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2024年2月27日火曜日

太宰府路散策(第2回)(5)

 


 戒壇院で向井弁護士と富永弁護士が早退した。午後から筑紫野市生涯学習センターで無料法律相談会を予定していたからだ。

歌碑探しなどをしているうちに前回より時間がかかったようだ。後半は巻いていこう。お隣は観世音寺だ。斉明天皇の追善のため天智天皇が発願したという。

『源氏物語』「玉鬘」の段にも出てくる。紫式部が知るくらいだから、当時はそうとう大きな寺で、都まで名が届いていたのだろう。梵鐘は国宝であるし、宝蔵にはいまもおおきな観音様が何体もいらっしゃる。

観世音寺内には沙弥満誓の万葉歌碑

 しらぬひ筑紫の綿は身につけていまだは着ねど暖けく見ゆ

ずっと東へ歩いて行く。再び御笠川を越えて、川沿いに遡上すると天満宮の大駐車場にでる。御笠川にはシラサギ、アオサギ、カモたちが群れ遊んでいる。子どもたちが歓声をあげる。

天満宮の参道に入るとたくさんの人波。韓国語、台湾語がいきかっている。台湾の人に中国人ですかと尋ねると怒るというのはほんとうだろうか、都市伝説だろうか。

お茶屋で昼食。第1回ではここから鬼滅の刃の聖地、竈門神社に向かった。しかし今回は新人弁護士の案内が主であるので、国立九州博物館へ向かった。

暗く長いエスカレーターで昇っていく。子どもが不安と期待に目を輝かせている。何が待っているのか。

2024年2月22日木曜日

太宰府路散策(第2回)(4)

 
 大宰府政庁跡でヨガを楽しむ人々
平和だ

坂本八幡宮、梅花の宴はここで?
我が岡にさ牡鹿来鳴く初萩の・・・

紀卿万葉歌碑
正月立ち春の来たらばかくしこそ・・・
楝(センダン)の花
妹が見し楝の花は散りぬべし・・・
(旅人の亡妻を偲ぶ)
長屋王邸跡
 奈良大宮ロータリークラブ45周年に行った際、長屋王邸跡。聖武系の皇位継承に不安が生じたなか、藤原四兄弟が長屋王家を抹殺(長屋王の変)。
戒壇院。天下三戒壇の一つ
 裏に僧玄坊のさびしい墓がある。玄坊は吉備真備とともに出世したが、これを除こうとして九州・大宰府で藤原広嗣が乱を起こした。乱は失敗(この時、大宰府政庁跡は焼けてしまっている。)。しかしその後、藤原仲麻呂の台頭にともない、橘諸兄が失脚して、玄坊も観世音寺別当に左遷。

 藤原氏が王族を含む他勢力を排除していった結果が藤原北家の隆盛、北家のなかでのさらなるバトル、その末裔である藤原道長の隆盛。父兼家にあっては、王族どころか花山天皇まで排除してしまう。藤原四兄弟、藤原広嗣、藤原仲麻呂の時代も似たようなものだったのだろう、当時の貴族の日記が残っていないだけで。

 それに引き比べて、旅人の時代の梅花の宴や亡妻を偲ぶ歌、はたまたいまの時代に大宰府政庁跡でおこなわれているヨガ教室のなんと平和なことよ。

2024年2月2日金曜日

~からの、近江神宮

 


 ここで時間を巻き戻して京都・滋賀旅行に戻ろう。昨年末、幻住庵まで報告していた。

 http://blog.chikushi-lo.jp/2023/

 幻住庵から京阪石山駅に戻った。さてその後はどうしよう?2つの選択肢の間で悩んだ。一つは石山寺、ふたつは近江神宮である。京阪石山坂本線を北へ向かえば近江神宮であるし、南へ向かえば石山寺である。

