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2024年6月11日火曜日

光源氏って誰?

 

  みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに
         乱れそめにしわれならなくに  河原左大臣

 陸奥産のしのぶ摺りの乱れ模様のように、私の心はひどく乱れている。いったい誰のせいで乱れはじめたというのでしょう、私のせいではないのに。すべてあなたのせいなのに。

 百人一首14番の歌。河原左大臣は、源融(みなもとのとおる)。『源氏物語』主人公である光源氏のモデル候補一番である。嵯峨天皇の皇子でありながら臣籍に降下、源姓を名乗る。藤原基経が天皇の外戚として摂政に任じられると自宅にひきこもるなど、光源氏の境遇と似ている。

その他、先に紹介した実方や伊周(これちか)もモデルとして考えられている。実方は一条天皇により奥州に左遷され、伊周も大宰府に流されている。須磨・明石の段のストーリーに影響を与えているのだろうか。


 融は陸奥出羽按察使を任官したため、陸奥にまつわるエピソードが多い。この歌もそのひとつである。

 福島市の東には信夫(しのぶ)の里がいまもある。そこには文字摺石もある。「おくのほそ道」で芭蕉も訪れた。

 明くれば、しのぶもぢ摺りの石を尋ねて、信夫の里に行く。遙か山陰の小里に、石半ば土に埋もれてあり。里のわらべの来たりて教へける、「昔はこの山の上にはべりしを、往来の人の麦草を荒らしてこの石を試みはべるを憎みて、この谷に突き落とせば、石の面、下ざまに伏したり」といふ。さもあるべきことにや。
 早苗とる手もとや昔しのぶ摺り

 なぜ、往来の人の麦草を荒らしてこの石を試みはべってのか?それは虎女伝説のため。

 昔々、都から河原左大臣源融という貴人がこの地にやってきて、虎女という美少女と愛し合うようになった。やがて、都に帰った融を忘れかねて、虎女がもじ摺り石の面に麦をすりつけると、融の面影が浮かび出たという。 


 (渉成園) 

 融は六条河原院(現在の渉成園)に塩竈の風景を模した庭園を造らせた。そして藻塩を焼く煙を立ち上らせ、池にはわざわざ難波・尼崎から海水を運び込ませていたという。当代きっての風流人で、在原業平とも深い親交があった。


(陸奥塩竈神社)


(塩竈)

 『伊勢物語』塩竈(81段)

 むかし、左のおほいまうちぎみいまそがりけり。
 加茂川のほとりに、六条わたりに、家をいとおもしろく造りて、すみたまひけり。
 十月のつもごりがた、菊の花うつろひあかりなるに、もみぢのちぐさに見ゆるをり、親王たちにおはしまさせて、夜ひと夜、酒飲みし遊びて、夜明けもてゆくほどに、この殿のおもしろきをほむる歌よむ。
 そこにありけるかたゐおきな、板敷のしたにはひ歩きて、人にみなよませはててよめる。
 塩竈にいつか来にけむ朝なぎ釣する船はここによらなむ
となむよみけるは。陸奥の国にいきたりけるとに、あやしくおもしろき所々大かりけり。・・・。

これを元に、世阿弥は謡曲『融』を書いた。

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年4月15日月曜日

南東北の雪山(2)鶴岡

 







 南東北の雪山、2日目は月山に登る予定だった。山形から高速バスに乗り、月山湖を目指した。日本海側に近づくにつれ雪が降りしきり、きょうは無理かなと思った。

しかもリサーチ不足で、道路が冬期閉鎖中だったため断念。月山スキー場のオープンが4月12日だったので、それ以降でないと入山できなかった。

しかたがないので、鶴岡観光に切り替えた。鶴岡は芭蕉が出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)を縦走したのち、下山した場所である。

出羽三山だけでなく、朝日連峰を東から西へ以東岳・大鳥池まで縦走すると、やはり下山するのはここである。

高速バスの到着は鶴岡駅横。市内は歩いて回れる距離感である。駅前の道を南下すると、山王日枝神社に着く。

芭蕉の句碑がある。

 珍らしや山をいで羽の初茄子び

おくのほそ道の旅で、出羽三山をおりた芭蕉は鶴岡藩士長山重行の世話になった。そして珍しいかたちの茄子をご馳走になった。そのお礼の句である。山をいで羽は、出羽山を出た(下りた)ということ。

鶴岡は米どころ・庄内平野の南の拠点。北の拠点は酒田である。芭蕉は鶴岡から酒田へは舟で向かった。大泉橋のたもとに、乗船した場所が名所として残されている(長山重行宅跡も近く)。

スズメたちが1本の木に集まって、かしましくしていた。寒い冬にたえ、庄内米のおこぼれにあずかれる秋をまっているのだろう。

大泉橋からは西に向かう。まもなく鶴ヶ岡城跡だ。城跡といっても城壁がすこしで、建物は残っていない。庄内神社があるのみ。

鶴岡といえば、藤沢周平の出身地。小説中にでてくる海坂藩は、鶴岡がモデルである。記念館がある。藤沢の小説家人生と信念がよく分かった。

あとはお堀を一周してバスセンターへ戻った。ときおり雪が舞う不安定な天気だった。冬の季節風の影響だ。これが山々に雪を降らせ、おいしい水となり、おいしい米、ひいてはおいしい酒となるのだ。

2024年2月2日金曜日

~からの、近江神宮

 


 ここで時間を巻き戻して京都・滋賀旅行に戻ろう。昨年末、幻住庵まで報告していた。

 http://blog.chikushi-lo.jp/2023/

 幻住庵から京阪石山駅に戻った。さてその後はどうしよう?2つの選択肢の間で悩んだ。一つは石山寺、ふたつは近江神宮である。京阪石山坂本線を北へ向かえば近江神宮であるし、南へ向かえば石山寺である。

駅のポスターは石山寺へ誘っていた。来年(もう今年だが)のNHK大河が「光る君へ」なので、地元は観光客誘致に熱心である。むろん、石山寺は紫式部が『源氏物語』を執筆したところとして名高い。

かなり悩んだが、北へ向かうことにした。芭蕉ゆかりの膳所があることや、さいきん光秀ゆかりの坂本城の「幻の石垣」が琵琶湖の水位低下によって現れたなどのニュースに接していたことから、なんとなく北恋しかったから。

