2024年7月23日火曜日

虎に翼(6)-戦後民法改正作業

 

 当時の困難な状況に立ち向かう寅子の活躍に胸がすく思いをしている人は多かろう。女性はとくにそうだろう。女性法曹はさらにその傾向が強いようだ。SNS上でも議論が盛り上がっている。

当時が女性法曹に困難な時代であったことは間違いない。しかしドラマを拝見していると、ある種大航海時代のようなチャンスに満ちていた時代であったことも疑いない。

弁護士と裁判官を両方経験した女性法曹は一定数いる。しかし民法改正作業にも関与したとなるとどうだろう?

弁護士や裁判官の仕事は司法というぐらいだから、法の執行作業である。これに対し、法改正作業は立法作業である。民法は基本法であるから、立法の基本作業である。一生のうちに司法にも立法も関与したとなると、その数はごくマレであろう(女性法曹が国会議員になったという例は増えつつあるが)。

ドラマでは新憲法制定後、これに適合させるため民法改正作業が行われ、寅子もこれに関与した。当時、自ら進んで裁判官採用願いを(人事課長の松山ケンイチに)提出した結果、司法省民事局(のちに最高裁民事局)の局付に採用されていたので。

関与したのは1947年(昭和22年)改正である。大改正である。法曹人生としては、これに関与できただけでも、法曹冥利に尽きるというべきだろう。

民法2条は、民法の解釈基準として、この法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等を旨として、解釈しなければならないと定めた。

そして、親族編・相続編の大改正がなされた。それまでの戸主中心のあり方から個人の尊厳と両性の本質的平等に基づくあり方へ。

いまでも遺産分割協議の際に、長男が全部取ってあたり前的な考えや、離婚の際の男性中心主義の考えの残滓がみられないわけではない。しかし、それらが正面きって幅をきかせることはない。先人たちの努力に敬意と感謝を捧げるべきだろう。

2024年7月22日月曜日

虎に翼(5)ー桂場等一郎(松山ケンイチ)のモデルは石田和外

 

 投票箱と民主政の過程をゆがめているのは、選挙区割による投票価値の不平等だけではない。企業・団体献金こそ問題である。

消費者被害に対し、そのような商売を規制する法律をつくるという選択肢Aと、それをつくらないという選択肢Bがあるとする。そのような状況下で、資金力のある企業・業界団体が政治家に自由に政治献金ができるとすれば、政治はつねに選択肢Bに流れてしまう。

政治を金で買うのであるから、その本質は贈賄である。しかし当該政党の政策に賛成しただけだといえば、あら不思議、贈賄ではなくなってしまう。

これまでにも贈収賄を疑わせる著名な疑獄事件が日本の政治を揺るがせてきた。ロッキード事件やリクルート事件などである。

企業・団体献金を規制すべきだという議論は、ずっと行われてきた。しかし、政治家にこの法律を作らせるのは、泥棒に刑法をつくらせるのに等しい。なかなか実行性のあるものができない。

いわゆる政治資金規正法がそれである。「規制」法ではなく、「規正」法というのが尻抜けとなっているミソである。政治に金は必要である、したがって規制はしない、しかし透明性を確保することは必要である、それが規正であるという。

そのような透明性の確保さえなされていないことは、この間の議論で露呈してしまっている。

司法の場においても、企業・団体献金の禁止の是非が争われてきた。一番有名なのは、八幡製鉄政治献金事件である。

企業が政党・政治家に政治献金を行うのは、国民の参政権を侵害するから、企業の目的の範囲外の行為であり無効であると争われた。1970年(昭和45年)、最高裁はこれについて有効であると判示した。

このときの最高裁大法廷裁判長は石田和外。かれは1969年(昭和44年)から最高裁長官であった。民主的な考えの裁判官を追放した結果が上記八幡製鉄事件ほか、その後続いた保守的判決の原因であるとされる。

石田は、いま「虎に翼」で松山ケンイチが演じている桂場等一郎のモデルらしい。1947年(昭和22年)、司法省人事課長になった。ドラマでは、寅子が裁判官になる途を開き、団子屋でともに団子をほおばる仲である。

2024年7月19日金曜日

虎に翼(4)ー旧優生保護法違憲判決

 

