2021年6月22日火曜日

忠義を貫かないで名を残した、武藤資頼

  (武藤資頼、資能親子の墓)
(手前が平知盛、奥が義経@壇ノ浦)
 
  松島の月が心にかかりますが、和泉三郎の関連で、対照的な生き方をした福岡の武将を2人紹介して先にすすみたいと思います。ひとりは武藤資頼、もうひとりは高橋紹運です。

武藤資頼は、はじめ関東の武士で平知盛の武将でした。知盛は、平清盛の四男。武蔵守を8年やっているので、そのときに主従関係ができたのでしょう。

資頼は、源平の戦いで、平家の側で戦いました。しかし、一ノ谷の戦いで平家が敗れた際、源氏の梶原景時を頼って投降しました。景時は、資頼の知人だったからです。

たまたま源平にわかれましたが、関東の武将はみな知りあいだったのかもしれません。いまでいえば、プロ野球の選手がそれぞれライバル球団に所属していても、夜はおなじところで飲んでいるようなものでしょうか。

一ノ谷の敗戦後、知盛は、関門海峡にある彦島で善戦したものの、壇ノ浦の戦いに敗れました。最後は「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と名ゼリフを吐いています。

高齢者にアンケートすると、「もっと挑戦すればよかった」と後悔しているそうです。知盛はわずか34歳で壮絶な最期をとげていますが、最期の言葉はこうありたいものです。

他方、投降した資頼は、景時が頼朝の寵臣であったこともあり、頼朝の御家人になりました。頼朝が奥州藤原氏をほろぼした戦を奥州合戦といいますが、資頼は奥州合戦で手柄をたてました。

資頼は、そうしたことが評価され、のちに九州に派遣され、鎮西奉行に就き、さらに肥前、筑前、豊前、壱岐、対馬の守護になっています。

平家政権の時代には原田種直の所領だった3700町歩はすべて資頼の所領になりました。太宰府で武藤、原田はいまもなお名族ですが、むかしはプチ源平合戦で、仲が悪かったのではないでしょうか。

資頼は、さらに、大宰小弐に任じられました。大栄達です。資頼の子、資能は小弐の位を継承しました。資能は、文永・弘安の役(元寇)の際、奮戦しています。

資頼と資能は親子なのに、一方は平安時代末、他方は鎌倉時代末に活躍しています。一瞬あれれと思います。でも鎌倉時代って意外と短かったんですね。資能が高齢者ながら奮戦したこともあります。

彼らの武功によるものでしょう、小弐の職は武藤家が代々世襲することになりました。子孫は官職名であったはずの小弐を名乗り、小弐氏として北九州の名族となりました。

博多駅の北、地下鉄祇園駅から東に行くと承天寺があります。資頼が円爾を招聘して創建しました。資頼の位牌と塑像が開山堂に安置されています。

和泉三郎と異なり、知盛に最後まで忠義を尽くさず、頼朝にしたがった資頼ですが、その子孫は繁栄し名族になっています。「人よく道を勤め、義を守るべし。名もまたこれに従う」といえないことも、たまにはあるようです。

太宰府・観世音寺の裏山に、資頼の墓と伝えられる五輪塔があります(写真左)。隣の宝筺印塔は子の資能の墓とされています(写真右)。いちど訪れて、歴史に思いをはせてはいかがでしょう。

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