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2024年6月11日火曜日

光源氏って誰?

 

  みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに
         乱れそめにしわれならなくに  河原左大臣

 陸奥産のしのぶ摺りの乱れ模様のように、私の心はひどく乱れている。いったい誰のせいで乱れはじめたというのでしょう、私のせいではないのに。すべてあなたのせいなのに。

 百人一首14番の歌。河原左大臣は、源融(みなもとのとおる)。『源氏物語』主人公である光源氏のモデル候補一番である。嵯峨天皇の皇子でありながら臣籍に降下、源姓を名乗る。藤原基経が天皇の外戚として摂政に任じられると自宅にひきこもるなど、光源氏の境遇と似ている。

その他、先に紹介した実方や伊周(これちか)もモデルとして考えられている。実方は一条天皇により奥州に左遷され、伊周も大宰府に流されている。須磨・明石の段のストーリーに影響を与えているのだろうか。


 融は陸奥出羽按察使を任官したため、陸奥にまつわるエピソードが多い。この歌もそのひとつである。

 福島市の東には信夫(しのぶ)の里がいまもある。そこには文字摺石もある。「おくのほそ道」で芭蕉も訪れた。

 明くれば、しのぶもぢ摺りの石を尋ねて、信夫の里に行く。遙か山陰の小里に、石半ば土に埋もれてあり。里のわらべの来たりて教へける、「昔はこの山の上にはべりしを、往来の人の麦草を荒らしてこの石を試みはべるを憎みて、この谷に突き落とせば、石の面、下ざまに伏したり」といふ。さもあるべきことにや。
 早苗とる手もとや昔しのぶ摺り

 なぜ、往来の人の麦草を荒らしてこの石を試みはべってのか?それは虎女伝説のため。

 昔々、都から河原左大臣源融という貴人がこの地にやってきて、虎女という美少女と愛し合うようになった。やがて、都に帰った融を忘れかねて、虎女がもじ摺り石の面に麦をすりつけると、融の面影が浮かび出たという。 


 (渉成園) 

 融は六条河原院(現在の渉成園)に塩竈の風景を模した庭園を造らせた。そして藻塩を焼く煙を立ち上らせ、池にはわざわざ難波・尼崎から海水を運び込ませていたという。当代きっての風流人で、在原業平とも深い親交があった。


(陸奥塩竈神社)


(塩竈)

 『伊勢物語』塩竈(81段)

 むかし、左のおほいまうちぎみいまそがりけり。
 加茂川のほとりに、六条わたりに、家をいとおもしろく造りて、すみたまひけり。
 十月のつもごりがた、菊の花うつろひあかりなるに、もみぢのちぐさに見ゆるをり、親王たちにおはしまさせて、夜ひと夜、酒飲みし遊びて、夜明けもてゆくほどに、この殿のおもしろきをほむる歌よむ。
 そこにありけるかたゐおきな、板敷のしたにはひ歩きて、人にみなよませはててよめる。
 塩竈にいつか来にけむ朝なぎ釣する船はここによらなむ
となむよみけるは。陸奥の国にいきたりけるとに、あやしくおもしろき所々大かりけり。・・・。

これを元に、世阿弥は謡曲『融』を書いた。

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年6月10日月曜日

伊勢大輔って誰?

 

 いにしへの奈良の都の八重桜
       けふ九重ににほひぬるかな  伊勢大輔

 古都奈良の都で咲いていた八重桜が、今日は新しい都京都に献上されて、九重の宮中で美しく咲き誇っていますよ。

 百人一首61番の歌。伊勢大輔は、伊勢神宮祭主の娘。六条御息所のエピソードといい、当時、都と伊勢は密接な交流があったのだろう。

伊勢はやはり彰子中宮のサロンに仕え、和泉式部や紫式部と親交があった。そして実家である大中臣家は歌人の家としても代々有名であった。

 この歌の詞書。

 一条院の御時、奈良の八重桜を人のたてまつりて侍りけるを、そのをり御前に侍りければ、その花をたまひて歌よめとおほせられければよめる。

 当時、伊勢は新参女房で、いわば初出場、デビュー曲だった。桜の受け取り役は先輩の紫式部から譲られた。中宮彰子はもちろん道長も同席。歌よめと命じたのは道長だった。

本人も緊張したろだろう。自分も大法廷で初めて尋問したときは極度に緊張した。まわりも固唾をのんで事のなりゆきをうかがった。あの代々歌詠みの家系である大中臣家の娘らしいけれど、どれほどの実力かしら?