 朝ドラの世界で寅子が尊属殺重罰規定合憲判決の報せを聞き、その不条理に歯ぎしりしていたころ、われわれの世界では最高裁判決が旧優生保護法が違憲であると判断した。

旧優生保護法の立法目的が立法当時の社会状況をいかに勘案したとしても、正当とはいえない。旧優生保護法に基づく強制手術規定が特定の個人に対して生殖能力の喪失という重大な犠牲を求める点において、個人の尊厳と人格の尊重の精神に反する。旧優生保護法に基づく強制手術が憲法13条、同14条1項に反する。このように判示した。

ある法律が違憲かどうかは、①立法の目的の正当性の有無、②その目的を達成するための手段・方法の合理性・相当性という2段階で判断される。すでに見たように、1973年(昭和48年)の尊属殺重罰規定違憲判決は、立法の目的は是認したうえで、その手段・方法が行きすぎだと判断した。

本件では、立法目的そのものが正当でないと判断された。旧優生保護法が立法されたのは1948年(昭和23年)であるから(議員立法)、いまから考えればどこをどう間違ったのかと思う。優生思想はナチス・ドイツにより強力に推進された。それをナチスが敗れた戦後新憲法のもとで立法したというのであるから救いがたい。

強制手術(断種・堕胎)は、ハンセン病患者に対しても強制された。ハンセン病は感染症であることは明らかであった(だからこそ強制隔離を行ったはず。)にもかかわらず、患者たちは断種・堕胎を強制された。優生思想どころか、科学的根拠は皆無である(障害者については科学的根拠があるという趣旨ではない。)。

ハンセン病患者に対する人権制限の違憲性については、われわれが勝ち取った熊本地裁平成13年判決がある。いわく。

らい予防法の隔離規定によってもたらされる人権の制限は、人としての社会生活全般にわたるもので、憲法13条に根拠を有する人格権そのものに対するものととらえるのが相当である(注、らい予防法の隔離規定によってもたらされる人権制限が、人としての社会生活全般にわたったため、同法が憲法何条により違憲なのかが議論された。)。当時のハンセン病医学の状況等に照らせば、らい予防法の隔離規定は、その制定当時からすでに、公共の福祉による合理的な制限を逸脱していたというべきである。

熊本地裁判決について政府は控訴を断念し、確定した。したがって、政府としては、らい予防法の隔離規定の違憲性については、一審判決ながら政府の認めるところとなったのである。

旧優生保護法の裁判の詳細は承知していないが、恐らく旧優生保護法の違憲性についても、政府は強くは争わなかったのではないか。つまり、問題は、不法行為から20年を経過すると権利の行使が出来なくなるという除斥期間(旧民法724条)の適用/不適用が最大の問題だったと思われる。

この点について、前記最高裁判決は、本件規定の立法行為に係る国の責任は極めて重大であり、被害者の被害回復のための立法措置も不十分であるとした上で、本件各事件の訴えが除斥期間の経過後に提起されたということの一事をもって、請求権が消滅したとして国が損害賠償責任を免れることは著しく正義・公平の理念に反し、到底容認することができないと判示した。

民法の規定どおりに法を解釈することを文理解釈という。解釈の基本である。司法というのは法を執行する機関であるから当然である。

法制定から時間が経過したりなどすると、法規範が実態からズレてしまうことがある。文理どおりに解釈すると、正義・公平の理念に照らし不都合を生じる場合があるのである。このような場合、文意をふくらませたり(拡大解釈)、制限したりする(縮小解釈)。

本件では除斥規定をそのまま適用すると「著しく正義・公平の理念に反するので」、同条の適用を制限するというのである。今回の最高裁判決の最大の凄みはこの部分の判示だろう(なお、無制限に除斥期間の制限を認めたのではない。①本件規定の立法行為に係る国の責任は極めて重大であること、②被害者の被害回復のための立法措置も不十分であることなど、本件事案の特性による限定を加えている。)。

2024年7月18日木曜日

虎に翼(3)ー選挙権・投票価値の平等

 

