政庁跡には礎石が置かれているのであるが、レプリカである。むかしはプラスティック製のものを置いていてブカブカしている時もあった。
実物は2mほど地下にある。発掘調査をおこない、2mほど掘り下げたところ、いま見るような礎石群があらわれたのである。つまり、年間2mmほどずつ土砂が堆積を繰り返していて、約1000年の間に礎石群のうえに2mほどの土砂が堆積しているのである。
そのことは、南西角にある展示館にいけばよく分かる(いつの間にか有料になっていたが。)。館の内部、左右は地層を掘り下げたままになっていて、掘るとどうなるかがよく分かる展示になっている。2mほど地下にゴロリと置かれたままの礎石や溝の遺構をみることができる。
展示館のまえで休憩していると、高齢の男性、つづいて女性が設置されている台の上でスタンプを押していく。訊くと太宰府市がおこなっている事業で、スタンプが集まると3000円の商品券やお米がもらえるのだそう。なるほど。われわれはアプリの景品を期待して歩いているところ、太宰府市の高齢者は商品券やお米を期待して歩いているのか。
展示館の北西角には、都をしのんで歌った小野老の有名な歌の碑がある。
あをによし奈良の都は咲く花の 薫うがごとく今盛りなり
展示館の前を通って東へ向かう。この通りにはセンダンが植えられている。またの名を楝(あふち)の木。おそらく筑前守であった山上憶良のこの歌にちなむものだろう。
妹が見し楝の花は散りぬべし 我が泣く涙いまだ干ぬ
これは大伴旅人の妻が亡くなったときに、旅人の気持ちになって詠んだ歌。四王寺山の霧に仮託したつぎの歌もおなじ。
大野山霧立ち渡るわが嘆く息嘯の風に霧立ちわたる
通りの左手には故冨永朝堂先生のお宅がある。太宰府天満宮・延寿王院前の「神牛」の作者である。
そのあたりからは宝満山が大きくのぞめるようになる。ことしは国の史跡に指定されて10年となる。大宰府政庁跡の東北、鬼門の方角である。
平安京の鬼門は比叡山であり、鬼門の押さえとして延暦寺が置かれた。大宰府の鬼門は宝満山であり、鬼門の押さえとして竈門山寺・竈門神社が置かれている。
さらに東に行くと学業院跡である(国史跡)。古代、大宰府の官人要請が行われたという。太宰府は現代、学園都市になっているが、このような伝統のゆえであろうか、それとも天満宮のご利益を期待してのことであろうか。
手前には、山上憶良の有名な子等を思ふ歌の碑が建っている。親子の情愛は古代から変わりはない。
瓜食めば子供念ほゆ 栗食めばまして偲はゆ 何処より来たりしものぞ 眼交にもとな懸りて 安眠し寝さぬ
銀も金も玉も何せむに まされる宝子に如かめやも
学校で習った。小6に訊くも習っていないという。中学で習ったのだったか。
またそこには天満宮の斎田があり、ちょうどこの日、抜穂祭がおこなわれていた。このごろはコンバインによる収穫風景しかおめにかからなくなったが、むかしながらの鎌による稲刈り。なつかしい。
その先入ったところは昨年、アナグマ三兄弟の巣があったところだ。
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