そうしたら、披露したのがこの歌だ。九重は山の名ではない、宮中のことだ。いにしえの奈良とけふ九重との対比。八重桜と九重との対比。よくもこれだけスケールの大きな歌を新人がものすることができたものだ。

結果、「殿をはじめ奉りて万人感嘆、宮中鼓動す」。そりゃそうだろう。

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年6月7日金曜日

大弐三位って誰?

 

 ありま山ゐなの笹原風吹けば
       いでそよ人を忘れやはする  大弐三位

 有馬山から猪名の笹原へと風が吹きおろすので、笹の葉がそよそよとそよぐ。そうですよ、そのように、私はあなたのことを忘れなどするでしょうか、忘れはしません。

 百人一首58番の歌。大弐三位は紫式部の娘である。和泉式部-小式部内侍の母娘につづいて、母娘での登場。いまなら藤圭子-宇多田ヒカルみたいなものか。才能を受け継ぎ、母娘で栄誉を受ける。

大弐三位も、やはり彰子のサロンに入っている。これもまた和泉式部母娘と同じ。というか逆か。

大弐・三位という名前は、前半は夫が大宰大弐だったから、後半は自身が後冷泉天皇の乳母となり従三位に叙されたため。

東京オリンピック2位、パリオリンピック3位となれば、第2位・3位と呼ばれるだろうか。

知りあいの弁護士に夫が(元)弁護士会会長、自身がロータリークラブ地区幹事、ガバナー補佐(予定)のかたがいらっしゃる。世が世なら、弁護士会会長・地区幹事・ガバナー補佐・弁護士だ。


 めぐりあひて見しやそれともわかぬまに
           雲がくれにし夜半の月かな  紫式部

 やっとめぐり会って、見たのが月だったのかどうかもわからないうちに、雲の中に隠れてしまった夜半の月よ。それと同じように、久しぶりに出会ったのに、幼友達のあなただったのか、はっきりと見分けられないうちに、あなたは姿を隠してしまいました。

 百人一首57番の歌。いわずとしれた「光る君へ」の主人公まひろさん。




 有馬はいまでは温泉地になっている。神戸からいうと、六甲山の向こう側の盆地に位置している。さて有馬山とはどこだろう?

猪名(郡)はいまの吹田、伊丹、尼崎あたりのことらしい。つまり、淀川河口の北岸あたりだ。平安時代は笹原だったのだろう。

しかし、有馬の山から淀川河口あたりまで風が吹き下ろすということがあるだろうか?

https://www.google.com/maps/place/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C%E5%90%B9%E7%94%B0%E5%B8%82/@34.7551324,135.2932428,12.25z/data=!4m6!3m5!1s0x6000e4a6bda73c45:0x527cc777508a7d95!8m2!3d34.7593593!4d135.5164769!16zL20vMDF3bjEx?entry=ttu

調べると、昔から有馬山と猪名はセットで詠まれることが多かったらしい。有馬山は特定の山ではなく、その周辺の山々の総称だという。それなら、いまの六甲山東部でよくないだろうか。よく分からない。

よく分からないといえば、「笹の葉がそよそよとそよぐように、私はあなたのことを忘れはしません」というロジックもよく分からない。時間が経って忘れることができたと思っていても、なにかのひょうしに思い出してしまい、心がざわざわするということだろうか。なんか、ざわざわする。

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年6月6日木曜日

小式部内侍って誰?

 

 大江山いく野の道の遠ければ
       まだふみも見ず天の橋立  小式部内侍

 母の住む丹後国は、大江山を越え、生野を通って行く道のりが遠いので、まだかの有名な天の橋立を踏んでみたこともありませんし、母からの手紙も届いておりません。

百人一首60番の歌。小式部内侍は和泉式部と橘道貞(和泉守)の間の娘。母同様、彰子に仕えた。

 この歌は詞書といっしょに読まないとこうは訳せない。詞書はつぎのとおり。

 和泉式部、安昌に具して丹後国に侍りけるころ、都に歌合のありけるに、小式部内侍歌よみにとられて侍りけるを、中納言定頼つぼねのかたにまうできて、歌はいかがさせ給ふ、丹後へ人はつかはしけむや、使はもうでこずや、いかに心もとなくおぼすらむ、などたはぶれてたちけるをひきとどめてよめる


 中納言定頼は、百人一首64番に歌を採られている歌人。あの公任の子である。

 定頼は小式部内侍に気があったのか、すこし失礼な戯れごとを言ってしまった。和泉式部は当時、①橘道貞(小式部内侍の父)、②為尊親王、③敦道親王につづく、第4の男④藤原保昌と再婚し、夫の任地である丹後についていっていた。