駅のポスターは石山寺へ誘っていた。来年(もう今年だが)のNHK大河が「光る君へ」なので、地元は観光客誘致に熱心である。むろん、石山寺は紫式部が『源氏物語』を執筆したところとして名高い。

かなり悩んだが、北へ向かうことにした。芭蕉ゆかりの膳所があることや、さいきん光秀ゆかりの坂本城の「幻の石垣」が琵琶湖の水位低下によって現れたなどのニュースに接していたことから、なんとなく北恋しかったから。

石山から粟津、瓦ケ浜、中ノ庄、膳所本町、錦、膳所、石場、島ノ関、三井寺を経て近江神宮前である。右手に琵琶湖が見え隠れする。

駅から西北へ10分ほど歩く。途中右手に、近江大津宮跡遺跡(史跡)がある。

 近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ 柿本人麻呂

 楽浪の志賀の唐崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ 同

まもなく近江神宮の広大な敷地に到着する。そこからさらに参道をしばらく歩くと、美しい紅葉と響き合う紅い楼門がでむかえてくれた。

天智天皇が祭神。天皇が近江に都を移したことにちなみ、昭和になって創建されている。

天智天皇といえば、なにを思い浮かべるか。われわれ筑紫人としては、百済救援のため斉明天皇とともに九州にやってこられたこと、白村江の戦いで唐・新羅に敗れたこと、その後の防衛のため水城・大野城・基肄城等を築いたこと、斉明天皇の追善のため大宰府観世音寺を創建したこと等が思い浮かぶ。

歴史的・教科書的には、中大兄皇子として中臣鎌足とともに蘇我氏を倒したこと(大化の改新)が有名で、国語教科書・文学的には、大海人皇子とともに額田王に恋したことが有名だろうか。この件は額田王の次の歌で知られている。

 あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る 

しかし、一般人にはやはりこの和歌の作者として有名でしょう。

 秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ

百人一首の巻頭歌。為政者として農民たちの辛苦を思いやる主題であるとして、藤原定家が巻頭に置いたとされる。

こうして近江神宮は、百人一首かるたの聖地となっている。毎年1月、競技かるたの「名人位・クイーン位決定戦」がおこなわれている。

ここから漫画『ちはやふる』(末次由紀著)の舞台にもなっている。競技かるたに青春を燃焼させる綾瀬千早たち・・・。

テレビアニメにもなり、広瀬すず主演の映画にもなった。かくて漫画も読み、映画のDVDも見た、そして来た(2回目)。というわけです。

2023年10月20日金曜日

太宰府路散策(3)戒壇院、観世音寺

 

 学業院跡から、さらに東へ向かう。戒壇院、観世音寺がみえている。その向こうに宝満山。
 https://www.google.com/maps/place/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E5%BA%9C%E5%B8%82/@33.5149402,130.5201245,18.5z/data=!4m6!3m5!1s0x35419bb94ea9da4d:0x420ea1837d378fc4!8m2!3d33.5127734!4d130.5239685!16zL20vMDF3cTE1?entry=ttu

戒壇院と観世音寺の間の路を右折。戒壇院へ向かうのだが、その前・右手に玄坊の墓がある。玄坊は遣唐使とともに学問僧として入唐。玄宗皇帝に才能を認められた。

帰国後、聖武天皇の信頼もあつく、橘諸兄政権の中枢として吉備真備とともに出世。しかし橘諸兄が権勢をうしない、筑紫の観世音寺に左遷、この地で没した。人格的な批判もおおく、怪異な伝承が多い。かつて政権中枢を担ったわりには小さな墓である。

墓のまえをさらに進むと、右手に戒壇院の裏口がある。東大寺戒壇院などとともに、天下三戒壇の一つ。奈良時代、授戒制度を確立するため、唐から鑑真を招聘した。井上靖の小説『天平の甍』に詳しい。

東大寺の戒壇院は四天王像がすばらしいが、残念ながら筑紫戒壇院にはそのような四天王像は残されていないようである。裏口すぐには菩提樹が植えられている。この日は座禅がおこなわれていたようで、静かにと注意書きがあった。

