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2024年5月8日水曜日

怪鳥会の春遠征(4)光る君誕生の地・石山寺へ

 


 怪鳥会春遠征の中日は雨予報だった。われわれは山行を観光にきりかえた。近江舞子から琵琶湖を時計まわりに一周して観音めぐりをするプラン(『星と祭』井上靖著)を推した。しかしこの日の夕方、岸和田でさる用事があったので時間が足りない。

 やむなくいま話題の「光る君へ」にちなんで石山寺詣をすることにした。番組ではちょうど吉高由里子が寺を訪れたばかりだった。

 近江舞子からJRで大津まで戻り、京阪に乗り換えた。ラッピングはもちろん「光る君へ」仕様だ。このアングルだと吉高は藤原紀香に似ている。


 京阪石山寺から雨のなか、瀬田川ぞいに南へあるいた。10分ほどで東大門。東大門でありながら、どこぞのように狭き門ではない。懐をひろげるようなデザインが石山寺の偉容と寛容を表現している。左右で仁王さんがにらみをきかせているが。


 境内に入ると、光る新緑が美しい。まさに浄土への道である。


 燈籠には、兼家・道兼の策謀で退位させられ、西国三十三所めぐりを創始された花山法王の名前が。「光る君へ」気分をいやがおうにも盛り上げる。


 石山寺は、文字どおり石山のうえに築かれた寺。石山は硅灰石の岩塊。国の天然記念物である。石さえも白く光る。


 本堂(国宝)。本尊は如意輪観世音菩薩。像は硅灰石の上に安置されている。

 石山寺は西国三十三所めぐりの観音霊場の第十三番札所である。平安時代の観音信仰の隆盛のとき、奈良の長谷、京都の清水とともに三観音として厚い崇敬を集めた。


 本堂・相の間には、紫式部が参籠したという「紫式部源氏の間」がある。いまも式部が筆をとっている。 


 月見亭。石山寺は平安時代から伝わる月見の名所。東側が瀬田川沿いに開けているためである。


 月見亭からは瀬田川・瀬田の唐橋だけでなく、琵琶湖ものぞめる。紫式部は琵琶湖に映る月影をみて、源氏物語の須磨・明石の段の着想を得たという。湖面に映る月影をみるにはやや距離がある。


 とまれ、「光る君へ」を離れても、新緑が美しく光る。


 藤も光る。普段見るものより、紫が濃い。


 ツツジはいまからだったが、その美しさを彷彿とさせた。センダンは若葉より・・もとい、ツツジは若葉より芳し。

2024年4月23日火曜日

怪鳥会の春遠征(1)

 

 怪鳥会の春遠征。まずは伊吹山に登ろうと金曜の夜に出発し、彦根に宿泊。ホテルの窓から国宝をのぞむことができた。ぜいたく。


 ところが、伊吹山は斜面崩壊のため登れないことが判明。

 https://www.city.maibara.lg.jp/mtibuki/index.html

 痛恨のリサーチ不足。やむなく行き先変更。選択肢は1 ドライブウェイで伊吹山、2 翌日予定していた武奈ヶ岳の前倒し、3 霊仙山、4 京都一周トレイル(稲荷山~蹴上)。翌日の天気予報が悪かったことから2とすることとした。

 写真は彦根駅前。徳川四天王のひとり、井伊直政像。昨年はNHK大河「どうする家康」で板垣李光人が演じたため、女性陣が騒がしい。


 武奈ヶ岳に登るには、琵琶湖を時計回りに半周廻って西岸へ行き、比良をめざさなければならない。まずは山科へ新快速で。途中、キティちゃんをラッピングした特急はるかが追い抜いていった。はるかは、関空のアクセス列車。野洲、草津と関空を結んでいる。明後日は岸和田に行く予定だったので、旅心は嫌が応にもたかまる。


 山科から湖西線で比良へ。比良で降りた。タクシーは待機していない。タクシー会社に電話。しかし、来られないという。この時間帯、高齢者の施設・病院への送迎で忙しいのだろう。
 やむなく堅田に引き返す。待機していたタクシーで坊村・明王院へ。標高が高くなるため途中、川沿いに遅咲きのサクラが満開であった。明王院にはシャクナゲが咲いていた。いよいよだ。

2024年4月18日木曜日

ちくし法律事務所の春研修@嬉野温泉

 