石山から粟津、瓦ケ浜、中ノ庄、膳所本町、錦、膳所、石場、島ノ関、三井寺を経て近江神宮前である。右手に琵琶湖が見え隠れする。

駅から西北へ10分ほど歩く。途中右手に、近江大津宮跡遺跡(史跡)がある。

 近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ 柿本人麻呂

 楽浪の志賀の唐崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ 同

まもなく近江神宮の広大な敷地に到着する。そこからさらに参道をしばらく歩くと、美しい紅葉と響き合う紅い楼門がでむかえてくれた。

天智天皇が祭神。天皇が近江に都を移したことにちなみ、昭和になって創建されている。

天智天皇といえば、なにを思い浮かべるか。われわれ筑紫人としては、百済救援のため斉明天皇とともに九州にやってこられたこと、白村江の戦いで唐・新羅に敗れたこと、その後の防衛のため水城・大野城・基肄城等を築いたこと、斉明天皇の追善のため大宰府観世音寺を創建したこと等が思い浮かぶ。

歴史的・教科書的には、中大兄皇子として中臣鎌足とともに蘇我氏を倒したこと(大化の改新)が有名で、国語教科書・文学的には、大海人皇子とともに額田王に恋したことが有名だろうか。この件は額田王の次の歌で知られている。

 あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る 

しかし、一般人にはやはりこの和歌の作者として有名でしょう。

 秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ

百人一首の巻頭歌。為政者として農民たちの辛苦を思いやる主題であるとして、藤原定家が巻頭に置いたとされる。

こうして近江神宮は、百人一首かるたの聖地となっている。毎年1月、競技かるたの「名人位・クイーン位決定戦」がおこなわれている。

ここから漫画『ちはやふる』(末次由紀著)の舞台にもなっている。競技かるたに青春を燃焼させる綾瀬千早たち・・・。

テレビアニメにもなり、広瀬すず主演の映画にもなった。かくて漫画も読み、映画のDVDも見た、そして来た(2回目)。というわけです。

2024年1月18日木曜日

川中島古戦場

 



 『更科紀行』関連の旅はきのうまでに書いたとおり。途中、川中島古戦場、上田城、四阿山(撤退)も訪れたので、それらについても報告しておこう。

 まず、川中島。姥捨駅から見えていた。千曲川と犀川とに挟まれた三角地帯。島ではないのであるが、両側を大河に挟まれているので島とみたてられているのだろう。

一枚目の写真は、千曲川(松代大橋から)。五木ひろしの歌がある。

 ♪一人たどれば草笛の
 音色哀しき千曲川・・

向こうが北側・日本海で、北にむかって流れている。左岸が川中島。古戦場は左端に木立がみえているあたり。

川中島の中央やや南部に川中島古戦場がある。長野駅からバスで20分。

二枚目の写真は、川中島古戦場内・八幡社にある一騎打ちの銅像。右手・馬上で太刀をふるっているのが上杉謙信、左手・床几に座ったまま軍配で応戦しているのが武田信玄。両雄が直接対峙し、一騎打ちした有名な場面である。

海音寺潮五郎の歴史小説『天と地と』で有名。NHK大河ドラマにもなった(1969年)。上杉謙信役は石坂浩二だった。当時小学生だったが、石坂の謙信には血湧き肉踊った。

上杉側の旗には「毘」と書いてある。毘沙門天の毘である。毘沙門天は戦の神様。四天王のうち多聞天とおなじ、北方を守っている。敵方はこの旗を見るだけで震え上がったという。銅像のある八幡社も武運の神である。

対する武田側の旗はいわゆる「風林火山」。孫子から。

 其疾如風 其の疾きこと風の如く
 其徐如林 其の徐(しず)かなること林の如く
 侵掠如火 侵掠すること火の如く
 不動如山 動かざること山の如し

上杉謙信は越州(新潟県)、武田信玄は甲斐(山梨県)の大名である。信州(長野県)はその中間地帯にあり有力大名がいなかったことから、両雄の草刈場となっていたのだろう。

川中島は三角地帯の2辺を大河で1辺を山で囲まれていたので、雌雄を決する決戦場として最適だったのだろう。川中島の戦いは主なものだけで5回、12年におよんだという。地元民としては大迷惑だったにちがいない。

両雄がこのような地域戦を繰り返している間に、信長が上京して天下に覇をとなえることになった。両雄とも武としてはすぐれていたかもしれないが、信長の政治感覚に敗れたのである。

意外なことに、境内には芭蕉の句碑もあった。

 十六夜もまだ更科の郡かな

令和の世になってもまだ、人は争いを繰り返し、醜態をさらしている。真如の月があまねく照らす日はいつなのか。

2024年1月17日水曜日

善光寺、浅間山

 




 芭蕉の『更科紀行』の旅はさらに続く。

『更科紀行』は紀行文といっても、『おくのほそ道』のように地の文が十分でない。どちらかというと句集の前書、詞書といったふうである。更科あたりから地の文はない。句の内容から、その後の旅をおしはかるしかない。

 十五夜の翌晩、すなわち十六夜も、ひきつづき更級にいた。

 いざよひもまださらしなの郡哉

謡曲『姨捨』のイメージを踏まえた「俤や姨ひとりなく月の友」の気分をなお引きずっている。

 その後、善光寺。

 月影や四門四宗も只一ッ

一生に一度は参れ善光寺。三度目だろうか。牛にひかれて善光寺参り。JR篠ノ井線に乗って姥捨駅からやってきた。姥捨駅は無人であるから、長野駅で精算。

善光寺は日本において仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺であることから、宗派の別なく宿願が可能である。つまり、四門四宗も只一つ。ただ一つの月が闇を晴らし、真如の月が煩悩を晴らす。

善光寺の東に長野県立美術館・東山魁夷館がある。「風景は心の鏡である」。スマホ上は営業中とあったのだが、残念ながら年末年始で休業中だった。「庵野秀明展」もおなじ。東山の白馬とも庵野のエヴァとも会えず。

 さらに、浅間山。

 吹とばす石はあさまの野分哉

浅間山も歌枕。『伊勢物語』第八段。

むかし、をとこありけり。京や住みうかりけむ。あづまのかたにゆきて、住み所もとむとて、友とする人ひとりふたりして行きけり。信濃の国浅間の嶽にけぶりの立つを見て、

 信濃なる浅間の嶽にたつ煙をちこち人の見やはとがめぬ

むかしもいまも、街に住みづらさを感じたをとこたちは信濃の国や浅間の嶽をめざしたようで。

2024年1月16日火曜日

姨捨山(2)棚田・田ごとの月

(棚田越に善光寺平)


(棚田越に冠着山=姨捨山)
 

