2017年12月26日火曜日

法定利率(2)~民法改正,筑紫野市の弁護士の解説(4)


              (宝筺院)

 高利貸しに関しては,まず,暴利行為として公序良俗(民法90条)違反により無効だとする判例があります。いわゆるヤミ金による貸金が暴利行為として無効であるのはこのためです。さらに,ヤミ金からの借金は不法原因給付として返済不要でもあります。

 つぎに,高利貸しは,いろいろな潜脱方法が考えられてきました。古くは芸娼妓契約に関する判例があります。親がまず借金をします。この借金を娘が芸者・娼妓として働いた賃金のなかから返済するという契約です。別々に考えれば,ありそうな契約です。が,実態は人身売買であり,公序良俗違反により無効です。

2017年12月21日木曜日

『熊野』


              (祇王寺)

 写真は祇王寺の庭です。竹林と広葉樹が接しています。竹林は嵯峨野らしいですし,紅葉も小倉山らしい。両方のハイブリッドです。祇王寺の名前は平家物語にある祇王の悲しい話に基づいています。祇王は平清盛に寵愛された白拍子でした。あるとき飛びこみ営業にきた仏御前に情けをかけたことから追い出されることになりました。嵯峨野で出家・隠棲しますが,清盛からさらなる辱めをうけます。世をはかなんで仏事にはげんでいたところ,仏御前がたずねてきて和解します。寺は,このような祇王や仏御前らの像などをつたえています。

 先日,能を鑑賞する機会がありました。大濠能楽堂で。知人のご招待です。演目は『熊野』。これを「くまの」と読んだら,能の知識がないこを暴露することになります。「ゆや」と読みならわしています。熊野は宗盛の愛妾の名前で,能の主役・シテです。

 この謡曲のもとネタはやはり平家物語で,「街道下」の巻のなかにあります。
 一の谷で捕らわれた平家の重衡が鎌倉に連行される途中のエピソード。重衡は単なる戦争犯罪人というだけでなく,奈良の東大寺などを焼き討ちした重大犯罪人であり,鎌倉では死刑を言い渡されることが見込まれています。

 道中池田の宿で,重衡は,熊野と宗盛の由緒をきかされます。ときは平家の全盛期,東国(池田の宿)に住む母が病気になったので帰りたいと熊野が申し出たにもかかわらず,宗盛はこれを許しません。そのとき,熊野が詠んだのがこの和歌。

  いかにせん 都の春も 惜しけれど
          馴れし東の 花や散るらん

 この和歌はこれだけで平家の貴公子・重衡の境遇に照らし,涙をさそうものがあります。

 でも,この和歌で詠まれ,花や散るらんと心配されているのは病気の母のことです。作者はこのエピソードをふくらませて,『熊野』の世界をつくりあげています。京都,清水寺に至る春爛漫の情景,それが華やかであればあるだけ熊野の内心の苦悩がいっそう際立つという構成です。
 見事というほかありません。 

2017年12月19日火曜日

法定利率(1)~民法改正,筑紫野市の弁護士の解説(3)


         (嵯峨菊,大覚寺門外不出の)

 利子・利息。
 これほど庶民を苦しめてきたものはないと思われます。

 古くは出挙(すいこ)。日本史の教科書にでてきました。
 古代の貸付けの一種。公私2種あり,公出挙と私出挙です。公出挙は,春,国司(いまの県知事)が官稲を貸し与えたもの。秋の収穫のときに3~5割の利息をつけて返納しなければなりませんでした。つまり,春に米1キロを借りて秋に米1.5キロを返すということです。約半年の利息ですから,年利に換算すると60~100%になります。当初,勧農,救貧が目的であったものが,後には,貸付けも強制的になり,税となったとか。私出挙は営利目的で,利息は10割だったとか。つまり,年利200%です!

 中高校生のときこれを読んでも,文字づら以上のことはわかりませんでした。しかし,いまならわかります。むちゃくちゃ高利だったんだなぁと。

 いまなら「利息制限法」という法律があります。これによれば,次のとおり利息が制限されています。
 金銭を目的とする消費貸借上の利息の契約は,その利息が次の利率(単利)により計算した金額を超えるときは,その超過部分につき無効です(法1条1項)。
 ・元本が10万円未満の場合,年20%
 ・元本が10~100万円未満の場合,18%
 ・元本が100万円以上の場合,15%

 「利息制限法」は民事上の制限ですが,さらに「出資の受入れ,預り金及び金利等の取締りに関する法律」(出資法と略します。)があり,同法は年109.5%を超える金利について犯罪であるとして刑事罰の対象にしています。

 高利貸しという言葉があります。まるで蛇蝎のようなイメージです。古代においては国からして,いまなら犯罪になるような高利貸しだったわけです。当時の農民はたいへんだったでしょうね。

2017年12月18日月曜日

『雪国』と『おくの細道』と銀河


 山歩きをしていると,高山植物や山岳の美しさだけでなく,真っ赤な日没,日の出,流れる雲,キラキラする空気や天空の美しさにも心を奪われます。

 山小屋に泊まると,夜中にごそごそ起きだす人たちがいます。用をたしにいくのかと思いきや,外できゃーとか言っています。なにをしているのかというと星空を嘆賞しているのです。もう満天の星空,降るような星々です。忘れていた子どものころの記憶が鮮やかによみがえります。

 こんかい『雪国』をよみかえしてみて思ったのは,能の理解による読みの気づきだけではありません。人間ドラマの背景として描かれている自然の美しさにも瞠目しました。上越国境の山々,雪山の美しい情景は見たことのある人とない人では,やはり感動のしかたがちがうと思います。そして芭蕉の句のあざやかな援用。悲劇的な結末の場面。

