2021年8月31日火曜日

種の浜(いろのはま)

 (色ヶ浜)
(須磨寺)
(敦盛と熊谷次郎直実)
(明石海峡大橋)
 きのうは九大ロースクールのエクスターン生くんが朝8時30分に来たため、投稿できませんでした。きょうこそは。

 十六日、空晴れたれば、ますほの小貝拾はんと、種の浜に舟を走す。海上七里あり。天屋何某といふ者、破籠・小竹筒などこまやかにしたためさせ、僕あまた舟にとり乗せて、追ひ風、時の間に吹き着きぬ。浜はわづかなる海士の小家にて、侘しき法華寺あり。ここに茶を飲み、酒を暖めて、夕暮れの寂しさ、感に堪へたり。

 寂しさや須磨に勝ちたる浜の秋

 敦賀湾は日本海から南にU字型に広く貫入しています。U字の底に敦賀駅があります。そこから、U字の左のラインに沿ってバスで北上します。30分ほどいくと色ヶ浜のバス停に着きます。

色ヶ浜にはことし3月に行きました。当日は北国日和さだめなく、雨でした。夏は海水浴客でにぎあうふうでしたが、その時には侘びしいかぎりでした。まさに須磨に勝ちたる侘びしさ。

須磨は在原行平が蟄居させられた場所。以来、もの寂しい場所の典型となりました。行平はむかしおとこ在原業平の兄です。兄弟で歌がうまく、百人一首につぎの歌が採られています。

 立ち別れいなばの山のみねにおふる まつとし聞かば今帰り来む

行平が須磨にいたことは謡曲『松風』の題材になっています。松風・村雨の姉妹がひとり都に帰ってしまった行平を偲ぶというストーリーです。

行平の須磨蟄居の故事を踏まえ、光源氏が須磨に謹慎しています(『源氏物語』「須磨」)。行平も源氏も、もとは皇族ゆえ、処分といっても須磨蟄居程度で済んでいます。のちに、東国政権から後鳥羽院が隠岐に、崇徳院が佐渡に島流しにされたのとはえらい違いです。

須磨は畿内の外れにあることから、王朝時代まで寒漁村だったのでしょうね。いまは神戸の外れとはいえ市街地になっています。

須磨寺があり、平敦盛が愛用したとされる青葉の笛が所蔵されています。『敦盛』も謡曲になっています。

一ノ谷の戦いに敗れた平家。海上に逃れようとした敦盛を呼び止め、熊谷次郎直実が討ち取ってしまいます。そのとき敦盛は16歳。懐中からは笛が。前夜、平家の陣中から聞こえてきた優美な笛の音は彼のものだったのか・・・。

熊谷は無常を痛感し出家します。芭蕉の脳裏には、行平、松風・村雨、源氏、敦盛、熊谷次郎直実らの物語が去来し、人生の無常が胸を締め付けていたことでしょう。

2021年8月27日金曜日

敦賀

 



 やうやう白根が岳隠れて、比那が嵩現る。あさむづの橋を渡りて、玉江の蘆は穂に出でにけり。鶯の関を過ぎて、湯尾峠を越ゆれば、燧が城、帰山に初雁を聞きて、十四日の夕暮れ、敦賀の津に宿を求む。
 その夜、月殊に晴れたり。「明日の夜もかくあるべきにや」と言へば、「越路の習ひ、なほ明夜の陰晴はかりがたし」と、あるじに酒勧められて、気比の明神に夜参す。仲哀天皇の御廟なり。社頭神さびて、松の木の間に月の漏り入りたる、御前の白砂、霜を敷けるがごとし。
 往昔、遊行二世の上人、大願発起のことありて、自ら草を刈り、土石を荷ひ、泥濘をかわかせて、参詣往来の煩ひなし。古例今に絶えず、神前に真砂を荷ひたまふ。これを遊行の砂持ちと申しはべる、と亭主の語りける。

 月清し遊行の持てる砂の上

 十五日、亭主のことばにたがはず雨降る。

 名月や北国日和定めなき

 白根が岳は白山、奈良大宮ロータリーのご招待で、みなさんと登りました。けれども、ずっと雨で、残念ながら写真はありません。小松のイオンや、勝山駅から見た記憶はあるのですが、写真は見つかりませんでした。すみませぬ。

敦賀はだいぶ京都にちかいですが、なお福井。敦賀湾が南に入り込んでいるため、天然の良港。大陸、日本海にも面し、陸路でも近畿と北国を結ぶ交通の要衝です。

敦賀駅からすこし北に行くと気比神宮があります。

仲哀天皇はヤマトタケルの子で、神功皇后のだんな様。そのため九州ともご縁があり、香椎宮や宇美八幡でもお祀りされています。

遊行上人は、蘆野の柳ー西行の遊行柳の段でもでてきました。一遍上人が創始した時宗の僧のことです。いまは時宗の僧にお目にかかりませんが、江戸期まではたくさんおられたのでしょうね。そして廃仏毀釈までは、ここにあるように、神社に僧が奉仕するということも普通におこなわれていたのでしょう。

気比神宮をさらに北に行くと、金ケ崎城跡があります。ご存じですか。織田信長が浅井長政に裏切られて、北陸の朝倉に挟撃され、絶体絶命のピンチ。秀吉と光秀がしんがりをつとめて、無事難を逃れた場所です。