 姨捨が月の名所であるのには、千曲川と善光寺平を見わたす絶景を背景にすることのほか、もう一つわけがある。あたり一帯に棚田が広がっているのだ。

そのうち長楽寺の持田四十八枚田を「田ごとの月」と呼ぶ。十五夜の夜、棚田を歩きながら、満月が田ごとに映り込むさまを愛でるのである。全国で初めて棚田として国の名勝に指定された。

この地が月見の名所とされた歴史は古い。平安時代の初めにはそうだった。なぜなら、つぎの歌が『古今集』に掲載されているから。

 わが心慰めかねつさらしなや姨捨山に照る月を見て よみ人しらず

この歌は当時の人々のイメージを強く喚起したようで、大和物語や今昔物語集に、妻の悪口に乗せられ、老いた姨を山に捨てた夫の話が掲載されている。

菅原孝標女(源氏物語ラブ少女)が記した『更級日記』には、更級という言葉は出てこない。けれども、つぎのような晩年の叙述からそう呼ばれている。当時の人々にとって、姨捨=更級というのはいうまでもないことだったのである。

 甥どもなど、一ところにて朝夕見るに、かうあはれに悲しきことの後は、ところどころになりなどして、誰も見ゆることかたうあるに、いと暗い夜、六郎にあたる甥の来たるに、めずらしうおぼえて、
 月も出て闇にくれたる姨捨になにとて今宵たづね来つらむ
とぞ言はれける。

『姥捨』は室町時代、謡曲にもなっている。芭蕉がさらしなの月を尋ねた直接の動機はこれである。同曲では、老女(後シテ)が月光のもと都人のまえで舞うのであるが、夜が明けると一人とり残されてしまう。芭蕉の句はこの情景を踏まえているのである。

 俤や姨ひとりなく月の友(ひとりなく=一人泣く)

口減らしのため老女を山に捨てたという捨老伝説は、現代の『楢山節考』(深沢七郎著・新潮文庫)まで脈々と受け継がれている。

そして映画化された。老女が健康な歯を恥じ、みずから石で歯をうちくだいた場面の衝撃はいまも鮮明に覚えている。

2024年1月15日月曜日

姨捨山(1)姥捨駅、長楽寺

 

(日本三大車窓の一)

(スイッチバック、奥に姥捨駅)

(長楽寺とおもかげ塚)

(姨石と桂の木)

 天気が荒れる予報で下山し、信州上田に宿泊した。翌31日は姥捨山を訪問することにした。

そのわけはやはり芭蕉ゆかりだから。芭蕉の紀行文に『更科紀行』がある。『笈の小文』の旅の帰り、まっすぐに江戸に向かわないで、信州更科を訪ねた際のものである。更科といえば、ソバぐらいしか思い浮かべられないが、実は月見の名所である。

 さらしなの里、おばすて山の月見ん事、しきりにすゝむる秋風の心に吹きさはぎて、・・・。
   姨捨山
 俤や姨ひとりなく月の友
            (『芭蕉紀行文集』中村俊定校注・岩波文庫)

上田から、しなの鉄道線で篠ノ井駅まで、そこから篠ノ井線で姨捨駅まで。姨捨駅は標高551m。南に冠着山(かむりきやま、駅からは見えない)があり、山の中腹にある。かつてSLではこの勾配を一気に上ることができず、スイッチバックになっている(にわか鉄ちゃん)。

電車を降りると、目前に長野盆地・善光寺平の絶景がひろがある。日経の2007年アンケート「足を延ばして訪れて見たい駅」第2位。日本三大車窓の一つ。ちなみに残りの2つは、根室本線・狩勝峠越え(廃線)と肥薩線・矢岳越え。

善光寺平の右手の山塊奥に四阿山(日本百名山)、左手の山塊奥に飯綱山(日本二百名山)が見えている。盆地を横切って千曲川が流れている(右手前から左奥へ)。盆地の左奥で犀川と合流する。千曲川と犀川の間が、あの川中島である(武田信玄と上杉謙信の決戦場として有名)。犀川の向こうには善光寺が見えているはず。

駅から盆地のほうへ10分ほどくだると長楽寺(国の名勝)がある。門脇にあるおもかげ塚(芭蕉翁面影塚)が有名である。先に紹介した「俤や」の句が刻まれている。上方に月見堂があるが屋根を改修中(写真で青く覆われている部分)。

小林一茶が4度訪れ、伊能忠敬も訪ねたことがあるという。その他にも多くの文人墨客が訪れたのであろう、境内にはたくさんの歌碑や句碑が並んでいる。

寺の中央に姨石がある。高さ15m、幅・奥行き25m。石の左手前に、市指定の天然記念物・桂の木がある。樹齢は500~1000年と大きな幅がある。謡曲『姨捨』との関係だろうか。

姨石には登ることができる。頂上部からはやはり善光寺平の絶景を望むことができる。名古屋あたりにいた芭蕉がなぜわざわざ信州の山中にある更科の里へ行ったのか。長い間分からなかった。しかしここへ来て大いに納得。素晴らしい月見ができることであろう。

2024年1月10日水曜日

海保・日航機衝突事故との遭遇(1日目)

 





 室の八島参詣を終え、野州大塚駅から東武線の普通、急行電車を乗り継いで東京をめざした。浅草と日光の間を往復する特急は全席指定で完売されており、乗車することができなかったからである。

羽田の飛行機の予約は19時15分であり、急ぐ旅でもなかった。途中、春日部と草加にも立ち寄ることにした。いずれも『おくのほそ道』ゆかりの地だから。

『おくのほそ道』本文にはこうある。

 ことし、元禄二年にや、奥羽長途の行脚ただかりそめに思ひ立ちて、呉天に白髪の恨みを重ぬといへども、耳に触れていまだ目に見ぬ境、もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう草加といふ宿にたどり着きにけり。(角川ソフィア文庫)

しかし『曽良随行日記』にはこうある。

 廿七日夜 カスカベニ泊ル。江戸ヨリ九里余。

つまり、実際には春日部に泊まったにもかかわらず、芭蕉はそのまま書くことを嫌い、草加宿に泊まったと創作したのである。なぜかは分からない。読んだかぎりでは誰もうまい説明をしていない。

この謎に挑戦すべく春日部と草加の両街を訪ねてみることにした。しかし、・・・。この謎を解くヒントは、少なくとも現代の春日部にはない。と言ってよかろう。クレヨンしんちゃんがいるばかりである。気疲れしたので(登山ザックが重いこともある。)、草加で下車することはパスした。

かくて2時間ほど早く空港に着いた。福岡空港には21時ころの到着になりそうなので、少し早い夕食を食べることにした。

食堂街を歩いていて、窓からオレンジ色の光が漏れていることに気づいた。6階展望デッキに行くと、ちょうど日が没するところだった。美しい。夕陽の右手には富士山が浮かび上がっていた。(日没は16時40分)

