2025年1月17日金曜日

ある離婚事件、財産分与の長き争い

 

 ある離婚事件が解決した。というより、離婚そのものは、1昨年5月に成立していた。長く続いていたのは財産分与の争いである。本件では妻側から依頼を受けていた。財産分与というのは、婚姻後に夫婦で形成・維持した(主に夫名義となっている)夫婦の財産を2分の1ずつに分割・清算することである。

 離婚に際しては、離婚するかどうかのほか、未成年の子がいれば親権者、養育費(離婚までは婚姻費用分担)、面会交流、財産分与(家財道具の分割を含む。)、慰謝料、年金分割など付随的な問題をあわせて解決しなければならない。

 本件では、調停申立後まもなく、離婚すること、親権者を母とすることについては合意ができたので、調停外で離婚届を作成し、市役所に提出した。残る財産分与、慰謝料請求等は離婚と同時でなくともよい。離婚後2年の間に解決すればよいことになっている。

 とりあえず財産分与と慰謝料等の問題解決は先送りして、離婚を成立させることにした。財産分与等の争いがこじれて離婚するかどうかまで紛争化するとやっかいだから。

 協議離婚や調停離婚には理由が必要ない。本人たちが納得しているのであれば、国や裁判所としてはこれを容認する立場である。

 これに対し、裁判離婚には離婚原因が必要である。離婚に応じない相手方に対し無理矢理別れるよう裁判所が命令するのであるから、それなりの根拠が必要である。

 不貞や暴力等は分かりやすい離婚理由である。分かりにくいのは「婚姻を継続しがたい重大な事由」という離婚原因である。結婚してから今日までのありとあらゆる事由が対象となる。夫婦の間のことであるから、確たる証拠がないことがほとんどで、多くは水掛け論となる。勝敗があらかじめ読めない。

 こうしたことから離婚訴訟は長期化し、精神的にも疲弊してしまう。そのため、離婚そのものと財産上の争いを切り離して、個別に解決するほうが望ましいと考える。本件でもそう考え、離婚を先行させた。

 家庭裁判所の家事調停の制度上の欠陥と思うのだが、離婚調停における財産分与等は付随的請求ということになっていて、離婚が成立してしまうと、残る財産分与等の請求だけを調停の対象とはしてくれなくなる。いったん取り下げ、あらためて財産分与調停を申し立てなくてはならない。

 本件では当初、夫もそれほど強い異論はなく、すんなりと解決するかに思えた。そのため、再度の調停申立は行わず、調停外で夫と交渉を行った。そしてほぼほぼ合意ができそうな感じであった。家財道具の運びだしにも応じてくれ、夫が留守のうちに屋内に入り家財道具の運び出しを行っていた。

 紛争にかぎらず人間の心理というか、「空気」の流れというかというのがある。うまく流れに乗ってすんなり解決することがあると思えば、ささいなことをきっかけに関係がギクシャクしてしまうことがある。

 ささいなことといっても、第三者的にみればということである。離婚というのは人生における最大のストレス事象である。そうしたなか、うまくいかなかった婚姻を象徴するようなアイコンに触れてしまうと、逆鱗に触れるというか、あとは大もめにもめてしまうことになる。本件がそうであった。きっかけは妻が夫の結婚指輪まで持ち出してしまったことである。

 結婚指輪の返還、住居内への立入り禁止・鍵の返還、子どもの学資保険の保留、妻名義の預貯金が特有財産であるとの主張、財産分与額の減額請求など、夫の要求はつづいた。

 これに拍車をかけたのが、妻の長期不在・連絡不能な事態である。紛争は解決の機運をうしない、長期化してしまった。問合せをしてもレスポンスがないということが双方につづいた。

 そうして今般、離婚成立からタイムリミットの2年をまえにしてようやく解決した。〆切効果である。紛争というのは生き物であることを改めて感じた次第である。

2025年1月16日木曜日

『同志少女よ、敵を撃て』逢坂冬馬著・早川文庫

 

 『同志少女よ、敵を撃て』を読んだ。逢坂冬馬著・早川文庫刊。2022年本屋大賞受賞作。なぜ、いまごろ?文庫になったから?

