2026年5月21日木曜日

【労働問題・コラム】月平均所定労働時間とは

 【事例1】エスエイロジテム(時間外割増賃金)事件

 株式会社Yでは、月間の総労働時間数について、174.48時間とし、それを超える部分を時間外労働として取り扱っている。このような運用は認められるだろうか。

【事例2】スタジオインク事件

 株式会社Yの就業規則には、所定労働時間が1日8時間、1週間40時間とされ、所定休日は、日曜日、国民の休日、年末年始(12月29日から翌年1月4日まで)、土曜日、その他会社が必要と認めた日及び夏季休暇(3日間)とされ、これによると平成18年の所定休日は122日となっていた。月平均所定労働時間は何時間になるだろうか。


【解説】

 割増賃金(残業代)は、時間単価×残業時間×割増率で計算する。

 時間単価は、月給制の場合、月給の基礎賃金額÷月平均所定労働時間数で計算する(労基則19条1項4号)。

 月平均所定労働時間の労基法上の上限値は、173.80時間(閏年174.28時間)である。


・閏年以外

 週40時間×52週(364日分)=2080時間(①)

 40時間×1週÷7日(残り1日分)≒5.7時間(②)

 ①+②=2085.7時間(365日分)÷12か月=173.80時間

・閏年

 週40時間×52週(364日分)=2080時間(①)

 40時間×1週÷7日×2日(残り2日分)=11.42時間(②)

 ①+②=2091.4時間(366日分)÷12か月≒174.28時間


 【事例1】のように、労基法上の上限値を超過している場合や月平均所定労働時間が不特定である場合、労基法上の上限値を月平均所定労働時間として計算する。使用者側に最も有利な時間であるため、労働審判等で争点を減らす目的で、初めから労基法上の上限値で請求する場合もある。

 【事例2】のように、就業規則において所定休日等の規定がある場合には、実際の月平均所定労働時間を計算した方が労働者に有利である。

≪計算式≫

(365日-122日)÷12か月×8時間=162時間




【発展】※専門職向け


【判例・裁判例】

■最高裁判所

■高等裁判所

■地方裁判所

①東京地判平成12年11月24日・労判802号45頁(事例1)

②東京地判平成23年10月25日・労判1041号62頁(事例2)


【参考文献】

■調査官解説

■条解・コンメンタール等

■裁判官・元裁判官

①岡口基一711~712頁

■立案担当者見解

■学説

■弁護士・その他

①渡辺輝人131~140頁


富永

2026年5月17日日曜日

【労働問題・コラム】割増賃金の基礎とならない除外賃金② 通勤手当

  【事例】大島産業ほか(第2)事件

 株式会社Yでは、もっぱら従業員の手取り額を増やすために、賃金の一部を「非課税通勤費」名目で支給するようになり、本店敷地内にある寮に寝泊まりするXらにも一律で「非課税通勤費」として月1万1000円を支給していた。通勤手当は、割増賃金(残業代)を計算する際の時間単価(賃金単価)に含まれるだろうか。


【解説】

 家族手当、通勤手当、別居手当、子女教育手当、住宅手当、臨時に支払われた賃金、一箇月を超える期間ごとに支払われる賃金の7つは、割増賃金の基礎となる賃金には算入しない(労基法37条5項、労基則21条)。

 割増賃金額が個人的な事情で変化するのはおかしいという考え方から除外されたものである。

 手当の名目ではなく、実質で判断される(昭和22年9月13日発基17号)。

 【事例】では、通勤を要しなかった長距離トラック運転手に対しも「非課税通勤費」が支払われていたこと等の実質を踏まえて、基礎賃金に含まれると判断された。




【発展】※専門職向け


【判例・裁判例】

■最高裁判所

■高等裁判所

①福岡高判令和元年6月27日・労判1212号5頁(事例)

■地方裁判所

②福岡地方裁判所平成30年11月16日・労判1212号12頁(裁判例①の原審)


【参考文献】

■調査官解説

■条解・コンメンタール等

■裁判官・元裁判官

①岡口基一『要件事実マニュアル第4巻 消費者保護・過払金・行政・労働(第7版)』(2024、ぎょうせい)711頁

■立案担当者見解

■学説

■弁護士・その他

①渡辺輝人『最新テーマ別[実践]労働法実務5 残業代の法律実務』(2024、旬報社)192~204頁


富永

2026年5月14日木曜日

【労働問題・コラム】割増賃金の基礎とならない除外賃金① 住宅手当・家族手当

 【事例】デンタルリサーチ事件

 株式会社Yでは、従業員Xに対して住宅手当5万2000円、家族手当5万9500円を支給しているところ、これは扶養家族の有無・数や持家・賃貸の別、住宅ローン・家賃の額に応じたものではなく、もともと役職手当、特別手当、職能給という名目で支給していたものを廃止し、住宅手当、家族手当を増額させて総支給額を同額にしたものであった。住宅手当、家族手当は、割増賃金(残業代)を計算する際の時間単価(賃金単価)に含まれるだろうか。


【解説】

 家族手当、通勤手当、別居手当、子女教育手当、住宅手当、臨時に支払われた賃金、一箇月を超える期間ごとに支払われる賃金の7つは、割増賃金の基礎となる賃金には算入しない(労基法37条5項、労基則21条)。

 割増賃金額が個人的な事情で変化するのはおかしいという考え方から除外されたものである。

 手当の名目ではなく、実質で判断される(昭和22年9月13日発基17号)。

 【事例】では、住宅手当、家族手当の名目で支給されていた手当について、扶養家族の有無・数や、持家・賃貸の別、住宅ローン・家賃の額等の個人的事情に基づき定められたことを窺わせる証拠が全く存在しないとして、基礎賃金に含まれると判断された。




【発展】※専門職向け


【判例・裁判例】

■最高裁判所

■高等裁判所

■地方裁判所

①東京地判平成22年9月7日・労判1020号66頁(事例)


【参考文献】

■調査官解説

■条解・コンメンタール等

■裁判官・元裁判官

①岡口基一『要件事実マニュアル第4巻 消費者保護・過払金・行政・労働(第7版)』(2024、ぎょうせい)711頁

■立案担当者見解

■学説

■弁護士・その他

①渡辺輝人『最新テーマ別[実践]労働法実務5 残業代の法律実務』(2024、旬報社)192~204頁


富永

2026年5月10日日曜日

【労働問題・コラム】労働時間の範囲⑦ 研修等への参加

 【事例】八尾自動車興産事件

 株式会社Yは、同社の業務として、60分程度の研修会を所定労働時間外に開催した。研修会に参加した時間は、労働時間に含まれるだろうか。


【解説】

 研修会等への参加は、業務との関連性が薄い会社行事等であっても、事実上の強制に基づく場合は、労働時間に当たることがある。



【発展】※専門職向け


【判例・裁判例】

■最高裁判所

■高等裁判所

■地方裁判所

①大阪地判昭和58年2月14日・労判405号64頁(事例)


【参考文献】

■調査官解説

■条解・コンメンタール等

■裁判官・元裁判官

①岡口基一『要件事実マニュアル第4巻 消費者保護・過払金・行政・労働(第7版)』(2024、ぎょうせい)708頁

■立案担当者見解

■学説

■弁護士・その他

①渡辺輝人『最新テーマ別[実践]労働法実務5 残業代の法律実務』(2024、旬報社)74頁


富永

2026年5月7日木曜日

【労働問題・コラム】労働時間の範囲⑥ 移動時間

 【事例】日本工業検査事件

 株式会社Yに勤務するXは、川崎市内の本社から鹿児島県まで検査作業のため出張し、移動時間が生じた。この移動時間は、労働時間に含まれるだろうか。


【解説】

 就労場所への出勤のための時間は労働時間ではない。出張のための休日中の移動時間についても労働時間性は否定されている(昭和23年3月17日基発461号、昭和33年2月13日基発90号)。

 【事例】で、裁判例①は、「出張の際の往復に要する時間は、労働者が日常の出勤に費やす時間と同一性質であると考えられるから、右所要時間は労働時間に算入されず、したがつてまた時間外労働の問題は起こり得ないと解するのが相当である。」と判示した。




【発展】※専門職向け


【判例・裁判例】

■最高裁判所

■高等裁判所

■地方裁判所

①横浜地川崎支決昭和49年1月26日・労判194号37頁


【参考文献】

■調査官解説

■条解・コンメンタール等

■裁判官・元裁判官

①岡口基一『要件事実マニュアル第4巻 消費者保護・過払金・行政・労働(第7版)』(2024、ぎょうせい)708頁

■立案担当者見解

■学説

■弁護士・その他

①渡辺輝人『最新テーマ別[実践]労働法実務5 残業代の法律実務』(2024、旬報社)75~76頁


富永

2026年5月3日日曜日

【労働問題・コラム】労働時間の範囲⑤ 仮眠時間等の不活動時間

  【事例】大星ビル管理事件

 ビル管理会社である株式会社Yでは、いわゆる泊り勤務の間に設定されている連続7時間ないし9時間の仮眠時間があり、仮眠室における待機と警報や電話等に対して直ちに相当の対応をすることが義務付けられている。このような泊り勤務は、労働時間に含まれるといえるのだろうか。


【解説】

 労働者が実作業に従事していない不活動時間であっても、労働契約上の役務の提供が義務付けられていると評価される場合には、労働からの解放が保障されているとはいえず、労働者は使用者の指揮命令下に置かれているものであって、労働時間に当たる。

 【事例】では、仮眠室における待機と警報や電話等に対して直ちに相当の対応をすることが義務付けられていたと認定され、株式会社Yの指揮命令下に置かれているものとして、不活動仮眠時間も労基法上の労働時間に当たると判断された。

 なお、「監視又は断続的労働に従事する者で、使用者が行政官庁の許可を受けたもの」については、労働時間等に関する規定の適用が除外されている(労基法41条3号)。




【発展】※専門職向け


【判例・裁判例】

■最高裁判所

①最小判平成14年2月28日・民集56巻2号361頁

■高等裁判所

■地方裁判所


【参考文献】

■調査官解説

■条解・コンメンタール等

■裁判官・元裁判官

①岡口基一『要件事実マニュアル第4巻 消費者保護・過払金・行政・労働(第7版)』(2024、ぎょうせい)707~708頁

■立案担当者見解

■学説

①菅野和夫『労働法(第12版)』(2019、弘文堂)498~500頁

■弁護士・その他

①渡辺輝人『最新テーマ別[実践]労働法実務5 残業代の法律実務』(2024、旬報社)71~72頁


富永

2026年4月29日水曜日

【労働問題・コラム】労働時間の範囲④ 手待時間

 【事例】田口運送事件

 運送会社である株式会社Yに雇用されるトラック運転手Xは、出荷場や配送先での待機時間が生じることがあり、トイレに行ったり、コンビニで買い物に行く等してトラックから離れていた。Xの手待時間について、労働時間に含まれるだろうか。


【解説】

 作業と作業との間の待機時間である手待時間は、使用者の指示があれば直ちに作業に従事しなければならない時間であり、労働時間に含まれる(昭和33年10月11日基収6286号)。