 本年度も、ちくし法律事務所の春研修をおこなった。もう38年やっている。前年度の業績や課題を確認し、次年度の課題や担当を確認する。

法律事務所をめぐる環境は年々変化している。38年前と比べると激変している。

そうしたなか、弁護士の使命としての人権擁護・社会正義の実現をはかり、地域に根ざしつつ、持続的な発展をとげなければならない。言うは易く行うは難し。そのため、年に一度は2日間をかけて議論を尽くす。

ことしも耳の痛い議論が多かった。しかし、耳の痛い議論ができることはよいことだ。耳の痛い課題は解決できていないが、少なくとも耳の痛い意見をいえる環境は整っているということだ(そうかな?)。

耳の痛い議論ばかりやっていると疲れるので、合宿はリラックスできる場所でおこなう。ことしは嬉野温泉だ。12年ぶり。美味しい食事をして、美人の湯にも入る。つるつるする。癒やされた。

翌朝、温泉街を散歩した。写真は豊玉姫(トヨタマヒメ)神社。姫は神武天皇の祖母。日本百名山である祖母山は、豊玉姫が降臨したとして、そう呼ばれる。

宝満山に降臨した玉依姫(タマヨリヒメ)とは姉妹の関係である。いつも妹さんの山にはお世話になっています・・・。礼拝。

豊玉姫は、海神わたつみの娘。竜宮に住む。浦島太郎を接待したのは彼女だろうか。

豊玉姫はじつは「八尋の大ワニ」である。一尋(ヒロ)は1.8メートルだから八尋は14.4メートル。ワニというよりクジラのサイズ感である。因幡の白兎にでてくるワニはサメだというから、サメかもしれない。

合宿のあとは、西九州新幹線に乗り、長崎へ向かった。薬害肝炎九州原告団総会に出席するためである。総会では八尋の大アニ※が待ち構えていた・・・。

※八尋光秀弁護士、大兄貴分

2024年4月17日水曜日

南東北の雪山(4)会津若松



 南東北雪山の旅4日目も、山の天気予報は悪かった。やむなく磐梯山・猪苗代湖の西に位置する会津若松を訪ねることにした。
 駅から市内循環バスで東へ向かい、飯盛山を登る。言わずと知れた白虎隊士の墓がある。


 墓からすこし南に自刃の地がある。この坂をくだった左側である。美談として語られがちであるが、装備も貧弱なまま年少者たちを戦わせ、自刃にまで追いやったのは、情勢のなせるところも大きかったとはいえ、リーダーたちの失策であろう。 


 自刃の地から南西に、鶴ヶ城が望める。中央やや下の緑の帯あたり。よくみると天守閣がみえている。隊士たちは城に向かって自刃したという。


 会津さざえ堂。仏堂である。らせん構造や外観がサザエに似ている。墓の北側階段を下る途中にある。


 飯盛山から歩いて城に向かう。途中、御薬園がある。池泉回遊式庭園。


 まもなく鶴ヶ城。「八重の桜」で新島八重が籠城・奮戦したところ。松平容保が京都守護職にならなかったら・・・たら・れば日本史である。


 城のまえでは、赤べこが歓迎してくれている。会津若松地方の郷土玩具である。ゆらりゆらりと頭を揺らして笑っている。このような柔軟さがあれば・・・。

2024年4月15日月曜日

南東北の雪山(2)鶴岡

 







 南東北の雪山、2日目は月山に登る予定だった。山形から高速バスに乗り、月山湖を目指した。日本海側に近づくにつれ雪が降りしきり、きょうは無理かなと思った。

しかもリサーチ不足で、道路が冬期閉鎖中だったため断念。月山スキー場のオープンが4月12日だったので、それ以降でないと入山できなかった。

しかたがないので、鶴岡観光に切り替えた。鶴岡は芭蕉が出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)を縦走したのち、下山した場所である。

出羽三山だけでなく、朝日連峰を東から西へ以東岳・大鳥池まで縦走すると、やはり下山するのはここである。

高速バスの到着は鶴岡駅横。市内は歩いて回れる距離感である。駅前の道を南下すると、山王日枝神社に着く。

芭蕉の句碑がある。

 珍らしや山をいで羽の初茄子び

おくのほそ道の旅で、出羽三山をおりた芭蕉は鶴岡藩士長山重行の世話になった。そして珍しいかたちの茄子をご馳走になった。そのお礼の句である。山をいで羽は、出羽山を出た(下りた)ということ。