そうした折り、歌合が開かれることになり、小式部内侍にもお声がかかった。母の名声があまりに高かったので、定頼は「お母様に頼んだ代作の手紙は届きましたか」と冗談を言ったのだ。それに対する反撃が上記の歌。みごと。


(唐津くんち11番曳山 酒呑童子と源頼光の兜)

 大江山に酒呑童子という鬼が出没し、源頼光(マサカリかついだ金太郎はその家来)が退治した。はねられた酒呑童子の首は宙を飛んで頼光の兜にかぶりついたという。

頼光のほうが年長だが没年はあまり変わらないので、小式部の内侍と頼光は同時代人といってよい。このころ、大江山には酒気を帯びた盗賊団が多数出没したのだろう。丹後までの道は地理的のみならず治安・労力的にも遠かったはずだ。


 定頼のこうした軽率な性格は父譲り。父・公任は紫式部におなじような戯れごとを言って、聞き流しの返礼をこうむっている(『紫式部日記』五十日の祝い)。

 左衛門の督(公任)、
 「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」とうかがひ給ふ。源氏にかかるべき人も見え給はぬに、かの上はまいていかでものし給はむと、聞き居たり。

 若紫は『源氏物語』に登場する源氏の最愛の女性・紫の上の幼いころの呼び名。公任としては「さいきん評判の源氏物語の作者さんはいらっしゃいますか?若紫の名で呼んじゃおうかな?」みたいなつもりだったろうが、紫式部のまじめな性格をまえにして玉砕。おのれのみ砕けてものを思ふころとなった。まるで「虎に翼」における伊藤沙莉と沢村一樹の間のやりとりのよう。

 清少納言と行成のやりとりが『枕草子』に複数記載されていることは前に紹介したとおり。女官たちは男性官僚たちのちょっかいに悩んだり、かけあいを楽しんだりしたことだろう。

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年6月5日水曜日

和泉式部って誰?

 

 あらざらむこの世のほかの思ひ出に
       いまひとたびのあふこともがな  和泉式部

 私はもうすぐ死んで、この世からいなくなるでしょう。あの世への思い出として、せめてもう一度だけあなたにお逢いしたいのです。

百人一首56番の歌。『和泉式部日記』の作者。日記は冷泉天皇の子である兄・為尊親王(花山天皇の異母弟)が亡くなったあと、その弟・敦道親王との燃え上がる恋を描いたもの。敦道親王が亡くなったあと、和泉は日記を執筆した。

その後、和泉は中宮彰子に仕えた。彰子は、道長と倫子との間の娘。赤染衛門が倫子のサロンのあと、彰子のサロンに仕えるようになったのは、母→娘という自然な流れである。

一条天皇は、文学好き。当初、漢詩文など教養のある定子(高畑充希)にぞっこん。定子には清少納言が仕えていた。定子は道隆と儀同三司母の子である。伊周らの失脚に伴い、落飾してしまう。

その後継をねらったのが、道長と娘・彰子。道長は文学好きな一条天皇の気をひこうと彰子のサロンに華麗な女流歌人をスカウトしまくった。赤染衛門しかり、紫式部しかり、和泉式部しかり。どこぞの野球チームのよう。

和泉式部の人生や日記はスキャンダラスなのだけれども、道長はそこらへんも踏まえつつ、一条天皇の気をひく人材のひとりとしてスカウトしたのだろう。彰子サロンでは、紫式部の4年後輩である。

紫式部は、日記に、和泉式部評を書いている。

 和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど、和泉はけしからぬかたことあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見え侍るめり。歌は、いとをかしきこと。ものおぼえ、歌のことわり、まことの歌よみざまにこそ侍らざめれ、口にまかせたる言どもに、必ずをかしき一ふしの目にとまる詠み添へ侍り。それだに、人の詠みたらむ歌難じことわりゐたらむは、「いでやさまで心は得じ。口にいと歌の詠まるるなめり」とぞ見えたるすぢに侍るかし。「恥づかしげの歌よみや」とおぼえ侍らず。

的確といわれるが長いので、『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』の和泉評を引用する。

 和泉式部は、その身体表現、官能性、豊かな表現力において、他の歌人とは一線を画する、独自の恋歌の世界を形成する。

天皇の血をひく貴公子兄弟をはじめ、男にモテモテで恋多き人生から得た糧をすべて恋歌に昇華したのだろう。

ところで、和泉式部の和泉は泉州岸和田というばあいの泉州のことである。先日、和泉葛城山に登った報告をしたが、あの和泉である。

和泉は何度か結婚している。最初の夫・橘道貞が和泉守になったので、和泉式部と呼ばれる。岸和田にはゆかりの地がいくつかある。

 https://www7b.biglobe.ne.jp/~kiku-uj/yukari/izumi.html

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年6月4日火曜日

赤染衛門って誰?


