「配属ガチャ」を「配偶者ガチャ」と読み間違えました。あはは。
つぎに芭蕉が訪れたのは、多賀城碑です。芭蕉はそれを歌枕・壺の碑(つぼのいしぶみ)であるとして、おくのほそ道に書いています。
それまで壺の石文を歌枕にして、おおくの歌が詠まれてきていました。
思ひこそ千鳥の奥を隔てねど えぞは通はさぬ壺の石文 顕昭
むつのくの奥ゆかしくぞ思ほゆる 壺のいしぶみ外の浜風 西行
みちのおく壺の石文ありと聞く いづれか恋のさかひなるらん 寂蓮
陸奥のいはでしのぶはえぞ知らぬ 書きつくしてよ壺の石文 源頼朝
思ふこといなみちのくのえぞいはぬ 壺の石文かきつくさねば 慈円
壺の碑(石文)の歌枕としての特徴は、遠くにあり、どこにあるか分からないということです。
最初の歌を詠んだ歌僧・顕昭が編纂した歌学書によると、壺の石文とは
「みちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。但し、田村将軍征夷の時、弓のはずにて、石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。」
とされています。田村将軍は、坂上田村麻呂(758-811)です。京都東山の観音霊場、世界遺産である清水寺を建立しました(謡曲『田村』)。
桓武天皇から征夷大将軍に任じられ、名前のとおり蝦夷を征討しました。胆沢城(奥州市水沢、平泉の北20Km)を築き、朝廷に反抗した蝦夷の長アテルイを降伏させました。アテルイは新作歌舞伎にもなっています。
坂上田村麻呂はその他数々の武功をあげ、平安時代の優れた武人としてシンボル的存在に。平安京の守護神、毘沙門天の化身とされました。学問の神様が菅原道真公とすれば、武芸の神様は坂上田村麻呂です。
ところが、これほどまでに有名な壺の石文がどこにあるのか、なぞでした。歌枕の特徴として遠くにあり、どこにあるか分からないとされてきたことから当然といえば当然です。
芭蕉が多賀城石碑を壺の碑だと考えたのは何故でしょう。単なるガチャの結果だったのでしょうか。(つづく)
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