駅前には『銀河鉄道999』のモニュメントが多数設置されています。そうかそうか、松本零士は敦賀出身か・・・いやまてよ、久留米出身だったのでは。

敦賀は、松本零士とは関係なく、交通の要衝ということで鉄道にちなんでいるそうです。むむむ、我田引水ならぬ我田引鉄・・(以下、自粛)。

この写真をフェイスブックにアップしたら、鉄郎が男前すぎるとのご批判を多数いただきました。すみませぬ。その理由は敦賀市のホームページなどをご覧くだされ。

鉄郎の後ろには999号が見えています。999号を見ると、思い出すのは山陰某駅前のモニュメント。やあ999号と思いきや、これがちがうのだそうです。鉄郎が男前すぎるどころではありません。これこそ我田引水ならぬ我田引鉄・・(以下、再自粛)。

とまれ、岩手でジョバンニ、カンパネルラとともに銀河鉄道に乗車し、宇宙パートで佐渡に横たふ天の川を間近に見てきたわれわれですが、ようやくゴールの大垣が間近に見えてきたようです。

※昨日のクイズの答え。間違いは花の写真、夕顔ではなく昼顔の写真になっていました。アサガオ、ヒルガオ、ヨルガオはみな同じ仲間ですが、ユウガオはウリの仲間です。どこで見分けるのか。アサガオなどは花びらが1つですが、ユウガオは白い花で花びらが分かれています。

2021年8月26日木曜日

福井ー夕顔







 福井は三里ばかりなれば、夕飯したためて出づるに、黄昏の道たどたどし。
 ここに等栽といふ古き隠士あり。いづれの年にか江戸に来たりて予を尋ぬ。遙か十年余りなり。いかに老いさらばひてあるにや、はた死にけるにやと、人に尋ねはべれば、いまだ存命してそこそこと教ふ。
 市中ひそかに引き入りて、あやしの小家に夕顔・へちまの延へかかりて、鶏頭・箒木に戸ぼそを隠す。さてはこの内にこそと、門をたたけば、詫しげなる女の出でて、「いづくよりわたりたまふ道心の御坊にや。あるじはこのあたり何某といふ者のかたに行きぬ。もし用あらば尋ねたまへ」と言ふ。かれが妻なるべしと知らる。
 昔物語にこそかかる風情ははべれと、やがて尋ね会ひて、その家に二夜泊まりて、名月は敦賀の港にと旅立つ。等栽もともに送らんと、裾をかしうからげて、道の枝折りと浮かれ立つ。

 福井駅の西口をでると駅前に恐竜広場。そこから北に行くと福井城跡があります。徳川家康が縄張りをし、江戸時代・越前松平氏の居城跡ですが、天守閣は残っていません。

そこから南に商店街を抜けると、北の庄の城跡があります。柴田勝家の居城跡です。ここはもう石垣の跡が残っているだけです。写真中央に柴田勝家像がちいさく見えています。

福井駅から越美北線で東に向かうと5つめに一条谷駅があります。しばらく歩くと一条谷で、朝倉氏の居館跡などがあります。『麒麟が来る』で、長谷川博己がユースケサンタマリアの世話になったところです。

それぞれ、戦国時代に朝倉→柴田(織田)→豊臣→徳川の各大名が興っては滅びた兵どもが夢の跡です。

勝家の北の庄城跡からさらに南に足羽川をわたり、すこし行くと左内公園に着きます。幕末の志士、橋本左内の墓があります。越前は松平春嶽をはじめ、明治維新の原動力になりましたが、薩長土肥に比べ影が薄いですね。

芭蕉が世話になった等栽の家は、この左内公園にありました。「市中ひそかに引き入りて、あやしの小家に夕顔・へちまの延へかかりて、鶏頭・箒木に戸ぼそを隠す」とあったものの、いまは子どもの遊具になっています。

芭蕉の描写は、源氏物語の夕顔の段を俤にしています。

「かの白く咲けるをなむ夕顔と申し侍る。花の名は人めきて、かうあやしき垣根になん咲き侍りける。」と申す。
 げにいと小いへがちに、むつかしげなるわたりの、このもかのも、あやしくうちよろぼひてむねむねしからぬ軒のつまなどに這ひまつはれたる・・むかしの物語などにこそかかる事は聞け、といとめづらかに・・・

関西が近づいてきたせいでしょうか、須賀川の栗斎などとちがい、隠士といっても、等栽はずいぶん関西テイストです。

左内公園にいま等栽の家のあとは残っていませんが、芭蕉の句碑はあります。

 名月の見所問ん旅寝せむ

句碑もおしゃれ、名月のデザインです。

さて本日もクイズ、本日の投稿にあきらかな誤りがあります。どこでしょう?

2021年8月25日水曜日

天龍寺と永平寺ー天竜と地竜

 (福井地裁)

(えちぜん鉄道)

(ドラクエ風道案内)


(天龍寺)

(永平寺@事務所旅行)

(恐竜博物館)

 丸岡天龍寺の長老、古き因みあれば尋ぬ。また、金沢の北枝といふ者、かりそめに見送りて、この所まで慕ひ来たる。所々の風景過ぐさず思ひ続けて、をりふしあはれなる作意など聞こゆ。今すでに別れに臨みて、

 物書きて扇引きさくなごりかな

 五十丁山に入りて、永平寺を礼す。道元禅師の御寺なり。邦畿千里を避けて、かかる山陰に跡を残したまふも、貴きゆゑありとかや。

 福井もよく行きました。落合くんが亡くなった際、彼の事件を分担して引き継いだわけですが、ぼくが引き継いだものの一つが福井地裁の事件だったからです。

兄弟間の遺産分割事件で負け筋でしたが、落合くんが依頼者の気持ちをとことん汲んでいる姿勢に感心したものでした。

当時はオンライン手続もなく、引き継いでから2~3年通いました。写真を拡大してよくみると、『粉雪』が降っています。

福井駅からえちぜん鉄道勝山永平寺線に乗ります。途中から九頭竜川沿いを走っています。そのせいでしょうか、駅の案内板もドラクエふう。落合くんの披露宴を思い浮かべてしまいます。