 【事例】では、Xらトラック運転手の労働実態を詳細に事実認定したうえで、使用者であるYの指揮命令下に置かれていたものと評価し、実労働時間と認定された。




【発展】※専門職向け


【判例・裁判例】

■最高裁判所

■高等裁判所

■地方裁判所

①横浜地相模原支判平成26年4月24日・判時2233号141頁(事例)


【参考文献】

■調査官解説

■条解・コンメンタール等

■裁判官・元裁判官

①岡口基一『要件事実マニュアル第4巻 消費者保護・過払金・行政・労働(第7版)』(2024、ぎょうせい)707頁

■立案担当者見解

■学説

■弁護士・その他


富永

2026年4月25日土曜日

【労働問題・コラム】労働時間の範囲③ 居残り残業

 【事例】昭和観光事件

 株式会社Yの就業規則には、事前に所属長の承認を得て就労した場合のみを時間外勤務として認める旨の規定があるところ、Xは所属長の承認を得ずに居残り残業を行った。Xの居残り残業について、残業代は請求できるだろうか。


【解説】

 残業について承認制をとり、実施には届出をさせない(あるいは恒常的に残業が発生するので届出する暇がない)事業所の例がしばしばある。しかしながら、労働時間制は客観的に定まるものであり、届出がないことは残業の存在を否定することに必ずしもならない。




【発展】※専門職向け


【判例・裁判例】

■最高裁判所

■高等裁判所

■地方裁判所

①大阪地判平成18年10月6日・労判930号43頁(事例)


【参考文献】

■調査官解説

■条解・コンメンタール等

■裁判官・元裁判官

■立案担当者見解

■学説

■弁護士・その他

①渡辺輝人『最新テーマ別[実践]労働法実務5 残業代の法律実務』(2024、旬報社)82~84頁


富永

2026年4月23日木曜日

【不動産賃貸・コラム】用法遵守義務違反による解除① 騒音

 【事例】

 木造アパートの賃貸人であるXは、昭和42年1月以降同年4月末頃までの間、賃借人Yが居室で少なくとも一晩置き位に、毎回午前1~2時頃まで、時には徹夜で麻雀をやっており、他の賃借人からその騒音のために睡眠を妨げられているとの苦情が寄せられた。Xは、Yに対して、賃貸借契約の解除をすることができるだろうか。


【解説】

 不動産賃貸業において、賃借人の騒音によるトラブルは多い。隣人の騒音について賃借人の1人から相談されると、騒音を出している隣人もまた賃借人であるため、オーナーからみるといわばどちらも顧客であるから、対応に苦慮する場面も多いだろう。

 賃借人が「用法」(民法616条、同594条1項)の遵守義務に違反した場合、賃貸借契約の解除事由となる。

 もっとも、「賃貸借における信頼関係を破壊するおそれがあると認めるに足りない事由が主張立証された」場合には、解除が認められない(判例①)。要するに、退去は一筋縄ではいかない。

 裁判例では、騒音の種類、程度、時間帯、頻度や地域性、他の賃借人の騒音への敏感さ等が考慮されている。

 【事例】では、4か月間で少なくとも一晩置き位に深夜まで麻雀が行われていたこと、騒音のため睡眠を妨げられてXの妻は通院していたこと、数回にわたる停止要求にも応じず継続されたこと等が指摘され、賃貸借契約の解除が認められた。




【発展】※専門職向け


【判例・裁判例】

■最高裁判所

①最小判昭和41年4月21日・民集20巻4号720頁

■高等裁判所

②東京高判昭和50年8月21日・判タ333号204頁(解除有効、深夜の喧噪な行動等)

■地方裁判所

③東京地判昭和47年12月5日・判時709号56頁(解除無効、バーでの深夜の歌声(近隣住民の抗議を受け防音装置を設置))

④東京地判昭和54年10月3日・判タ403号132頁(解除有効、夜に放歌・大声)

⑤東京地判昭和54年11月27日・判タ416号162頁(解除有効、一日中ラジオ大音量等)

⑥横浜地判平成元年10月27日・判タ721号189頁(解除有効、公害防止条例違反の深夜カラオケ騒音)

⑦東京地判平成13年5月10日・WL(解除有効、尋常でない喧嘩口論・言動・足音等)

⑧東京地判平成17年2月28日・判例秘書L06030847(解除有効、深夜の大声等)

⑨東京地判平成19年3月7日・WL(解除有効、何かを叩くような騒音等)

⑩東京地判平成22年1月20日・WL(解除無効、隣室の騒音)

⑪東京地判平成22年8月6日・WL(解除無効、同居人との口論等)

⑫東京地判平成22年11月19日・WL(解除有効、大音量のラジオの音等)

⑬東京地判平成23年1月31日・WL(解除有効、夜中の大音量での音楽等)

⑭東京地判平成27年2月24日・判時2260号73頁(解除無効、6歳児のいたずら)

■簡易裁判所

⑮東京北簡判昭和43年8月26日・判時538号572頁(解除有効、深夜麻雀、事例)


【参考文献】

■調査官解説

■条解・コンメンタール等

■裁判官・元裁判官

①岡口基一『要件事実マニュアル第2巻 民法2(第7版)』(2024、ぎょうせい)313~316頁

■立案担当者見解

■学説

■弁護士・その他

②太田秀也『賃貸住宅管理の法的課題2 ー迷惑行為・自殺・サブリースー』(2014、大成出版社)5~6頁

③渡辺晋『建物賃貸借-建物賃貸借に関する法律と判例-(改訂3版)』(2022、大成出版社)191~192頁


富永

2026年4月21日火曜日

【労働問題・コラム】労働時間の範囲② 早出残業

 【事例】福星堂事件

 和洋菓子の製造・加工並びに販売等を目的とする株式会社Yでは、所定終業時刻が午前8時30分とされていたが、Xは、午前4時台に出勤して早出残業することもあった。


【解説】

 単に遅刻しないために早めに出勤してタイムカードを打刻していただけの場合、早出残業とは認められない。また、そのような時間帯に多少の準備行為を行っていた場合でも、始業時刻前に行う必要のない作業である場合、早出残業とは認めない事例がある。




【発展】※専門職向け


【判例・裁判例】

■最高裁判所

■高等裁判所

■地方裁判所

①神戸地姫路支判平成28年9月29日・労経速2303号3頁(事例)


【参考文献】

■調査官解説

■条解・コンメンタール等

■裁判官・元裁判官

■立案担当者見解

■学説

■弁護士・その他

①渡辺輝人『最新テーマ別[実践]労働法実務5 残業代の法律実務』(2024、旬報社)77~78頁


富永

2026年4月19日日曜日

【不動産・かわら版】その賃料、安くない?



 ★ 賃料の増額を求めたい! ★


 20年前から駅前の店舗を賃料月額80万円で貸しています。


 建物が古くなって修繕費がかさむようになり、敷地の固定資産評価額も上がって税負担も増え、利回りが悪化しています。


 賃料の増額をお願いすることはできないでしょうか。


 福岡県は、2024年の地価上昇率が全国1位、2025年も東京都、沖縄県に次いで全国3位と地価が上昇しています。


 地価上昇や物価高などもあり、賃料増額の紛争も増えている印象です。


 賃貸人は、借地借家法上、契約後の事情の変更によって賃料が不相当になった場合に、賃料増額請求をすることができます。


 ポイントは、契約後の事情の変更が必要、ということです。契約当初から近隣相場より低く賃料額が決められていた場合は、「相場より低い」というだけでは増額できません。


 また、契約書に一定期間増額しない特約がある場合もあります。


 話し合いで決まらない場合は、不動産鑑定になりますが、鑑定費用も決して安くありません。賃料が高額な事業用物件であれば、それでもなお増額請求をするメリットもあるでしょう。


 うちの物件は賃料増額できないの!?お困りの場合はまずご相談ください。


富永

2026年4月18日土曜日

【相続・コラム】遺産分割に関連する付随問題① 葬儀費用

 【事例】

 被相続人Aは、平成18年9月4日に死亡したところ、Aには、X、Yをあわせて7名の子がいた。Yは、同日、夫に頼んでA名義の預貯金から100万円を払い戻してもらい、Aの葬儀費用等の支払いに充てた。その後もYはA名義の預貯金はすべて払い戻して、Aの納骨堂代、納骨壇永代使用料などの支払も行った。そうしたところ、Xは、YによるA名義の預貯金の払戻しが不当であるとして、自身の相続分に応じた額の返還を求めた。被相続人A名義の預貯金から葬儀費用等を支出することは認められないのだろうか。


【解説】

1 葬儀費用

⑴ 意義

 葬儀費用とは、追悼儀式及び埋葬に必要な費用であって、具体的には、棺柩その他の祭具、葬式場設営、読経、火葬、墓標、通夜や告別式の参列者の飲食、納骨堂などに要する費用である。

 他方、墓地の代価、四十九日の法要の費用、葬儀後の見舞客の食事代については範囲外と考えられている(文献③)。

⑵ 遺産分割の対象となるか

 葬儀費用は、相続開始後に発生した費用であるから、遺産分割の対象にならない。ただし、相続人全員の合意により遺産分割事件の対象とすることはできる。

⑶ 葬儀費用の負担者

 遺産分割等において、葬儀費用を誰が負担すべきかをめぐり争いとなることがある。

 葬儀費用の負担者に関しては、

①共同相続人が法定相続分に応じて分割して承継するという見解(相続人全員負担説、裁判例③⑰⑱㉑)

②葬儀を主宰した喪主が負担するという見解(喪主負担説、裁判例⑤⑧㉖)

③相続財産である遺産をもって支出すべきであるとする見解(相続財産負担説、裁判例②⑦⑬⑭⑳㉓㉕)

④専らその地方又は被相続人の属する親族団体内における慣習若しくは条理に従って決めるべきであるとする見解(慣習ないし条理説、裁判例⑥⑨⑮⑯㉒)

などに分かれており、定説をみない状況である。ただし、最近の裁判例(裁判例⑤⑩⑪)は、喪主負担説によるものが多くなってきているとの指摘がある(文献⑤)。

2 香典

 香典は、慣習上香典返しに充てられる部分を控除した残余につき葬儀費用に充てられるが、なお残余金が生じた場合は、葬儀主催者に帰属すると解する見解(文献①)と相続人に帰属するとの見解がある(文献④)。

3 事例について

 事例では、一般論として、葬儀費用は喪主、納骨堂代や永代使用料は祭祀承継者が負担すべきと判示しつつ、相続人間での決算報告に異議が述べられていないこと等、個別の事情を考慮して、葬儀費用、納骨堂代やその永代使用料への支出を不当利得とは認めなかった。




【発展】※専門職向け


【判例・裁判例】

■最高裁判所

■高等裁判所

①東京高決昭和30年9月5日・家月7巻11号57頁

②高松高決昭和38年3月15日・家月15巻6号54頁

③福岡高決昭和40年5月6日・家月17巻10号109頁

④大阪高決昭和49年9月17日・家月27巻8号65頁

⑤名古屋高判平成24年3月29日・判例秘書搭載

■地方裁判所

⑥甲府地判昭和31年5月29日・下民7巻5号1378頁

⑦東京地判昭和59年7月12日・判タ542号243頁

⑧東京地判昭和61年1月28日・家月39巻8号48頁

⑨東京地判平成6年1月17日・判タ870号248頁

⑩東京地判平成27年12月3日・判例秘書搭載

⑪東京地判平成28年11月8日・判例秘書搭載(事例)