戒壇院の裏口を出ると、正面すぐが観世音寺の側面入口である。大学生のゼミとおぼしき若い人たちが参拝していた。

観世音寺は、天智天皇が創建した。唐・新羅連合群とたたかう百済を救援するため日本も朝鮮半島に派兵したが、白村江の戦いで敗れた。そのため防衛のために築かれたのが大野城や水城である。

古代のことであるから、いまのように通信手段が整っていない。日本政府は大和の地から采配を振るっていたのでは勝てる戦も勝てない。そのため、前線にちかい九州の地まで出張ってきていた。

その地で斉明天皇が亡くなった。その追善供養のため、皇太子であった中大兄皇子が創建したという。

古くは大きな寺だったらしく、『源氏物語』にもでてくる(あまりよい文脈ではない)が、戦火などでいくたびか焼亡し、いまはそれほどの偉容はない。

寺に向かって右手には日本最古の梵鐘がある(いや、あった。いまは博物館に保存されている。)。国宝である。あれ?日本最古の鐘は妙心寺ではなかったっけ?そのとおり、兄弟鐘である。

糟屋郡多々良町(現、東区)で製造されたという。多々良はたたら製鉄のたたらである。もののけ姫にでてきた「たたら場」と同じ語源である。「たたらを踏む」などというが、たたら製鉄の際の動作から来ている。

多々良町を多々良川が流れている。中央での戦いに敗れた足利尊氏は九州に流れてきて、捲土重来を期していた。かれは多々良川の戦いに勝利し、ふたたび中央に攻め上り、後醍醐天皇側から政権を奪取することに成功することになる。

梵鐘の奥は宝蔵である。観世音寺というだけあって、巨大な十一面観音、馬頭観音、不空羂索観音が偉容を誇っている。大きさは東大寺の不空羂索観音とおなじくらいだと思う。

https://www.fukuoka-bunkazai.jp/frmDetail.aspx?db=1&id=239

このあたり紅葉するとナンキンハゼが美しい。いまの時期はコスモスが青空に映え、親子連れが記念撮影をしていた。

2023年4月4日火曜日

雉も鳴かずば撮られまい

 

 大宰府政庁跡あたりを歩いていたら、桜もそろそろ終わりで、桜吹雪が散り敷いていた。すると、ギャギャッという動物園で聞くような鳴き声が。

一瞬、猿かなにかと思ったが、よく考えてキジだと思い当たった。このあたりでキジにであうのは3回目である。出会わないけれども、鳴き声だけ聞こえたことも2度ある。

鳴き声のしたほうへ接近していくと、左手方面から右手方面へキジくんが歩いている。かれもまたお散歩中のようである。

これまでは近づくと逃げてしまっていた。今回は3度目のせいか、ちかくまで寄ってもあまり逃げようとはしなかった。おかげで、かなり近くで写真を撮ることができた。

よく見ると、すごく派手だ。顔面は真っ赤。お面をかぶっているよう。歌舞伎役者も顔負け。デコルテには紫とエメラルドグリーンのチョーカー。胸のあたりはビロードような緑。背中は緑と茶でリズミカルなうろこ模様。そして尻尾が水平にピントのびて美しい。

