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2022年2月22日火曜日

白銀の蔵王連峰

 


 先週末の連休は東北遠征にでかけた。いずれも日本百名山の蔵王、西吾妻、磐梯、安達太良の4峰を冬期いちどに登ろうという贅沢な計画だ。

天気予報はめまぐるしく変わり、3日前はC判定、2日前はB~A判定、前日はA判定という具合。

他方、新型コロナの蔓防も気になった。ピークを過ぎ、前週の感染者数より減少傾向をみせていた。政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身会長とは意見を異にすることが多い。だが、「人流制限から人数制限へ」と言われたときは、わが意を得たりと思った。

雪山じたいは人がすくなく、感染の機会はほぼゼロ。問題は途中であるが、飛行機や公共交通機関において感染対策がなされているのであれば、感染の機会はほとんどない。などと心のなかで葛藤しつつ出かけた。飛行機はずいぶん前に早割で購入しているので、解約がむずかしいし(解約手数料をとられるときと、とられないときがある。ややこしい。)。

さて、福岡空港から仙台空港へ飛ぶ。JRの空港線、仙山線を乗り継いで、前日は山形泊。駅を降りると雪が舞っていた。

翌朝、バスで蔵王温泉をめざす。家族連れなどまずまずな人出である。スキーヤー、スノーボーダー、登山者が各3分の1という割合か。

小1時間でバス停。そこからロープウエイ乗り場まで10分ほど歩く。スキー場が複数あり、間違わないようにしないといけない。列になっている。30分ほど並ぶ。

ロープウエイを乗り継ぐと、車窓からスノウモンスターたちが見えた。むかし樹氷、いまスノウモンスター。ここはムーミン谷か。いちどニョロニョロにみえてしまうと、もうそれ以外にはみえない。

山頂駅に着いた。ガスガスだ。でもスノウモンスターたちの迫力はすごい。登山者のグループがつぎつぎと出発していく。あわててワカンを装着する。

30分ほど登ると地蔵山に着いた。1736メートル。やはりガスガスだ。それでもみな快哉をさけび、たがいに写真撮影に興じている。

さてここからどうするか。ガスガスだし、道迷いしないだろうか。でもみなつぎを目指して出発していく。天気は回復傾向にあるとの天気予報を信じて出発する。

地蔵山から先しばらくは稜線になっている。しばらく行くと、どんどんガスが晴れていった。真っ青な空が広がった。ひゃっほー。あちこちで歓声があがる。蔵王ブルー。高山では空気が澄んでいるので、青が濃い。スノウモンスターたちも青く輝く。

そこからいったん下って登りかえすと熊野岳。蔵王連峰の最高峰1840メートル。日本百名山である。

天気はめまぐるしく変化した。山頂ではやはりガスガス。御釜も見えない。刈田岳へ行くのはやめて引き返す。

山形駅から米沢をめざす。車窓左手に蔵王連峰が輝いている。しばし行くと平野が広がる。米沢だ。大河ドラマ「天地人」で、妻夫木くんたちが転封されたところ。

夕食は米沢牛でもいただこうと街を散策した。店頭でメニューを拝見するとけっこうなお値段である。なんちゃってですませることにした。

2021年6月16日水曜日

塩竈の浦





 ・・塩竈の浦に入相の鐘を聞く。五月雨の空いささか晴れて、夕月夜幽かに、籬が島もほど近し。蜑の小舟漕ぎ連れて、肴分かつ声々に「つなでかなしも」と詠みけん心も知られて、いとどあはれなり。

末の松山で、翼を交はし枝を連ぬる契りの木も、つひにはかくのごときと悲しさもまさりていたら、いつのまにか、つぎの歌枕・塩竈の浦に場面転換しています。

事務所旅行で仙台・松島を旅したときにも塩竈の浦ちかくまでは行ったのですが、残念ながら、塩竈湾(千賀の浦)や籬が島までは見学していません。なんというもったいないことを。師匠や河原左大臣に叱られそう。

残っている写真は、湾にほど近い亀喜寿司で食べた寿司の写真のみ。せめて、これをよすがに「肴分かつ声々」を想像してくだされ。

河原左大臣・源融は、すでに触れたとおり、陸奥の致景に惚れ込んで、京都の六条河原院に塩竈の浦を模して庭をつくらせました。現在の渉成園・枳穀邸です。

 河原の院こそ塩竈の浦候ふよ、融の大臣陸奥の千賀の塩竈を、都のうちに移されたる海辺なれば 名に流れたる河原の院の、河水をも汲め池水をも汲め・・・(謡曲『融』)

