2010年12月24日金曜日
僕はイエス!?
キズキと直子が(象徴的に)僕の両親だとすると
僕がイエス・キリストだという可能性もでてきます。
この読みは、たくさん証拠の裏付けがあるわけではありません
が、ないわけではありません。
そう解釈すると
直子がキズキと「寝なかった」ことの説明がつきます。
(マリアは処女懐胎なので)
それから僕は日曜に仕事をせず、ヒマにしています。
先にみたとおり、物語にはワイン、ブドウ、出血というメタファーが頻出
これらは聖、霊魂・精神、イエスの血などを象徴しています。
後半(8章)、ガラスの先で切ってしまった僕の手のひらの傷は
聖痕でしょうか?
聖痕は、イエス・キリストが磔刑となった際についたとされる傷
手の平を深く切り激しく出血したとすれば、聖痕を連想させます。
これが聖痕だとすると
これ以降は、僕の「復活」の物語として読めます。
キリストは処刑の3日後、女たちが墓をたずねていくと
墓が空になっており、天使が女達にキリストの復活を告げたとされます。
10章における(生命が復活する)春の描写ののちの以下のような
奇妙な記述は、「僕」の死と再生(復活)を示唆していると読めます。
「それから三日間、僕はまるで海の底を歩いているような奇妙な日々を
送った。誰かが僕に話しかけても僕にはうまく聴こえなかったし
僕が誰かに何かを話しかけても、彼らはそれを聴きとれなかった。
…そんな風にして三日が過ぎた。
四月六日に緑から手紙が来た。…」
直子の死後、山陰地方を彷徨い、廃船の陰で涙を流していた僕に
寿司やお金をおごった若い漁師はイエスの弟子を連想させます。
マリアの夫ヨセフの仕事は大工ですが、僕はレイコさんのことを
「親切で腕の良い女大工みたい」に見えたといっています。
僕は吉祥寺の借家で勉強机や棚を自分で作るなど大工仕事をしています。
こうした情況証拠から、僕をイエスだという読みもできそうです。
(信仰をもつ人に不快感を与えるとすると、ごめんなさい)
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