2024年2月22日木曜日
太宰府路散策(第2回)(4)
2024年2月21日水曜日
太宰府路散策(第2回)(3)
大宰府政庁跡に到着。南門跡をぬけ、中門跡に立つ。いつもながら広々としてヌケ感がすごい。背後の四王寺山・大野城ととりあわせて、おだやかな気持ちになる風景だ。
右手大宰府展示館へ向かう。展示館前に教科書にのっていた有名な万葉歌の碑がある。
あをによし奈良の都は咲く花のにほうがごとく今盛りなり 小野老
大宰少弐として着任した際の歓迎宴で詠まれた。先の大伴旅人とほぼ同時期。歌の趣旨も旅人が着任の際に詠んだ歌と同旨か。大宰府の官人たちへの挨拶。奈良の都は花盛りに栄えていましたよ。
政庁跡の北西角、坂本八幡宮に向かう。大伴旅人邸跡と推定されている(可能性の一つ)。仮にそうだとすれば、万葉集の「梅花の宴」はここで催されたことになる。
「梅花の宴」には前書きがある。このあたりが令和の里と呼ばれるゆえんである。
初春の令月にして、気淑く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披き、欄は珮後に香を薫らす・・
「梅花の宴」収載の三十二首もここで詠まれたはず。このあたりには先の三十二首のうち、いくつかの歌碑がある。まず巻頭歌。
正月立ち春の来らばかくしこそ梅を招きつつ楽しきを経め 紀男人
主人である大伴旅人の歌(8番)
我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも
筑前国守であった山上憶良の歌
春さればまづ咲くやどの梅の花ひとり見つつや春日暮らさむ
坂本八幡宮から東、観世音寺へ向かう。左手に旅人の歌碑がある。
世の中は空しきものと知る時しいよよますますかなしかりけり
妻を亡くした後の歌だ。山上憶良も追悼歌を寄せている。
大野山霧立ち渡るわが嘆く息噎の風に霧立ちわたる
大野山はいまの四王寺山(大野城)のこと。四王寺山に霧が流れると、旅人の嘆きが立ちわたってくる。
2023年10月18日水曜日
太宰府路散策(1)坂本八幡宮、大宰府政庁跡
土曜日はわが事務所のアクティビティ同好会で、太宰府路を散策した。同会は基本的に自主練で、アプリをつうじて各人の活動状況が知れるというもの。今回は初の合同参加企画となった。
午前10時に西鉄都府楼前駅に集合。ときどき雲に覆われるも秋晴れの晴天であった。子ども2人(小6と6歳)を含む総勢5人で出発。ときおりキンモクセイが香り、秋の気配濃厚である。
同駅の近くには刈萱の関跡があるのであるが、メンバーの要望で省略。むかしは大宰府政庁への出入りは自由でなく、関所で検問が行われたのであろう。刈萱は説経節の石堂丸になっているし、関屋の地名のもとになっている。
水城小学校・学業院中学校前を通り、坂本八幡宮へ。八幡宮は、令和のゆかりの地として全国的に有名となった。
それは、八幡宮が大宰府(太宰府ではない。)政庁跡の北西角にあり、大宰帥(大宰府の長官)であった大伴旅人の屋敷跡の候補地の一つとなっているからである。
そのころの文献はあまり残されていない。じゃなにが根拠かというと万葉集の一節である。
万葉集によると、大伴旅人は、九州の官人を集めて、梅花の宴を催した。そのなかには筑前国主の山上憶良もいた。
そのときの歌が32首残されている。その序文にこうある。
初春の令月にして 気淑く風和らぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫らす・・
「このなかに令和が隠れている、令和をさがせ!」
子どもたちは、すかさず探しだした。
八幡宮前からは四王寺山の登山口への道がのびているが、きょうは山へはいかない。裏の田畑側から政庁跡へ。
畔道からバッタがつぎつぎと飛び出していく。ハーモニカの演奏をしているグループや虫取りをしている親子がいる。
大極殿跡で記念撮影。奈良の平城京跡は建物が復元されているけれども、こちらは礎石のまま。ぼくはこちらのほうが好きだ。イメージを触発されるし、広々とした空間が開放感を呼ぶ。
続く。