松岡駅で降ります。天龍寺があります。天龍寺といえば京都嵐山でしようが、福井松岡にもあります。芭蕉は丸岡としていますが、記憶違いです。当時はグーグルマップもないので、おくのほそ道にはこのような記憶違いがいくつかあります。

まったくの記憶違いかというと、そうでもありません。すぐ北に丸岡という城下町があります。丸岡城は北国で唯一現存する天守閣。電車の正面をよくみると「古城まつり」とあるのはこの城があるからです。

金沢あたりから曽良は体調不良でしたが、そのピンチヒッターというわけか、北枝というお弟子さんがお供していました。北陸のブランチだから北枝なのでしょうか。

その北枝ともここでお別れ。別れのエピソード4です。物書きての句の季語は何でしょう。「捨て扇」です。扇ひきさくと強調されています。

えちぜん鉄道でさらに山に入ると永平寺駅があります。しばらくバスに乗ると永平寺です。ここも事務所旅行で立ち寄りました。みな若いです。

文字どおり「永遠の和平」を願う名前。開山は道元で、曹洞宗。浄土真宗とおなじく、比叡山延暦寺の天台宗から派生した新仏教です。

蓮如が吉崎を拠点とせざるをえなかったのとおなじく、都では旧仏教派から迫害にあったために、北陸で教線を延ばすことになったものです。芭蕉が言う貴きゆゑもあったのかもしれませんが。

さらに山に入って行くと終点、勝山駅です。北東に霊峰白山を仰ぎ、北側を雪解けで増水した九頭竜川が太く清冽に流れています。

その北に福井県立恐竜博物館があります。この近くの山から恐竜の化石がたくさん見つかるからです。

福井は恐竜王国と言われています。福井駅でも恐竜がたくさん出迎えてくれます。子ども連れであれば、ぜひ訪れてください。HPが回復します。

さて結びにクイズです。きょうの投稿のなかに竜は何匹でてきたでしょう?

2021年8月24日火曜日

吉崎・汐越の松

(吉崎)


(汐越の松)
 
(東尋坊@ちくし事務所旅行)

 越前の境、吉崎の入江を舟に棹して、汐越の松を尋ぬ。

 よもすがら嵐に波を運ばせて 月を垂れたる汐越の松  西行

この一首にて数景尽きたり。もし一弁を加ふるものは、無用の指を立つるがごとし。

 大聖寺川を川に沿ってさらに下ると、日本海に出ます。その直前、加賀の境を越えて越前(南)側に北潟湖が広がり、その東岸に吉崎があります。吉崎は吉崎御坊があったところです。

わが家もご多分にもれず浄土真宗。真宗は親鸞聖人がはじめたられたことはみなさんご存じでしょう。室町時代には真宗は衰退していました。それを中興したのが蓮如で、その拠点となったのが吉崎御坊です。蓮如がいなければ、わが家が真宗に帰依することもなかったでしょう。

教科書にでてきた加賀一向一揆も蓮如や吉崎御坊が中心。そういえば、曽良が養生におもむいた伊勢長島も戦国時代、一向一揆の拠点でした。なにか関連があるのでしょうか。

吉崎御坊跡から北潟湖を越えて西岸にでると、芦原ゴルフクラブがあります。汐越の松はその敷地の中にあります。無断では入れません。受付で承諾をとりコースのなかをしばらくいく必要があります。いまでは月が垂れるかわりに、ゴルフボールが降ってきます。

汐越の松と聞いて、なにやら思いだしませんか。そう、一つは末の松山ですね。

 君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなむ 東歌

 ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波こさじとは 清原元輔

もう一つは象潟の汐越。曽良の句

 波越えぬ契りありてや雎鳩の巣  曽良

二人の愛が続く限り末の松山を波が越えることはないとの断言から、すこしずつ崩れて、ここでついに汐が越えてしまいました。女房役の曽良と離ればなれになったことを表しているのでしょうか。

なお、汐越の松からすこし南に下ったところに東尋坊があります。松本清張の『ゼロの焦点』の舞台です。最近は(といっても10年以上前ですが)広末涼子主演で映画化されましたね。

2008年10月15日事務所の旅行で行きました(加賀屋に泊まったのと同じとき)。その際の写真ですが、この西方浄土にあこがれ・たそがれている女人が誰だったか思い出せません(笑)。

2021年8月23日月曜日

全昌寺ーソラとの別れ(2)

 

 大聖寺の城外、全昌寺といふ寺に泊まる。なほ加賀の地なり。曽良も前の夜この寺に泊まりて、

 よもすがら秋風聞くや裏の山

と残す。一夜の隔て、千里に同じ。われも秋風を聞きて衆寮に臥せば、あけぼのの空近う、読経声澄むままに、鐘板鳴りて食堂に入る。今日は越前の国へと、心早卒にして堂下に下るを、若き僧ども紙硯をかかへ、階の下まで追ひ来たる。をりふし庭中の柳散れば、

 庭掃きて出でばや寺に散る柳

とりあへぬさまして、草鞋ながら書き捨つ。

山中温泉のなかを大聖寺川が流れていましたが、川沿いにくだれば大聖寺の町。現在は、加賀市。JRだと福井から30分ほど。全昌寺は大聖寺の駅から歩いて10分ほどです。

秋風は金沢あたりから吹いていた別れのテーマ曲。それを一晩中聞いていたというのですから、曽良の心中の苦悩はいかほどか。

芭蕉と曽良は別れて一夜、しかし千里の隔たりに等しい。

うちの蒼空たちは、関空、ドバイ、ベニスの各空港を経由して、文字どおり数千里離れていってしまいました。関空からドバイへの空のうえではずっとギャン泣きだったそうで、日本を離れる心細さを赤子ながら感じたのでしょうか。