 さいきんの読書生活はジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』とマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』をなんどか周回しているので、直木賞や本屋大賞には手を出さなくなった。

 『同志少女よ、敵を撃て』についてはさらに手を出さなかった理由がある。同作が2022年本屋大賞を受賞したことはもちろん知っていた。が、それが独ソ戦におけるソ連軍側狙撃兵の話であることから、時期が悪すぎる。本屋大賞の発表は毎年4月であるところ、同年2月にロシアがウクライナに侵攻していたから。

 それではなぜいま読んだのか?年始、羽田空港を利用した際、出発までと機中での時間を潰す必要があったから。

 当時ジョイスの第4巻を読んでいた。これは旅のお供としては重すぎる。芭蕉の紀行文集を持参したものの、ひととおり読み終えていた。空港ではすこし軽いものを読みたかった。

 まずいつもの第一ターミナル2Fのブックストアへ向かった。・・・ない。別の店になっていた。福岡でも書店がつぎつぎと閉店している。当然あると思っていた書店がなくなっていたときの喪失感は半端ない。Amazonだよりの日常を反省した。

 空港コンシェルジュのお姉さんに尋ねると、地下1階に山下書店があるという。2Fから3フロアをくだり、そこであれこれ物色した結果が、本作である。待ち時間が長かったこともあり、一気読みしてしまった。

 2001年の映画『スターリングラード』をみたことがある。スターリングラード攻防戦を舞台に、狙撃手の孤独な戦いや好敵手との心性戦を描いたもの。背景、舞台や道具立ては予想どおり同作とほぼ一緒である。

 しかしそこは現代日本の作家が描いたもの。戦争だからしかたがないというロジックは採用されていない。なぜ生きるのか、なぜ戦うのか、なぜ狙撃なのか、敵とは誰なのか、戦争が終わったらどうするのかという問いが繰り返し発せられ、回答される。

 前半それはややクドく感じられるものの、後半になってそれらの伏線がひとつひとつ着実に回収されるさまは見事。

 現代日本に生きるわれわれも、なぜ生きるのか、なぜ働くのか、なぜいまの仕事なのか、敵は誰なのか、リタイアしたらどうするのかを繰り返し問いながら生きている。したがって、作中の登場人物たちの回答に納得するもしないも各人の立場と価値観によるだろう。

 予想されたこととはいえ、同作や同作を本屋大賞に選定した人たちが、戦争の惨禍やロシアの侵略を是認する立場ではないことを知って、ホッとした。

2025年1月15日水曜日

新春登山@宝満山(2)難所が滝(河原谷の大つらら)

 

 宝満山山頂からどうするのか。一般的には竈門神社へくだって戻ることになる。しかし宝満山にはこの時期だけしかない楽しみがある。メンバーのなかには徹夜明けの者もいて、楽なコースにしたかったのだけれど、怪鳥の鶴の一声で難所が滝へくだることに。

 宝満山は花崗岩の山である。こんな大きな花崗岩の塊が太古、地中深くでマグマが固まり、地上へ浮上してきた結果だという。地質学の常識であるが、ちょっと信じがたい気がする。ともあれ、宝満山の山頂はむきだしの花崗岩の岩塊となっている。

 難所が滝をめざすには、山頂の北西側からこの花崗岩の急な斜面をくだっていかなければならない。雪でおおわれているので、冬場はいつも以上に緊張を強いられる。が、三点確保を心がければ危険ではない。


 しばらく行くとさっき山頂から眺めた仏頂山の山頂に達する。ここらあたりは、正面登山道のスギやヒノキの植林帯とちがい、ブナやアカガシなどの広葉樹におおわれている。他の季節もよいが、雪化粧をすればもっとよい。


 仏頂山をくだったあたりからしばらく、気持ちのよい尾根歩きである。雪の女王の王国に迷い込んだかのような美しい絶景がつづく。

 長崎鼻を越えると道はふたたび下りになり、鞍部まで来ると左手にくだる道とT字路となっている。河原谷へのくだりである。難所が滝へはここをいっきにくだっていく。 


 難所が滝。氷瀑である。例年2月ころが最大となる。この日は最大状態の7割程度だったろうか。行きかった人々の話によると、午前中は大混雑だったそう。


 全体として大きなつららになっている。河原谷には、すこしくだったところに小さなつららもあるので、河原谷の大つららともいう。大つららといっても、近寄るとたくさんのつららでできていることがわかる。