  村上天皇の天徳四年内裏歌合の最終回、平兼盛と壬生忠見の勝負はどちらが勝ったのか。百人一首で平兼盛が40番、壬生忠見が41番となっていることにあらわれているように、兼盛の歌が勝った。

しかし両者互角。いまでいえば優劣つけがたく、両作ともに直木賞をあげちゃう感じ。だがしかしそこは村上天皇主催の歌合。判者の藤原実頼が勝敗を決めかねて天皇の気色をうかがった。すると天皇はひそかに「忍ぶれど」とつぶやいたので、兼盛の勝ちとなった。

兼盛は自分が勝ったと知ると、他のことは聞かず退出したという。儀礼にとんちゃくしない芸術家肌だったようだ。


 やすらはで寝なましものをさ夜ふけて
          かたぶくまでの月をみしかな  赤染衛門

 ぐずぐずとあなたの訪れを待ったりせず、さっさと寝てしまえばよかったのに、夜が更けて、西の山に傾くまで月を見てしまいました。

百人一首59番の歌。赤染衛門は赤染時用の娘とされるが、実父は兼盛かもといわれる。兼盛が妻と離婚したときすでに妊娠しており、時用と再婚したあと出産したため、兼盛は娘の親権を主張して裁判で争ったが認められなかったという。

平安時代に親権や親子関係の存否について裁判ができたことに驚く。現代であれば親子関係の存否確認はDNA関係で高度の蓋然性をもって証明することができる。


しかし平安時代には血液型の知識もなかったろうから、兼盛は上記状況証拠だけで争ったのだろう。いまでもこれだけの状況証拠では勝てない。しかし、赤染衛門が立派な女流歌人に成長したことからすれば、兼盛の血筋だった可能性は高い。

赤染衛門は「光る君へ」に描かれたとおり、藤原道長の妻倫子(黒木華)に仕えた。その後、中宮彰子に仕えた。ドラマでは紫式部も倫子のサロンで会っている。この後、彰子のサロンで再会することになるのだろうか。

先の歌には「中関白少将に侍りける時、はらからなる人にもの言ひわたり侍りけり、頼めてもうで来ざりけるつとめて、女にかはりてよめる」と詞書がある。中関白少将は藤原道隆(井浦新)。つまり、儀同三司の母=高階貴子(板谷由夏)の夫。赤染衛門の姉妹と恋仲になったので、赤染衛門が歌を代作した。

ドラマでは儀同三司=伊周(三浦翔平)が勅命に違背して大宰府から舞い戻ったものの、母はすでにみまかったあとだった・・・。母が

 「今日をかぎりの命ともがな」

と最後に言ったかどうかは分からない。

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年5月30日木曜日

平兼盛、壬生忠見って誰?

 

 しのぶれど色にいでにけりわが恋は
        物や思ふと人のとふまで  平兼盛

 隠していても、やはり態度に表れてしまったのだなあ、私の恋は。「恋をしているのでは?」と、人が尋ねるまでに。

 百人一首40番の歌。平兼盛は、源重之の妹たちに「黒塚に鬼籠もれりと言ふはまことか」といささかデリカシーを欠く歌を送った人(5月28日付ブログ)。


 恋すてふわが名はまだき立ちにけり
       人知れずこそ思ひそめしか  壬生忠見

 恋しているという評判が早くも立ってしまった。人知れず、あの人を思い初めたばかりなのに。

 百人一首41番の歌。上記40番の歌と似てないだろうか。それはそう、どちらも歌題は「忍ぶ恋」。村上天皇の天徳4年(960年)内裏歌合で。

「忍ぶ恋」というと演歌そのもの。日本人は平安の昔から忍ぶ恋が好きだったようだ。

村上天皇は「光る君へ」に出ていた円融天皇(坂東巳之助)の1つまえ代の天皇。関白を置かず親政をおこない、天暦の治と呼ばれた。

歌合は、いまでいえばカラオケ大会、カルタ大会、剣道の試合、あるいは、プレバトみたいなものか。歌人を左右2組に分け、その詠んだ歌を一番ごとに比べて優劣を争う遊び。

天徳内裏歌合は、歌題の提示から当日まで1か月の間をおき、進め方や左右双方の衣装、歌を書いた色紙を置く州浜(飾り台)にいたるまで周到に準備されたもので、その典雅さで後世の手本となった。

