2010年10月20日水曜日
大部分の殺人は
大部分の殺人は愛し合う者のあいだで起きるものだ。
つまり、統計的に見れば、彼女が有力な本命馬なのだ。
サラ・パレツキー「サマータイム・ブルース」から
I・V・ウォーショースキー
「藪の中」をふつうに読み終わると、
そっかそっか武弘(被害者)の自殺か…。
む、ちょっとまてよ、そうすると多襄丸と真砂は自分がやったと嘘をついていたことになるなぁ。
なんで?
普通の推理小説だと、選択肢となる容疑者たちの動機の解明とアリバイ潰しが関心の中心。
「藪の中」のばあい、ちょっと違います。
犯人以外の容疑者がなぜ、やってもいないのにやったといっているのか?
この点の説明が最大の問題です。
推理小説のなかには謎解きにやっきになるあまり、人間ドラマが置き去りになっているものも。
謎はとけたけれどもだからなに?という感想が残ります。
ということで、①誰が真犯人と考えるのが容疑者たちの供述を無理なく説明できるのか、②誰が真犯人だと考えるのが人間ドラマとして感動できるのか、という2つの基準で考えてみます。
まず武弘自殺説だと、少なくとも多襄丸がなぜ自分がやったと自白しているのかがまったく説明できません。
無実であるにもかかわらず殺人の罪をかぶろうというのですからよほどのこと。
その動機はふつう、(真犯人に対する)愛でしょう。
もちろん拷問によるという説明は可能であるものの、人間ドラマとしての興趣はゼロです。
つぎに多襄丸が犯人だとする説も、少なくとも武弘が嘘をついている理由づけが難しい。
IKKOさん、おすぎ&ピーコさん、KABA.ちゃん、假屋崎省吾さん、クリス松村さん、楽しんごさん、マツコ・デラックスさん、美輪明宏さん…らが毎日テレビに登場する今日的状況を前提にしても、本文中にそれを疑わせる記述がまったくみられませんから。
こうして真砂が真犯人であるというのが最も無難だと思います。
多襄丸と武弘が嘘をついたのは彼女に対する愛ゆえ。
ここでは1人がほんとう、2人が嘘をいっているという前提で議論しています。
全員がほんとう、あるいは嘘をいっているというオチももちろん考えられないではありません。
でも説明が苦しいし、紙数と名探偵が必要です。
なお、傍証として真砂の名前をあげておきます。
真犯人であり、真実を述べているので「真」砂と名付けられていると考えます。
そんなアホなという方へ。
芥川が名前にもそうおうの意味を込めていることは以下のとおり。
多襄丸。
「襄」は難しい字ですが、「衣」の間に「いっぱい詰め込む」ようすを表したもの。
多襄丸は「名高い盗人」なので、盗品を衣の間にいっぱい詰め込んでいるのでしょう。
「襄」には「女」という意味もあるのだそう。「お嬢さん」など。
多襄丸と云うやつは「洛中に徘徊する盗人の中でも、女好きのやつ」なのは、そういうわけ。
多襄丸は多情丸につうず。
金沢武弘。
金沢は金(に対する関心)が沢山という意味でしょうか?多襄丸の儲け話にうまうまとのせられてしまっているので。
「弘」の意味は①スケール・度量が大きい。②ひろめる。
武弘は侍で多襄丸と二十合斬り結ぶほどの腕なので、武が大きいという意味でしょう。
「藪の中」は7人の供述のほか、なんの説明もありません。
時間をズラすことにより、ちがうオチを導くこともできそうです。
木樵りから多襄丸までの5人は裁判の場。真砂と武弘は(多襄丸が極刑に遭った後の)後日談とか。
前5者は検非違使に対して語った形式になっているのに、後2者はそうではないので。
真砂の話は「清水寺に来れる女の懺悔」と題されています。
懺悔とは、自分の過去の罪悪を仏・菩薩の御前にて告白し悔い改めること。
真砂の供述は清水寺の観音さまの前での告白だというのです。
少なくとも多襄丸の白状より信用できそうです。
武弘の話は「巫女の口を借りたる死霊の物語」。
巫女は太宰府天満宮などにいらっしゃる神子さんではなく、青森県・恐山などで口寄せ(死者の霊などを自身に乗り移らせてその言葉を語ること)を行うイタコのこと。
いまでいえば国分太一さん・美輪明宏さん・江原啓之さんの「オーラの泉」で、江原さんが武弘の死霊を霊視するような感じでしょうか…。
ぼくが国分さんなら、武弘の死霊を呼びだしてもらうようなことはしません。
芥川先生の死霊を呼びだしてもらい、真犯人が誰なのか(真相)をきくほうが近道ですから。
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