鶴岡は米どころ・庄内平野の南の拠点。北の拠点は酒田である。芭蕉は鶴岡から酒田へは舟で向かった。大泉橋のたもとに、乗船した場所が名所として残されている(長山重行宅跡も近く)。

スズメたちが1本の木に集まって、かしましくしていた。寒い冬にたえ、庄内米のおこぼれにあずかれる秋をまっているのだろう。

大泉橋からは西に向かう。まもなく鶴ヶ岡城跡だ。城跡といっても城壁がすこしで、建物は残っていない。庄内神社があるのみ。

鶴岡といえば、藤沢周平の出身地。小説中にでてくる海坂藩は、鶴岡がモデルである。記念館がある。藤沢の小説家人生と信念がよく分かった。

あとはお堀を一周してバスセンターへ戻った。ときおり雪が舞う不安定な天気だった。冬の季節風の影響だ。これが山々に雪を降らせ、おいしい水となり、おいしい米、ひいてはおいしい酒となるのだ。

2024年2月15日木曜日

『使える禅』

 

 『使える禅』(曹洞宗住職桝野俊明監修・朝日新聞社刊)。京都国立博物館「東福寺展」のグッズコーナーで購入した。

「東福寺展」を鑑賞することにより、禅・禅宗に関するバラバラな知識が集約され体系的な理解がうながされたことは先述のとおり。さらに、この本を購読することで、その理解が深まった。

栄西は喫茶の習慣を日本にもたらし、喫茶の週間はわれわれの朝食から夕食まで日常一日の生活の隅々までインプットされている。

おなじく禅の考え方も、われわれの生活のあちこちに染みこんでいると感じた。まず「主人公」にはじまり「日々是好日」まで、われわれが普段禅とは無関係と思って使っている言葉が禅語であることに驚く。

禅の最大の特徴は「禅即行動」。「身体での実践」を重視している。まずは「調身、調息、調心」。身(姿勢)を調えれば息が調う。息が調えば心も調う。

過去や未来でなく「いまここ」「自分がやるべきこと」だけに集中する。過去は変えられない。失敗や恥ずかしいことは何度考えてもモヤモヤする。未来は考えれば考えるほど不安になる。一番よいのは「いまここ」に集中して「自分がやるべきこと」をひとつずつ実践していくことだ。

高校時代の校長先生が朝礼で「稲刈りで重要なことは目の前の稲束に集中することだ、田全体をみわたすと気が遠くなりやる気が失せる」とおっしゃっていた。

弁護士の顧客に多いのは「いまここ」に集中できず、過去や未来について堂々巡りをして悩んでいる人たちだ。

そのような人たちの注意を「いまここ」に引きつけ、いまやるべきことを一つずつ実践していただく。われわれの仕事をいいかえれば、そういうことだ。校長先生のお言葉をお借りすることも多い。

一度しかない人生、心を強く持ち、「今」なすべきことだけに全力を傾けられる自分を身体の実践「行」を通して作る。このような考え方は、禅を学んだわけではないが、自分も日々実践しているところだ。

修行を通じて悟りに至る。修行で重視されているのは坐禅と禅問答。前者を重視するか、後者を重視するかで、臨済宗や曹洞宗といった流派の違いとなる。

しかし日常生活の行いすべてが修行となる。自分は山歩きは歩く禅だと考えてきた(禅のことは知らないままに)。

禅のもとの意味は「静慮」。心を集中して正しく思惟するため坐禅を組むこと。坐る禅だけでなく、歩く禅でも、心を集中して正しく思惟することができるのではないだろうか。

2024年2月14日水曜日

~からの、萬福寺

 



 三室戸寺の門前まで戻る。さてつぎはどこへ行こうか。宇治というからにはやはり平等院鳳凰堂かと思いつつ坂をくだっていると、「右手2km萬福寺」という看板がでていた。

そうかよし、萬福寺へ行こう。きょうだったら源氏物語ミュージアムに確定だっただろう。しかし、そもそもこの旅のはじめを思い出してほしい。といっても覚えていないと思うのでURLを貼り付ける。

 http://blog.chikushi-lo.jp/2023/12/blog-post_15.html 

そう、旅のはじまりは京都国立博物館「東福寺展」なのである。そこではじめて禅宗とは何かについて体系的に学んだ気がした。

教科書で学んだ知識や美術書で書かれていたことなど、いままでバラバラだった知識が一定のまとまりをみせた。

禅宗は釈迦から28代目の弟子である達磨(ダルマ)がこれを開いた。そこからさらに脈々と高弟がつづき、臨済義玄が臨済宗を、曹山本寂と洞山良价が曹洞宗を開いた。それぞれ悟りに至る途、修行の仕方が異なる。