3月初めに示された歌題は霞、鶯、柳、桜、山吹、藤、暮春、首夏、郭公、卯花、夏草、恋。判者は藤原実頼、補佐は源高明。

いまの宮中歌会でもそうだろうが、天皇の御前ゆえ、ハレの舞台であるとともに参加者は極度に緊張したようだ。三番の鶯の歌のとき、右方の講師であった源博雅は誤って四番の柳の歌を読み上げてしまった。恥じ入るあまり顔面蒼白となり、声がふるえてうまく読めなかったという。

そうしたなか、最後(二十番)におこなわれたのが、平兼盛と壬生忠見の勝負。剣道でいえば大将どうしだ。恋をめぐるかけひきでもある。後世まで語り継がれることになった名勝負となった。どちらの歌も名歌のほまれ高く、百人一首に採られている。

みなさんは、どちらの和歌のほうがすぐれていると思いますか?あるいは、どちらが勝ったと思いますか? 

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年5月28日火曜日

源重之って誰?

 

 風をいたみ岩うつ波のおのれのみ
        くだけて物を思ふころかな  源重之

 風が激しいので、岩に打ち寄せる波が自分だけ砕け散るように、相手は平然としているのに、私だけが砕け散るような、恋の物思いをしていることよ。

百人一首48番の歌。昨日紹介した実方とともに陸奥国に下向し、同地で没したという。
父・兼信が陸奥国安達郡に土着していることから、実家に帰ったのかもしれない。


安達太良山の青い空がほんとうの空と指をさす智恵子像


中央が安達太良山

陸奥国安達郡は、高村光太郎の『智恵子抄』で有名な安達太良山の麓である。


鬼女が住んでいたという黒塚

安達太良山の麓には、安達ヶ原がひろがっている。安達ヶ原には黒塚がある。つまり、謡曲『安達原』ないし『黒塚』の舞台である。ストーリーはこう。

 阿闍梨祐慶ら修験者らは、諸国をめぐる修行をしていた。旅の途中、人里離れた安達ヶ原で日が暮れてしまう。一軒だけあったあばら家の女に一夜の宿を提供してもらうことになった。

 夜更け、女は薪をとりにいくと言って出かけた。出かける際、自分の寝室を覗かないよう女は一行に釘をさした。けれども、従者が覗いてしまい、そこにはおびただしい数の死骸が。あわてて逃げ出す一行を鬼となった女が追いかける・・・。

禁じられると破りたくなる。童話『みるなのくら』のよう。



さて、源重之の友だちに平兼盛がいた。兼盛はつぎの歌を詠んでいる。

 名取郡黒塚に重之が妹あまたありと聞きつけていひつかしける

 陸奥(みちのく)の安達ヶ原の黒塚に鬼籠もれりと言ふはまことか

兼盛が妹たちに贈った恋歌らしい。恋しいけれども娘たちを鬼に例えた。小学生か。

鬼女伝説が先か、歌が先か。両説あるようだ。

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年5月27日月曜日

実方って誰?

 

 かくとだにえやはいぶきのさしも草
        さしもしらじなもゆる思ひを  藤原実方朝臣

 このようにあなたに恋しているとさえ、言うことができません。だから、あなたは、伊吹山のさしも草が燃える火のように、これほどにも燃える思いであることを、ご存じないでしょうね。

百人一首51番の歌。実方(さねかた)はこれまで紹介した公任、道信のほか、源重之と親しかった。しかし「光る君へ」には登場していない。しかし光源氏のモデルのひとりとされている。


大垣から西に伊吹山を望む(右側の山塊)。伊吹山のこちらがわの麓は関ヶ原(不破の関)。向こうは彦根や琵琶湖。つまり、山は東日本と西日本を扼する位置にある。

石灰岩(サンゴからできる)でできていて、海の底が隆起してできたことがわかる。日本海と太平洋の湿った空気が交互に入り霧を発生させる。そのような地質、気象から多彩な植物がはえている。

平安時代からそうだった。お灸につかうモグサ(さしも草)もそのひとつ。歌に詠まれるぐらいだから。


 実方は花山天皇、一条天皇につかえたが、行成(5月22日の「行成って誰?」参照)と喧嘩し、彼の冠を投げ捨てたところを一条天皇に目撃され、「歌枕見てまいれ」と陸奥守に左遷されたという。