あいにく吉備団子を持参していなかった。30分もあれば梅が枝餅を買ってこれそうだが、間に合いそうもない。残念ながら、鬼退治の家来にしそこねた。

雉も鳴かずば撃たれまい。あまりよい意味のことわざではない。たとえば、悪代官と越後屋が謀議をしている・・。

 越後屋:お代官さま、最近、神田町の佐平治のやつがわれわれのことをしきりと嗅ぎ回っていますぜ。

 悪代官:心配するな。始末するよう、配下の者にすでに指示しておる。

 越後屋:さすがお代官さま、手回しが早い。それにしても佐平治のやつ、雉も鳴かずば撃たれまいに。

みたいな。わがキジくんも鳴かなければ、写真に撮られることもなかったろう。つまり、キジも鳴かずば撮られまい。

ところで、キジはケーンケーンと鳴くといわれる。しかし、そうは聞こえない。さきに書いたようにギャギャッと聞こえる。動物の鳴き声というか金属音ぽいというか。

どちらでもよいかもしれないが、芭蕉の句があるので、そうもいかない。『笈の小文』に、つぎの句がある。

 ちゝはゝのしきりにこひし雉の声

笈の小文の旅中、杜国とともに高野山を訪ねたときの句。奥の院には戦国武将の墓がたくさんある。松尾家は武家でもはしくれのほうだったらしいが、その墓もあったらしい。

これには本歌がある。

 山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ

行基菩薩の詠という。ほろほろでないことは明らかだけれども、ケーンケーンなのか、ギャギャッなのか。句の印象はだいぶ違う。

後者の「鋭く哀切な響き」に芭蕉の父母への愛を感じるべきなのであろう。もちろん雉、雉鳴くは春の季語である。

2022年12月8日木曜日

大宰府政庁跡・四王寺山お鉢めぐり(2)

 




 小石垣城門跡から鮎帰の滝へ向かう。モミジ、カエデやホオ、カツラなどの樹林を抜け、橋をわたると左手に見慣れぬ大きな樹が黄葉している。メタセコイアだ。関西人の頭のなかでは、「めちゃ、セコイや。(とても、みみっちいや)」と変換されてしまう。

メタセコイアは化石として発見され、その後、中国で生きていることが発見された。戦後、日本各地に植樹され、ここのも植樹によるものだ。

ヒノキの仲間なのに落葉樹。日本の落葉針葉樹はカラマツ(落葉松)だけだが、これもその仲間である。黄葉して落葉する。葉を日に透かし見ると、美しい。

林ではまたジョウビタキのメスに出会った。頭の模様が尉(銀髪)なヒタキなのでジョウビタキ。ヒタキは鳴き声が火焚の音に似ているから。冬に北方からやってくる渡り鳥。目の周りが黒くないのでメスだ。後ろ姿なのがつれない。

お鉢には三十三の石仏が点在している。その日によって撮影させていただく石仏は変わる。この日は三十番の千手観音さまにモデルをお願いした。ただの石だけれども、祈りの心があれば仏になる。木漏れ日による輝きが仏さまの意図するところのように感じられる。

帰りはお鉢の南東にある増長天跡の手前から岩屋城跡、高橋紹運墓を経由して大宰府市民の森に下山する。市民の森からは、武藤資頼、資能の墓を経て観世音寺の北西に出る。

観世音寺から太宰府市役所方面を目指すと、畑が広がっている。左手に観世音寺の宝蔵とメタセコイアがみえる。あぜ道が四王寺山へ向かい、おばあちゃんが歩いていた。のどかでほっとする風景だ。

2022年5月19日木曜日

都府楼政庁跡~四王寺山の散策


 



 いまの時期、都府楼政庁跡から四王寺山へかけて散策が気持ちよい。寒くもなく暑くもない。そよ風がさわやか。空気に馥郁と新緑の香りがまじる。いろんな野鳥が恋歌を鳴き交わしている。

都府楼政庁跡の中央には、トウカエデが新緑の枝をひろげている。古代、唐との交流拠点であったことから、シンボルツリーとされているのであろうか。木陰ではグループがストレッチを行っていた。トウカエデの下だけに、太極拳かもしれない。家のなかでするより数倍、健康効果があるだろう。フィジカルだけでなく、精神衛生上の効果も期待できる。

四王寺山の中央、おへそ部分は県民の森センター。そこからすこしあがると、こどもの国広場がある。親子づれが遊具などで遊んでいる。そこによくみると、トチの木があり、花をつけている。花序がクリスマスツリー状に立ち上がっている。ヨーロッパのマロニエの仲間であり、栃木県の栃である。実でトチもちがつくられる。