 ここからは宝満山方面へ登り返してもよいのであるが、徹夜明けのメンバーもいたので宇美町側・昭和の森へくだった。年初から楽しい山行だった。

2025年1月14日火曜日

新春登山@宝満山(1)


 新春、宝満山に登った。古代からの霊山で、国指定史跡。遣唐僧らも博多から出航するまえ、本山にて渡航安全を祈願した。伝教大師・最澄が籠もって修行したという石窟もある。

 新春登山は、弁護士ら10人の集まりである怪鳥会の恒例行事。怪鳥会は結成14年であるので、15回目である。インフルエンザ感染、歯の治療や仕事などの他用が重なり、ことしはやや寂しく4人の参加であった。

 数年に1度、積雪をみる。ことしは当たり年だ。一の鳥居をすぎたあたり。うっすらと積もっている。雪が積もると山の景色も一変、美しい。


 百段ガンギ。五合目をすぎたあたりから積雪量がます。軽アイゼンもしくはチェーンスパイクを装着する。つぼ足でも行けそうであるが、やはり装着したほうが心強い。軽アイゼンを装着した女性が下山してきて、われわれとすれ違いざま転倒した。


 左に馬蹄岩。仙崖和尚(江戸中期、臨済宗の禅僧・画家、博多聖福寺の往寺)の揮毫した文字が岩に刻まれている。

 玉姫降神則山谷鳴震動
 心蓮登座則天華飛繽紛

 玉姫はタマヨリ姫。宝満山のご神体・ご祭神である。心蓮上人は天武天皇白鳳時代の僧で、宝満山を開山。

 かれが宝満山に登ったところ、タマヨリ姫が降臨、山谷が鳴震動し、天華が繽紛と飛んだという。この時代、神仏習合・本地垂迹の考えであるから、僧が神を感得しても問題ない。


 宝満山頂は830メートル。竈門神社の上宮や拝礼岩が鎮座している。

 拝礼岩の先から東北方に仏頂山869メートルをのぞむ。山頂には石の祠があり、中には心蓮上人像が安置されている。

 仏頂山の東山裾にはガスがかかっていて神秘的。水墨画のようである。

2025年1月10日金曜日

雪の朝

 




 今朝の事務所の様子。1センチメートルほどの積雪だろうか。今期初の積雪である。雪化粧とはよくいったもので、街はいつもとちがう粧いである。

 高校卒業時、化学の先生に、福岡の大学へ行くことになりましたと報告したところ、福岡は暖かくていいよねといわれた。先生は頭のなかで、宮﨑県のフェニックス並木かなにかを思い浮かべておられたようだ。

 しかし、福岡はれっきとした日本海側気候である。大陸の寒気の影響を受け、冷たい北西の季節風が吹き付ける。宮﨑とは異なる気候である。

 大陸の寒気は日本海をわたる間に大量の水分を吸収する。そして日本の山々を這い上る際、大量の雪を降らせる。日本が世界有数の豪雪地帯であるのは、日本海の存在があるゆえである。飛行機で上空からシベリアの大地をながめても雪がそれほどみられないのは、この理由である。

 筑紫野・太宰府のあたりは、低山ながらも北を四王寺山、東を宝満山、南を天拝山に囲まれているので、福岡市内より1度以上は気温が低く、積雪をみる機会が多い。事務所の周辺での積雪に恐れおののいて重装備で裁判所にでかけたら、福岡市内はカラリと晴れて雪がなかったということがよくある。

 台風等の場合のわが事務所の出勤基準は、西鉄電車が動いているかどうかである。西鉄電車が運休すれば、事務所も休みになる。台風のとき午後2時から運行休止などとアナウンスがあると、仕事は午前中で切り上げることになる。

 本日は、残念ながら?西鉄電車が正常に運行していた。街をいそぐ出勤途上の歩行者も多い。一般の会社はどこも休業にはならなかったようだ。残念、いやもとい、よかった。よしきょうも一日がんばろう。

