2024年12月27日金曜日

土佐日記(4)いの町紙の博物館、仁淀川

 

 高知には路面電車(とさでん)が東西十字に走っている。十字の中心は、はりまや橋である。宿がはりまや橋に近かったので、一日乗車券を買って重宝した。


 二日目最初に向かったのは土佐和紙で有名な、いの町紙の博物館である。はりまや橋から路面電車で西に向かい、伊野でおりる。

 今年は大河の影響で紫式部や源氏物語はもちろんのこととして、能、和歌、ひらがななど関連番組の放送が多かった。話題はその周辺にも及び、和紙を扱った番組も散見した。土佐和紙は平安時代からの伝統というわけではないが、とても面白かった。


 まずは紙漉き体験。和紙を漉いたあと乾くまで時間がかかるので。係員さんの案内にしたがい、館内見学より先に体験する。観光客向けに簡易にできるようになっている。


 紙漉き体験場の外にはコウゾ(楮)が植えられていた。もちろん和紙の原料。この木の皮をはいで繊維をとりだし、漉いて和紙にする。むかしの教科書にはコウゾ、ミツマタとセットで書かれていた。いまの若い人は知らないようだ。

 館内には和紙の製法のほか、歴史も詳しい。江戸時代は藩の重要産品として製法は門外不出であった。そのせいか、街の雰囲気が有田焼の有田などと似ている。


 椙本神社(すぎもとじんじゃ)。またの名をいのの大黒さま。大黒さまは本来仏教の守護神だがオオクニヌシと習合して神社になっている。商売繁盛、縁結び、家内安全のご利益あり。いの紙の商売繁盛を守護してきた。


 伊野の街並みの西を仁淀川(によどがわ)が流れている。源流は石鎚山など四国山地で、高知を縦断して太平洋に注ぐ。水質は日本一で、水面が青く美しい。仁淀ブルーと称される。いのの紙漉きの隆盛をささえてきたのは、この水である。

 というわけで番組(土佐旅)の途中ですが、今日は事務所の大掃除とご用納め。みなさま1年間本ブログにおつきあいいただき、ありがとうございました。よい年をお迎えください。来年もよろしくお願い申し上げます。

2024年12月26日木曜日

土佐日記(3)坂本龍馬記念館、桂浜


 竹林寺からは坂本龍馬記念館へ。JR高知駅・はりまや橋~牧野植物園・竹林寺~桂浜・坂本龍馬記念館を結ぶ便利なバスで。竹林寺のある五台山からは北へ向かえばはりまや橋・JR高知駅、南へ向かえば桂浜・坂本龍馬記念館である。

 高知は2度目の訪問。初回は1986年(昭和61年)の事務所研修旅行で。弁護士一年目で、メンバーも4人だった。もちろん司馬遼太郎の『龍馬がゆく』(文春文庫・全8巻)を読んでいた。なお、福山雅治のNHK大河「龍馬伝」は2010年放送だから、4年後のことである。

 坂本龍馬は、度量が大きく先見性があり、幕末、西郷隆盛らと交流して、①薩長同盟成立の立役者、②大政奉還の提言、③明治政府の国家構想の柱となった「船中八策」の提言などを行い、明治維新を先導したが、維新を目前にして京都近江屋で暗殺された。

 坂本龍馬記念館(1991年開館。以前来たときはなかった。)では、このような坂本龍馬観がわかりやすく解説されていた。最近は、このような龍馬観は修正を迫られているようだ。歴史研究が進み、昔の偉人の値が下がり、悪評高かった人の再評価されると、昔ながらの歴史観をもつ人間は戸惑ってしまう。

 龍馬像はいまもかわらず巨大なままたっていた。しばし共に日本の未来へ思いを馳せてみた。

 ちょっと戸惑ったのは、龍馬像が桂浜にたっていなかったことだ。実際には浜から入った松林のなかにあった。記憶では浜に立っていたのに。これは前回の訪問後、テレビ番組などで、龍馬像と桂浜がセットで放映されているのをみて、記憶のほうが修正されたからだろう。


