2024年3月19日火曜日

九千部山(2)深い森と僧侶の心とリップ・ヴァン・ウィンクル

 




 高速鳥栖ICをおり、佐賀県道31号を西へ。JR肥前麓駅あたりをすぎ、立石バス停の分岐を右へ入る。沼川河川プール駐車場で車をおり、御手洗の滝をめざして歩きはじめる。

ウグイスが鳴いている。とても上手だ。人間とおなじく上手い下手がいる。とくにここは谷間のエコーが効いている。その効果をわかっていて、ここで鳴いているのだろうか。

川沿いに遡上すると、尾根にとりつく。その先は鳥の鳴き声も聞こえず、深い森がひろがっている。

他の登山者とも出会わない。ほんとうに静かな山旅だ。気候もさいてき。登っていても汗をかかず、ときおり涼しい風が吹いている。

♪ 深い森の奥にいまもきっと
  置き去りにした心隠しているよ(ドゥ・アズ・インフィニティ)

深い森の奥に、志半ばで美女の幻に負けた僧侶の心も隠されているだろうか。

石谷山に着いた。ここらあたりはアカガシの森が広がっている。樹齢100~200年とおぼしき大木もちらほらする。アカガシは常緑樹で、緑の葉をしげらせている。

さらに進むと、落葉した高木があらわれる。ブナ、ナラ、リョウブなどの落葉樹。九千部の山頂付近は、ほぼ落葉樹におおわれ、いまはまだ葉を落としたまま。

花の季節も未だ。藪ツバキが咲いているぐらい。あちこちでミヤマシキミが赤い実をつけていた。ある株は実とともに花のつぼみもかかえていた。山の春もそこまで来ている。

帰りにアカガシの大木の根元で休憩した。静か。寝てしまいそうだ。みなに置き去りにされて、目覚めると20年経っていたということになりそう(リップ・ヴァン・ウィンクル)。

2024年3月18日月曜日

九千部山(1)名前の由来と深草の少将のみた幻

 
山頂から。テレビ塔ごしに背振山

 土曜は九千部山(845.7m)に登った。怪鳥会のメンバー4人で。基山のサービスエリアで合流して、登山口をめざした。

参加者のひとりMさんがのっけから変な夢をみたと、昨夜の夢を紹介した(夢の内容は省略)。悪夢は延々と繰り返しみるが、良夢は実現寸前に目が覚めてしまう。不思議だ。

九千部山は福岡県那珂川市と佐賀県鳥栖市にまたがる背振山系の山。筑紫野市からみると南方、基山の奥に鎮座している。

なぜ、九千部山と呼ばれているのか。アジア美術館「大シルクロード展」敦煌における法華経発掘ところで紹介した(http://blog.chikushi-lo.jp/2024/03/blog-post_11.html)が、再説する。

山名の由来については、ある民話がある。そして紹介者によって微妙なニュアンスの違いがある。ウィキペディアによるとこうだ。

むかし天暦5年(951年)頃、隆信沙門という若い僧侶が台風と病気に苦しむ村人のため山頂で法華経を49日間で一万部(1万回)読誦する決心で山に籠もった。

あと7日目という夜に白蛇に遭遇、その後美しい女の幻に誘惑され負けてしまう。

満願の50日に僧侶を探しに来た村人は、谷の岩陰で骸となった僧侶を発見する。こうして読誦が「九千部」に留まったため、これが山名となったという。

僧侶が白蛇に遭ったり、美女の幻をみたり、そのときがちょうど九千部読誦したときだったなどの事実は、いったい誰が目撃したり、聴取したりしたのだろうか。反対尋問の種は尽きないが、この話は江戸時代に書かれた「歴代鎮西史」に記述があるようだ。

このままでは青少年の教育上よくないと判断されたのだろうか、僧侶が女の幻に誘惑され負けてしまったくだりが省略されてしまっているバージョンもある。

 https://sagamichi.jp/kusenbu/

人生の最も大切な、あるいは、味わいのある部分を省略してしまうのはどうなんだろう。

山頂部の案内によると、僧侶は極度の疲労の結果、白蛇や美女の幻覚をみたのだという説明になっている。これが最も説得力があると思う。山の遭難体験記を読むと、遭難して山中で一週間も生存していると、幻覚・幻聴の症状があらわれるというから。

ところで、この話は深草の少将の「百夜通い」に似ている。少将は小野小町を愛した。小町は「私のもとへ百日間通いつづけたら結婚してもいい」と言った。少将は九十九夜通ったが、最終日は雪が降り、雪山(伏見山のあたり)で遭難したため叶わなかったという。

