2023年10月26日木曜日

トランスジェンダー性別変更、生殖不能の手術要件は違憲

 

 「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」というのがある。

https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=415AC0100000111

同法によれば、「性同一性障害者」とは、生物学的には性別が明らかであるにもかかわらず、心理的にはそれと別の性別(他の性別)であるとの持続的な確信を持ち、かつ、自己を身体的及び社会的に他の性別に適合させようとする意思を持つ者であって、そのことについての診断を的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の医師の一般に認められている医学的知見に基づき診断の一致しているものをいう(2条)。

一読して理解が困難な定義である。次の3つの要件を要求しているからだ。

①生物学的には性別が明らかであるにもかかわらず、心理的にはそれと別の性別(他の性別)であるとの持続的な確信を持ち
②自己を身体的及び社会的に他の性別に適合させようとする意思を持つ者
③そのことについての診断を的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の医師の一般に認められている医学的知見に基づき診断の一致しているもの

自分は①②の要件を欠くのだけれども、仮に①②の要件を充たすとして、③の要件だけでとても高いハードルに感じられる。

たとえば、交通事故の後遺症診断というのは、場合によっては数千万円の帰結をもたらす。けれども、そのことについての診断を的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の医師の一般に認められている医学的知見に基づく診断などは要求されていない。2人以上の医師の診断といわれただけで、どの病院に行けばよいのか途方に暮れる。

同法はさらに、その性別の取扱いの変更について、家庭裁判所の審判を求めている(3条)。その要件について、5つの要件を定めている(1項)。

一 十八歳以上であること。
二 現に婚姻をしていないこと。
三 現に未成年の子がいないこと。
四 生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。
五 その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること。

この請求をするには、その診断の結果並びに治療の経過及び結果その他の厚生労働省令で定める事項が記載された医師の診断書を提出しなければならない(2項)。

昨25日、最高裁(大法廷判決)は、このうち四号の要件について、法令違憲とした。この要件が「強度の身体的侵襲である手術を受けるか、性自認に従った法令上の取り扱いを受ける重要な法的利益を放棄するかという、二者択一を迫っている」のであり、「意に反して身体への侵襲を受けない自由を侵害し、憲法13条に違反して無効」であるとした(全員一致)。

https://www.asahi.com/articles/ASRBP7T8YRBNUTIL009.html

NHKの番組で手術を受けた人の映像を見た。術野にいびつな醜状痕が残っていた。重大な決心がなければとても受けられるようなものではない。外見だけでなく、ホルモン異常などの後遺障害もありうるという。強度の身体的侵襲である。

特例法の制定は平成15年、20年前である。法制定以降の社会の変化、医学的知見の進展なども踏まえ、判断したという。

最高裁は2019年にもこの点について判断し、「現時点で」合憲と判断している。つまり、この4年間における「社会の変化」が大きかったということである。この間におけるLGBTQ運動前進の成果といってよかろう。関係者の長年の努力に敬意を表したい。

ただし、最高裁は、五号の要件については判断していない、高裁に差し戻している。たたかいは続く。

※憲法13条。すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

※※12条。この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。

※※※97条。この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

2023年10月25日水曜日

太宰府路散策(5)天満宮、竈門神社

 

https://www.google.com/maps/place/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E5%BA%9C%E5%B8%82/@33.5169769,130.5252669,17.25z/data=!4m6!3m5!1s0x35419bb94ea9da4d:0x420ea1837d378fc4!8m2!3d33.5127734!4d130.5239685!16zL20vMDF3cTE1?entry=ttu 

 観世音寺から天満宮まではすこし左折や右折をする必要がある。が、標識にしたがって行けば間違うことはないだろう。旭地蔵尊前を右折、御笠川をわたって左折できれば、大駐車場が見えてくるだろう。

大駐車場から参道へ入ると、いまなら人がいっぱいである。インバウンドは回復し、参道は外国語がいきかっている。韓国語や中国語が主である。中国語は大陸のほうではなく、台湾のかたたちである。

昼食どきだけれど、参道の店はどこも人がいっぱい。本日最大のミッションは鯉のエサやりである。そのため御神牛を経て、太鼓橋を右へ行き、うぐいす茶屋に向かう。ここで昼食をとることにした。ほどほどの混み具合である。

それぞれ山形豚のカツ丼や、釜揚げうどんを注文して食す。うまし。池では花菖蒲が枯れている。鵜が魚を捕っていた。長良川のように吐き出させられる様子はない。

その後は、お待ちかねの鯉の餌やりである。長い棒状の麩を買い、ちぎっては鯉に投げる。

横からのっそりとカメもやってくる。鯉たちの敏捷さにくらべ、動きが緩慢すぎる。そこを子どもたちがなんとか食べさせようとする。子どもたちとカメの連合群と鯉たちとの競いあい。ミッションコンプリート。大満足。