史実かどうか疑われているエピソードであるが、伊周(儀同三司)が大宰府に左遷された史実や実方が東国の歌枕で歌をたくさん詠んでいることによく符合している。

またそのような辺境に流された貴人のイメージが光源氏のモデル(須磨・明石の)とされるゆえんである。光源氏はのち政界に復帰したが、実方は陸奥の地で亡くなった。

 写真は室の八島(栃木県)。『おくのほそ道』にも登場する歌枕。実方はつぎの歌を残している。

 いかでかは思ひありとも知らすべき
       室の八島のけぶりならでは

芭蕉同行の曽良の解説によると、室の八島とは「この神社の祭神は、コノハナサクヤヒメの神と申して、富士の浅間神社と同じご神体です。戸のない塗り籠めの室に入って日を放って身をお焼きになり、潔白の誓詞を立てられたその火の最中に、彦火火出見尊がお生まれになったということから、室の八島と申します。」「和歌の方で、室の八島について煙をよみならわしてきたのも、このいわれによるものです。」



 写真は白河の関。奥州三古関のひとつ。ここから先、みちのくに入る。古来、歌枕とされてきた。実方の歌は

 いかでかは人の通はんかくばかり
         水だに漏らぬ白河の関 


 写真は安積山(あさかやま)。福島県郡山にある歌枕。古今集の仮名序にも出てくる。

 端午の節句に葺く菖蒲が陸奥になかったことから、実方は代わりにあさか沼の花かつみを葺けと命じたという。


 写真は笠島道祖神社。実方はこの神社のまえを下馬しないで通ろうとしたため神罰が下っ落馬・落命したという。


 笠島道祖神社にほどちかい実方の墓。
 後年、西行が訪ねている。そこはススキの生い茂る枯れ野となっていた・・・。
 
 朽ちもせぬその名ばかりをとどめ置きて
          枯れ野の薄かたみにぞ見る 

 公任の「滝の音は」に似ているが、西行らしく墨染め色である。

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年5月24日金曜日

道信って誰?

 

 あけぬれば暮るるものとはしりながら
         なほうらめしき朝ぼらけかな  藤原道信朝臣

 夜が明けるとまたいずれ日が暮れるときがくるものだとはわかっていても、やはり恨めしい朝ぼらけだなあ。

百人一首52番の歌。道信は「光る君へ」には登場していない。が、同時代人である。きのうの四納言・公任(町田啓太)らと親しかった。

おなじく四納言・斉信(金田哲)の弟である。つまり、源為光(阪田マサノブ)の子であるが、兼家(段田安則)の養子になっている。

兼家が薨去したあと、詮子(吉田羊)のもとで詠んだ歌。

 女院にてあさがほを見給ひて

 あすしらぬ露のよにふる人にだに
        猶はかなしとみゆる朝がほ

奥ゆかしい性格。婉子女王に懸想した。が、同女は実資(ロバート秋山)と結婚してしまい、衝撃を受けた(秋山に負ければ、そりゃショックだろう)。女王に送った傷心の歌。

 あるところに、うらやましきことをききてきこゆる

 うれしきはいかばかりかは思ふらん
        身にしむものにぞ有りける

かれも若死、23歳だった。臨終に際しての歌

 くちなしの色にやふかくそみにけん
        思ふ事をもいはでやみにし

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年5月23日木曜日

公任って誰?

 

 滝の音は絶えて久しくなりぬれど
           名こそ流れてなほ聞こえけれ  大納言公任

 滝の水音は、絶えてから長い年月がたったけれども、その名声は今も世間に流れ、聞こえてくることよ。

百人一首55番、大納言公任の和歌。公任(きんとう。町田啓太)は、きのう紹介した行成(渡辺大知)や、源俊賢(本田大輔)、斉信(金田哲)とともに、道長政権を支えた四納言のひとり。つまり、実資(ロバート秋山)に、ゴマスリめと揶揄されていたひとり。

長保元年(999年)9月、道長は公任たちをひきつれて、大覚寺滝殿や大井川へ、弁当持参でピクニック(もちろん、単なるピクニックではない。)にでかけた。


これしかなかったので、変な男性が写っているが失礼。2011年10月京都大覚寺に行ったときの写真。左肩の後ろの立て札に「滝の音は・・・」と歌が書いてある。右肩の後ろが、公任の歌にでてくる滝の石組み。

嵯峨天皇の離宮がかってあったものの、道長や公任が訪れた当時は遺構のみ。遺構のみなのだけれども、嵯峨天皇の御代の栄光はいまも輝いていますねという歌意。もちろん、嵯峨政権と道長政権をダブらせて、道長をよいしょしているのだ。




