太宰府路は、北をのぞめば、どこからでも四王寺山が見える。観世音寺横のコスモス畑からとくに美しい。
四王寺山は標高400Mちょっとだ。最高峰の大城山のほか、大原山、岩屋山、水瓶山の四峰からなる。
四王寺と呼ばれるのは古代、仏教の守護神である四天王がまつられたからだろう。四天王は須弥山(しゅみせん)で帝釈天(たいしゃくてん)を守護しているという。帝釈天というのは寅さんに出てくるアレである。
須弥山は世界の中心にそびれる高山。広島・宮島の最高峰である弥山(みせん)や、仏像の基壇を須弥壇(しゅみだん)と呼ぶ由来である。
四王寺山の山頂には、いまでも増長天、広目天の礎石、毘沙門堂が残されている。増長天は南、広目天は西、毘沙門天は北の守護神。
東をまもる持国天は大原山のあたり、いまは15番札所・十一面観音石像があるのみである。
四天王像としては東大寺戒壇院のものが有名であり、大好きである。四人組の強者のことを四天王と名付けて恐れ敬うのはいまもおなじ。われわれの世代ではアタックナンバーワンに出てきた○○四天王にしびれたものである。
北方の守護神である毘沙門天は、四天王の一角をなすときは多聞天という。独尊として崇拝されるときに毘沙門天という。戦の神様。強烈に戦がうまかったという上杉謙信は毘沙門天を崇拝していたという。
大和朝廷は百済に加勢して白村江で唐・新羅連合群に敗れた。その後、唐・新羅による列島侵略を心配して、四王寺山には朝鮮式山城が築かれた。大野城という。いまでも山頂には当時の倉庫跡や堤防跡が残されている。
大野城は水城や基山とともに、大宰府政庁をまもる壮大な防衛施設となっている。重機などなかった古代のことだから、唐・新羅による侵略の恐怖が強烈であったことがうかがえる。
物理的な防御だけではとんでもなく心配だったので、四天王の力にすがりたかったのだろう。
いまは写真のとおり、のどか。やはり平和がいちばんである。
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