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2023年6月16日金曜日

笈の小文(4)わびさび

(明石海峡)

 『笈の小文』には、四時を友とすといいつつ、秋が描かれていない。それはヘミングウェイがいうところ「氷山の理論」による省筆によるものである。と書いた。こう書くと、ヘミングウェイは芭蕉より300年くらい後の人であるから、ちがうのではないかという意見もあろう。

しかし俳句という文芸そのものが、ある意味「氷山の理論」によってつくられている。「氷山の理論」とはこうだった。

もし作家が、自分の書いている主題を熟知しているなら、そのすべてを書く必要はない。その文章が十分な真実味を備えて書かれているなら、読者は省略された部分も強く感得できるはずである。動く氷山の威厳は、氷面下に隠された八分の七の部分に存するのだ。

そもそも俳句のばあい、五七五の17文字でつくらなければならないという制約がある。小説のように、言葉を尽くして、すべてを描ききることはできない。

17文字であれば、氷面上の部分だけしか描写できない。氷面下に隠された八分の七の部分は読者の想像にゆだねるほかない。

もちろん『笈の小文』は紀行文であるから、小説のように書くこともできたであろう。しかし芭蕉の頭のなかでは句作とおなじ意識がはたらいていたのではなかろうか。

芭蕉の俳句には「わびさび」の精神があるといわれる。わびさびとは、質素なものにこそ趣があると感じる心や、時の経過によってあらわれる美しさをいう。それは以下の代表句にあらわれている。

 古池やかわずとびこむ水の音

 閑さや岩にしみ入る蝉の声

紀行文も、「わびさび」の精神で書くとき、もっとも大事な部分を省筆して、読者の想像にゆだねることになる。

一番の例は『おくのほそ道』の松島の段。松島(の月)は『おくのほそ道』の旅のクライマックスである。しかるに、芭蕉は句をつくっていない・・ことになっている。

 松島やああ松島や松島や

人口に膾炙しているが、偽作。

 島々や千々に砕けて夏の海 (「蕉翁句集」)

実際にはこの句を詠んだ。しかし『おくのほそ道』では、松島のあまりの素晴らしさに詠めなかったことになっている。いわく。

 ・・その気色窅然として、美人の顔を粧ふ。ちはやぶる神の昔、大山祇のなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ、詞を尽くさむ。・・予は口を閉じて眠らんとしていねられず。・・

『おくのほそ道』は冒頭、「松島の月まづ心にかかりて」にはじまる。こうして読者の期待をさんざんじらしたうえで、クライマックスでの省筆。読者のイメージは爆発せざるをえない。

『笈の小文』でも、クライマックスは吉野の桜である。ここでも芭蕉は実際には句を詠んでいる。

 花ざかり山は日ごろのあさぼらけ

しかしやはり『笈の小文』では句が詠めなかったことになっている。いわく。

 よしのゝ花に三日とゞまりて、曙、黄昏のけしきにむかひ、有明の月の哀なるさまなど、心にせまり胸にみちて、・・われいはん言葉もなくて、いたづらに口をとじたる、いと口をし。おもひ立たる風流、いかめしく侍れども、爰に至りて無興の事なり。

こちらも出発にあたり、「そゞろにうき立つ心の花の、我を道引枝折となりて、よしのゝ話におもひ立んとするに」とか、「よし野にて櫻見せふぞ檜の木笠」などと読者の期待をあおっている。そうして読者の期待を十二分にふくらませたうえ、クライマックスでのストイックな省筆。読者のイメージは爆発せざるをえない。

おなじようにして、芭蕉は『笈の小文』の秋を描かなかったと考えることはできよう。

※そういえば、芭蕉とヘミングウェイは似ている気がする。

2023年6月15日木曜日

笈の小文(3)四時を友とす

 
(旗振山から須磨、明石海峡、淡路島)

 さて、ここからが本論。今回『笈の小文』を読んでいて、気づいた点が2つある。

 まずは、四時を友とすること。

『笈の小文』は読みにくいと書いた。江戸を出て、故郷伊賀を経て、関西各地の歌枕を遍歴する紀行文なので、起承転結、序破急がなく、まとまりがないように感じるのである。

しかし、よく考えればあたりまえなのなのだけれども、季語を華とする俳句をちりばめた紀行文なのであるから、バックボーンは四季である。

そう思って読むと、冬にはじまり、春をクライマックスとして、夏に幕を閉じている。ちゃんと序破急で構成されているではないか。

冬のメインは伊良湖岬における冬の鷹、春のメインは吉野における観桜、夏の〆は須磨における平家滅亡の幻視である。

そう考えて、よくよく読めば、冒頭にちゃんとこう書いてある。

 風雅におけるもの、造化にしたがひて四時(しいじ)を友とす。

四時とは四季のこと。つまり、四季を友として書いているからよろしく、ということである。

ただし、そうすると大きな問題が残る。お分かりと思うけれど、秋がなくてもよいのだろうか。四季のなかで、秋がもっとも趣があり好きという向きも多い。夏で終わってしまうと、三時しか友にしていないのではなかろうか。

ひとつの考え方としては、わざと書かなかったということ。ヘミングウェイのいうところの「氷山の理論」。いわく。

 もし作家が、自分の書いている主題を熟知しているなら、そのすべてを書く必要はない。その文章が十分な真実味を備えて書かれているなら、読者は省略された部分も強く感得できるはずである。動く氷山の威厳は、氷面下に隠された八分の七の部分に存するのだ。

さてわれわれは、『笈の小文』を読んで、省略された秋の部分を強く感得できるだろうか。最後の部分、平家滅亡の幻視で文を結ぶ直前の記述はこうなっている。

 蛸壺やはかなき夢を夏の月

 かかる所の穐(あき)なりけりとかや。此裏の実(まこと)は、秋をむねとするなるべし。かなしさ、さびしさはいはむかたなく、秋なりせば、いささか心のはしをもいひ出べき物をと思ふぞ、我心匠の拙なきをしらぬに似たり。

月といえば秋。ただ月といえば、秋の月をさす。春の花、冬の雪とともに、秋の月は日本の四季を代表する。しかるに、ここでは夏の月となっている。蛸壺のなかの蛸がみている夢がはかないのは夏の月ととりあわせになっているからである。

「かかる所の穐なりけるとかや。」は『源氏物語』の「須磨」段によっている。いわく。

 須磨にはいとど心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の関吹き越ゆるといひけむ浦波、夜夜はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものは、かかる所の秋なりけり。