天満宮の本殿はいま修復中である。草でデザインされた仮宮がむしろ斬新でよい。古新道の山や磐座をご神体とする時代に還ったようだ。

ポツポツとくるなか、宮前からコミュニティバスに乗ることにした。バスは渋滞のせいか20分以上遅刻してきた。インバウンドとおぼしき人たちが5、6人うしろに列をつくる。

バスはほどなくして内山に着く。宝満山の麓であり、登山口もある。神社の階段を登る。秋が深まれば紅葉の名所である。が、いまだ色づきはわずかである。階段が尽きると、竈門神社である。

神様にはもうしわけないが、まず絵馬の納所にむかう。子どもたちが喜ぶから。期待どおり、『鬼滅の刃』の主人公たちを描いた絵馬が並んでいる。いずれおとらぬ名作ぞろいだ。

そう、わざわざバスに乗ってやってきたのは竈門神社が『鬼滅の刃』の聖地とされているからだ。別に作者が竈門神社がそうであると認めたわけではない。しかし、そうではなかろうかという情況証拠はそろっている。

まず、鬼滅の主人公の名だ。ずばり竈門炭治郎(かまどたんじろう)という。これだけだと証拠として十分でない。大分県や筑後のほうにも竈門神社があるそうだから。

つぎに、竈門神社が大宰府政庁の鬼門を守っていることがなにより重要だ。鬼滅は文字どおり、鬼退治の物語だ。竈門神社は、鬼が北東の方角から侵入してこないよう、これを防いでいる。

神社は政庁からみて北東、つまり、鬼門の方角にある。鬼門の方角とは牛寅の方角である。時計の針の一番上=0時から子、牛、寅、卯とくるから、右上45度は1時と2時の間になり、牛寅の方角なのである。

古来、鬼は牛寅の方角から来ることになっている。中国では騎馬民族が東北からやってくることは分かるが、日本のばあい何がやってくるのだろう?

ともあれ、鬼の頭に牛のような角があり、寅のパンツをはいているのは、牛寅の方角からやってくるからだ。

さらなる根拠としては、鬼滅の作者が福岡県出身であること。これで県外の候補地は除けるという。

作者がどの程度詳しいか分からないのであるが、修験道のイメージもあるかもしれない。修験道は天狗や修行と縁がありるから。

鬼とは何か?伝染病や疫病がそうであるという説がある。ならば、コロナや各種ウィルスから子どもたちを守ってやってくだされ。

2023年10月24日火曜日

太宰府路散策(4)四王寺山

 

 太宰府路は、北をのぞめば、どこからでも四王寺山が見える。観世音寺横のコスモス畑からとくに美しい。

四王寺山は標高400Mちょっとだ。最高峰の大城山のほか、大原山、岩屋山、水瓶山の四峰からなる。

四王寺と呼ばれるのは古代、仏教の守護神である四天王がまつられたからだろう。四天王は須弥山(しゅみせん)で帝釈天(たいしゃくてん)を守護しているという。帝釈天というのは寅さんに出てくるアレである。

須弥山は世界の中心にそびれる高山。広島・宮島の最高峰である弥山(みせん)や、仏像の基壇を須弥壇(しゅみだん)と呼ぶ由来である。

四王寺山の山頂には、いまでも増長天、広目天の礎石、毘沙門堂が残されている。増長天は南、広目天は西、毘沙門天は北の守護神。

東をまもる持国天は大原山のあたり、いまは15番札所・十一面観音石像があるのみである。

四天王像としては東大寺戒壇院のものが有名であり、大好きである。四人組の強者のことを四天王と名付けて恐れ敬うのはいまもおなじ。われわれの世代ではアタックナンバーワンに出てきた○○四天王にしびれたものである。

北方の守護神である毘沙門天は、四天王の一角をなすときは多聞天という。独尊として崇拝されるときに毘沙門天という。戦の神様。強烈に戦がうまかったという上杉謙信は毘沙門天を崇拝していたという。

大和朝廷は百済に加勢して白村江で唐・新羅連合群に敗れた。その後、唐・新羅による列島侵略を心配して、四王寺山には朝鮮式山城が築かれた。大野城という。いまでも山頂には当時の倉庫跡や堤防跡が残されている。

大野城は水城や基山とともに、大宰府政庁をまもる壮大な防衛施設となっている。重機などなかった古代のことだから、唐・新羅による侵略の恐怖が強烈であったことがうかがえる。

物理的な防御だけではとんでもなく心配だったので、四天王の力にすがりたかったのだろう。

いまは写真のとおり、のどか。やはり平和がいちばんである。

2023年10月20日金曜日

太宰府路散策(3)戒壇院、観世音寺

 

 学業院跡から、さらに東へ向かう。戒壇院、観世音寺がみえている。その向こうに宝満山。
 https://www.google.com/maps/place/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E5%BA%9C%E5%B8%82/@33.5149402,130.5201245,18.5z/data=!4m6!3m5!1s0x35419bb94ea9da4d:0x420ea1837d378fc4!8m2!3d33.5127734!4d130.5239685!16zL20vMDF3cTE1?entry=ttu