2021年8月20日金曜日

ソラとの別れ

 



 曾良は腹を病みて、伊勢の長島といふ所にゆかりあれば、先立ちて行くに、

 行き行きて倒れ伏すとも萩の原 曾良

と書き置きたり。行く者の悲しみ、残る者の恨み、隻鳧の別れて雲に迷ふがごとし。予もまた、

 今日よりや書付消さん笠の露 

 江戸からずっと芭蕉の秘書役をつとめてきた曾良は金沢あたりから体調不良、なんとかここまで来ましたが、これ以上旅をつづけることが困難に。やむなく親族のもとで療養することに決め、先に帰ることになりました。

 曾良の無念、芭蕉の心細さが痛いほど。起承転結、別れのテーマのエピソード3は、いままで比較にならないくらいツライ別れです。金沢あたりからしきりと秋風が吹いていましたが、ここにきて身にしみます。

曾良の行き行きての句は、西行の歌を踏まえています。

 いづくにか眠り眠りてたふれふさん と思ふ悲しき道芝の露

「隻鳧の別れ」は、李陵と蘇武の別れを踏まえています。平家物語の巻第二の最後に「蘇武」の章があります。むしろ中島敦の『李陵』のほうが読まれているかもしれませんね。違いは後者に司馬遷の人生がからんでくることです。

項羽と劉邦の戦いののち、劉邦が漢を建国します。その7代目が武帝で、前漢の最盛期を迎えます。名前のとおり、宿敵である匈奴への外征を繰り返しました。

李陵も、蘇武も外征を命じられた将軍です。李陵は、自分の判断とははなれたことから匈奴に捕まります。しかし自身で投降したと誤って伝えられ、武帝の怒りをかい親族を殺されてしまいます。その落胆や怒りのため、李陵は匈奴に協力するようになります。

他方、蘇武は、辛酸をなめ李陵が説得するも最後まで節をまげません。そして雁に手紙を託したメッセージが故国に伝わり、晴れて帰国することがかなったのでした。

李陵と蘇武、人生の選択がわかれましたが、どちらも苦難の人生でした。匈奴の捕虜として同じ境遇にあり、彼らの間には友情がありました。しかし、運命は二人を引き裂き、蘇武だけ帰国することになったのでした。

鳧はケリという鳥で、チドリの仲間です。隻鳧は一羽のケリということですから、隻鳧の別れは、李陵と蘇武の別れを指す言葉です。

司馬遷がどうからむのか。李陵が捕まった際、武帝の癇癪をおそれて皆、追従したのですが、ひとり司馬遷は李陵をかばう論陣をはりました。案の定、武帝の怒りをかい、司馬遷は屈辱的な宮刑に処せられたのでした。

われわれが現在、いまのような『史記』を読めるのは、この宮刑による屈辱をバネにした司馬遷の不屈の精神によるものです。

平家物語になぜ「蘇武」の話がでてくるのか。歌舞伎や能の『俊寛』をご存知でしょうか。おごれる平家を打倒しようとして鹿ケ谷の陰謀がはからます。

しかしあえなく発覚。陰謀に加担した俊寛のほか、藤原成経と平康頼は、九州の南方にある鬼界ガ島に流されました。

俊寛は僧でありながら信心深くありませんでした。他方、康頼らは信心深く神仏に祈り、千本の卒塔婆に自分たちの名前や歌を書きつけて海に流しました。歌は、

 薩摩方おきの小鳥にわれありと親には告げよ八重の潮風

 思ひやれしばしと思ふ旅だにもなお故郷は恋しきものを

なんとこの卒塔婆のことは流れ流れて都まで伝えられることなり、康頼らは恩赦により帰京を許されたのでした。これが雁に手紙を託して帰国を許された蘇武のエピソードと重なることから、平家物語に「蘇武」がでてきます。

他方、恩赦の文書をなんど読み直しても俊寛の名はなく、追いすがる彼を島に残して舟は行ってしまったのでした。信心うすい彼のせいとはいえ、一人島に残されることとなった、その悲劇が歌舞伎や能を観る現代人にもじーんと来るのでした。

隻鳧の別れの解説に時間をとられました。先を急ぎましょう。

芭蕉が消した書付は「同行二人」という文字です。よく四国のお遍路さんが笠に書いていますね。あれは弘法大師と二人という意味ですが、ここでは芭蕉と曾良の二人という意味に転じて使われています。季語は露。

われわれも秘書さんがお休みの日はとても心細い。長旅の途中である芭蕉の心細さはよくわかります。わが事務所は比較的人の異動がすくない職場ですが、それでも今年度は大きな異動が見込まれています。これもまた不安だし心配です。

私事ですが、イタリアに転勤を命じられている二女夫婦に今春子どもができ、里帰り出産しました。その名も蒼空。ここのところマゴマゴ生活をエンジョイしていました。

が、彼らは昨夕の飛行機でイタリアに戻っていきました。コロナ禍のなかイタリアに戻ることも心配ですし、まだ3か月の孫のことも心配。幸あれと願うばかりです。

2021年8月19日木曜日

山中温泉


 (山中温泉)


(有馬温泉)

 (シュウメイギク@山中温泉街)

