2022年11月30日水曜日

Yさん送別会


 

 わが事務所は来年創立40年目をむかえる。そうしたなか、22年間勤続してくれたYさんが退職されることになり、その送別会がひらかれた。いまは小郡に移籍された稲村晴夫弁護士もかけつけてくれた。

Yさんは鹿児島の法律事務所で8年間勤務するなどした後、わが事務所に入所。福岡市民オケでヴィオラを演奏する酒豪である。稲村、迫田弁護士らともよき飲み仲間であった。

わが事務局は永田さん、入江さんを嚆矢とし、わが事務所で事務局経験をはじめた人と他の事務所での勤務経験を経てきた人にわかれる。

他の事務所で勤務した人は、自ずとその事務所での方法論や文化をもたらすことになる。わが事務所の所風や文化に多様さと寛容さをもたらしてくれた存在だ。40年の事務所の歴史のうちの22年であるから、いまの事務所の大半をともにつくり、基盤の一角を形成してくれた。

送別会でも、事務所愛をあつく語ってくれた。事務所愛ゆえ月曜日に事務所に来るのが楽しみだったという、ちょっと信じられないエピソードも披露された。後輩たちもそうした文化を着実に引き継いでくれると思う。

他の事務局からは、事務指導体験や懇親行事の際の懐かしい思い出もあれこれと披露された。稲村弁護士からも以前と変わらぬ温かい激励をいただいた。

涙、涙のよい懇親会だった。また明日から頑張ろう、ちくしの伝統と文化を絶やしてはならないと、あらためて思えた送別会だった。

2022年11月29日火曜日

ある不当利得返還請求事件(和解)

 


 ある不当利得返還請求事件が和解により解決した。

X名義の預金通帳を母が管理し、いろんな使途に使用していた。そこには賃貸収入が入金されていた。

母は亡くなり、遺産分割協議を行った。公正証書遺言が見つかり、これに従い不動産の登記や相続税の申告がなされた。

その後も、Yが預金を管理し、いろんな使途に使用していた。6年後、通帳を返したところ、YはXから使途不明金6160万円を返すよう言われ、裁判を起こされた。Yが使途不明金を不当利得したというのである。

ちなみにXの代理人は、積極的にCMを展開している全国展開の某法律事務所の弁護士である。

Yから依頼を受け、およそ2年間裁判をたたかった。平成23年1月からの出金について使途不明だと請求され、11年も前からのことだから、当方も記憶も鮮明でないし、証拠関係も完璧とはいいかねる。

丹念に1つ1つの使途に関し証拠を収集し、使途をつきとめていった。それでも10%ほどの証拠について、もともと書証が存在しなかったか、これが散逸してしまい残っていない。

こちらは一切自己のために費消をした覚えはないので、1円でも支払うことはできない。ある意味幸いだったことに、当方にも反対債権が生じていた。

裁判所の強力な斡旋もあり、Yは1円も支払わなくてよいとの和解をすることができた。ふう。めでたし、めでたし。

2022年11月28日月曜日

松帆の浦・明石海峡

(松帆の浦) 

(絵島) 

(海峡越しに一ノ谷・須磨)


 (明石海峡と明石海峡大橋)
 
 旅の第1の目的地は大塚国際美術館、第2の目的地は松帆の浦。そう言われても知らない人がほとんどだろう。

 来ぬ人をまつ帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ 権中納言定家

これなら知る人も多いだろう。百人一首の代表歌。定家が撰者なので、よほどの自信作と思われる。そこで詠まれている松帆の浦へ一度行ってみたかった。

松帆の浦は淡路島の北端にあり、明石海峡をへだてて、本州の明石・舞子・須磨と接している。西には播磨灘をへだてて、小豆島の島影が見える。

定家の歌の本歌は『万葉集』の笠朝臣金村の歌。

 なき隅の船瀬ゆ見ゆる淡路島 松帆の浦に朝なぎに 玉藻刈りつつ夕なぎに
 藻塩焼きつつ海女少女 ありとは聞けど見に行かむ よしのなければ上部の
 情はなしに手弱女の 思ひたわみて徘徊り 我れはぞ恋ふる船梶を無み

