蕉の足跡をたどろうか。そうだ、甲冑堂へ行こう!だが、甲冑堂は『おくのほそ道』にはでてこない。なぜか。

実は芭蕉の足跡には2種類ある。一つはもちろん『おくのほそ道』に記された足跡である。もう一つは芭蕉に随行した曽良が書いた『曽良旅日記』に記された足跡である。

『曽良旅日記』は長らく行方がしれなかった。それが1943年(昭和18年)に再発見された。その後、重要文化財となっている。

2人旅であるから、両者の足跡は一致しているはず。だが、実は一致していないところがある。どちらの記載が実際の足跡だろうか。

刑事訴訟では、反対尋問を経ない証拠は、いわゆる伝聞証拠であるとして受け入れられない。しかし、いくつかの例外がある。その一つ。商業帳簿、航海日誌その他業務の通常の過程にいて作成された書面は、例外とされている。

『曽良旅日記』は、その内容・体裁からここでいう航海日誌に近いものである。それゆえ、実際の足跡どおり忠実に記載がなされているものと思われる(曽良が幕府の隠密であり、そうとはかぎらないという点は別論である。)。

そこから、『おくのほそ道』の創作性が明らかとなった。『おくのほそ道』を読むと、一見、紀行文ふうに書かれているので、それまではみな、実際の足跡に忠実に書かれていると思い込んでいた。

ところが、実際の足跡により忠実な『曽良旅日記』が発見され、それと比較することが可能となった。その結果、『おくのほそ道』が創作物であること、すなわちその「文学」性が明らかとなったのである。

両者が一致しないところの一つが飯塚の里と笠島のくだり。まず、『おくのほそ道』。

(飯塚)
 ・・・またからはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも、ふたりの嫁がしるし、まづあはれなり。女なれどもかひがひしき名の世に聞こえつるものかなと、袂をぬらしぬ。

(鐙摺・白石)
 鐙摺・白石の白を過ぎ、・・・。

つぎに、『曽良旅日記』。

(飯塚)
・・・佐藤庄司ノ寺有。寺ノ門へ不入。西ノ方ヘ行。堂有。堂ノ後ノ方ニ庄司夫婦ノ石塔有。堂ノ北ノワキニ兄弟ノ石塔有。・・・

(鐙摺・白石)
・・・万ギ沼・万ギ山有。ソノ下ノ道、アブミコハシト云岩有。二町程下リテ右ノ方ニ、次信・忠信が妻ノ御影堂有。同晩、白石ニ宿ス。

現地に行けば、どちらが実物に即しているかは明白。いまでも『曽良旅日記』に書かれたとおりである。『おくのほそ道』は現地の実情に即してはいない。

飯塚の里は、佐藤庄司が治めていた。かれは奥州藤原氏の被官である。源頼朝に攻められて、奥州藤原氏とともに滅亡した。

かれの息子2人が次信と忠信である。ふたりとも源義経の忠臣であり、『平家物語』をはじめ、歌舞伎でも活躍する。

「ふたりの嫁」は次信と忠信の嫁のこと。次信と忠信の無事な帰還をまちわびる義母(つまり佐藤庄司の妻)のため、甲冑を着て無事の帰還を演じ義母を慰めたという。

飯塚の里に医王寺がある。医王寺には佐藤庄司夫婦の石塔や兄弟の石塔はあるけれど、「ふたりの嫁のしるし」は存在しない。

「ふたりの嫁のしるし」があったのは、鐙壊し(鐙摺)の先にある甲冑堂である。芭蕉は両者を融合させ、文章を引き締めたものと思われる。

こうして甲冑堂は『おくのほそ道』にそれとして記述されなかったが、そこで「ふたりの嫁のしるし」は拝見することができる。

・・・ことになっている。この日、甲冑堂を訪れたところ、強風雨のため閉鎖されていた。しかしあきらめきれない。

強風雨のなか、JR越河駅から道に迷いつつ、歩いてようやくここまで辿り着いたのである。

神主さんのご自宅を訪ね、玄関で声をかけた。80歳くらいの年輩のご夫人があらわれた。きょうは強風雨のため、甲冑堂の開張はできないという。

そこをなんとか、福岡から来たんです!と食い下がったところ、ご夫人は義経のこと、芭蕉のこと、甲冑堂のこと、これまで訪ねてきた客のこと、維持管理がたいへんなこと、行政が冷たいことなど延々と30分以上語りに語った。