これは教科書に書かれていたと思うが、日本の禅宗は臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の3宗である。といっても、黄檗宗は臨済宗の一派である。

前2者は鎌倉時代に栄西、道元により伝えられ、後者は江戸時代、隠元により伝えられた。隠元は中国・明時代の人である。

などということが頭のなかをめぐり、萬福寺に向かうことにした。歩きである。途中、茶畑が広がっていた。もちろん宇治茶である。インゲンマメ畑は見受けられなかった。

萬福寺は、江戸時代、中国人(福建省)の隠元により伝えられたせいか、長崎にある崇福寺や興福寺などに似ている。極彩色で、いささか派手な印象。

そう思ったのはランタンフェスティバルの最中だったことも影響している(二枚目の写真の右手にランタンの一部が見えている。)。自転車に乗ったおばあちゃんが「夜来たほうがいいのに。」と言ってすぎさっていった。そうか、悟りへの途は遠い。

2024年2月13日火曜日

~からの、西国三十三所巡礼

 
(西国第一番札所・那智山青岸渡寺)
(西国第三十三番札所・谷汲山華厳寺)
(四王寺山三十三石仏第一番札所如意輪観音)
(四王寺山三十三石仏第三十三番札所十一面観音)
(四王寺山三十三石仏第十二番札所千手観音)
 宇治の三室戸寺に参拝したので、西国三十三所巡礼の旅は29/33となった。残り4霊場である。

日本百名山の旅もそうだったのだけれども、やはり手近なところから手をつけていくことになるので、どうしても遠方のところが残ってしまう。

残るは第26番一乗寺@兵庫県加西市、第27番圓教寺@姫路市、第28番成相寺@京都府宮津市、第29番松尾寺@舞鶴市の4寺。いずれも奈良・京都からちょっと足をのばすというわけにはいかず、一日仕事になりそう。

29/33まできたことには感慨がある。なぜ西国三十三所巡礼をしているかというと、いつも登っている四王寺山三十三石仏巡拝の影響だ。

太宰府市、大野城市、宇美町の2市1町にまたがる四王寺山は山頂部がお鉢状になっている。それが古代山城が築かれたゆえんであり、周回することができる。三十三石仏はだいたいそのお鉢を取り囲むように設置されている。

第十二番札所の左側の岩の壁面にきざまれているところによると、寛政12年(1800年)に四王寺の僧とと博多の人々が発起人となり、西国三十三所の霊場の土を集めて建立したらしい。

江戸時代、庶民にとって関西をめぐる旅は簡単なものではなかったろう。四王寺山の僧と博多の有志が庶民にも西国三十三所のご利益をもたらそうとしてくれたことはありがたい。霊土をもちかえったところなど甲子園球児を思わせる。

四王寺山三十三石仏の第一番札所は滝の横にあり如意輪観音であるから、西国三十三所第一番札所の那智山青岸渡寺になぞらえたことは明らかである。

四王寺山三十三石仏第一番札所は花崗岩の岩間にあり千手観音であるから、西国三十三所第十二番札所の岩間山正法寺になぞらえたのであろう。

四王寺山三十三石仏第三十三番札所は十一面観音であるから、西国三十三所第三十三番札所の華厳寺になぞらえたのであろう。

ただし、対応関係が疑問な札所もある。これらは明治初年に行われた神仏分離令・廃仏毀釈の影響によるものだろうか。

花山天皇(院)が妻を亡くし、兼家・道兼親子の策謀に乗せられて出家させられ、西国三十三所を巡礼なさった。それが近世になって四王寺山まで伝来した。現代、そこをわれわれが巡拝しているわけである。「光る君へ」から目が離せない所以なり。

2024年2月8日木曜日

~からの、二条城


(正門・東大手門)
(唐門)
(二の丸御殿)
(二の丸庭園)
(清流園・和楽庵から香雲亭方面)