 最高裁は、国会が制定した法律を違憲と判断することに、基本的に消極的である(司法消極主義)。しかし、いつも、どの分野でもそうであるわけではない。

積極的に違憲判断を行っているのは、選挙権・投票価値の平等問題である。昭和51年の最高裁判決はこういっている。

 選挙人の投票価値の不平等が、国会において考慮している諸要素を斟酌してもなお一般的に合理性を有すると考えられない程度に達しているときは、国会の合理的裁量の限度を超え、不平等を正当化すべき理由が示されない限り違憲である。
 本件においては、各選挙区の議員一人当たりの選挙人数と全国平均との比率の偏差が上限と下限で1対4.99の開きがあり、もはや国会の合理的裁量の限界を超えて選挙権の平等の要求に反する程度に至っているものといわなければならない。

約5倍もの差ががあるのだから、司法積極主義と呼べるかどうか疑問も残るが、選挙権・投票価値の平等の分野では、最高裁は司法積極主義であるといわれている。

その理由は、次のとおり。
司法が立法府の判断を尊重するのは、そこでは民主的な決定がなされているからであるとされている。ところが、選挙権・投票価値に不平等が生じてしまうと、立法府での判断が民主的な決定といえなくなってしまうから。

いわゆる投票箱と民主政の過程というやつ。投票箱と民主政の過程が健全に機能しているうちは、そこでの判断を尊重する、それが機能不全に陥ったときは、司法が介入するという考え方である。それなりに合理的な考えである。

2024年7月17日水曜日

虎に翼(2)ー尊属殺重罰規定違憲判決

 

 尊属殺重罰規定に関する1950年(昭和25年)最高裁判決は合憲判断だった。

それが最高裁で違憲と変更されたのは1973年(昭和48年)である。新憲法の平等原則が社会に浸透するのに23年の年月を必要としたのである。1973年といえば、当職が14歳のときだ。

ただし諸手を挙げてバンザイというわけにもいかない。違憲とされた理由はこうだから。

 尊属の殺害は、通常の殺人に比して一般に高度の社会的道義的非難を受けて然るべきであるとして、このことをその処罰に反映させ、法律上、刑の加重要件とする規定を設けても、直ちに不合理な差別的取扱いとはいえない。
 しかし、旧刑法200条は、尊属殺の法定刑を死刑または無期懲役のみに限っているので、その立法目的達成のため必要な限度をはるかに超え、普通殺に関する刑法199条の法定刑に比して著しく不合理な差別的取扱いをするものと認められ、本条(憲法14条)1項に違反して無効である。

すなわち、孝の考えから重く処罰するという目的そのものはよかろう、しかし、その手段はちと重すぎるのうというのである。

ともあれ、旧刑法200条はその後、最高裁が求めたところの量刑を軽くするという法改正ではなく、削除された。刑を軽くする法改正では、再び違憲訴訟が提起されることを避けられないからだろう。

国会議員が定める法律より、憲法が上位の規範として存在することを立憲主義という。そして裁判所が憲法違反の法律を違憲として判定していく仕組みを違憲立法審査制度という。

この場合の裁判所には2種類ある。欧州大陸では、一般の裁判所とは別に憲法裁判所がもうけられ、そこで一般的抽象的に合憲性/違憲性が判断されている。これに対し、コモンローの伝統のある英米法では一般の裁判所が一般の裁判の前提問題として合憲性/違憲性を判断する仕組みとなっている。

戦後日本は、米国流の憲法を受容したので、後者を採用している(憲法81条)。

前者は抽象的判断対、抽象的判断の対決だから、憲法裁判所の裁判官の資質等についてよほど配慮がなされないと、政治的な緊張が生じるだろう。

後者は抽象的判断に対し、個別事件解決を通じた具体的判断であるから、立法側の納得が得られやすいかもしれない。

それでも後者の違憲判断は、何百人という国会議員がつくった法律を5人(小法廷)~15人(大法廷)の裁判官が間違っていると判定することになる。だから、できるだけ謙抑的に運用していこうという傾向が生じることになる(司法消極主義)。

先輩の米国では、共和党と民主党との間を政権がスイングするにつれ、最高裁の判断も保守からリベラルへ揺れ動いてきた。トランプ元大統領に関する最高裁判決などは、かれが任命した判事たちの判断だなぁと妙に納得させられるところがある(ほめてない。法の支配ではなく、人の支配の臭いがプンプンするから。)。

2024年7月12日金曜日

虎に翼(1)ー尊属殺重罰合憲判決

 