四王寺山のお鉢に沿ってたくさんのホオの木がある。写真は南のへり、増長天の東側のもの。葉はトチに似ているが、より大ぶりである。葉には殺菌作用があり、朴葉料理(朴葉寿司、朴葉味噌など)につかわれる。モクレンの仲間で、花はやはり古代的で美しい。秋にはこの先端部分の果実がぼとっと落ちている。

山を下りてくると、観世音寺の北側にセンダンが花をつけている。薬用植物。センダンは双葉より芳しというが、実は別種のことらしい。別名、アフチ。筑前守だった山上憶良の時代から花を咲かせ、散らせていた。

 妹が見し楝(あふち)の花は散りぬべし わが泣く涙いまだ干なくに    




2022年2月2日水曜日

奇跡の出会いー玉鬘の旅

 

 玉鬘は母の夕顔を求めているのだけれども、夕顔はもうこの世にいない。なのでもう出会いようがない。でも夕顔には右近というおつきの女がいた。右近は夕顔の死後、源氏に仕えている。

長谷寺の手前に椿市という宿場がある。玉鬘一行はここの宿坊で右近と運命的な出会いを果たす。いや、そこは長谷観音さまのおはからいなのだから、奇跡的な出会いというべきか。

右近と一行は長谷寺のなかでお祈りしながら話をする。姫のおつきのなかに三条という女がいた。三条はつぎのように祈願していた(林望訳)。

 「大悲大慈の観音様、もう他にはなにもお願い申しません。ただ我が姫君に、大宰の大弐の北の方か、さもなくば、当国大和の守の北の方になっていただけますように・・・」

九州から脱出してきた三条の願いからすれば、大宰府の次官か、奈良県知事の妻になれればもう最高!というのである。

しかし源氏に仕えている右近はこれを聞いて〈受領の妻だなど、なんという縁起でもないことを申すものじゃ〉と思って、こうたしなめる。

 「その願いはまた、たいそう田舎びたことじゃな。姫君の父君は昔中将でいらした自分にだって、帝の覚え世の声望がどれほど立派なことでありましたろう。・・・」

三条の反論。

 「なんとまあ、よけいなことを。その大臣うんぬんも、ただいまはまずお置きなされ。あの大宰の大弐さまの北の方さまが、清水の観世音寺にお参りなされました折のすばらしいご威勢、あれはもう、帝の御幸にだって勝るとも劣らぬものでございましたに。・・・」

姫の結婚相手を決める基準は家格のつりあい。中央閣僚か地方官(受領)か、京か田舎か。愛はいずこ。

ところで清水の観世音寺?観世音寺って清水だっけ?念のため、観世音寺にいってたしかめると、たしかに「清水山」という扁額がかかげられていた。

京都清水寺が音羽の滝の霊水を起源とすることはよく知られている。観世音寺にも霊水が湧いていたのだろう。どちらも観音さまだし、観音さまと清水とは深い関係があるのかもしれない。

とまれ、右近の手引きにより、姫は源氏の君と運命的・奇跡的な出会いを果たすことができた。そして源氏が詠んだ歌(玉鬘とは、多くの玉を糸にとおした装飾品)。

 恋ひわたる身はそれなれど玉かづら
              いかなる筋を尋ね来つらむ 

2021年11月19日金曜日

観世音寺の紅葉写真撮影会

 

 
 事務所の写真撮影会でハラハラドキドキしたあとは、太宰府の観世音寺で紅葉を鑑賞して心を静めよう。今週末は見ごろだろう。

観世音寺は源氏物語にも出てくる古刹。天智天皇(中大兄皇子)が母斉明天皇の追善のために発願し、開基となっている。

日本史にあかるい人はなるほどねという話だけれども、くらい人のためにすこし解説しておこう。

斉明天皇の時代、国際情勢は緊迫し、朝鮮半島では、唐と新羅の連合軍により百済が滅ぼされた。たとえていうなら朝鮮戦争のときに、中国と北朝鮮の連合軍に韓国が滅ぼされたような状況だったわけである。