 在原行平の歌はこう。

 旅人は袂すずしくなりにけり関吹き越ゆる須磨の浦風

というわけで、少なくとも昔の文人は、須磨と聞いただけで、行平、源氏、平家滅亡という歴史的・多層的な秋のイメージを思い浮かべることができた。

『笈の小文』のラスト、芭蕉は秋の情景を描いていないけれども、源氏物語や行平の歌のイメージを援用しつつ、須磨の秋の情景を感得するよう読者に促しているのである。

                                   (つづく)

2023年5月23日火曜日

松山観光(2)松山城、湯月城、子規記念博物館

 






 四国愛媛(伊予)の松山観光をつづける。道後温泉のあとは、ランチをはさんで、松山城へ。

現存12天守の一つ。平山城。1602年関ヶ原の戦いで戦功のあった加藤嘉明が築城。城の登り口のところには馬上の銅像がたっていた。

平山城といっても、標高131mの勝山の上に建っている。ロープウェイやリフトでも登ることができるが、もちろん歩いて登った。

城郭をぐるぐる回りながら登っていき、ようやく天守閣に達する(1枚目の写真)。松山市街がすべて見渡せる絶景(2枚目の写真)。さっきまで散策していた道後温泉街ものぞむことができる。その向こうには石鎚山も顔をのぞかせていた(3枚目の写真の左上)。

下城して、道後温泉街にあるホテルにチェックイン。宴会まではまだ時間があったので、ひとり抜け出して、松山市立子規記念博物館を訪れた。

松山城は近世の城である。中世の松山には、河野氏が築いた湯築城があった。その場所は道後温泉のすぐ隣である。現在、湯築城史跡公園として整備されている。その中に博物館はある。市立のわりには立派なハコ物である(4枚目の写真)。

正岡子規は松山の出身。明治時代、短歌、俳句などの分野で近代日本文学の革新運動を行った。松山を訪れた漱石とも交流している。

松山は日露戦争をたたかった秋山兄弟の出身地でもある。もちろん子規とも交流があった。司馬遼太郎の『坂の上の雲』に詳しい。再読していくつもりが、できなかった。なにせ長い。

子規とはホトトギスのこと。夏の季語。ちょうどいまの時期、四王寺山や宝満山で鳴いている。「特許許可局」や「テッペンカケタカ」と鳴いているというのであるが、「ホトトギスヨ」としか聞こえない。

「ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞのこれる」の和歌があるとおり、鳴きつる方を眺めても声しか聞こえない。

子規は晩年、結核を患った。病状が進むと血を吐くことになる。ホトトギスは口のなかが赤い。そのため、血を吐きながら鳴いているといわれる。子規は、血を吐きながら歌や俳句を詠む自分をホトトギスになぞらえた。壮絶な名前である。

ここまでは知っていたけれども、晩年は脊椎カリエスも患い、激痛に苦しんでいたようだ。結核とカリエスの症状にくじけず、近代日本文学の革新運動にとりくんでいたのだから、やはり偉人である。

あまり知られていないが、子規は草創期の野球を楽しんだ。坊ちゃんカラクリ時計の脇にはバットを持った子規の銅像が花を愛でていた(5枚目の写真)。

2023年3月23日木曜日

岩沼@おくのほそ道

 



 岩沼は、阿武隈山地の北側に位置する。阿武隈川が福島から北にむけて流れてきて、阿武隈山地の北で突如向きを変え、南にむけて流れ太平洋にそそぐ。そのため、岩沼は道が2つに分かれる分岐点となっている。

1枚目の写真は、岩沼駅の高架橋から南をのぞんだもの。中央の山影が阿武隈山地。阿武隈川は右奥から流れてきて、山地の迂回し、左奥へ流れている。

写真右奥へむかって東北本線・中通り、左奥へむかって常磐線・浜通りである。中通りのむこうに福島、浜通りのむこうに福島第一原発がある。

岩沼駅前を15分ほど南下すると、竹駒神社がある(2枚目の写真)。日本三大稲荷。アニメ「バクテン!!」の聖地らしい。知らなかった。


神社の北に古歌で有名な武隈の松がある。根もとから幹が二つに分かれているので、またの名を二木の松という(3枚目の写真)。

その珍しい形状から古来、歌枕になっている。

 武隈の松は二木(にき)をみやこ人いかがと問はばみきと答へむ 橘季道

「にき」と「みき(見き)」のシャレである。

江戸をでるとき、芭蕉の弟子の挙白が餞別の句を詠んだ(かれはこの地方の出身だといわれている)。

 武隈の松見せ申せ遅桜

これらを踏まえて芭蕉が詠んだ句はこれ。

 桜より松は二木を三月越し

桜と松、二木と三月のとりあわせである。いまなら、地震・津波・原発事故を喚起されるところである。

2023年3月22日水曜日

笠島@おくのほそ道



 芭蕉一行は、飯塚温泉から、桑折駅に出て、伊達の大木戸を通過した。桑折駅は、いったん福島駅に戻り、東北本線で北上し3つ目の駅である。

伊達の大木戸は隣の藤田駅の先。国見町文化財センターあつかし歴史館あたり。いまは4号線が走っていて、むかしの大木戸の雰囲気はない(江戸時代の雰囲気を知っているわけではないけれども)。ここから先は宮城県である。

さらに鐙摺・白石の城を過ぎ、笠島の郡に入る。地理的にも実際の行程的にも岩沼が先であるが、ここでも前後のつながりから、芭蕉は笠島のことを先に書いている。

笠島は、芭蕉が心を寄せる中将・藤原実方ゆかりの地だ。実方は清少納言ともつきあいのあった風流貴公子。宮中で喧嘩をしてしまい、天皇から「陸奥の歌枕見てまいれ」と陸奥守に左遷された。陸奥だから右遷だろうか。

笠島には道祖神の社がある(2枚目の写真)。道祖神は旅の神である。実方はその社前を乗馬のまま通りすぎようとしたため、神の怒りにふれ、客死したとされる。こんかい訪ねたときは、大学生たちが映画を撮っていた。

道祖神の社から北にすこし行くと、実方の墓がある(3枚目の写真)。実方は在原業平にも比せられる貴族だが墓は質素だ。

これまた芭蕉が敬愛する西行も墓参りをしている。詠んだ歌はこれ。

 朽ちもせぬその名ばかりをとどめ置きて枯野の薄かたみにぞ見る

かたみの薄はいまもあるが、当時のものではないだろう(行けばわかる)。

ところが、芭蕉はじっさいには道祖神の社にも、実方の墓にも参っていない。遠くからながめただけである(1枚目の写真)。五月雨に道いと悪しかったことが理由である。疲れていたのか、完全(予定調和)になることをきらったのか。