戒壇院と観世音寺の間の路を右折。戒壇院へ向かうのだが、その前・右手に玄坊の墓がある。玄坊は遣唐使とともに学問僧として入唐。玄宗皇帝に才能を認められた。

帰国後、聖武天皇の信頼もあつく、橘諸兄政権の中枢として吉備真備とともに出世。しかし橘諸兄が権勢をうしない、筑紫の観世音寺に左遷、この地で没した。人格的な批判もおおく、怪異な伝承が多い。かつて政権中枢を担ったわりには小さな墓である。

墓のまえをさらに進むと、右手に戒壇院の裏口がある。東大寺戒壇院などとともに、天下三戒壇の一つ。奈良時代、授戒制度を確立するため、唐から鑑真を招聘した。井上靖の小説『天平の甍』に詳しい。

東大寺の戒壇院は四天王像がすばらしいが、残念ながら筑紫戒壇院にはそのような四天王像は残されていないようである。裏口すぐには菩提樹が植えられている。この日は座禅がおこなわれていたようで、静かにと注意書きがあった。

戒壇院の裏口を出ると、正面すぐが観世音寺の側面入口である。大学生のゼミとおぼしき若い人たちが参拝していた。

観世音寺は、天智天皇が創建した。唐・新羅連合群とたたかう百済を救援するため日本も朝鮮半島に派兵したが、白村江の戦いで敗れた。そのため防衛のために築かれたのが大野城や水城である。

古代のことであるから、いまのように通信手段が整っていない。日本政府は大和の地から采配を振るっていたのでは勝てる戦も勝てない。そのため、前線にちかい九州の地まで出張ってきていた。

その地で斉明天皇が亡くなった。その追善供養のため、皇太子であった中大兄皇子が創建したという。

古くは大きな寺だったらしく、『源氏物語』にもでてくる(あまりよい文脈ではない)が、戦火などでいくたびか焼亡し、いまはそれほどの偉容はない。

寺に向かって右手には日本最古の梵鐘がある(いや、あった。いまは博物館に保存されている。)。国宝である。あれ?日本最古の鐘は妙心寺ではなかったっけ?そのとおり、兄弟鐘である。

糟屋郡多々良町(現、東区)で製造されたという。多々良はたたら製鉄のたたらである。もののけ姫にでてきた「たたら場」と同じ語源である。「たたらを踏む」などというが、たたら製鉄の際の動作から来ている。

多々良町を多々良川が流れている。中央での戦いに敗れた足利尊氏は九州に流れてきて、捲土重来を期していた。かれは多々良川の戦いに勝利し、ふたたび中央に攻め上り、後醍醐天皇側から政権を奪取することに成功することになる。

梵鐘の奥は宝蔵である。観世音寺というだけあって、巨大な十一面観音、馬頭観音、不空羂索観音が偉容を誇っている。大きさは東大寺の不空羂索観音とおなじくらいだと思う。

https://www.fukuoka-bunkazai.jp/frmDetail.aspx?db=1&id=239

このあたり紅葉するとナンキンハゼが美しい。いまの時期はコスモスが青空に映え、親子連れが記念撮影をしていた。

2023年10月19日木曜日

太宰府路散策(2)展示館、学業院跡

          


 政庁跡には礎石が置かれているのであるが、レプリカである。むかしはプラスティック製のものを置いていてブカブカしている時もあった。

実物は2mほど地下にある。発掘調査をおこない、2mほど掘り下げたところ、いま見るような礎石群があらわれたのである。つまり、年間2mmほどずつ土砂が堆積を繰り返していて、約1000年の間に礎石群のうえに2mほどの土砂が堆積しているのである。

そのことは、南西角にある展示館にいけばよく分かる(いつの間にか有料になっていたが。)。館の内部、左右は地層を掘り下げたままになっていて、掘るとどうなるかがよく分かる展示になっている。2mほど地下にゴロリと置かれたままの礎石や溝の遺構をみることができる。

展示館のまえで休憩していると、高齢の男性、つづいて女性が設置されている台の上でスタンプを押していく。訊くと太宰府市がおこなっている事業で、スタンプが集まると3000円の商品券やお米がもらえるのだそう。なるほど。われわれはアプリの景品を期待して歩いているところ、太宰府市の高齢者は商品券やお米を期待して歩いているのか。