 毎日、NHKの朝ドラ「虎に翼」をみている。虎に翼とは、鬼に金棒と同じ意味、中国古代の法家・韓非子から。主人公は猪爪(佐田)寅子、日本ではじめて女性として弁護士、判事、裁判所長をつとめた三淵嘉子をモデルとする。

とても勉強になる。われわれが法律の勉強をはじめたのは1980年(昭和55年)ころである。日本国憲法制定が1946年(昭和21年)であるから、30年以上経っている。

戦前の状況や、日本国憲法の理念は、同時代の話というより、過去の出来事として教科書の記述をとおして勉強し理解した。

ドラマをみていると、憲法の理念が、同時代の法曹たちの目をとおして、どれほど輝かしくまぶしいものであったかがとてもよく分かる。

当時だって人間社会だから、そのように感じない人たちだっている。憲法の理念を社会に広く浸透させたいと思う人もいれば、日本社会に適さないと考える人もいる。そこはせめぎ合いである。

その象徴的な事件として、尊属殺重罰規定の合憲判決が描かれた。ときは1950年(昭和25年)のこと。憲法制定から4年しか経っていない。

尊属とは、父母や祖父母など自分より上の世代の親族のことである。尊属殺とは、この人たちを殺すことである。もちろん、父母や祖父母を殺してはいけないが、問題はその量刑である。

一般的な殺人については、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処するとされている。一口に人を殺すといっても、そこに至る事情はさまざまである。仏さまのような被害者もいれば、極悪非道の被害者もいる。偶発的なこともあれば計画的なこともある。それを考慮して、懲役5年から死刑まで幅広い刑罰が用意されている。

ところがである。旧刑法200条は、尊属殺の法定刑について、死刑又は無期懲役のみに限定していた。どんな極悪な親でも殺せば、法定刑が死刑又は無期となってしまう。どんなに減刑をおこなっても執行猶予をつけることができない。

その理由は、一般人を殺すより、尊属を殺すほうが道徳的にけしからんというにある。一言で言えば、孝である。『論語』に書かれた孔子の教えである。南総里見八犬伝にもでてくる。

国家がなぜ、孝を推奨するかというと、忠につながるから。親孝行の子は主君にも忠義を尽くすだろうということである。『論語』でも両者はセットになっている。「子曰く。出でては即ち公卿に事え、入りては即ち父兄に事う。」

道徳と刑罰の関係は、中国古代の孔子と韓非のころから付かず離れず。人民を支配するに前者は道徳をもってせよと言い、後者はそんな甘いことを言ってちゃダメだ法で厳しく処罰せよという。刑罰は最低限の道徳ともいわれ、刑法学の通説は道義的責任論である。

こうしたことを背景としつつ、旧刑法200条の合憲性が争われたのである。理由は、憲法14条の平等権違反である。尊属の命を一般人の命より重いとするのは平等原則に違反するというのである。

しかし、当時の最高裁はこれを合憲とした。憲法制定から4年、その理念は日本社会にいまだ浸透できていなかったのである。せめぎあいの第1ラウンドは負けである。

2024年7月11日木曜日

新潟の旅(14)総集編

 

新潟の旅、なんと13回もつづいたので、結びに総集編を書いておこうと思う。日本史の教科書ふうに。

まずは、清津峡の成り立ちから。1500万年前、清津峡を含む新潟県全域は、東日本と西日本のまんなかであるフォッサマグナのなかにあり、海の底であった。海底火山の爆発がつづき、火山灰が数千メートルも降り積もり、緑色凝灰岩(グリーンタフ)が形成された。

700万年前、グリーンタフにマグマが貫入し、冷やされたマグマは柱状節理となった。

300万年前、フィリピン海プレートが大陸プレートに沈み込み、東西圧縮がはじまった。これにより、八海山やフォッサマグナ地域、それに佐渡島(大佐渡山脈、小佐渡山脈)が隆起した。