 温泉に浴す。その効有馬に次ぐといふ。

 山中や菊はたをらぬ湯の匂ひ

 あるじとする者は、久米之助とて、いまだ小童なり。かれが父、俳諧を好み、洛の貞室若輩の昔、ここに来たりしころ、風雅に辱められて、洛に帰りて貞徳の門人となって世に知らる。功名の後、この一村判詞の料を請けずといふ。今更昔語とはなりぬ。

 山中温泉は大昌寺川の上流、文字どおり山の中。川べりを散歩するコースが美しく、お奨めです。

 芭蕉によれば、温泉の効能は神戸の有馬温泉につぐらしい。しかし、念のためググってみると、日本三名湯は、有馬温泉のほか、草津温泉(群馬)、下呂温泉(岐阜)らしい。

子どものころは関西に住んでいたので、父か母の会社の家族旅行で有馬には行きました。草津はハンセン病訴訟の際に栗生楽泉園を訪問したときに入浴しました。下呂温泉は日本二百名山の小秀山に登ったときに泊まりました。

温泉のよさは泉質だけでなく、由緒、旅館街の情緒や、いまなら食事・お酒の味や接客のよさ等も考慮すべきでしょうが、ぼく的にはなんといっても露天風呂のポイントが大きい。川べりなど大自然と接し、山が望めるところに露天風呂がしつらえられていて、しかも硫黄泉、入浴するや疲れが溶け出していくときが最高です。

北陸も名湯の多いところです。石川の加賀屋には事務所旅行で泊まったことがあります。いろいろ問題も発生しましたが(笑)、よい思い出です。

山中を含む、粟津、片山津、山代の、いわゆる加賀四湯を全部つないで入れたら、どれだけ幸せでしょう。

こうしたそうそうたる競合のなかで、芭蕉が山中温泉を贔屓にしているのは、久米之助さんがお弟子さん(桃夭)になったことによるものでしょう。ぼくらもこれら温泉街、温泉旅館のなかで、どこかが顧問弁護士にしてくれれば、そこを一推しにするでしょうから(笑)。

旧暦9月9日(新暦10月14日)は重陽の節句。またの名を菊の節句。邪気を払い長寿を願って、菊の花を飾ったり、菊の花びらを浮かべたお酒を飲んで祝いました(桃の節句、菖蒲の節句に比べて、最近は人気薄。少子高齢化の影響でしょうか)。句の意味は、山中温泉に入れば、長寿のために菊を手折る必要がないということです。

 貞徳は松永。江戸時代の俳諧・貞門派の祖。貞門派は室町時代の作風を刷新したものの、やがてマンネリ化し、談林派にお株を奪われました。それをさらに改革したのが芭蕉率いる蕉風です。

芭蕉は北村季吟に師事していますが、季吟は貞徳門下です。なので、貞室は先輩格にあたるのでしょう。

俳諧のことで恥をかく、それをバネとして修業に励む、成長できたのちは恥をかかせてくれた人につながる人たちの指導料はとらない。先輩の美談として紹介されています。

われわれがご恩のある先輩やお世話になったかたの紹介者から相談料をいただかないのと似ていますね。

※シュウメイギクは、じつはアネモネの仲間で、キクの仲間ではないそうです。

2021年8月18日水曜日

那谷ー白き秋の風

 

(那谷寺の奇石、笑っているよう)

(大石のうえの石山寺)

(青空に白き秋の風)

(四王寺山三十三石仏めぐり)

 さいきん、トミーファンから、いきなり「トミーの投稿はまだか」と訊かれます。ちょっとまて。その物言いは失礼でしょう。まずは毎日投稿している者に対しネギライの言葉があってしかるべきではないかろうか。それをすっとばして本音だけをぶつけてくる。そう言う態度でよいのだろうか。ブツブツ・・・(笑)。

 思いのほか小松に長居してしまいましたが、芭蕉一行はふたたび南に向かいました。

 山中の温泉に行くほど、白根が岳、後にみなして歩む。左の山際に観音堂あり。花山の法皇、三十三所の巡礼を遂げさせたまひて後、大慈大悲の像を安置したまひて、那谷と名付けたまふとや。那智・谷汲の二字を分かちはべりしとぞ。奇石さまざまに、古松植ゑ並べて、萱葺きの小堂、岩の上に造り掛けて、殊勝の土地なり。

 石山の石より白し秋の風

 那谷(なた)、ご存知でしょうか。九州人にはあまり知名度がないのではないでしょうか。でもありがたいところです。一度どうぞ。

花山の法皇はご存知でしょうか。こちらは古文で登場されました。『大鏡』「花山院の出家」として知られる段。大学受験のラジオ講座のテキストで学んだ記憶です。

藤原兼家が自分の外孫(のちの一条天皇)を即位させるため、陰謀により、花山天皇を出家・退位させます。迫真の描写でドキドキしました。

花山天皇はダマされて退位させられたのですが、その後は仏道にまい進されました。西国三十三所めぐりの中興の祖とされています。

西国三十三所めぐり、ご存知でしょうか。そういえばどこかで見たことあるなぁという感じではないでしょうか。ま、興福寺の南円堂で旗を見たことぐらいはあるのではないでしょうか。

一番札所の熊野・那智山をはじめとして、関西33か所の観音霊場を巡礼するというものです。なぜ33か所かというと観音さまが33のお姿に変身して庶民をお救いになられるからです。

キャッチコピーは「1,300年つづく日本の終活の旅」。なるほど。そろそろ旅をはじめねばという気にさせられます。

自身は、①那智山寺、②紀三井寺、③粉河寺、④槇尾寺、⑥壺阪寺、⑦岡寺、⑧長谷寺、⑨興福寺・南円堂、⑬石山寺、⑭園城寺、⑮今熊野観音寺、⑯清水寺、⑰六波羅蜜寺、⑱六角堂、⑲革堂、⑳吉峯寺、㉑穴太寺の17か寺に参ったことがあります。あと16か寺、がんばりたいと思います。