展示館の北西角には、都をしのんで歌った小野老の有名な歌の碑がある。

 あをによし奈良の都は咲く花の 薫うがごとく今盛りなり

展示館の前を通って東へ向かう。この通りにはセンダンが植えられている。またの名を楝(あふち)の木。おそらく筑前守であった山上憶良のこの歌にちなむものだろう。

 妹が見し楝の花は散りぬべし 我が泣く涙いまだ干ぬ

これは大伴旅人の妻が亡くなったときに、旅人の気持ちになって詠んだ歌。四王寺山の霧に仮託したつぎの歌もおなじ。

 大野山霧立ち渡るわが嘆く息嘯の風に霧立ちわたる 

通りの左手には故冨永朝堂先生のお宅がある。太宰府天満宮・延寿王院前の「神牛」の作者である。

そのあたりからは宝満山が大きくのぞめるようになる。ことしは国の史跡に指定されて10年となる。大宰府政庁跡の東北、鬼門の方角である。

平安京の鬼門は比叡山であり、鬼門の押さえとして延暦寺が置かれた。大宰府の鬼門は宝満山であり、鬼門の押さえとして竈門山寺・竈門神社が置かれている。

さらに東に行くと学業院跡である(国史跡)。古代、大宰府の官人要請が行われたという。太宰府は現代、学園都市になっているが、このような伝統のゆえであろうか、それとも天満宮のご利益を期待してのことであろうか。

手前には、山上憶良の有名な子等を思ふ歌の碑が建っている。親子の情愛は古代から変わりはない。

 瓜食めば子供念ほゆ 栗食めばまして偲はゆ 何処より来たりしものぞ 眼交にもとな懸りて 安眠し寝さぬ

 銀も金も玉も何せむに まされる宝子に如かめやも

学校で習った。小6に訊くも習っていないという。中学で習ったのだったか。

またそこには天満宮の斎田があり、ちょうどこの日、抜穂祭がおこなわれていた。このごろはコンバインによる収穫風景しかおめにかからなくなったが、むかしながらの鎌による稲刈り。なつかしい。

その先入ったところは昨年、アナグマ三兄弟の巣があったところだ。

2023年10月18日水曜日

太宰府路散策(1)坂本八幡宮、大宰府政庁跡


 土曜日はわが事務所のアクティビティ同好会で、太宰府路を散策した。同会は基本的に自主練で、アプリをつうじて各人の活動状況が知れるというもの。今回は初の合同参加企画となった。

午前10時に西鉄都府楼前駅に集合。ときどき雲に覆われるも秋晴れの晴天であった。子ども2人(小6と6歳)を含む総勢5人で出発。ときおりキンモクセイが香り、秋の気配濃厚である。

同駅の近くには刈萱の関跡があるのであるが、メンバーの要望で省略。むかしは大宰府政庁への出入りは自由でなく、関所で検問が行われたのであろう。刈萱は説経節の石堂丸になっているし、関屋の地名のもとになっている。

水城小学校・学業院中学校前を通り、坂本八幡宮へ。八幡宮は、令和のゆかりの地として全国的に有名となった。

それは、八幡宮が大宰府(太宰府ではない。)政庁跡の北西角にあり、大宰帥(大宰府の長官)であった大伴旅人の屋敷跡の候補地の一つとなっているからである。

そのころの文献はあまり残されていない。じゃなにが根拠かというと万葉集の一節である。

万葉集によると、大伴旅人は、九州の官人を集めて、梅花の宴を催した。そのなかには筑前国主の山上憶良もいた。

そのときの歌が32首残されている。その序文にこうある。

 初春の令月にして 気淑く風和らぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫らす・・

「このなかに令和が隠れている、令和をさがせ!」
子どもたちは、すかさず探しだした。

八幡宮前からは四王寺山の登山口への道がのびているが、きょうは山へはいかない。裏の田畑側から政庁跡へ。

畔道からバッタがつぎつぎと飛び出していく。ハーモニカの演奏をしているグループや虫取りをしている親子がいる。

大極殿跡で記念撮影。奈良の平城京跡は建物が復元されているけれども、こちらは礎石のまま。ぼくはこちらのほうが好きだ。イメージを触発されるし、広々とした空間が開放感を呼ぶ。

                                      続く。

2023年10月16日月曜日

木曽駒ヶ岳、霧ヶ峰、乗鞍岳、美ヶ原(7)風穴と養蚕

 

 くじゅう山系の北東部に黒岳がある。くじゅう山系は放牧の結果か草原が多いのであるが、黒岳の山麓は原生林が残っている。いまの時期は紅葉が美しい。男池湧水群から歩いて黒岳に向かう途中、大船山との境に、風穴がある。

大きな岩々のすきまが縦穴の洞窟になっている。深さは2メートルほどあり、奥は広間のようになっている(写真は、中から外を覗いたもの。)。その昔、大船山か黒岳の山体が崩壊したとき、岩々が堆積し、その際、偶然にできたと思われる。外気に比べて内部は冷涼な温度となっていて、7月まで氷が残っている。

そこに看板がかかげられていて、「大正年間に蚕種を保存するための天然冷蔵庫として利用されました。」と説明が書いてある。これまでは「ふ~ん。」となんとなく飲み込んでいたのだが、こんかい諏訪の地元の人の説明で、その意味がよく分かった。