 笠島はいづこ五月のぬかり道

2023年3月16日木曜日

飯塚温泉@おくのほそ道

 



 このあたり、九州人には土地鑑がないだろうから、やはり地図を参照しながら進むことにしよう。 https://www.google.com/maps/place/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%9C%8C%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E5%B8%82/@37.8277075,140.4424568,16z/data=!4m6!3m5!1s0x5f8a8ed12a3a4dd9:0xc064d0fc14fe346!8m2!3d37.7607991!4d140.4747855!16zL20vMGdxa3g


地図を開いてもらうと、左下のほうに瑠璃光山・医王寺がある。ここが出発点である。このあたりから北に、佐藤庄司(基治)の居城跡を望むことができる。1枚目の写真の左側の小山である。山の名は館山(丸山)、あるいは、大鳥城跡ともいう。いまは館ノ山公園として整備されている。

そこから飯坂温泉へむかう。一般的には医王寺前駅に戻って鉄道を利用するのだろうが、グーグルさんで検索して、歩いてもいけると判断した。寺の横の細い道をおり、果樹園のなかをとおりと5号線にでた。そして花桃の公園、花水坂駅をとおり、飯坂温泉駅に着いた。

ここまで読んできて、飯塚というのは飯坂の誤植ではないかと思ったかたもあるだろう。しかし、おくのほそ道では、たしかに飯塚と表記されている。むかしは飯塚と呼ばれていたのであろう。

飯坂駅横に芭蕉像がたっている(2枚目の写真)。文人画などでじいさんぽく描かれることの多い芭蕉であるが、この像はとても凜々しい。1日40キロも歩いた健脚の芭蕉としては、こちらの像のイメージのほうが似つかわしい。

芭蕉像の後ろは摺上川が流れていて、ここは十綱の渡しと呼ばれ、現在は十綱橋が架かっている。むかし十本の藤蔓で編んだ吊り橋が架けられていた。頼朝群が奥州追討に迫ってきた際、佐藤庄司はその橋を自ら切り落として迎え撃ったという。

飯塚温泉街は、歴史・規模とも日本を代表する名泉の一つとされる。温泉宿が林立し、温泉街がつづく。なかに共同浴場がいくつかあり、3枚目の写真はその一つ、鯖湖湯である。湯涌のモニュメントがユニーク。写真ではよく分からないが、この日は寒風が吹いていたので湯冷めを心配して、入湯は断念した。

飯坂温泉観光協会としては頭の痛い問題だろうが、おくのほそ道で、飯塚温泉は悪役にしたてられている。おくのほそ道は単なる紀行文ではない。山あり谷ありのドラマとして書かれている。飯塚温泉は仙台・伊達藩に入る直前に位置していることから、伊達藩入りをひとつの山(盛り上がり)にするために、飯塚温泉はそのひきたて役として谷にされたようだ。

登山をしなくとも、山と名のつくものならなんでも登りたいので、もちろん先ほどの館ノ山に登った。温泉街を西へ行く。

芭蕉の時代、麓に大手の跡などがあったようだが、いまは見当たらない。それでも二の砦跡、一の砦跡を経て、山頂にいたる。山頂は開けており、展望所からは吾妻山をはじめ福島の山々が白く輝いていた。

2023年3月15日水曜日

医王寺@おくのほそ道

 



 東北南部の山旅は4日間を予定していた。しかし、残る2日間は北風が強く、山上では風速20メートルを超えることが予報されていた(実際、平地でも北風が強かった)。そのため、登山はあきらめ、おくのほそ道・芭蕉の足跡をたどることにした。

まず訪れたのは医王寺である。といってもほとんどの九州人は知らないだろう。下記地図を参照してほしい。福島駅から北へ福島交通・飯坂線がのびている。それに乗って8つ目の駅が医王寺前になっている。そこから北西へ歩いて15分である。地図を拡大するとわかる。

しのぶの里のことは、以前、本ブログに書いたことがある(1枚目の写真)。そう、河原左大臣による有名な和歌ゆかりの地である。

 陸奥のしのぶもぢずり誰ゆえに乱れそめにしわれならなくに

地図を拡大すると、福島駅の東北東、115号線を行ったところにある。文知摺観音(もぢずりかんのん)とあるのがそれだ。芭蕉一行はそこから北北西へ北上した。

福島駅の東には阿武隈川が流れている(2枚目の写真)。流れは北上している。宮城県に入り、あとで紹介する岩沼駅の手前で180度向きを変えて南流し、太平洋にそそぐ。

一行は月の輪の渡しで、川を越えた。そして瀬の上という宿に出た。瀬上は阿武隈急行線の駅もあり、どこであるかはわかりやすい。

そこから西方向は飯塚の里である。鎌倉殿の十三人のドラマがはじまったころ、ここを治めていたのは佐藤庄司(基治)である。かれは奥州藤原氏の家臣で、義経の忠臣である継信・忠信の父である。

芭蕉は悲運の義経ファンであるから、その忠臣である継信・忠信もだいすきである。ついでに、その父・佐藤庄司や継信・忠信たちの嫁までだいすきだった。

佐藤一族の菩提寺が医王寺である(3枚目の写真)。薬師如来を本尊とする真言宗の寺である。むかしの医療は漢方薬の投与が基本だから、薬師如来=医王なのである。

本堂の左手の杉木立を進むと、その奥に薬師堂がたっている。佐藤基治が建立したという。その回りに、基治や佐藤兄弟の墓がある。墓といっても、いっぷう変わっていて、石版の碑である(4枚目の写真)。

杉木立を戻ると本堂横に瑠璃光殿という宝物殿がある。そこに弁慶の笈など、ゆかりの品々が展示されている。芭蕉は感動のあまり、涙を落とし、袂をぬらした。

 笈も太刀も五月に飾れ紙幟

2023年2月2日木曜日

一片の氷に世界を見る(4)

 