みなさんも意識はしていなかったけれども、先の興福寺・南円堂のほか、長谷寺、石山寺、清水寺、六波羅蜜寺などの有名どころは参られたことがあるのではないでしょうか。

石山寺は、琵琶湖の南にあります。大きな石の上に建てられ、名前の由来となっています。紫式部が源氏物語を書いたところとしても有名。芭蕉がのちに住まいした幻住庵もちかくにあります。

さて、三十三所の最後は谷汲山・華厳寺です。花山法皇は、西国三十三所めぐりを終えたのち、那谷を訪れ、ここで観音さまに出会います。そこで、ここは素晴らしいということで、一番の那智の那、三十三番の谷汲の谷をとって、那谷と名付けたのでした。A‐Zカードみたいなネーミングです。

このような由緒があるわりには、あまり知られていません。北陸という地の利がないせいでしょうか。それともPRが下手・・・(以下、自粛)。

石山の石より白しの句の「石山」がなにをさすかは説がわかれています。普通石山といえば石山寺のことです。写真の石もそうですが、苔むしていてあまり白くみえないので、説がわかれているのでしょうか。

秋風が白いというのもお約束です。九州人にはお馴染みの北原白秋がそうです。春は青、青春ですね。夏は朱(あか)、宮尾登美子や今野敏に『朱夏』という小説があります。冬は玄(くろ)、幻冬舎という出版社がありますが字がちがいますね。中国の五行思想に基づくもので、中国とは気候も異なると思いますが、秋の風はやはり白いと思います。

西国三十三所を九州人がめぐるのはたいへん。そこで江戸時代、博多の人たちは九州人でもめぐれる三十三所を定めました。四王寺山の三十三石仏めぐりです。甲子園の土ではないけれども、三十三所の土を持ち帰り、それぞれの観音さまに対応する石仏を設置しました。

わが事務所でも昨秋、四王寺山に登り、お参りしましたよ。コロナの終息をお祈りしました。運動不足で、青い息でした(青息吐息)。

五十歩百歩?

似たようなもん、ということを、五十歩百歩などと申しますけれども、


みなさま、お盆はいかがお過ごしでしたでしょうか。

大雨で被害にあわれた方には、お見舞い申し上げます。

私のところにも、九州は雨大丈夫かとご連絡をいただいた方もおられましたが、幸い私は特に被害もなく。


予定に関しても、もともとお盆は帰省もせずどこへも行かず自宅でぐうたらするつもりでしたから、雨が降ろうが降るまいが、似たようなもん、だったかもしれません。


お盆が明けて出勤し、ふと 自分のスマホの歩数計をみると、

8月13日から15日までの3日間の合計歩数が、


92歩。


うーん、若いうちから、さすがにこの五十歩百歩は、改善した方がよくないか、との認識を新たにしたお盆明けでした。


富永

2021年8月17日火曜日

玄昉の墓

 
(観世音寺の隣にある玄昉の墓)

 平家物語の「倶利伽羅落」「篠原の戦い」「真盛」のつぎの章は「還亡」です。おくのほそ道からすれば脱線ですが、太宰府ゆかりの人ですので「還亡」の話までしましょう。

還亡というのは玄昉のことです。日本史で習いました。ご存知でしょうか。玄昉は遣唐使として中国に留学しています。その際、学僧仲間から、玄昉は還亡と共通の音であるから、日本に帰ってよくないことが起きるといわれたそうです。実際そうなりました。それで還亡という章題になっています。

倶利伽羅峠・篠原の戦い、実盛の話のあとに玄昉の話は、時代も話題も大きく離れ、つながりが悪い。なぜつながるかというと、こう。

源平合戦における北国の戦いで、多くの平家武者が亡くなり、都はその妻や親たちの悲嘆につつまれました。そこで戦乱がしずまったのち、伊勢神宮へ行幸が行われることになりました。

その伊勢神宮への行幸がはじまったのは、約450年前、藤原広嗣の乱のとき。藤原広嗣は、橘諸兄、吉備真備とともに、玄昉をのぞこうとして乱を起こしたからです。広嗣と玄昉は因縁の対決みたいなところがあり、後記のおどろおどろしいエピソードもあります。

玄昉は遣唐使として中国に留学し、法相宗を学びつつ18年間在唐し、玄宗皇帝にも認められています。鑑真の招へい時の苦難を描いた井上靖の『天平の甍』にも、たしかちらりと出ていたと思います。

奈良時代の歴史は、台頭した藤原不比等にはじまる藤原氏と皇族の政争が激しく、ややこしい。皇族がたの長屋王のあと、いわゆる藤原四兄弟が政権を握るも、おりから流行した天然痘により全滅。そのあとを引き継いだのが皇族がたの橘諸兄です。