■家庭裁判所

⑫東京家審昭和33年7月4日・家月10巻8号36頁

⑬大阪家堺支審昭和35年8月31日・家月14巻12号128頁

⑭東京家審昭和37年9月25日・家月14巻12号116頁

⑮仙台家古川支審昭和38年5月1日・家月15巻8号106頁

⑯神戸家明石支審昭和40年2月6日・家月17巻8号48頁

⑰福井家審昭和40年8月17日・家月18巻1号87頁

⑱長崎家佐世保支審昭和40年8月21日・家月18巻5号66頁

⑲大阪家審昭和40年11月4日・家月18巻4号104頁

⑳盛岡家審昭和42年4月12日・家月19巻11号101頁

㉑神戸家姫路支審昭和43年2月29日・家月20巻8号88頁

㉒宇都宮家栃木支審昭和43年8月1日・家月20巻12号102頁

㉓大阪家審昭和51年11月25日・家月29巻6号27頁

㉔長崎家審昭和51年12月23日・家月29巻9号110頁

㉕大阪家審昭和53年9月26日・家月31巻6号33頁

㉖神戸家審平成11年4月30日・家月51巻10号135頁


【参考文献】

■調査官解説

■条解・コンメンタール等

■裁判官・元裁判官

①井上繁規『(三訂版)遺産分割の理論と実務』(2021、新日本法規)203~205頁

②岡口基一『要件事実マニュアル第5巻 家事事件・人事訴訟(第7版)』(2024、ぎょうせい)449頁

③司法研修所『遺産分割事件の処理をめぐる諸問題』(1994、法曹会)255~256頁

④片岡武、管野眞一『家庭裁判所における遺産分割・遺留分の実務(第4版)』(2021、日本加除出版)80~81頁

⑤田村洋三、小圷眞史ほか『実務 相続関係訴訟 遺産分割の前提問題等に係る民事訴訟実務マニュアル(第3版)』(2020、日本加除出版)47頁、488~499頁

⑥松本哲泓『設例解説 遺産分割の実務 ー裁判官の視点による事例研究-』(2024、新日本法規) 176~177頁

⑦山城司『Q&A 遺産分割事件の手引き』(2022、日本加除出版)177~180頁

■立案担当者見解

■学説

■弁護士・その他


富永

2026年4月17日金曜日

【労働問題・コラム】労働時間の範囲① 始業前・終業後の時間

 【事例】三菱重工業[会社側上告]事件

 株式会社Yでは、所定労働時間を午前8時から正午まで、午後1時から午後5時までとし、従業員であるXらは、①午前の始業時刻前に更衣所等において作業服及び保護具等を装着して準備体操場まで移動し、②午前ないし午後の始業時刻前に副資材や消耗品等の受出しをし、また、午前の始業時刻前に散水を行い、③午後の終業時刻後に作業場から更衣所等まで移動して作業服及び保護具等の離脱を行っていた。①ないし③の時間は、労働時間として認められるだろうか。


【解説】

 労働者が、就業を命じられた業務の準備行為等を事務所内で行うことを使用者から義務付けられ、又はこれを余儀なくされたときは、当該行為を所定労働時間外で行うものとされている場合であっても、当該行為は、特段の事情のない限り、使用者の指揮命令下に置かれたものと評価することができ、当該行為に要した時間は、それが社会通念上必要と認められるものである限り、労基法上の労働時間に該当する。

 【事例】では、①作業服及び保護具等の装着、②副資材や消耗品等の受出しや散水、③作業服及び保護具等の離脱が所定労働時間外で行うこととされていたが、判例①は、作業服のほか所定の保護具、工具等の装着を義務付けられ、これを怠ると懲戒処分を受けたり就業を拒否されたりし、また、成績考課に反映され賃金の減収にもつながる場合があること等を指摘して、①ないし③のいずれも労働時間に該当すると判断した。

 朝礼、体操、終礼も出席が義務付けられ、明示又は黙示の業務上の指示によるものであれば同様である。




【発展】※専門職向け


【判例・裁判例】

■最高裁判所

①最小判平成12年3月9日・民集54巻3号801頁(事例)

■高等裁判所

②大阪高判平成13年6月28日・労判811号5頁(京都銀行事件)

■地方裁判所

③東京地判平成24年8月28日・労判1058号5頁(アクティリンク事件)

④横浜地判令和2年6月25日・判時2491号83頁(アートコーポレーションほか事件)


【参考文献】

■調査官解説

■条解・コンメンタール等

■裁判官・元裁判官

①岡口基一『要件事実マニュアル第4巻 消費者保護・過払金・行政・労働(第7版)』(2024、ぎょうせい)707頁

■立案担当者見解

■学説

■弁護士・その他

①渡辺輝人『最新テーマ別[実践]労働法実務5 残業代の法律実務』(2024、旬報社)73~74頁


富永

2026年4月15日水曜日

【不動産・かわら版】消化器の適切な設置方法は?

 


 延床免責150㎡以上の共同住宅には、消火器具の設置義務があります。床面から高さ1.5m以内、通行や避難に支障がなく、使うときには容易なように設置する必要があります。もっとも、直置きやボックス格納などの具体的な設置方法までは法令上の定めはなく、設置者に委ねられています。


 では、設置した消化器が第三者にイタズラされた場合、共同住宅の占有者・所有者が責任を負うことはあるのでしょうか。


 裁判例では、共同住宅の通路部分に、プラスチック製の保管台の上に壁にそって裸のまま消化器を立て掛けて設置していたケースで、何者かによって消化器が投下されるというイタズラにより隣家の屋根などが破損した事案において、消化器は「作動され易いが、イタズラされ難い」要請に合致した設置方法がとられるべきであるとして、工作物の保存の瑕疵を認め、共同住宅を所有する不動産会社に賠償を命じたものがあります(大阪地判平成6年8月19日)。


 消化器の適切な設置方法は?


 お困りの場合は、お気軽にご相談ください。


富永

2026年4月14日火曜日

【相続・コラム】相続放棄は認められるか -法定単純承認② 背信行為(民法921条3号)

 【事例】

 洋品店経営者であるXは、Aに対し、各種洋品を売ったり、修繕を行ったりし、これらの売掛代金と修理代金の残額は、合計139万5008円となっていた。Aは、平成9年7月2日に死亡したところ、相続人は、夫、父、母であるYの3人であった。Aは、同月15日、家庭裁判所で相続放棄の申述を行い、同月22日に受理された。

 ところが、Yは、Aの住居であったマンションから、平成9年11月頃、Aのスーツ等や毛皮のコート三着とカシミア製のコート三着等を持ち帰った。これらの多くは新品同様のものであった。

 そこで、Xは、Yの行為は背信行為として法定単純承認の事由にあたると主張して、Yに対し、Aに対する残代金債権のうち、Yの相続分6分の1である23万2501円を請求した。Yの相続放棄は認められないのだろうか。


【解説】

 相続人は、相続開始の時から、被相続人の財産に属した一切の権利義務を承継する(民法896条本文)。つまり、被相続人の資産(プラス)だけでなく、負債(マイナス)も承継してしまう。

 そのため、被相続人について負債超過が見込まれる場合等は、家庭裁判所で相続放棄の申述(民法938条)を行うのが通常である。

 もっとも、相続放棄申述の受理審判に当たっては、法定単純承認事由の有無等に関する実質的要件については、その不充足が極めて明らかな場合に限り審理の対象とすべきと考えられている(裁判例①、②)。

 つまり、相続放棄の申述が受理されたからといって、相続放棄が有効であるとは、必ずしもいえない。

 相続放棄の申述が受理された後であっても、①隠匿、②私に消費すること、③悪意で財産目録中に記載しないこと等の背信行為があれば、相続放棄の効力は認めらない。

 「隠匿」とは、相続債権者から相続財産の所在を不明にすることである。相続人間で遺品を分配する形見分けは含まれないが、所在不明にした相続財産の範囲や量、財産的価値等を考慮し、判断されている。

 【事例】では、Yが持ち帰った遺品の中には新品同様の洋服や毛皮が含まれていたこと、持ち帰った洋服は遺品のほとんどすべてであり相当な量があったこと等を考慮して、「隠匿」にあたると判断された結果、Yの相続放棄は有効と認められず、Xの請求が認められた。




【発展】※専門職向け


【判例・裁判例】

■最高裁判所

■高等裁判所

①仙台高決平成元年9月1日・家月42巻1号108頁

②福岡高決平成2年9月25日・判タ742号159頁

■地方裁判所

③東京地判平成12年3月21日・家月53巻9号45頁(事例)


【参考文献】

■調査官解説

■条解・コンメンタール等

①潮見佳男『新注釈民法⒆ 相続⑴(第2版』(2023、有斐閣)627~633頁

②能見善久、加藤新太郎『論点体系 判例民法11 相続(第4版)』(2024、第一法規)237~239頁、272~274頁

■裁判官・元裁判官

■立案担当者見解

■学説

■弁護士・その他


富永

2026年4月13日月曜日

【労働問題・コラム】就業規則の規範的効力② 有利性原則

 【事例】

 株式会社Yの就業規則には、有給休暇の日数を1年ごとに10日間付与すると規定されている。ところが、Xの雇用契約書をみると、1年ごとに15日間付与すると記載されている。Xが実際に取得する有給休暇の日数は何日なのだろうか。


【解説】

 就業規則の最低基準効は、就業規則の定める基準に達しない労働条件を定める労働契約に対するものであり、逆に、就業規則の定める基準以上の労働条件を定めた労働契約は、この効力を受けず有効である(労契法7条ただし書)。

 したがって、【事例】のように、有給休暇の日数について、就業規則は1年ごとに10日間の付与と規定し、雇用契約書に15日間の付与と記載されている場合、Xには1年ごとに15日間の有休休暇が付与されることになる。




【発展】※専門職向け


【判例・裁判例】

■最高裁判所

■高等裁判所

■地方裁判所


【参考文献】

■調査官解説

■条解・コンメンタール等

■裁判官・元裁判官

■立案担当者見解

■学説

①水町勇一郎『詳解 労働法(初版)』(2019、東京大学出版会)180頁

■弁護士・その他


富永

2026年4月11日土曜日

【不動産・かわら版】転貸OKなら民泊もOK?

 


★ 民泊利用で大迷惑? ★


 所有する戸建て住宅をサブリースのような形で転貸借。使用目的は「住居」。転貸は承諾する契約だった。


 しばらくして、近隣住民から騒音やゴミ出し方法などの苦情が殺到。どうやら転借人が勝手に民泊をしているよう。


 「転貸OKなんだから、民泊もOKでしょ?」と開き直る賃借人。

 契約解除して退去を求めることはできますか?