夕食をして搭乗ゲートでくつろいでいた。18時ころ、後ろの男性が「滑走路で火事だそう、きょうは帰れんかも・・」と電話しているのが聞こえた(後で分かったとおり、この時・第4滑走路では日航機から奇跡の脱出劇が行われていた。)。

しばらくしてゲートの備え付けのテレビで、海保機と日航機との衝突事故のニュースが流れていた。この時点で空港・日航側からはなんのアナウンスも説明もない。

列車事故等では乗客を安心させるため、くどいほど状況について説明がなされるが、この事故については何の説明もなかった。このあともそうである。パニックを避けるためかもしれないが、いまの時代、テレビや携帯でアクセスできるので状況説明は必要であろう。

やがてニュース映像では、機体が火に包まれた。これから搭乗しようとしている人々にとっては、控えめにいっても気持ちの映像ではない。

事務所メンバーだけのライングループがある。そこへ状況を投稿した。すると、同じ事務所の井上弁護士もやはり、いまからANA便に乗る予定だと回答があった。こちらの投稿を見て、はじめて事故の発生を知ったようだ。説明がないのはANA側も同じらしい。C滑走路であるから、むこう(第2ターミナル)からは機体炎上の様子も直接見ることができたようだ。

ANA便は早々に欠航となった。日航のほうはそれより30分は決断が遅れ、結局は欠航になった。それはそうだろう。事故原因が判明しないかぎり、他の飛行機を飛ばすわけにはいかないのだから。

新幹線は名古屋まで行くにしても20時ころが最終である。もう間に合わない。①まずはきょうの宿を確保しなければならない。援助者の手を借りて、浅草寺にあるホテルを押さえることができた。泉岳寺(赤穂浪士の墓があることで有名)であれば京急で直通である。より近場のホテルはANA便の人たちが押さえてしまったあとである。

つぎに必要なのは、②預けた手荷物の回収と③航空券予約の振替である。まずは手荷物回収場所へ向かった。上からの指示が来ていないのでしばらく待つよう言われる。しばらく待たされて、手荷物は2階カウンターで返却することになったと連絡がある(こちら側の担当者の一部は「信じられない。」などとブツブツ言っている。手荷物を返す場所は預けたカウンターより、ここのほうが適切ではないかとの意見である。このことの真偽は、このあとの現実が語っている。たくさんの便、たくさんの重い荷物を返却するのであるから、預けたカウンターに作業を集中させるのは無理がある。上のほうがこの方法を選択する際に現場の意見を聴取しなかったことは明らか。)。

到着ロビーを出て、2階カウンターへ向かう。2階はすでに長蛇の列である。第1ターミナル内を2重に折れて1往復半の行列ができている。しかたなく、最後尾に並ぶ。前には岡山から来たという夫婦。どうやら息子さんが箱根駅伝を走り、その応援にきた帰りのようだ。しきりに駅伝のニュースをチェックしている。待ち時間を有効に使える人はいい。

しばらく並んでその列が手荷物回収の列ではなく、航空券予約の振替のために並んでいる列であるが判明した。長蛇の列であるので、先頭がどこにつながっているのか分からない。なんの説明もないし、個別の係員に訊いても分からない。一人旅であるので手分けして前方まで確認に行くこともできない。

手渡されたチラシで、列に並ばなくても、ネットで明日の便の予約をすることができることが分かった。あわてて画面を操作する。60過ぎの人間にはつらい作業だ。ため息がでそうになった。まわりを見回すと、より高齢のかたがた、子連れのご夫婦がみなぐったりした表情をしている。

何度かの試行錯誤のすえ、あすの9時10分発の便を予約することができた(それより早い便は、チケットの振替作業などをしていて間に合わないと思われた。)。チケットの振替は明日の作業だ(新たに航空券を買うとなると5万円以上要する。振替であれば、すでに支払済みの航空券を流用することができる。5万円はえらい違いなので、振替作業を行わざるを得ない。)。

明日の便が確保できただけでも奇跡と思えた。正月なので明日は満席で明後日以降しか帰れないかなと思っていたからだ。明日はまで正月3日なので、帰省帰りの人びとの事前予約が少なかったのだろう。

かくてチケット振替の列にムダに並んだすえ、脱出することができた。岡山から来ていた夫婦にチケットで明日の予約をしていた夫婦にネットでできますよと教えるが、疲れた顔で見返すばかりである。なにかできない理由があるのだろう。宿泊も浅草寺の某ホテルをおさえることができた旨教えるも、今夜は空港泊まりだなどとボヤいておられる。

ここに至ってようやくアナウンスが流れはじめる。手荷物回収のためカウンターは○番までなどと指示している。同カウンターへ向かう。

カウンター内は30歳前後の女性地上係員が数名で対応している。現在対応しているのは311便、○○便、○○便、○○便の4便のようだ。ぼくが乗る予定だったのは333便。いまのところ対応していない。

ふしぎと誰も声を荒げたりしていない。ときどき思うように行かなかった乗客が地上係員に食ってかかるカスタマーハラスメントの場面に出くわすことがある。きょうはそういうことがない。機体が炎上するという前代未聞の映像を見たせいだろうか。

きけば311便の人たちは機内で1時間ほども待たされ、欠航が決まったようだ。搭乗ゲートでくつろいでいたわれわれより優先されるのは当然であろう。

地上係員さんたちの奮闘には頭がさがった。たくさんの重いスーツケースをあっちへ運び、こっちへ運びしている。腰痛という労災が多発することが懸念された。普段は華やかな職場だが、きょうは地獄だ。

なかなか荷物ははけていかない。あたりまえだ。多くの人々はチケット振替の大行列に並んでいるのだから。前の便の荷物がはけていかないせいか、われわれの荷物もなかなか出てこない。

1時間ほど待って、ようやく荷物を回収することができた。京急電車の乗り口へ急いだ。途中、空港泊を決めたとおぼしき人々が列にも並ばず、階段に腰掛け、ただ時間が経過するのを待っていた。

かくて、もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう泉岳寺といふ宿にたどり着きにけり。

・・・ここでこの日はようやく終わったと言いたいが、もう一波乱。なんと、先に予約した9時10分の便の欠航となったのだ。ここでも援助者の手を借りてなんとか、10時10分の便を再予約することができた。これも奇跡と思えた。(帰福のための奮闘は翌日へつづく。)

2024年1月9日火曜日

初詣は室の八島(大神神社)


 


 みなさま明けましておめでとうございます。
 本年もよろしくお願い申し上げます。

 ことしの初詣は栃木県のパワースポット大神神社(おおみわじんじゃ)。なんで大神神社に初詣をすることになったのか?