春風や闘志抱きて丘に立つ 高浜虚子

 顧問会社からお誘いを受け、春の社員旅行に同行させてもらう予定である。行き先は四国は愛媛松山。松山での訪問先について打合せに余念がない。

いま松山といえば、やはり夏井いつき先生にお目通りねがいたい。が、お忙しいようだから、正岡子規の記念館でも訪ねようかと思う。

子規は明治期、松山出身で、俳句の中興の祖である。芭蕉ののち俳句の世界は停滞していた。それを芭蕉に帰ることで刷新した。

時代は明治であるから自然科学の伸張著しく、俳句の世界でも自然主義が浸透しやすかったのだろう。つまりは「写生」「写実」。

子規は元来ホトトギスの意である。ホトトギスは口の中が赤い。子規は結核を患い、喀血していた。そこからの雅号である。覚悟と凄みが感じられる。

子規には二人の高弟がいた。高浜虚子と河東碧梧桐。子規を玉とすれば、飛車・角のような存在である。虚子と碧梧桐は非常に仲がよく、寝食をともにした。虚子が子規に師事して俳句を学んだのは碧梧桐の誘いによる。

ところが虚子は、碧梧桐のもと婚約者と結婚した。いまでいえば略奪愛。しかも碧梧桐が入院中に仲よくなったらしい。碧梧桐は、入院中に婚約者と友情を同時に失った。心痛いかばかりであったか。

そのせいかどうかは分からないが、二人は流派を違えるようになった。虚子は季語(季題)と五七五という詩形のしばりをどこまでも重んじた。これに対し、碧梧桐はこれらの拘束をきらい、自由な詩作を提唱するようになった。

略奪愛が原因であれば、虚子が自由を、碧梧桐が拘束を主張しそうなものだ。しかし俳句の世界では逆の立場になった。

虚子は、碧梧桐の新傾向俳句との対決を表明。つぎの句を詠んだ。

 春風や闘志抱きて丘に立つ 

そして『俳句の作りよう』(角川文庫)に、こう述べている。

 近来俳句についての拘束を打破してかかることを主張するものがありますが、・・・私は十七字、季題という拘束を喜んで俳句の天地におるものであります。この拘束あればこそに俳句の天地が存在するのであります。・・狭いはずの十七字の天地が案外狭くなくなって、仏者が芥子粒の中に三千大千世界を見出すようになるのであります。

2023年1月16日月曜日

ヒキガエルのカップル

 


 昨年「大追跡!謎の登山ガエル」という番組が放送された。NHK「ダーウィンが来た!」で。

https://www.nhk.jp/p/darwin/ts/8M52YNKXZ4/episode/te/XX81ZJLZV9/

福岡県の霊峰・宝満山にたくさんの子ガエルが大量に登っていく。このブログでも12月21日の記事で紹介した。

http://blog.chikushi-lo.jp/2022/12/blog-post_21.html

きのうは怪鳥会の新年発登山だった。登りはじめで、「ダーウィンが来た!」の話題になった。この池が野々池で、ここでオタマジャクシが孵化するんだよねなどと話した。

しばらく登ると、左手にヒキガエルが。なんとその上部にはヒキガエルのカップルが春を準備していた。どうやらいまの時期に産卵して、梅雨時に孵化するようだ。

ヤマカガシ連中に負けないで、頑張って命をつないでほしい。太宰府の市民遺産が絶えないことを祈ろう。

ところでヒキガエルの季語は夏である。

 這出よかひやが下のひきの声 芭蕉

2023年1月13日金曜日

香りの世界

 


 わが法律事務所ではときどき外部講師をお招きして研修を行っている。先日はレクリェーションを兼ねて、講師の先生からアロマオイル(精油・エッセンシャルオイル)についてお話を聞き、それを使ったワークショップを行った。

アロマオイルには、ラベンダー、ローズマリーなどハーブ系のものや、オレンジやグレープフルーツなどフルーツ系、それらをブレンドしたものなど数十種類もある。それぞれ精神・神経を覚醒させたり弛緩させたりする。

弛緩させるというとあまりイメージがよくないが、いわゆるリラックス作用である。覚醒剤が精神・神経を覚醒させ、大麻がそれらを弛緩させるのと同じだ。もちろんよりマイルドな効き目である。

アロマオイルや薬剤が人間にとって有用であるのは、人間の精神・神経がここぞというときに弛緩していたり、必要もないときに緊張したりしているものだからだ。

ワークショップといっても難しいものではなく、多種類あるアロマオイルを数種類ブレンドして、ベースとなる素材と混ぜ、①ルームフレッシュナー、②携帯ハンドソープ、③とろとろハンドローション、④バスボムを作る作業。RPGでMPを回復する薬草をブレンドして、より強力な効き目の薬草を作るようなものである。

正直いって企画段階ではあまり興味がなかったが、やってみていろいろ勉強にもなり面白くもあった。香りに関し、豊かな世界が広がっていることを実感することができた。

刑事手続に検証がある。テレビドラマやニュースで現場検証と呼んでいるやつ。検証とは、裁判官がその五感の作用によって、直接に事物の性状、現象を検査してその結果を証拠資料にする証拠調べである。

ここでいう五感とは、視覚にかぎらず、聴覚、味覚、嗅覚、触覚を含む。われわれ現代人は視覚を多用し、せいぜい時に聴覚等他の感覚を働かせているくらいである。しかし、人類の歴史のなかでは、視覚のみならず、聴覚、味覚、嗅覚、触覚が大事な働きをしてきた。

刑事や探偵が事件を解決するうえで発動する第六感は、こうした人間に一般に備わっている五感を超えた能力を発揮すること。岩波新書で中村雄二郎『共通感覚論』を読んだ。これは五感に共通する感覚のことである。

むかしNHKのドラマで「時をかける少女」にはまった。筒井康隆原作で、その後、原田知世主演で映画化された。大林宣彦監督の尾道三部作の二作目。アニメにもなった。時をかける際の重要アイテムがラベンダーの香りである。ラベンダーの香りにはリラックス効果、抗不安効果があるようだ。

筒井康隆の脳裏にあったと思うが、この話はプルーストの『失われた時を求めて』そのものである。ある寒い日、主人公が母に奨められたプチット・マドレーヌを紅茶とともに口に触れたとたん、失われた時が復活するエピソードはあまりにも有名である。

プレバトをみていると、夏井いつき先生が五感の切替の鮮やかさを賞賛することがある。情景描写から音や匂いへの発想を飛ばす。それが快感をもたらす。

味覚・嗅覚・触覚はひごろはあまり稼働していないかもしれないが、人間の深いところとつながっている。その稼働をきっかけとして古い懐かしい記憶を発動させることもある。

山歩きをしていると、ときに甘い香りがする。秋の紅葉した川沿いであればカツラであるし(写真下、これは春)、針葉樹林帯であればシラビソである。

カツラ(桂)の香りはメープルシロップのそれにそっくり。秋の登山道でカツラの香りに包まれるとノスタルジックな気分になる。

シラビソはどちらかといえば覚醒系だろうか。殺菌作用があり、天然除菌剤として販売されている。シラビソはこの成分を分泌することにより、細菌から身を守る免疫作用を発揮しているのであろう。