 いわゆる民泊法上、「生活」の本拠を宿泊「事業」に使うのが民泊。転貸OK、つまり居住用の又貸しがOKならば、民泊もOKだ、という言い分はとおるのでしょうか。


 裁判例(東京地判平成31年4月25日)は、特定人の住居使用と不特定人の宿泊使用とでは、使う人の意識等の面から、使い方に差異が生じるのは避けがたいなどと判示。


 「転貸OKなら民泊OK」という主張は認めませんでした。


 とはいえ、薄氷は踏みたくない。転貸をあらかじめ承諾する契約をするなら、「居住」使用目的を明確に定義する、民泊使用を禁止事項にあげておくなどの対策が可能です。


 お困りの際は、お気軽にご相談ください。


富永

2026年4月10日金曜日

【相続・コラム】相続放棄は認められるか -法定単純承認① 相続財産の処分(民法921条1号)

 【事例】

 被相続人Aは、平成10年4月27日に死亡した。相続人である妻B、長男C、二男Dのうち、AとはB及びCが同居していた。Aは生前、勤務先が倒産した際に保証債務の返還を求められていたことがあるが、昭和62年頃に返済したのを最後に請求はきておらず、Aの債務は完済したと考えていた。

 Aが死亡し、Bらが葬儀を行い、香典として144万円を受領した。また、A名義で預入金額300万円の郵便貯金があった。Bは、平成10年5月27日にその郵便貯金を解約したが、その解約金は302万4825円であった(香典とあわせると446万4825円)。

 Bらは、これらから、Aの葬儀費用等として273万5045円を支出したほか、同年6月に仏壇を92万7150円で購入したうえ、Bの希望で墓石を127万0500円で購入した。これらの合計が493万2695円となるところ、香典とAの郵便貯金の解約金を充て、不足分46万円余りはBらが負担した。

 その後、平成13年10月になって、信用保証協会から、被相続人A宛てに求償金合計5941万8010円の請求書が届き、A名義の多額の債務が残っていたことを知った。

 Bらは、Aの相続放棄をすることができるだろうか。


【解説】

 相続人は、相続開始の時から、被相続人の財産に属した一切の権利義務を承継する(民法896条本文)。つまり、被相続人の資産(プラス)だけでなく、負債(マイナス)も承継してしまう。

 そのため、被相続人について負債超過が見込まれる場合等は、家庭裁判所で相続放棄の申述(民法938条)を行うのが通常である。

 もっとも、亡くなった直後は、死亡届、通夜・葬儀の準備・実施、その他各種手続等に追われ、被相続人の負債に気付かないまま、被相続人の預貯金を解約する等、相続財産を処分してしまうことは少なくない。

 民法は、「相続人が相続財産の全部又は一部を処分したとき」(民法921条1号本文)を法定単純承認の事由とする。つまり、相続財産を処分してしまうと、相続の単純承認をしたとみなされてしまい、相続放棄ができなくなる。

 民法921条1号の「処分」とは、財産の現状・性質を変える行為をいい、法律上の行為のみならず、事実上の行為を含む(家屋の取壊し等)。

 単純承認とみなされる法律上の処分には、貯金の解約、債権の取立て、不動産・動産・その他財産権の譲渡等が含まれる。

 他方、葬儀費用については、被相続人の貯金を解約し、葬儀費用にした場合に、単純承認とみなされる処分に当たらないとした裁判例がある(裁判例①、事例)。



【発展】※専門職向け

 上記裁判例は、相続放棄申述を却下した原審を取り消した即時抗告審の判断である。「相続放棄の申述の受理は、家庭裁判所が後見的立場から行う公証的性質を有する準裁判行為であって、申述を受理したとしても、相続放棄が有効であることを確定するものではない。相続放棄等の効力は、後に訴訟において当事者の主張を尽くし証拠調べによって決せられるのが相当である。」とも判示しており、葬儀費用に充てさえすれば許されると安易に考えることには注意が必要である。


【判例・裁判例】

■最高裁判所

■高等裁判所

①大阪高決平成14年7月3日・家月55巻1号82頁(事例)

■地方裁判所


【参考文献】

■調査官解説

■条解・コンメンタール等

①潮見佳男『新注釈民法⒆ 相続⑴(第2版)』(2023、有斐閣)615~624頁

②能見善久、加藤新太郎『論点体系 判例民法11 相続(第4版)』(2024、第一法規)234~239頁

■裁判官・元裁判官

■立案担当者見解

■学説

■弁護士・その他


富永

2026年4月9日木曜日

【労働問題・コラム】就業規則の規範的効力① 最低基準効

 【事例1】朝日火災海上保険事件

 株式会社Yの就業規則には、退職時の本俸月額に支給率を乗じた額を退職金として支給する規定がある。Xらは、労使交渉の末、本俸引上額を退職金算定に入れないことを条件に、株式会社Yとの間で、賃上げに口頭で合意した。なお、就業規則は改定されていない。この場合、Xらは、賃上げ後の退職時本俸月額を基準とした退職金の請求ができるだろうか。

【事例2】野本商店事件

 株式会社Yの就業規則には、定期昇給は年2回定められた昇給率、賞与は年2回それぞれ基本給の半月分、1か月分と規定されている。あるときから業績が悪化し、就業規則とおりの定期昇給と賞与支給が行われなくなっている。従業員Xは、就業規則とおりの定期昇給を前提とした賃金請求や賞与請求ができるだろうか。


【解説】

 就業規則が定める労働条件は、法令または労働協約に反しない限り(労基法92条1項)、事業場の労働条件の最低基準として労働契約の内容を強行的・直律的に規律する(労契法12条前段・後段)。就業規則の「最低基準効」と称される。

 【事例1】において、Xが賃上げ後の退職時の本俸月額を退職金算定の基礎として計算した退職金の支払を請求した場合、請求は認められるだろうか。本俸引上額を退職金算定の基礎に入れないことを条件に賃上げの合意をしているのだから、請求は認められないようにも思える(実際、判例①は、退職金請求を認めた原審に対し、退職金算定の基礎に算入しない旨の黙示の合意が成立するとの主張の当否を原審が判断していないとして、破棄差戻しにしている。)。しかしながら、就業規則が改定されていない以上、最低基準効はなお有効なものとして存在している。そのため、就業規則の規定に基づくXの請求は認められる。

 【事例2】において、就業規則の最低基準効から、昇給した場合の差額賃金及び賞与の支払請求が認められることは、分かりやすい。ところが、裁判例②は、「昇給の実施をしないこと及び賞与の支給をしないことを暗黙のうちに承認していた、すなわち、黙示の承諾をしていた」として、請求を棄却するという判断をしており、学説(①)から批判されている。




【発展】※専門職向け


【判例・裁判例】

■最高裁判所

①最小判平成6年1月31日・労判648号12頁(事例1)

■高等裁判所

■地方裁判所

②東京地判平成9年3月25日・労判718号44頁(事例2)


【参考文献】

■調査官解説

■条解・コンメンタール等

■裁判官・元裁判官

■立案担当者見解

■学説

①水町勇一郎『詳解 労働法(初版)』(2019、東京大学出版会)179~180頁

②菅野和夫『労働法(第12版)』(2019、弘文堂)218~219頁

■弁護士・その他


富永

2026年4月8日水曜日

【刑事事件・コラム】量刑の傾向② 「建造物侵入又は住居侵入、及び窃盗既遂1件、前科なし」

 【相談例】

 大学生の息子が、SNSで闇バイトに手を出し、店舗に侵入して売上金を盗み、逮捕されてしまいました。刑務所に行くことになるのでしょうか。


【解説】

 集積された裁判例によって示される犯罪類型ごとの一定の量刑傾向は、直ちに法規範性を帯びるものではないが、量刑を決定するに当たって、その目安とされるという意義をもっている(最小判平成26年7月24日・刑集68巻6号925頁)。

 【相談例】は、建造物侵入、窃盗既遂1件という事案である。第一東京弁護士会発行の「量刑調査報告集Ⅳ」及び「量刑調査報告集Ⅴ」で、「建造物侵入又は住居侵入、及び窃盗既遂1件、前科なし」を条件として得られる量刑分布は、令和4年法律第67号による改正前の刑法下での懲役刑で、懲役1年から2年10月に分布し、ピークは懲役1年6月というものである。そのうち、懲役2年10月の1件を除き、懲役1年の2件、懲役1年4月の3件、懲役1年6月の19件、懲役2年6月の1件のすべてで執行猶予となっている。



※現在は、拘禁刑に改正されている。


富永

2026年4月7日火曜日

【不動産・かわら版】雨漏り歴の説明義務は?

 


★ そんな話、聞いてない!? ★


 中古マンションの仲介。買主とともに複数回物件を内覧し、無事、売買契約が成立。


 ところが、引渡し1か月後に雨漏りが発生。どうやら、過去に雨漏り歴があったことを売主が隠して、物件報告書に「現在まで雨漏りを発見していない。」と記載していたよう。


 「虚偽説明だ!賠償しろ!」と息巻く買主。


 そんな話、聞いてない!?

 仲介業者の責任やいかに...


 不動産売買にあたって物件の情報収集は各当事者の自己責任といえど、信義則上の義務として、取引相手に対する説明義務が課される場合があります。


 物件報告書に雨漏り歴の虚偽記載をした売主の責任は当然。問題は仲介業者の責任です。売主の虚偽説明を知らなかったとしても、一応の調査すら尽くしていない場合には、仲介契約上の債務不履行責任を負う場合があります。


 裁判例(東京地判令和2年2月26日)では、マンションの管理組合に対して、修繕履歴や管理組合の総会議事録の開示を求める等の一応の調査を尽くした点を評価して、仲介業者を免責しています。


 では、どの程度の調査を尽くせばよいのか?