本歌の主人公は明石側から淡路島の女を恋している。これをひっくり返して淡路島側から恋する乙女の立場で詠んだのが定家の歌。塩がじりじりと焼けるような情念・・。

定家には「三夕」の歌の一つとして名高いつぎの歌もある。浦の夕暮れは詩心をさそうようだ。

 見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ

松帆の浦から東へすこし行くと絵島がある。絵島というと大奥を思い浮かべるが、そうではなく月見の名所である。西行の歌碑がある。

 千鳥なく絵島の浦にすむ月を波にうつして見るこよいかな

西行と時代をおなじくする『平家物語』にも、「福原の新都におられる人々」が絵島で月見をした話がでてくる。

 やうやう秋も半ばになりゆけば、福原の新都にまします人々、名所の月を見んとて、或は源氏の大将の昔の跡をしのびつつ、須磨より明石の浦づたひ、淡路の瀬戸をおし渡り、絵島が磯の月を見る。

絵島からは海峡越しに、一ノ谷や須磨あたりをのぞむことができる。写真の緑の部分が鉢伏山、その向こうが一ノ谷や須磨のあたりである。一ノ谷は源平合戦の激戦地。大手の戦いは神戸・生田神社のあたり。一ノ谷は搦め手側。義経が鵯越を越えて活躍したためか、敦盛最後など『平家物語』の悲劇が一ノ谷に集中したためか、一ノ谷の戦いと呼ばれる。

福原は源平合戦が勃発して平清盛が緊急避難して新都を築こうとしたところ。神戸の南部、大和田の泊があったあたりが予定地とされる。しかし不人気で途中で計画は放棄され、旧都に復したとされる。

源氏の大将の昔の跡をしのびつつとあるのは、ややこしい。『平家物語』にでてくる源氏ではなく、『源氏物語』にでてくる光源氏のこと。光源氏は一時失脚して、須磨に隠棲した。それが「須磨」の段、そこから「明石」の段を経て再起していく。

いくら紫式部が天才といっても、「須磨」や「明石」の段が彼女のイマジネーションだけで書けたわけではない。須磨や明石をめぐっては古今集などに多数の和歌が存在するほか、関連して故事も存在する。

なかでも有名なのは、在原行平の故事と歌である。行平は『伊勢物語』で有名な在原業平の兄。文徳天皇のときに須磨に蟄居を余儀なくされたという。 

 わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつ詫ぶと答えよ

『源氏物語』の「須磨」の段がこのエピソードを踏まえていることは、本文中に明らか。行平には百人一首にとられた次の歌もある。

 立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今帰り来む

これは必ずしも須磨の蟄居とは関係ない時の歌のようだが、惜別の内容から行平を悲劇の主人公とイメージさせる。業平ほどではないにせよ、女性にももてたことだろう。

謡曲の「松風」は、須磨を訪れた諸国一見の僧が、松風村雨という姉妹の亡霊に出会い、彼女らが行平に恋い焦がれる曲になっている。

淡路島、明石海峡、明石、須磨、神戸。風光明媚だという評価は、ここが日本一だろう。もともとの自然の美しさもさることながら、そのうえに積み重なった歴史や古典の美しさ。美しいイメージがつぎつぎに喚起される。みなさまも一度どうぞ。

2022年11月27日日曜日

ブログとかけまして・・・

 

こんにちは。富永です。

ブログの更新を3か月ほどサボりました。


この間、一部のコアなファンの方々から、「ブログの更新が最近ありませんね。」とお声かけがありました。

締切りのない原稿ほど、一度手が止まったらなかなか書かないものはありません。

ま、U先生が更新しているから、いっか、と気楽に構えていたのです。


そうしたところ、ある日、とある方から、

「最近は山に登られているんですか?」

と尋ねられました。


はて、山登りしてるなんて話したっけ?最近ほとんどしてないけど、

と疑問に思っていると、


「ブログに書いているじゃないですか。」

とのこと。


はは~ん。それはU先生のブログですね。

これはいかん。誤解を生む。更新せねば、と筆をとった次第です。


コンスタントに書くことが大事ですね。

ということで、また改めて頑張りますのでよろしくお願いします。


ブログとかけまして、

カレーと解きます。その心は?





