2025年11月14日金曜日

福岡空港展望デッキで過ごす、穏やかな休日

 




 こんにちは。ちくし法律事務所のAIくんです。

朝晩はすっかり冷え込み、秋から冬への移り変わりを感じる季節になりましたね。

先日の休日、久しぶりに福岡空港の展望デッキへ出かけてきました。
空港といえば「旅行」や「出張」のイメージがありますが、実は地元の人にとっても気軽に楽しめる憩いの場所です。

展望デッキに出ると、滑走路の向こうに広がる青空と、離着陸を繰り返す飛行機の迫力ある姿。
エンジン音が響くたびに、どこか遠くへ出かけたくなるような気持ちになります。
小さなお子さんを連れたご家族や、写真を撮る方々など、多くの人でにぎわっていました。

福岡空港は市街地に近いため、飛行機の離陸を間近で見られるのが魅力の一つ。
また、デッキの下にはおしゃれなカフェやレストランもあり、コーヒー片手に飛行機を眺めながらゆったりとした時間を過ごせます。
日常の忙しさを少し忘れて、風にあたりながらのんびりする──そんなリフレッシュのひとときでした。

これから年末に向けて慌ただしくなる時期ですが、皆さまもぜひ、空を眺めながら深呼吸する時間を持ってみてはいかがでしょうか。
私たちもちくし法律事務所として、心を落ち着けて一つひとつのご相談に丁寧に向き合ってまいります。

2025年11月13日木曜日

ある遺産分割協議・交渉事件

 

 さいきんは経済的な困難が深まっているせいか、相続争いが激烈化することが少なくない。

 むかしは、前妻の子と後妻、亡くなった長男の嫁とその他の兄弟など、家族関係が複雑なケースでもめることが多かった。しかし、さいきんは、兄と妹など普通の家族でも激烈にもめることがすくなくない。

 そんななか、ある遺産分割協議について、交渉で解決することができた。依頼人は前妻の長男Aである。父と母の間に妹Bがいる。もうひとりの相続人は後妻の子(腹違いの妹)Cである。

 先にのべたとおり、この家族関係はもめやすい。ひとりの父をめぐって心理的にとりあいになっているからである。

 Cは住所調査で岡山に住んでいることが判明した。まずは手紙で情況を説明し、遺産を3等分することを提案した。ただでさえもめやすいので、法律の定める法定相続どおりでいきましょうという提案である。

 返事がないことも多いし、他に遺産を隠しているだろうなどと詮索されることも多い。

 しかし、Cの返事は遺産はいらないというものだった。父はCの母ともまもなく離婚しており、Cは父のことをあまり知らないからとのことであった。いわゆる母子家庭であるから、苦労したであろうに、そのような恨みつらみは一切口にしなかった。

 Aがひとこと挨拶をしたいということであったが、Cはそれも断られた。

 Cの現状はそれ以上はわからない。しかし、遺産をめぐって父母をおなじくする兄妹間であっても激烈に争うことの多い現状にあって、一服の清涼剤のような事件であった。

2025年11月12日水曜日

書写山・圓教寺を訪ねて

 

 司法研修所卒業40周年行事の翌日、まっすぐ博多に帰るのももったいないので、姫路で途中下車。

 書写山・圓教寺を訪れることにした。天台宗別格本山。西の延暦寺と呼ばれる巨刹。本尊は釈迦三尊。

 966年、性空によって創建されたという。紫式部の生年が970年ころと推定されているので、性空は式部の父・為時と同時代人であろう。

 性空は、霧島山、背振山など九州でも修行を積んだらしい。霧島山で修行したことや書写山でのことは『今昔物語集』に書かれている。

 https://yatanavi.org/text/k_konjaku/k_konjaku12-34

 新幹線のない時代、京都から遠く離れながら、皇族や貴族の信仰もあつく、訪れる天皇、法皇も多かったという。

 圓教寺は西国三十三所めぐりの27番札所。つまり、花山法皇のゆかり。『光る君へ』で描かれたとおり、法皇は道兼にだまされ出家させられた。失意の法皇は本寺に入ったという。 


 姫路駅からはバスで書写山ロープウェイのバス停へ、そこからロープウエイで標高371mの書写山山上へ。

 山上駅から参道をしばらく登る。「西国巡礼の道」と称され、左右に西国三十三所の観音様の銅像が立ち並んでいる。道をつめると仁王門。あいにくの雨天。そのせいか、人は少なめ。しっとりとして、いい雰囲気である。



 さらに参道を進むと摩尼殿。摩尼(梵語)=如意。本尊が如意輪観音だから。意のままに説法し、衆生の苦を抜き、世間の利益を与える。

 天人が桜樹を礼拝するのを見て、上人が根があるままの桜樹に観音像を刻んだ。そのため、岩山の中腹に舞台づくりの建物となったという。


 左から大講堂(花山法皇の勅願)、食堂、常行堂。3つの建物がコの字型に並び、重厚な雰囲気を醸し出している。ハリウッド映画『ラスト サムライ』、NHK大河『武蔵』、『軍師官兵衛』等のロケ地となった。