 桂浜は、龍馬記念館から10分ほど坂をおりたところにある。浜から西側を望む。突き出た岬に松がはえていてよい。だが逆光である。東側を望めば順光なのだが、港湾施設が写り込んでしまう。桂浜には朝来たほうがよい。


 さきの写真の岬の突端には海津見神社がある。そこまで行くと、もうすぐ日没だ。日本の日暮れぜよ(注:「日本の夜明けぜよ。」は龍馬の言葉ではないらしい。)。

2024年12月25日水曜日

土佐日記(2)五台山 竹林寺(四国八十八ヶ所霊場第31番札所)

 








 牧野植物園のお隣は五台山 竹林寺である。というより、竹林寺のお隣に牧野植物園をつくったというほうが歴史的に正確だろう。

 四国八十八ヶ所霊場の第31番札所。四国八十八ヶ所霊場は、四国にある弘法大師・空海ゆかりの88ヶ所の仏教寺院の総称。これらをめぐるのがお遍路さんである。

 空海ゆかりであるから、真言宗・智山派。智山派は、京都東山にある智積院を総本山とする。智積院では、長谷川等伯の屏風絵がみられる。

 文殊菩薩を本尊とする。50年に一度ご開帳の秘仏で、残念ながら見られない。文殊菩薩は智慧をつかさどる。3人寄れば文殊の知恵というやつである。学僧・名僧があつまる学問寺院である。開智開運、受験成功などのご利益があるという。

 寺伝によれば、724年に聖武天皇が唐の五台山で文殊菩薩に配する夢を見、行基に日本の五台山を探すよう命じられた。行基はこの地が霊地であると感得し、センダンの木に菩薩像を刻み、堂宇を建立して安置したという。行基は近鉄奈良駅前でいまも民衆を教化し、センダンは大宰府政庁跡・大宰府展示館前で芳香をはなっている。

♪土佐の高知の はりまや橋で
 坊さんかんざし買うを見た よさこい よさこい

 「よさこい節」で歌われる坊さんは、竹林寺の僧らしい。よさこいは「夜さり来い」がなまったものだとか。竹林寺の僧は学僧・名僧だけではなかったようだ。

2024年12月24日火曜日

土佐日記(1)牧野植物園













 おとこもすなるにきといふものを、おむなもしてみむとてするなり。
 それのとしの、しはすのはつかあまりひとひのひの、いぬのときにかどです。そのよし、いささかものにかきつく。

 土佐日記は紀貫之の作とされる。女に扮して日記を書くとは1000年以上時代を先どりしている。紫式部らにも100年先んじて、かな文字で表現する文化を用意した功績は大きい。

 季節外れだが土佐に行ってきた。福岡空港9時発で9時50分高知空港着だから、わずか50分の空旅。紀貫之が高知から京都まで55日もかかったことを思えば、あっという間。飛び立って右手にくじゅう連山が見えてきたなと思うや、もう着陸態勢に入りますとアナウンスがあった。

 空港から最初にむかったのは牧野植物園である。高知市の五台山上にある。いわずと知れた植物学者・牧野富太郎博士の業績を記念して開設された。

 九州で登山をする者は以前からミヤマキリシマの名付け親として知っていた。そうでない人たちも、昨年度前期のNHK朝ドラ「らんまん」で博士の名を知っただろう。

 ドラマ中であったとおり、高知の田舎から出てきた青年に脚光があたり、東大植物学研究者の嫉妬をかったこともあったであろう。実家の経済的破綻などにより経済的に苦労したようだ。記念館では博士の生涯がわかりやすく解説されている。

 その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして『牧野日本植物図鑑』等多数の業績として残されている。記念館では博士が新種として発見し名付けた植物たちの標本をみることができる。晩年は日本中と民間植物愛好家たちと植物を通じて交流されたようで素晴らしい。