2022年12月13日火曜日

伊良湖岬とLGBT

 

 写真は、FDAの飛行機で松本に向かう途中、名古屋上空から伊勢湾方面を望んだところ。左側手前が愛知県の知多半島、向こうが渥美半島。右側が三重県の志摩半島。

渥美半島の西の端(右端)に伊良湖岬がある。その向こう側が恋路が浜。志摩半島の先端は鳥羽。なお、知多半島の中央西にセントレア空港が浮かんでいる。

高校時代の恩師が伊良湖岬あたりを旅行中とSNSに報告していた。恩師は大阪住まいである。ではどうやって伊良湖岬へ行ったのか。

陸路を行くとなかなかたいへんである。ナビタイムによると、新幹線で名古屋、そこから豊橋駅へ行き、10分歩いて新豊橋駅、そこから豊橋鉄道渥美線で終点の三河田原駅まで行くことになる(約2時間)。そこはいまだ半島の真ん中辺であるから、残りはバスとなる。

海路が意外と近い。近鉄で鳥羽まで行く。そこから伊良湖岬までは伊勢湾を横断するフェリー便があり、1時間弱である。バス便より楽しそう。恩師もこちらのルートを選択したようだ。

伊良湖岬はまえまえから一度訪ねてみたかった。「笈の小文」で芭蕉が訪ねているから。

芭蕉には杜国という愛弟子がいた。当時、杜国は空米を売った罪で死刑になり、その後、罪一等を減じられ、渥美半島に島流しとなっていた(畠村→保美)。芭蕉はその弟子を慰めるために渥美半島を訪ねたのである(以下、引用は『芭蕉紀行文集』(岩波文庫)の「笈の小文」より)。

 三川の國保美といふ處に、杜國がしのびて有けるをとぶらはむと、まづ越人に消息して、鳴海より跡ざまに二十五里尋がへりて、其夜吉田に泊る。

 寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき

 あまつ縄手、田の中に細道ありて、海より吹上る風いと寒き所也。

 冬の日や馬上に氷る影法師

伊良湖岬と伊勢の間の海上交通路は、古代、物流の重要な手段だったようで、伊良湖の窯で焼かれた瓦が伊勢や伊賀を経由して奈良に運ばれ、東大寺の瓦として利用されたのだそう。

伊良湖岬は万葉の時代から伊勢の一部をなす島(博多でいえば、能古島みたいな感じか)と考えられ、万葉の時代から島流しされる場所であったよう。このような歌のやり取りがある(万葉集)。

 天武4年(676年)天武朝の皇族で三位の麻続王が罪をえて伊良湖に流されたとき、里人が哀傷して

 打ち麻を麻続王海人なれや伊良虞の島の玉藻かります 

 王がこれに和して詠んだ歌

 うつせみの命を惜しみ浪にぬれ伊良虞の島の玉藻刈り食す

こうした故事などを踏まえて、「笈の小文」。

 保美村より伊良古崎へ壱里斗も有べし。三河の國の地つづきにて、伊勢とは海へだてたる所なれども、いかなる故にか、万葉集には伊勢の名所の内に入られたり。

鷹(サシバ、ハチクマ)は渡り鳥で、春に来て、秋に南に渡るようだ。伊良湖は渡りの拠点となっていて、大規模な群れがみられるという。

 此渕崎にて碁石を拾ふ。世にいらご白といふとかや。骨山と云は鷹を打處なり。南の海のはてにて、鷹のはじめて渡る所といへり。いらご鷹など歌にもよめりけりとおもへば、猶あはれなる折ふし

 鷹一つ見付けてうれしいらご崎

いらご鷹など歌にもよめりとは、例によって西行の歌のこと。

 すたか渡るいらごが崎をうたがひてなほきにかくる山帰りかな

芭蕉の句にある鷹一つは、杜国を念頭においてのことらしい。いままでであれば、「男色か、気色わるい」という感じだった。しかし、最近は認識を改めなければならないと思うようになった。

若手弁護士らがLGBT差別解消に取り組んでいたり、LGBTの人たちが人口の10%を占めるという啓発広告をみるようになった。いままで迂闊な発言をしていないか反省することしきりである。

陸路だと遠いと思っていたところが、海路だと意外とちかい。LGBTも意外と身近なところにあるのだろう。

2021年7月30日金曜日

出羽三山ー羽黒山


 (羽黒山国宝五重塔)

 (出羽三山神社@羽黒山頂)

 六月三日、羽黒山に登る。図司左吉といふ者を尋ねて、別当代会覚阿闍梨に謁す。南谷の別院に宿して、憐憫の情こまやかにあるじせらる。
 四日、本坊において俳諧興業。

 ありがたや雪をかをらす南谷

 五日、権現に詣づ。当山開闢能徐大師は、いづれの代の人といふことを知らず。延喜式に「羽州里山の神社」とあり。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや、羽州黒山を中略して羽黒山といふにや。出羽といへるは、「鳥の羽毛をこの国の貢に献る」と、風土記にはべるとやらん。月山・湯殿を合はせて三山とす。当寺、武江東叡に属して、天台止観の月明らかに、円頓融通の法の灯かかげそひて、僧坊棟を並べ、修験行法を励まし、霊山霊地の験効、人貴びかつ恐る。繁栄長にして、めでたき山と謂つつべし。

 羽黒三山は修験道の山岳信仰の場。羽黒山は現世の幸せを祈る山(現在)、月山は死後の安楽と往生を祈る山(過去)、湯殿山は生まれかわりを祈る山(未来)であり、羽黒三山の旅は生まれかわりの旅とされます。

羽黒三山には2013年10月に登りました。福岡からだと新潟空港まで飛行機で行き、そこから特急いなほで鶴岡駅まで。鶴岡駅から羽黒山の麓まで車で20分ほどです。

一日目は羽黒山に登り、麓の宿坊に泊まりました。羽黒山は標高414メートル、ほぼ四王寺山とおなじ高さです。

図師は、染物師。阿闍梨は、天台宗高僧の職名。権現は、仏が神の姿を借りて現れたとする神号(本地垂迹)。

能除大師は、崇峻天皇の第三皇子・蜂子皇子のこと。崇峻天皇が蘇我氏に殺害されたとき、出羽に逃げたところ、羽黒権現が示現し、羽黒三山を開いたとされます。人々の苦悩をよく除いたことから、能除大師と呼ばれました。