柱状節理はもろく崩れやすく、清津川の浸食により、清津峡が形成された。

縄文時代中期(5500-4400年前)、信濃川流域で火焔型土器がさかんにつくられた。

なお、漢の時代(紀元前206-紀元後220年)、七夕伝説が語られるようになった。

奈良時代、大伴家持(718ー785年)が七夕伝説を踏まえて、かささぎのの歌を詠んだ。

なお、養老元年(717年)越前の修験僧泰澄が白山に登って、白山神社を開山したという。

平安時代・延喜年代(901年~)、新潟市の白山神社が創建されたらしい。

鎌倉時代・承久3年(1221年)承久の乱に失敗し、ももしきやの歌を詠んだ順徳院は佐渡に流された。

文永8年(1271年)日蓮は、他宗を激しく口撃した罪で佐渡に流された。

室町時代・永享6年(1434年)世阿弥は、足利義政と折り合いが悪く佐渡に流された。


江戸時代・慶長6年(1601年)佐渡金山が徳川家康の所領となり、金北山で金脈が発見され、江戸幕府の重要な財源となった。


元禄2年(1689年)芭蕉はおくのほそ道の旅をおこない、越後路で荒海やの句を詠んだ。


明治初期から佐渡金山は官営となり、明治10年(1877年)様式技術による選鉱場ができた。


明治37年(1904年)から日露戦争がはじまった。月島軍曹の夫婦岩における回想場面はこのころのこと。


大正7年(1918年)斎藤家の四代斎藤喜十郎が別荘を建築した。2015年旧斎藤家別邸跡として国の名勝に指定された。

昭和23年(1948年)越後湯沢を舞台とする川端康成の小説『雪国』が刊行された。


昭和56年(1981年)日本において野生のトキが絶滅した。


平成8年(1996年)清津峡渓谷トンネルが開業した。


平成11年(1999年)「読書の楽しさと知る喜びを感じる」ことを目的に掲げて十日町情報館が開館。2013年の映画「図書館戦争」のロケ地にもなった。


平成12年(2000年)大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナーレ第1回が開催された。

平成15年(2003年)第2回が開催され、それにあわせて十日町ステージ越後妻有交流館キナーレがグランドオープンした。2021年それを前身として越後妻有里山現代美術館 MonETの名称となった。


平成30年(2018年)大地の芸術祭第7回が開催され、その際、清津峡渓谷トンネルはマ・ヤンソンのアート作品として改修された。

※越後のことなのに、すぐに思い浮かぶ上杉謙信や景勝・直江兼続、田中角栄などの記述がない。かれらが文化活動に関与していなかったからなのか、たまたま訪れたところと関係がなかっただけなのか?

2024年7月9日火曜日

新潟の旅(13)大地の芸術としての清津峡渓谷トンネル

 清津峡の渓谷美は、かつては川に沿って遊歩道から鑑賞していたようだ(おそらく写真中央から入っていく)。しかし1988年渓谷内で落石死亡事故が発生し、遊歩道は通行禁止に。

そのため1996年、安全に観光ができるように清津峡渓谷トンネルがつくられた。写真右手がその入口。

トンネルの長さは750メートル。途中には3つの見晴所、終点にはパノラマステーションがもうけられているという。


1つ目の見晴所。荒々しい柱状節理を目の当たりに。700万年前の大地の激動に思いをはせる。 


2つ目の見晴所。宇宙ステーションの艦内のよう。2018年に行われた第7回大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレで、中国出身の芸術家マ・ヤンソンがトンネル全体を作品化したのだ。



3つ目の見晴所。清津峡の荒々しい渓谷美とヤンソンの作品が不思議なとりあわせになっている。まさに大地の芸術のコンセプトどおり。



極めつけはこれ。終点にあるパノラマステーション。トンネル・オブ・ライトという作品。大地のなかに芸術と人が存在するだけでなく、芸術のなかにも大地と人が存在する作品。すばらしい。

越後妻有里山現代美術館 MonETにあった、回廊に囲まれた中央の池の水面に光が反射し、空や建物を鏡のように映しているように錯覚させる作品(レアンドロ・エルリッヒ「Palimpsest:空の色」)とも美しく響き合う。すてきすぎる。

2024年7月8日月曜日

新潟の旅(12)フォッサ・マグナのなかの清津峡

 

 さて先週末の宿題は、清津峡はどのようにしてできたのか?NHKの番組「ジオジャパン」の「清津峡と八海山」からの受け売りであるが、答えはこうである。

まず1500万年前、清津峡のあたりは海の底だった。大陸から分離してひょっこりひょうたん島のように日本海を移動してきた東日本と西日本はいまだ離ればなれで、その中央部分には大きな海が存在していた。これがフォッサ・マグナである。

http://www.ueis.ed.jp/kyouzai/h27_rika/naritachi/narimain.htm

https://www.mapple.net/articles/cms/wp-content/uploads/2022/03/003-nagano_001.jpg