橘諸兄はすでにこのブログにでてきました。覚えていますか。浅香山の段です。

 浅香山影さへ見ゆる山の井の 浅き心をわが思はなくに

葛城王は饗応のまずさに気分を害したものの、采女がうたったこの歌に機嫌をなおしました。その葛城王こそがのちの橘諸兄です。

橘諸兄は唐帰りの吉備真備と玄昉を重用しました。玄昉の権勢はそうとうなものだったよう。藤原広嗣の乱後、動揺した聖武天皇に大仏建立を勧めたのは玄昉だとか。

皇族がわの橘諸兄政権に対し、面白くないのは藤原氏側。藤原広嗣は大宰小弐に任じられ、大宰府に赴任したものの、これを左遷と受け止め、九州で乱を起こしました。

その鎮圧を命じられたのが大野東人。多賀城の壺の碑に名前が刻まれていましたね。彼に乱はまもなく鎮圧されました。

その後も藤原氏側の巻き返しは続き、藤原仲麻呂が勢力をもつようになると、橘諸兄政権は失速。玄昉も観世音寺の別当に左遷されました。

藤原広嗣の怨霊はすさまじく、玄昉が彼の供養をしようとして「高座にのぼり、敬白の鐘うちならす時、俄に空かき曇、雷ちおぼただしう鳴って、玄昉の上に落ちかかり、その首をとって雲のなかへぞ入りにける。広嗣調伏したりけるゆゑと聞えし。」(平家物語)

というわけで、観世音寺の隣にはいまも玄昉の墓がひっそりとのこされています。

2021年8月16日月曜日

実盛の錦ー項羽の選択


小松の多太神社には、甲(かぶと)だけではなく、「錦の切れ」もありました。

「錦の切れ」の由来について、芭蕉は当然のこととして説明しなかったのでしょう。が、現代の読者には意味不明でしょう。平家物語や謡曲『実盛』には、その由来が説かれています。両者で少しニュアンスが異なりますが、ここでは謡曲のほうを引用しておきます。

 「また実盛が錦の直垂を着ること私ならぬ望みなり 実盛都を出でし時 宗盛公に申すよう 故郷へは錦を着て帰るといへる本文あり
 実盛生国は越前の者にて候ひしが近年御領に付けられて武蔵の長井に居住つかまつり候ひき このたび北国に罷り下りて候はば定めて討死つかつるべし 老後の思ひ出これに過ぎじ ご免あれと望みしかば赤地の錦の直垂を下し給はりぬ
 しかれば古歌にも 紅葉葉を分けつつ行けば錦着て家に帰ると人や見るらん と詠みしもこの本文なり
 さればいにしへの朱買臣は錦の袂を会稽山に翻し 今の実盛は名を北国の巷に揚げ 隠れなかりし弓取りの名は末代にあり・・・」

実盛は、故郷が越前なので、その故郷に錦を飾りたかったのですね。

この「故郷に錦を飾る」という言葉は、みなさんもご存じでしょう。この言葉は、司馬遷の『史記』「項羽本紀」に由来しています。司馬遼太郎の古代中国小説に『項羽と劉邦』がありますが、その項羽です。

『項羽と劉邦』は、中国古代、漢の国が成立する時の話で、二大英雄の戦いを描いたものです。武力だけでいえば項羽が常に上回っていたのですが、人徳の大きさで結局のところ劉邦に負けてしまいます。

いま「キングダム」が人気ですが、あれは秦の始皇帝が建国する時代の話。秦帝国のあとが漢。『項羽と劉邦』の話は、その秦が滅び、漢が成立する直前の話です。

秦の都は関中にありました。関中の占領は劉邦のほうが早かったんですね。項羽はあとから関中に到着しました。勢力は項羽のほうが何倍も上です。劉邦は項羽に殺されそうになりながら、からくも関中を脱出します(鴻門の会)。

その後、劉邦は関中を焼き払ってしまいます。関中は四方が天険であり、ここを都とすれば項羽の勢力は安泰だったかもしれません。

そのように部下に諫められた際に、項羽が言った台詞がこうです。「富貴となって故郷に帰らないのは、錦をきて夜行くようなもの、誰にも知ってもられない」。

これが「故郷に錦を飾る」という言葉の由来です。この台詞の是非は歴史が証明しています。項羽は部下が諫めたとおり、故郷に錦を飾るより、関中を拠点として劉邦と対峙すべきだったでしょう。

『史記』が日本に輸入されて読み継がれるうち、「故郷に錦を飾る」という言葉は、いつしかよい意味に転化したのでしょうね。でなければ実盛も故郷に錦を飾りたいとは思わなかったでしょう。

2021年8月12日木曜日

小松ー実盛

 


 (義仲寺と芭蕉)

 この所多太の神社に詣づ。実盛が甲・錦の切れあり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より賜はらせたまふとかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊唐草の彫りもの金をちりばめ、竜頭に鍬形を打つたり。実盛討死の後、木曾義仲願状に添へて、この社にこめられはべるよし。樋口の次郎が使ひせしことども、まのあたり縁起に見えたり。

 むざんやな甲の下のきりぎりす

小松駅から南西に歩いて10分ほどいくと多太神社があります。多太神社には、斎藤実盛の兜が奉納されています。

実盛(真盛)といってピンとくる人はすくないと思います。平家物語の巻第七によると、「倶利伽羅落」の次が「篠原合戦」、その次が「真盛」となっています。

本ブログ「忠義を貫かないで名を残した、武藤資頼」で紹介したとおり、武藤資頼はもと平家がたでしたが、源平合戦時に源氏に鞍替えして、いまに名を残しました。

実盛はこの逆。本文にあるとおり、もと源氏がたで、源義朝(頼朝、義経の父)から立派な兜を賜りました。が、源平合戦のおりには平家がたに鞍替えし、主は平宗盛でした。

平家軍は、倶利迦羅峠の戦いで敗れたのち、小松ちかくの篠原まで後退し、ここでリベンジの戦いを挑みます。しかし、ここでも木曾義仲の軍に敗れてしまいます。

実盛は当時73歳、ここを死に所と考え、最期まで奮戦します。が、ついに討たれてしまいます。討たれたけれども、いまに名を残しました。なぜでしょう。

戦さのあと、武功を確認するため首実検を行います。その際、どうも実盛に似ているけれども若すぎる。樋口次郎であれば、よく知っているはずだと訊いてみると、「あなむざんやな斎藤別当にて候ひけるぞや」。