 漏れなく説明しますので、お気軽にご相談くださいませ。


富永

2026年4月6日月曜日

【相続・コラム】いわゆる使途不明金問題について② 相続開始後の払戻し

 【事例】

 被相続人Aは、平成26年10月11日に死亡したところ、その子であるYは、同月12日以降、4回に渡り、A名義の普通預金口座から、合計259万6000円を出金し、同出金に伴う手数料合計432円が同口座から支払われた。被相続人Aの子であるX(相続人はXとYの2名のみ)は、Yに対して、何らかの請求をすることができるだろうか。


【解説】

1 概要

 相続開始の前後に被相続人名義の預金が払い戻されることがあり、使途不明金問題と呼ばれている。

2 相続開始後の払戻し

⑴ 分割の対象となる遺産の範囲-預貯金債権

 現在は、預貯金債権について、不可分債権であり、遺産分割の対象となるとされている(判例②~④)。

 そのため、原則として、遺産分割の前には、共同相続人全員の同意を得なければ、預貯金の払戻しをすることができない。 

⑵ 単独の権利行使による払戻し

 各相続人は、預貯金債権のうち、相続開始時の債権額の3分の1に当該相続人の法定相続分を乗じた額(ただし各金融機関ごとに150万円が上限)を、単独で払い戻すことができる。払い戻した分については、当該相続人が遺産の一部分割によりこれを取得したものとみなされる(民法909条の2)。

 払戻しがされたものは、すでに分割済みのものとなり、遺産分割の対象とはならない。もっとも、これを遺産分割の対象に含めることを相続人全員で合意することもできる(判例①)。

⑶ ⑵以外の払戻し

 金融機関が相続の開始を知った場合、金融機関は預貯金口座を閉鎖し、払戻しができなくなるが、金融機関が相続開始を知るまでの間は、被相続人以外の者による預貯金の払戻しがされる余地がある。

 遺産である預貯金債権が、遺産分割前に払い戻されると、預貯金債権そのものは遺産分割の対象から逸出する。これに代わる無断払戻者に対する損害賠償請求権や不当利得返還請求権を相続財産の代償財産ということはできるが、これらは可分債権であるから、原則として遺産分割の対象とならない。民事訴訟による解決となる。

 無断払戻者以外の相続人の同意が得られれば、その財産が遺産分割時に遺産として存在するものとみなし、それを当該払戻しをした相続人に取得させる(民法906条の2)。

3 事例について

 被相続人Aの死後に出金された金額等は、合計259万6432円であった。そのため、Xは、法定相続分2分の1に相当する129万8216円をYに対して請求できると判断された。




【発展】※専門職向け


【判例・裁判例】

■最高裁判所

①最小判昭和54年2月22日・集民126号129頁

②最小判平成22年10月8日・民集64巻7号1719頁

③最大決平成28年12月19日・民集70巻8号2121頁

④最小判平成29年4月6日・集民255号129頁

■高等裁判所

■地方裁判所

⑤東京地判令和3年9月28日・判時2528号72頁(事例)


【参考文献】

■調査官解説

■条解・コンメンタール等

①潮見佳男『新注釈民法⒆ 相続⑴(第2版)』(2023、有斐閣)398~408頁、497~514頁

■裁判官・元裁判官

②井上繁規『遺産分割の理論と審理(第3版)』(2021、新日本法規)239~240頁

③岡口基一『要件事実マニュアル第5巻 家事事件・人事訴訟(第7版)』451~452頁

④片岡武、管野眞一『家庭裁判所における遺産分割・遺留分の実務(第4版)』(2021、日本加除出版)76~80頁

⑤田村洋三、小圷眞史ほか『実務 相続関係訴訟 遺産分割の前提問題等に係る民事訴訟実務マニュアル(第3版)』(2020、日本加除出版)214~219頁

⑥松本哲泓『設例解説 遺産分割の実務 -裁判官の視点による事例研究-』(2024、新日本法規)169~170頁、188~195頁

⑦山城司『Q&A 遺産分割事件の手引き』(2022、日本加除出版)163~172頁

■立案担当者見解

■学説

■弁護士・その他


富永

2026年4月5日日曜日

【労働問題・コラム】労基法等の規範的効力

 【事例1】橘屋事件

 Xらと株式会社Yとの間の労働契約では、休憩時間を1時間とし、夏場は午前6時から午後5時までの10時間、冬場は午前6時から午後7時までの12時間の労働時間となっていた。Xらが就労すべき労働時間は何時間だろうか。

【事例2】

 株式会社Yは、就業規則に、「時間外労働に対する割増賃金は支給しない。」と規定している。従業員Xは、時間外労働に対する割増賃金を請求できないのだろうか。


【解説】

 労基法は、その設定する基準が労働契約内容に対し強行的な効力をもち(労基法13条前段)、かつ、契約内容を直接規律する効力をもつ(同後段)。前者を強行的効力、後者を直律的効力といい、あわせて規範的効力と呼ぶことがある。

 【事例1】では、1日8時間を超える部分が、労基法32条2項に違反している。そのため、労働時間に関する合意のうち、1日8時間を超える部分が労基法13条前段によって無効となり、1日8時間の労働契約となる。

 【事例2】では、割増賃金を支給しない旨の就業規則の規定が、労基法37条1項に違反している。そのため、当該規定が労基法13条前段によって無効となり、労基法37条1項で定める基準が労基法13条後段によって労働契約の内容となる。



【発展】※専門職向け


【判例・裁判例】

■最高裁判所

■高等裁判所

■地方裁判所

①大阪地判昭和40年5月22日・労民16巻3号371頁(事例1)


【参考文献】

■調査官解説

■条解・コンメンタール等

■裁判官・元裁判官

■立案担当者見解

■学説

①菅野和夫『労働法(第12版)』(2019、弘文堂)190~191頁

■弁護士・その他


富永

2026年4月4日土曜日

【刑事事件】量刑の傾向① 「覚せい剤使用のみ、同種前科あり」

 【相談例】

 家族が覚せい剤を使用して逮捕されました。実は、これが2回目です。刑事裁判になれば、どれくらいの量刑が科されるのでしょうか。


【解説】

 集積された裁判例によって示される犯罪類型ごとの一定の量刑傾向は、直ちに法規範性を帯びるものではないが、量刑を決定するに当たって、その目安とされるという意義をもっている(最小判平成26年7月24日・刑集68巻6号925頁)。

 【相談例】は、覚せい剤の使用1件という事案である。第一東京弁護士会発行の「量刑調査報告集Ⅳ」及び「量刑調査報告集Ⅴ」で、「覚醒剤使用のみ、同種前科あり」を条件として得られる量刑分布は、令和4年法律第67号による改正前の刑法下での懲役刑で、懲役1年から3年6月に分布し、ピークは懲役1年6月というものである。そのうち、懲役1年6月の46件中17件(約37%)、懲役2年の33件中8件(約24%)、懲役2年6月の18件中2件(約11%)、全体で191件中27件(約14%)が執行猶予となっている。



※現在は、拘禁刑に改正されている。


富永

2026年4月3日金曜日

【不動産・かわら版】後見の高見で貢献



 ご高齢者の不動産取引では、所有者ご本人が認知症などになっておられるケースがあります。不動産事業者のみなさまは、施設に入所した親名義の不動産を売却したいと子どもが相談に来られることも多いのではないでしょうか。 

 精神上の障害により事理を弁識する能力を欠く常況にある者については、後見開始の審判をすることができます。


 成年後見人は、成年被後見人の財産を処分する権限が与えられますから、後見人の判断で不動産も売却できるのが原則です。


 もっとも、居住用不動産については、家庭裁判所の許可が求められます(民法859条の3)。許可のない処分は、無効です。


 この居住用不動産、現に住んでいる物件だけでなく、「将来住むかも・・・」というレベルでも対象になります。

 許可するかどうかは、処分の必要性と成年被後見人に与える影響を比較して家庭裁判所が判断します。


 「売却の許可は得られそう?」判断に悩まれるときは、ぜひ1度ご相談ください。


富永

2026年4月2日木曜日

【相続・コラム】いわゆる使途不明金問題について① 相続開始前の払戻し

 【事例】

 被相続人Aは、平成26年10月11日に死亡したところ、その子であるYは、Aの生前に、Aの預貯金を引き出したり、Aの保険契約の保険金受取人を変更したりし、それによりYは9844万0804円の利益を得たところ、同額のうち9433万5315円は、Aの許諾を得ていたものではなかった。被相続人Aの子であるX(相続人はXとYの2名のみ)は、Yに対して、何らかの請求をすることができるだろうか。


【解説】

1 概要

 相続開始の前後に被相続人名義の預金が払い戻されていることがあり、使途不明金問題と呼ばれている。

2 相続開始前の払戻し

⑴ 無断での払戻し

 被相続人の生前に、被相続人の一人が被相続人の預貯金を無断で払い戻した場合、被相続人の当該相続人に対する不当利得返還請求権(又は不法行為に基づく損害賠償請求権)が発生し、これが、被相続人の死亡により、各共同相続人に当然分割されるのが原則である。

⑵ 委託を受けた払戻し

 払戻しが無断ではなければ、寄託金返還の問題となる(裁判例②)。

⑶ 被相続人からの贈与

 被相続人の了解のもと預貯金が払い戻され、特定の相続人が贈与を受けた場合は、特別受益の問題になる。

3 分割の対象となる遺産の範囲-金銭債権

 上記2⑴⑵の場合、共同相続人は被相続人の有する金銭債権を相続することになる。そして、金銭その他の可分債権は、相続開始とともに法律上当然に分割される(判例①)。

4 事例について

 被相続人Aの生前にYがAの許諾なく預貯金を引き出したりした使途不明金の額は、9433万5315円であった。そのため、Xは、法定相続分2分の1に相当する4716万7657円をYに対して請求できると判断された。




【発展】※専門職向け


【判例・裁判例】

■最高裁判所

①最小判昭和29年4月8日・民集6巻4号819頁

■高等裁判所

②東京高判令和4年4月28日・判タ1517号105頁

■地方裁判所

③東京地判令和3年9月28日・判時2528号72頁(事例)


【参考文献】

■調査官解説

■条解・コンメンタール等

■裁判官・元裁判官

①井上繁規『遺産分割の理論と審理(第3版)』(2021、新日本法規)183~187頁

②岡口基一『要件事実マニュアル第5巻 家事事件・人事訴訟(第7版)』(2024、ぎょうせい)451~452頁

③司法研修所『遺産分割事件の処理をめぐる諸問題』(1994、法曹会)245~246頁

④片岡武、管野眞一『家庭裁判所における遺産分割・遺留分の実務(第4版)』(2021、日本加除出版)76~78頁

⑤田村洋三、小圷眞史ほか『実務 相続関係訴訟 遺産分割の前提問題等に係る民事訴訟実務マニュアル(第3版)』(2020、日本加除出版)214~219頁

⑥松本哲泓『設例解説 遺産分割の実務 ー裁判官の視点による事例研究-』(2024、新日本法規)184~188頁

⑦山城司『Q&A 遺産分割事件の手引き』(2022、日本加除出版)159~162頁

■立案担当者見解

■学説

■弁護士・その他

⑧関戸勉、福澤武文ほか『相続・遺言を巡る法律問題 弁護士が知識と経験で解決した困難事例』(2020、第一法規)3~11頁

⑨本橋総合法律事務所『Q&Aと事例 相続における使途不明金をめぐる実務』(2025、新日本法規)


富永

2026年4月1日水曜日

【労働問題・コラム】賃金債権の放棄・賃金減額の合意

 【事例1】シンガー・ソーイング・メシーン・カンパニー事件

 株式会社Yに雇用されたXは、退職に際し、「Xは、株式会社Yに対し、いかなる性質の請求権をも有しないことを確認する」旨の記載のある書面に署名して株式会社Yに差し入れた。Xは退職金の請求をすることはできないのだろうか。

【事例2】更生会社三井埠頭事件

 株式会社Yは、管理職従業員Xらの賃金を20%減額するとの通知をした。Xらは、賃金減額を甘んじて受け入れるしかないのだろうか。


【解説】

 労働契約関係は、労働者と使用者が対等な立場で合意によって成立させ、内容を定めるべきものである(労契法1条、同3条1項)。そのため、契約内容(労働条件)の変更も、それら当事者の合意によるべきことが原則である。

 では、合意(ないし労働者の意思表示)があれば、いかなる労働条件も変更可能か。

 例えば、経営危機に際し、役員や管理職等が報酬や賃金の一部を返上する措置がとられることがある(裁判例④)。経営危機に瀕した企業が個々の労働者の同意を取り付けて賃金減額を行う場合には、同意は労働者の自由意思に基づく明確なものであることを必要とし、とくに黙示の合意の場合にはその成立や有効性は容易には認められない(裁判例③⑤)。