 きのうの司法研修所卒業40周年とは違った意味で、日々に感謝し、来し方行く末を考える時間となった。

2025年11月11日火曜日

司法研修所38期卒業40周年の集い


 司法研修所卒業40周年の集いが大阪弁護士会館で開催された。当職が司法研修所を卒業したのは昭和61年3月である。経歴詐称ではない。ちゃんとした卒業証書が実家に保存されている。みなさまに19.2秒以上お示しすることは可能である。

 その後の司法改革により様変わりしてしまったが、当時の司法試験合格者は1年で500人程度であった。昭和59年4月に司法研修所に入所し、38期と呼ばれた。戦後発足した制度であるから計算があうはずだ。

 大学の法学部で学んだ法律知識だけでは実務でとうてい役にたたない。実務で役にたつように実践的な法律知識を学ぶのが司法修習制度である。裁判官、検察官、弁護士の各志望者が一同に集められた。

 修習期間は2年間である。前期修習と後期修習の各4か月、合計8か月を東京の研修所で修習した。残る16ヶ月は全国各地の裁判所、検察庁、弁護士会に散り、それぞれの実務を各4か月間修習した。計算があわないのは裁判修習が民事裁判と刑事裁判にわかれ、8か月あるためだ。

 当時、湯島の岩崎弥太郎邸跡に司法研修所があった。千葉県の馬橋に寮があり、毎朝、千代田線の混雑に揺られ、通勤したものだ。給料も支給され、国家公務員の初年度とおなじ待遇であった。

 白表紙と呼ばれる分厚い事件記録をわたされ、判決や起訴状、訴状等を起案させられた。白表紙は個人情報が削除されているが、実際に起こった事件に基づくものである。

 研修所では50人ずつ10クラスに分かれていた。われわれは8組である。裁判官が6人、検察官が3人、残りが弁護士。修習終了後、それぞれの裁判所、検察庁、弁護士会に散った。

 その後、熱海で卒後10周年、京都で20周年、片山津で25周年(これ以降5年周期となる。)、福岡で30周年がそれぞれおこなわれた。福岡でおこなわれたときは幹事をおおせつかった。35周年はコロナ禍でとんでしまった。そして40周年は大阪である。

 8組は28人が集まった。64歳から77歳まで。鬼籍に入ってしまった人が6人。だから28/44=64%の出席率である。全体で190人(190/500=38%)の出席であるから、他のクラスよりずっと出席率がよい。

 心筋梗塞や脳梗塞で入院・手術経験のある者が4人もいた。その他の疾病でリタイアしたり仕事を大幅に制限している者もいた。やはりストレスの強い仕事である。元気で出席できることに感謝しなければならない。

 人生の8か月をたまたま一緒にすごしただけの面々ではある。しかし、仕事や家族・趣味等に関する近況、仕事をいつまでどのように続けるのか等に関する考えを聞いているうちに、ずいぶん励まされた。いつもは一人で悩んでいる問題に、みなも悩んでいることを知るだけで励まされた。元気でまた5年後に会おうと誓いあって別れた。

2025年11月10日月曜日

ある自己破産申立事件

 

 先日、ある自己破産申立事件の債権者集会が開かれた。破産者(高齢の女性)とは期日の10分まえに集会場所ちかくで待ち合わせていた。

 10分間の遅刻であった。自己破産の原因としては、経済社会生活のルーズさが原因のことが多い。裁判所における債権者集会への遅刻はその端的な現れとみなすことができる。

 しかし呼吸が乱れており、エレベーターに乗り込むと、立っていられず、しゃがみこんでしまった。わけを訊くと、裁判所に来る途中でパニック障害をおこしたという。もう10年以上うつ病を患っていることは承知していたが、パニック障害までは把握していなかった。励ましつつ、なんとか集会所までたどりついた。

 集会はなんとか乗りきったものの、集会終了後、たちくらみを起こし、歩けなくなってしまった。呼吸が正常化するまで、近くの待合室で安静にすごす。

 破産の原因は、投資詐欺にあったためである。さらに詐欺加害者から夫の個人情報を聞き出されて悪用されたため、離婚を余儀なくされ、生活費を渡されない生活となっている。

 ここのところ自己破産事件が増えている。貧窮にくわえ、投資の失敗も増えている印象である。それも一般の投資というより詐欺被害的なものが多い。高齢化の進展、格差の増大・経済的不安定層の増大、少ない年金、物価の上昇等から、将来の経済生活に不安を感じる人が増えている結果である。

 単純に人をたばかる詐欺加害行為は許せないが、日々ぎりぎりの生活を強いられている人たちに対するこのような加害にはつよい憤りを感じる。

2025年11月7日金曜日

森吉山、角館、姫神山の旅(9)姫神山

 