 1年遅れではあるが、人も適度にすくなくてよかった。タクシーの運ちゃんの訥々とした土佐弁によると、昨年は多くの人が出かけてきたようだ。

 園内は面積17.8ヘクタール、約3000種の植物が栽培されている。季節がら「らんまん」とはいかなかったが、菊科の植物、黄葉のほか、温室内の蘭などを見ることができた。

 もしかしたら浜辺美波に会えるかもと思ったが、会えず。残念。

2024年12月23日月曜日

春日市黒塗り行政を正す訴訟(勝訴)情報公開請求訴訟

 

 福岡地裁は先週、春日市に対し、春日市長がおこなった情報一部非開示決定の取消しを命じた。

 同訴訟は、春日市民の皆さんが立ち上がり、わが事務所からは富永弁護士と当職が取り組んだ事件である。行政を相手とする行政訴訟は一般事件に比べ勝つことが格段に難しい。が、富永弁護士の活躍もあり勝訴することができた。

 対象となった情報は、春日市の指定管理者の令和3年度の収支報告書、令和4年度の収支計画書の支出項目の内訳金額である(6件)。

 指定管理者とは、地方自治体が指定した民間団体が公の施設の管理運営を行う制度。簡単に言えば行政事務の外注。新自由主義のもと、規制緩和・行政の民活化の結果である。

 外注された業務は、総合スポーツセンター、ふれあい文化センター、児童センター(4か所)、放課後児童クラブ及び市民図書館の管理運営である。

 外注により、市民サービスが向上すればよい。しかし行政が、そして市民の税金が民間企業によって食い物にされてはいけない。

 たとえば、放課後児童クラブでは、指定管理者の管理運営がはじまってから、その事業内容が貧弱化したとのではないかとの指摘がなされていた。

 市民の皆さんは情報公開条例に基づき、その実態を把握しようとした。しかし市は外部民間企業の意向を尊重して、その収支に関する情報を非開示とした。民間企業の意向とは、収支に関する情報をオープンにすると管理運営ノウハウが外部に知られてしまうというのである。

 しかしこれはおかしい。市役所が自身で運営していれば当然開示の対象となっていたものが、外注すると開示できないというのは不当である。

 そこで、市民の皆さんは、当該非開示に対し、異議を申立て、本訴に及んだのである。非開示のばあい、オリジナルな文章を黒塗りにして開示される。それゆえ、名付けて「春日市黒塗り行政を正す訴訟」とした。

 春日市はかって情報開示に関し、全国的にみても先進的な取組みを行っていた。それをなんとしても復活させなければならない。

 訴訟中、民間企業による放課後児童クラブの管理運営実態を分析した。その結果、驚くほど不当な管理運営の実態が明らかとなった。

 放課後児童クラブの令和3年年度の収支決算書の執行率によると、事業費のうち、保育教材費は11%、行事費は11%、消耗品費は27%、運営費のうち、会議・研修費は1%などと極端に執行率が低い。

 他方で、その他の項目の本部経費549%をはじめとして、事務費の通信費385%、手数料463%、事業費のうち水道光熱費152%、職員駐車場208%となっている。

 放課後児童クラブの本体である事業はほとんど実施していない。にもかかわらず、本部経費や通信費、職員駐車場だけが大忙しだったというのである。このような管理運営実態なのであるから、それに対するノウハウが外部に流出するというのもどうなのか。そこでいうノウハウとは、事業をしないで儲ける秘訣でしかないのではないか。

 福岡地裁は、われわれの請求のうち5件の情報の開示を命じた(1件だけ非開示を維持した。)。6分の5であるから、ほぼ全面勝訴と評することができよう。これを一審で確定させ、春日市の開かれた行政への一石としたい。

 ※同判決は、1月6日の経過をもって確定した。春日市が控訴しなかったのは、本事件の反省にたち情報公開に向けて舵を切ったものと受けとめたい。

2024年12月20日金曜日

ちくし士業交流会@土地家屋調査士が語った私的土地所有権の確立

 