こっ、これはいかん。ご開張に代えて、その埋め合わせに「語り」で済ませるおつもりではあるまいか。それはそれでとても面白い「語り」ではあったが、それでは証拠写真がとれないではないか。

玄関先をみると、お守りや甲冑堂の来歴をしらせる資料等が販売されていた。これください!ついでに拝観料もお支払いします!

これにご夫人は負けたという表情を浮かべられた。やった!かくて甲冑堂前のたたかいに勝利し、ふたりの嫁に対面することがかなったのであった。めでたし、めでたし。

2023年12月7日木曜日

マジカルミステリーツアー(2)

 

 翌朝目が覚めた。深夜に目覚めることもなく、うなされることもなく、座敷わらしに会うこともなく、神隠しにあうこともなく。朝の光のなか、さっそく一風呂浴びた。さっぱりした。贅沢。食堂はやはり一人。昨夜の嵐はややおさまっている。

鳴子御殿湯駅まで歩いてJR陸羽東線に乗る。鳴子温泉駅で下車。鳴子峡まで歩くが、紅葉はまだまだ(10月上旬ゆえ)。

駅に戻り、陸羽東線を東へ向かう。途中、堺田という駅がある。駅をおりれば芭蕉が泊まった封人の家がある。

 ・・・やうやう(あれ?パソコンが固まって動かなくなった。しばらくして回復。)として関を越す。大山を登って日すでに暮れければ、封人の家を見かけて宿りを求む。三日風雨荒れて、よしなき山中に逗留す。

 蚤虱馬の尿する枕もと(のみしらみうまのばりするまくらもと)

さらにJRでいくと赤倉温泉駅がある。そこからおくのほそ道の旅の最大の難所、山刀伐峠(なたぎりとうげ)をめざす。名前だけでも恐ろしい。

時間の関係で、登山口までタクシーを利用し、そこから峠まで往復する計画だった。10分ほどしてずんぐりした体格の青年の運転するタクシーがやってきた。おくのほそ道の記述が頭をよぎる。

 あるじのいはく、これより出羽の国に大山を隔てて、道定かならざれば、道しるべの人を頼みて越ゆべきよしを申す。「さらば」といひて人を頼みはべれば、究きょうの若者、反脇指(そりわきざし)を横たへ、樫の杖を携へて、われわれが先に立ちて行く。

青年運転手によると、山刀伐峠は登山口から峠までを往復しても悪くないが、やはり尾花沢まで抜けたほうがいいという。しかもタクシー代は登山口までの往復料金にまけてくれるという。

青年の好意に甘えて、そうすることにした。登山口ではスマホで写メを撮ってくれた。そうしていると、驟雨がやってきた。

クマがでるという。運転手はクマ脅しの道具を貸してくれた。残念ながら、おくのほそ道の旅のように、道案内まではしてくれないらしい。

おくのほそ道の記述にたがわず、深山幽谷、樹齢数百年と思われるブナの美林がつづいていた。そこを九十九折りに登っていく。深閑としている。かすかな異音にクマではないかと怯える。他に誰も人はいない。

・・・あるじのいふにたがわず、高山森々として一鳥声聞かず、木の下闇茂り合ひて夜行くがごとし。

ようよう峠についた。やはり人はいない。東屋のほか、子持ち杉、子持ち地蔵尊が祭られている。温泉街で買った弁当、それとミカンを食す。鳴子温泉で買ったのに、ミカンは熊本県産である。くまモンのマークがついている。

食べ物のにおいにクマが寄ってくるといけないので、そそくさと食べ終わる。一服することもなく、尾花沢(最上)側へ降りていく。・・・そろそろ山の中腹かと思うころ、驚いて跳ね飛んだ。人生で最長不倒距離を跳んだ。