フォッサ・マグナは、明治のお雇い外国人ナウマンが発見した。ナウマンは、名前のとおりナウマン象の発見者でもある。東大の地質学の初代教授であるが、来日したときは21歳、滞日はわずか10年ほど。その間、日本列島を1万キロメートルも調査したというのだからすごい。


フォッサ・マグナとは大きな溝の意味である。文字どおり、日本列島の中央に存在した大きな溝である。明治期といえども、地理的にはいまのようにつながっていたけれども、西日本、東日本とその中央のフォッサ・マグナ部分が地質的に違っていたことから発見された。


(安曇野、この下をフォッサマグナの西端が走る)

フォッサマグナの西縁は糸魚川静岡構造線と呼ばれる。糸魚川から安曇野~諏訪湖~大鹿村(南アルプス塩見岳の麓)を経由して静岡に抜ける。

これに対し、東縁はあまりはっきりしないようだ。諸説あるが、一般的には新発田から八海山~谷川岳を経由して千葉に抜けるラインが想定されている。


(越後駒ヶ岳から八海山をのぞむ。
その向こうをフォッサマグナの東端が走る)

八海山は丸い石でできた岩でできている。そこからかつては東日本の海辺に近い河原だったことが推測され、それが隆起したものだとされる。


さて1500万年前、海の底だった清津峡。海底火山が爆発して火山灰が数千メートルも降り積もる。そうしてできた岩(緑色凝灰岩)が緑色をしているのでグリーンタフと呼ばれる。清津峡をやや下がるとこの地層がみられる。

そうして700万年前、この緑色凝灰岩に地下からマグマが貫入した。マグマは冷やされ、規則的な角柱の並びである柱状節理を形成した。

その後、大陸プレートにフィリピン海プレートが潜りこむことにより、東西圧縮がおき、現在のように隆起した。そして清津川の浸食作用により、現在の地形となった。

・・・というのだが、ほんとうだろうか。

2024年7月5日金曜日

新潟の旅(11)清津峡

 

 新潟の旅、いよいよ締めくくりは清津峡である。

清津峡は、信濃川の支流である清津川が形成した峡谷。十日町市小出から湯沢町八木澤にかけて全長12.5キロメートル。国の名勝・天然記念物。日本三大峡谷の一つ。

ちなみにあと2つは黒部峡谷(富山県)と大杉谷(三重県)。黒部峡谷はいわずとしれた北アルプス北部の山々を削った峡谷、大杉谷は日本百名山・大台ヶ原の東側に存する峡谷である。

新潟から新幹線に乗り、越後湯沢でおりる。川端康成の小説『雪国』の舞台である。じぶんにとっては、百名山である谷川岳、巻機山、苗場山、越後駒ヶ岳などに登った際に利用した懐かしい駅である。バスの時間まで駅前の足湯でまったり。

予約したバスはまず北へ向かい、石内から左折、山越えの道(353号線)をうねうねと西へ向かう。ひと山越えると清津川が削った谷にでる。川を渡るとまた左折、清津公園線を南下、しばらくすると清津峡に着く。




清津峡はV字谷になっている。

V字谷の両岸はみてのとおり、角柱を並べ敷き詰めたような幾何学的な岩肌になっている。いわゆる柱状節理である。柱状節理はマグマが冷やされたとき、熱い内側と冷えていく外側の温度差からできるという。

なぜ、ここにこのような地形・地質ができたのか?その答えはNHKの番組「ジオジャパン」でやっていたのだが、また来週のおたのしみ。

2024年7月4日木曜日

新潟の旅(10)十日町情報館、越後妻有里山現代美術館 MonET

 

 十日町市博物館の並びには十日町情報館がある。1999年に「読書の楽しさと知る喜びを感じる」ことを目的に掲げて開館した公共図書館。おしゃれ。映画「図書館戦争」のロケ地となったこともうなずける。残念ながら、この日は図書の入替作業のため休館。