 ちくし法律事務所3階会議室では、2か月に1度、士業交流会がおこなわれている。士業とは弁護士、公認会計士・税理士、司法書士、土地家屋調査士・測量士、行政書士、社会保険労務士、建築士、マンション管理士、社会福祉士など、最後に士とつく職業のことである。

 士業のほか、公証人や社会福祉協議会の職員などもお招きして、担当講師を決め、畑違いの仕事について勉強し、懇親をしている。弁護士として仕事をしていると、こうした隣接分野のことについて知っていたほうがよりよき解決を導くことができるので、大いに勉強になる。

 先日の講師は、草場健雅土地家屋調査士だった。不動産に関する事件では登記が対抗要件として重要である。不動産登記は、表題部、甲区、乙区にわかれている。甲区は所有権、乙区は担保権等が記載されている。

 表題部は、不動産登記の顔にあたる部分である。土地や家屋に関する所在、地番、用途、構造、面積等が記載されている。土地家屋調査士は、その部分の登記をするのに必要な土地や家屋に関する調査及び測量を行う専門家である。

 通例は、そのような専門家として日常や苦労を語る人が多いのであるが、草場土地家屋調査士は、不動産登記表題部の歴史について話された。

 その話のなかで、もっとも印象的だったのは、地租改正についてである。いわく。不動産登記表題部の歴史は、地租改正にはじまる。

 地租改正は、1873年(明治6年)に明治政府が行った租税制度改革である。たしかに、ここまでは日本史の授業で習った。

 しかしまだ続きがある。これにより日本にはじめて土地に対する私的所有権が確立した。つまり、地租改正は土地制度改革でもある。

 地租改正は、江戸幕府による田畑永代売買禁止令の廃止を伴っている。士農工商のうち百姓制度を維持するため農民は田畑の売買を禁止されていた。それが地租改正により自由に売買ができるようになったのである。

 それまで土地は農民個人の所有権の対象ではなかった。公地公民といわれるとおり公のものだった。個人が自由に売買することができるようになったのであるから、私的所有権の確立である。そうだったのか!

 じつはこれにとどまらない。江戸農民の困窮を語るばあい、よく「百姓は土地にしばりつけられてきた」などという。地租改正は、土地だけでなく、百姓にも自由を与えた。土地を自由に売買できるということは、百姓が土地から離れることも自由であることになる。つまりそれは、職業選択の自由でもある。

 日本国憲法29条は財産権を、同22条は居住、移転及び職業選択の自由を保障している。両自由は近代的な市民的自由の出発点である。それが地租改正にはじまるということは知らなかった。

 そのようなことは日本史の授業でも教えてもらわなかった。・・・かな。念のため、山川の「もういちど読む 山川日本史」を参照してみる。

 地租改正
 多くの改革をすすめるには、財政を安定させる必要があった。政府の歳入のほとんどは、人口の大部分を占める農民が米でおさめる租税であったが、その率は地域によってまちまちであったうえ、その相場は変動し、歳入は不安定であった。そこで政府は、土地制度と租税制度の改革にとりかかり、まず田畑永代売買の禁令を解き、地価を定めて地券を発行し、地主・自作農の土地所有権を認めた。そして1873(明治6)年には地租改正条例を公布し、豊作・凶作に関係なく地租を地価の3%と定め、土地所有者に現金でおさめさせることにした。