例によって、年末年始は雪山登山を計画していた。元日は長野県北部にある佐久平に宿泊し、2日は浅間山(あさまやま)に登る計画だった。

浅間山は標高2568メートルの日本百名山。活火山である。火山情報で安全を確認して登らなければならない。明日はなんとか登れそうだ。

佐久平は東横インホテルに宿泊。窓からは雪化粧した浅間山が美しく見えていた。よい山旅ができそうだと期待はふくらんだ。

ところが同日16時10分、能登半島地震が発生。ホテルは9階建てで、その4階に泊まっていた。ミシミシとホテルの躯体がしなる音が体感で1分ほども続いた。北信は震度5弱だったそう。震度5弱であの揺れ、震度7ともなれば強烈な揺れだったと思う。震源地近くの方々の被災と不安に思いを馳せた。

新幹線や在来線もとまってしまい、2日も影響が残ることが懸念された。帰りの飛行機の予約は2日19時15分発。そのため、浅間山登山は中止することにした。

 さて、1日空いた2日の予定をどうするか。交通機関の混乱をおそれて、長野をはなれ関東をめざしたほうがいい。あれこれ考えて、おくのほそ道の旅程のなかで未踏の室の八島を訪ねることにした。この室の八島こそ、栃木県のパワースポット、大神神社である。

室の八島は栃木県にある。江戸深川を出立した芭蕉が、草加(じっさいは春日部)宿の次、日光の前に記述しているのが室の八島。だいたいそのあたり。

ですがなかなかに行きにくい。佐久平から新幹線で高崎まで、そこから両毛線で栃木まで、新栃木で宇都宮線に乗り換えて野州大塚まで。最後は東武線。日光行きの全席指定の特急はたくさん通過するけれども普通電車は1時間に2本ほど。

 おくのほそ道によると室の八島はつぎのとおり。

 室の八島に詣す。同行曽良がいはく、「この神は木の花咲耶姫の神と申して、富士一体なり。室戸に入りて焼きたまふ、誓ひの御中に、火々出見の尊 生まれたまひしより、室の八島と申す。また煙をよみならはしはべるも、このいはれなり。はた、このしろといふ魚を禁ず」。縁起の旨、世に伝ふこともはべりし。(角川ソフィア文庫)

同行者曽良の紹介文でもある。曽良は有能な秘書であり、有能なツアーガイドでもあった。神社の縁起にも詳しかった。

コノハナサクヤヒメはアマテラスの孫であるニニギノミコトの妻。父の大山津見神は姉のイワナガヒメもいっしょに嫁がせようとしたが、ニニギは拒否。コノハナサクヤヒメは美をイワナガヒメは長命を約束していたが、ニニギが長命を拒否したため、その子孫は短命になったという。

富士山には富士浅間神社(センゲンジンジャ)が祀られているが、その神もコノハナサクヤヒメ。富士山と同一の神である。むかしは富士山も火山活動をしていたから、浅間神社の神がコノハナサクヤヒメであることは肯ける。そのいわれはこう。

ヒメは一夜にしてみごもった。ニニギはほんとうに俺の子かと疑った。疑いを晴らすため、神の子であれば火にも焼けじと誓って、ヒメは戸のない室に火を放ち、そのなかで出産した。ヒメもご気性が激しかったようで。無事、ホホデノミコトを産んだ。

火々出見の尊はホホデノミコト。文字どおり火のなかから出てきたから。神武天皇の祖父とされ、神話では山幸彦(ヤマサチ)として有名である。

芭蕉はそのゆえに室の八島と申すというが、これだけでは分からない。その昔にはこの地に八つの島があったからだという。いまは境内に池と小さな島がしつらえれている。

煙をよみならはしはべるというのは、たとえば、藤原実方のこの和歌。

 いかてかは思ひありとも知らすへき室の八島の煙ならては 

意中の人に恋の思いをどうやって知らせようか、室の八島の煙であればともかく。そうではないので。

このしろといふ魚を禁ずというのは、「この城」を焼くにつながるから。

これほどのパワースポットなれど、人々はみな日光へ向かったのか、境内はそれほど混雑もみられず。落ち着いて参拝をすることができた。このあと、航空機事故に遭遇することになるとは、この時点では思いもよらず・・・。

2023年12月27日水曜日

~からの、幻住庵

 




 石山駅に戻る。石山駅からはバスで幻住庵(跡)へ。幻住庵(菴)は、おくのほそ道の旅を終えた翌年、芭蕉が仮住まいをしたところ。

「幻住菴記」という俳文がある。もっともすぐれた俳文であると評価が高い。芭蕉が仮住まいをした当時の様子が詳細に書かれている。

石山駅の南には紫式部が『源氏物語』を執筆したという石山寺がある。そのやや西側にあるのが国分山である。国分というのはその昔、聖武天皇が国分寺を建立したことに由来する。幻住庵はその麓にある。

 石山の奥、岩間のうしろに山有、国分山と云。そのかみ国分寺の名を伝ふるなるべし。

バスを降り山手の坂を登ると、近津尾八幡宮がある。

・・・麓に細き流を渡りて、翠微に登る事三曲二百歩にして、八幡宮たゝせたまふ。

もちろんいまは神仏分離であろうが、芭蕉の時代は習合していたようである。

・・・身体は弥陀の尊像とかや、・・・両部光を和げ、利益の塵を同じふしたまふも又貴し。

八幡宮の横に幻住庵跡がある。芭蕉の時代すでにかなりいたんでいたようであるから、いまは残っていない(いまある建物は平成3年に再建したもの。)。

・・・日比は人の詣ざりければ、いとゞ神さび物しづかなる傍に、住捨し草の戸有。よもぎ・根笹軒をかこみ、屋ねもり壁落て、狐狸ふしどを得たり。幻住菴と云。

あまりに美文なので全文紹介したいところだが、そろそろ仕事に戻らねばならないので、以下ずっと省略して、末尾の句。

 先たのむ椎の木も有夏木立(まづたのむしひのきもありなつこだち)