 【事例1】のように、労働者が何らかの理由により賃金債権を放棄(賃金債務の免除、民法519条)する旨の意思表示をした場合でも、労基法24条1項に定める賃金全額払の原則の趣旨から、その意思表示が有効というためには、それが労働者の自由な意思に基づいてされたものであることが明確でなければならないとするのが判例(判例①②)である。




【発展】※専門職向け


【判例・裁判例】

■最高裁判所

①最小判昭和48年1月19日・民集27巻1号27頁(事例1)

②最小判平成15年12月18日・労判866号14頁(北海道国際空港事件)

■高等裁判所

③東京高判平成12年12月27日・労判809号82頁(事例2)

■地方裁判所

④大阪地判平成9年5月28日・労経速1641号22頁(ティーエム事件)

⑤東京地判平成20年1月25日・労判961号56頁(日本構造技術事件)


【参考文献】

■調査官解説

■条解・コンメンタール等

■裁判官・元裁判官

■立案担当者見解

■学説

①菅野和夫『労働法(第12版)』(2019、弘文堂)455~456頁

■弁護士・その他


富永

2026年2月18日水曜日

『山姥(上・下)』(坂東眞砂子著・新潮文庫)(5)

 

 謡曲『山姥』の舞台は、「越中・越後の国境にある境川に至り、そこから上路山を徒歩で越えようとしますが・・・」とあるとおり、越中・越後の国境にある境川の上流にある上路山ふきんである。上路には集落があり、ズバリ山姥神社もある。

https://www.google.com/maps/place/%E6%96%B0%E6%BD%9F%E7%9C%8C%E6%96%B0%E6%BD%9F%E5%B8%82/@36.9779188,137.6541829,14.75z/data=!4m6!3m5!1s0x5ff4c5c255c7c0f7:0xf1509bcbc990230d!8m2!3d37.9185345!4d139.069444!16zL20vMGdwNmJu?entry=ttu&g_ep=EgoyMDI2MDIxMS4wIKXMDSoASAFQAw%3D%3D

 越中・越後の国境、境川。そこは人界と魔界の境でもある。そこから先は山姥が出現する異界をなしている。

 越中から越後へ、上路を行かないで、海沿いに下路を行くと市振(いちぶり)がある(市振の先は昨年11月に訪ねた親不知である)。『おくのほそ道』の市振の段を引用しよう。芭蕉は逆に越後から越中へむかっている。

 今日は親知らず・子知らず・犬戻り・駒返しなどという北国一の難所を越えて疲れはべれば、枕引き寄せて寝たるに、一間隔てて面のかたに、若き女の声、ふたりばかりと聞こゆ、年老いたる男の声も交じりて物語するを聞けば、越後の国新潟といふ所の遊女なりし・・・。

 芭蕉に同道した曽良の旅日記によれば、市振の宿でこのような遊女との出会いはなかったようである。つまり、この部分は芭蕉の創作である。

 芭蕉も坂東眞砂子も意識していなかったかもしれないが、越後の山中、遊女、山姥が共鳴しあっている。国はずれ、国ざかいは人の支配が行き届かず、遊女や山姥といったマージナルな存在が行きかう世界である。

 新海誠監督のアニメ映画『君の名は。』。東京四谷の男子高校生と飛騨の山深い糸守町の女子高校生が入れ替わることから物語がスタートする。2人がそれぞれ生きている世界には3年のタイムラグがあるため直接会って話ができない。ひかれあいながら、もどかしい・・・

 しかし終盤のたそがれ(誰ぞ彼、糸守の方言でカタワレ)時、ご神体の境界域をなす外輪山で、2人は互いの姿が見え、入れ替わりが元に戻り、はじめて時を超えて会話をすることができた!とても印象深いシーン。超常現象・奇跡はマージナルな時間、マージナルな場所で起きるのである。

 板東版『山姥』のワキ主人公である凉之助。東京から招かれ、不毛の肉体を持て余す美貌の役者である。凉之助はふたなり。ふたなりとは、一つのものが二つの形状をもつことをいい、特に一人で男性と女性の性器を兼ねそなえた、いわゆる両性具有をさす。

 その凉之助と、雪に閉ざされた村の暮らしに倦いている地主の嫁・てる。二人の密通が序曲となり、悲劇の幕が開いたー。しかも2人の関係は実は・・・。

 謡曲の山姥は、妄執を逃れられない苦しさを訴える一方で「善悪不二」「邪正一如」「煩悩即菩提」といった禅の思想(仏法の深淵な哲理)を説いた。この主題も坂東眞砂子の『山姥』は取り込んでいる。

 板東版『山姥』は、男女の入れ替わり、両性具有、人即山姥。男女不二、男女一如、煩悩即菩提の世界である。

2026年2月17日火曜日

『山姥(上・下)』(坂東眞砂子著・新潮文庫)(4)

 

 写真は越後駒ヶ岳である(2018.5.12)。

 坂東眞砂子の『山姥』は、駒ヶ岳の北麓の村、その近くの鉱山と白銀の狼吠山を舞台にしている。

 「・・・青く澄んだ空の縁を切り取る白銀の山嶺。白い斜面に荒い刷毛で撫ぜたような墨色の線を描いているのは、葉を落とした木々の影。・・・よく晴れているおかげで、遠くの山まで見晴らせた。南の山々の向こうにちょこんと飛びでているのは駒ヶ岳、北のほうで狼の歯のようにぎざぎざした山頂を聳えさせているのは、狼吠山だ。狼吠山から流れてくる童子川は氷りつき、知っている者でないと、どこを流れているかわかりはしない。一年も、この季節ともなると、妙の住む明夜村の家々はすっぽりと雪に埋まり、・・・」(上巻13頁)。

 越後駒ヶ岳には3度登ったことがある。標高2003mの日本百名山。八海山、中ノ岳とともに越後三山を構成し、どっしりとした山容。豪雪地帯にある山であるから、遅くまで雪が残り、高山植物が咲き乱れるときは別天地である。大好きな山である。

 越後三山の西麓はあの魚沼である。コシヒカリで有名な。豪雪は二義的。厳しくつらい冬ももたらすが、おいしい雪解け水、おいしい米ももたらす。さらに八海山というお酒をご存知のかたも多かろう。おいしい水とおいしい米はおいしいお酒ももたらすのである。

 駒ヶ岳に登るときは、いつも北麓にある駒ノ湯温泉を登山口としているので、北嶺の地理には比較的あかるい。小説を読みながら、あのへんかな、このへんかなと考える。駒ヶ岳の東麓には銀山平という鉱山跡もある。 

 しかしながら狼吠山という山は実際にはない。作者の創作である。狼吠山という名前、ぎざぎざした山頂、山岳信仰の山であること、東峰と西峰があることなどからすれば、モデルは秩父(埼玉)にある両神山かと思う。

 両神山も百名山。やはり山岳信仰の山であるし、山中、山麓の神社では、狛犬のかわりに狼の石像が鎮座している。山頂もぎざぎざしている。

 狼吠山のモデルが両神山だとすると、坂東眞砂子はかなり山に登っているはずだ。あるいは、取材するなかで、山に詳しい人物に出会ったか。

 大学の部活の友だちがライングループにアップしていた写真。かれは両神山のふもとに住んでいる。山好きのDNAは健在である。両神山のむこうに日が沈み、西の空が美しくやけている。たしかに山頂はぎざぎざしている。狼や神が跋扈していてもおかしくない神々しい姿である。

2026年2月16日月曜日

『山姥(上・下)』(坂東眞砂子著・新潮文庫)(3)


 『山姥』といえば、本家はやはり謡曲。能・演目事典によるあらすじはこう。 

 都に、山姥の山廻りの曲舞をつくってうまく演じたことから、百ま山姥(百萬山姥または百魔山姥とも)という異名を取って、人気を博していた遊女がいました。ある時、遊女は善光寺参詣を志し、従者とともに信濃国を目指して旅に出ます。その途中で、越中・越後の国境にある境川に至り、そこから上路山を徒歩で越えようとしますが、急に日が暮れてしまいます。一同が困り果てているところに、やや年嵩の女が現れて、一夜の宿を貸そうと申し出て来ました。庵に一同を案内した女は真の山姥であることを明かし、自分を題材にして遊女が名声を得た山姥の曲舞を一節謡ってほしい、日を暮れさせて庵に連れてきたのもそのためだと訴えます。遊女が恐ろしくなって謡おうとすると、女は押し止め、今宵の月の上がった夜半に謡ってくれるなら、真の姿を現して舞おうと告げて、消えてしまいます。

 夜更けになって遊女らが舞曲を奏でつつ待っていると、山姥が異形の姿を現します。深山幽谷に日々を送る山姥の境涯を語り、仏法の深淵な哲理を説き、さらに真の山廻りの様子を表して舞ううちに、山姥の姿はいずこかへ消え、見えなくなりました。


 この謡曲からインスパイアされて坂東眞砂子が『山姥』を書いたことは疑いないように思える。もう一度、新潮文庫のブックカバー裏の紹介文を引用しよう。

 「明治末期、文明開化の波も遠い越後の山里。小正月と山神への奉納芝居の準備で活気づく村に、東京から旅芸人が招かれる。不毛の肉体を持て余す美貌の役者・凉之助と、雪に閉ざされた村の暮らしに倦いている地主の嫁・てる。二人の密通が序曲となり、悲劇の幕が開いたー人間の業が生みだす壮絶な運命を未曾有の濃密さで描き、伝奇小説の枠を破った直木賞受賞作。」

 こうしてみると、両作品は越後の山中という舞台、都からやってきた旅芸人2人のワキ、そしてシテが山姥ということなどの道具立てを共有している。『山姥』が謡曲に基づき書かれたといっても間違いではないように思える。

 さらに、謡曲の山姥は、妄執を逃れられない苦しさを訴える一方で「善悪不二」「邪正一如」「煩悩即菩提」といった禅の思想(先のあらすじによれば、仏法の深淵な哲理)を説く。ここらあたりの主題も坂東眞砂子の『山姥』は取り込んでいるようである。

 もちろん板東版『山姥』だけでも十分に楽しめる。が、「本歌」のほうも知っていると、作品により深みが増すようである。

 山姥に襲われるという言説は、一般人をして山に入るのを躊躇させたであろう。子どもに夜出歩くと鬼がでるぞと注意するようなものである。熊に襲われるというのも怖いが、山姥に襲われるというのはもっと怖い。

2026年2月13日金曜日

『山姥(上・下)』(坂東眞砂子著・新潮文庫)(2)

 

 板東真佐子は1958年3月30日生まれであるから、われわれと同年代、自分より半年だけ年長である。

 高知県出身。高知県出身の小説家といえば、宮尾登美子。『櫂』で注目されて以来、緻密な構成と、時代に翻弄されながらも逞しく生きる女性を描いた作風で多くの読者に支持された。高知の花柳界で育った体験を生かした自伝的作品のほか、芸道物、歴史物のモデル小説に優れるとされる(ウィキ)。『山姥』が宮尾作品の影響を受けていることは間違いないだろう。