 うむむ。書いてないともいえないが・・・。政府側の視点からだけ書かれており、人民の自由獲得の歴史の重要な一里塚としての側面は書かれていないように思う。

 なお、自由な私的所有権・職業選択の自由が「飢える自由」と裏表の関係にあったことは、また別の話である。

2024年12月19日木曜日

『バリ山行』松永K三蔵著(3)四王寺山でバリ山行


 山はじつは恐ろしい。低山なら簡単そうだが、登山道を外すととんでもないことになる。

 四王寺山は太宰府の裏山、最高地点でも標高410mにすぎない。しかしそれでもじつは奥深いところがあるのである。

 四王寺山は里山なので、山麓のそれぞれの集落から登山道がのびている。一時、それをしらみつぶしに歩いてみたことがあった。

 そのうちの一つ。観世音寺六丁目住宅街の北東角から樹林帯を抜けて、四王寺林道は大願寺の入り口あたりに出る道がある。

https://www.google.com/maps/place/%E6%A8%AA%E5%B2%B3%E5%B4%87%E7%A6%8F%E5%AF%BA%E8%B7%A1/@33.522489,130.5226703,18z/data=!4m14!1m7!3m6!1s0x35419b01f34178f9:0x83d423e661a49830!2z5Zub546L5a-65bGx!8m2!3d33.538083!4d130.513917!16s%2Fg%2F121sfmd7!3m5!1s0x35419b2a540cfa8d:0xf0d678a84791f7a1!8m2!3d33.5209491!4d130.5236711!16s%2Fg%2F11jff6chv0!5m1!1e4?entry=ttu&g_ep=EgoyMDI0MTIxMS4wIKXMDSoASAFQAw%3D%3D

 住宅街から入り、100mほど進んで北東方向へ進まなければならないところ、ある時、北西方向へ進んでみた。途中から道なき道となり、あるところからは崖になってしまった。

 この時も引き返せばよかったが、しょせん標高410mだとなめてかかり、崖をよじ登ってみた。・・・これがなかなかたいへん、下手をすると大けがをしそうな危険箇所であった。崖のあとは藪漕ぎをして、太宰府林道になんとか出ることができた。

 『バリ山行』では、おなじような記述が満載である。なぜ、わざわざ好んでそのようなことをしなければならないのか?これがこの本のテーマである。

 ネタバレはこれくらいにして。あとは、興味をもたれたかたはご自分で読んでくだされ。

2024年12月18日水曜日

『バリ山行』松永K三蔵著(2)劔岳で道迷い

 

(六甲山稜線から望む大阪湾)

 登山の教科書を読むと、最初に「登山道を外れて歩くことは避けましょう」という注意が書いてある。その理由として、土が踏み固められ道幅が広がり、植物の生育場所を奪ってしまうなどと書かれている。

 このような注意と理由は不十分、もっと言えば間違いだと思う。もちろん植生保護の重要性を否定するものではない。しかしまず第一は登山者の生命・身体の安全であろう。

 バリ山行のように意識的・目的をもってバリエーションルートを行くばあい、登山道を外れて歩くことになる。しかし一般の登山者が登山道を外れて歩くのは道迷いしたときである。

 道がカーブしているところで、カーブに気づかずに直進してしまい道迷いすることがある。一度誰かが道迷いをすると踏み跡ができてしまい、その跡をまた誰かが迷ってしまう。迷い道のほうもしっかりした踏み跡になってしまう。・・・

 道迷いしたとき、最善の策は登山道まで戻ることである。早く気づければ戻ることに躊躇はない。しかし15分ほど先へ進んでしまうと、戻るのがもったいないという気持ちになってしまう。そのまま先へ進んでも、どうにか下山できるのではないかと思ってしまう。

 いったん道迷いしてしまうと、テンパってしまい冷静な判断ができなくなってしまう。視野狭窄に陥り、ますます先へ危険な方向へ進んでしまう。足もとが覚束なくなり、転倒したり滑落したりしてしまう。結果、遭難してしまう。

 ぼくも何度か道迷いを経験したことがある。すぐ気づいて登山道まで戻れたことも多い。が、気づかずにすごい苦労をしたことや、危ない目にあったこともある。

 一番肝を冷やしたのは、劔岳の登りで道迷いしたとき。南斜面に水平に登山道がついていたのだが、あるところで左手斜面を直角に登っていかなければならないところがあった。しかしかなりの人数が直進したのであろう、まっすぐに踏み跡が続いていた。

