那覇空港で搭乗しようとするとき、かならず思い出す光景がある。
時は22年前、2001年5月。11日に、ハンセン病訴訟に関し、第一審・熊本地裁で勝訴判決がなされていた。
判決後われわれはまず上京し、国会、厚生労働省や法務省、そして支援者らに対し、判決内容を報告するとともに全面解決への支援や行動を要請した。
つぎにわれわれがしたことは全国の療養所をまわって、原告らに対し判決内容の報告と今後の方針を説明してまわることだ。
情勢は混沌としていた。被害者らは高齢化し、隔離の歴史も長期化していた。隔離を受けた被害者は当然裁判に参加するものと思われがちだが、対応は割れていた。
下手に裁判に参加して療養所を追い出されることになれば、高齢化した被害者たちは行き場を失うことになる。それを心配する人たちが裁判に反対し、どちらかといえば原告らは孤立していた。
われわれは勝訴判決をひっさげ、全国各地の療養所に戦勝報告をするとともに、いまだ裁判に加わっていない人たちに参加を呼びかける必要があったのだ。
弁護団内で手分けした結果、八尋弁護士とともに沖縄愛楽園と宮古南静園を担当した。その日は沖縄愛楽園での説明会を終え、宮古南静園での説明会を行うため、那覇空港から宮古空港に向かう途中であった。
『失われた時を求めて』の冒頭ではないが、前後の詳細な事情は忘れてしまった。鮮明に覚えているのは次の場面だ。
宮古行きの飛行機にいままさにチェックインしようとしていた。すると携帯に電話がかかってきた。内容は小泉内閣の法相、たしか森山真弓さんだったと思うが、原告団との面談に応じると言っているという。
急遽、八尋弁護士とその場で協議して、八尋弁護士はそのまま宮古での説明会へ、当職は東京へ転針して法相との面談にのぞむことになった。
弁護士人生のなかで、いくつかある驚きの瞬間の一つである。どんなに時間が経っても忘れることはない。
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