2010年10月6日水曜日
「悪人」
映画「悪人」を観ました。
直江兼続から一皮むけた妻夫木聡くんとそれを包み込むような深津絵里さんの演技に涙しました。
映画が問いたかったのは、いったい誰がほんとうの「悪人」なのか?
深津さんの父親(柄本明)がひとつの答を示します。
その他の答の可能性も示唆されています。
ここで示されているのは悪人と善人の違いは相対的なものであるという人間観です。
人間は他の人間に対して羊か狼か?
羊だと考えるのが性善説、狼だと考えるのが性悪説。
両説のブレンドのしかたには2とおりあります。
実際の人間は、普段は羊、ときに狼というのが一般的。
「悪人」はまさしくこのような相対的な人間観に基づいているといえます。
このような人間観は、寛容の精神の基礎でもあります。
それはまた刑事の情状弁護の基礎をなすものです。
これに対して、羊型と狼型の2種類がきれいにわかれるという人間観もあります。
水戸黄門や遠山の金さんなどがそうです。
これは1時間でわかりやすくドラマを組み立て最後にカタルシスを得るには都合がいいものの、複雑な人間を単純化しすぎです。
有罪とはっきりしている悪人をなぜ弁護するのか?という質問をよく受けます。
質問の前提には水戸黄門的な人間観があるように思います。
私のつたない説明で納得できない方は「悪人」を是非観ていただきたいと思います。
昨今の格差の拡大、地域経済の衰退、貧困の増大など厳しい社会経済情勢から、他人に対して不寛容な考えがつよくなりつつあります。
その結果、刑事事件も重罰化が進んでいます。
こうした状況に対していまいちど立ち止まって冷静に考えようよ、と「悪人」はいっているようでした。
妻夫木くんたちはなぜ、クライマックスで灯台をめざしたのでしょうか?
灯台はまっくらな闇をきりさいて光をもたらし、進むべき方向を指し示します。
その後またながい闇がおとずれても必ずまた光は射します。
だからでしょうか?
たとえ厳しい状況下にあっても、光射すほうへ向かうしかありませんね。
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