前回紹介した野麦街道の手前に稲核(いなこき)の集落がある。そこにも風穴がある。ここでもバス内のアナウンスでおなじような説明がある。その説明も「ふ~ん。」ぐらいの理解だった。

養蚕というのは、農家が桑を栽培し、蚕(カイコ)を育て、繭を生産する一連の営みのこと。その先、繭から生糸を繰りだし、生糸からシルクを作って販売するのが製糸紡績業である。

製糸紡績業のほうは、機械化され工業化されている。それに対し、養蚕業のほうは農家がやっているものだから、それほどの工夫もないものだと思っていた(失礼)。だがそうではない。

カイコの先祖は蛾の一種。それを人間が飼い慣らし家畜化したものである。カイコは500個ほどの卵を産む。卵は春に孵化する。孵化した幼虫は桑の葉を食べ、脱皮を繰り返し、やがて糸を吐き、繭をつくる。

自然の営みであれば、年に一度しか、繭から生糸をとることができない。ところが、ある人が工夫して、卵を風穴に入れて冷やし保存してみた。すると、孵化が遅れ、夏でも秋でも生糸がとれるようになった。

つまり、収量は3倍。これにより、日本の生糸の輸出は、最大の輸出産業にまで成長したという。なるほど。明治大正期、生糸が日本の輸出産業の雄ということは教科書に書いてあったが、そのような創意工夫があったことは知らなかったなぁ。

2023年10月13日金曜日

木曽駒ヶ岳、霧ヶ峰、乗鞍岳、美ヶ原(6)片倉館と野麦峠

 

 諏訪湖のほとりに昭和3年に建てられた立派な洋館が建っている(写真)。片倉館である。国の重要文化財。

いっけん役所ふうであるが、なかは温泉施設。深さ1.1メートルの1000人風呂で有名。このあたりでロケがおこなわれれば、かならず紹介される場所だ。上諏訪温泉群の中心的存在である。

われわれの会話。
「少女たちの生き血を吸って建てられたんやろうね。」
「たぶん、そうだね。」

この会話が読み解けるだろうか。ヒントはやはり諏訪湖のほとりに建てられているということだ。

むかし「あゝ野麦峠」という映画があった。森下愛子主演。山本茂実のノンフィクションが原作。同旨のものに『女工哀史』というルポルタージュもある。

明治・富国強兵政策の時代、岐阜県飛騨地方農家の10代の娘たちが、諏訪湖周辺の製糸工場で過酷な労働を強いられた姿を描く。

当時は労働基準法など労働者保護法制は存在しない。10代であっても少女たちは安価な労働力として死ぬほど(文字どおり)こき使われた。栄養も休養も感染症対策も十分でないことから、結核などの感染症がたちまち蔓延した。

長野県松本から上高地へ入る際、途中まで野麦街道となっている。奈川渡ダム(梓湖)のTころで分岐があり、左側へ登っていくと野麦峠である。これが原作・映画名にある峠である。北アルプスの乗鞍岳の南にある鞍部である。

いまなら飛騨高山から信州松本へ高速バスが運行している。長い長い安房トンネルが北アルプスを貫通し、岐阜県と長野県とを短時間で結んでいる。

しかし、ときは明治時代である。名古屋から迂回する鉄道便さえない。飛騨地方から諏訪地方へ行くには、北アルプスを越えていくしかない。峠越えは、装備も十分でない時代のことだから過酷。峠は女工たちの過酷な境遇を象徴する存在である。

片倉氏は、こうした製糸紡績事業により財をなし、片倉財閥を形成した。その事業のひとつが上記片倉館の建設である。

それで、「少女たちの生き血を吸って建てられたんだろうね」という感慨になる。むろん、こんな荒っぽいとりまとめをしたら、関係者から叱られることだろう。すみませぬ。

実際、地元の人の話をきくと、とても尊敬されているようだ。たしかに、料亭を借りあげ、芸者をかりあつめて飲めや歌えの大宴会を行い、あげくのはて玄関でお札を燃やしたという、どこぞの炭鉱王たちに比べたら、ずいぶん立派である。このような観光資源を残したのだから。

また片倉氏は、群馬にある富岡製糸場を買い取り、その存続・保存に尽くしたという。世界遺産に認定された後、富岡製糸場を訪ねたことがある。年輩の女性が糸繰りの様子を実演してくれたのが印象的だった。しかし、片岡氏の功績は知らなかった。

富岡製糸場は世界遺産となり、インバウンドを含むおおくの人を集めている。重要な観光資源として地元に貢献している。そうした恩恵を明治期の少女たちに還元してあげられればよいのだが。

2023年10月11日水曜日

最善を期待し、最悪に備える

 

  (那須朝日岳・冬期)

 この3連休期間中、各地で山岳遭難があいついだ。道迷い、転倒・滑落はもちろん、低体温症で亡くなった人が多かったのも目をひいた。なかでも那須朝日岳(標高1896m)で4人の方々が亡くなった遭難が大々的に報じられた。亡くなった方々のご冥福を祈りたい。