 昼間であれば、左手斜面の登山道に容易に気づいたと思う。しかし登山は早出、早着きが基本。その日は未明、午前3時ころ出発してまだまだ暗い時間帯であった。もちろんヘッドランプは点けているのであるが、視野は狭い。直進してしまった。

 しばらく進んだところで、左手上部にヘッドランプの点滅が見えた。そこで間違いに気づいた。そこで戻ればよかった。が、ここでも判断を間違えた。そこからヘッドランプが見える方向へ直進してしまったのだ。

 途中、崖になってしまい、容易には進めなくなってしまった。戻ることもできない。万事窮す。絶体絶命。・・・だったが、あたりが明るくなるのを待って、どうにか登れそうなルートを見つけることができて、事なきを得た。

 登山道以外を歩くと、登山道がいかに登りやすい道であるか実感することができる。まず、登りやすいところに登山道はつけられている。山や斜面には弱点があり、弱点を攻めろといわれる。たとえば、山の北側は壁になっているが、南側はなだらかな斜面になっていることがある。つまり、南側は山の弱点である。登山道は南側についているはずだ。

 つぎに、登山道は整備されている。植物が繁茂した藪はない(バリ山行の基本は藪漕ぎである。)。大きな石や、倒れた大木などは除去されている。危険箇所にはハシゴや鎖がつけられていたりもする。歩きやすく安全だ。

 バリ登山は、このような登山道の常識、登山の常識にまっこうから対抗しようというものだ。一般人はやらない。やるのは変態だけだ。

2024年12月17日火曜日

『バリ山行』松永K三蔵著(1)六甲山縦走

 

 『バリ山行』(松永K三蔵著・講談社刊)を読んだ。もちろん「山行」というワードに惹かれて注文した。今年前期の芥川賞受賞作である。

 芥川賞受賞作は概して読みにくい。文壇の新人賞なのでやむをえないが、若書きの実験的作風が多く、意味が読み取れないことが多い。

 しかし『バリ山行』は読みやすい。意味がとれないということがない。これで長編であれば直木賞といっても疑わないだろう。

 さて「バリ」とは何か?誰しもが戸惑うだろう。まず思い浮かべるのはバリ島のバリだろう。バリ島に山があるのだろうか?いや、ない。いや、あるかもしれないが、本作のバリはバリ島のバリではない。

 つぎに思うのは形容詞、副詞のバリ。バリ美しい、バリバリ働くというやつ。でも『バリ山行』のバリは、そのような形容詞、副詞のバリでもない。

 正解はバリエーションルートの略である。バリエーションルートといっても、登山する人でも初心者には分からないだろう。登山道のない、道なき道がバリエーションルート。

 一番有名なのは北鎌尾根。北アルプスは槍ヶ岳へ向かう3つの鎌尾根のうちの一つである。北鎌尾根には整備された登山道がない。道標もなければペンキマークもない。

 地図とコンパスと地形だけを頼りに槍ヶ岳山頂をめざす。登山者あこがれのルートである。1949年には登山家の松濤明が遭難死したことでも知られている。

 バリエーションルートの醍醐味を知らないバカ親切な登山者がペンキマークをつけたことがあった。山小屋のスタッフがこれをわざわざ消してまわったのである。バリエーションルートのウリは標識やペンキマークが存在しないことなのである。

 『バリ山行』と聞いて「ああバリエーションルート山行ね」と思う登山者も少ないと思われる。「バリ山行」なる略語は著者のオリジナルではなかろうか。しかし作中では登場人物の人物たちが通例のように使っている。神戸界隈では意外と知られているのかもしれない。

 『バリ山行』の舞台は六甲山である。われわれも昨年4月全山縦走に挑戦した(写真参照)。

 六甲山は『孤高の人』加藤文太郎が訓練をした山。居留地の外国人が古くから登った伝統がある。日本登山の聖地。ただし、おおくの神戸市民が日常的に登っているため、現地は聖域から遠い印象である。