幻住庵跡の横には大きな椎の木があり、当時のものであると説明されている。樹齢400年というにはやや疑問が残るが、そのロマンにあやかることにしよう。

この句の句碑はわが久留米城跡にもある。なぜだろうか。以下のくだりと関係があるかもしれない。

 ・・・さるを、筑紫高良山の僧正は・・此たび洛にのぼりいまそかりけるを、ある人をして額を乞。いちやすやすと筆を染て、幻住菴の三字を送らる。頓て草菴の記念となしぬ。

椎の木は冬でも葉が落ちない常緑広葉樹・照葉樹である。冬でも葉が落ちない縄文的な生命力は頼みとするに足りるであろう。

さてみなさま、今年も日本各地の山々や里々へ旅をすることができました。これも一重にみなさまのご愛顧によるものと思います。ありがとうございました。よき新年をお迎えください。

2023年12月11日月曜日

マジカルミステリーツアー(4)

 



 最終日はまたまた強風雨となった。さてどうしよう。やはり芭蕉の足跡をたどろうか。そうだ、甲冑堂へ行こう!だが、甲冑堂は『おくのほそ道』にはでてこない。なぜか。

実は芭蕉の足跡には2種類ある。一つはもちろん『おくのほそ道』に記された足跡である。もう一つは芭蕉に随行した曽良が書いた『曽良旅日記』に記された足跡である。

『曽良旅日記』は長らく行方がしれなかった。それが1943年(昭和18年)に再発見された。その後、重要文化財となっている。

2人旅であるから、両者の足跡は一致しているはず。だが、実は一致していないところがある。どちらの記載が実際の足跡だろうか。

刑事訴訟では、反対尋問を経ない証拠は、いわゆる伝聞証拠であるとして受け入れられない。しかし、いくつかの例外がある。その一つ。商業帳簿、航海日誌その他業務の通常の過程にいて作成された書面は、例外とされている。

『曽良旅日記』は、その内容・体裁からここでいう航海日誌に近いものである。それゆえ、実際の足跡どおり忠実に記載がなされているものと思われる(曽良が幕府の隠密であり、そうとはかぎらないという点は別論である。)。

そこから、『おくのほそ道』の創作性が明らかとなった。『おくのほそ道』を読むと、一見、紀行文ふうに書かれているので、それまではみな、実際の足跡に忠実に書かれていると思い込んでいた。

ところが、実際の足跡により忠実な『曽良旅日記』が発見され、それと比較することが可能となった。その結果、『おくのほそ道』が創作物であること、すなわちその「文学」性が明らかとなったのである。

両者が一致しないところの一つが飯塚の里と笠島のくだり。まず、『おくのほそ道』。

(飯塚)
 ・・・またからはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも、ふたりの嫁がしるし、まづあはれなり。女なれどもかひがひしき名の世に聞こえつるものかなと、袂をぬらしぬ。

(鐙摺・白石)
 鐙摺・白石の白を過ぎ、・・・。

つぎに、『曽良旅日記』。

(飯塚)
・・・佐藤庄司ノ寺有。寺ノ門へ不入。西ノ方ヘ行。堂有。堂ノ後ノ方ニ庄司夫婦ノ石塔有。堂ノ北ノワキニ兄弟ノ石塔有。・・・

(鐙摺・白石)
・・・万ギ沼・万ギ山有。ソノ下ノ道、アブミコハシト云岩有。二町程下リテ右ノ方ニ、次信・忠信が妻ノ御影堂有。同晩、白石ニ宿ス。

現地に行けば、どちらが実物に即しているかは明白。いまでも『曽良旅日記』に書かれたとおりである。『おくのほそ道』は現地の実情に即してはいない。

飯塚の里は、佐藤庄司が治めていた。かれは奥州藤原氏の被官である。源頼朝に攻められて、奥州藤原氏とともに滅亡した。

かれの息子2人が次信と忠信である。ふたりとも源義経の忠臣であり、『平家物語』をはじめ、歌舞伎でも活躍する。

「ふたりの嫁」は次信と忠信の嫁のこと。次信と忠信の無事な帰還をまちわびる義母(つまり佐藤庄司の妻)のため、甲冑を着て無事の帰還を演じ義母を慰めたという。

飯塚の里に医王寺がある。医王寺には佐藤庄司夫婦の石塔や兄弟の石塔はあるけれど、「ふたりの嫁のしるし」は存在しない。

「ふたりの嫁のしるし」があったのは、鐙壊し(鐙摺)の先にある甲冑堂である。芭蕉は両者を融合させ、文章を引き締めたものと思われる。

こうして甲冑堂は『おくのほそ道』にそれとして記述されなかったが、そこで「ふたりの嫁のしるし」は拝見することができる。

・・・ことになっている。この日、甲冑堂を訪れたところ、強風雨のため閉鎖されていた。しかしあきらめきれない。

強風雨のなか、JR越河駅から道に迷いつつ、歩いてようやくここまで辿り着いたのである。

神主さんのご自宅を訪ね、玄関で声をかけた。80歳くらいの年輩のご夫人があらわれた。きょうは強風雨のため、甲冑堂の開張はできないという。

そこをなんとか、福岡から来たんです!と食い下がったところ、ご夫人は義経のこと、芭蕉のこと、甲冑堂のこと、これまで訪ねてきた客のこと、維持管理がたいへんなこと、行政が冷たいことなど延々と30分以上語りに語った。

こっ、これはいかん。ご開張に代えて、その埋め合わせに「語り」で済ませるおつもりではあるまいか。それはそれでとても面白い「語り」ではあったが、それでは証拠写真がとれないではないか。

玄関先をみると、お守りや甲冑堂の来歴をしらせる資料等が販売されていた。これください!ついでに拝観料もお支払いします!

これにご夫人は負けたという表情を浮かべられた。やった!かくて甲冑堂前のたたかいに勝利し、ふたりの嫁に対面することがかなったのであった。めでたし、めでたし。

2023年12月7日木曜日

マジカルミステリーツアー(2)

 

 翌朝目が覚めた。深夜に目覚めることもなく、うなされることもなく、座敷わらしに会うこともなく、神隠しにあうこともなく。朝の光のなか、さっそく一風呂浴びた。さっぱりした。贅沢。食堂はやはり一人。昨夜の嵐はややおさまっている。

鳴子御殿湯駅まで歩いてJR陸羽東線に乗る。鳴子温泉駅で下車。鳴子峡まで歩くが、紅葉はまだまだ(10月上旬ゆえ)。

駅に戻り、陸羽東線を東へ向かう。途中、堺田という駅がある。駅をおりれば芭蕉が泊まった封人の家がある。

 ・・・やうやう(あれ?パソコンが固まって動かなくなった。しばらくして回復。)として関を越す。大山を登って日すでに暮れければ、封人の家を見かけて宿りを求む。三日風雨荒れて、よしなき山中に逗留す。

 蚤虱馬の尿する枕もと(のみしらみうまのばりするまくらもと)