生存者がおられないので、遭難の原因・経緯はよく分からない。しかし報道によると、当日は20メートル以上の強烈な風が吹いていて、ロープウエイなどでは登山を控えるよう注意喚起をしていたようだ。

標高が1000メートルあがるにつれて気温は6度さがる。風速1メートルにつき、体感温度は1度さがる。那須高原で気温15度だとしても、朝日岳で風速20メートル吹かれると、体感温度は氷点下10度以下である。汗をかいて油断すると、低体温症の症状がすぐでてしまう。

実は自分もこの3連休中、東北の山旅を計画していた。秋田の森吉山、和賀岳、秋田駒ヶ岳を登る計画であった。

しかし連休2日前、東北では連休前半冷え込み強風が吹くことは予報されていた。そこで、やむなく初日と最終日(これは雨による)の登山はあきらめ、芭蕉の足跡をたどる観光に切り替えた(これは後に報告したい。)。

登山は、山という大自然を対象に、自己という変動する主体で臨むものである。対象も急激に変化していくし、自身の健康や体調も日々、時々刻々と変化していく。この両者の相関のなかで、時々の決断をしていかなければならない。

その場合に使う方略は、「最善を期待し、最悪に備える」ことだ。いまふうに言えば、プランBを用意しておくということか。

遠征登山は半年~数ヶ月前に計画し、交通機関や宿を手配することになる。数ヶ月先の天気などわかりっこない。そのため、計画をたてる際には、よい天候を期待しつつも、豪雨・暴風への備えも怠れない。したがって、山の計画とともに、観光・旅のプランも立てるようにしている。

最近の天気予報はすごい。このポイントでは明日の13時から3ミリ程度の雨が降り、北西の風5メートル程度などという予報がピタリと当たる。お金を出せば、そこまで正確な天気予報を入手することも可能だ。

一般には「天気と暮らす」(てんくら)で十分だ。「那須岳」×「天気」のキーワードで検索すれば、上位で表示されることだろう。明日、那須岳に登ることが適切かどうかを、3時間単位で、AないしCランクで判定してくれる。C判定となれば、迷いなく登山を断念して観光に切り替えるべきである。

一人登山であれば、あまり問題はない。しかし、グループ登山、ツアー登山となると方向転換が難しいだろうと思う。

ぼくもいままでグループ登山の際、台風接近により縦走を断念したことが一度ならずある。その場合、あとから考えれば行けたのではないかと後悔すること必定である。リスクが2~3割となれば断念することになる。

逆に言えば、7~8割の確率で行けるということである。つまり、「無理すれば」行けるということでもある。そこが難しい。

問題は、その旅の目的は何かである。ピークハントを目的にすると、無理に行ってしまいがちである。これに対し、家に無事に帰ることを目的にすれば、自ずと答えは導かれる。

今回の遭難報道に接し、上記のように思った次第である。自分になんかあったとき、このブログが引用されることのないよう、心したい。

※なお、山岳遭難対策、低体温症対策の教科書は『トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか』(ヤマケイ文庫)である。白馬岳で遭難した北九州グループなど低体温症で亡くなるときは全員が亡くなることが多く、原因や経緯がはっきりしないことが多い。しかし、トムラウシ山の遭難は、15人のツアーでガイドを含め8人が亡くなったものの、7人の生存者がいたため経緯が詳細に調査され、その原因と対策が考究されている。

※ブログを読んでいただいている方は気づかれたと思うが、きょうは常体である。ブログでは、常体と敬体とをむやみに混交しないほうがいいと言われる。ここしばらくは敬体で書いてきた。しかしやはり内容により常体のほうがよいときもある。

2023年10月10日火曜日

木曽駒ヶ岳、霧ヶ峰、乗鞍岳、美ヶ原(5)4日間で日本百名山4座

 

 この旅はまもなく結婚予定のカップルと私の3人の旅となってしまいました。計画段階では違うメンバー構成だったのだけれど、途中で1人が参加できなくなってしまい、その代わりに1人があらたに加わった結果、こうなったのでした。

むかし同じ事務所の迫田弁護士夫婦と屋久島の宮之浦岳に登ったことがありました。そのときは3人とも若かったせいか、同じ部屋で川の字になって寝たりして、疎外感はそれほどではありませんでした。

しかし、今回はさすがに年齢も離れていますし、新婚旅行に紛れ込んだおじゃま虫か、せいぜいが同行カメラマンという感じでした。ははは。

日本百名山といえば、その選択基準が①高さ、②歴史、③品格などとされており、一座登るのに2~3日かかるのが一般です。しかし今回はそこを工夫して4日間で4座登る計画をたてました。

登ったことのある人は分かると思いますが、深田久弥の時代はともかく、いまの時代はロープウエイやビーナスラインなど道路が整備され、4日間で4座を登ることは十分に可能です。

