伊達の大木戸と呼ばれるだけあって、険しい地形。すこし先に鐙摺(あぶみずり)という地名があり、狭路となっています。
鐙摺とは、馬で通ろうとすると、馬具の鐙が摺れてしまうという意味です。源義経が奥州に落ち延びる際、鐙が摺れたことが名の由来だそう。宝満山にも「袖すり岩」があり、両側に岩が切り立つ狭路になっています。多生の縁を生じるでしょうか。
伊達の大木戸は、頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした奥州合戦の激戦地です。奥州側は、頼朝軍を迎撃するため、地形効果を利用して峻険な防塁を築きました。
そのような場所を芭蕉は道縦横に踏んで越したとあります。ここらへんの記述が怪しい。芭蕉一行はやはり公儀隠密ではないのか?
芭蕉はじつは忍者だった、おくのほそ道の旅の目的は伊達・仙台藩の実情を探ることにあったという説があります。
芭蕉の出身が忍者の里である伊賀であることをはじめ、おくのほそ道の旅は一日40~50キロメートルを歩いたという異常な健脚(われわれであればマメだらけ必定)、松島をめざしたといいつつそこでは一泊しかしていないなど滞在日程がアンバランスで怪しい。
政治的な背景も怪しい。幕藩体制を安定させるため、幕府は仙台藩を取り潰したかったといわれます。初代・政宗のときから伊達は独眼竜であり、中央政権に対し最後まで従順ではありませんでしたから(NHK大河「独眼竜政宗」)。
むやみには潰せないので、お取潰しには口実が必要です。跡目争い・お家騒動は格好の口実です。仙台藩ではこのころ3回にわたりお家騒動が起きています。幕府の工作があったとされます。
ぼくが小学校5年生のころ(1970年)、NHK大河ドラマは平幹二朗主演の「樅の木は残った」でした。山本周五郎の小説が原作です。仙台藩のお家騒動を背景に、原田甲斐の孤独なたたかいを描いたものです。
彼は本来、奥羽山中で過ごすのが好きという山好きアウトドア派です(シンパシーをかんじます)。それなのに、幕府の工作を阻止しようとする政治闘争に巻き込まれていきます(この点、「ドクトル・ジバゴ」と似ています)。敵方に寝返ったと仲間内からさえ責められますが、一切弁明しません(情報が幕府方に抜けるのを防ぐため)。
ひとり使命をまっとうする、そうした孤高の姿が美しい。「私はこの木が好きだ。この木は何も語らない。だから私はこの木が好きだ。」樅の木のあり方は原田甲斐の生き方そのものだったんですねぇ。
伊達騒動については、歌舞伎のネタにもなっています(「伽羅仙台萩」)。江戸時代の三大お家騒動というのは、伊達騒動のほか、加賀騒動、黒田騒動です。このラインナップをみただけでも幕府の工作が疑われるべきでしょう。
幕末、西南雄藩が倒幕に動いたことを考えれば、幕府の工作にはちゃんとした理由があったことになります。
さて立場を芭蕉に戻して、仮に芭蕉が公儀隠密で、このような仙台藩の実情を探ろうとしたのだとすると、潜入する際には相当な緊張をしいられたはずです。仙台領に入るや切り捨てられるかもしれませんから。
そう思って、もう一度、伊達の大木戸を越す場面を読み返してみると、
羈旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路に死なん、これ天の命なり・・・
などと意味ありげな記述。天の命ではなくて、幕府の命だったのではないか。
道縦横に踏んで、伊達の大木戸を越す。
狭路だったはずなのに、道を縦横に行ったというのも変。監視の目がきびしい街道を行かず、山中を縦横に抜けていったのではないか・・・。怪しいぞ芭蕉!
※なお、樅の木(モミノキ)は、いわゆるクリスマスツリーです。針葉樹なのですが、福岡県でも宝満山~仏頂山のまわりに生えています。写真は、百段ガンギ横のもの。
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