百済を援助するため、斉明天皇は、難波から瀬戸内海を西に渡った。その際、四国松山は道後温泉の近くで、同行した額田王が詠んだのが次の歌だ。

 熱田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

そういえば、今夕は月食だ。月食観察せむと月待とう。

松山を漕ぎ出でた斉明天皇は、九州に上陸。筑紫の朝倉宮に遷幸し、戦争を指揮しようとした。奈良から指揮していたのでは勝てる戦争も勝てないので、前線にちかい朝倉から指揮しようとしたのである。しかし、遠征軍を送り出すまえに、同所で崩御。

このため、天智天皇は斉明天皇の追善のため、筑紫の地で、観世音寺を発願したのである。

跡を継いだ天智天皇は、軍を発したものの、朝鮮半島南部で白村江の戦いに敗れた。唐・新羅連合軍の日本本土への侵攻をおそれてつくられたのが、大野城と水城である。

つまり、太宰府の名所である、大野城、水城とともに観世音寺をつくったのは天智天皇である。太宰府観光協会としては足を向けて寝られない。

創建当時は大きな寺だったけれども、度重なる火災で寺容は縮小し、いまは本堂や金堂などを残すのみである。仏像はたくさん残されており、宝蔵は忘れずに立ち寄りたい。観世音寺というだけに、観音さまがいっぱいだ。

ここは京都の観光寺院のように人混みもなく、静かに紅葉を観賞できる。お奨めのスポットである。誰にも邪魔されず、写真撮影会を開こう。

2021年8月17日火曜日

玄昉の墓

 
(観世音寺の隣にある玄昉の墓)

 平家物語の「倶利伽羅落」「篠原の戦い」「真盛」のつぎの章は「還亡」です。おくのほそ道からすれば脱線ですが、太宰府ゆかりの人ですので「還亡」の話までしましょう。

還亡というのは玄昉のことです。日本史で習いました。ご存知でしょうか。玄昉は遣唐使として中国に留学しています。その際、学僧仲間から、玄昉は還亡と共通の音であるから、日本に帰ってよくないことが起きるといわれたそうです。実際そうなりました。それで還亡という章題になっています。

倶利伽羅峠・篠原の戦い、実盛の話のあとに玄昉の話は、時代も話題も大きく離れ、つながりが悪い。なぜつながるかというと、こう。

源平合戦における北国の戦いで、多くの平家武者が亡くなり、都はその妻や親たちの悲嘆につつまれました。そこで戦乱がしずまったのち、伊勢神宮へ行幸が行われることになりました。

その伊勢神宮への行幸がはじまったのは、約450年前、藤原広嗣の乱のとき。藤原広嗣は、橘諸兄、吉備真備とともに、玄昉をのぞこうとして乱を起こしたからです。広嗣と玄昉は因縁の対決みたいなところがあり、後記のおどろおどろしいエピソードもあります。

玄昉は遣唐使として中国に留学し、法相宗を学びつつ18年間在唐し、玄宗皇帝にも認められています。鑑真の招へい時の苦難を描いた井上靖の『天平の甍』にも、たしかちらりと出ていたと思います。

奈良時代の歴史は、台頭した藤原不比等にはじまる藤原氏と皇族の政争が激しく、ややこしい。皇族がたの長屋王のあと、いわゆる藤原四兄弟が政権を握るも、おりから流行した天然痘により全滅。そのあとを引き継いだのが皇族がたの橘諸兄です。