 公任は和歌のほか、漢詩、管弦にもすぐれ、三船の才と呼ばれる。『大鏡』に

 ひととせ、入道殿(道長)の、大井河に逍遙せさせ給ひしに、作文の船、管弦の船、和歌の船と分かせ給ひて、その道にたへなる人々を乗せさせ給ひしに、
 この大納言殿(公任)の参り給へるを、入道殿、「かの大納言、いづれの船にか乗らるべき」とのたまへば、
 (公任)「和歌の船に乗り侍らむ」とのたまひて、詠み給へるぞかし。
 をぐら山あらしの風のさむければもみぢの錦きぬ人ぞなき
申しうけ給へるかひありてあそばしたりな。
 御みづからものたまふなるは、(公任)「作文の船にぞ乗るべかりける。さて、かばかりの詩を作りたらましかば、名のあがらむこともまさりなまし。口惜しかりけるわざかな。さても殿(道長)の、『いづれにと思ふ』とのたまわせしになむ、我ながら心おごりせられし」とのたまふなる。
 一事のすぐるるだにあるに、かくいづれの道にも抜け出で給ひけむは、古も侍らぬことなり。

とある。
かくて公任の才は、名こそ流れていまもなほ聞こえけれ。

なお、写真は大井川の右岸・嵐山のもみぢの錦。をぐら山は反対側・右岸。

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年5月22日水曜日

行成って誰?


 藤原行成って誰?
 
 きのう書いたように、ドラマでは渡辺大知が演じ、清少納言が「夜をこめて」の和歌を送った(そのことを『枕草子』に書いた)相手であり、道長政治を支えた能吏・四納言の一人であり、能書家で三蹟の一人であり、宮廷日記『権記』の執筆者である。

書は国宝になっている。

https://www.tnm.jp/modules/rblog/1/2016/08/26/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%A1%8C%E6%88%90%E3%81%AE%E6%9B%B8/ 

清少納言とは仲良しだったので、『枕草子』49段にも登場する。

 職の御曹司の西面の立蔀のもとにて、頭の辨(行成)、物をいと久しういひ立ち給へれば、さしいでて、「それはたれぞ」といへば、「辨さぶらふなり」とのたまふ。「なにかさもかたらひ給ふ。大辨みえば、うちすて奉りてんものを」といへば、いみじうわらひて、「たれかかかる事をさへいひ知らせけん。『それ、さなせそ』とかたらふなり」とのたまふ。・・・


 あはれともいふべき人は思ほえで
        身のいたづらになりぬべきかな  謙徳公
 
 「かわいそうに」と言ってくれる人がいるとも思えず、この身は恋のために死んでしまいそうです。

百人一首45番の歌。謙徳公は、藤原伊尹(これただ、これまさ)。兼家(段田安則)の兄。行成の祖父である。摂政・太政大臣にまでのぼりつめたが早逝した。 


 君がため惜しからざりし命さへ
         長くもがなと思ひけるかな  藤原義孝

 あなたに逢うためなら捨てても惜しくもないと思っていた我が命だったけれども、あなたに逢えた今朝は、その命までも長くあって、逢い続けたいと思うようになりました。

百人一首50番の歌。藤原義孝は、謙徳公(藤原伊尹)の子で、行成の父。美貌の貴公子だったが、長くもがなと願った命は21歳と短かった。

まとめると、行成の祖父は摂政・太政大臣であり、祖父も父も百人一首に採られるほど歌がうまい家系だったわけである。人もうらやむ華麗なる一族である。

さてNHK大河「光る君へ」の人物紹介によれば、行成は、道長よりも6歳下。道長政権下で蔵人頭に抜擢されると、細やかな気遣いで実務に能力を発揮、欠かせない存在として支え続ける。・・とある。

婉曲に紹介されているが、ズバリいえば「道長に追従する公卿」。そのように、実資(ロバート秋山)から揶揄されている。行成がそのような生き方を選ばざるをえなかったのは、祖父と父が早逝してしまい、後ろ盾をもたなかったから。後ろ盾を持たない悲哀は、源氏物語に描かれているとおり。

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年5月21日火曜日

清・少納言って誰?(4)

 


 夜をこめて鳥のそらねははかるとも
         よに逢坂の関はゆるさじ  清少納言

 夜が明けていないのに、かの孟嘗君の食客のように、鶏の鳴き真似をしてだましても、逢坂の関の関守はだまされませんし、私もだまされて、すぐ戸を開けてあなたと逢ったりはしませんよ。

 逢坂の関で足止めをくらっているうちに、義同三司母の息子たちは没落へ向かっていた(長徳の変 996年)。中宮定子(高畑允希)も巻き添えを食い、サロンの一員である清少納言(ファーストサマーウイカ)も無縁ではいられなかった。義同三司の往生際の悪さを庭から覗き見することはなかったろうが。

先の歌は百人一首の62番。この歌が詠まれた経緯は、清少納言のエッセイ『枕草子』に詳しい。『枕草子』はいうまでもないだろうが、

 春はあけぼの。やうやうしろくなり行く、山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。・・

という、あれである。

     

