2023年3月23日木曜日
岩沼@おくのほそ道
2021年6月14日月曜日
野田の玉川・沖の石
2021年6月8日火曜日
武隈の松ー千歳の形
きのう述べたとおり、笠島に先回りしたかたちになっているので、きょうは国道4号線を戻って岩沼へ。
岩沼は阿武隈川が仙台湾にそそぐ河口の北にあります。阿武隈山地の北麓で、福島県の中通りと浜通りの合流点です。仙台空港が近く、東北本線と常磐線も合流しています。
司法修習生時代、日暮里(湯島までは千代田線経由で)から千葉県の松戸・馬橋まで常磐線を利用して通勤していました。常磐線は柏くらいまでのイメージだったので、岩沼まで延びてきていたことに感慨を覚えます。
そこに武隈の松という有名な歌枕があります。おくのほそ道には、有名な松や松の名所がたくさん登場します。武隈の松、末の松山、松島、姉歯の松。むかしは1000年生きるという長寿にあやかりたいと人気があったんですね。
武隈の松の特徴は、「二木(ふたき)に分かれて」いることです。東北本線と常磐線が合流するところで、松は逆に分かれているんですねぇ。
そのため古来、松の特徴をシャレた歌が詠まれてきました。
まずは橘季通。
武隈の松は二木を都人 いかがと問はば見きと答へむ
二木→見き(三木)というシャレです。ダジャレじゃありませんよ。
つぎに能因法師。みちの國にふたたび下りて後のたびたけぐまの松も侍りざりければよみ侍りける。
武隈の松はこのたび跡もなし 千歳をへてや我は来つらむ
陸奥の旅は2回目だけれども、前回とちがって武隈の松は跡もなくなってしまっているなぁ。あれから1000年も経っちゃったかなぁ。
武隈の松の跡がなかったのは、往昔、陸奥守にて下りし人(藤原孝義)、この木を伐りて名取川の橋杭にせられたることなどあればにや。
名取川はつぎの宮城野(仙台)との境を流れています。芭蕉が笠島の段と岩沼の段をひっくり返した理由の一つはここにありそうです。
能因法師は奥州に2度も旅をした歌人ですから、西行や芭蕉の大先輩です。おくのほそ道でも、ここのほか、すでに白河の関で登場していますし、のちほど象潟でも登場します。
当然、西行も歌を詠んでいます。
枯れにける松なき宿の武隈は 見きといひても効なからまし
こうして武隈の松は代々、伐られたり、枯れたりして、いけば必ず出会えるというものではなかったようです。でもあらたに植えられたりして、新しい代の松に出会えることもあったよう。西行の訪問から500年後、芭蕉のときはどうだったのでしょうか。
ありました!そのことに芭蕉は大感激しています。
武隈の松にこそ目さむる心地はすれ。根は土際より二木に分かれて、昔の姿失はずと知らる。・・・代々、あるは伐り、あるいは植ゑ継ぎなどせしと聞くに、今はた千歳の形整ひて、めでたき松の気色になんはべりし。
昔の姿失はずとか、今はた千歳の形整ひとか、諸事流行し滅していくなか、不易でありつづけることに感激しておられます。
そして江戸を立つ際、弟子の挙白が餞別にくれた句。
武隈の松見せ申せ遅桜
これに答えて芭蕉が詠んだ句。
桜より松は二木を三月越し
挙白が詠んだ桜の季節から3月経ってしまったけど、ようやくだ。松→待つ、二木→三月、三月→見つなどシャレておられます。
2021年5月25日火曜日
はなれて奏でる(3)
はなれて奏でるといって、まっさきに思い浮かぶのは、『伊勢物語』東下り、隅田川の渡し(9段の3)。隅田川の都鳥(ユリカモメ)を見て、都を思いやります。
なお行き行きて、武蔵の国と下つ総の国との中に、いと大きなる河あり。それを隅田河といふ。その河のほとりにむれゑて、思ひやれば、かぎりなく遠くも来にけるかな、・・みな人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。
さるをりしも、白き鳥の、はしとあしと赤き、鴫の大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡守に問ひければ、「これなむ都鳥」と言ふを聞きて、
名にし負はばいざこと問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと
と詠めりければ、舟こぞりて泣きにけり。
おくのほそ道でも、江戸から旅先を、また旅先から江戸を思いやる場面がいくつかでてきます。
まず冒頭、旅をあこがれ。
春立てる霞の空に、白河の関越えんと、そぞろ神のものにつきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず・・・
千住までの見送り。
むつまじき限りは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。千住といふ所にて船を上がれば、前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻の巷に離別の涙をそそぐ。
行く春や鳥啼き魚の目は涙
これを矢立の初めとして、行く道なほ進まず。人々は途中に立ち並びて、後影の見ゆるまではと、見送るなるべし。
草加の宿での物思い。
痩骨の肩にかかれる物、まづ苦しむ。ただ身すがらにと出で立ちはべるを、紙子一衣は夜の防ぎ、浴衣・雨具・墨・筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるは、さすがにうち捨てがたくて、路次の煩ひとなれるこそわりなけれ。
そして武隈の松を見て。
武隈の松見せ申せ遅桜
と、挙白といふ者の餞別したりければ、
桜より松は二木を三月越し
挙白は芭蕉のお弟子さんで陸奥出身ではないかといわれています。その人が餞別に送った句。みちのくの遅桜よ、うちの師匠に武隈の松の姿をお目にかけなさい。それに対し、芭蕉は現地で返しの句を詠む。はなれて奏でる師弟愛。
また松島の夜。
予は口を閉ぢて眠らんとしていねらず。旧庵を別るる時、素堂、松島の詩あり。原安適、松が浦の和歌を贈らる。袋を解きて今宵の友とす。かつ、杉風・濁子が発句あり。
おくのほそ道の旅は、芭蕉の孤高の精神から発したものだったでしょうが、芭蕉を慕うお弟子さんたちとの暖かい心の交流という支えがあってこそという一面もあったようです。









