2010年12月16日木曜日

 「ノルウェイの森」の樹影たち



 筑紫野市のイオン内にある映画館に行ったところ
 「ノルウェイの森」と「ロビン・フッド」の両方ともが魅力的。
 
 ちょっと迷いましたが、「ノルウェイの森」を観ました。
 (ノルマン・コンクエスト…)

 10月に、つづけざまに「ノルウェイの森」を読んでいる人に遭い
 映画「ノルウェイの森」をぜひ、観にいくべしという呼びかけを
 受けていましたので(「レットイットビー」の記事参照)。

 ことしの公開はビートルズ解散40周年にあわせたものでしょうか?
 ジョン・レノンの死去後30周年にあわせたものでしょうか?

 村上作品のほうは、僕の十代に完全に終止符を打ち
 直子が自死した年が1970年とされており
 ビートルズの解散と符節をあわせた可能性があります。

 映画のほうは、2010年12月11日に公開されたましたので
 ジョンの命日(1980年12月8日)を意識した可能性はあります。
 
 もちろん無関係ということもありえます
 ですが、このように考えたほうが作品のイメージやテーマと親和的です。

 感想をひとことでいうと、村上作品とは「違う話」ということです。
 でも、これもある意味やむを得ないところでしょう。

 村上さんは「グレート・ギャツビー」の村上訳にとりくんだ理由について
 それまでのいくつかの翻訳書を読んでみたけれども
 「これは僕の考える『グレート・ギャツビー』とはちょっと
 (あるいはかなり)違う話みたいに思える」
 と考えたから、と述べています。
 (「グレート・ギャツビー」の「訳者あとがき」)

 そして、そうなる理由をこう解説しています。
 「『グレート・ギャツビー』はすべての情景がきわめて繊細に鮮やかに
 描写され、すべての情念や感情がきわめて精緻に、そして多義的に
 言語化された文学作品であり、…ところがそれを日本語に翻訳すると
 そこからは否応なく多くの美点が損なわれ、差し引かれていく。…」

 書物→書物の翻訳でさえこれですから
 書物→映画の「翻訳」の場合、なおさら厳しいでしょう。

 限られた時間のなかでの表現なので、多義的に言語化された部分が
 かなり脱落することはやむを得ないと思います。
 
 ですが、この映画は村上作品を理解するうえで大いに参考になりました
 刈り込んだ分だけ、すっきりと見渡せる感じはしましたから。

 なるほど「ノルウェイの森」のプロットはこういうことだったのか!
 とか、村上作品に引き込まれる仕掛けはそういうことか…みたいな。
 (これまで2度読んでまったく気づかなかったのに)

 以下、映画を観て思いついた気づき(キズキ)などを書いてみます。
 (なお、映画を観たあと、これが当たっているかどうか
 一度ざっと読み返しました。結果、当たっているようないないような…) 

 さて、なにかと話題のキャスティングは以下のとおり。
 僕(ワタナベ) - 松山ケンイチさん
 直子      - 菊地凛子さん
 小林緑     - 水原希子さん
 キズキ     - 高良健吾さん
 永沢      - 玉山鉄二さん
 ハツミ     - 初音映莉子さん
 レイコ     - 霧島れいかさん
  
 でもこのうち、やはり一番のポイントは
 直子と緑ですね。

 原作の装幀は、上巻が赤、下巻が緑となっていて
 「100パーセントの恋愛小説」にしては
 とても目立ち、むしろどぎつい印象。

 赤-緑は補色、補色は色相差が最も大きいので
 お互いの色を目立たせる効果があります
 緑を背景とする紅葉を美しいと感じるのもこの効果。
 (セブンイレブンの看板なども、赤-緑の配色になっています)

 この装幀は村上さん自身が手がけているので
 目立つ以外に当然、小説にとっての象徴的な意味があるはず。
 
 内容からすれば、緑=小林緑や何かを示していることは明らか。
 (小林という名字も緑と関係しています)
 そうすると、赤は直子や何かを指し示していることになります。

 「ノルウェイの森」はひとことでいうと、上・下2巻で
 「赤と緑」の物語なわけです。
 
 スタンダールの小説「赤と黒」がヒットした翌年に
 本作の出版がなされたのであれば、きっと表題は
 「赤と緑」だったでしょう。

 物語にはワイン、ブドウ、葡萄色、出血という記号が頻出
 非日常、聖、霊魂・精神、彼岸、イエスの血などを象徴しています。

 たとえば、キズキは赤いN360の自動車内で自死しています
 赤は死、緑は生のイメージ・記号。
 
 僕が緑の実家である小林書店を訪れた際
 近所で火事があり、緑が「死んだってかまわないもの」
 などと述べるあたりは、やはり赤と緑の対比で
 赤は死のイメージ。

 「火事が終わってしまうと緑はなんとなくぐったりとしたみたい
 だった。」

 これなど、見えない世界で緑が赤い勢力とたたかっていたかのように
 読めます。

 画家やペンキ屋があらわれ、卵や黄色と混ざり合い
 赤は緑に変化していきます。
 
 僕が赤から緑へと「成長」「再生」「変化」していく物語です
 つぎの描写はまるで宮崎アニメのよう。

 「春の闇の中の桜の花は、まるで皮膚を裂いてはじけ出てきた
 爛れた肉のように僕には見えた。
 庭はそんな多くの肉の甘く重い腐臭に充ちていた。
 そして僕は直子の肉体を思った。

 直子の美しい肉体は闇の中に横たわり
 その肌からは無数の植物の芽が吹き出し
 その緑色の小さな芽は
 どこかから吹いてくる風に小さく震えて揺れていた。」

 問題は「森」
 森はとても両義的です。

 森は緑の木々からなっていっるわけですが
 深い森は死のイメージをはらんでいます。

 深い森は、その中で迷い、「寒くて、そして暗くって
 誰も助けに来てくれ」ません。

 緑にたいして僕は「それじゃ木樵女みたいだ。」といい
 緑も「私、木樵女なのよ」と名乗っています(4章)。

 そしてクライマックス(10章)、僕は緑をこのように評しています。

 「私のヘア・スタイル好き?」
 「すごく良いよ」
 「どれくらい良い?」緑が訊いた。
 「世界中の森の木が全部倒れるくらい素晴らしいよ」と僕は言った。

 つまり、緑は木樵女として死の森を全部切り倒し
 僕に生をもたらすわけです。 

 映画では、緑はもちろん、ハツミさん、レイコさんらの
 助けも借りて、僕が成長していく感じは
 分かりやすく伝わってきました。

 ただ惜しかったのは、「赤と緑」の対比という点についての
 イメージ喚起力が弱かったことでしょうか。

 赤と緑は補色の関係にあるのですから
 赤は緑と、緑は赤と拮抗し、互いに主張し補いあうという
 緊張関係のなかで、両方が個性的に立ち上がらなければなりません
 この感じが…。
 (菊池さんも、水原さんもそれぞれに個性的であったことは
 否定しませんが、相補的な関係にあったかどうか)

 キャッチコピーは「深く愛すること。強く生きること。」
 これは愛=赤、生=緑ということでいいと思います。

 ※「KAGEROU」斎藤智裕(水嶋ヒロ)さん、買いました。
 (ジュンク堂で買おうとしたらカメラが待ちかまえていたので
 地下街におりて積文館で買いました。)
 読んだら報告します。乞うご期待。
 

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