武江東叡は、上野の寛永寺のこと。止観は、天台宗でもっとも大切な教義。妄念を止め精神を集中し道理を悟ること。円頓融通は、円満にして偏らず、すみやかに成仏し、すべてをまんべんなく悟ること。

ここらあたりの解説は、曽良によるものでしょう(室の八島の段参照)。いまでいえば、博識なガイドつきで羽黒三山詣でをしているかんじでしょうか。

2021年7月29日木曜日

最上川ー大自然のパワー

(最上川@大石田) 

(最上川@米沢)

 最上川乗らんと、大石田といふ所に日和を待つ。ここに古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花の昔を慕ひ、芦角一声の心をやはらげ、この道にさぐり足して、新古二道に踏み迷ふといへども、道しるべする人しなければと、わりなき一巻を残しぬ。このたびの風流ここに至れり。
 最上川は陸奥より出でて、山形を水上とす。碁点・隼などいふ恐ろしき難所あり。板敷山の北を流れて、果ては酒田の海に入る。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。これに稲積みたるをや、稲船といふならし。白糸の滝は青葉の隙々に落ちて、仙人堂、岸に臨みて立つ。水みなぎつて舟危ふし。

 五月雨をあつめて早し最上川

前半は那須野の段や謡曲『遊行柳』を彷彿とさせますね。旅は人生、俳諧の道も旅の道もおなじということでしょう。貞門・談林の古道から蕉風の新道を切り拓いていきつつある芭蕉。おくの細道において俳諧の新道を指導しているぞという、彼の快感・歓喜が伝わってきます。

最上川の源流は、吾妻山・登山記で紹介した吾妻山です。吾妻山に発し、米沢に流れ下り、山形を貫流して、大石田に至ります。日本三大急流の一つ。あと2つわかりますか。富士川と球磨川です。急流は水害とも裏腹で、球磨川の水害は記憶に新しい。

芭蕉は、最上川という大自然のパワーに翻弄・圧倒され、人為の卑小さを痛感したことでしょう。

2021年7月28日水曜日

立石寺ー宇宙の閑かさ

 

 山形領に立石寺といふ山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊に静閑の地なり。一見すべきよし、人々の勧むるによりて、尾花沢よりとつて返し、その間七里ばかりなり。日いまだ暮れず。麓の坊に宿借り置きて、山上の堂に登る。岩に巌を重ねて山とし、松柏年旧り、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉ぢて物の音聞こえず。岸を巡り、岩を這ひて、仏閣を拝し、佳景寂寞として心澄みゆくのみおぼゆ。

 閑かさや岩にしみ入る蝉の声

大石田駅から山形新幹線で山形に向かいます。途中には、さくらんぼ東根駅や天童駅があります。ちかくのスーパーでさくらんぼを買うと、さくらんぼ東根でつくられたものに出会います。天童駅はあの演歌歌手の出身地なのでしょう。

山形からは、仙山線で5駅行くと山寺駅に着きます(仙台からだと15駅目です。)。駅からすぐ正面に山と絶壁が見え、立石寺の院々が山のあちこちにはりついています。

3度行きましたが、いちばんは雪の立石寺です。すばらしい景色でした。蝉の声は聞こえませんが、一見を勧めます。

慈覚大師は、瑞巌寺のところででてきました。最澄の弟子、延暦寺をもり立てた人で、東北各地の寺を創建したといわれています。

閑かさは、長谷川櫂さんにしたがい、宇宙の閑かさと解します。そうしないと、蝉が啼いているのになぜ閑かなのか分からないからです。ミンミンゼミやヒグラシなら別ですが。

宇宙が閑かで心が澄みやすらぐのは、自然と一体であることをよしとする老荘思想のおかげでしょう。西欧の哲学者のように、宇宙の閑かさに神の不在を感じるようだと、戦慄するしかありませんから。

2021年7月27日火曜日

おもひでの尾羽沢

 




 尾花沢にて清風といふ者を尋ぬ。かれは富める者なれども、志卑しからず。都にもをりをり通ひて、さすがに旅の情けをも知りたれば、日ごろとどめて、長途のいたはり、さまざまにもてなしはべる。

 涼しさをわが宿にしてねまるなり

 這ひ出でよ飼屋が下の蟾の声

 眉掃きを俤にして紅粉の花

 蚕飼ひする人は古代の姿かな 曽良

 奥羽山脈を山刀伐峠で越えて最上の庄にでました。そこは尾花沢です。花笠音頭発祥の地。

芭蕉は山刀伐峠を越えてたどりつきましたが、私は山形新幹線を大石田駅でおり、駅前から路線バスに乗って、芭蕉・清風歴史資料館を尋ねました。

バスのなかは、若い人がいっぱい。なんとこちらでは芭蕉人気がすごいなぁと関心していたら、かれらは資料館のさきにある銀山温泉まで乗っていってしまいました。

銀山温泉は、『おしん』の舞台になったほか、『千と千尋の神隠し』の湯屋のモデルの一つといわれ、若い人に人気らしい。

鈴木清風は紅花を商う豪商でした。芭蕉も清風宅をよほど気にいったのか、松島でさえ一泊しかしなかったのに、10泊もしています。句もたくさん作りました。

ねまるというのは、腐ることではなく、くつろぐこと。清風宅のもてなしに対する最大級のご挨拶です。

蟾はひき、ヒキガエルのことです。近年、宝満山を登るヒキガエルたちが太宰府市の市民遺産になりました。

紅花の咲く時期に山形をいちど訪れたいと思っています。スタジオジブリのアニメ映画『おもひでぽろぽろ』の舞台となったからです。いまさら自立を考える年でもないですが、一面の紅花畑をまえに、おもひでにひたるのも悪くないでしょう。

最後の写真はなにかわかりますか。葉はクワ、下のほうに写っている虫はカイコ(蚕)です。むかしは絹織物が高級衣服で、養蚕はとても大事な産業でした。が、化学繊維の普及により、なかなか難しい時代になりました。

ちなみに、写真は近年世界遺産となった富岡製糸工場跡で撮ったものです。製糸というのは生糸を製造するという意味です。蚕の繭から糸をつむぎ、よりあわせていく工程はとても神秘的でした。