さらにJRでいくと赤倉温泉駅がある。そこからおくのほそ道の旅の最大の難所、山刀伐峠(なたぎりとうげ)をめざす。名前だけでも恐ろしい。

時間の関係で、登山口までタクシーを利用し、そこから峠まで往復する計画だった。10分ほどしてずんぐりした体格の青年の運転するタクシーがやってきた。おくのほそ道の記述が頭をよぎる。

 あるじのいはく、これより出羽の国に大山を隔てて、道定かならざれば、道しるべの人を頼みて越ゆべきよしを申す。「さらば」といひて人を頼みはべれば、究きょうの若者、反脇指(そりわきざし)を横たへ、樫の杖を携へて、われわれが先に立ちて行く。

青年運転手によると、山刀伐峠は登山口から峠までを往復しても悪くないが、やはり尾花沢まで抜けたほうがいいという。しかもタクシー代は登山口までの往復料金にまけてくれるという。

青年の好意に甘えて、そうすることにした。登山口ではスマホで写メを撮ってくれた。そうしていると、驟雨がやってきた。

クマがでるという。運転手はクマ脅しの道具を貸してくれた。残念ながら、おくのほそ道の旅のように、道案内まではしてくれないらしい。

おくのほそ道の記述にたがわず、深山幽谷、樹齢数百年と思われるブナの美林がつづいていた。そこを九十九折りに登っていく。深閑としている。かすかな異音にクマではないかと怯える。他に誰も人はいない。

・・・あるじのいふにたがわず、高山森々として一鳥声聞かず、木の下闇茂り合ひて夜行くがごとし。

ようよう峠についた。やはり人はいない。東屋のほか、子持ち杉、子持ち地蔵尊が祭られている。温泉街で買った弁当、それとミカンを食す。鳴子温泉で買ったのに、ミカンは熊本県産である。くまモンのマークがついている。

食べ物のにおいにクマが寄ってくるといけないので、そそくさと食べ終わる。一服することもなく、尾花沢(最上)側へ降りていく。・・・そろそろ山の中腹かと思うころ、驚いて跳ね飛んだ。人生で最長不倒距離を跳んだ。

なんと、300キロはあろうかという成獣のクマが昼寝していた。クマが寝るのであれば、うつ伏せであろうが、仰向けに寝ていた。まるでくまモンのイラストのよう。死んでいたのかもしれない。慌てて逃げ出したので、生死の確認はできなかった。

転がるようにして坂を駆け下りた。タクシーとの待合せ場所についた。ひゃーたすかった。芭蕉の記述以上に怖い思いをした。ふうー。

・・・雲端につちふる心地して、篠の中踏み分け踏み分け、水を渡り、岩に躓いて、肌に冷たき汗を流して、最上の庄に出づ。かの案内せし男のいふやう、「この道必ず不用のことあり。恙なう送りまいゐらせて、仕合はせしたり」と、喜びて別れぬ。後に聞きてさえ、胸とどろくのみなり。

あのクマは山の神だったのだろうか。この日、カメラの不具合で写真は一枚も撮れていなかった。登山口で青年運転手が撮ってくれた写メだけが手もとに残った。なんと、芭蕉の句を入れ、写真立てに入れてプレゼントしてくれた。

それにしても息もとまりそうな、不思議な体験だった。

2023年12月6日水曜日

マジカルミステリーツアー(1)

 



 異様な旅だったので、これまでどうしようか迷っていたが、概要だけでも書き留めておこうと思う。

ときは10月の連休。あの『遠野物語』の舞台となった遠野を東にのぞみながら、宮城北部から岩手に至る旅だった。遠野に天狗、河童、座敷童などの妖怪がいて、神隠しが存在するのであれば、これら地域にそれらが存在してもおかしくない。

当初は、森吉山、和賀岳、秋田駒ヶ岳という秋田の二百名山をめぐる旅を計画していた。しかし、数日前の天気予報で、予定日はいずれも強い寒気と強風が吹き荒れることが予想されていた。

実際、これらの日々に登山を強行されたかたがたのなかからは、低体温症で亡くなられたかたも少なくなかった。このことは以前にも書いた。

ぼくは登山をあきらめて、芭蕉のおくのほそ道の旅をたどることにした。おくのほそ道の旅は80%くらいはたどることができていた。残るは数カ所。

なかでも難所は、尿前(しとまえ)の関から山刀伐(なたぎり)峠を越えて尾花沢までのルートだ。芭蕉も苦労したらしい。おくのほそ道きっての難ルートだ。

連休の直前になっての転針であるから宿の確保ができるか心配した。が、なぜか、鳴子温泉のある旅館を予約することができた。そのときは、予約できたことに安心してそれ以上の探索をやめてしまった。

当日は予報どおり風が強く、飛行機はなんとか仙台空港に着陸できたものの、そこから先の在来線、新幹線は乱れに乱れていた。

新幹線の古河駅から海側へ向かう路線は強風のため運休していた。しかし山側へ向かう路線は遅れながらも運行していた。途中、岩出山など、おくのほそ道で馴染みの地名などがある。

鳴子温泉駅でおり、尿前の関まで歩いた。ふるくは陸奥・出羽の境であった。そのため怪しい人の出入りを厳しくチェックする関があった。

 南部道遙かに見やりて、岩出の里に泊まる。小黒崎・みづの小島を過ぎて、鳴子の湯より尿前の関にかかりて、出羽の国に越えんとす。この道旅人まれなる所なれば、関守に怪しめられて・・・。

日も暮れてきたので、あわてて宿に向かう。帳場で宿泊手続を行った。湯の種類は4種あり、温泉好きにはたまらないようだ。

部屋に案内された。・・・。唖然。壁がボロボロだ。誰かが凹ましたままになっている。寂れているなぁ。

まぁいい。温泉さえよければ。・・・。呆然。河童でもでそうで怖い。そさくさと湯につかる。

風呂のあとは夕食。食堂にむかう。・・・。なんと宿泊客はぼく一人のようだ。背筋がゾクゾクする。

部屋に戻る。風雨で、窓がガタガタとなっている。窓枠が外れそうだが、だいじょうぶだろうか。

あらためて検索していみる。その旅館の名前を入力すると、予測変換の文字が。なんと「恐怖」とか「怖い」とか。ぞーっ。

そのとき。タカタカタカ・・・。窓の外を、なにものかが走り抜けた音がした。あわててカーテンをどけて窓の外を見分する。漆黒の闇に、樹木の枝葉が揺れ、雨が窓ガラスを打っている。窓の外は切れ落ちていて、なにものかが通れる余地はない。

