ブラタモリで敦賀をやっていた。本ブログでとりあげた秀吉・家康、芭蕉・おくの細道や銀河鉄道999的世界に一切触れることはなく。
やはり「道」という観点から編集したせいだろうか。「道」という観点からすればなおさら秀吉・家康、芭蕉・おくの細道、銀河鉄道に触れてもよさそうなものなのに。監修を受けた研究者がみな畑違いだったせいだろうか。
敦賀湾から海をのぞむと水平線が見えない。つまり、北側、東側、西側の3方を海に囲まれている(すこし北上すると北西側が日本海にひらけている。)。古代から天然の良港として発達してきた。
近世では北前船が行き交い、昆布が名物となったことが番組でよく分かった。北方の昆布が敦賀で名物となったのは、近世までは日本海側が物資の大動脈だったからである。
そのことは、いちど秋田県の酒田にいけばよくわかる。酒田は庄内平野の北端にある。往時、酒田の商人は庄内平野の米を上方へ運んで巨万の富を得たのである。そのさまは、井原西鶴が『日本永代蔵』に活写したとおりである。
もちろん、その繁栄がそのままいまでもみられるわけではない。だけれども、山居倉庫として残っており、往時をしのぶことができる。さらには、吉永小百合が歩いた空気も感じられるかもしれない。
https://ameblo.jp/yu-tu-0101/image-12342041718-14106270310.html
さて幕末、列強と下関線戦争が勃発するや、京・大坂への米の搬入をどうするかという問題を生じ、敦賀から琵琶湖へむけて運河を掘ったようだ。
明治期、運河に代わり、鉄道が。新橋-横浜間と同時に計画されたというから、その重要性は明らか。
鉄道の停車場は金ヶ崎にあったようだ。『どうする家康』放映中でもあったし、秀吉・家康の退却戦のエピソードの紹介があると思ったが、なし。
鉄道から先、船はどこへ向かったかというとウラジオストック。そこからシベリア鉄道で欧州全域に向かうことができたようだ。
①日本国内から敦賀までの鉄道キップ、②敦賀からウラジオストックまでの船券、③ウラジオストックからベルリンまでの鉄道キップが1枚となったキップが紹介されていた。船便の半分くらいの日数でヨーロッパへ行けたようである。
日本からロシアを経てヨーロッパへ自由に行き来できた時代の貴重な歴史的なお宝である。いまは飛行機でされ自由に飛ぶことができない。タイトルの「すべての道は敦賀に通ず?」に「?」とあるのはこの意味でもあるだろうか?
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