なんと、300キロはあろうかという成獣のクマが昼寝していた。クマが寝るのであれば、うつ伏せであろうが、仰向けに寝ていた。まるでくまモンのイラストのよう。死んでいたのかもしれない。慌てて逃げ出したので、生死の確認はできなかった。

転がるようにして坂を駆け下りた。タクシーとの待合せ場所についた。ひゃーたすかった。芭蕉の記述以上に怖い思いをした。ふうー。

・・・雲端につちふる心地して、篠の中踏み分け踏み分け、水を渡り、岩に躓いて、肌に冷たき汗を流して、最上の庄に出づ。かの案内せし男のいふやう、「この道必ず不用のことあり。恙なう送りまいゐらせて、仕合はせしたり」と、喜びて別れぬ。後に聞きてさえ、胸とどろくのみなり。

あのクマは山の神だったのだろうか。この日、カメラの不具合で写真は一枚も撮れていなかった。登山口で青年運転手が撮ってくれた写メだけが手もとに残った。なんと、芭蕉の句を入れ、写真立てに入れてプレゼントしてくれた。

それにしても息もとまりそうな、不思議な体験だった。

2023年12月6日水曜日

マジカルミステリーツアー(1)

 



 異様な旅だったので、これまでどうしようか迷っていたが、概要だけでも書き留めておこうと思う。

ときは10月の連休。あの『遠野物語』の舞台となった遠野を東にのぞみながら、宮城北部から岩手に至る旅だった。遠野に天狗、河童、座敷童などの妖怪がいて、神隠しが存在するのであれば、これら地域にそれらが存在してもおかしくない。

当初は、森吉山、和賀岳、秋田駒ヶ岳という秋田の二百名山をめぐる旅を計画していた。しかし、数日前の天気予報で、予定日はいずれも強い寒気と強風が吹き荒れることが予想されていた。

実際、これらの日々に登山を強行されたかたがたのなかからは、低体温症で亡くなられたかたも少なくなかった。このことは以前にも書いた。

ぼくは登山をあきらめて、芭蕉のおくのほそ道の旅をたどることにした。おくのほそ道の旅は80%くらいはたどることができていた。残るは数カ所。

なかでも難所は、尿前(しとまえ)の関から山刀伐(なたぎり)峠を越えて尾花沢までのルートだ。芭蕉も苦労したらしい。おくのほそ道きっての難ルートだ。

連休の直前になっての転針であるから宿の確保ができるか心配した。が、なぜか、鳴子温泉のある旅館を予約することができた。そのときは、予約できたことに安心してそれ以上の探索をやめてしまった。

当日は予報どおり風が強く、飛行機はなんとか仙台空港に着陸できたものの、そこから先の在来線、新幹線は乱れに乱れていた。

新幹線の古河駅から海側へ向かう路線は強風のため運休していた。しかし山側へ向かう路線は遅れながらも運行していた。途中、岩出山など、おくのほそ道で馴染みの地名などがある。

鳴子温泉駅でおり、尿前の関まで歩いた。ふるくは陸奥・出羽の境であった。そのため怪しい人の出入りを厳しくチェックする関があった。

 南部道遙かに見やりて、岩出の里に泊まる。小黒崎・みづの小島を過ぎて、鳴子の湯より尿前の関にかかりて、出羽の国に越えんとす。この道旅人まれなる所なれば、関守に怪しめられて・・・。

日も暮れてきたので、あわてて宿に向かう。帳場で宿泊手続を行った。湯の種類は4種あり、温泉好きにはたまらないようだ。

部屋に案内された。・・・。唖然。壁がボロボロだ。誰かが凹ましたままになっている。寂れているなぁ。

まぁいい。温泉さえよければ。・・・。呆然。河童でもでそうで怖い。そさくさと湯につかる。

風呂のあとは夕食。食堂にむかう。・・・。なんと宿泊客はぼく一人のようだ。背筋がゾクゾクする。

部屋に戻る。風雨で、窓がガタガタとなっている。窓枠が外れそうだが、だいじょうぶだろうか。

あらためて検索していみる。その旅館の名前を入力すると、予測変換の文字が。なんと「恐怖」とか「怖い」とか。ぞーっ。

そのとき。タカタカタカ・・・。窓の外を、なにものかが走り抜けた音がした。あわててカーテンをどけて窓の外を見分する。漆黒の闇に、樹木の枝葉が揺れ、雨が窓ガラスを打っている。窓の外は切れ落ちていて、なにものかが通れる余地はない。