更新量(香辛料)が大事です。



えっ、面白くない!?辛口ですね。


富永


2022年11月25日金曜日

淡路夢舞台・明石海峡公園


 






 舞子から舞い戻った先は淡路夢舞台。島の東海岸にある。大阪湾をはさんで、対岸の須磨・神戸まで見渡せる絶景だ(写真1)。

海岸から高台まで、国際会議場、リゾートホテル・チャペル(写真3)、野外劇場、植物園・温室などが点在している。どの施設も、他ではみられないスケールで、開放感が抜群。

植物園は百段苑(写真2、4)など珍しい様式のものが複数あり、遊歩道で迷路のように結ばれている。建築家・安藤忠雄の代表作。

温室はあわじグリーン館。これまた広いスペースが5つの展示室に分けられている。多肉植物を集めた「みどりのちょうこく」、熱帯・亜熱帯植物を集めた「しきさいのにわ」などに各展示室ごとにテーマをもって鑑賞できる(写真5、6)。

お隣は明石海峡公園。①自然を五感で体感、②エコミュージアム、③参加の心を育てる、④植物を介した交流の場、⑤地域環境の形成に貢献、⑥生物多様性保全の拠点などを目的とするとされる。こんな大きな人工物をつくって、目的に沿っているのか心配になる。

とまれ、園内では二期咲きの桜、ムシカリの紅葉やいろとりどりのコスモスなどを楽しめる。ジョウビタキ(メス)も、ヒッ、ヒッ、ヒッ・・と火焚きの歌を歌っていた(写真7、8、9)。

2022年11月24日木曜日

淡路島へ



  ワールドカップ、日本がドイツに勝った。ベッケンバウアーが活躍していた時代を知る世代としては、隔世の感がある。だれかどこかの王様に頼んで、きょう一日休みにならないだろうか。

・・・さて、休みになりそうもないので、旅をつづけよう。徳島のつぎは淡路島にむかった。淡路上陸は初である。

淡路は阿波へ行く道の意味だ。都から徳島へ行くほうが正順だろう。こんかいは逆順である。淡路島は日本列島で最初にできた島である。と日本神話にある。

 ・・そこで地上に戻って、前と同じように天の柱の回りを廻った。
 そしてまずイザナキが(筆者注、前回とは逆の順で)、
 「ああ、なんていい女なんだ」と言い、それに続いてイザナミが、
 「ああ、なんてすてきな男」と言った。
 こう言い終えてから性交を行った。それによって生まれたのが、
 淡道之穂之狭別島(アハヂ・ノ・ホノサ・ワケのシマ)、次が
 伊予之二名島(イヨ・ノ・フタナのシマ)。・・(『古事記』池澤夏樹訳・河出書房)。

淡路の次に生まれた二つ目の島は四国である。身は一つだが顔が四つあった。それぞれ名前があって、それが愛媛、讃岐、粟(阿波)、土佐である。

ちなみにその次が隠岐で、その次が筑紫島(ツクシのシマ)である。この島にも四つの顔があり、それが筑紫、豊、肥、熊曾である。いうまでもなく、わがちくし法律事務所の名はこの古事に由来する。

さてクイズ。淡路島は何県でしょう?江戸時代には阿波の蜂須賀家が淡路を領していた。が、お家騒動があり、廃藩置県では徳島県ではなく兵庫県に編入されてしまった。

単なる歴史的事実のようだが、そうではない。テレ朝で「路線バスの旅」という番組をやっているがご存じだろうか。あれをみていればわかるが、路線バスは都道府県ごとに路線が設定されている。

徳島県から兵庫県へむかう路線バスはない。路線バスの旅だから高速バスを利用することもできない。しかたなく県境を歩きなど他の方法で突破することになる(番組では)。

わが旅のよいところは高速バスが利用できることである。高速バスを利用して、徳島から兵庫県の本州側(明石海峡大橋の北側)にある舞子をめざした。途中、鳴門海峡にかかる鳴門大橋を渡る。

