・・塩竈の浦に入相の鐘を聞く。五月雨の空いささか晴れて、夕月夜幽かに、籬が島もほど近し。蜑の小舟漕ぎ連れて、肴分かつ声々に「つなでかなしも」と詠みけん心も知られて、いとどあはれなり。
末の松山で、翼を交はし枝を連ぬる契りの木も、つひにはかくのごときと悲しさもまさりていたら、いつのまにか、つぎの歌枕・塩竈の浦に場面転換しています。
事務所旅行で仙台・松島を旅したときにも塩竈の浦ちかくまでは行ったのですが、残念ながら、塩竈湾(千賀の浦)や籬が島までは見学していません。なんというもったいないことを。師匠や河原左大臣に叱られそう。
残っている写真は、湾にほど近い亀喜寿司で食べた寿司の写真のみ。せめて、これをよすがに「肴分かつ声々」を想像してくだされ。
河原左大臣・源融は、すでに触れたとおり、陸奥の致景に惚れ込んで、京都の六条河原院に塩竈の浦を模して庭をつくらせました。現在の渉成園・枳穀邸です。
河原の院こそ塩竈の浦候ふよ、融の大臣陸奥の千賀の塩竈を、都のうちに移されたる海辺なれば 名に流れたる河原の院の、河水をも汲め池水をも汲め・・・(謡曲『融』)
塩竈の浦の写真はありませんが、枳穀邸の庭の写真はあります。せめて、これをよすがに塩竈の浦を想像してくだされ。
(籬が島)
わがせこを都にやりて塩竈の 籬が島のまつぞ恋しき 東歌
(塩竈の浦)
みちのくはいづくはあれど塩竈の 浦漕ぐ舟の綱手かなしも 東歌
この古今集の東歌を本歌として、鎌倉右大臣が詠んだのが次の歌
世の中は常にもがもな渚漕ぐ 海人の小舟の綱手かなしも
百人一首に採られているのでご存じでしょう。鎌倉右大臣は源実朝、頼朝の次男。鎌倉幕府の三代将軍となりましたが、鶴岡八幡宮で甥に暗殺された悲劇の人です。
百人一首を編んだ藤原定家のお弟子さんですが、東国武士ですから東歌を本歌に東国らしい詠みぶりです。
実朝はいま目のまえに広がる風景(塩竃の浦ではなく、鎌倉なので由比ガ浜か七里ヶ浜あたり)が永遠に続いて欲しいと願いましたが、願いは果たされませんでした。かなしは愛しいという意味ですが、われわれには悲しいと読めてしまいます。
頼朝は、弟の義経に平家を滅亡させ、奥州藤原氏の泰衡に義経を殺させ、さらにその藤原氏を攻め滅ぼして鎌倉幕府を開きます。が、実子はこうして暗殺され、実権は妻の実家にとられてしまいます。ああ無常。
・・・塩竈の浦に入相の鐘を聞く。ごーん。
0 件のコメント:
コメントを投稿