塩竈の浦の写真はありませんが、枳穀邸の庭の写真はあります。せめて、これをよすがに塩竈の浦を想像してくだされ。

(籬が島)

 わがせこを都にやりて塩竈の 籬が島のまつぞ恋しき 東歌

(塩竈の浦)

 みちのくはいづくはあれど塩竈の 浦漕ぐ舟の綱手かなしも 東歌

この古今集の東歌を本歌として、鎌倉右大臣が詠んだのが次の歌

 世の中は常にもがもな渚漕ぐ 海人の小舟の綱手かなしも

百人一首に採られているのでご存じでしょう。鎌倉右大臣は源実朝、頼朝の次男。鎌倉幕府の三代将軍となりましたが、鶴岡八幡宮で甥に暗殺された悲劇の人です。

百人一首を編んだ藤原定家のお弟子さんですが、東国武士ですから東歌を本歌に東国らしい詠みぶりです。

実朝はいま目のまえに広がる風景(塩竃の浦ではなく、鎌倉なので由比ガ浜か七里ヶ浜あたり)が永遠に続いて欲しいと願いましたが、願いは果たされませんでした。かなしは愛しいという意味ですが、われわれには悲しいと読めてしまいます。

頼朝は、弟の義経に平家を滅亡させ、奥州藤原氏の泰衡に義経を殺させ、さらにその藤原氏を攻め滅ぼして鎌倉幕府を開きます。が、実子はこうして暗殺され、実権は妻の実家にとられてしまいます。ああ無常。

・・・塩竈の浦に入相の鐘を聞く。ごーん。

2021年6月14日月曜日

野田の玉川・沖の石

 

(住宅地のなかの沖の石)

芭蕉一行は壺の碑の後で、野田の玉川・沖の石の歌枕を尋ねました。

3、4年ほどまえ、事務所で仙台・松島旅行に行きました。最終日、半日、自由時間になりました。みなさんはショッピングなどに行かれたようですが、ぼくは多賀城→沖の石→末の松山を訪ねました。

JR仙石(仙台~石巻)線の松島海岸駅から仙台方向へ向かうと6つ目に多賀城駅があります。沖の石も、末の松山も駅から歩いて回れます。野田の玉川には行っていませんが、やはり近くにあります。

(野田の玉川)

 夕されば潮風越してみちのくの 野田の玉川千鳥鳴くなり 能因法師

またまた能因法師ですね。白河の関(都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関)、武隈の松(武隈の松はこのたび跡もなし千歳を経てや我は来つらむ)につづいて3度目でしょうか。

(沖の石)

 わが袖は潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らね乾く間もなし 二条院讃岐

百人一首で有名な歌ですね。でもいま現地に行けば必ずガッカリされると思います。涙がでます、乾く間もないほど。悲しい予測変換です。

歌のイメージとかけはなれた歌枕。沖どころか海の近くでもなく、住宅街のまんなかにあります。野田の玉川もそうです。千鳥が鳴くようなところではありません。むかしは海岸がもっと入り込んでいたのでしょうか。

2021年6月11日金曜日

壺の碑(2)ー千歳の記念

 


東北にあるげなというけれど、どこにあるかは誰も知らない・・。インディー・ジョーンズの失われたアークみたい。

古代の遺跡は年間数ミリずつ土に埋もれていくので、1~2m掘らないと発見できません。発見されたとされるものも、偽物ではないかという疑いがついてまわります。

あの漢委奴国王と刻まれた金印も志賀島のお百姓が畑で発見したといわれているけれど、不自然、怪しい、偽物ではないかみたいな。

多賀城碑も、古代からずっとあったわけではなく、例のプチ・ルネサンスの流れでしょうか、江戸時代初期に再発見されています。それで芭蕉が訪れた際には、これが壺の碑だとされていました。

 壺の碑 市川村多賀城にあり。
 壺の石ぶみは、高さ六尺余、横三尺ばかりか。苔を穿ちて文字幽かなり。四維国界の数里を記す。「この城、神亀元年、按察使鎮守府将軍大野朝臣東人之所置也。・・」とあり。聖武天皇の御時に当たれり。

あれれ。坂上田村麻呂だったはずなのに、大野東人になっている。年代は桓武天皇の延暦20年(801年)のはずなのに、聖武天皇の神亀元年(724年)。胆沢城(岩手県)のはずなのに、多賀城(宮城県)。どうなってるの?