なんだったのだろう?天狗か妖怪か?ネコだったと信じたい。今夜、眠れるだろうか?心配しながら、すこし湿気った布団に入る。

2023年11月6日月曜日

ブラタモリ「敦賀~すべての道は敦賀に通ず?~」

 


 ブラタモリで敦賀をやっていた。本ブログでとりあげた秀吉・家康、芭蕉・おくの細道や銀河鉄道999的世界に一切触れることはなく。

やはり「道」という観点から編集したせいだろうか。「道」という観点からすればなおさら秀吉・家康、芭蕉・おくの細道、銀河鉄道に触れてもよさそうなものなのに。監修を受けた研究者がみな畑違いだったせいだろうか。

敦賀湾から海をのぞむと水平線が見えない。つまり、北側、東側、西側の3方を海に囲まれている(すこし北上すると北西側が日本海にひらけている。)。古代から天然の良港として発達してきた。

近世では北前船が行き交い、昆布が名物となったことが番組でよく分かった。北方の昆布が敦賀で名物となったのは、近世までは日本海側が物資の大動脈だったからである。

そのことは、いちど秋田県の酒田にいけばよくわかる。酒田は庄内平野の北端にある。往時、酒田の商人は庄内平野の米を上方へ運んで巨万の富を得たのである。そのさまは、井原西鶴が『日本永代蔵』に活写したとおりである。

もちろん、その繁栄がそのままいまでもみられるわけではない。だけれども、山居倉庫として残っており、往時をしのぶことができる。さらには、吉永小百合が歩いた空気も感じられるかもしれない。

https://ameblo.jp/yu-tu-0101/image-12342041718-14106270310.html

さて幕末、列強と下関線戦争が勃発するや、京・大坂への米の搬入をどうするかという問題を生じ、敦賀から琵琶湖へむけて運河を掘ったようだ。

明治期、運河に代わり、鉄道が。新橋-横浜間と同時に計画されたというから、その重要性は明らか。

鉄道の停車場は金ヶ崎にあったようだ。『どうする家康』放映中でもあったし、秀吉・家康の退却戦のエピソードの紹介があると思ったが、なし。

鉄道から先、船はどこへ向かったかというとウラジオストック。そこからシベリア鉄道で欧州全域に向かうことができたようだ。

①日本国内から敦賀までの鉄道キップ、②敦賀からウラジオストックまでの船券、③ウラジオストックからベルリンまでの鉄道キップが1枚となったキップが紹介されていた。船便の半分くらいの日数でヨーロッパへ行けたようである。

日本からロシアを経てヨーロッパへ自由に行き来できた時代の貴重な歴史的なお宝である。いまは飛行機でされ自由に飛ぶことができない。タイトルの「すべての道は敦賀に通ず?」に「?」とあるのはこの意味でもあるだろうか?

2023年9月20日水曜日

月は隈なきをのみ見るものかは

 


 NHK BSで「絶景にっぽん月の夜」をやっていた。案内役は橋本マナミ。いわく。世界で類をみないほど月を愛してきた日本人。上弦の月、十六夜、立待月、眉月など、四季や月日の移ろいに合わせた月の名は数知れず。そんな月との営みは今も全国に残っている。三日月信仰、徹夜踊り、屋久島の夜・・・。夜の日本を旅して〝月の愛で方”を探る。

世界で類をみないほど月を「愛してきた」日本人。というけれども、現代日本人のうちどれほどの人が月を愛しているだろうか。

白楽天の詩に「雪月花時最憶君(雪月花の時 最も君を憶ふ)」とあり、われわれ日本人は雪月花を最も美しいとおもい、愛してきたとされる。しかし自身、雪と花の愛し方に対し月はやや比重が劣るような気がする。

芭蕉などは長い旅をして月見を楽しんでいる。鹿島紀行や更科紀行である。前者は江戸深川から茨城県の鹿島まで出かけて月見を試みている。後者は美濃から信州更科(姨捨山)まで旅をして月見を試みている。どちらも当時、月見の名所である。

対するわれわれはどうだろう?花見をするために弘前、高遠や吉野へ出かける。雪を見るために、蔵王、八甲田や八ヶ岳、北アルプスに出かける。しかし月見をするために遠出を計画することはない。生活様式の変化なのか、嗜好の変化なのか。それとも個人的な趣味の問題か。

ところで、「絶景にっぽん月の夜」では、〝月の愛で方”として兼好法師の言葉を引用していた。いわく。「月は隈なきをのみ見るものかは。」。せっかくだから『徒然草』第137段全文を引用してみよう(角川ソフィア文庫から)。

 花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころ多けれ。歌の詞書にも、「花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ」とも、「障ることありてまからで」なども書けるは、「花を見て」といへるに劣れることかは。花の散り、月の傾くを慕ふ習ひはさることなれど、殊にかたくななる人ぞ、「この枝かの枝散りにけり。今は見どころなし」など言ふめる。

なるほど。すばらしい。おっしゃるとおり。このような感覚はいまなおわれわれにも脈々と受け継がれている。

書棚から先の『徒然草』をひっぱりだそうとしていたら、『源氏物語(二)』のオビに目がいった。いわく。「朧月夜に似るものぞなき」。

歌宴にて、源氏が朧月夜の君を愛するきっかけになった。もとは大江千里の和歌。

 照りもせず曇りも果てぬ春の夜の 朧月夜に似るものぞなき

これも「隈なき月より朧月でしょ」ということだから、兼好法師の言うところと同じ意味だろう。というより、大江千里、紫式部のほうが先行しているので、兼好の趣向は彼らに学んだものというべきか。

すこし時代がさがって芭蕉の『野ざらし紀行』にも次の句がある。

 関こゆる日は雨降て、山皆雲にかくれたり。

 霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き

これは間違いなく『徒然草』に学んだものだろう。「雨に対ひて月を恋ひ」、そしてまた富士を恋ふ。

さらにずっと時代が下って、次のような文章もある。

 山でご来光を拝めたときの感激はひとしおだ。とにかく幸せな気持ちになる。太古、人類は恐ろしくて長い夜をすごし、日の出を心待ちにしていただろう。日が昇ったときの幸せは生存に直結した根源的なものだったろう。われわれのDNAにはそれが刻みこまれている。
 ご来光が拝めるかどうは、お天気の気まぐれ。曇ればダメだし、まったく雲がないのも風情がない。うまいぐあいに雲がかかるのが大切なのだ。夜明け前に茜色に染まる空を東雲と呼ぶのは意義深い。・・

どこで読んだんだったっけ?