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2021年6月15日火曜日

末の松山


沖の石からすこし歩くと、末の松山に着きます。末の松山も有名な歌枕。どんな大波でもここを越えることはないとされます。それを踏まえて

 君をおきてあだし心をわが持たば 末の松山波も越えなむ 東歌

わたしが浮気をするようなことになれば、末の松山を波も越えることでしょう(そういうことはないですよ)。

これを本歌にして、ひねったのが清原元輔の有名な歌  

 ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波こさじとは 

詞書に「心変はりて侍りける女に」とあります。清原元輔の歌は百人一首でみなさんもご存じのことと思います。元輔は清少納言の父で、『後撰和歌集』の撰者、当時を代表する歌人・歌学者。

この歌をさらにひねったのが芭蕉のおくのほそ道。

 末の松山は、寺を造りて末松山といふ。松間々皆墓原にて、翼を交はし枝を連ぬる契りの末も、つひにはかくのごときと、悲しさもまさりて、塩竈の浦に入相の鐘を聞く。

「翼を交はし枝を連ぬる契り」は、白居易の「長恨歌」から。白居易は、清少納言の『枕草子』に香炉峰の雪ならんと中宮定子が尋ねた際のもととなった漢詩の作者。

「長恨歌」は玄宗皇帝と楊貴妃の愛を歌ったもの。その契りの言葉。

 天に在りては願わくは比翼の鳥となり
 地に在りては願わくは連理の枝と為らんと

「地上の星」の歌詞みたいですが、比翼の鳥は、夫婦が一枚ずつの翼で並んで飛ぶ鳥。連理の枝は、二本の木でありながら枝が繫がっているものです。

若いころ絶対あだし心をもたないよと契った恋人たち、翼を交わし枝を連ねる契りを結んだ夫婦。不易の愛を誓った彼らも、ついには墓に入ってしまうのだなぁ、悲しいなぁ・・ごーん。

ところで「まつ山のなみ」は古今集の仮名序にも出てくる有名事件。869年の貞観津波を踏まえているとされます。その津波の際に末の松山を波が越えなかったことから歌枕になっているとか。

東北大震災の津波も、末の松山を越えることはなかったといいます。こうした津波をめぐる伝承を不易のものとして語り継ごうという動きもでているようです。

2021年6月14日月曜日

野田の玉川・沖の石

 

(住宅地のなかの沖の石)

芭蕉一行は壺の碑の後で、野田の玉川・沖の石の歌枕を尋ねました。

3、4年ほどまえ、事務所で仙台・松島旅行に行きました。最終日、半日、自由時間になりました。みなさんはショッピングなどに行かれたようですが、ぼくは多賀城→沖の石→末の松山を訪ねました。

JR仙石(仙台~石巻)線の松島海岸駅から仙台方向へ向かうと6つ目に多賀城駅があります。沖の石も、末の松山も駅から歩いて回れます。野田の玉川には行っていませんが、やはり近くにあります。

(野田の玉川)

 夕されば潮風越してみちのくの 野田の玉川千鳥鳴くなり 能因法師

またまた能因法師ですね。白河の関(都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関)、武隈の松(武隈の松はこのたび跡もなし千歳を経てや我は来つらむ)につづいて3度目でしょうか。

(沖の石)

 わが袖は潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らね乾く間もなし 二条院讃岐

百人一首で有名な歌ですね。でもいま現地に行けば必ずガッカリされると思います。涙がでます、乾く間もないほど。悲しい予測変換です。

歌のイメージとかけはなれた歌枕。沖どころか海の近くでもなく、住宅街のまんなかにあります。野田の玉川もそうです。千鳥が鳴くようなところではありません。むかしは海岸がもっと入り込んでいたのでしょうか。