なんだったのだろう?天狗か妖怪か?ネコだったと信じたい。今夜、眠れるだろうか?心配しながら、すこし湿気った布団に入る。

2023年6月9日金曜日

笈の小文(1)伊良湖岬

 
(松本へ向かう飛行機の窓から。中央は伊勢湾、その向こうは太平洋。右側の陸は手前から松坂、伊勢、鳥羽。左側の陸は手前からセントレア空港、知多半島、三河湾の向こうに渥美半島。渥美半島の先端が伊良湖岬)

 芭蕉の紀行文に『笈の小文(おいのこぶみ)』がある。『おくのほそ道』の旅にでかける2年前、江戸から故郷の伊賀へ帰る里帰りの旅である。

里帰りだけでなく、関西各地の歌枕をめぐり、最後は須磨までの紀行文である(実際の旅は、その後、関西の旅、更科紀行の旅を経て江戸に帰るまで続く)。

芭蕉の死後15年も経ってから、弟子の乙州(おとくに)が出版したもの。そのため、分からないことも多い。

未定稿。芭蕉の発句や俳文で構成されていることは疑えないけれども、乙州の手がどの程度入っているのか、編集がなされているのか謎である。

この紀行をいま読み返している。そのいきさつはこう。

『笈の小文』は、冒頭の記述のあと、なぜか、名古屋の鳴海からはじまる。箱根も富士も遠江(浜名湖)も描かれない。

鳴海から、芭蕉は三河の国保美という處に二十五里戻る。保美は渥美半島の先端にちかい。写真でいうと、左上のほう、左から矢のように突き出ているのが渥美半島。その鏃(矢尻)の中央部分に保美はある。

100キロであるから25時間かかる。ナビで検索してみたところ、やはり99.6キロ。一日50キロ歩いても、まる2日かかる行程である。

旅の途中でなぜ100キロも後戻りしたかというと、愛弟子の杜国が罪人としてそこに流されていたから。杜国の罪は米の空売りである。

かれは裕福な米穀商だったが、在庫がないのに売るのは行きすぎ。ある種の詐欺である(現在では、流通が発達しているので、すべてが犯罪というわけではない。先物取引などは、いまだ実在しない商品の売買をあらかじめ行っている)。

「笈の小文」を読めば分かるが、ふたり旅のあいだ、芭蕉はとてもはしゃいでいて、単なる師弟関係以上のものがあったといわれる。恋人が罪をえて失意の底にあるときけば、彼を慰めるのに100キロの道のりもなんのその。

かれらは、伊良湖岬を訪れている。保美からわずか一里ばかり。1時間ほどの行程である。

天武朝の皇族麻績王(おみのおおきみ)は伊良湖に流されている。古くから流刑地だったようだ。その歌。

 うつせみの命を惜しみ浪にぬれ伊良湖の島の玉藻刈り食す

伊良湖岬は、三河の国の地つづきなのだけれども、万葉集では伊勢の名所に選ばれている。なぜか。写真を見ればわかるとおり、船便なら近いからである。

紀伊半島を度外視すれば、本州の南端に位置している。そのため、秋には南から鷹が渡ってくる。鷹は冬の季語だが、鷹渡るは秋の季語である。

西行の歌がある。伊勢で詠んだという。

 巣鷹わたる伊良湖が崎を疑ひてなほ木に帰る山帰りかな

巣鷹は飼育された鷹のこと。臆病なので、木に戻ってしまう。芭蕉らは、麻績王や西行の歌は当然知っていた。

罪人の杜国はもちろん、芭蕉も心細い気持ちだったろう。そこで詠んだ句。

 鷹一つ見付てうれしいらご崎

もちろん、鷹とは杜国のことである。

冬の鷹といえば、吉村昭に同名の小説がある。Amazonの解説によればこう。わずかな手掛かりをもとに、苦心惨憺、殆んど独力で訳出した「解体新書」だが、訳者前野良沢の名は記されなかった。出版に尽力した実務肌の相棒杉田玄白が世間の名声を博するのとは対照的に、彼は終始地道な訳業に専心、孤高の晩年を貫いて巷に窮死する・・。