 六甲山は標高931mの低山。神戸市街のすぐ背後に聳え、関西人に人気の山域である。最近でも、吉田類のにっぽん百低山でやっていた。

https://www.nhk.jp/p/ts/NLKZP1Q6Y7/

 またジオ・ジャパン絶景100の旅でもやっていた。海にちかい150万都市のすぐ裏になぜ、このような山が存在するのか?の謎解きにワクワク。バリ面白かった。

https://www.nhk.jp/p/ts/ENV69LY378/episode/te/3G938GKM5P/

2024年12月16日月曜日

四王寺山の紅葉探勝(2)高橋紹運公墓あたり

 

 四王寺山で紅葉をみることができる第2スポットは、高橋紹運公墓のあたりである。

 太宰府天満宮参道前の交差点を100メートルほど宇美側へ進む。左手にある連歌屋の橋をわたり林道をクネクネとあがっていくと、八合目あたり右側に岩屋城跡の看板がある。


 看板左の石段を1分ほど登ると、岩屋城跡である。岩屋城は高橋紹運の城である。圧倒的な兵力差のある島津勢の猛攻に玉砕した。豊臣秀吉の援軍は間にあわなかった。

 いまや城の建物や石垣はなにも残っていない。まさに兵どもが夢のあと。あるのは広場と石碑、ベンチ、案内板だけ。だが景色はいい。太宰府市内だけでなく、筑後平野・耳納連山と筑紫平野・背振山系が一望できる。

 JR鹿児島本線や国道3号線に寸断されてしまったが、水城の位置・構造もよくわかる。大野城と一体をなして、唐・新羅を迎え撃とうとした意気込みをいまもうかがうことができる。


 紹運公の墓は、先ほどの看板から石段を登らず、林道を10メートルほどのぼり、左側におりていく。


 林道から100メートルほどおりると、紹運公の墓にたどり着く。死後400年以上経ったいまも、きれいになされている。

 紹運公は、筑後柳河藩の初代藩主だった立花宗茂の実父である。立花家は紆余曲折を経ながらも明治維新まで柳河藩の藩主だった。そうしたこともあり、現代に至るまで墓の管理がきちんとなされているのだろう。





 紹運公の墓の手間には紅葉の古木がすくなからずある。紹運公を御霊をお慰めするために植えられたのだろう。毎年、美しい紅葉をみせてくれる。

 ことしは遅くまで暑い日が続いた。太宰府は全国でも有数の暑いところになってしまった。そのせいか、紅葉というより黄葉である。それでも風情があってうつくしい。

2024年12月12日木曜日

四王寺山の紅葉探勝(1)百間石垣あたり

 
(右手、百間石垣)












 はや師走。ことしの秋は短かった。きもちのよい時期はごくわずかで、いきなり冬になってしまった。そんなわずかな秋をもとめて四王寺山の紅葉探勝。

 四王寺山は太宰府市、大野城市、宇美町の3つの自治体にまたがって存在する。4つの山から成り、最高峰は大城山、標高410メートル。休日にリフレッシュするにはちょうどよい散策コースになっている。紅葉の時期はとりわけ。

 四王寺山はお鉢状になっているため、お鉢の縁をぐるりと周回することができる。登って周回して下山、ぜんぶで3時間くらいだろうか。

 心配ない、歩かずとも登れる。山の中央を林道が貫通しているので、それで稜線にある焼米ヶ原出ることができるから。

 紅葉観賞もしかり。かならずしも登る必要はない。四王寺山の紅葉を楽しむところは主に2カ所。まずは宇美町側、百間石垣あたりから鮎返りの滝を経て悠久の森あたりまで。

 京都嵐山のように全山紅葉というわけにはいかないが、なかなかに見応えがある。京都とちがい、行きかう人もまばらである。なかなかよい。

 さいきん、四王寺山で鹿を目撃した人がいるという。ここで紅葉踏み分け鳴く鹿の声でも聴ければ最高なのだが。