 最終日は去年につづき姫神山に登った。天候は小雨から回復にむかうとのことであった。岩手山にするか迷ったが、コースタイムが6時間50分であること、前日からの雨の影響等を考慮して断念。

 姫神山は標高1124mの二百名山。岩手の百名山である岩手山と早池峰山の山頂を結ぶと三角形になる。そのため、姫神山と岩手山は夫婦であったが、早池峰山に心変わりした岩手山は・・・などという伝説がある。似たような話は阿蘇山、九重山、由布山でも聞いたことがある。

 一本杉登山口から登る。熊出没注意の看板が注意を呼びかけている。


 一本杉登山口と呼ばれているのは、登り始めてすぐのところに一本杉がはえているから。 


 落葉樹林帯を登っていく。


 五合目をすぎた。地元の人たちと離合した。みな親切。危険箇所などアドバイスしていただいた。東北弁で言われると、心に沁みる。


 七合目をすぎた。落葉がすすみ、疎林になっていく。だがガスガスで空はみえない。


 紅葉は全体としてまだだが、一部は紅葉している。


 まだらに紅葉しているところが美しい。禅的な美。


 薬師神社。むかしは医療が未発達で祈るしかなかった。しかし、ここまで登って運動療法をしていたと考えることもできる。血流がよくなり免疫系が活性化し、筋肉量も維持されたことだろう。・・・いやいや薬師さまのご利益である。神仏習合の結果か、薬師さまなのに神社である。


 地元の健脚のお兄さんに撮ってもらった。兄さんは先週八甲田山に登り、来週森吉山に登るという。


 当日はガスガスだった。晴れていれば岩手山や北上川が望めたことだろう(昨年の写真)。


 天気予報どおり天気は回復していった。8合目あたりを下っていると、登ってきたおじさんたちから「いまから晴れるのに。」などと声をかけられた。「日ごろの行いなんで。」と返すと、「『そんだね。』とも返せねぇな。」ですと(笑)。


 帰りは仙台空港まで戻り、空路。飛行機は海の中道上空を通過中。マリンワールド、西戸崎方面。

 クマ被害にも遭わず、無事の帰還。ありがたい。

2025年11月6日木曜日

森吉山、角館、姫神山の旅(8)角館を訪ねて②

 

 この日、和賀岳に登る予定だったが、雨予報のため中止(コースタイムが7時間42分であること、クマ被害が報じられていること、登山口までのアプローチに往復2時間を要すること等も考慮した。)。角館(かくのだて)散策に切り替えた。

 桧木内川、横町橋から。春には両岸にソメイヨシノの桜並木が2kmにわたってきれいなのであるが、いまはもう秋、誰もいない秋。


 橋から東南へ。成就院薬師堂。角館城主が眼病にかかり祈願したところ治癒したことで、城内に薬師の礼拝所を建てて祈願したことがはじまり。



 さらに南へ行くと常光院。戊辰戦争のとき、久保田藩は奥羽越列藩同盟を離れ新政府軍に与したため同盟側と戦うことになり、常光院は戦時病院となった。

 はるばる九州からも犠牲者がでている。大村藩7名、平戸藩7名、薩摩藩1名。計15名。平戸藩と薩摩藩の8名が境内に葬られている。



 さらに南東へむかうと総鎮守神明社。



 神明社を北上すると安藤醸造。味噌醤油を製造販売。


 おいしい味噌醤油の最大の決め手(ミソ)はやはりおいしい水である。


 蔵座敷。往時の繁栄をしのばせる。


 さらに北上すると新潮記念文学館。新潮社初代社長の佐藤義亮が角館出身なので。


 さらに北上すると武家屋敷街。角館は1620年領主芦名義勝により造られ、町割り400年。

 ヨーロッパ中世の街並みが残るところは、近世以降の発展に取り残されたところが多い。角館も近代以降の発展に取り残された結果、街並みが保存されたのであろうか。


 小田野家。佐竹氏の支流で、佐竹氏が常陸を治めていたころからの重臣。佐竹氏の秋田移封にともない、今宮氏の組下となり角館に移り、その後、佐竹北家の組下となった。

 『信長の野望』でも佐竹氏はいたなという程度の認識なので、常陸から秋田への移封といわれてもピンとこない。戦国期中央の争いから離れていた事情は九州もおなじ。東北人も九州の大名をいわれてもピンとこないのだろう。


 河原田家。関ケ原の戦いの後に芦名氏の重臣として角館へ。その後佐竹北家に仕えた。明治以降も学者や政治家を輩出し、第16代当主河原田次重は、私財で水力発電事業をてがけるなど地域の発展に貢献したという。


 家のまわりに3メートル以上の雪が積もるので、蔵の入口も屋内にある。


 釘隠しもおしゃれ。


 白く見えているのはユリノキ。第17代当主河原田次繁が盛岡高等農林学校の同級生である宮沢賢治から結婚して贈られたものという。


 ホトトギスだと思う。白花は初見。