というわけで、いまでは、多賀城碑は壺の石文ではないとされています。昭和になって「日本中央」と書かれた石が青森県で発見され、そちらが本物なのだそうです(南部壺碑説)。

さて多賀城市は、太宰府市と姉妹都市。東の蝦夷に対する多賀城、西の隼人に対する大宰府政庁という関係だからです。多賀城跡も大宰府政庁跡も昭和になって発掘が進み、いまの姿がみられるようになっています。その前は畑か原野だったのだろうと思います。

ちなみに、多賀城碑を置いたとされる将軍大野東人、芸名のような名前です。彼はその後、藤原広嗣の乱を平定するため、九州、おそらく大宰府まで来ています。多賀城も大宰府政庁も、反乱と服属の歴史的舞台なんですねぇ。

奥州の歴史だけでも、蝦夷vs大野東人、アテルイvs坂上田村麻呂、陸奥の俘囚長安倍氏vs源頼義(前九年の役)、清原氏vs源義家(後三年の役)、奥州藤原氏vs源頼朝(奥州合戦)、伊達政宗vs秀吉・家康、伊達藩vs幕府(伊達騒動)という反抗と服属がいくえにも繰り返されています。芭蕉ははたしてどちら側だったのでしょうか。

ともあれ、江戸時代に芭蕉が見分したのは壺の石文ではなく、多賀城碑でした。歴史によくある皮肉ですが、芭蕉はその偽から蕉風の真実をつかみとっていきます。

 昔より詠み置ける歌枕多く語り伝ふといえども、山崩れ、川流れて、道改まり、石は埋もれて土に隠れ、木は老いて若木に代はれば、時移り、代変じて、その跡たしかならぬことのみを、ここに至りて疑ひなき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の喜び、羈旅の労を忘れて、涙も落つるばかりなり。

2021年6月9日水曜日

宮城野の名所見物

 



名取川を渡って仙台に入ります。名取川は、陸奥守が武隈の松を伐って橋杭にしたという川です。上流には秋保温泉があり、立派な温泉が並んでいて、いちど会議で訪れたことがあります。

芭蕉が仙台に入ったのはあやめ葺く日、つまり端午の節句でした。おくのほそ道の冒頭の句は

 草の戸も住み替わる代ぞ雛の家

であり、桃の節句でした。あれから2か月余。ここに来るまでにも、浅香山であやめに代わる花がつみを探し回ったり、飯塚の里・医王寺で詠んだ句が「笈も太刀も五月に飾れ紙幟(かみのぼり)」だったり。仙台での端午の節句に向けて、着々と布石を打ってきた感じです。

仙台は伊達藩の城下町です。伊達藩は幕府にとっては煙たい存在であり、伊達騒動をネタに「伽羅先代萩」や「樅の木は残った」が作られました。最近では伊坂幸太郎さんが仙台を舞台に面白い小説をたくさん書いています。

その仙台で、芭蕉は画工の加右衛門と知り合いになり、昼は、仙台の名所を案内してもらいました。いまなら青葉城と霊屋でしょうが、当時は無理なので、あちこちの歌枕見物。

(宮城野萩)

 宮城野の露吹きむすぶ風の音に 小萩がもとを思ひこそやれ 源氏物語・桐壺

(玉田・横野)

 取りつなげ玉田・横野の放れ駒 つつじが岡はあせみ咲くなり 藤原俊頼

(木の下)

 みさぶらひ御笠と申せ宮城野の 木の下露は雨にまされり

夜には、松島・塩竃などの名所の画と、紺の染緒を付けた草鞋2足の贈り物をくれました。芭蕉は大喜び。さればこそ、風流のしれ者、ここに至りてその実を顕す。と、大絶賛。そして句を詠んでいます。

 あやめ草足に結ばん草鞋の緒

もらった画図にまかせて東へ向かえば、奥の細道という地名がありました。なんと奥州全体のことかと思いきや、おくのほそ道というタイトルはこの地名から採られているんですね。その山際にも歌枕が。

(十符の菅菰)

 みちのくの十符の菅菰七符には 君を寝させて我三符に寝む

 加右衛門が歌枕に詳しいのは何故でしょう。元禄時代、長く続いた戦国時代が収束して平和が訪れ、生産力が伸びて豊かになり、各地で文芸復興の動き(プチ・ルネサンス)があったことが背景にあります。

芭蕉は貞門派・北村季吟の門下です。季吟もこのような文芸復興の動きのなか、歌学を学び、『土佐日記抄』『伊勢物語拾穂抄』『源氏物語湖月抄』などの注釈書を著しています。つまり古典に詳しい。そのようなバックグラウンドが芭蕉の句を支えてもいますし、そこからの守・破・離が蕉風への道になっています。たぶん。