深草の少将は凍死寸前、小町と結ばれる幻をみただろうか(いまどきなので少将は柄本佑、小町は吉高由里子で、イメージを思い浮かべてくだされ)。

われわれの良夢が実現寸前で目が覚めてしまい叶わないのは、深草の少将のたたりかもしれない。

2024年3月15日金曜日

同性婚訴訟・札幌高裁違憲判決

 

 わが事務所の富永弁護士らが取り組んでいる、いわゆる同性婚訴訟で、札幌高等裁判所は、同性婚を認めていない民法は違憲であるとする判決を言い渡した。

https://news.yahoo.co.jp/pickup/6494719?fbclid=IwAR3lZBY8jBKcFViQIvmYjO9k0cdEU2q_ijeXV9GIpIHrI3ddRLG_59l-7IY

憲法14条は平等権を、憲法24条は家族生活における個人の尊厳と両性の平等を定めている。国会でつくられた法律が憲法に違反していれば違憲となる。

違憲にも2種類ある。法令違憲と適用違憲である。法律そのものが違憲なのが前者、法律は違憲ではないけれどもその運用が違憲なのが後者である。

三権分立の理念から裁判所はできるだけ国会の判断が間違っていると判断することに慎重である。したがって、適用違憲はいいやすいが法令違憲はなかなか言えない。

民法が違憲であるというのは法令違憲である。しかも民法は諸法の王たる基本法である。それが違憲であるというのであるからすごい判決だ。関係者の勇気と努力に敬意を表したい。

同性婚訴訟は6地方で争われている。ニュアンスは異なるものの、違憲の流れは止められないようだ。

一般に最高裁は保守的で、進歩的な判決を覆す傾向がある。しかしどうもこの分野では違うようだ。

最近も犯罪被害者の同性パートナーに国の給付金支給を認めなかった行政判断を是認した高裁判決について弁論を開いた。弁論を開くということは高裁の判断を見直すということだ。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240305/k10014379961000.html

国会ではなお古い家族観にとらわれている議員も多い。同性婚を認める立法化への抵抗はなお多いだろうが、時間の問題だろう。

※写真と本文は関係ありません。国会や最高裁の固い扉・重い扉のイメージ映像です。

2024年3月14日木曜日

立花宗茂と高橋紹運

 
岩屋城跡から太宰府市街をのぞむ

 御花は柳川立花家の別邸。松濤館ロビーには立花宗茂の甲冑が飾られていた。

立花宗茂は太宰府とかかわりがある。四王寺山には岩屋城跡がある。観世音寺の裏からひと登り。

岩屋城跡は、戦国末(1584年)における島津と大友の戦い。大友の背後には全国制覇をめざす豊臣秀吉がいた。

島津義久は九州制覇をめざし、2万~5万(諸説あり)の大軍を擁して北上した。対する大友がたの武将は高橋紹運。わずか763人の手勢で岩屋城に籠城した。

高橋勢は勇猛果敢に防戦し、最終的には玉砕したものの、島津勢はここで足止めをくらった。豊臣勢20万が九州に来訪し、涙を飲んで薩摩に引き返すことになった。

岩屋城跡からすこし下ると紹運の墓がある。高橋紹運の長子が柳川藩の初代当主である立花宗茂である。

岩屋城の戦いの時、立花宗茂は立花山城を守っていた。岩屋城跡からしばらく登ると、四王寺山の稜線につく。稜線を反時計まわりに歩くと遠見台につく。

遠見台からは東方向・香椎方面への展望が開ける。香椎市街の背後には立花山がひかえている。立花山城があったところだ。

大友、島津、豊臣、徳川と世の勢力図は変転した。しかし高橋・立花家は、主家を見誤ることなく幕末まで存続した。武にすぐれていただけでなく、情勢を見極める眼力も兼ねそなえていたのだろう。

2024年3月13日水曜日

柳川さげもんめぐり@御花

 





 ♪流れる季節の真ん中で~3月9日、ふたりめの孫の初節句とふたりめの娘の誕生祝いをかねて柳川御花へ。

この季節、柳川は柳川雛祭り〝さげもんめぐり“中。いつもの川下りのほか、各所で自慢のさげもんが楽しめる。豪華な雛壇だけでなく、たくさんのさげもんがめでたさを盛り上げる。

 https://www.city.yanagawa.fukuoka.jp/kanko/meisho/2144.html

御花は柳川藩主立花家の別邸跡。玄関ロビーでは戦国末の武将・立花宗茂の甲冑がでむかえてくれる。

西洋館、松濤館(宿泊棟)、集景亭(料亭)などからなる。まずは西洋館の雛壇、さげもんの前で写真撮影。大広間では披露宴がおこなわれていた。めでたい雰囲気が充溢。


写真撮影ののち、集景亭で食事。松濤園の庭が美しい。季節の野菜・山菜で春を味わうことができた。もちろんせいろ蒸しも堪能した。

水天宮に参拝したのち、沖端の魚屋をひやかす。いつもはワラスボの怪異なエイリアンっぷりに盛り上がるのだが、ことしは干物にしかおめにかかれなかった。

2024年3月12日火曜日

曲水の宴に留学生を招く会

 



