2024年6月5日水曜日

和泉式部って誰?

 

 あらざらむこの世のほかの思ひ出に
       いまひとたびのあふこともがな  和泉式部

 私はもうすぐ死んで、この世からいなくなるでしょう。あの世への思い出として、せめてもう一度だけあなたにお逢いしたいのです。

百人一首56番の歌。『和泉式部日記』の作者。日記は冷泉天皇の子である兄・為尊親王(花山天皇の異母弟)が亡くなったあと、その弟・敦道親王との燃え上がる恋を描いたもの。敦道親王が亡くなったあと、和泉は日記を執筆した。

その後、和泉は中宮彰子に仕えた。彰子は、道長と倫子との間の娘。赤染衛門が倫子のサロンのあと、彰子のサロンに仕えるようになったのは、母→娘という自然な流れである。

一条天皇は、文学好き。当初、漢詩文など教養のある定子(高畑充希)にぞっこん。定子には清少納言が仕えていた。定子は道隆と儀同三司母の子である。伊周らの失脚に伴い、落飾してしまう。

その後継をねらったのが、道長と娘・彰子。道長は文学好きな一条天皇の気をひこうと彰子のサロンに華麗な女流歌人をスカウトしまくった。赤染衛門しかり、紫式部しかり、和泉式部しかり。どこぞの野球チームのよう。

和泉式部の人生や日記はスキャンダラスなのだけれども、道長はそこらへんも踏まえつつ、一条天皇の気をひく人材のひとりとしてスカウトしたのだろう。彰子サロンでは、紫式部の4年後輩である。

紫式部は、日記に、和泉式部評を書いている。

 和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど、和泉はけしからぬかたことあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見え侍るめり。歌は、いとをかしきこと。ものおぼえ、歌のことわり、まことの歌よみざまにこそ侍らざめれ、口にまかせたる言どもに、必ずをかしき一ふしの目にとまる詠み添へ侍り。それだに、人の詠みたらむ歌難じことわりゐたらむは、「いでやさまで心は得じ。口にいと歌の詠まるるなめり」とぞ見えたるすぢに侍るかし。「恥づかしげの歌よみや」とおぼえ侍らず。

的確といわれるが長いので、『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』の和泉評を引用する。

 和泉式部は、その身体表現、官能性、豊かな表現力において、他の歌人とは一線を画する、独自の恋歌の世界を形成する。

天皇の血をひく貴公子兄弟をはじめ、男にモテモテで恋多き人生から得た糧をすべて恋歌に昇華したのだろう。

ところで、和泉式部の和泉は泉州岸和田というばあいの泉州のことである。先日、和泉葛城山に登った報告をしたが、あの和泉である。

和泉は何度か結婚している。最初の夫・橘道貞が和泉守になったので、和泉式部と呼ばれる。岸和田にはゆかりの地がいくつかある。

 https://www7b.biglobe.ne.jp/~kiku-uj/yukari/izumi.html

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

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