100年後に苦労したこちらの冬の鷹も世渡りが下手だったのだろう。吉村昭の小説は、新潮文庫の100冊に選ばれていたので、読んだのだったと思う。残念ながら、さいきんは選に漏れているようだ。はやらないのだろうか。

                                    (つづく)

2023年3月23日木曜日

岩沼@おくのほそ道

 



 岩沼は、阿武隈山地の北側に位置する。阿武隈川が福島から北にむけて流れてきて、阿武隈山地の北で突如向きを変え、南にむけて流れ太平洋にそそぐ。そのため、岩沼は道が2つに分かれる分岐点となっている。

1枚目の写真は、岩沼駅の高架橋から南をのぞんだもの。中央の山影が阿武隈山地。阿武隈川は右奥から流れてきて、山地の迂回し、左奥へ流れている。

写真右奥へむかって東北本線・中通り、左奥へむかって常磐線・浜通りである。中通りのむこうに福島、浜通りのむこうに福島第一原発がある。

岩沼駅前を15分ほど南下すると、竹駒神社がある(2枚目の写真)。日本三大稲荷。アニメ「バクテン!!」の聖地らしい。知らなかった。


神社の北に古歌で有名な武隈の松がある。根もとから幹が二つに分かれているので、またの名を二木の松という(3枚目の写真)。

その珍しい形状から古来、歌枕になっている。

 武隈の松は二木(にき)をみやこ人いかがと問はばみきと答へむ 橘季道

「にき」と「みき(見き)」のシャレである。

江戸をでるとき、芭蕉の弟子の挙白が餞別の句を詠んだ(かれはこの地方の出身だといわれている)。

 武隈の松見せ申せ遅桜

これらを踏まえて芭蕉が詠んだ句はこれ。

 桜より松は二木を三月越し

桜と松、二木と三月のとりあわせである。いまなら、地震・津波・原発事故を喚起されるところである。

2023年3月22日水曜日

笠島@おくのほそ道



 芭蕉一行は、飯塚温泉から、桑折駅に出て、伊達の大木戸を通過した。桑折駅は、いったん福島駅に戻り、東北本線で北上し3つ目の駅である。

伊達の大木戸は隣の藤田駅の先。国見町文化財センターあつかし歴史館あたり。いまは4号線が走っていて、むかしの大木戸の雰囲気はない(江戸時代の雰囲気を知っているわけではないけれども)。ここから先は宮城県である。

さらに鐙摺・白石の城を過ぎ、笠島の郡に入る。地理的にも実際の行程的にも岩沼が先であるが、ここでも前後のつながりから、芭蕉は笠島のことを先に書いている。

笠島は、芭蕉が心を寄せる中将・藤原実方ゆかりの地だ。実方は清少納言ともつきあいのあった風流貴公子。宮中で喧嘩をしてしまい、天皇から「陸奥の歌枕見てまいれ」と陸奥守に左遷された。陸奥だから右遷だろうか。

笠島には道祖神の社がある(2枚目の写真)。道祖神は旅の神である。実方はその社前を乗馬のまま通りすぎようとしたため、神の怒りにふれ、客死したとされる。こんかい訪ねたときは、大学生たちが映画を撮っていた。

道祖神の社から北にすこし行くと、実方の墓がある(3枚目の写真)。実方は在原業平にも比せられる貴族だが墓は質素だ。

これまた芭蕉が敬愛する西行も墓参りをしている。詠んだ歌はこれ。

 朽ちもせぬその名ばかりをとどめ置きて枯野の薄かたみにぞ見る

かたみの薄はいまもあるが、当時のものではないだろう(行けばわかる)。

ところが、芭蕉はじっさいには道祖神の社にも、実方の墓にも参っていない。遠くからながめただけである(1枚目の写真)。五月雨に道いと悪しかったことが理由である。疲れていたのか、完全(予定調和)になることをきらったのか。