 3月の第1日曜日には、太宰府天満宮で曲水の宴が催行される。われわれ太宰府ロータリークラブはこれに留学生を招く会を毎年おこなっている。国際理解と国際親善の促進が目的。

午前中は少し雪か雨もよいだったが、天気は回復にむかった。初春の令月にして気淑く風和らぎ・・・。梅花は見ごろは過ぎていたが、まだまだ咲いていた。

ロータリークラブには3種の留学生制度がある。そのうち、高校生の交換留学生とホストファミリー、米山奨学生とカウンセラーをお招きした。ノルウェー、フィンランド、韓国、ドイツなど9か国からの学生ほか40名の参加である。

曲水の宴は、文字通り、くねくねと曲がった水路沿いに出席者が並んで座り、水路を流れてくる杯が自分のまえを通りすぎるまでに和歌を詠む行事である。

水に流すという言葉があるが、古来、水辺で禊(みそぎ)をしていた。世界遺産である大峰山に登ったときも、前日、滝ごりや護摩焚きで斎戒沐浴した。曲水の宴は、古代中国でこうした禊が発展したものだという。

東晋の時代、書の達人である王義之も蘭亭でおこなわれた曲水の宴に参加した。そして漢詩集の序文として有名な「蘭亭序」を書き残している。

日本では、日本書紀には古い記事があるようだが、確実なのは文武朝以降。奈良時代を経て平安時代にさかんにおこなわれた。天満宮でおこなわれているのは、平安時代のものの再現。女官が十二単を着、和歌を詠む。

留学生たちはNHK大河「光る君へ」をみているだろうか。みている人は、あああの時代かと理解しただろう。

平安絵巻であるから時間はのんびりと流れる。紅白歌合戦のように次から次へと歌が披露されるわけではない。朗詠もろうろうとおこなわれる。一つの和歌が終わって、つぎの和歌がはじまるまで間がある。

毎日分刻みのスケジュールに追われる留学生たちに日本文化がどこまで伝わったであろうか。少なくとも、よい気分転換になったことだろう。みな表情が和んでいる。

2024年3月11日月曜日

「世界遺産 大シルクロード展」@アジア美術館(5)

妙法蓮華経巻第一@1900年敦煌莫高窟出土
妙法蓮華経方便品@1900年敦煌莫高窟出土
妙法蓮華経化城喩品@1900年敦煌莫高窟出土

 今展でいちばん感動したのはこれら。1900年敦煌莫高窟で発見された妙法蓮華経(法華経)。

井上康の小説『敦煌』で主人公趙行徳が、映画「敦煌」で佐藤浩市が戦火の敦煌から命をかけて救い出した敦煌文献の一つである。

法華経は大乗仏教の教え。特別な修行を経た者だけでなく、誰もが平等に成仏できることが説かれている。

方便品は、仏が瞑想から覚めて、それまでの方便(たとえ話)ではなく真実を説く。

化城喩(けじょうゆ)は、化城のたとえ話。長く困難な道のりに、衆生はあきらめそうになる、リーダーはあの城で一休みしましょうといって衆生の気力を回復させるという話。

少女の菅原孝標女は夢をみ、僧侶から法華経第5巻を早く習うよう指導される(更級日記)。しかし、彼女はこれにしたがわない。第5巻には女人成仏を説く部分があるのに。

これら貴重な経典類は莫高窟内の洞窟に隠されていた。誰が、いつ、どのような理由でそのようなことをしたのか?

1900年に敦煌文献が発見されてから誰しもがその疑問をもった。小説『敦煌』は井上靖による、その鮮やかな回答だった。

さきにMIHO MUSEUMでみたように、「光る君」藤原道長も、吉野山金峯山寺に自筆写経を納経している。


きのうの「光る君へ」では、花山天皇を退位させる兼家の陰謀に加担していた。それを懺悔する気持ちもあっただろうか。

百名山の吾妻山連峰には一切経山という山がある。安部貞任が一切経を埋めたからという。経塚山という名の山は全国に数多い。

福岡と佐賀の県境にも、九千部山(くせんぶさん)がある。むかし若い僧が台風と病気に苦しむ村人を救うため、山頂で法華経を一万部読誦しようとした。が、あと千部というところで美しい女に誘惑されて果たせなかった・・・、それが名の由来という。

命をかけて永遠の真理を救出するのも人間なら、一時の誘惑に負けて挫折するのも人間である。