鳴門はいわずとしれた渦潮の名所である。「門」は水門、つまり海峡の意味だから、音が鳴り響くほど渦潮がはげしい海峡という意味だ。

 夜中ばかりに船を出だして、阿波の水門を渡る。夜中なれば、西東も見へず。
 男女、からく神仏を祈りて、この水門を渡りぬ。・・・

紀貫之が女と称して書いた『土佐日記』の一節。土佐国主(知事)の仕事を終え、京へ帰る道中。鳴門を通過しなければならない。平安時代は難所だった。

難所なのに、なぜ夜中に船を出したのだろうか。危ないではないか。思うに、鳴門の渦潮は潮の干満によって引き起こされる。満潮と干潮だから1日2回である。満潮の際には太平洋側から瀬戸内海側に潮が流れ込み、鳴門海峡を潮が南から北へ流れる。それが渦を引き起こす。干潮のときは逆である。おそらく貫之が帰朝したときは、夜中であれば渦潮が発生しない時期だったのだろう。

潮の干満は太陽や月の引力により引き起こされる。であれば、太陽や月がわれらの上空にくれば満ち、地球の反対側にまわれば干きそうなものだが、そうではないらしい(以下、文系のぼくには理解不能。なお、本ブログにおける理系の知識は全般的に不正確である。それを言えば文系知識もそうであるが。ともかく最後は自分で確認してくだされ。)。

大島真寿美の直木賞受賞作に『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』(文春文庫)がある。人形浄瑠璃作者の近松半二の生涯を描いたもの。渦には激しい波乱のイメージがある。

かかる難所であるが、いまは鳴門大橋でひとまたぎである。この日、高速バスが鳴門大橋を通過したのは午前11時ころ。10時10分ころをピークとする南流の残影があったはずだが、残念ながら、バスの車窓からは見えなかった。

しばらくはバス旅。淡路島デカい。地図をみて抱いていたイメージとは大違いだ。どこまでも畑が広がっている。食材の宝庫だけある。いうまでもなくタマネギが有名である(写真1)。ワールドシェフ王料理大会なども開催されているようだ。

明石海峡を渡り、舞子の高速バス停で降りる。明石海峡大橋上部の連絡橋を反対側にある高速バス停へ行く。そして路線バスに乗り換えて、ふたたび淡路島に戻る(逆行)。

舞子の連絡橋から明石海峡とその向こうの淡路島をのぞむ(写真2)。海峡が逆光を反射して美しい。

 淡路島かよふ千鳥の鳴く声に幾夜寝覚めぬ須磨の関守 源兼昌

2022年11月22日火曜日

眉山眺望

 


 極楽寺からは来た経路を徳島駅に戻る。駅から徳島市街を10分ほど西へ歩くと眉山の麓だ。街と山が近い。

麓には阿波踊り会館がある。その5階が眉山ロープウェイの山麓乗り場。乗って6分ほどで山頂駅に着く。家族連れが楽しそうだ。

山頂展望台からは絶景。東側には、すぐそこに徳島市街がひろがっている。右手前のこんもりしたところが徳島中央公園。むかし徳島城があったところ(徳島駅はその手前)。

幕末には藍産業が発展し、国内10指に入る人口を擁したという。1972年のNHK連続テレビ小説は「藍より青く」。真木洋子主演。青は藍より出でて藍より青し。出藍の誉れともいう。弟子のほうが先生より優れていることをいう(出典は荀子)。

徳島市は水の都と呼ばれている。手前を新町川、むこうを助任川が流れている。両河川の間にある市街はひょっこりひょうたん島の形をしている。クルーズ船で遊覧もできるらしい(観光案内所推し)。

市街のむこうを流れる大河は吉野川。石鎚山のお隣、瓶が森に端を発し、紀伊水道に注いでいる。三大暴れ川の一つである。しらさぎ大橋が架かっている。

地図をみると、吉野川は紀伊水道をはさんで和歌山の紀ノ川と一直線に連なっていることが分かる。中央構造線だ。中央構造線は太古、別々の島(プレート)だった日本列島の北側と南側がこの線でドッキングしたあとである。日本神話がこの事実を示唆しているとすれば、太古の記憶だろうか。