 この歌が詠まれた相手の男性は藤原行成(渡辺大知)。道長の全盛期を支えた四納言の一人。他の三納言は、源俊賢(本田大輔)、公任(町田啓太)、斉信(金田哲)。行成は、能書家・三蹟の一人であり、また宮廷日記『権記』を書き残している。


清少納言は後宮という役所の秘書官みたいなものであるから、能吏であった行成や斉信とも親しかった。かれらとの交流は『枕草子』のところどころに書かれている。百人一首の歌が詠まれた下りは136段。

ある夜、清少納言が行成と談笑していたところ、行成は宮中で用事があると言って急遽帰ってしまった。

翌朝、行成は「昨夜は夜明けを告げる鳥の声にせきたてられたので。早く帰って申しわけありません。」などと見え透いた弁解を入れてきた。それに対する清少納言の返しの皮肉がこの歌。 

かの孟嘗君の食客のように、鶏の鳴き真似をしてだましたという故事は、漢籍『史記』に基づく。「孟嘗君列伝 第十五」。

孟嘗君は、秦の昭蕘王のもとから命がけで逃げていた。夜中に函谷関にたどりついた。函谷関の関守は一番鳥が鳴かないと関を開けない。孟嘗君が困っていたところ、従者の一人が鳥の鳴き真似が上手だという。じっさいにやらせてみたら上手で、本物の鳥たちも呼応して鳴き出し、関守も門を開けてくれ、孟嘗君は窮地を脱することができた。

行成さま、あなたがかの孟嘗君の食客のように、鶏の鳴き真似をして私をだまそうとしても、逢坂の関の関守はだまされませんし、私だってだまされて、すぐ戸を開けてあなたと逢ったりはしませんよ。

清少納言の和歌はこの故事を踏まえたもの。行成の弁解をとっさに孟嘗君の鳥の鳴き真似にたとえた。函谷関の関守はだませても、逢坂の関の関守も私もだまされなくてよ。うふふ。

さて気になるのは、清少納言と行成との男女の仲。残念ながら?皆の期待を裏切り、できる女性上司と後輩男子とのやりとりにとどまったようだ(清少納言が6歳年長)。

清少納言は男女の仲より、こういう互いの教養をたしかめあうやり取りのほうが好きだったのだろう。

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年5月17日金曜日

清・少納言って誰?(2)

 

 夜をこめて鳥のそらねははかるとも
         よに逢坂の関はゆるさじ

 夜があけていないのに、かの孟嘗君の食客のように、鶏の鳴き真似をしてだましても、逢坂の関の関守はだまされませんし、私もだまされて、すぐ戸を開けてあなたと逢ったりはしませんよ。

百人一首62番。さすが清・少納言の歌という感じ。漢文の素養がないと読み解けない。

清少納言とは、父は誰か、漢詩文の素養の由来、中宮定子のサロンとは、この歌が詠まれたいきさつ、『枕草子』とは、逢坂の関とは、かの孟嘗君とは、中宮定子と清少納言の運命、「光る君へ」・紫式部との関係等々、どこから書いてよいか迷う。が、まずは逢坂の関から



 2017年1月に訪ねた。雪が降りしきっていた。山城(京都府)と近江(滋賀県)の国境にある。

逢坂は、『日本書紀』によれば、九州ともご縁が深い神功皇后の将軍・武内宿禰がこの地で忍熊王とばったりと出会ったことに由来するという。

交通の要衝であり、現代では東海道線や国道一号線が走る。古代には、逢坂の関が置かれた。京都を守る三関(鈴鹿関、不破関、逢坂関)の一つ。

紫式部は、近江の石山寺に参籠して、源氏物語の着想を得たというのだから、行き帰りには当然この関を通過したはずである。




逢坂の関といえば、清・少納言のまえに、蝉丸の歌だ。


 これやこの行くも帰るも別れては
       知るも知らぬも逢坂の関

 これだよ、これ、これがあの、旅立つ人も、旅から帰る人も、知っている人も、知らない人も、別れてはまた逢う、逢坂の関だよ。

百人一首十番。リズミカルでなめらかな調べ。百人一首を習う際にはまっさきに覚えさせられた。謡曲『蝉丸』によれば、蝉丸は延喜帝の第4王子、盲目のため逢坂山に捨てられてしまう。

これがその逢坂の関である。蝉丸神社で参拝。蝉丸大神、猿田彦命、豊玉姫命を祀る。蝉丸大神は音曲をはじめとする諸芸道の祖神。

この日は雪が降りしきるあいにくの天気だったので、旅立つ人にも旅から帰る人にも出会わなかった。逢坂なのに残念。

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。