2021年7月19日月曜日

尿前の関ー馬の尿する枕もと


   南部道遙かに見やりて、岩手の里に泊まる。小黒崎・みづの小島を過ぎて、鳴子の湯より尿前の関にかかりて、出羽の国に越えんとす。この道旅人まれなる所なれば、関守に怪しめられて、やうやうとして関を越す。大山を登って日すでに暮れければ、封人の家を見かけて宿りを求む。三日風雨荒れて、よしなき山中に逗留す。

 蚤虱馬の尿する枕もと(のみしらみうまのばりするまくらもと)

 芭蕉一行は旅のクライマックス平泉で、義経主従の鎮魂を行いました。われわれも落合くんの追悼を行いました。平泉の光を際立たせるため、尿前の関の段は暗転します。例によってさんざんな目にあっています。尿前の関は義経の子が尿をしたことにちなむらしい。

ちかごろの博多弁でバリは超みたいな意味ですが(このラーメン、バリうまーみたいな)、ここでは尿のことです。尿前の関は、しとまえのせきと読みます。

おくのほそ道は構成がしっかりしています。これまでずっと北(岩手県・南部地方)に向かって旅をしてきましたが、平泉を折り返し地点として南に転針します。物語全体も起承転結の承から転に転じます。尿前の関は、太平洋側の奥州(宮城県)と日本海側の出羽(山形県)との境です。おくのほそ道も前半・後半の大きな切れ目です。

俳句は連句の発句を独立させたものです。連句は、いくつつなげるかにより百韻とか三六韻とか種類がありました。三十六韻のものを歌の名手三十六人にちなんで歌仙と呼びます。

連句は懐紙に句を書き連ねていきます。懐紙は二つ折りにして表と裏に書きます。歌仙の場合、懐紙を2枚使い、一枚目を初折り、二枚目を名残の折りと呼びます。初折りの表に6句、裏に12句、名残りの折りの表に12句、裏に6句を書いて、合計36句になります。

おくのほそ道の構成は、この三十六歌仙の形式を俤にしています。白河の関が初折りの表・裏の切れ目、尿前の関が初折りと名残りの切れ目、あと新潟と富山の境ででてくる市振の関が名残りの折りの表・裏の切れ目になります。

そしてそれぞれのセクションについてテーマが決まっています。初折りの表が旅の禊ぎ、その裏が歌枕めぐり、名残りの折りの表が宇宙めぐり、その裏が別れ。これで起承転結です。

不易流行でいえば、歌枕は流行、宇宙は不易です。ここからいよいよ不易の領域に入っていくことになります。

宇宙の領域というだけあって、ここから先、句のテーマが大きく永遠になります。宇宙、太陽、月、銀河。スケールが大きくて、すてきな句だらけです。ワクワクします。

芭蕉が岩手県の平泉を通過したのち、この宇宙の領域に入っていくのはとても興味深いです。岩手の宮沢賢治が描いた銀河鉄道に芭蕉一行も乗り込んだかのようです。

2021年7月16日金曜日

平泉(3)-光を求めて

 

(経堂)


(光堂の旧覆堂)


(光堂@新覆堂前にて)

 かねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散り失せて、珠の屏風に破れ、金の柱霜雪に朽ちて、すでに頽廃空虚の叢になるべきを、四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨を凌ぎ、しばらく千歳の記念とはなれり。

 五月雨の降り残してや光堂

光堂は中尊寺金色堂。数字の列挙がリズミカル。そして高館のくだりとの暗/明の対比が鮮やか。

 ・・・功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。

 夏草や兵どもが夢の跡

かたや時が移るなか草むらとなってしまい、かたやいまも黄金色に燦然と光輝いている。流行と不易。かたや戦の結果、かたや仏教による平和希求の結果。長い長い梅雨の五月雨さえ、光堂を避けて通ったのだろうか。

光堂は柳之御所から北西の山上に光輝いて見えていたという。石の巻の金華山、金鶏山につづき光堂。「光」は奥州藤原三代が祈念して求めた平和の象徴なのでしょう。わが事務所も、五月雨が降り残しますように。

2021年7月15日木曜日

平泉(2)ー夢の跡


 (北上川@高館跡から)


(義経堂@高館跡) 


 まづ高館に登れば、北上川、南部より流るる大河なり。衣川は和泉が城を巡りて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷を防ぐと見えたり。さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。

 夏草や兵どもが夢の跡

 卯の花に兼房見ゆる白毛かな  曽良

北上川、わかりにくいけれど、南部とは岩手県南部地方のことで、写真の左手、北のほうです。そして右手、南のほうへ流れ、モネの登米をへて、石の巻湾に注ぎます。

写真のちょっと左手、支流の衣川が北上川に注いでいます。和泉が城の和泉は、塩竈神社の段ででてきた和泉三郎のことです。最後まで、義経に忠誠を尽くしました。対する泰衡は、三代目秀衡亡きあと、頼朝の圧力に屈して義経を攻め殺してしまいました。

衣川は歌枕です。

 ただちともたのまざらなん身にちかき 衣の関もありといふなり よみ人しらず

衣川の関という言葉は、衣服でへだてていることから、すぐ身近にいながらも男女が関係を結ばないことのたとえとして用いられるようになりました。

これを踏まえて、もう一度、芭蕉の文章を読んでみてください。衣川は、義経に忠実だった和泉三郎の城を巡りて、義経の住まいであった高館の下で北上川に合流していた。これに対し、義経を責め殺した泰衡らの旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷を防ぐと見えた(どっち向いてんだよ!)。

義経は泰衡軍に攻囲されて、高館で自害して果てました。享年31歳、なんと落合くんと同い歳です。曽良の句にでてくる兼房も義経の義臣。もうだいぶ年で、白毛がトレードマークです。義経の自害を見届け、高館に火を放ち、最後の奮戦をして自害しました。

兼房がなぜ高館に火を放ったのか、なぜその事実が義経記などに特筆されているのでしょうか。敵方の大将や、強い武将はちゃんと死にましたよと世に知らしめることが重要だったんですね。このため世論が納得するよう、京都の六条河原に首をさらしたりしました。

義経は死んでいない、大陸にわたってチンギスハンになったなどという伝説が生まれたのは、兼房が高館を焼いたため義経の死がはっきりしなかったためだったのかもしれません。