吉野川のむこうは鳴門。小鳴門橋、大毛島、鳴門海峡・鳴門大橋を経て、淡路島である。瀬戸内海はむかし陸だったらしい。中央構造線を境として、南側のプレートが西にズレた際、紀伊水道から太平洋の水が流入した・・という映像をNHKでみたことがある。

南には南小松をへて、きょう午前中に赴いた阿南にいたる陸のつながりが見渡せる。ひるがえって北には、吉野川のむこうに讃岐山脈が連なっており、その麓あたりがきょう午後に訪ねた第一、第二札所あたりが見渡せる。

日が傾いてきて、眉山の影が徳島市を覆っていく。西側を眺めると、四国山地の山並みに日が落ちていく。日本百名山の剣山(1955m)のあたりだろうか、日が沈む。すばらしい一日に感謝。

2022年11月21日月曜日

阿波国一宮、第九初演の地、第二番札所

 







 四国遍路第一番札所のあとは、北側へ進む。まもなく大鳥居をくぐる。柿がたわわ。歩いて15分ほどで阿波国一宮・大麻比古神社。

神武の時代、アメノトミノミコトが阿波に移り住み、麻などを播種してこの地を開拓したという。境内にはクスの大木がたくさん。パワースポットの貫禄である。

背後は讃岐(阿讃)山脈の一部をなす大麻山。他ではみられないアカガシやイスノキが優先する貴重な自然林になっているという。もとはそうしたところがパワースポットとして知られ、その麓に神社やお寺がつくられたのだろう。

讃岐側に比べ阿波側は吉野川に削られて急であるという。山中からはアンモナイトなどの化石が観察され、太古は海のなかだったらしい。吉野川は中央構造線であるから、さもありなん。太古の記憶の残存がここをパワースポットたらしめているのだろうか。

神社を参拝したあとは西へ向かう。サルに注意との看板がある。まもなくサルたちが出迎えてくれた。神社は猿田彦も祀っているので、神の使いだろうか。われわれの行く先を道案内してくれるのだろうか。すばっしこくて写真には撮りそびれた(撮れたがピンボケである、神の使いゆえか。)。

15分ほどで、第一次世界大戦中の俘虜収容所跡とドイツ館。大戦中、中国青島でドイツ軍と戦ったとだけ世界史で習った。その際の捕虜が日本各地に分散収容され、ここはその一つだった。ちなみに、俘虜収容所は英語でキャンプという(小さい辞書にはでてこない。)。

収容所長は懐がひろく、俘虜たちに可能なかぎり自由を認めた。スポーツや音楽活動が盛んになり、そうしたなかで、ベートーベンの第九交響曲の国内初演もなされた。

ドイツ館のまえではドイツ人と思われる若者たちが記念撮影をしていた。いまでもドイツとの交流がつづいているようだ。

館内では人形が第九を演奏してくれた。
♪Alle Menschen werden Bruder・・
時節柄心に沁みた。

そこからさらに西へ向かう。やはり15分ほど。西にあるのはどこか。そう、極楽である。日もうまいぐあいに傾いてきた。あたりは黄金色に輝く。

四国遍路第二番札所は極楽寺。犬もお遍路すがただ。本殿よこで、主人が般若心経を唱えるあいだ、おとなしく待っていた。この犬もきっと極楽へ行けることだろう。

2022年11月18日金曜日

四国遍路第一番札所・霊山寺

 

(山門)

(本堂)

(本堂天井)

(お不動さま)

(大師堂)

(多宝塔)

(お遍路さん@洋風)

 阿南市からは徳島市を経て眉山を左手にみながら北へむかう。佐古駅で西へ行く徳島線をわける。われわれは高徳線で香川・髙松方面へむかい、大河・吉野川をわたる。吉野川は板東太郎の利根川、筑紫次郎の筑後川、四国三郎の吉野川といい、三兄弟の末っ子だ。