 笠島はいづこ五月のぬかり道

2023年3月16日木曜日

飯塚温泉@おくのほそ道

 



 このあたり、九州人には土地鑑がないだろうから、やはり地図を参照しながら進むことにしよう。 https://www.google.com/maps/place/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%9C%8C%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E5%B8%82/@37.8277075,140.4424568,16z/data=!4m6!3m5!1s0x5f8a8ed12a3a4dd9:0xc064d0fc14fe346!8m2!3d37.7607991!4d140.4747855!16zL20vMGdxa3g


地図を開いてもらうと、左下のほうに瑠璃光山・医王寺がある。ここが出発点である。このあたりから北に、佐藤庄司(基治)の居城跡を望むことができる。1枚目の写真の左側の小山である。山の名は館山(丸山)、あるいは、大鳥城跡ともいう。いまは館ノ山公園として整備されている。

そこから飯坂温泉へむかう。一般的には医王寺前駅に戻って鉄道を利用するのだろうが、グーグルさんで検索して、歩いてもいけると判断した。寺の横の細い道をおり、果樹園のなかをとおりと5号線にでた。そして花桃の公園、花水坂駅をとおり、飯坂温泉駅に着いた。

ここまで読んできて、飯塚というのは飯坂の誤植ではないかと思ったかたもあるだろう。しかし、おくのほそ道では、たしかに飯塚と表記されている。むかしは飯塚と呼ばれていたのであろう。

飯坂駅横に芭蕉像がたっている(2枚目の写真)。文人画などでじいさんぽく描かれることの多い芭蕉であるが、この像はとても凜々しい。1日40キロも歩いた健脚の芭蕉としては、こちらの像のイメージのほうが似つかわしい。

芭蕉像の後ろは摺上川が流れていて、ここは十綱の渡しと呼ばれ、現在は十綱橋が架かっている。むかし十本の藤蔓で編んだ吊り橋が架けられていた。頼朝群が奥州追討に迫ってきた際、佐藤庄司はその橋を自ら切り落として迎え撃ったという。

飯塚温泉街は、歴史・規模とも日本を代表する名泉の一つとされる。温泉宿が林立し、温泉街がつづく。なかに共同浴場がいくつかあり、3枚目の写真はその一つ、鯖湖湯である。湯涌のモニュメントがユニーク。写真ではよく分からないが、この日は寒風が吹いていたので湯冷めを心配して、入湯は断念した。

飯坂温泉観光協会としては頭の痛い問題だろうが、おくのほそ道で、飯塚温泉は悪役にしたてられている。おくのほそ道は単なる紀行文ではない。山あり谷ありのドラマとして書かれている。飯塚温泉は仙台・伊達藩に入る直前に位置していることから、伊達藩入りをひとつの山(盛り上がり)にするために、飯塚温泉はそのひきたて役として谷にされたようだ。

登山をしなくとも、山と名のつくものならなんでも登りたいので、もちろん先ほどの館ノ山に登った。温泉街を西へ行く。

芭蕉の時代、麓に大手の跡などがあったようだが、いまは見当たらない。それでも二の砦跡、一の砦跡を経て、山頂にいたる。山頂は開けており、展望所からは吾妻山をはじめ福島の山々が白く輝いていた。

2023年3月15日水曜日

医王寺@おくのほそ道

 



 東北南部の山旅は4日間を予定していた。しかし、残る2日間は北風が強く、山上では風速20メートルを超えることが予報されていた(実際、平地でも北風が強かった)。そのため、登山はあきらめ、おくのほそ道・芭蕉の足跡をたどることにした。

まず訪れたのは医王寺である。といってもほとんどの九州人は知らないだろう。下記地図を参照してほしい。福島駅から北へ福島交通・飯坂線がのびている。それに乗って8つ目の駅が医王寺前になっている。そこから北西へ歩いて15分である。地図を拡大するとわかる。