 「天の河。きれいねえ。」
 駒子はつぶやくと,その空を見上げたまま,また走り出した。
 ああ,天の河と,島村も振り仰いだとたんに,天の河のなかへ体がふうと浮き上がってゆくようだった。天の河の明るさが島村を掬い上げそうに近かった,旅の芭蕉が荒海の上に見たのは,このようにあざやかな天の河の大きさであったか。裸の天の河は夜の大地を素肌で巻こうとして,すぐそこに降りてきている。恐ろしい艶めかしさだ。島村は自分の小さい影が地上から逆に天の河へ写っていそうに感じた。天の河にいっぱいの星が一つ一つ見えるばかりでなく,ところどころ光雲の銀砂子も一粒一粒見えるほど澄み渡り,しかも天の河の底なしの深さが視線を吸い込んで行った。
                         『雪国』より

2017年12月15日金曜日

ワキとしての弁護士


        (二尊院の紅葉,後ろは小倉山)

 師走ものこりわずか。毎日が忘年会で,走り回っています。

 考えてみれば,われわれ弁護士の仕事も能のワキのようなものかもしれません。顧客さまであるシテ(仕手)に出会い,シテが謡い・舞うことを見守り,波立つ心情が鎮まっていくのを見届ける・・・。
 ワキとしての手腕は,シテが存分に謡い・舞い,鎮まることをどこまで支援することができるか,どこまで満足していただけるかということだと思います。

 昨夜は弁護士会議のあと,ちくし法律事務所の新人弁護士,向井悠人くんの二回試験合格祝賀会・歓迎会でした。期待の新人のご紹介はおって。乞うご期待。

2017年12月14日木曜日

『ニュー・シネマ・パラダイス』と『雪国』と能


 一人息子(高校生)がいる女性と『ニュー・シネマ・パラダイス』の話題となった。その人によると,あの映画をみるときには,主役の映画監督ではなく,映画監督の母親の視点でみてしまうのだそうだ。

 そのときは,それはかなり変則的な見方ではなかろうかと思った。映画は(小説などでも)観客が主役に感情移入して観るものであり,そうならなかったとしたら,作者なり制作者の失敗ではないだろうか。でもまぁ,映画なんて楽しんでなんぼだから,息子がいる母親が,話中の母親に感情移入して楽しむのもありかなぐらいに思った。

 しかし,今般,認識をあらためた。フェイスブックでやりとりをするなかで『雪国』が話題になったので,あらためて読みなおしてみた。これまでには気づかなかった点に,いろいろ思い当たった。なかでも,主人公と思っていた島村に関する注解(郡司勝義,新潮文庫175頁)。川端康成「島村は私ではありません。男としての存在ですらないようで,ただ駒子をうつす鏡のようなもの,でしょうか。」(昭和43年12月『雪国』について)。能でいえば駒子のシテに対するワキといえようか。

 能を知らなければ,この注解は意味不明だろう。少しでも囓れば,明白である。能における主役はシテである。この世に未練を残し,成仏できない霊的な存在であることが多い。これに対するワキは,諸国一見の僧であることが多く,シテを呼びだし,その鎮魂を行う存在である。つまり,主役は駒子(その純な生きざま)なのである。島村は彼女とその渦巻く感情を呼びだし,その純粋さを読者に伝える存在にすぎない。それであれば,島村に感情移入しているだけでは大事なことが見えない。このように理解して『雪国』を読めば,いろいろなことが見えてくるし,理解できるところもでてくる。なるほどなるほど。

 そういう立場に立てば,『ニュー・シネマ』についても,母親を主役として鑑賞することもあり得るように思えてきた。むしろ日本人の見方としては多数派なのかもしれない。少なくとも,伝統に忠実な見方といえるかもしれない。あるいは,企業などで社長型と参謀型・秘書型にパーソナリティが分かれるとすれば,後者の人たちはこのような鑑賞のしかたをしているのかもしれない。
 
 西欧人には主体性があるが日本人には主体性がないとかいう議論も,少なくとも中世以来のこのような日本人の心性と深くかかわっているのではなかろうか(飛躍しすぎ?笑)。

2017年12月13日水曜日

太宰府ロータリークラブ,2017年忘年家族懇親会


 昨日は,太宰府ロータリークラブの2017年忘年家族懇親会でした。西鉄グランドホテル2Fプレジールにて,18時30分から。

 ロータリークラブの役職は単年度制なので,会長として最初で最後の忘年家族懇親会です。

 インターアクトクラブの顧問の先生がた,米山奨学生のほか,会員の家族をお招きしました。それで,忘年「家族」懇親会です。

 以前,ある女性のお客さまが当クラブで講演された際,男性会員ばかりだったので,男社会ですねぇとおっしゃったことがありました。私もずっとそうなのかと思ってきました。

 ところが,先日考えをあらためることがありました。次年度の役員をお願いする際に,会員の事業所を訪問しました。どの会員も立派な経営者なのですが,妻の承諾がないと承けられないと回答されるのです。わがクラブのメンバーにおいては,配偶者の意向を無視して活動ができないことを痛感しました。

 ということを会長あいさつで話しました。が,あまりウケませんでした。みなさんにとって,あまりに当たり前のことでオチが分からなかったか,あまりに恐ろしい論点で触れられたくなかったのか・・。

 ま,会長としてのお仕事もあと半年です。最後まで大過なくやりとげたいと思います。