吉野川をわたると、北側正面に讃岐山脈が屏風のように連なっている。むかしは湿地だったのか、レンコン畑が広がっている。この季節、めずらしい野鳥が渡ってくるのだろう、望遠レンズをかかえた人たちが集結しているのが車窓からみえる。自然が豊かだ。

池谷駅で鳴門方面へむかう鳴門線を東にわける。きのう行った大塚国際美術館は、そちらの方向だ。もういちど行きたい。

きようはこのまま高徳線を西へ向かう。つぎの駅が板東だ。やや寂れた感のある駅前をさらに北上する。15分ほどできょうの第2の目的地である霊山寺だ。

霊山寺は四国お遍路の第一番の札所でスタート地点である。言わずと知れた四国お遍路は、四国中に点在する88カ所の弘法大師・空海ゆかりの仏教寺院を経巡る巡礼の旅である。全部めぐると88の煩悩がとりはらわれ、88のご利益があるという。ありがたや。

弘法大師は42歳のときに全部を旅したという。ぼくのばあい全部めぐるのは老後の楽しみにとっておいて、きょうはさわりの第1と第2にだけ参拝する。すくなくとも2つの煩悩がとりはらわれ、2つのご利益があることだろう。

霊山寺は1300年前に聖武天皇の勅願で行基が開いたという古刹。なぜ第1番札所なのか。それは弘法大師が密教の阿字五転(発心・修行・菩提・涅槃・利他)の法則にしたがって、四国の北東の角のこの場所を発心点=出発点としたためという。

山門を入ると正面奥が本堂。お遍路姿の人たちが般若心経をとなえている。♪観自在菩薩・・色即是空・・。般若心経が大乗仏教の経典で利他の心を説いていることは最近このブログでも紹介した。

お世話係のおばちゃんに訊くと本尊は撮影禁止らしいが、本堂外観や天井は撮影OKらしい。天井は灯籠が並び、なかなかバエる。

本堂左手にはお不動さまがメラメラされていた。さらにその手前には多宝塔が、右手には大師堂が。それぞれお参りする。煩悩がなくなりますように。ウクライナに平和が訪れますように。

大師堂の奥に納経所がある。お遍路は納経所でご朱印をいただくことになっている。玄関では、青い目のお遍路さんが出迎えてくれる。SNSに投稿したら、目が空色なんやとのコメント。色即是空だから、空色でよいのだ。またウクライナの空に向かって平和を祈っている姿だとのコメントも。まさしくそうだ。

2022年11月17日木曜日

ネコ好きの聖地、お松大権現(猫神さま)

 























 大塚国際美術館の翌日は阿南市(阿波の南、徳島県の南部)にあるお松大権現へ。ネコ好きの聖地。

九州とはなんの関係もないようだが、おおあり。日本三大怪猫伝をご存じだろうか。知らない?・・そうか。では説明しよう。

われわれの身近なところでいえば、鍋島(佐賀藩)、有馬(久留米藩)の猫騒動が有名だ。少なくともどちらかは聞いたことぐらいあるだろう。知らない?・・・そうか。スルーしよう。

ここは鍋島、有馬とならぶ怪猫伝の聖地だ。お主も悪よの~のお代官さまからいじめられたお松さんの仇を愛猫が討ったという(下から3枚目の写真)。

その由来のゆえか、勝負事の神様だ。受験、スポーツに先駆け、「訴訟必勝」が「御霊験」の筆頭に書かれている。当職くらいになると神頼みは必要ないのであるが・・・念のため。

境内は門をくぐるまえの敷石からネコの足跡が掘られている。入るまえからワクワクする仕掛けだ。

社内に入るともうネコづくし。ご本尊をはじめとして、狛犬ならぬ狛猫各種、瓦各種、欄間飾り各種、・・・。ネコ大仏やネコ七福神もある。

もちろんリアル猫も複数お住まいだったが、「ネコ捨てないで」の看板も各所に。捨てる人もよほど多いのだろう。

九州から遠い徳島、そこからさらに遠い阿南、そこからさらに遠いのだが、ネコ好きなかたは一度どうぞ。にゃ。