しのぶの里のことは、以前、本ブログに書いたことがある(1枚目の写真)。そう、河原左大臣による有名な和歌ゆかりの地である。

 陸奥のしのぶもぢずり誰ゆえに乱れそめにしわれならなくに

地図を拡大すると、福島駅の東北東、115号線を行ったところにある。文知摺観音(もぢずりかんのん)とあるのがそれだ。芭蕉一行はそこから北北西へ北上した。

福島駅の東には阿武隈川が流れている(2枚目の写真)。流れは北上している。宮城県に入り、あとで紹介する岩沼駅の手前で180度向きを変えて南流し、太平洋にそそぐ。

一行は月の輪の渡しで、川を越えた。そして瀬の上という宿に出た。瀬上は阿武隈急行線の駅もあり、どこであるかはわかりやすい。

そこから西方向は飯塚の里である。鎌倉殿の十三人のドラマがはじまったころ、ここを治めていたのは佐藤庄司(基治)である。かれは奥州藤原氏の家臣で、義経の忠臣である継信・忠信の父である。

芭蕉は悲運の義経ファンであるから、その忠臣である継信・忠信もだいすきである。ついでに、その父・佐藤庄司や継信・忠信たちの嫁までだいすきだった。

佐藤一族の菩提寺が医王寺である(3枚目の写真)。薬師如来を本尊とする真言宗の寺である。むかしの医療は漢方薬の投与が基本だから、薬師如来=医王なのである。

本堂の左手の杉木立を進むと、その奥に薬師堂がたっている。佐藤基治が建立したという。その回りに、基治や佐藤兄弟の墓がある。墓といっても、いっぷう変わっていて、石版の碑である(4枚目の写真)。

杉木立を戻ると本堂横に瑠璃光殿という宝物殿がある。そこに弁慶の笈など、ゆかりの品々が展示されている。芭蕉は感動のあまり、涙を落とし、袂をぬらした。

 笈も太刀も五月に飾れ紙幟

2023年1月16日月曜日

ヒキガエルのカップル

 


 昨年「大追跡!謎の登山ガエル」という番組が放送された。NHK「ダーウィンが来た!」で。

https://www.nhk.jp/p/darwin/ts/8M52YNKXZ4/episode/te/XX81ZJLZV9/

福岡県の霊峰・宝満山にたくさんの子ガエルが大量に登っていく。このブログでも12月21日の記事で紹介した。

http://blog.chikushi-lo.jp/2022/12/blog-post_21.html

きのうは怪鳥会の新年発登山だった。登りはじめで、「ダーウィンが来た!」の話題になった。この池が野々池で、ここでオタマジャクシが孵化するんだよねなどと話した。

しばらく登ると、左手にヒキガエルが。なんとその上部にはヒキガエルのカップルが春を準備していた。どうやらいまの時期に産卵して、梅雨時に孵化するようだ。

ヤマカガシ連中に負けないで、頑張って命をつないでほしい。太宰府の市民遺産が絶えないことを祈ろう。

ところでヒキガエルの季語は夏である。

 這出よかひやが下のひきの声 芭蕉

2022年2月1日火曜日

長谷寺へー玉鬘の旅

 

 玉鬘(たまかずら)姫一行は京に着いたものの、そこから先は行くあてがない。将来の展望をもてないので、お付きのもののなかには九州に帰ってしまうものもでるしまつ。

しかたがないので神仏に祈ることに。まずは石清水八幡宮。これが先に紹介した松浦の宮や筥崎の宮とご神体がおなじところ。

おくのほそ道のなかにも、こういうくだりがある。

 室の八島に詣す。同行者曽良がいはく、「この神は木の花咲耶姫の神と申して、富士一体なり。・・・」

室の八島と富士山の浅間神社の神はコノハナサクヤヒメでおなじだというのである。じぶんたちの感覚では八百万の神さまはみな一体化してしまっているように思えるが、昔のひとは識別していたのだろう。

石清水八幡宮のつぎは長谷寺に参詣することになった。京都駅から検索すると、石清水八幡宮まで18キロメートル、長谷寺まで73キロメートルある。時速4キロメートルで歩いたとして、それぞれ片道4時間半、あるいは18時間余かかる。18時間となると一日では無理で、2日に分けても一日9時間歩かなければならない。