 情報館から南東に向けてしばらく歩きJR飯山線・北越急行ほくほく線の線路を通過すると、右手に越後妻有里山現代美術館 MonETがある。

MonETはMuseum on Echigo-Tsumariの略、もちろん画家モネとの語呂合わせである。

「原広司建築・唯一無二のサイトスペシフィックアートの美術館」とうたわれている。原広司は京都駅ビルなどを手がけている。サイトスペシフィックアートとは、文字どおり、ある場所で、その場所の特性を活かして制作する表現のこと。もちろん大地の美術館の拠点というコンセプトにぴったりはまっている。

建物はロの字型にぐるっと回廊が取り囲み、吹き抜けになっていて、中央には池が配されている。


そして中央の池に展示された作品はこれ。レアンドロ・エルリッヒによる「Palimpsest:空の色」。

レアンドロ・エルリッヒの作品としては、金沢21世紀美術館の「スイミング・プール」が有名。あのプールサイドからプールの底のほうをのぞき込むと水のなかに人びとがいて、プールの底からも逆にプールサイドの人びとを仰ぎみることができ、不思議な感覚がうまれるというやつ。水に関する人間の錯覚をひねってみせるのが得意なんだな、きっと。

「Palimpsest:空の色」という作品は、この美術館という場所の特性を最大限に活かした作品。2階から見ると、回廊に囲まれた中央の池の水面に光が反射し、空や建物を鏡のように映している・・・。


・・・と思えてしまうのだが、実はそうではない。空や建物は水面に映る鏡像ではない。池の底に描かれた二次元の絵画なのである。われわれの水に関する錯覚を快くひねられた、してやられたという感動がうまれる。

なによりこの作品のいいところは、大地の美術館におけるもう一つの作品と美しく響き合っていることである。それについてはまた。

2024年7月3日水曜日

新潟の旅(9)火焔型土器@十日町市博物館


 新潟の旅、最終日は十日町を訪れた。十日町といっても九州人で知る人は少なかろう。新潟県南部にある豪雪地帯、米どころで有名な南魚沼のお隣、魚沼産コシヒカリの産地である。

ここはまた、大地の芸術祭・越後妻有(つまり)アートトリエンナーレの開催地である。芸術祭は世界最大規模の国際的なもの、野外アート展である。

「人間は自然に内包される」を理念に、十日町地域の約762平方キロメートルの広大な大地を美術館に見立て、アーティストと地域住民が協働し地域に根ざした作品を制作、継続的な地域展望を拓く活動を目的とする。

2000年が第1回、その後はトリエンナーレというぐらいだから3年に1度開催されている。

 

 なぜこんなところで国際的芸術祭が?
・・・と言っては失礼だが、新潟から新幹線や在来線特急を利用しても1時間30分~2時間はかかる田舎町である。

答えはいろいろあるのかもしれないが、ぼくが思ったのは縄文時代以来のDNAのなせる技だろうということだ。


 駅から歩いて10分ほどで十日町市博物館に着く。館内は国宝だらけだった。教科書で見たことのある、あの火焔形土器である。14点もの火焔型土器が国宝に指定されている。


 十日町は、市の中央を信濃川が流れている。信濃川は人間の営みに先駆けて、この地域に河岸段丘という作品を造形した。

縄文人も、このような大地のパワーに触発されて、火焔型土器を造形したのだろう。ここぞパワースポット。まさに芸術は爆発だ。

2024年7月2日火曜日

新潟の旅(8)Bridge over Troubled Waterから、栄光の架橋へ

 

 荒海や佐渡に横たふ天の河 芭蕉

 旅泊に見る黒々とした日本海の荒海。その荒海の隔てるかなたには、順徳院・日蓮・日野資朝・世阿弥などの幾多の歴史を秘め、今また悲しい流人の島として知られる佐渡が島が遠く横たわり、銀河が白くその上にかかっている。空の二星も交会をとげるというこの夜、島の人たちはこの荒海に隔てられた家郷の人々をどんなに恋い慕いながら、あの星の橋を仰いでいることだろうと思えば、ひとり北海のほとりをさすらう自分の心もしめつけられるような思いがする。そうした人間の思いを包んで、夜の海はあくまでも黒く、銀河はあくまでも高く、天地の寂寥のきわみを呈示している。

頴原退蔵・尾形仂訳注『新版おくのほそ道』角川文庫による現代語訳。侘び寂びの境地からすれば、こういう訳になるのだろう。しかし、これではそのまえに置かれた文月やの句のウキウキした気分が十分に活かされていない気がする。