そして天気にもめぐまれました。やはり、ひごろの行いでしょうか。みなの体力もなんとかもって、無事、4日間で4座を登ることができました。2人も大感激、大満足の様子でした。感謝、感謝。

2023年10月5日木曜日

木曽駒ヶ岳、霧ヶ峰、乗鞍岳、美ヶ原(4)フォッサマグナ・糸魚川静岡構造線

 


 きょうは、諏訪湖で交差しているもうひとつの大断層、フォッサマグナの西端・糸魚川静岡構造線の話です。フォッサマグナは学校で習ったのではないかと思います。これもナウマンが発見したものです。

写真(奥の山並み)は霧ヶ峰からみた北アルプス。右側に槍ヶ岳、左側に穂高連峰、中央部の凹は大キレットです。

フォッサマグナの西端・糸魚川静岡構造線は、名前のとおり、日本海岸の糸魚川から太平洋岸の静岡までの大断層です。

フォッサマグナと糸魚川静岡構造線は、違う概念です。フォッサマグナは日本列島を中央で分断する大きな溝。線ではなく、三次元の凹です。

そこはむかしむかし海でした。その凹に新しい土砂がたまって、いまのように東北日本と西南日本がひとつの列島としてつながったのでした。あら不思議。

そのフォッサマグナの西端の大断層が糸魚川と静岡を結ぶ構造線となっているわけです。

これに対し、東の端がどこかについては議論があります。北は新潟県の柏崎か新発田あたり、南は千葉あたりのようです。とにかく日本列島の中央部に大きな溝が存在したことは争いがありません。

ただし土砂がたまっただけでは説明できないところがあります。フォッサマグナの中央部には、北から妙高山、黒姫山、八ヶ岳、冨士山、箱根、天城山などの山々が連なっているからです。これらはマグマの上昇によるものと説明されています。

日本列島は、大陸プレートと太平洋プレートとフィリピン海プレートという3つのプレートが出会う場所にあります。それらのプレートが互いにおしくらまんじゅうをした結果、いまのような列島になりました。

太平洋プレートが東側から、フィリピン海プレートが南側から大陸プレートの下に沈み込むことにより、日本列島にシワがよったり、マグマが噴き出したりしたというのです。

霧ヶ峰(エアコンの名前ではありません。諏訪湖の北に位置する百名山です。)の涼しい風に吹かれ、北アルプスの山々をながめながら、そのような雄大な日本列島のなりたちに思いをはせました。

2023年10月4日水曜日

木曽駒ヶ岳、霧ヶ峰、乗鞍岳、美ヶ原(3)中央構造線

 


 諏訪湖で交差するフォッサマグナ西端・糸魚川静岡構造線と中央構造線、どちらもナウマンが発見したものです。が、中央構造線のほうが古い時代の日本列島の傷です。なので、こちらから。

写真は中央アルプスの木曽駒ヶ岳に登った際、千畳敷カールの上部から伊那谷(駒ヶ根市あたり)をのぞんだときのものです。向こうの山脈は南アルプスです。その左肩のあたりに富士山が顔をだしています(写真をクリックして拡大しないと見えないかも)。

富士山の右に、南アルプス塩見岳、左に白根三山。白根三山は左から、北岳、間の岳、濃鳥岳です。

中央構造線は、この南アルプスの手前の山麓を通っています。

ナウマンは西南日本の地質調査をしていて、西南日本を縦断する大断層を発見しました。中央構造線です。中央構造線を境として、日本海側を内帯、太平洋側を外帯と呼びます。

研究者がみなそうだと言わなければ信じがたいことですが、日本列島はその昔、ユーラシア大陸の東の端の一部でした。それが太平洋に漂いだし(ひょっこりひょうたん島のように)、いまの位置に来たというのです。

中央構造線ができたのは、日本列島が大陸の一部だったころのことです。そのころも太平洋プレートが大陸プレートの下にもぐりこんでいたわけですが、その際、太平洋上に存在した島々などをつぎつぎに大陸に付けくわえました(付加体)。内帯と外帯で地質が異なるので、そこに大断層があることがわかるのです。

以前、四国の吉野川と和歌山の紀ノ川が中央構造線上にあると書きました。

https://www.google.com/maps/place/%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%B8%82/@34.1675541,134.3349377,139879m/data=!3m1!1e3!4m6!3m5!1s0x6000b28519bc7e79:0x8fce76d4fd4f71ca!8m2!3d34.2303678!4d135.1707405!16zL20vMGdwNWti?entry=ttu