芭蕉は触れていませんが、もちろん西行も500年前にここを訪れています。三首。

 とりわきて心も凍みて冴えぞわたる 衣川見にきたる今日しも

 涙をば衣川にぞ流しつる ふるき都をおもひ出でつつ

 衣川みぎはによりてたつ波は きしの松が根をあらふなりけり

「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」が杜甫の「春望」から採られていることは、「はなれて奏でる(5)」で述べました。すごくないですか。中国古代の大詩人の詩から、西行の旅と歌、その500年後の芭蕉の旅と句を経て、現代まで。北上川のように、とうとうと流れています。

2021年7月2日金曜日

瑞巌寺(2)

 

 『牛島税理士物語』を読みふけることは、新人弁護士にとって急を要し、絶対必要なことだと思いますね(鼻息荒く、まえのめり気味に)。若書きで、読みにくいことは認めますが。さて、

 その後に雲居禅師の徳化によりて、七堂甍改まりて、金壁荘厳光をかかやかし、仏土成就の大伽藍とはなれりける。かの見仏聖の寺はいづくにやと慕はる。

きのうの法身上人の活躍のあと、ふたたび瑞巌寺は廃れてしまいました。江戸時代に入り、伊達の殿様の招きで寺を再興したのが雲居禅師。雄島の磯の段で紹介した人物です。

その徳化により、七堂甍改まりて、金壁荘厳光を輝かし、仏土成就の大伽藍とはなりました。パチパチ。

ふぅ、つかれた(伊達の殿様のてまえ、せいいっぱい、ヨイショしたので)。東大寺の大仏も立派だけれども、そのあとは興福寺の阿修羅にあいたいよね。清水寺、知恩院の大伽藍もいいけど、そのあとは修学院、詩仙堂あたりで息抜きしたいよね。みたいな気分。

こんな気分になった芭蕉が思い浮かべたのは見仏聖。芭蕉の慕う西行ゆかりの人です。別名「月まつしまの聖」。もちろん「月の松島」と「月待つ」がかけられています。

彼の寺はいづくにや。答えは、寺ではなく、妙覚庵という草庵で、場所は雄島です(雄島の磯の段、2つ目の写真)。

聖は12年間まったく島からでないで、毎日法華経を読誦。そして人びとに法華経を授け、法華浄土への往生を説いて死後の不安を解消させました。

六根すでに浄く、能く神物を使役し、霊異すこぶる多し。神物を使役するとは、役行者か陰陽師・安倍晴明のようですね。死者の声を伝達し、空飛ぶ超能力もありました。そこから「空の聖」の別名も。

西行は諸国遍歴中、能登稲津で聖に出会いました。彼は岩窟で帷子のみで端座修行中でした(あれれ、12年間まったく雄島からでないで修行したのではないの?)

聖は「毎月10日ばかりここに必ずくるが、本来住んでいるところは松島である」と言ったそうです。毎月10日を能登で、残りを松島で修行するには、もちろん空を飛んで、県をまたいで行き来するしかありません。

西行はそれを聞いて、感涙にむせびつつ、その場から松島を目指したそうです(西行作とされていた『撰集抄』)。さすが西行、月見るだけで涙する感受性躍如。

このような現実と夢を自在に行き来する感覚と能力、すばらしいですね。トミーももっと修行を積めば、現実と夢を自由に行き来することができるようになることでしょう。さすれば、車中で寝過ごすなどという失態をしでかすことは・・・。

2021年7月1日木曜日

瑞巌寺(1)




  十一日、瑞巌寺に詣づ。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎、出家して入唐、帰朝の後開山す。

瑞巌寺といえば、われわれが小学生のときは、音楽の副読本により、民謡「斎太郎節」を習いました。♪エンヤードット 松島~の 瑞巌寺ほどの 寺もない~という。ドリフターズがアレンジしたやつです。いまはもう習わないのでしょうか。

いま瑞巌寺は、奥州平泉の中尊寺、毛越寺、出羽の立石寺とともに「四寺回廊」という観光・巡礼コースになっています。

このあたりのお寺はだいたい慈覚大師・円仁が創建したとされています。円仁は最澄のあとをついだ天台宗の高僧で、上記四寺はみな円仁の創建と伝えられています。

ところが瑞巌寺は現在、臨済宗のお寺。黒羽の雲巌寺、京都の妙心寺や博多の聖福寺などとおなじです。あれれ。いつのまに。

瑞巌寺はもともとは天台宗だったところ、鎌倉時代のなかごろ、臨済宗になっています。その際の開山が芭蕉のいう真壁の平四郎あらため法身禅師です。

時代は5代執権・北条時頼のとき。かれは、水戸黄門のモデルになった人で(つまり、水戸光圀本人は諸国を漫遊するような人ではなかった)、諸国を旅して民情視察を行ったという廻国伝説があります。

能『鉢木』の題材にもなっていて、日本史の教科書にコラムで紹介されていました(ご恩と奉公の封建関係を示す逸話として)。いまはどうでしょう。北鎌倉などを散策していると、精進料理屋の看板に見かけますが。

ある雪の日、旅の僧が上州で難渋して、貧乏武士である常世の家に宿を請いました。常世は、たいせつにしていた梅、桜、松の鉢の木を薪にして暖をとり、貧しいながらできるかぎりのもてなしをします。そして零落し貧しくとも鎌倉武士のはしくれとして、「いざ、鎌倉」のときは鎌倉にはせ参じるつもりだと話します。

後日、関東武士団に鎌倉集合の号令がかかりました。集まった武士のなかに、痩せ馬に乗った常世の姿もありました。旅僧はじつは北条時頼。水戸黄門でいえば「ええい、ひかえ、ひかえい。ここにおわすはどなたとこころえる・・。」の場面です。時頼は常世の奉公に対し、梅、桜、松の名のつく領地を与えます。

この時頼が瑞巌寺あたりを廻国した際、法身に命じて、天台宗から臨済宗にあらためさせたのだとか。中世ですからお寺も領主さま、時頼としては自分の息のかかった寺にしたかったのでしょうね。

ところで『鉢木』の名台詞のなかに「松はもとより煙にて、薪となるも理や」というのがあります。それが江戸時代、徳川家=松平氏に遠慮して、「松はもとより常磐にて、薪となるは梅桜」と変えられていたとか。

江戸時代の人たちは、言葉や名前を大切にし、言霊とかも信じていたのでしょうね(もちろん、言論の不自由もあったでしょうが)。ここらあたりに、松尾・芭蕉が松や松島がだいすきだった理由の一端があったのでしょう。この線で行くと、彼は松の尾、徳川=松平の隠密だったという説の傍証にもなりそうです。ははは。