2025年1月9日木曜日

ボードゲーム「カタン」で盛り上がった年末懇親会

 

 年末のご用納めは毎年、大掃除、事務所会議、リクレーション、そして忘年会の流れになっている。リクレーションとしては、以前はボーリング、映画鑑賞、観劇などだったが、このところは講師にお願いして陶芸・絵付け、盆栽や書画などの教室を開催していた。

 今年(昨年)はどうしようとなったときに、当初は博多禅寺めぐり&クイズラリーの企画が提案された。が、年末の寒いときにウロウロするのはいかがなものかという意見もあって、ボードゲーム大会をやることになった(事務所では以前、ボードゲーム研究会を立ち上げたり、ボードゲーム喫茶を訪問したことはあった。)。

 幹事さんたちでいろいろ話しあってもらって、ボードゲームは「カタン」をやることになった。「カタン」は無人島に流れ着いた3~4人が開拓地から道路を延ばし都市を建設する陣取りゲームである。開拓地1ポイント、都市2ポイントなどポイントを獲得していって、10ポイント先取した者の勝利である。

 開拓地は、小麦、レンガ、材木、羊、鉄鉱石という資源に接していて、サイコロを2つふって目が出たところに接する開拓地が資源を獲得できる。そしてある組合せの資源がそろうと道路や都市を建設することができる。

 などなどだが、単純な陣取りゲームではない仕掛けがいくつも施されている。

 参加メンバーは、弁護士8人に事務局10人、子ども2人を入れたところから、欠席者を引いて総勢16人。

 4人ずつ4つのグループに分かれて第1ゲームをやり、その後メンバーを入れ替えて第2ゲームを行う。先に述べたとおり、10ポイント先取した人の勝ちなのだけれども、勝利しなかった人にもゲーム終了時のポイントがカウントできる。2ゲーム終了後の合計ポイントで順位を決め、順位に応じた景品をだすことになっていた。

 「カタン」を持っているメンバーは3人だけだったので、あと一つは幹事さんに買ってもらった。ありがたい。景品は弁護士がいただきものなどを持ち寄った。

 ゲームをやったことのない人のために、事前練習会が開かれた。自分は他用があったため参加できなかったが、異様な盛り上がりをみせたという。翌日にも参加者たちの興奮冷めやらぬ様子だった。

 「カタン」は要領を得ないと時間がかかってしまう。そこで第1試合は、ルールを知っている経験者を4つのグループに配置することになった。

 自分も「カタン」を一つ持っていたので、この経験者に入れられた。しかし最後にやってから5年くらい経っていて、ルールもうろ覚えである。事前に一度持ち帰り、説明書を熟読、プレイしてみてなんとかゲームのルールを頭に入れた(それでも、当日、2つほど大きな勘違いがあった。)。

 グループ分けは、小麦、レンガ、材木、羊カードのくじ引きで決めた。第1ゲームのわがグループは、レンガをひいた人が集まった。自身のほか、ゲームを経験したことのない弁護士が3人だった。

 このゲームは楽勝で、あっさりと10ポイント先取した。カタンは運と実力が半々といわれる。しかしシロウトに負けるわけにはいかない。

 第2ゲーム。弁護士2人、事務局2人のグループだった。まずは自分が先行して、最長交易路(5個以上の道路を建設すると取得できる。2ポイント)を取得して、勝利まであと1ポイントとなった。

 するともう一人の弁護士である富永弁護士が鉱山を押さえていて猛追し、最長交易路を奪われた。するとすかさず自分もこれを奪い返した。するとまたまたこれを奪われた。なに~と思って奪い返そうとしたが、両端が塞がっていてこれ以上道路を延伸することが不可能になってしまった。

 自分が7ポイント、富永弁護士が9ポイントである。こうなると、残りの3人で富永弁護士が勝利しないよう邪魔しにかかる。「カタン」には資源の交換という制度があるのだが、富永弁護士との取引には一切応じないのだ。

 そうこうするうちに、他の事務局メンバーも猛追し、全員が9ポイントになってしまった。もう誰が勝利してもおかしくない。他の3グループがとっくに終了したなか、わがグループだけ延々とゲームをつづけた。