(本丸天守閣跡から比叡山方面)
 六角堂からどこへ向かうか。考えたが、二条城にすることにした。この日の午前、市内をぐるぐるしたのは昼に人と会う約束があったから。

烏丸御池から地下鉄東西線で二条城前へ。押小路通を渡り、すこし上ると東大手門。

現存する二条城は徳川家康がつくったもの(もちろん、その後いろいろと手がはいっている。)。京都御所・洛中の守護等の目的(名目?)で。そのため、京都御所の裏鬼門に立地し、本門も京都御所側に向いている。

二条城を空から俯瞰すると、回の字になっている。中側の口のなかが本丸、本丸と外側の口との間が二の丸である。東大手門を入城すると、二の丸の東側。

二の丸の東側を南→東へ歩くと、北に唐門。門をくぐると、二の丸御殿(国宝)。二の丸御殿はとくに、徳川将軍が偉大に・訪問者が卑小に感じられるように、様々な工夫がなされている。狩野派の障壁画が龍虎や牡丹等の図柄でそれをこれでもかと表現している。

しかし、・・・家康からずっとくだって慶応3年(1867年)、徳川慶喜は、二条城二の丸御殿にて大政奉還。日本史の教科書に図入りで出てきた場面だ。こうして明治になって、皇室の離宮となったので、正式名称は元離宮二条城。

内部は残念ながら撮影禁止なので、お庭からの写真。手前の大きな建物が大広間、左手奥が黒書院。大政奉還が行われた歴史的舞台だ。

二の丸庭園(特別名勝)は別名「八陣の庭」。重森三玲作の岸和田城の庭と同じ名前だが、はるかにスケールが大きいし、趣向もちがう。小堀遠州の代表作といわれ、桃山様式の池泉回遊式庭園。

池に島が浮かび、蓬莱島や鶴亀の意匠がデザインされていて、徳川家の健勝と永遠の繁栄が祈念されている。これほどの願いもむなしく(相当の長期政権ではあったが)、徳川家は先の大政奉還を余儀なくされた。

今年の元旦は、元旦であるだけでなく、一粒万倍日でもあり大赦日でもあった。今年はよい一年になりますようにと皆願ったが、正月早々、大地震や大事故に見舞われた。自然や災害のまえで無力であることをあらためて意識させられた。平穏と健勝を願いつつも、日々あることに感謝しつつ謙虚に生きるほかあるまい。

本丸に入り、天守閣跡に登る。高いところとあれば、登らざるをえない。天気は快晴。京都の街が一望できた。東北=牛寅=鬼門の方角を望むと、東山三十六峰の北鎮に比叡山を遠望することができた。きょうも延暦寺が仏法の力(鬼滅の刃)で、鬼からわれわれの生活を守ってくれていることだろう。

2024年2月7日水曜日

~からの、六角堂(頂法寺)


(右は縁結びの六角柳)
(右手の柱に華道発祥の地とある)
(池坊会館) 
 革堂をあとにし、歩いて六角堂(頂法寺)をめざす。まずは寺町通を(南へ)下る。両側に古美術店が軒を連ねている。どこも開店前だ。

夷川通をすぎると、右手(西側)に藤原定家・京極邸跡碑がひっそりとある。嵯峨野で小倉山山荘跡を訪ねる機会はすくなくないが、京極邸を訪ねることはまれ(ところが調べてみると一条京極第跡がほんとうらしい。)。

二条通で右折、西入る。東洞院通で左折して下る。御池通を渡り、中京郵便局をすぎると六角通に到達する。右折、西入ればまもなく六角堂だ。京都の路は分かりやすい。思いがけぬところにでてしまって道に迷うことはない。

本尊は如意輪観音(秘仏)。縁起によれば、聖徳太子ゆらいの如意輪観音で、境内には太子沐浴の古跡や太子堂などゆかりの史跡がある。その真偽はともかく、「光る君へ」の時代までさがれば『御堂関白記』や『小右記』に関係する記述がでてくる。

そして花山院も巡拝した観音霊場。西国三十三所第18番札所。『小右記』の著者・ロバート秋山こと藤原実資も、熱心に参詣したようだ。

華道、池坊の発祥の地としても知られている。太子の命により小野妹子が入道し仏前に花を供えたことが由来、その寺坊が池のほとりにあったことから池坊なのだとか(近世以降)。境内(裏)に池坊の本部ビルがある。

本堂まえの「へそ石」は京都の臍だそう。革堂とおなじく、街中にあるお寺として独特の雰囲気をかもしている。宗教としての超越性はとぼしいが、衆生のなかにあって慣れ親しまれてきた感がつよい。