さすがに姫は駕籠かなと思いきや、そうでもないらしい(やはり林望先生の訳)。

 この市に着いてからは、もはや歩くなどという様子ではなく、あれこれ手当てをしてはみるけれど、もう足じゅうが血豆になって一歩も動くことができぬ・・・。

当時のお姫さまは日ごろどのように暮らしていたのだろう。深窓の令嬢の言葉どおり、屋敷のなかからめったに出歩かないのであれば、この旅はそうとうきつかっただろう。

いまの人はもっと深刻かもしれない。車社会であるから一日40キロメートル弱、9時間を2日間歩ける人はかなり少ないだろう。そうなると、本当は高貴な生まれであるにもかかわらず、源氏の君と会えないまま人生を終えざるをえない。残念(笑)。


2022年1月7日金曜日

冬の旅(1)ー大垣

 




 年末年始は雪山にこもって修行と反省と感謝をする予定だった。しかし大雪が予想されていた。仕事納めの朝の天気予報でもそうだった。実際、トミーの実家のある近江では70センチも積もったらしい。

やむなく雪山は中止。山小屋に電話をかけてすべてキャンセルした。名古屋に前泊する予定だったので、その予約だけを残し、名古屋から大阪方面へ「冬の旅」をすることにした。

主には西国三十三所めぐりである。岐阜には満願となる三十三番札所がある。そこを手はじめに、いくつかの札所をめぐることを考えた。

これには2つの経緯がある。1つは、四王寺山の三十三石仏めぐりとの関連。コロナ禍のなか遠出が憚られる折に、よくめぐるようになった。

起源は江戸時代。西国三十三所の札所の土を集めて、四王寺の山上に整備したらしい。甲子園の土を記念に持ち帰るようなものだろう。

江戸時代の庶民は旅行など手軽にできなかったろうから、身近な巡礼路として歓迎されたのではなかろうか。そのご利益がコロナ禍のわれわれにまでおよぶことになろうとは。

ご用納めの日には事務所会議も開かれ、例の近況報告もなされた。担当だったので、そのように報告した。札所の土をもちかえるよう提案がなされたが、「もちかえってよいのは写真だけ」と回答。

経緯の2つはこうだ。本ブログでも報告したとおり昨年10月、岐阜県にある二百名山の能郷白山に登った。アプローチは大垣から樽見鉄道を利用。その途中、谷汲口駅で停車した。あとで調べたら、三十三番札所が谷汲寺といい、その入口という意味だった。

浅からぬご縁を感じた。いわゆるシンクロニシティだ。むろん科学的には単なる偶然の一致である。

しかし、考え方は2つに分かれる。1つは偶然の一致だから、意味はないと考える途。もう1つはなにかの導きであり、とても意味があると考える途。もちろん後者の途を選択している。そのほうが幸せになれるから。

宗教を信じている人と信じていない人とでは、前者のほうが幸せ度が高いそうだ。それはそうだろう。科学的に証明されなくても、来世があると信じたほうが安らかに生き、安らかに死ねるだろう。自身、来世があるとまでは信じていないけれども。

ということで28日は名古屋で宿泊し、翌朝、谷汲寺をめざした。東海道線で北上し、大垣駅で樽見鉄道に乗り換えだ。ところが乗換まで1時間の待ち時間があった。

やむをえず、昨年10月につづき、大垣市内めぐり。大垣城を経由して「おくのほそ道むすびの地」へ。そこで芭蕉と木因がでむかえてくれる。

芭蕉はそこから舟に乗って南(伊勢)にむかう旅だった。それを示すように、川べりには住吉燈台と鵜飼舟が。

こちらは水門川沿いを北へ戻る。川が東に向きを変えるところに八幡神社があり、句碑が建っている。

 折々に伊吹を見ては冬籠り

建物がたてこんでいて、さすがに神社からは伊吹が見えない。どこか見えるところはないかなと歩いていると、駅前を流れる川ぞいに冠雪した伊吹が見えた。美しい。

マンホールのデザインもむすびの地だ。住吉燈台と舟。それにサツキがあしらわれている。花の季節にまた来たいな。