 そうしたとき、サイコロ目にめぐまれ手札をたくさん持っていた富永弁護士がようやくゴールした。富永弁護士がゴール前でもたもたしたおかげで、他の3人も全員9ポイントを獲得することができた。なかなか奥の深いゲームである。

 結果、井上弁護士の子どもが幼いながら計21ポイントで第1位。当職は計19ポイントで第2位だった。景品はお米券だった。「ふう。これでなんとか年が越せます。」第2ゲームの他のメンバーも高得点となり、上位入賞をはたすことができた。

 とても盛り上がり、懇親も深まるよい時間を持つことができた。めでたしめでたし。さあ忘年会場へ移動しよう。

2025年1月8日水曜日

土佐日記(6)高知城歴史博物館、寺田寅彦記念館

 

 高知城南側の坂を下っていたら、後ろのご婦人から声をかけられた。「いまから、ひろめ市場ですか?」「いいえ。昨夕行ったのですが、人が多くて。」「それは残念。」・・・

 訊けばお城でのお仕事を終え、帰宅途中だそう。お城について、あれは石樋ですよ、あれは矢狭間ですよ、あれは忍びが入り込まないようにする設備ですよなどと詳しく教えてくださる。

 高知人はみな人懐っこく親切だ。仕事を終え、疲れて帰るところだから、別に観光客に親切にしたりもてなしたりする必要はない。しかし仕事を離れても、自分の職場である高知城、その他高知の観光施設をあれこれご案内せずにはいられないようだ。ほっこりする。


 つづいて向かったのは高知城歴史博物館。高知県の歴史を近世、近代を中心に展示している。

 土佐藩主山内家伝来の家宝がベースになっているので、甲冑などの武具のほか、意外なことに国宝「古今和歌集巻第二十 高野切」も所蔵している。高野切は、平安時代のもので、ひらがなで書かれている。墨の濃淡や文字の配置が美しい。


 兎耳形兜(うさぎみみなりのかぶと)。自己顕示欲の強い戦国期のおじさんたちの美意識は独特である。このような形のヘルメットをかぶって槍穂高に登れといわれてもご免こうむりたいが、当時はきっと憧れと賞賛のマトだったのだろう。


 歴史館のあとは、城をはさんで反対(北西)側にある寺田寅彦記念館へ。寅彦は物理学者、随筆家、俳人。

 高知県出身で、4歳から19歳までこの家ですごした。大半は空襲で焼けたが勉強部屋は焼け残ったのだとか。
 
 熊本五高時代、夏目漱石と出会い、終生師と仰いだ。きのうだったか、NHK10min.現代文で夏目漱石の寅彦への手紙が紹介されていた。


 ちなみに高知ではいま、やなせたかしの幟が多数はためいている。2025年前期のNHK朝ドラ『あんぱん』のモデルだから。やなせたかしも高知育ちである。牧野博士の『らんまん』につづく観光需要を見込んでいるのだろう。

 それでいえば『あんぱん』のヒロイン・朝田のぶ役は福岡出身の今田美桜である。だが福岡ではここまでの盛り上がりは見られないようだ。橋本環奈の『おむすび』につづいてのことだから、必要性がとぼしいのだろうか。なんともぜいたくなことだ。


 寅彦が俳人だったゆかりだろう、この日も句会がもよおされていた。ちかくにこのような場所があり句会に参加できるとは、なんともうらやましいことだ。

 スタッフのかたから「なにゆえに福岡から?」と尋ねられた。「知人にファンがいるもので。」と回答したが、釈然としないようだった。「変わった人なんです。」とさらに言うと、ようやく合点いったという顔をされた。寅彦の名を知る人が減っているのだろう。


 帰りの高知空港までのバスははりまや橋発だったので、くだんの名所にもご挨拶。ご存知、日本三大がっかり名所の一つ(ちなみにあと2つは、先日訪れた札幌時計台と長崎のオランダ坂である。)。

 さらにがっかりなことに工事中だった。世界三大がっかり名所の一つマーライオンにならってスケールアップするわけではないようだ。

 紀貫之は土佐日記の結び、荒廃した都の家で過去をしのんでいる。自分は工事中のはりまや橋でこの旅の思い出を振り返ろう。