樋口次郎によると、実盛は日ごろ、60を過ぎていくさにのぞむ時は、白毛を染めていこうと言っていたとのこと。老武者とて人にあなどられるのも悔しいと言って。

ちかくの池で洗ってみると、たしかに毛染めは落ちて、白髪に戻ったのでした。やはり首は実盛のものでした。

この話は当時の人々や芭蕉を感動させました。平家物語では特に一章もうけられていますし、謡曲『実盛』にもなっています。

われわれも60を過ぎました。若い連中に老武者とてあなどられないようにする必要がありますね。いまのところ、髪を染める必要はないようですが。

木曾義仲は、子どものころ実盛の世話になり、また彼の心意気にも感じたのでしょう。本文にあるとおり、多太神社に兜と願状を奉納して、実盛の成仏を祈願しています。

芭蕉は樋口次郎の決め台詞「あなむざん」を借用して、むざんやなの句を詠んでいます。夏草やの句に似ていますね。

きりぎりすはいまのキリギリスではなく、コオロギのことです(写真はキリギリス)。あなややこし。

芭蕉は、実盛だけでなく、木曾義仲もだいすきです。義仲が最期に討たれた琵琶湖のちかくに、慰霊のための義仲寺があります。芭蕉は大阪で亡くなったのですが、じぶんも義仲寺にほうむってほしいと遺言をのこしました。そのため芭蕉も義仲寺に葬られています。

義仲寺にはもちろん芭蕉の木が植えられています。芭蕉はバナナに似ています、そして破れやすい葉を風に揺らしています。

2021年8月11日水曜日

金沢ー弟子との別れ

 






 卯の花山・倶利伽羅が谷を越えて、金沢は七月中の五日なり。ここに大阪より通ふ商人何処といふ者あり。それが旅宿をともにす。
 一笑といふ者は、この道に好ける者のほのぼの聞こえて、世に知る人もはべりしに、去年の冬早世したりとて、その兄追善を催すに、

 塚も動けわが泣く声は秋の風

   ある草庵にいざなわれて
 秋涼し手ごとにむけや瓜茄子

   途中吟
 あかあかと日はつれなくも秋の風

   小松といふ所にて
 しをらしき名や小松吹く萩薄

 卯の花山は歌枕、月・雪の名所ですが、歌はなぜか雨とホトドギスの取合せ。

 かくばかり雨の降らくにほととぎす 卯の花山になほか鳴くらむ

 倶利伽羅が谷(峠)は、源平の古戦場。両軍が対峙するなか、源義仲は夜を待って、数百頭の牛の角に松明をくくりつけて敵軍にむけて放ちます。大混乱におちいった平家軍は逃げ場を失って谷底に落ちていき、大敗を喫しました。

子どものころ、「河童の三平 妖怪大作戦」という番組がありました。その主題歌の歌詞に♪クリカラ、クリカラ骨つむぎ・・というフレーズがでてきました。子どもごころにも、クリカラクリカラという響きに不気味なものを感じたのは、平家の怨霊のなせるワザなのでしょうか。

 そして金沢。ようやくゴールが見えてきました。大阪から特急サンダーバードで2時間半。大阪で薬種商を営む商人何処と同宿し、同人は以後芭蕉のお弟子になっています。

いまであれば、21世紀美術館、鈴木大拙館、兼六園などが観光名所でしょうが、おくのほそ道にはどれもでてきません。兼六園は当時できたばかりでしょうか、殿様のお庭なので芭蕉らは入れません。

金沢には若くて優秀なお弟子さん・一笑という人がいましたが、このまえの冬惜しいことに、若くして亡くなりました。どこの世界でも、できる人ほど早世するようです。

その偲ぶ会が願念寺でいとなまれました(写真は願念寺の句碑)。旧暦7月15日はお盆なので、その関係もあったでしょうか。そして塚も動けの絶唱。お弟子さんも師匠にこんな追悼句を詠んでもらえれば成仏できます。

おくのほそ道も残り4分の1(歌仙の名残の折りの裏)、別れがテーマですが、市振の関における遊女との別れにつづき、弟子との別れ。別れのエピソード2です。

願念寺のちかくには室生犀星記念館。高校時代「月に吠える」など読みました。これにあやかって、自分たちの文集のタイトルを『絶壁に吠える』としたら、国語の先生にえらく受けたのもよい思い出です。

おくのほそ道に戻って、この4句は秋の風をテーマにしたセットものです。写真でいえば組み写真。一つ一つもよいですが、セットにすると響き合ってなおさらよいです。

小松の地名が小さな松であることをとりあげて、芭蕉は挨拶の句としています。小松は小松製作所の小松です。こちらは小さな端末ではなく、大きな重機を製作してあります。

娘がしばらく勤めていたので、小松にはよく訪ねていきました。空港もあり、サンダーバードのほか、飛行機も利用しました。当時はたいへんな思いをしたのですが、過ぎ去ってみればよい思い出です。

空港ちかくには安宅の関もあります。歌舞伎の「勧進帳」の舞台です。義経は弁慶らとともに勧進僧に変装して奥州に落ち延びる途中です。その変装が関守の富樫に見破られそうになったため、弁慶が勧進帳を読むフリをして危機を突破しようとしますが・・・。

倶利伽羅峠で亡くなった平家の武士たち、そこでは勝利した源義仲ら、義経・弁慶ら、みな非業の死を遂げました。芭蕉は一笑だけでなく、彼らに対する鎮魂の心も忘れていません。