2010年12月25日土曜日

 永遠に回帰する物語



 「ノルウェイの森」の僕はレコード店でアルバイトをしています
 これはなにかを暗示しているのでしょうか?

 いまのCD以後の媒体だと理解しずらいのですが
 むかしのレコードはぐるぐると回転していました。

 レコードというはぐるぐると回転するというメタファー
 「ノルウェイの森」はぐるぐると回転する物語なのです。

 前に、「ノルウェイの森」を追いかけれど追いつかないだと書きましたが
 それはつまり、いつまでもぐるぐると回転する物語でもあります。

 そう思って読むと、直子はこんなことを言ってます(2章)。

 「…まるで自分の身体がふたつに分かれていてね、追いかけっこを
 してるみたいな感じなの。まん中にすごく太い柱が建っていてね
 そこのまわりをぐるぐるとまわりながら追いかけっこしているのよ。
 …」

 僕もこんなことを言ってます(2章)。

 「僕はそんな息苦しい背反性の中で、限りのない堂々めぐりを
 つづけていた。それは今にして思えば奇妙な日々だった。
 生のまっただ中で、何もかもが死を中心にして回転していたのだ。」

 僕は気に入った本を何度も読み返すのが好き(3章)
 村上さんの小説も何度も読み返すうちに、いろいろな発見に出会えます。

 直子の誕生日の日の、つながり方が奇妙な話
 A>B>C>…というのもレコード盤のような構造を示しています。
 (3章)

 直子が死んだあと、レイコさんと僕は「淋しくない」葬式をやり
 二人で51曲も歌います。
 すべての曲に意味があるのですが、それはまたの機会に。

 20曲目は、「ウェディングベル・ブルーズ」
 その歌詞につぎのような一節があります。

  私が死ねば、またどこかで命が生まれる
  人生はそういうもの
  そうして世界は巡っていくものなのよ

 これは、仏教でいえば輪廻転生の教え
 いまはやりのニーチェでいえば
 「ツァラトゥストラはかく語りき」の永劫回帰の思想。
 (ここのBGMはリヒャルト・シュトラウスの交響詩でしょう)

 ニーチェには「(ギリシャ)悲劇の誕生」という著書もあるので
 ギリシャ悲劇をベースにした「ノルウェイの森」の思想的基盤
 としてもピッタリ。

 「ノルウェイの森」は季節の循環をいろいろと示唆しています
 カレンダーは重要なアイテムですし
 「季節がひとまわりしたのだ」などという表現も出てきます。

 季節が循環し、死と再生を繰り返すわけです。

 これらのイメージを図式化すれば、まさしくレコードの回転
 ということになります。

 アドレッセンス機能を失った主人公たちがどこへも行けず
 おなじところをぐるぐると彷徨うイメージにぴったり。

 この物語にはもっと大きな回転も用意されているように読めます。

 僕は最初の一行の重要性をつぎのように強調してしています(1章末)。
 どうしてでしょう?

 「もっと昔、僕がまだ若く、その記憶がずっと鮮明だったころ
 僕は直子について書いてみようと試みたことが何度かある。
 でもそのときは一行たりとも書くことができなかった。

 その最初の一行さえ出てくれば、あとは何もかもすらすらと書いて
 しまえるだろうということはよくわかっていたのだ…」

 それで最初の一行を見てみると、こうなっています。

 「僕は三十七歳で、そのときボーイング747のシートに座っていた。」

 なぜ、「僕は三十七歳で…」という最初の一行が重要なのでしょうか?

 僕と直子の一回きりのセックスによって子どもができ、その子が
 (僕のなかで)成長して、18歳の僕になるからではないでしょうか。

 18歳となった僕はふたたび
 「ノルウェイの森」の物語をはじめることになります。

 こう考えると、「ノルウェイの森」は永遠に回帰する物語になります
 こうして、僕はつぶやかざるをえません。

 「やれやれ、またドイツか」

 ただし、ただ単に永劫回帰しているだけでは
 「シジフォスの神話」であり、諸行無常の響きありになってしまいます。

 どうすれば、この袋小路から脱出することができるのでしょうか?
 鍵は緑が握っています(10章)。

 「どのくらい私のこと好き?」と緑が訊いた。

 「世界中のジャングルの虎が溶けてバターになってしまうくらい好きだ」
 と僕は言った。

 おなじみ「○○○○サンボ」のなかのエピソード
 虎たちは木のまわりをぐるぐると回転しながら最後は溶けてバターに。

 さてその方法は?
 緑が永遠の回転から脱出する方法は木登りです。
 
 「○○○○サンボ」は虎たちの回転を木のうえから眺めています。

 緑は女木樵であり、木登りが得意
 なにかと木(上)に登ろうとします。

 小林書店の近くで火事が起こったとき、3階の物干しに上り
 僕とキスをしました。

 後半、僕と仲直りしたときも、百貨店の屋上に上り
 やはり僕とキスをしました。 

 かくて物語は四季のように回転しながらも、僕は緑と木に登る
 (愛の成就)という形で、その都度、春のように再生しているわけです。
 

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