 高知県出身者といえば、いずれもNHK朝ドラ主人公のモデルである牧野富太郎博士(植物学者)ややなせたかし(漫画家)もいるが、彼らの影響を受けていることは感じられない。

 坂東眞砂子は奈良女子大出身。小説家としては異色なことに学部は家政学部住居学科である。その後イタリアに留学し、ミラノ工科大学等でイタリアデザインを学んでいる(ウィキ)。

 ジブリアニメ『耳をすませば』で、読書好きの主人公の中三女子・雫が知り合ったやはり読書好きの青年・聖司はヴァイオリン職人になるためイタリアのクレモーナに留学してしまう。映画をみたときは唐突な感じがしたが、自分の世界観が狭かっただけなのかもしれない。

 いまどきはビジネスでさえ基本にはデザインが必要とされているので、『山姥』の構成や細部の描写に、イタリアで培ったデザインセンスが生きているといわれれば(誰も言っていないかもしれないが)、それはそのような気がする。

 帰国後は、フリーライターを経て、寺村輝夫の主催する童話作家育成雑誌『のん』で認められ、児童向けファンタジー小説で作家としてデビュー。ホラー小説と呼ばれるジャンルの作品も多いが、「死」と「性」を主題とした作品が特徴である(ウィキ)。

 寺村輝夫は、『王さまシリーズ』『こまったさん』『わかったさん』の各シリーズ、『かいぞくポケット』など、子どもたちが小さいころ世話になった。少なくとも、『山姥』に寺村輝夫の影響は感じられない。前日に書いた『うまかたやまんば』や『くわずにょうぼう』などを通じた間接的なものは知らないが。

 1996年に本作で直木賞を受賞している。ちょうど30年前である。30年前といえば坂東眞砂子は37歳になっていただろうか(当職は36歳)。37歳当時の自身と引き比べ、30代で直木賞を受賞するとはすごい。

 当時、本屋で平積みになっていた記憶はある。だが、弁護士として多忙であった時期であるせいか購入には至らなかった。なにごとも出会い、本とも出会いである。

 著者は残念ながら2014年1月佐川町で没している。55歳の若さ。舌癌だったようだ(ウィキ)。若い人たちにはどうということのない話だ。だが、ほぼ同い年の筆者にとっては他人ごととは思えぬ話である。

 こんかい『山姥(上・下)』はAmazonを通じて古本を購入した。新刊の在庫がなかったからである。これほど面白い本で、かつ直木賞受賞作にして、30年で新刊の在庫がなくなるとは寂しいかぎりである。

2026年2月12日木曜日

『山姥(上・下)』(坂東眞砂子著・新潮文庫)(1)


 ある遺産分割調停の依頼人の奨めで『山姥(上・下)』(坂東眞砂子著・新潮文庫)を読んだ。依頼人がなぜこの本を薦めたのか、動機は最後まで不明のままだったが。ぐいぐいひきこまれて、とても面白かった。

 ネタバレになると困るけれども、ブックカバーの裏にある紹介文の引用であれば許されるであろう。

 「明治末期、文明開化の波も遠い越後の山里。小正月と山神への奉納芝居の準備で活気づく村に、東京から旅芸人が招かれる。不毛の肉体を持て余す美貌の役者・凉之助と、雪に閉ざされた村の暮らしに倦いている地主の嫁・てる。二人の密通が序曲となり、悲劇の幕が開いたー人間の業が生みだす壮絶な運命を未曾有の濃密さで描き、伝奇小説の枠を破った直木賞受賞作。」

 この紹介文を読んだだけでは、誰が、なぜ、「山姥」なのかさっぱりわからない。地主の嫁・てるが山姥なのだろうか。

 山姥(やまんば)といえば、子どもの絵本『うまかたやまんば』。福音館書店HPの紹介はこう。

 ある日、馬方は浜辺でたくさんの魚を仕入れ、馬に乗せて歩いていました。すると峠にさしかかったとき、山姥に「魚をおいてけ」といわれ、追いかけられます。馬方は怖くなり、魚の荷を投げて、山姥に差し出します。しかし、山姥はまだ追いかけてきて、馬方といた馬まで、すっかり食べてしまいます。さて、馬方の仕返しは・・・。はらはら、どきどきの連続、痛快な昔話絵本です。

 おなじく『くわずにょうぼう』。おなじく福音館書店HPの紹介はこう。

 欲張り男のところに、よく働くが飯を食わない美しい女がやってきて女房になりました。最初は喜んだ男でしたが、ある日、蔵の米がごっそり減っているので、隠れて見ていると、女房は男の留守に米を炊き握り飯を作ると、髪をほどいて頭のてっぺんの大きな口から食べてしまっていました。女の正体が鬼婆だったことを知った男は、鬼婆にとらえられ・・・。赤羽末吉の絵によるスリリングな昔話の絵本。

 どちらも子どもたちが小さいころ繰り返し読んだ。

 子どもたちにとって、母親はときに優しい女神であり、ときに恐ろしい山姥だったりする。山姥は後者のイメージを具象化したもの。それにより子どもたちのこんがらがった頭のなかが整理されるというような話を読んだことがある。河合隼雄だったか、あるいは、その他ユング派の流れを汲む誰かだったか。

 坂東眞砂子の小説のタイトルの読み方は「やまんば」ではなく「やまはは」である。その理由は読めばわかる。

2026年2月10日火曜日

顧問会社が損害賠償を請求された事件(示談解決)

 

 ハラスメントなど違法行為があったとして、顧問会社が従業員から損害賠償を請求される事案が増えている。

 阿部サダヲ主演の『不適切にもほどがある!』というテレビドラマがある。2年前の1月から3月まで放送された。

 阿部サダヲが昭和(1986年)から令和(2024年)にタイムスリップしてしまう。そこは昭和とちがい、コンプライアンスが厳しい世界である。阿部サダヲの頭は昭和のままであるから、その言動は令和の世にあっては「不適切にもほどがある」ということになってしまう。そこが笑いのツボである。

 このドラマを笑えるということは、頭のなかのコードが令和になっているという証明である。しかしなかには笑いのツボがわからない御仁もおられよう。

 われわれにとって1986年はついこのあいだである。が、両者を引き算すれば明らかなようにもう40年も経ってしまっている。われわれは「巨人の星」、「エースをねらえ」、「サインはV」などスポ根ものをみて育った。上司が部下を叱りつけて教育するのは当たり前だった。しかしいまそれはパワハラであるとしてゆるされない。

 われわれの年代の上司はついつい昔の感覚で部下を叱りつけてしまい、部下から「不適切にもほどがある(パワハラである)」として指弾されることになる。これがいまハラスメント事案が増加している原因である。

 本件も顧問会社Aが従業員Bから損害賠償の請求を受けた事案である。示談で解決することができた。パワハラ事案とはちょっと異なる。

 A社の社長としては従業員Bにある国家資格をとってもらいたかった。会社の仕事上必要な資格ではなかったが、従業員の成長に役にたつと考えた。資格を取得するには国家試験にうかる必要がある。試験を受けるにはある講義を受講する必要があった。

 講義を受講するには、一定の実務経験が必要とされていた。この点について、若干の下駄を履かせた証明書を提出した。社長としては、受講先を騙すという気はなく、受講先と連絡と了解をとりつつ、この程度の脚色は許されるだろうという考えだった。

 Bは厳しいカリキュラム受講を熱心にすませ、狭き門である試験にも合格し、資格を得た。ところが、その後、社長との間でちょっとした口論となり、会社を辞めてしまった。

 その後、上記国家資格取得は、虚偽報告に基づく違法なものであり、精神的苦痛を味わったとして、Bは200万円もの損害賠償を請求してきた(時間外賃金も請求すると言って資料を要求してきたが、こちらは早々にあきらめた。)。

 上記経過であるから、この請求は理由がない。A社の取引先など世間に知られたら困るでしょうなどと脅しまでしている。当社としてはこのような脅しに屈するわけにはいかない。200万円もの理由のないお金は支払えないと突っぱねた。

 まずBの請求は国家試験の受験資格と民間がやっている講座の受講資格を故意に混同している。Bはきちんと競争試験を受けて合格しているのであるから、国家資格取得に違法はない。

 つぎに先例を有無を尋ねた。Bの弁護士は、ブラック企業が行った詐欺事案を1例だけ引き合いにだしてきた。本件とは明らかに事案を異にする。つまり、先例は存在しないということだ。

 こうしたやりとりを踏まえて、当社は示談金30万円の支払いをもって、すべて解決するとの提案をおこなった。本件が裁判になれば、手間・ヒマをとられる上に、訴訟費用として30万円はかかるからである。

 Bはこの提案を蹴って裁判するといきまいた。・・・それから数ヶ月が経過した。結局、Bはこの提案を受諾し、無事に示談解決した。ふう。

2026年2月9日月曜日

設計代金の回収交渉事件(全額回収)

 

 民事事件とは何か。一般の人にはわかりにくく、誤解も多い。まず、刑事事件との区別がついていない人が多い。

 民事事件は弁護士に相談しなければならない。刑事事件は警察に相談しなければならない。刑事事件は犯罪でなければならない。

 たとえば、ラーメン屋で無銭飲食をしたとする。ラーメン屋に入る前に財布が空であることを知っていれば詐欺である。しかし、食べたあと財布が空であることに気づけば詐欺ではない。

 詐欺罪で有罪にするには店に入る前に財布が空であることを証明しなければならない。人の頭のなかを観察することはできないので、なかなか詐欺で立件することは難しい。つまり、警察はうてあってくれない。

 この場合でも、ラーメン屋は無銭飲食者に代金もしくは損害賠償を請求することはできる。これが民事事件である。

 刑事事件は国家対個人、民事事件は個人対個人(ときに国家賠償請求事件など国や自治体が相手となることはある。)である。

 刑事事件では有罪が確定した被告人に罰金や懲役刑などを命じ、これを強制することができる。副産物として被害者に対する謝罪や被害弁償をひきだすこともできる。

 民事事件は基本的に金銭的な解決にかぎられる(謝罪広告や、家・土地に明け渡しの強制執行など例外はある。)。相手方に謝ってほしいという人もいるが、裁判官であっても民事事件でこれを命じることはできない。せいぜい慰謝料額を増額するぐらいである。

 金銭的な解決(判決)は債務者が任意に履行しなければ、民事(強制)執行によることになる。民事執行は債務者の財産の差押えである。

 債務者に不動産、預貯金、給料などの財産があれば、これらを差し押さえることができる。しかし、財産をもたなければこれをすることができない。

 財産をもたない人が最強の債務者である。われわれも債権回収を頼まれることが多い。債務者に財産がないために回収ができないことも多い。自己破産されれば、なおさらである。

 福祉施設の経営者Aは設計士が経営する設計会社Bに福祉施設の建設を依頼し約500万円を支払った。1年が経ったが、約束どおりに進行していない。

 設計図面はできていないし、役所の許認可も得られていない、補助金を得るのに必要な建設業者の見積もそろわない。このままでは補助金や銀行融資の内諾も打ち切られてしまう。危機的な状況だ。