中央構造線は紀ノ川にそって東へ向かい、伊勢から伊勢湾、渥美半島の北部を通って伊那谷(南アルプスと中央アルプスの間にある)に入っています。

むかし南アルプスの塩見岳に登った際、ふもとに大鹿村がありました。大鹿歌舞伎で有名なところです。村には中央構造線博物館があります。村は中央構造線上にあるのです。

そこから北上して、駒ヶ根市ふきんを通過し、さらに北の諏訪湖(正確には茅野)に至っています。

https://www.google.com/maps/place/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E6%B9%96/@35.3921221,137.8036806,194752m/data=!3m1!1e3!4m6!3m5!1s0x601c55605b0c35d5:0xcd199e65021b9b75!8m2!3d36.0492617!4d138.0853146!16zL20vMDczXzg1?entry=ttu

構造線は、諏訪湖のあたりで東西に12kmほどズレています。活断層の作用によります。これも日本列島が東側からおされて、構造線の北側が西にズレたものと推定されています。すごくないですか。

2023年10月3日火曜日

木曽駒ヶ岳、霧ヶ峰、乗鞍岳、美ヶ原(2)ナウマン


 ナウマンを直訳すると、イマジン?それとも、いまどきの人でしょうか。じつは明治期のお雇い外国人の一人です。

むかし子どもの絵本に『野尻湖のぞう』という絵本がありました。いまもあるのでしょうか。

野尻湖は長野県の北部、新潟県との境、黒姫山や妙高山に囲まれ、その麓にあります。妙高山に登った際、いちど訪ねたことがあります。

野尻湖はむかし日本に生息していたナウマン象の化石が出たことで有名。その事実は明治初期のお雇い外国人ナウマンが発見しました。だからナウマン象です。

ナウマンは明治初期、日本に地質学をもたらしました。来日したときは21歳。いまの大学3年生くらい。それでいて東大地質学教室の初代教授です。

NHK朝の連続ドラマ「らんまん」が終了しました。植物学教室と牧野富太郎博士の交流や確執がえがかれました。ドラマの緊張がたかまると、浜辺美波の愛くるしい笑顔が癒やしをあたえていました。

植物学教室と地質学教室はどのくらい離れていたのでしょうか。キャンパスでナウマンと牧野博士が顔をあわせ、ときには会話を交わしたこともあったかもしれませんね。

ナウマンは北海道を除く、本州、四国、九州を広範囲に調査し、その距離は全長1万キロメートルに及んだとか。

それまでの日本地図は伊能図で平板だったものに、等高線を書き入れたのもナウマン。並行して日本の地質を調査しました。

その結果、フォッサマグナや中央構造線の存在を発見しました。そして『日本列島の構造と起源について』を発表しています。

明治期の人たち、日本人であると外国人であるとを問わず、すごくないですか。牧野博士がドラマになるのであれば、ナウマンも是非ドラマにしてほしいです。

2023年10月2日月曜日

木曽駒ヶ岳、霧ヶ峰、乗鞍岳、美ヶ原(1)諏訪湖

 

 先週は投稿をお休みしました。すみませぬ。先々週末、木曽駒ヶ岳、霧ヶ峰、乗鞍岳、美ヶ原という日本百名山を4座登ってきたので、その間たまった仕事等に追われていたのでした。

きょうから、その報告。今回の旅のテーマはナウマンの偉業をたたえるです。

写真がどこかわかりますか。諏訪湖です。諏訪湖ときいただけでナウマンとのつながりがわかった人はなかなかの通ですね。

諏訪湖は、フォッサマグナの西端・糸魚川静岡構造線と中央構造線が交差する位置にあります。日本列島のヘソといってよいでしょう。今回の山行との関係でいえば、霧ヶ峰の山麓です。

たまたまそこに位置しているのではなく、中央高地の隆起活動と糸魚川静岡構造線の断層活動により地殻が引き裂かれてできた構造湖です。

このコースは以前にも経験したことがあるのですが、前回は諏訪湖をスルーしてしまいました。今回は、NHKジオ・ジャパンのシリーズにより日本列島のなりたちの理解が進んだので、是非、現地を訪ねてみようと思いました(八ヶ岳から遠望したことはありましたが)。

中央線の上諏訪駅を降ります。北側に改札口があるので、左折して線路沿いに行くと、さらに左折。線路をくぐると、むこうに諏訪湖が見えています。

モニュメントがあり、そこを抜けると諏訪湖の絶景が開けています。写真をみて、湖の向こう側の左手(諏訪湖南西側)には諏訪湖南岸断層群があります。同じく右手(諏訪湖北東側)には諏訪湖断層群があります。

湖を取り囲むように諏訪大社4社が位置しています。上社本宮、上社前宮、下社春宮、下社秋宮。諏訪大社は諏訪湖と密接な関係があるにもかかわらず、上社は諏訪湖からずいぶん離れたところに立っています。なぜでしょう。

諏訪湖には流入する河川がたくさんあるにもかかわらず、流出する河川は南西側の天竜川しかありません。土砂の堆積が進み、年々、面積が縮小しています。そのため、上社は離れたとこにあるのだとか。むかしは湖面に近く建てられていたそう。ごらんのとおり、写真でも湖面の縮小を実感することができます。