ぼくはどうしてももっとロマンチックに読んでしまう。この句を読むと、いつもサイモンとガーファンクルの「Bridge over Troubled Water」を思い浮かべてしまうから。

https://www.uta-net.com/song/270216/

「Bridge over Troubled Water」を思い浮かべてしまうとさらに、ゆずの「栄光の架橋」を思い浮かべてしまう。この曲は薬害肝炎九州訴訟の判決前夜集会においてみなで歌った思い出の曲である。

https://www.uta-net.com/song/19425/

薬害訴訟は判決で勝ってそれで終わりではない。勝訴判決を足がかかりとして、政治解決を目指さなければならない。そうした運動を進めるためには関係者が一致団結し、解決へ向けた世論づくりをする必要がある。そのため判決前夜、原告のみなさん・弁護団・支援者のみなさんによる「1000人集会」を企画した。

その際、みなの心をひとつにするため、なにか歌を歌おうとなった。さて何を歌えばよいのか?すると、ある原告の娘さんがこの歌を推したのである。それまでは知らなかったが、これほどピッタリの歌はない。

かくてこの句を読むと、家持の「かささぎの」の歌から「Bridge over Troubled Water」、そして「栄光の架橋」までが頭のなかで自動再生されるのである。

2024年6月26日水曜日

新潟の旅(7)荒海や佐渡に横たふ天の河

 

 佐渡の一日観光を終えたのち、フェリーにて新潟港へ帰る。ゴールデンな島にゴールデンな日が傾きつつあった。

海上ずっと佐渡は見えていた。写真では分かりづらいが、このポイントでもちゃんと見えている。佐渡は大きい。画面の右端から左端まで横おりふしている。「銀河ノ序」にあるとおり。

 佐渡がしまは、海の面十八里、滄波を隔て、東西三十五里に、よこおりふしたり。

しかし季節は夏。荒海でもないし、海面からたちのぼる水蒸気にかすんで、おぼろげである。

 みねの嶮難谷の隅ゞまで、さすがに手にとるばかり、あざやかに見わたさる。

「銀河ノ序」にはこうあるが、芭蕉がこのような実景を見ることができたのかは疑問。曽良の随行日記に記された天気の様子からも実景ではないような気がする。

 北陸道に行脚して、越後ノ国出雲崎といふ所に泊る。

「銀河ノ序」の書き出しはこうあるから、出雲崎での記事のように読める。しかし、随行日記によれば出雲崎の夜は7月4日夜中強雨であるし、「おくのほそ道」では荒海の句のまえに次の句が置かれている。

 文月や六日も常の夜には似ず

文月は陰暦7月のこと。7月は6日も常の夜には似ていない。なぜなら、翌日は7月7日、たなばた(七夕)だから。前夜からワクワクする。

そうなると、荒海やの句は当然、7月7日たなばたの句として読まなければならない。七夕は年に一度、織女と牽牛が出逢える日。天ノ川にカササギたちがやってきて橋を架けるという。


 かささぎの渡せる橋におく霜の
      白きを見れば夜ぞふけにける  中納言家持

 カササギが架け渡した天の川の橋の上に置いた霜が、白く冴えているのを見ると、夜も更けたのだなあと思う。

百人一首6番の歌。

(カササギ)

七夕であれば、越後の海岸にたつ芭蕉と佐渡の織女との間に、荒海をこえてカササギが橋を架けたイメージも湧く。月島軍曹の求愛のセリフもかぶせやすい。

 この島に俺の居場所はないけれど・・・
 戦争が終わったら一度だけお前のために帰る
 その時に駆け落ちしよう

実際、荒海やの句は、7月7日、今町(直江津)で行われた句会で初披露されている。しかし随行日記によれば7日も雨。

そんなこんなを考え、「おくのほそ道」の越後路に「銀河ノ序」を貼り付けることもできたはずであるが、大胆な省筆を施して、文月やの句と荒海やの句を夫婦岩のように屹立させて、句のイメージのみをもって語らせたのではあるまいか。



 佐渡から新潟港まで、たくさんのカモメたちが橋をかけわたすごとく、連なっていた。
 

 フェリーは、信濃川をやや溯上して新潟港に着岸しようとしていた。暑い一日がようやく暮れる。新潟の街並み越に、日は日本海へ沈んでいく。

 暑き日を海に入れたり信濃川

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。