橘諸兄はすでにこのブログにでてきました。覚えていますか。浅香山の段です。

 浅香山影さへ見ゆる山の井の 浅き心をわが思はなくに

葛城王は饗応のまずさに気分を害したものの、采女がうたったこの歌に機嫌をなおしました。その葛城王こそがのちの橘諸兄です。

橘諸兄は唐帰りの吉備真備と玄昉を重用しました。玄昉の権勢はそうとうなものだったよう。藤原広嗣の乱後、動揺した聖武天皇に大仏建立を勧めたのは玄昉だとか。

皇族がわの橘諸兄政権に対し、面白くないのは藤原氏側。藤原広嗣は大宰小弐に任じられ、大宰府に赴任したものの、これを左遷と受け止め、九州で乱を起こしました。

その鎮圧を命じられたのが大野東人。多賀城の壺の碑に名前が刻まれていましたね。彼に乱はまもなく鎮圧されました。

その後も藤原氏側の巻き返しは続き、藤原仲麻呂が勢力をもつようになると、橘諸兄政権は失速。玄昉も観世音寺の別当に左遷されました。

藤原広嗣の怨霊はすさまじく、玄昉が彼の供養をしようとして「高座にのぼり、敬白の鐘うちならす時、俄に空かき曇、雷ちおぼただしう鳴って、玄昉の上に落ちかかり、その首をとって雲のなかへぞ入りにける。広嗣調伏したりけるゆゑと聞えし。」(平家物語)

というわけで、観世音寺の隣にはいまも玄昉の墓がひっそりとのこされています。

2021年6月22日火曜日

忠義を貫かないで名を残した、武藤資頼

  (武藤資頼、資能親子の墓)
(手前が平知盛、奥が義経@壇ノ浦)
 
  松島の月が心にかかりますが、和泉三郎の関連で、対照的な生き方をした福岡の武将を2人紹介して先にすすみたいと思います。ひとりは武藤資頼、もうひとりは高橋紹運です。

武藤資頼は、はじめ関東の武士で平知盛の武将でした。知盛は、平清盛の四男。武蔵守を8年やっているので、そのときに主従関係ができたのでしょう。

資頼は、源平の戦いで、平家の側で戦いました。しかし、一ノ谷の戦いで平家が敗れた際、源氏の梶原景時を頼って投降しました。景時は、資頼の知人だったからです。

たまたま源平にわかれましたが、関東の武将はみな知りあいだったのかもしれません。いまでいえば、プロ野球の選手がそれぞれライバル球団に所属していても、夜はおなじところで飲んでいるようなものでしょうか。

一ノ谷の敗戦後、知盛は、関門海峡にある彦島で善戦したものの、壇ノ浦の戦いに敗れました。最後は「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と名ゼリフを吐いています。

高齢者にアンケートすると、「もっと挑戦すればよかった」と後悔しているそうです。知盛はわずか34歳で壮絶な最期をとげていますが、最期の言葉はこうありたいものです。

他方、投降した資頼は、景時が頼朝の寵臣であったこともあり、頼朝の御家人になりました。頼朝が奥州藤原氏をほろぼした戦を奥州合戦といいますが、資頼は奥州合戦で手柄をたてました。

資頼は、そうしたことが評価され、のちに九州に派遣され、鎮西奉行に就き、さらに肥前、筑前、豊前、壱岐、対馬の守護になっています。

平家政権の時代には原田種直の所領だった3700町歩はすべて資頼の所領になりました。太宰府で武藤、原田はいまもなお名族ですが、むかしはプチ源平合戦で、仲が悪かったのではないでしょうか。

資頼は、さらに、大宰小弐に任じられました。大栄達です。資頼の子、資能は小弐の位を継承しました。資能は、文永・弘安の役(元寇)の際、奮戦しています。

資頼と資能は親子なのに、一方は平安時代末、他方は鎌倉時代末に活躍しています。一瞬あれれと思います。でも鎌倉時代って意外と短かったんですね。資能が高齢者ながら奮戦したこともあります。