 かくてAから代金回収の依頼を受けた。まず、この種の事件でいつも世話になっている建築士Cに相談して業界の実情をきいた。そのうえで、Bに対し内容証明郵便をだし、現在までに作成済みの図面等の持参し、現状を説明するよう要求した。

 Aの立会いのもと数度の交渉を経て、建築確認に必要な図面さえ未完成であることが判明した。やむを得ず契約を解除し、上記代金と損害賠償を請求した。

 Aはとても寛容な人で、上記契約代金さえ返してもらえば損害賠償のほうは免除してもよいという意向を示された。いささか寛容すぎるとは助言したが、依頼人の意向には逆らえない。

 一括返済は難しいとのことで、3回に分割して支払い、約束が果たされないときは損害賠償金を含めて支払ってもらうという示談をした。

 分割金は3か月にわたり支払われた。Aの被害回復として万全ではなかったが、早期に最低限の賠償を得ることはできた。肝心の福祉施設の建設のほうも、上記建築士Cの関与のもと順調に進行しているようだ。よかった。

2026年2月6日金曜日

預貯金の無断引出など相続争い(和解成立)

 

 相続争いは争族といわれる。むかしは、①前妻の子たちと後妻、②亡くなった長男の妻子と長男の弟たちのような、もめる原因が分かりやすい対立構造が多かった。

 類型①は、前妻の子たちは父をとられたという想いがあるし、あるいは、前妻vs後妻の代理戦争の意味合いもあったりする。

 類型②は、たとえば、田中家の田畑を長男であるという理由で長男が継いだところ、長男が早逝してしまった。そうすると、長男の弟たちとしては、田中家の男子として、なぜ田中家累代の遺産を外から来た長男の嫁たちにむざむざと渡さなければならないのかという想いがあった。

 しかし、最近は、兄と妹、姉と妹のような普通の兄弟間でも激烈な相続争いがある。

 今般、その一つが和解解決した。当事者はAB姉妹。妹のBから依頼を受けた。

 事案は複雑で争点は多岐にわたる。主に争われたのは亡父の遺産について。だが、亡母の遺産についても争われた。

 亡父は遺言書をのこし、遺言執行者にはAを指定していた。

 亡父は遺言書で、Bには実家の土地・建物と甲銀行の預金をのこした。Aが東京に在住しているのに対しBが地元に残っているので、実家の土地・建物をBにのこしたものと思われる。

 問題は甲銀行預金である。Aは亡父の生前からこの預金を管理していて、無断で払い戻してつかっていたし、亡くなった後もこれをつかった。預金残は40万円ほどだった。

 Bの代理人として、Aに対し、無断で払い戻した預金の返還を請求した。あわせて、預金残40万円を交付するよう要求するとともに、実家からの退去(私物の撤去)を請求した。しかしAはこれに一切応じなかった。

 遺産分割は家裁の管轄で、まずは調停を申し立てなければならない(調停前置主義)。裁判所はむやみに家庭に入らないという考えによる。本件でもまずは調停を申し立てたが、裁判所は遺言書があるのであれば、調停の対象にならないとして受理しなかった。 

 そこで、地方裁判所に対し、Aに対する損害賠償もしくは不当利得返還を請求する裁判を提起した。あわせて、上記預金の交付と実家からの退去を請求した。

 預金の無断引出については、あれに使った、これに使ったなどと未整理なまま主張してきた。預金残については自分で回収するればよい、退去はこちらでかってにやれなどと反論してきた。さらには亡母の預金も返せという。かくて争点がはっきりしないまま期日を重ねることになった。

 相手方には、頭がよい、あるいは、じぶんで頭がよいと思っていて、はやくから争点をしぼりこんでくるタイプの弁護士がついてほしい。速球をバンバン投げ込んでくるタイプはたたかいやすい。これに対し、軟投型でいつまでも事案がふわふわしているタイプの弁護士は苦手である。本件は後者だった。いつまでたっても争点がぼやっとしている。

 本訴の管轄は福岡地裁本庁(福岡市中央区六本松)ではなく、普通電車で2時間以上、前後をあわせると3時間以上かかる支部であった。むかしであれば、毎回出頭するのに時間と労力をとられたことであろう。いまは、事務所にいながらにしてオンラインで手続をすることができる。これで助かった。これがなければ、延々と出張を強いられたことだろう。

 裁判官も、途中から業を煮やし、和解案を示した。そして途中で和解案は修正された。和解案はむやみに修正してはいけない。権威を失い、したがう気持ちがなくなるからである。しかし、修正が行われた。相手方が主張する使途について細かな認定を強いられる判決は書きたくなかったのだろう。気持ちはよくわかる。

 さらに問題を難しくしたのは地裁と家庭裁判所の管轄問題である。地方裁判所は遺産分割事件には手を出せない仕組みになっている。亡母の遺産分割のことは手を出せないのである。

 (中略)

 裁判所の積極的な和解勧奨もあり、なんとか和解をすることができた。亡母の遺産分割も含めてである。少々時間を要したが亡母の遺産分割事件を家庭裁判所でやることを思えば、まずまずの解決であったと思う。

2026年2月5日木曜日

ペットの所有者責任・交渉事件(示談解決)

 

 飼っていたペットが知人の手~腕を咬んで怪我を負わせてしまい、後遺障害がのこったとして損害賠償を請求された事案。ペットのオーナー(加害者)側から交渉の依頼を受けた。

 オーナーも被害者も医療専門職であり、被害者側にも弁護士がついていた。オーナーは九州南部、被害者は関西在住で、コミュニケーションの困難が予想されたが、郵送だけでなく、メールやファックスなどで補いつつ交渉を進めることができた。

 動物の所有者の責任は民法718条に定めがある。すなわち、動物の占有者・所有者は、その動物が他人に加えた損害を賠償する責任を負う。オーナーに責任があることは当初から争いがなかった。

 問題は、その責任と相当因果関係がある損害の範囲である。金○○○万円を請求するとして金額を特定・明示した請求がなされるのが通例である。これに対し本件では、後遺障害が12級もしくは14級に相当し、被害者の年収1200万円を前提として計算すれば損害は「相当額」になるという、請求額を特定・明示しないものだった。

 加害者と被害者が知人であること、ペットによる傷害事件であることを考慮して、請求金額を特定・明示しなかったのであろうが、これは悩ましい。12級だとすると最大3550万円、14級だとすると最低385万円となり、10倍もの幅のある議論になってしまう。

 被害者側が後遺障害12級等に該当するというのは、右手のこわばり、右肘のしびれ、神経伝導速度の低下が残存しているからであるという。

 しかし、そのような残存症状と当初の症状が整合しているのかは疑問があった。その点を指摘し、100万円の示談金を提示した。これに対し、相手方からは200万円という対案の提示があり、既払医療費を考慮して160万円の支払いで示談解決した。

 被害者の治療が長引いたこともあり、解決まで2年余を要した。裁判になっていれば、さらに関西の裁判所で1年以上を要したと思われる。そうなれば、互いに多大な時間と手間と費用を要したことであろう。必ずしも長くはない人生において、3年間以上も他人と争うのはどうだろう。上記解決は互いの譲歩によるものであり、よい決着だったと思う。

2026年2月4日水曜日

年末の山旅(13)八ヶ岳②

 

 一夜明けても31日はC判定のままだった。その日登る予定だった赤岳は2899m。天気予報によると、3000m付近は28m/sの猛烈な風が吹いている。最大風速17m/s以上のものを台風というので、台風に匹敵する非常に強い風である。

 風速28m/sをAIに訊くと「何かにつかまっていないと立っていられないレベルの非常に危険な風です。高速運転中のトラックが横転したり、看板が落下・飛散するほか、固定の不十分な金属屋根がめくれるなどの重大な被害が出る可能性があるため、不要不急の外出は控えるべきです。


 テント場から赤岳を望む。


 横岳の大同心稜。クライマー憧れの岩場。高さ150メートルを超える特異な形状。冬はもちろん、夏でも一般登山者は登れない。


 中央は小同心。右手が横岳の山頂である。


 きょう登るとすればこのコースしかないと考えていた地蔵尾根の上部。


 右手の直線が赤岳展望荘である。

 写真では分かりにくいが、雲がちぎれるような速さで飛ばされていく。やはり上空は28m/s程度の強風が吹いているようだ。


 こうしたなか、多くの登山者たちは地蔵尾根や文三郎道を登っていった。グループはまだよい。他方、単独行の人を中心に撤退を決め、早々に下山していく。

 かなり迷ったが、自身はソロでもあり未熟でもあるので、撤退することに決めた。ここまで来て残念。

 昨夜は小屋に長野県警(遭難対策協議会)の人たちも泊まり込み、しきりに安全登山を訴えていた。安全登山手ぬぐいまでプレゼントしてもらった。

 仮に遭難確率20%として、5回のうち4回は無事に展望荘までたどりつけるだろう。しかし5回のうち1回は遭難する可能性がある。そのようなリスクをおかして登ることに意味があるだろうか。そう考えた結果である。


 山は逃げない。また来よう。


 赤岳がどんどん遠ざかっていく。


 この日、3000m付近の上空に強風は吹いていたが、天気じたいはよかった。後ろ髪をひかれたが、しかたがない。

2026年2月3日火曜日

年末の山旅(12)八ヶ岳①

 

 茅野駅からバスで美濃戸口まで入る。そこからは徒歩である。林道が氷っていて歩きにくい。

 1時間ほどで美濃戸に着く。美濃戸からは赤岳がみえる。また赤岳山荘、美濃戸山荘があり、四駆であればここまで車でこれる。


 美濃戸山荘まえでチェーンスパイクを装着する。3人連れとソロの人も装備をととのえている。ここからは本格的な登山道となるからだ。

 山荘のさきで道は二手にわかれる。道なりにいけば、北沢経由で赤岳鉱泉にたどりつく。まっすぐ進めば南沢経由で行者小屋である。こんかいは後者をいく。

 3人連れとソロの人は北沢へ向かった。南沢をいくのは自分ひとりだ。

 登山道は、名前のとおり、南側の沢沿いにつかず離れずに登っていく。






 南沢が氷りはじめる。天工のなせるわざ。さまざまな模様をえがきながら氷っている。




 上流にいくにしたがい、氷っている部分が多くなる。ついには雪の下にもぐってしまい、沢はなくなってしまう。そこからは沢音も聞こえず、しんとした世界がどこまでもつづいている。深い雪が音を吸収するようだ。


 赤岳と横岳の麓に立地する行者小屋に着いた。いつもは赤岳鉱泉の小屋を利用するので、行者小屋の利用ははじめて。除雪に使用したユンボが置かれたままである。


 受付でチェックイン。写真は食堂。畳の間である。


 寝室は2階。夏とちがい、利用率は40%ほど。人影もすくない。2~4人にひとつコタツ利用ができる。灯りも明るく読書もできる。快適な居住空間である。


 夕食。ご飯と味噌汁はおかわり自由。戸外は氷点下であるから、あたたかい食事がありがたい。

 あすは悪天予報であるが、どうなるであろうか。山の天気は変わりやすいので、よいほうへ変わることを期待しつつ就寝。