彼らの武功によるものでしょう、小弐の職は武藤家が代々世襲することになりました。子孫は官職名であったはずの小弐を名乗り、小弐氏として北九州の名族となりました。

博多駅の北、地下鉄祇園駅から東に行くと承天寺があります。資頼が円爾を招聘して創建しました。資頼の位牌と塑像が開山堂に安置されています。

和泉三郎と異なり、知盛に最後まで忠義を尽くさず、頼朝にしたがった資頼ですが、その子孫は繁栄し名族になっています。「人よく道を勤め、義を守るべし。名もまたこれに従う」といえないことも、たまにはあるようです。

太宰府・観世音寺の裏山に、資頼の墓と伝えられる五輪塔があります(写真左)。隣の宝筺印塔は子の資能の墓とされています(写真右)。いちど訪れて、歴史に思いをはせてはいかがでしょう。

2011年4月7日木曜日

 歩かんね太宰府


 太宰府ロータリークラブの山歩き会で
 太宰府路を散策しました。

 ご案内は、「歩かんね太宰府」の
 冨永敦夫さんと杢尾幹雄さん。

 クラブの卓話を冨永さんにしていただいたご縁で
 こんかいの運びとなりました。

 コースは、観世音寺駐車場(集合)→宝蔵→講堂→戒壇院→学校院跡
 →冨永朝堂アトリエ→三十三茶屋(昼食)→太宰府政庁(都府楼)跡
  
 解説者も参加者も達者で、季節も最高
 いつもとちょっとちがう太宰府路に出会うことができました。
 

2010年12月28日火曜日

 健康な新年を


 「ノルウェイの森」はいいとして
 「異界と往来する者たち」とか「レイコ(霊子)さん」とかいう
 話題は法律事務所のブログとしてどうなの?

 そのような声も聞こえてきそうですので
 なんとか説明をつけて、本年の結びとさせていただきます。 

 憲法は、生命・自由及び幸福追求権(13条)や
 健康で文化的な最低限度の生活を営む権利(25条)
 を保障しています。

 ここで「健康」とは、どんな状態をいうのでしょうか?
 WHO(世界保健機関)の定義があります。

 WHOは国連の専門機関で
 日本の厚生労働省にあたる国際的な行政機関です。

 WHOは健康について
 「完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり
 単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」
 と定義してきました。

 最近、その定義の改正が議論されています
 その案はつぎのとおり。

 「完全な肉体的、精神的、霊的及び社会的福祉の動的な状態であり
 単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」

 "Health is a dynamic state of complete physical,
  mental, spiritual and social well-being and
  not merely the absence of disease or infirmity."

 このような議論の背景について、厚生労働省は
 「健康の確保において生きている意味・生きがいなどの追求が重要
 との立場から提起されたもの」と説明しています。 
 http://www1.mhlw.go.jp/houdou/1103/h0319-1_6.html

 われわれが、生命、自由及び幸福追求権(13条)や
 健康で文化的な最低限度の生活を営む権利(25条)
 を追求するにあたり、これまでのような健康の理解では
 グローバル・スタンダードに照らし、狭すぎるということです。

 これからは、よりひろく霊的に、しかもダイナミックに健康を確保し
 生きている意味・生きがいなどをもっと追求していきましょう
 ということでしょう。

 肉体的、精神的な健康を維持するのさえ困難な情況ではありますが
 そんなことを念頭におきつつ
 スピリチュアルな話題にも挑戦してみました。あしからず。

 さてみなさま、今年6月から半年間、当ブログにおつきあい
 いただき、まことにありがとうございました。

 ちくし法律事務所は、あす29日から1月5日まで
 新年のお休みをいただきます。

 その間、当ブログもお休みをいただきます。
 よろしくお願いします。

 というわけで、すこし早いですが
 きょうの写真は「行く年来る年」でよく放映される
 日本最古の梵鐘のひとつ、観世音寺の梵鐘です。

 みなさまの煩悩の数だけクリックしてみてください。